はてなキーワード: 告別式とは
大好きな父が亡くなった
60歳代は早すぎる
今は何もかもが惜しい
ここ2ヶ月は毎日、父の様子を見るために家から電車を3回乗り継いで坂を登って実家に通っていた
容態が悪くなるにつれ、夜は泊まり込んで寝ずに父の様子を見ることもあった
話したかったことを話し、ベッドから起き上がりたい父の手を取り、トイレの付き添いをし、点滴をロックし、唯一口にできる水を何度も汲んで取り替えて渡した
ペットボトルから直で飲めていた水は、ストロー付きになり、コップになり、吸口になった
起き上がれなくなってからは排泄の手伝いをした
毎日帰り際に「また明日」と言って手を握ったら握り返してくれた
息を引き取る直前も手を強く握り返してくれた
二ヶ月間放置した家の中を片付けなければ
父と家族の写真をラミネートするために買ったフィルムと、出しっぱなしの父のラミネーター
いつ夜の番になってもいいように買った旅行用の携帯石鹸とオールインワンジェルと常用薬を入れたケース
父が書いた様々なメモ
昔の話がしたくて引っ張り出した数冊の日記帳
ガジェット好きの父からもらったUSBケーブル、タブレット、ポータブルスピーカー、大きなハードディスク、ポータブルフロッピードライブ
硬いところに当たって痛む体が少しでも楽になるように貸した柔らかめの枕
寝転んだままでも時間がわかるように貸したフック付きのアナログ時計
疲れ果てて帰ってきて捨てる体力すらなかった日の、空っぽのジンジャーエールのペットボトル
口が乾くから買ってきてほしいと頼まれたもののハッカが入っていて使えなかった口腔ジェル
湯灌の時に切ってもらった遺髪
まだまだある
片付けなければ、片付けなければと思うのに、今は片付けるどころか時間が経つのも惜しい
父が生きていた時の体から、父が亡くなって以降の体になっていくのが惜しい
父が生きていた日々からどんどん遠ざかっていく
前を向いて進まなくてはとよく言うけど、時計が進んで父がいた時間から遠ざかっていくのが寂しい
辛い
引っ越しで断捨離してたら、河田くん(仮名)のことを思い出した。
ただ、なんだったんだろうと言うだけの話だけど、寝る前に書こうと思う。
小学校の同級生だった河田くんは、背が小さくて痩せていて、少し外斜視の目がエキゾチックな男の子だった。
ちびまる子ちゃんの野口さんみたいな雰囲気で、無表情かニヤッと笑っているかの2つしか見たことがなかった。
河田くんは女の子が苦手で、かといって男の子の友達も多くなく、よくひとりでいた。
私は彼のことが気になってよくちょっかいをかけていたし、私の母と彼の母がPTAで親しかったこともそれに拍車をかけていた。
河田くんは4人兄弟の長男で、狭い和室にぎゅうぎゅうに置かれた2つの2段ベッドの右下1段が彼の唯一パーソナルスペースのようだった。
枕元に派手な色のカエルのぬいぐるみと星新一の小説が置かれていた。
カエルの首を掴んで「こいつかわいいだろ」と言っていたのを覚えてる、その小さなベッドの上は河田くんのお城に思えた。
なんだか私だけは特別な存在だと全く誰も羨んでいないのに優越感を感じた。
でも、河田くんと私はそれからたいした友達にもならずにクラス替えやら成長期を挟み疎遠になったまま小学校を卒業した。
河田くんは女の子が苦手だから、男子校に進むんだとお母さんに聞いた。
川沿いの薬局は駅を挟んで反対方向で、わざわざ見に行くこともなかった。
話に登ることも思い出すことも滅多になかった。
次に聞いた河田くんの近況は、亡くなったというお知らせだった。
それは母から聞いた。
葬儀は2人で行くことになった。
葬儀場には同級生らしい学ランの子たちが沢山いて、並んでいる間チラホラ小学校の同級生も見かけたけど、どれも河田くんじゃなくて河田くんのお母さんと付き合いのあったような顔だった。
棺の中の河田くんの傍にはあのぬいぐるみのカエルが寄り添っていて、一度だけ行ったお家のことを思い出して、なんだか目の焦点がうまく合わなくなった。
お葬式のあと、お食事をしていって下さいと言われて、嫌だったけど母が「こういうのは礼儀だから」っていうから案内された席に着いた。
油っぽくて味のしない天ぷらを食べてると、隣で河田くんの高校の同級生と思われる男の子が何人かで話していた。
「どうする?明日」
思い出話じゃなかった…と思って意識を天ぷらに戻そうとした瞬間、信じられない言葉が聞こえた。
「今日こんなキツいのに、明日はサカタの通夜とかキツすぎるわ」
え?と声に出てしまったと思う。
箸を持ったまま彼らの話を聞き入ってたけど、私の知りたかったようなことは、もうとっくに話し尽くしたみたいだった。
わかったことはそれだけだった。
声をかけようかとも思ったけど、そんな野次馬みたいなこと亡くなった2人に失礼なんじゃないかと思って声が出なかった。盗み聞きしてるくせに。
それに、訃報を聞いたようにいつかお母さんが誰かから真相を聞いて、私に教えてくれるかもしれないとも思った。
結局すこしの天ぷらだけ食べて、最後に河田くんのお顔をみて家に帰った。
なんで河田くんはあんなに弟思いだったのに、とか、誰にも相談できなかったのかな、とか、河田くんとサカタくんは友達だったのかな、とか、答えの出ないことをぐるぐる考えてうまく眠れなかった。
結局今日に至るまで、お母さんが「そういえば…」ってその話をしてくれるなんて都合のいいことは起きなかった。
何もわからないしわかることもないまま、高校は卒業して就職もして今引っ越ししようとしてる。
私は河田くんのことを何も知らない。これから新しく知ることもないと思う。
あの部屋の小さな河田くんの世界の記憶だけが鮮明で、お別れのこともフワッとしか思い出せない。
私が知っている12歳の河田くんは、5年間でどう変わっていったんだろう。
最終章ではありますがまだやるべきことが残っているので第1篇となるでしょう。
- 母親の介護から逃げてから、その後 anond:20210322144223
- 母が精神病棟に入院した anond:20210403022555
以前に語ったとおり、母親は病気で自活が不可能となり父親による老老介護を受けた後に精神病棟に入りました。その後は体調不良のたびに転院を繰り返し、最後は実家からほど近い病院で息を引き取りました。最期を看取ることはできませんでした。そもそも職場から2時間近くかかりますし一報があった時点ですでに危篤状態でした。
その少し前から体調不良が続きいつ旅立ってもおかしくない状態でした。でもコロナにより面会はかなりの制限がついていたので、病院からほど近い父でも最期を看取ることは難しかったのとこと。特に第5波の現在ではまともに病院に入れることすら怪しいのですが。
母親に関しての良い記憶は殆どありません。私が子供の頃から彼女の周囲はストレスと負の感情が渦巻いていました。あらゆることに怒鳴り散らし厄介事を量産します。隣人、宅配業者や取引先とのトラブルは枚挙にいとまがありません。家族の中にあっても暴力と暴言は絶えず、幼いときから母親は嫌悪と畏怖の対象でした。常に誰かしらを敵に回すことでしか自分を保てず、最後は泣きわめいて八つ当たりを繰り返す人でした。機械音痴だったのが救いでしょう。彼女はスマホやPCどころか自身のケータイ電話すらもっていませんでした。仮にスマホを扱えたとしたらツイッターやらでどんなことを書いたかわかりません。
そんな母も亡くなりました。
一番最後に家族が聞いた言葉は「来てくれてありがとう」だったそうです。数すくない面会の中で唯一話せたのはそれだけだったとか。そもそも、4月以降の入院生活の多くで彼女は心を閉ざしていたようです。閉鎖病棟という空間が耐えられなかったのかもしれません。彼女自身が介護状態になってから父への依存がマックスになっていたこともあり、父に会えず家族の顔を見れない寂しさが彼女を内向的にしていったのでしょう。だから面会時に言葉を話したことに周りの看護師が驚いた、と聞きます。おしゃべりだった母親がおとなしく心を閉ざすということはよほど病院の生活が心を折るに充分だったに違いありません。
父はそれを後悔しているようです。
葬儀は直葬でした。リーズナブルで早いというそれだけの理由でしたがコロナ禍では最善の方法だと思います。母親の親戚縁者数名と私の家族だけで執り行いました。
葬式自体は何度か経験があるものの、直葬は初めてです。住職もなく火葬場に直接集まって遺体を焼いて納骨するだけというもので、移動時間を除けば1時間半で終わりました。
従来型のように通夜と告別式を執り行うことが悪いとは思いません。故人を悼む人の多さや気持ちの整理をつけるために必要な儀式もありますから。
高くとも50万せず、極めて簡易的でスピーディ。遺族の負担が本当に少ないのです。
なぜ喪主が大勢の人の前で挨拶をしなければならないのか。多くの時間とお金をかけて悲しみと疲れをふくらませる必要があるのか。ほとんど交流のない親戚や会社の人々に頭を下げなければいけないのか。お坊さんの固いお話。。。
それらをすべて省くだけでここまで楽になれるのかと感動しました。いままでの葬式は何だったのでしょう。
コロナは多くのものを奪いましたが、葬式に対する考えを改める機会をくれたことだけはメリットと受け取っています。
さて、旅立ちのあと家族と合流していくつかわかったことがあります。
母親はいくつか不動産を持っているのですが、その一つが少々どころかかなり厄介な物件だということ。保険嫌いだったのにいくつか保険に入っていたこと。預貯金はそこそこあるのですが、額よりその中身についてここで書くことが憚られるものであること。デパートの預け金が結構な額になること。そして、母親が成人後に殆ど健康診断等を受けていなかったということ。
母親が病院を嫌っているのはわかっていましたが、健康診断そのものをまともにしていないのは驚きです。歯もぼろぼろだったので長く歯医者にも行っていなかったのでしょう。
思えば母親の数々の病気は、去年の夏に倒れてからようやくわかったものですばかりです。糖尿病やガンなど、本当は健康診断で発覚するものばかりです。少なくとも献血でいいからしておけばなんらかの予兆を見て取れたかもしれません。
恐らく長いあいだ健康上の不安を抱えていたと思います。でもそれを認めずに騙し騙し過ごしていた結果がこれです。
さらに病気がわかっても頑なに医者を信用せずかなり説得が難しかったと聞きます。
自分の家族が崩壊寸前だった記憶が強いがために、幸せな家族という存在が実感できないのが本音です。配偶者の実家にお邪魔したとき、リビングに家族との写真が所狭しに飾ってあったのはかなり印象的でした。そうやって家族と記念写真を撮って飾っておく習慣が失われた家庭でしたから。実家で目につく写真といえば、唯一仏間くらいにしかありません。本当は以前にもありましたが引越しの際に殆どなくなってしまいました。
今一番不甲斐ないのは、遺産や死後の手続きの諸々を実家の家族に任せっきりだということでしょうか。でも多くがオートメーション化されているのでかなり手続きは簡単とのこと。いい時代ですね。
遺産の整理がついたら第2編を書くかもしれません。
作品が面白そうというより、観に行くこと自体がネタとして面白そうなので、観に行った。原作は未履修、テレビアニメ版は全部観た。無限列車編については、最大のネタバレ一つだけをうっかり知ってしまったがそれ以外のことは知らず、漠然と、顔はいいけど言動が果てしなくキモい、見世物小屋で呼び込みやってそうなかっこうの鬼と、機関車の中で闘うんでしょ、くらいの話だという認識だった。
変なことは概ねやってない。いつものアニメの鬼滅だなぁ!!と。そういう意味では過不足なし。まあ、だからこそ、何故これを映画でやろうと思ったし、という疑問はうかぶ。
原作を読んだことがないので本当のところはわからないが、たぶん原作に忠実なんだよな?あまりアニメオリジナルっぽい要素は感じられない。
あと、テレビアニメ版でも思ったけど、もしかして、そこは原作者はギャグのつもりで書いたんじゃないのか?って感じのする台詞が、普通にさらりと流されることがある。アニメ版1話の「滑ったのも雪だけど……」みたいな。
我ながらなんて単純なんだよ、と呆れつつ、煉獄さんとお母さんのやり取りなどで泣く。でもそこたぶんアニメの演出がいいというよりは原作からしてそういう場面なんだろうなという気がしてならない。
あのー、さして変なことはやってないと書いたけど、実はただの鬼滅でありつつ演出過剰なのね。いかにも映画でーす!みたいな張りきりが随所に見られてあざといし痛い。もっと普通にやれって、とツッコミを入れつつも、映画だから仕方ないか、という諦めも感じるのだった。
うあー煉獄さぁーん!!と思ったら炭治郎は号泣するし伊之助は被り物から涙が溢れるほど泣くし善逸はびゃんびゃん泣くし、果ては鎹烏まで泣き出して、私はスンッて涙が引っ込んだ。流石にお前ら泣きすぎだろって冷静になった。
大体、根っからいい子かつ煉獄さんとそこそこコミュニケーションを取っている炭治郎はともかくとして、伊之助と善逸は正味十五分くらいしか煉獄さんと顔合わせてないただの行きずりだからな。煉獄さんにちゃんと名前も覚えてもらってなくて、最後まで適当なあだ名で呼ばれ続けたし。目の前で奮闘している煉獄さんの気迫に当てられたとしても泣きすぎだ。
煉獄さんは確かにいい人かもしれないが、ものすごく関係の薄い人のためにそこまで泣くなよ、炭治郎。そう思ってしまう。きっと原作からして煉獄さんという人は怒濤に駆け抜けて死んでく役どころなんだろうなと思うんだが、もっとこう、せっかくのアニメ化なんだから、炭治郎ともっと親交を深める描写しようよ。列車の中で肩を寄せ合って爆睡してちょろっといい話聴かされただけの間柄なのが、100分ほどで爆速で数話ぶん駆け抜けたことにより、際立つ。
原作未読組にとっては煉獄さんは柱合会議でちょっと見ただけの、やたら外見と声の大きさのインパクトがでかい人に過ぎないんだ。もう少しなんとかしてくれ。映画の尺では無理だけど。
たぶん原作からしてそうなんだろうけど、猗窩座って何の前触れもなく出て来すぎだよね!きっとそれはそういう理不尽な世界観の表現なんだろうけど、それにしたって猗窩座のキャラが立ち過ぎていてヤバいだろ。きゃー何この石田彰の声で喋る顔の可愛いモンチッチはーーー!?
私は原作をほぼ知らず、でも猗窩座という名の顔がしましまのキャラクターが存在することは知っていたものの、まじまじと見たことがなかったので、まずそのビジュアルの可愛さに目を見張り、煉獄さんの見せ場のほとんどを煉獄さんを見ずに猗窩座を見てしまうという大失態をおかしてしまったんだがこれは私が悪いのか、そうか。猗窩座が「杏寿郎!」って言う度に私は崩れ落ちそうになってしまったがこれは石田彰が悪いと思う、いやいいぞもっとやれ。
しかし頑張って人々を守るために戦っている煉獄さんを見ずに猗窩座にばかり目がいってしまうことへの罪悪感が……。
煉獄さんの人生を振り返るのはいくらなんでもやり過ぎだ!感動の映像を見せられつつ聴くlisaさんの「炎」は過剰過ぎて思いの外良くは聴こえない。単体で聴くといい曲なのだが……。この映画のタイトル『100分後に死ぬ煉獄杏寿郎』だったかな?みたいな感じがする。
やっぱり、普通にテレビアニメとして毎週ちょっとずつ観たかったな、という思いが強い。映画っぽさとか要らないし。
面白くなくはない。ただ速い!
“id:Palantir 漫画と結構違うよ。あかざさんとの戦いとかめっちゃ詳細化されてる。他にも加えた部分がめっちゃ多い。原作読んでからもっかい行こう。俺は行った。2020/10/30 ”
え、やだよ。実のところ私は猗窩座登場シーン以外全く評価してないからな。『海辺のエトランゼ』観に行くの我慢して鬼滅取ったの後悔してるんだ……。二度とか勘弁してくれよ。
中国の山に登る(ヒマラヤ山脈の東部、7000メートル級、死の山とも呼ばれる)
遭難。
それでも数日後、何とかキャンプに戻る。
しかしサポートメンバーは、二人が死んだと思い日本へ帰国済み。
中身はインスタント食。
だがお湯は無い。
テントも無し。
相方さん死亡。
17日後。。。。
しかし丁度その日。
皮膚は凍傷で真っ黒。
衣服はズタボロ。
靴は途中で脱げてなし。
しかも肉が腐って腐乱臭。
まさに化け物のような風貌。。。
でもこの農民親子は、そんな遭難者を自分の家に担ぎ込み、必死で手当。
その日のうちに100人以上の救助隊が編成。
翌日、1日がかりで、ふもとも病院まで降ろす(人力)
しかも当日は大雨。
ふもとの病院では20人以上の医療チームを急遽編成して、蘇生手術開始。
一時は心肺停止。
でも運べる車が無い。
翌朝出発し、数百キロのガタガタ道を夜中まで走り続け、成都の大病院に到着。
しかし翌朝、体調急変。
緊急手術により両手の全ての指、両足を失う。
45日間にわたる入院。
総輸血量は体内液量の2倍以上。
以上、実話です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E5%AE%8F%E4%B9%9F
私が30歳の時に両親が離婚した。
その10年後、夫の後妻から連絡がきた。脳出血で倒れ、高次脳機能障害と静脈瘤を患い、あなたに会いたいと言っているから来てくれないか。
両親は長いこと仲が悪かった。あとから振り返れば「仲が悪かった」の一言で済むが、私が10歳の時から30歳になるまで、子供の前ではまともに口をきいていなかった。年金や借家の更新手続きなどはすべて娘を介してやりとりが行われた。娘の立場としては別れて当然だと思っていたが、よくある「妻が働くことをよしとしない夫」と「専業主婦を望まれて家庭に入り、まともに職歴のない妻」の組み合わせが崩壊すると、子供を養ってはいけなかったのだろう。
そして父には恋人がいた。愛人と称するべきなのだろうが、どうもなじまないので恋人とさせていただく。母によれば、口を利かなくなる前に、離婚歴があり一人で子供を養っていて立派だと、よく話していたそうだ。となると私が10歳の頃くらいには関係があったのだろう。私の前ではその人の話はしなかったから。
私が大学に入ると、恋人の子供の家庭教師というアルバイトの口があてがわれた。子供は親同士の関係を知ってか知らずか、どの教科を教えても手応えはなく、頭がいいのか悪いのかもわからなかった。家庭教師として恋人の自宅にお邪魔すると、その両親が出迎えてくれる。おやつと飲み物と軽い雑談、成立しない家庭教師役、私はうっすらと事情を察した。恋人の両親はよく父を褒めていた。頭が良くて、気が回って、本当に立派な人だ。どこの世界の人だろう、と思った。家では無口で、たまに自分を連れてファミリーレストランに行って。もっと小さい頃の思い出はたくさんあるが、10歳以降の思い出は数えるほどしかない。思えば自宅で風呂に入らないのが不思議だった。そうか、この家で風呂に入っているのか、と考えた。もちろんラブホテルの時もあっただろう。私は当時、まるで子供だった。母はアルバイトに対していい顔をしなかったし、その家で食事を勧められることをいやがっていた。今考えれば当然だと思うが、私は両親の中が悪いことは知ってはいても、両親の心境にはとんと疎かった。考えるのをシャットアウトしていたのではないかと今なら思えるが、何を考えているのかわからなかった、不可解だったというのが正直なところだ。
大人同士の機微を読むのが面倒になって、勉強が忙しいからという理由でアルバイトを辞めた。
就職し、家にお金を入れ始めるようになった頃、父親が月に1回手渡してくる生活費の額ががくんと減った。バブル期でも不景気な時でもあまり額の変動はないようだったが、バブル期にはかなり儲かっていたらしく、自分の親戚にみかんを送る箱の数を間違えて発注し、4箱のはずが14箱届いたという電話を受けたことがある。父は子供に話すわけにもいかず、ましてや母に話せるわけもなく、一人でぷりぷり怒っていた。かなり面白かった。そんな状態だったから、額が増えても減っても母と私にはどうすることもできなかった。生活費がない月もあった。その頃から、父は何を思ったか、子供がいない時に外から家によく電話をかけていたという。私は母の証言しか聞いていないが、母に働けと言ったり、お前が浮気をしているのは知っているんだと怒鳴ったり、大変そうではあった。母は事態をかいつまんで話してはくれたが、父は何も言わなかった。ますます、何を考えているかわからない両親だなとしか思えなかった。母が浮気をしていたかどうかは私にはわからないが、一度ぶっちゃけどうなの、と聞いた時には、本当に父親一人しか知らない、他の人に好意を抱いたことはあったが子供が生まれる前だった、と言っていた。真偽はどうでもよかった。なぜか父の恋人が家を訪ねてきて「あなたも働いたらどうですか」と母に説教してきたそうだ。私から見れば、母の化粧や外出、外で働くことの検討を嫌がっていたのは父の方だった。私にとってはすべてが藪の中だった。ただ、このままの両親が年を重ねていくのなら、私がずっと生活の面倒を見るんだろうという覚悟だけがあった。
私が30歳になる頃、父母の電話での言い争いは激しくなったそうだ。どこまでも伝聞だ。母は不毛な言い争いに疲れ、離婚届を準備していた。証人欄ふたつのうちひとつには私がサインした。特に感想はなかったが、これで父が恋人と再婚すれば、将来の面倒を見るのは母一人でいいのか、助かった、と思った。
父は離婚届にサインして、いくつかのアルバムだけ持って家を去った。私への連絡はなかった。携帯の電話版号も、メールアドレスも知っていたのに、特に娘に伝えたいことはなかったのかと、不思議だった。不思議ではあったが、謎の両親の電話――本当にそういうやりとりがあったのか、私は知らない――で二人で決めたのなら、私は意見も文句も言うまい、夫と妻の間の話だ、と思っていた。
それから10年間、父からの連絡はなかった。戸籍謄本から辿れば現住所が分かることは知っていたが、特に話したいことはなかったし、非常時にはいくらなんでも連絡くらい来るだろうとたかをくくっていた。結婚した時も報告しなかった。子供ができていたら連絡しただろうか?幸か不幸か、子供はできなかった。「仲の良い夫婦とその子供」というサンプルを知らない私には子供を持つのは厳しいだろうと思っていたが、ごく自然にできないままだった。
10年経って、父が脳出血で倒れたという連絡をよこしてきたのは、一度だけ親族の葬儀で顔を合わせた父方のいとこと、父の恋人の兄だった。Facebookで探し当て、メッセージを送ってきたそうだが、Facebookのメッセージを受け取る範囲を絞っていたので、気づいたのは倒れてから約半年後だった。死んでいればさすがに親族から母に連絡があってもよさそうなものだったが、そういう話は聞いていなかったので、母には何も言わずにメッセージに返信した。手間をかけてすまない、父の具合はどうか、非常時にはこの電話番号とメールアドレスに連絡をくれ、いざとなったら先方に伝えてもらっても構わない。それくらいの簡単なものだった。
ところが、携帯電話にかけてきたのは父の恋人だった。私は瞬時に、失敗を悟った。留守番電話に残されていた最初のメッセージは「連帯保証人になってくれ」だった。SMSには再婚したこと、病状、娘に会いたいと言っていることなどが断片的に送られてきていた。どう出ればいいか迷い、しばらく自分からコンタクトを取るのは控えておこうと思った。
次の日、会社の始業時間から終業時間まで、というのは単なる偶然だったのだが、1時間おきに着信があった。これを書くのは本当に恥ずかしいが、狼狽した私は電話と留守番電話の通知が恐ろしくなり、不安障害を発症して心療内科に通うようになった。簡単に連絡先を教える自分がばかだったし、想定できたはずだったのだ。1日考えて、父の後妻(結婚したことがわかったのでこう書く)の番号を着信拒否にした。着信拒否にすることで逆上されかねないとも考えたが、このままでは自分の生活が壊れると思った。夫には全部ひとりで決着をつけたいと言った。
次は父の携帯電話から着信と留守番電話があった。さすがに1時間おきではなかった。留守番電話を聞くのに心の準備が必要だった。何を言われるんだろう、何をふっかけられるんだろう、本当に怖かった。父よりも後妻の方が怖かった。留守番電話は2件あり、1件目は「ほら、◯◯ちゃんよ」という後妻の声の後に父が「◯◯◯◯(父のフルネーム)です、こんにちは、どなたですか」と言った後に電話が切れた。2件目は直接父が発言したようで、「◯◯、元気か。会いたいな。子供はいますか、元気ですか。連絡くれるとうれしいです」という、私の主観では「何かを読み上げた」ような内容だった。
2件目を聞いた時に、高次脳機能障害というのはこういうことなのかと腑に落ちた。私のことがわからない父も、私に会いたいという父も両方混じっている。人前でしか出さない、機嫌のよい時の父の声で「どなたですか」と言われたこと。この10年一度も親から子への連絡をしなかった父が、私の10年を何も知らずに「子供はいますか」と無邪気に尋ねること。一瞬気が遠くなった気がした。そして私のことをきちんと認識している父はもういない。いなくて当たり前だ、10年かけて私の中でゆっくり父の不在から父の死へ変化していったのだから。私の中で既に父は死んでいた。正確には「死んでいたということがわかった」。私はもう父の家族に、といっても後妻しかいないけれど、一切関わるまい。そういう決心をしながら、そういえば私が家庭教師をしたあの子供はどうしたんだろう、という思いがちらりとよぎった。
父の番号を着信拒否してから、1年に1回ほど、後妻からメールが届いた。「賢くて頼りになるお父さんのことを思い出します」。頼りになる? あなたにはそうだったんだろう、私にとっては違ったけれど。いとこからもメールがきた。「今度静脈瘤の手術をするので連絡してあげてください。私の母が死んだ時にお世話になったから、恩返しをしたい」。つまり私にとってのおばがこの10年の間に死んでいて、私に連絡がこなかったのだから、親族扱いされていなかったのは私の方では? 誰も彼も何を言っているんだろうと思った。怒りはなく、ただ不可解さだけがあった。両親がなぜか電話で意思疎通(といっても口げんかだったそうだけど、私は聞いていないからよくわからないままだ)していたこと。すべてにおいて排除されていたのは私ではなかったのか。そして父が死にそうな時にだけ連絡が来る。不可解だった。どのメールにも返事をしなかった。
最初のコンタクトがあってから4年後、おそらく戸籍の附票からたどったと思われる封書が後妻から届いた。ざっくり言えばもうそろそろ死にそうだから、面会に来てほしい。相談したいこともあるから連絡してほしい。会っていなかった10年を埋めることもなく、ただ死にそうだという連絡だけが来る、それがなんだかおかしかった。
そのさらに1ヶ月後、今度はいとこから、父が死んだこと、告別式の日時と場所の連絡があった。私は即座に相続放棄の手続きを開始した。お金について計画性があったとは思えないので、相続手続きをしたところでたかが知れている。相続手続きには相続人全員の承諾が要る――つまり後妻と私は何らかのコンタクトを取る必要性があるだろう。弁護士を挟むにしても。私は一切後妻と連絡を取りたくなかった。分かり合える何かがあるとも思えなかった。年を取ってからの再婚なんだからそういうこともあるだろうに、なぜ死んだからといって関係性が生まれるのか。丁寧に必要な書類を集めて回り、家庭裁判所の相談員の人と会話をして、「よくご存じですね」と言われた。そのことだけが、この一連の騒動の中で、本当に感情を動かされた。つまり、うれしかった。誰も彼もが私を都合良く(といってもきっと善意なんだろうけど。地獄への道は善意で舗装されているのだった)使おうとする中で、事務手続きを挟んだ人だけが、私のことを褒めてくれた。
父の名に大きく×がつけられた、後妻の名前も入っている住民票を見て考える。父にとって私はなんだったのか。かわいがってもらった記憶も、愛情をかけてもらった記憶もあるにはあるけど、空白の10年間、私が気を遣って父にコンタクトを取るべきだったのだろうか。いやそんなことはないはずだ。父は父の意思で私を家族から外したのだと思いたい。私が一連の話の中で一番ショックだったのは、面識があったはずのおばの葬式に呼ばれなかったことだったのだから。
父と母と私の欄に「除籍」と書かれ、後妻の名前が連なっている戸籍謄本を見て考える。一番コンタクトを取りたくない相手の名前が、同じ書類の中におさまっている。後妻の生まれた日も、両親の名前も、続柄も、再婚した日も書かれている。そういえば再婚したという報告すら父からはこなかった、それは当たり前だろうと思う。別の誰かとの再婚ならともかく、母との婚姻の継続中に家族の中に割って入った人。割って入ったことすら気づくのが遅れた人。
家庭裁判所から送られてきた「相続放棄申述受理通知書」と「相続放棄申述受理証明書」だけが、私にとっての宝物だ。家庭裁判所の人はやさしかった。見知らぬ私のために、書類についてあれこれ教えてくれて、印紙が売られている一番近いコンビニエンスストアまで紹介してくれた。人のやさしさってあるんだなと思えた。
長くなりました。読んでくださってありがとうございます。
うちの例で悪いけど母親が5年前に亡くなったんだ。
そこそこ親戚が多くそこそこの規模の葬式やら通夜やら告別式やらその他諸々を開催したんだが、これがマジで手間と金がかかるうえに神経が摩耗する。
遠方から来る親戚のホテルの用意とかよく知らない親戚との会話とか、その後の宴会やら送迎やら本当に大変だった。
よく知らねー奴が通夜の後大笑いしながら酒飲んでるのみてマジで腹が立ったよ。
マジでこんなのもうごめんだと思ってたら先日父親が亡くなった。
持病持ちだった為死因にコロナは関係なかったが、「このコロナの状況だと、、、」とか言っておけば葬式しないいい理由になるんだよ。
もう俺しか家族はいないから俺の独断で直葬して先日納骨まで済ませたんだけど、これがマジで金も手間も殆どかからない。
坊さんもキツいらしく何かと葬式的なものを開催しろと言ってくるが、コロナがねーって言っておけば全てスルー出来るこの状況逃すべきではない!
親戚付き合いとか面倒な身内がいる人達はこの時期に葬式をやっておくべきだと思う。
そりゃ盛大に葬式して香典たらふくもらいたい人は勝手にやればいいけど、これから不景気確定の日本で葬式に金かけるほど余裕がある家庭は多くない。
本当に普通に葬式やる何十分の一位しか金がかからないから一度調べてみるといい。
自分じゃ何もしない癖にウダウダ口だけ出してくるクソうざい身内がいる人もいるとは思うが、とりあえず直葬して骨にして納骨しちゃえば後は適当に墓参りしてくださいねーでスルー出来ると思う。
骨になってからまでウダウダいう人はそう多くない。
しがらみが多い人ほど、この時期に葬式をするべきだと思う。
そもそも葬式なんて生きてる人が納得する為の儀式みたいなもんだから、当人が納得してれば何でもよしだと思う!
うちの例で悪いけど母親が5年前に亡くなったんだ。
そこそこ親戚が多くそこそこの規模の葬式やら通夜やら告別式やらその他諸々を開催したんだが、これがマジで手間と金がかかるうえに神経が摩耗する。
遠方から来る親戚のホテルの用意とかよく知らない親戚との会話とか、その後の宴会やら送迎やら本当に大変だった。
よく知らねー奴が通夜の後大笑いしながら酒飲んでるのみてマジで腹が立ったよ。
マジでこんなのもうごめんだと思ってたら先日父親が亡くなった。
持病持ちだった為死因にコロナは関係なかったが、「このコロナの状況だと、、、」とか言っておけば葬式しないいい理由になるんだよ。
もう俺しか家族はいないから俺の独断で直葬して先日納骨まで済ませたんだけど、これがマジで金も手間も殆どかからない。
坊さんもキツいらしく何かと葬式的なものを開催しろと言ってくるが、コロナがねーって言っておけば全てスルー出来るこの状況逃すべきではない!
親戚付き合いとか面倒な身内がいる人達はこの時期に葬式をやっておくべきだと思う。
そりゃ盛大に葬式して香典たらふくもらいたい人は勝手にやればいいけど、これから不景気確定の日本で葬式に金かけるほど余裕がある家庭は多くない。
本当に普通に葬式やる何十分の一位しか金がかからないから一度調べてみるといい。
自分じゃ何もしない癖にウダウダ口だけ出してくるクソうざい身内がいる人もいるとは思うが、とりあえず直葬して骨にして納骨しちゃえば後は適当に墓参りしてくださいねーでスルー出来ると思う。
骨になってからまでウダウダいう人はそう多くない。
しがらみが多い人ほど、この時期に葬式をするべきだと思う。
そもそも葬式なんて生きてる人が納得する為の儀式みたいなもんだから、当人が納得してれば何でもよしだと思う!
うちの例で悪いけど母親が5年前に亡くなったんだ。
そこそこ親戚が多くそこそこの規模の葬式やら通夜やら告別式やらその他諸々を開催したんだが、これがマジで手間と金がかかるうえに神経が摩耗する。
遠方から来る親戚のホテルの用意とかよく知らない親戚との会話とか、その後の宴会やら送迎やら本当に大変だった。
よく知らねー奴が通夜の後大笑いしながら酒飲んでるのみてマジで腹が立ったよ。
マジでこんなのもうごめんだと思ってたら先日父親が亡くなった。
持病持ちだった為死因にコロナは関係なかったが、「このコロナの状況だと、、、」とか言っておけば葬式しないいい理由になるんだよ。
もう俺しか家族はいないから俺の独断で直葬して先日納骨まで済ませたんだけど、これがマジで金も手間も殆どかからない。
坊さんもキツいらしく何かと葬式的なものを開催しろと言ってくるが、コロナがねーって言っておけば全てスルー出来るこの状況逃すべきではない!
親戚付き合いとか面倒な身内がいる人達はこの時期に葬式をやっておくべきだと思う。
そりゃ盛大に葬式して香典たらふくもらいたい人は勝手にやればいいけど、これから不景気確定の日本で葬式に金かけるほど余裕がある家庭は多くない。
本当に普通に葬式やる何十分の一位しか金がかからないから一度調べてみるといい。
自分じゃ何もしない癖にウダウダ口だけ出してくるクソうざい身内がいる人もいるとは思うが、とりあえず直葬して骨にして納骨しちゃえば後は適当に墓参りしてくださいねーでスルー出来ると思う。
骨になってからまでウダウダいう人はそう多くない。
しがらみが多い人ほど、この時期に葬式をするべきだと思う。
そもそも葬式なんて生きてる人が納得する為の儀式みたいなもんだから、当人が納得してれば何でもよしだと思う!
タイトルは少し煽ったけど、真面目に今葬式すると本当にお得なんだよ!
うちの例で悪いけど母親が5年前に亡くなったんだ。
そこそこ親戚が多くそこそこの規模の葬式やら通夜やら告別式やらその他諸々を開催したんだが、これがマジで手間と金がかかるうえに神経が摩耗する。
遠方から来る親戚のホテルの用意とかよく知らない親戚との会話とか、その後の宴会やら送迎やら本当に大変だった。
よく知らねー奴が通夜の後大笑いしながら酒飲んでるのみてマジで腹が立ったよ。
マジでこんなのもうごめんだと思ってたら先日父親が亡くなった。
持病持ちだった為死因にコロナは関係なかったが、「このコロナの状況だと、、、」とか言っておけば葬式しないいい理由になるんだよ。
もう俺しか家族はいないから俺の独断で直葬して先日納骨まで済ませたんだけど、これがマジで金も手間も殆どかからない。
坊さんもキツいらしく何かと葬式的なものを開催しろと言ってくるが、コロナがねーって言っておけば全てスルー出来るこの状況逃すべきではない!
親戚付き合いとか面倒な身内がいる人達はこの時期に葬式をやっておくべきだと思う。
そりゃ盛大に葬式して香典たらふくもらいたい人は勝手にやればいいけど、これから不景気確定の日本で葬式に金かけるほど余裕がある家庭は多くない。
本当に普通に葬式やる何十分の一位しか金がかからないから一度調べてみるといい。
自分じゃ何もしない癖にウダウダ口だけ出してくるクソうざい身内がいる人もいるとは思うが、とりあえず直葬して骨にして納骨しちゃえば後は適当に墓参りしてくださいねーでスルー出来ると思う。
骨になってからまでウダウダいう人はそう多くない。
しがらみが多い人ほど、この時期に葬式をするべきだと思う。
そもそも葬式なんて生きてる人が納得する為の儀式みたいなもんだから、当人が納得してれば何でもよしだと思う!
母の話によると父はタバコの吸い殻をダンボールにためていたらしい。なぜ父はそんなことをしていたのかは分からないし、なぜ母もそれを危険視しなかったのかはわからないが、とにかくそのせいで燃えた。
僕の昔住んでいた田舎の実家はそうやってなくなった。次に見た時には簡単に整地されており、何を入れているかはわからないが小さな物置だけが建てられていてぽつんと建っていた。整地するためにお金が足りないということで僕も30万円を母に渡していた。
その後、父と母と、一緒に住んでいた次男は一時的に市営住宅のようなところに住んだ。向かいの家ではうさぎが放し飼いにされていた。しかしボロすぎて辛かったらしく、最終的に家を買った。今もそこに住んでいる。その家は2階建てで部屋もたくさんある広々とした家だが、前の住人が物置で首を吊って亡くなったため1千万円弱で購入できたらしい。
父はぶっ壊れていた。
僕が小さい頃の記憶を思い出してみると、父と一緒にファミコンの難しいステージを試行錯誤しながら一緒に攻略したり、将棋で対戦したりしていた。父の仕事場が家から歩いていける距離にあったため、小さな僕はたまに仕事場まで歩いていき、父が仕事が終わった時に一緒に原付きに乗せてもらって家まで帰ったりしたこともあった。
しかし父は脳に異常があった。その関係で度々入院したり、手術を行ったりしていた。何度も仕事を辞め、何度も新しい仕事をしていた。
そのためうちは母がメインで働いている。働きに出ている母のかわりに家事はおじいちゃんがメインで行っていた。食事、洗濯や、子どもが病気になった時に病院に連れて行ったり、雪で学校へ行けそうにない時は車で送って行ったり。
父は特に前頭葉に異常があり、理性を保てずふとした拍子に豹変することがあった。僕らがゲームをしていたら急に部屋に入ってきて怒り出したり、部屋で普通に過ごしていただけなのにちょっとした発言で急に説教をはじめたりしだした。
一時期はおじいちゃんが目の敵にされていて、おじいちゃんのやることなすこと全てに文句をつけて自分のやり方を強要したり嫌がらせをしたりしていた。ある日次男は父に「殺いたる!」と言われながら追いかけ回されてトイレに閉じこもって避難したりしていたこともある。僕もある日「ボケてるんじゃないの?」と父にいったらそれは禁句だったらしく、急に後ろから思い切り殴られ、しばらくの間耳が内出血した状態で過ごしていたことがあった。
あとは理性が効かないためパチンコにもハマっていた。生活費をほとんど持ち出してしまったこともあるらしい。そのため家族は色々と対策をしていたようだ。とにかく数え上げればきりがない。家族みんなが何度もひどい目にあっていた。いつ何で発狂するかわからない父と過ごす毎日は地獄だった。僕は本当に父のことが大嫌いだった。
中学、高校の頃は僕も思春期を迎え、なぜ僕だけそんな境遇なのかと自分の人生を呪った。特に僕は人と接するのが不得意だったこともあり、なぜみんな日々学校であんなに楽しそうにすごしているのに僕は何もうまくいかないのだろうかと感じていた。そして僕はきっと父親のせいでこんな風になってしまったのだろうから全てが父のせいだと思っていた。
高校で1日が終わったあと、僕は毎日夕方遅くまで部室でだらだらとすごしていた。やることがあったわけではないが家で父と顔を合わせたくなかったからなんとかむりやり時間を潰していた。そうして父がご飯を食べ終えて2階の自分の部屋に閉じこもるあたりの時刻に帰宅するようになっていた。たしかそのあたりでは父に話しかけられても全て無視するようになっていたと思う。正直、早く父がこの世から消えてほしいと思っていた。
進学は田舎から遠い関東の大学を目指した。高校での人間関係は何一つうまくいかないし、家に帰っても狂った父親が家にいることが耐えられなかった。とにかく全てを捨てて新たな地で心機一転新しい生活をはじめたかった。
結局僕は関東の大学に合格し、そっちで一人暮らしをはじめた。自分以外誰もいない家。好きなことを好きなだけでき、誰からも急に理不尽な文句を言われることが決してない、人生ではじめての心から落ち着ける空間だった。
外での人間関係が決して完璧にうまくいくわけではなく苦悩も多くしていたが、それでも大学のサークルに入ってみんなと普段から活動し、その中でいつも遊べる友達も出来てそれなりに充実はしていた。
そんな4年間を過ごし色々なことを経験する中で、僕の心も徐々に溶けていった。
色んな失敗をした。失敗をする中でなぜ僕はこうもうまく行かないんだろう? と考えた。一生このままで生きていかなければならないのだろうかと思った。そんな人生に何の意味があるのだろうかと思った。何もないのであれば死んだほうが良いのではないかとも思った。何かある度にすぐ父のせいだ、と思った。しかし、父のせいにすることは何の意味もないことにある日気づいた。たとえ本当に父のせいだったとしても、この先幸せになりたいのであれば、僕自信が変わっていくしかないのではないかということに、運良くたまたま気づくことが出来た。
それに気づいてからは父のことが頭によぎることがなくなった。自分にとって重要なことは、今後自分がどうしていくか、ということだけとなった。過去は何も関係ない。ただひたすら未来を描いて進むことだけが重要なこと。ひたすら考えて、考えて、考えるようになった。
そうやって過ごしているうちに、いつの間にか父のことを許していた。正確には、父に対しての興味を一切失った自分がいた。
僕は性格的に、一つのことに極端に集中してしまう傾向がある。大切な物は愛おしい。しかし自分に全く関わらないものには興味が無い。ちゃんと考えて話している人の言葉は気になる。しかし思考停止で人を傷つけるだけの言葉には全く興味が無い。嫌悪ではない。そんな人は世の中にたくさんいることが当たり前だからどうでもよすぎて興味が持てない。だから父のことも興味が持てない。しかし形はどうあれ、許すことも興味を失うことも同列だったため、僕の中で父のことは全てが解決した。
僕は自分の普段の生活のことばかりを優先して考えていて、あまり実家にも帰らなかった。たまに帰った時やたまたま母から電話が来た時に話をするのだが、父は窃盗もするようになっていた。窃盗と言っても数千円を盗むくらいだったらしいが。
とはいえ特に意外性はなかったし、その後どうなったのかなども興味はなかった。しかし一緒に住んでいる母としては大問題だった。家族が盗みを繰り返すのを放置してはおけない。
結局そのあたりから、母は自分が不在の時は時々父を介護施設に入れるようになった。もちろんはたから見れば早くそうしとけばよかったじゃん、みたいな話だろうと思う。事実母も父と離れる時間が増えることで精神的にはかなり楽になっていたのではないかと思う。
しかし、施設の費用はそんな安いものではない。時々だけとはいえそれなりの費用がかかる。家のローンに加え、介護費用。そのころ母はもう60近かったがとにかく定年まで働かねばと嘆いていた。
そしてなんだかんだで月日が過ぎ、父はどこかの溝に落ちて負傷してしまったらしく、自分で体を動かせなくなってしまった。完全な要介護者となった。
僕はといえば、そんな話を聞いても全く興味が持てず、帰省したときにも特に会いに行こうとは思えなかった。というかそういった発想すら出てこなかった。もう僕の中では全てが終わったことだったため、このままもう二度と会わなくても別にいいと思っていた。会ったほうがいいんじゃないかと兄弟に言われたりすることもあったが断っていた。
それから数年が経った2019年の年末ちょっと前に母から連絡が来た。父がもうそろそろ長くないとの話だった。丁度正月前後に亡くなるかもしれないということだったため、喪服などを購入して準備をした。
しかし、年末近くになり、再度連絡が来た。どうも結局峠を超えて今のところ問題ないということだった。
年末になり、実家へ帰省した。正月はだいたいいつも帰省し、子どもたちを妹の子どもたちと遊ばせたりしている。
さすがに状況が状況だったため、自然と父のところへ行く流れとなった。僕は別に行かなくてもいいと思っていたが、妻が子どもたちと父を合わせてあげたいという事を言っていたため、それもまあ子どもたちにとって何かの意味があるだろうと思い、特に拒否もせず行くことにした。
母と僕の兄弟とその家族でそれぞれ数台の車に乗り、大人数でぞろぞろと介護施設へ行った。
部屋に入るとベッドに横たわっている父がいた。父はもう当然自分では動けない状態で、しゃべることもできないため、うー、うー、とずっと唸ったりしていた。目が合うような気もするが特に変わった反応もなく、何を考えているのかは分からないし、そもそも何かを考えることが出来ているのかもわからない。結構多い人数で来たためぐるっとみんなでベッドを囲み、ぎゅうぎゅう詰めとなる。みんなで父の様子を見て、きっと大勢来ているから父もびっくりしているだろう、とか、喜んでいるときの声だわ、みたいな話をしていた。
父はたしか僕の子たちを見たことがなかっただろうと思うので、子どもをそれぞれ抱きかかえて父の目線の先に連れて行った。特に反応もなく、自分の孫だと分かっているのだろうか、分かっていないのだろうかもよく分からなかった。
そんなこんなでそこで少し過ごし、写真を撮ったりして帰ることになった。
最後に大人たちがうちの子に「早く元気になってね」と言ってあげて、と促した。7歳の長男と5歳の次男がそれぞれ父に、まだ幼い可愛らしい声で「早くおもちゃ買ってね」「早く元気になってね」と一生懸命伝えた。すると突然、父が今までと違うかなり大きな声であー、あー、と言った。みんなびっくりしていた。一応子どもたちの言葉は伝わったのだろうか。詳しくはわからないがそれっぽかった。
それから半年ほど経った。コロナが流行し、緊急事態宣言が発令されて終了した頃。2020年6月29日、朝起きたら妹からLINEで父が3時頃に亡くなったという連絡が来ていた。月曜日。
妹に電話してみたところ、コロナのこともあるし別に来なくてもいいよ、ということを母が言っているとのことだったため、僕は葬儀には行かないことにした。僕も正直葬儀には興味が無いし、それよりも子どもたちに学校に行かせたり普段の生活をおくらせてあげたかった。
しかし妻が不安になって再度母に連絡をとってみたところ、そんなことは言っていないらしく、来いと言われた。一体なんなんだ。
とはいえコロナのこともあるし、妻もちょっと体調的にウロウロできる状況ではないため、僕一人だけ行くことにした。
葬儀は7/1。朝からだったため前日に仕事を終えたあと実家に帰った。弟や甥っ子たちも実家に来ていた。大切な父……というわけでもなかったため、みんな普通に過ごしており明日が告別式ということも忘れそうだった。
次の日、起きて甥っ子たちはフォートナイトをしたり、みんなでだらだらと朝ごはんを食べたりしていた。そうこうしているうちに時間になり、葬儀場へ向かう。
葬儀場は宿泊できる部屋があり、実家にいなかったメンバーはそこにいた。しばらくすると大阪のおじちゃんとおばちゃんがきた。それぞれ父の兄弟で、夏休みや冬休みには僕の兄弟と同じくらいの子どもたちをつれて実家に遊びに来ていた。大勢でマリオカートをして遊んだりしていた。おじちゃんにはいつも海につれていってもらっていたし、おばちゃんは逆に夏休みに大阪に泊まらせてもらっていたため二人とも馴染み深い。
おじちゃんによると、父は子どもの頃に事故で頭をうったという。当時は額あたりの怪我の治療は前頭葉があるため、簡単にはいじれず、医師にも難しかったという。誰もしっかりとした治療はできなかったらしい。その後父は元気にスポーツをしたりしていたらしいが、大人になって障害が出始めたのはもしかしたらそのあたりが原因だったのかも、という話をしてくれた。とはいえ母も僕の夜泣きが原因だったのでは、と言っていたりするので何が原因かはよくわからず、おじちゃんの話も懐疑的だった。
しばらくして葬儀が始まった。みんなが部屋に集まる。何もよくわからない状態だったが言われるがままに並んで椅子に座った。部屋が暗くなる。導師さんが念仏を唱え、みんなで繰り返す。
その後も式が進行し、導師さんが話を始めたりした。誰なのかもよくわからないし、何を話していたかももう忘れてしまった。
導師さんの話が終わると、今度は親族代表ということでおじちゃんが話をすることになった。おじちゃんは前に出てきたのだが、マイクと全然違うところで話をし始めた。式場のスタッフを見るとあわてておじちゃんのところに駆け寄ってマイクのところに連れて行こうとするところだった。おじちゃんはいわれるがままにマイクのところまで行ったのだが、なぜかマイクを背にしてマイクがない状態で話し始めたので再度スタッフが誘導したのがおかしかった。
おじちゃんはおじぎをしたあと、先程のように事故の話をし始めた。頭をうち、前頭葉があるため治療もできず、でもスポーツをしたりしていた、ということ。
そのあと、父が大勢の人に迷惑をかけるようになってしまったこと、そして、その父のことを母が最後まで面倒を見てくれたことを話した。すると突然、何か急にこみ上げてきたものがあったらしくウッと声を止めて泣き始めた。それを見て母も泣いた。なんとなく空気が変わった。
元々そんな雰囲気はなかったためびっくりした。僕はもらい泣きもしなかったし悲しくもなかった。ただ、みんな何かしらそれぞれ思うところがあるのだなと思った。おじちゃんからすれば身内がとんでもない状態になってしまって、父が元々赤の他人である母にひどい仕打ちをたくさんしてしまったことに申し訳ないという気持ちが非常に大きいのだろう。
母は実際にひどいめにたくさんあい、この年までずっと働き詰めで大変な思いを今もしている。しかし、お見合い結婚だったとはいえ、楽しく幸せな時期も経験し、僕らがまだ生きて経験したことのない年数を父と一緒に過ごしてきた。詳しいことはわからないが、そこには本人にしかわからない無数の思いがあるのだろう。自分と妻も一緒に生きてきているが、子どもたちはそこであった多くのことを何も知らない。当たり前のことなのだが、不思議なことだ。
そして、ここにそれぞれの思いを抱えた色々な人が集まったことも不思議に感じた。みんな何を思ってここにいるのか。僕には分からないが、何かを思っている。
その後告別式は終わり、父の棺にみんなで草花を詰めた。父の顔は処理を施されてつやつやしており、蝋人形のようだった。
その後棺を閉じ、それを男たちで車へ運んだ。そしてみんながそれぞれの車で焼却場の方へ向かう。
焼却場は僕が今まで行ったことがあるような汚い場所ではなく、きれいな施設だった。コロナの影響で焼却場には15人だけが入れるということらしい。父に近い15人が部屋に入る。部屋の中にある等間隔に並んだ足のマークの上にそれぞれが立った。
次に、父が入った棺が焼却する空間に納められた。スタッフがボタン類をアルコール消毒したあと、閉じるボタンを押した。機械により扉が閉じられる。
そしてどのボタンを押すと焼却が始まるかの説明を受け、準備が出来たら押すように説明があった。しかし誰も反応しないため僕が母に押しなよと促した。しかし、どうも嫌だったらしく、いやいやという手振りをしたので僕が押した。
その後は1,2時間ほど時間がかかるということで休憩の時間となった。密をさけるため、どの部屋も人数制限があり適当にバラけることとなった。弁当が用意されていたためそれを食べて過ごした。
しばらくするとスタッフから声がかかったためみんなで部屋に集まった。中央には棺の台を収めるスペースがあり、今は空いている。そのそばに長い箸がたくさんあり、それぞれがその箸を手にした。
しばらくして台が運ばれてきた。まだ熱く、気をつけるよう注意があった。その上には骨が置かれている。葬儀は何度か経験したことがあるため特に新たになにか思うということはなかった。そういえば昔妻が飼っていたうさぎを看取ったのだが、その時に焼却されて出てきた骨を見た時はとても悲しくて泣きそうになった。
スタッフに説明されながら、足から順に骨を入れ物に詰めていく。みんなで行ったり来たりしながらそれぞれ骨を詰めていった。思ったよりもポロポロともろい。頭の方になると、大きすぎるため箸で割って詰めていく。頭には手術の跡の金具がついていたりした。それも母が詰めていた。
そして一通り詰め終わり、葬儀の全ての工程が終わりとなった。皆それぞれ準備をし、帰宅した。僕も一度実家に帰って着替えをして荷物を整理し、車で帰路についた。
僕は仕事もあったし、あまり車で長距離移動をするのは事故で死ぬ可能性もあるし好きではない。そのためとにかく早く全てを終わらせたいと思っていた。なんとか生きて帰ってくることができたが、かなり疲れ果てていた。とにかくいつ始まるのか分からなかった大変な出来事が一つ終わり安堵した。
父が亡くなったが、母は元々次男と一緒に住んでいる。近くには妹の家族もおり、しょっちゅう甥っ子や姪っ子たちと遊んだりしている。三男もわりと話が好きで母によく電話をかけているらしい。僕は離れていて長期休み以外は音沙汰も無いが、それでも母はみんなのおかげで楽しく暮らしているように見えるため特に心配はしていない。
父がいなくなったことで母は父の介護費用を払う必要がなくなった。だいぶ生活も楽になるのではないかと思う。僕は本当に良かったなと思っている。
昔「家、ついて行ってイイですか?」という番組を見ている時に、一人の若い女性の家に行く回があった。
その女性の家には父親がいるのだが、要介護のため自分では動けない。女性はその父親の介護をしていた。自分では動けないため、あらゆる事を補助してあげなければならない。朝起きてから、昼食、夕食、風呂、トイレ、あらゆることだ。もちろん生活のため仕事もしている。ヘルパーさんがいたのかもしれないが、それでも何もなく普通の生活をしている僕らには想像できないレベルの大変な毎日であることは間違いない。
女性はまだ若く、色々なことがしたい年頃だろう。彼氏を作ってデートをしたり、友達とショッピングに行ったり。インドア派であればゲームをしたり、ゲームのキャラにハマって腐女子をしたり、好きなアイドルのライブにも行ったりしていたのかもしれない。しかし、全て介護のためできない。ただひたすら介護をしなければならない。夢もあったのかもしれない。でももう諦めてしまったのかもしれない。
父のため仕方がない、と思いながらも、女性が毎日どれだけ苦しいかを想像をするだけでも苦しくなる。
その父はどう思うだろうか。自分の娘が自分の介護のために全てを犠牲にし、尽くしてくれている。ありがたいと思うだろうか? 僕だったら死にたいと思う。一生懸命育てた自分の娘。小さな頃から育てながら思うことは、この子が楽しいことも辛いことも含め色んな事を経験し、苦悩しながらもそれでもたくさんの素晴らしいことを経験しながら歩んでいき、やりたいことをやって自分の未来を掴んで幸せになってくれればいいなということ。どんな未来でも自分が進みたい方向に進んでいってほしい。
しかしその全ての未来を自分の手で摘み取ってしまう事になったとしたら。耐えられる自信はない。すぐに死に、失いかけていた大切な未来を与えてあげたいと思う。若い娘がそのような境遇にさらされて多くの時間を失ってしまうことは世界にとっても大きな損失だ。
でも、死ぬということは難しい。自分で死ぬ覚悟ができるものかどうかは全くわからない。さらに介護されている状態で自分で死ぬこと自体がそもそもできない場合もあるだろう。
この世には安楽死が必要だと思う。死にたくても死ねない人を助ける制度が必要。綺麗事だけでは救われない人達がいる。その人達が救われる世界になってくれればいいと思う。しかしどうすればそういう世界にできるのかは壮大すぎて僕にはわからない。とにかく僕にはこうやって苦しむ人達がいるということを文字にして発することしか出来ない。
とにかく、その一つとして父が死んで本当に良かったと思う。
スノトラで命を救われた方の沼落ちブログを読んで、私も命救われたしな…と思い、私もスノトラに対する気持ちをアウトプットしようと思いました。
嵐担なので地に落ちるまでの嵐に関するお話が長いです。
全体的にちょっと長めかもですがご容赦ください。
2019年1月27日、日曜日だった。私がその報道を見たのは確か18時ごろだったと思う。LINEニュースの速報だ。嵐が活動休止するのだという。
私は嵐が好きだ。担当は松本潤くん。彼のビジュアルから入ったものの、好きなところは数えきれず、ストイックさや直向きさ、とても可愛らしいところ、でも魅せ方をしっかりわかっているところなど挙げたらキリがない。
潤くんとの出会いは遡ること19年前。当時小学2年生だった私のクラスではみんながみんな嵐が好きだった。
そして、シャーロキアンの母の影響でミステリーが好きだった私は当然のように金田一少年の事件簿も好きだった。
レンタルビデオ屋に行けば専らディズニーか堂本剛の金田一を借りていた。
そうして二代目実写版金田一少年を見た私は、人生の生きがいに出会う。
しかしながら、それ以降は好きな芸能人を聞かれると、ほぼ毎回松本潤と答える程度で強くは追っていなかった。
追っていなかったものの、嵐が出ていたならばテレビは見たりしていた。
そんな私が、中学卒業から高校1年にかけて何のきっかけでもなく松本潤に強い感情を抱くようになる。中学では、松潤のこと好きだなと思う程度だった女が、ある日突然、嵐の大ファンになるのだ。こわい。親も驚いたと思う。
今考えると当時の嵐は10周年に向けて動いており、私も世間の熱気に当てられたのかもしれない。
それ以降は嵐が出ていたならばリアルタイムで見ていても録画をし、円盤に焼き、雑誌はほぼ全て買い、切り抜きしてファイリングし、ジャニーズショップにも足繁く通った。
また、当時はK2やA2、N3と言った掲示板全盛期でもあり、登下校時には毎日のように掲示板を見て楽しんでいた。アタス子とか覚えてる方いますか?
そうして、青春を嵐と共に過ごした私は事務所担寄りのオタクへと変質し、生き甲斐は松本潤、ひいては嵐となった。
時は過ぎ、高校卒業、大学入学、大学卒業を経て上京、就職、転職をし、嵐にめちゃめちゃ注力しているわけでもないが、やはり生き甲斐は潤くんであった、2019年1月27日。私は目の前が真っ白になった。
その頃にはもう嵐が大好きで仕方がなく、彼らがステージの上でキラキラした衣装を身につけて歌っているの見ると反射的に泣く程度にはクソデカ感情が育っていた。
あの日はちょうど埼玉での泊まり込みの出張最終日で翌日の朝に帰京し、事務所作業の予定だった。
出張中の移動は主にレンタカーなので、休憩に立ち寄ったセブンイレブンの駐車場で私はあの速報を見た。その日の仕事は22時半頃までだったが常に泣きそうな中、ふと緩んでしまうと泣いてしまう状態で仕事をした。
仕事が終わり、宿泊先のホテルに入った途端、封を切ったように、涙が出た。
その日は日曜日。翌日は月曜日である。つまりNEWS ZEROに櫻井翔が出るのだ。
最早、どうしたらいいのかわからなかった。人はショックすぎることがあると頭が真っ白になるというのは本当なんだと体感し、また泣いた。
一人で過ごすことはできなくて、28日の夜には私用で上京していた友達に、ZEROまでの時間、飲みに付き合ってもらった。
そして泣きながら見たZEROで櫻井翔は言ったのだ。有働さんに「復活はあり得ますか?」と聞かれた櫻井翔は答えた。「あり得ます。」と断言した。希望だと思った。
翌29日はちょうど仕事が休みだった。朝起きてまた泣いた。ボーッとつけていたワイドショーでその類の報道が流されまた泣いた。あの3日間は生まれた時以来、人生で一番泣いた日だったのではと思う。
私はやば目のオタクなので、潤くんが結婚した時など、嵐に関してショックな出来事があってもダメージを軽減しようと、常からイメージトレーニングをしていた。例えば、潤くんの婚約発表、披露宴、結婚記者会見、おそらく50年以上先にはなるだろうが一番辛い告別式などである。
ただその中で何よりも想定していなかったことが活動休止であった。嵐として5人が並ぶ日が来なくなるなど、微塵も考えていなかったのである。
そこから私の虚無の日々が始まる。多くの方もそうだろうが、私は辛い時には音楽を聞いたり、推しを見たりすることが多い。
しかし、今その辛い原因は他でもない私の生き甲斐なのだ。潤くんを見たところでまた泣いてしまう。嵐の曲を聞いたところでまたさらに泣く。
後押しして欲しい時にはファイトソングを聴き、辛いことがあればHappinessを聴いた。夏を感じた日にはSummer Splash!を聴き、気持ちの整理がつかない時には、感謝カンゲキ雨嵐を聴いた。
嵐によって開けられた穴は、他では代替えできないほどに大きなものだった。
嵐がSNSを始め、サブスクを解禁した時もそれはそれで嬉しかったが、やはり辛かった。
2021年なんてこなければいいと思ったし、もう全てがどうでも良かった。
嵐が活動休止する2020年12月31日までは前を向いて生きようと思っていたが、それ以降は本当にどうなろうが、どうでも良かった。
いくら櫻井翔が明言してくれたところで、希望があったとしても、やはり不安は拭えず、生き甲斐が例え一時的であっても無くなることの恐怖が強かった。
日を追うごとにその感情は強くなり、2021年以降の自分が全く想像できなくなった。
この頃は本当にたくさんの人に心配をかけたと思うし、ジャニオタでもないリア友からLINEやリプをたくさんもらった。今思うと、とてつもなく申し訳ない。
そんな風にカスみたいに生きていた時でも嵐がテレビに出ていれば当然見る。そうやって見ていた、あれからちょうど10ヶ月後の 2019年11月27日。その日放送のベストアーティストで私は天使に出会う。
当時、Jr.について詳しくは知らないものの、ジャニオタの端くれとして1月にSnow ManとSixTONESがデビューするらしいというのは知っていた。が、しかし私が知っていたのはSnow Manはラウールという単語のみで、 顔と名前が一致していたのは、B.I.shadowであった SixTONESの松村北斗と髙地優吾のみであった。
そんなほぼ無知な私が見たのは、D.D.のコココガチャで魅せ方をよく熟知した、金髪の、足の長い子だった。一目で目を奪われた。こんな子がいたのかという衝撃は凄まじく、やっとラウールという名前と顔が一致した私は、個性的な9人のメンバーに引っ張られ急転直下のスピードでSnow Manに落ちていく。
当時のSnow Manはデビュー前であり、未来があって、輝きに満ちていた。
楽しいと思った。嵐が決めたことや嵐を決して否定するわけではないが、後ろを向けば期日が見えていた推し事と、先が続いているような感覚を得られる推し事はやはり大きく違った。
もし、嵐が出ないのであれば見ることができないと思っていた2020年のカウントダウンコンサートも、それ以降の歌番組も、Snow Manが出るならば見ることができると思った。
全く見えなかった私自身の未来も同時に見えたような気がした。
そして友達に誘われ、Snow Man目的で見た素顔4で私はまた出会いを果たす。
私はディズニーが好きでパークに行きたくて上京した。そんな女なので当然ミュージカルも好きである。そしてTravis Japanの夢のHollywoodは非常にツボな曲であった。
楽曲と衣装が好きだなあと思いながら見ていた夢ハリで、センターの子がいきなり「みんなで一緒に〜!!」と会場に向けて煽り始めた。煽ること自体はおかしくもないが、その煽りの後に続いたのはコールアンドレスポンス等ではなく、タップダンスであった。タップダンスを!?みんなで一緒に!?!?と私は大層混乱した。混乱しながらもこれがきっかけでTravis Japanのダンス動画等を見るようになる。
今の時代は非常に素晴らしく、ジャニーズJr.のオリジナル楽曲でさえもYouTubeのジャニーズJr.公式チャンネルに上がっていたりする。しかも定点カメラのダンス動画だって上がっているのだ。すごい。
そこで私はTravis Japanがダンスに特化したグループだということ知った。
統率の取れたシンクロダンスや、ジャンルの幅広く取り入れられている振り、そしてしっかりと身についている歌唱力や、耳に残る歌詞に心奪われた。
そして来たる外出自粛期間。例に漏れずテレワークとなった私はTravis JapanのYouTubeの動画を全て見た。第一印象が「みんなで一緒に〜!」だった宮近海斗くんは時々ボケるのが可愛らしい、ダンスばりうまなリーダーだと知った。他にも才色兼備でたまにボケるのがまたかわいい川島如恵留くん、何をしてもかわいい上に自分で「俺かわいいから」と言って憚らない七五三掛龍也くん、顔が小さく手足が長いのにヒモ気質な中村海人くん、ボケ役なのにリアコ枠でふとした時にとてもかっこいい吉澤閑也くん、独自の感性をしっかりと持っているかわいいお顔の松倉海斗くん、魅せる時は魅せるのにちょっとおバカでかわいい松田元太くん。
そして思う。私、この子たちはちゃめちゃに好きだわ…と。
ところで、ジャニーズはブログをやっている。会員登録をし、月額料金を払えば所属タレントのうち、ブログが開設されている子のものは全て読めるのだ。ありがたい。
そこで嵐やSnow Manのブログを読んでいた私は、当然のようにTravis Japanのブログ、とらまるを読むようになる。
Travis Japanは甲乙つけがたいほどに7人全員が好きだと思ってしまい、いわゆる箱推し状態である。なのでとりあえず全員のブログを読む。当たり前である。
ブログを読み進めているうちに、川島如恵留くんの文面に興味をそそられるようになった。
如恵留くんの展開するアイドル観、勉強観、その他全てにおいて、人間として尊敬に値すると強く感じた。
さて、皆様は7月27日現在の最新の定期更新分は拝読済みだろうか。
最新の定期更新分で如恵留くんはこう書いている。
「貴方が辛い時に、生きていきたいと思える理由の一つに、僕らの存在が力になれたら」
それを読んだ時、ラウールやSnow Manに会えるまで2021年なんてクソだと思っていたこと、Travis Japanに会うまで全てがどうでも良いと思っていたことを、恥じた。
また、如恵留くんがそう言ってくれるなら2021年以降も生きようかなと思った。
結局生き甲斐だった嵐の穴は大き過ぎて、ひとグループじゃ埋められず、Snow ManとTravis Japanのふたグループに出会うまで埋め切ることはできなかったけれど、私は今とても楽しく生きているし、来年以降も楽しく生きることができるのだろうなと思う。
ラウール担として恥ずかしくないよう、ずっと二の足を踏んでいたダイエットにも取り組むようになったし、如恵留くんを見習って勉強をしようかなという気持ちにもなっている。
アイドルって本当にすごい。
私はきっと来年もアイドルを追うことができるのだろう。本当に楽しい。
アイドルによって開けられた穴はアイドルによって塞ぐことができるのだと体感した。
今現在も嵐、Snow Man、Travis Japanともに色々なことがあるし、このご時世、グループの存続に関して全く持って問題ないなんてことはなく、薄ぼんやりした不安を抱きながら日々を過ごしているけど、スノトラの16人に出会えるまでのことを考えると、なんてことはないなと思う。
毎日が楽しく、笑顔で過ごせる。私は今日もアイドルに生かされ、明日もアイドルのことを想うのだ。
嵐に色々あってから本気で死ぬことも考えたが、本当に生きていて良かったと思う。ありがとう、Snow ManとTravis Japan、そして嵐。本当に大好きです。
ワニ関係でなんかすごい荒れてるの見るんだけど、ちょっとだけ同情というか理解できる部分もあって、なんか荒れてるのかわいそうだなぁ、と思った。
まぁ大体燃やしている人が言わんとしてることは分かりますし、私もいくらなんでも展開速すぎるし、特にLoftの「追悼PopUpShop」という言い回しはギャグとして笑えるタイミングを完全に逸しているとは思います。
そういう意味で「もっと良いやり方あっただろ」とは思うんですけど、これ欲しがってるのってどっちかっていうとユーザー側なんだよね。
簡単に言うと、公式が先回りして二次創作の道を全部塞いでいるようなやり方なんだよね。
例えばtwitterとか眺めてると「これまでのX日を振り返る」みたいな感じで無駄に感動的なフリー素材臭い音源とかあるいはなんかそれっぽい歌とかに合わせてワニくんのこれまでをまとめた動画がたくさんあがっていて、こういう「二次創作」で埋まる前に、公式が公式MADを出しておかないとなんか雑に消費されてしまう、というものは間違いなくあるんだよね。
ネット起源の流行語って大体公式が言ってないことをやらせて面白がる傾向があって、「シャミ子が悪いんだよ」とか昨年ネット流行語大賞に選ばれたけど、あれ最悪じゃないですか。
もちろんネットで面白がる人が出るコンテンツこそウケる、という考えも理解できなくはないんだけど、同時にそれをある程度コントロールしたいって言う欲求も正しくて、その「ある程度コントロールしたい」欲求の結果が、当日に公式MADとしか思えないPVを公開したことだと思えば、この部分は結構(戦略として)正しい判断だと思います。
グッズの展開のやり方も、こういうネーミングセンスってそれこそ二次創作界隈でやられるネタじゃないですか。ワニくんオンリー同人即売会とかで「ワニくん告別式」みたいな名前つけてプチ炎上するような感じじゃん。
それを公式がするのはどうなの、って言う思いももちろん理解するけど、公式がやらなかったら二次創作でするでしょ、って思うので、公式でやっとく方が良いよね、って気持ちはすごい理解できる。
先日、父が亡くなった。がんだった。
父の呼吸が止まったのが14時半。来てくれた担当医さんが死亡確認したのが15時半ごろ。家族皆が泣いていた。自分も唇を噛み締めながら我慢して、それでも涙が溢れてくる。
訪問看護をしてくれていた看護師さんがとてもいい人で、自分たちも手伝いながら、髭をそったり着替えさせてくれたりして、父の準備をしてくれた。
家族で湯灌してあげて、最後の見送りすることがとても良い時間になるよ。と、いろいろ教えてくれた。
これまでの看病で疲れているし、親族や知人の対応は母することになるの明らかだったので、葬儀会社とやりとりするだけでもと、喪主をかってでた。
闘病中、なくなる数日前に、◯レマの営業さんが来て、契約とれないと来週クビになると言われ、母が契約したとのこと。
父は元教員だったので、教え子含めてある程度の人数が来ることが予想されたので、駅チカの広い葬儀場が使えるのが良いかと決めたそう。
15年ほど前に祖母がなくなった時には、地元の葬儀会社で、自宅葬だった。
在宅療養していた父がなくなり皆が動転している中、母は最後まで地元の葬儀会社にするか迷っていた。
とりあえず契約してるんだからという理由で、◯レマに電話を掛けた。
担当営業と契約担当者と葬儀場で連携が取れておらず、あちらに掛けて、こちらにかけて、折返し待ちして、とたらい回しされた。
加えて、最初に電話をかけた時点でこの時間で決めますがよろしいですか?と念押しされた。
こちらのことを知ってる営業からなんのコンタクトもないのか?と疑問におもいつつも、下手に時間を掛けても仕方がないので、最短の日にちで申し込みをした。普通なら、死亡後3日後が告別となるのが最短になるのだが、3日後が友引だったため、4日後となった。結果的には、日付が伸びたことで運良く救われることとなった。
それが終わると、葬儀のプランや料金についての説明が始まった。
私達は営業さんから貰った資料を確認しながら、プランの詳細を選んでいくが、一つひとつ決めるたびに、営業が話してた葬儀プランと言ってることが違うやんと言うことがどんどん出てくる。
契約時には、一般的な葬儀費用のように見えるこの内容で、事前予約75万のプランを契約していた。
この契約があれば、全部まかなえます。と営業さんは言っていた。追加のオプションは断れば良いとも。
https://cerema.co.jp/funeral/plan.php
・契約の葬儀プランでは、入り口近くの小さい部屋しか使えず、+10万ださないと、50名規模のホールには対応できません。
・プランで出来ると書かれていた花祭壇は、+10万ださないと、できません。
・病院から自宅までの寝台車費用は入ってるが、自宅から葬儀場への寝台車費用は入っていない。
→自宅で亡くなったため、おかしくないか?と問い詰めたら、じゃあプラン内の費用で対応します。と
・周りに飾る花代が最小16万~。無いと困りますと言われる。親戚から送られる分が合っても、親族一同の分が必須ですと。
・棺桶に掛ける布は燃やすために毎回新しいものが必要です。(+4万)
・湯灌できるけど、郊外の施設まで連れて行く必要があり、家族参加は不可。(+7万)
・骨壷も今のママだと貧相なので、アップしたほうがよいですよ。あと分骨するなら、追加費用(+1万)。
などなど、諸々で、事前の見積もりが180万ほどとなった。通夜の来場も50人と、少なく見込んだ上でだ。
契約書の文面を確認し、クーリングオフできますよね?と問いかけると、厳しい表情。
葬儀のトータル費用は相場からは離れてない。でも、言ってることこれだけ変わるというのはオカシイ。ちゃんと湯灌してもらえるのか?葬儀が滞りなくすすのか?
ただ、もう期日の予約はした、場所も親しい友人には伝えてしまった。今更変えるのも・・・・。悲しみに浸る間もなく、不安なまま夜を過ごす。
枕経をあげに住職さんが来る。母は自分の世代だと、珍しいと言いつつ、なんだかんだ年3回の法要を欠かせず行っている。
なので馴染みのある住職さんだ。
住職さんに、これまでの経緯を相談すると、◯レマの色々黒い噂を教えてくれる。噂についてはあとで詳しく述べる。
住職さんが、馴染みなので連絡してみますね。と地元の葬儀会社をあたってくれるが、友引明けなので、空きがないそう。
帰宅後にも別の葬儀会社を探してくれて、隣の市ならホールの空きがあるよと教えてくれた。
母の不安っぷりと、担当者が不審すぎて信用できない。これはキャンセルするしかない。
キャンセルもとい、クーリングオフすることを示すように電話。証拠として、電話の内容は録音する。
「次の予約が入っているのですが、そちらにお譲りして良いのですか?」何度も念を押される。
こういう引き止め工作が本当に手慣れている。
簡易祭壇の設置費用と、ドライアイス代で3万ほどかかったが、サンクコストとして考えれば安いもの。
営業担当の方が来て、説明してくれる。仏壇屋さんだったが、仏壇買いに来る人が葬儀の文句ばかり言われるので、なんとかせねばと作った会社だそう。
・花代は3万~。独自ルートで花を仕入れているのでその値段で胡蝶蘭も入っている。
・謎オプションはゼロ。分骨、フルーツ、棺の布、白装束。全部追加費用は不要。
・会葬返礼品の価格が、2万円ダウン。
・初七日するなら、会場費5万かかります。自宅ですることもできますよ。と教えてくれる。
見積もりは160万ほど。ただし、親族の花代と、通夜の時の親族の食事費用(2万)も含まれている。
費用は下がって、質が確実にアップした。
最初のプランの説明から、会場までの送迎、当日のオペレーション、ナレーション、葬儀後の祭壇設置まで。服装から振る舞いまで、すべてがプロの仕事だと感服する内容でした。
プラン説明時のアドバイスが的確で、常識よりこちらの都合を優先させて柔軟な対応してもらえたのが、ありがたかった。1時間以上かけて車で来る親戚が多かったので、通夜ぶるまいを通夜の前に変更。通夜中にお腹減ることや、通夜に来てくれた人の対応を後回しにせずに済んだ。また来てくれた親戚も早く帰せた。初七日供養後に、食べるのが普通だけど、粗供養品として、食事券を渡して帰ってもらうことにした。
他にも細かい相違点が色々。
・◯レマの線香が化学薬品臭がして、妻が煙たがっていたのが、変えた瞬間に問題なくなる。
・湯灌は家族でやれてよかった。父の体を拭いたりするのは、嫌な人は嫌かもしれないけど、お風呂入って背中流す感覚で、キレイにしてあげれたのは、最後の親孝行でしょう。
・花壇の品質がガッツリ上がった。◯レマの価格を見てたので、安いと思い、親戚からの花もだいぶ増えてしまった。棺に入れれなかった分は、すべて自宅に飾ってあり、1ヶ月近く経つがまだ元気だ。
・姉が嘱託で働いている先の互助組合の提携先葬儀会社だったため、-10万の割引。こちらからは何も言っていないにも関わらず、弔電を見て対応してくれた。
葬儀会社変更して、本当に良かったと思っている。変更の連絡しなおしたり大変な部分もあったけど、満足度が段違い。
結婚式と同じぐらいの金額払うのに、なんで文句言いながら、我慢しながら、サービス受けなあかんのかと。激しく問い詰めたい。
・勘違いさせる前提の資料を元に営業して、キャンセルできない。
・マルチ商法かと思うぐらいに、不安で人を動かそうとする。◯◯するのが普通。◯◯はできません。
・無駄なオプションつけてくる。ってか普通断れへんやろうぐらいの勢いで、オプションつけてくる。
・説明しない。
こうして◯レマをキャンセルして、地元の葬儀会社に変更できたのは、幸運が重なったからだった。
・契約して間もない状況で事前支払いが0円。クーリングオフで押し切れる状況だった。
・友引明けで、日程に1日分の余裕があった。
・付き合いのある信頼できる住職がいて、他の葬儀会社が見つかったこと。
これだけの条件が揃っていてようやくキャンセルできた。
今回は父の葬儀分を母が契約したが、普通はこんな契約はしない。なぜなら、営業担当は自分の葬儀を事前に支払う契約を勧めてくる。ここの情報格差を奴らは狙っている。
過去の噂を聞くかぎり、支払い済みの状況でキャンセルしようとすれば、事前支払い済み分は返金できませんと、そう脅されるだろう。
ちゃんとした式をあげるには+100万かかる状況で、葬儀までの時間はなく、決断は伸ばせない。
親族が亡くなって、気が動転している状況で、あとで事例調べるなり、情報収取するなり、冷静な判断がくだせるだろうか?
すでに親が70万支払いずみの状況で、プランの内容を聞いた後に、キャンセルする覚悟あるかと?
近所にも契約している人いたが、母はすぐ解約するように勧めた。
上にも書いたが、事前契約をメインに営業しているため、後々キャンセルされるケースも多い。
その場合に、解約手数料が掛かる形ではなく、1割も返金しないらしく、訴訟沙汰となっている。
https://www.sankei.com/affairs/news/150122/afr1501220037-n1.html
契約書にも、契約後、180日以後の解約は不可と書かれていた。
・どこかのお寺の檀家ではなかった場合、◯レマから仕事を依頼されることがあるという。
伝えれる範囲は限られるが、あまりタブー視せずに両親と話すこと。
「自分の葬儀代は自分でためておきたい。」「子供に負担を掛けたくない。」
そういう想いに、奴らは付け込んでくる。
なので、早めに話をして、事前に知っておけば、怖くない。
ほぼ悪徳商法なので、早く潰れることを願って、匿名ダイアリーに記します。
ブコメもらえて、拡散したので嬉しいです。(普段のブログでこんなにバズったこと無いので)
もちろん親族や各位には今回のことは包み隠す伝えたのですが、さすがに友達に言いふらすわけにも行かず。。。匿名ダイアリーに書きました。
親族でも、少し大きい規模で、280万という人もいて、葬儀場での話題になりました。
ちゃんとしたものにお金を掛けれた。という印象です。ロウソクや線香一つとっても、ケチるだけケチる姿勢が見えてしまい、なんの信用もできませんでした。5000円のランチ頼んだら、業務スーパーのパウチスパゲティが出てきた感じです。
あのまま乗っかった場合に、普及不要な請求をされそうだったのが一番の不安でした。
確かに160万は安くないと思います。(実際は来場者増えてもう少しかかりました。)満足度は5,000円出して、ちゃんとホテルのバイキング食べれたぐらいの気分です。
消されるの怖いので、反社記述だけ消しておきます。にしてもこんなこと匿名ダイアリーじゃなきゃかけない。
向こうは百戦錬磨でフル武装の営業モード。こっちは虚弱状態からスタートして意思だけで戦わなければいけない状況。
正直オプションを断ることだけに、体力と意思力を必要とします。途中から、やり取り自体が不毛だったので、さっさとやり過ごしてキャンセルできないか相談するモードに入ってました。
当日に葬儀会社まで決めてしまうのも良くなかった。という考えもあるので、決めるのはなくなった翌日でも良かったんじゃないかなと、後から思い返します。ドライアイス代が+1日で、+10,000円ほどかかりますが、4日後でも、最初から問題ないです。葬儀場が相手ないなら、1日ずらすとかでも良いくらい。
ほんとうに何から何まで、助けてもらいました。
看取ってくださったのが、緩和ケアを専門にやっている町医者さんだったので、看護師さんも経験豊富でした。(決して、年配の方ではないのですが)
冷たい対応されると、余計に辛いだろうなと思い返してありがたい限りです。
可能性としてはありえます。上記の通り、緩和ケアは車で訪問診療してますので、尾行すれば。なんの証拠もありませんが。
古めの住宅団地なので、営業さんがかなり訪問してまわっているそうです。
そのとおりですね。自分も、亡くなった父もそういう考え方です。
ただ、亡くなった人のためではなく、亡くなった人の家族・友人・知人・親族に向けてやるという感じでしょうか。息子としては、親がどんな生き方をしてきたのか知る数少ない機会だったので、ちゃんとやってよかったです。
「失踪日記」で知られる漫画家の吾妻ひでお(あづま・ひでお、本名日出夫=ひでお)さんが13日未明、東京都内の病院で死去した。69歳。北海道出身。葬儀・告別式は近親者で行った。食道がんで闘病していた。
1969年にデビュー。テレビアニメ化もされた人気作「ななこSOS」のほか、「ふたりと5人」などのギャグ漫画を多く手掛け、「不条理日記」などSF・不条理をテーマにしたマニアックな作品でも注目された。
一方で、2度も失跡したり、アルコール依存症で入院したりするなど型破りに生き、漫画執筆が何度も危ぶまれた。心身が回復する過程で壮絶な実体験を漫画に描き、2005年「失踪日記」として出版。同年の日本漫画家協会賞大賞と文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、06年の手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。ロングセラーとなった。
友達が死んだ。
友達と言ったが、ひょっとしたら親友と言っても良かったのかもしれない。
小学校からの友達で20代後半になっても、月に2,3回は会ってどうでもいいくだらない話をしていたのだから。
そんな友達が誰にも何も言わず行方不明になり、俺や友人や親族も懸命に探したが手がかりはなかった。
親族と彼の行方を話し合っている時に初めて、彼がうつ病だったと聞かされた。
それでも神様に、「俺がどうなってもいいから彼が生きて帰ってきて欲しい」と願った。
だが、その願いは聞き届けられなかった。
見ない方がいい、と警察に言われた。もう腐敗が始まっているから、と。
腐敗。
その言葉を聞いた時の衝撃は忘れる事はきっとないだろう。
棺にも、手紙や花は入れられないと言われた。顔も見れない、と。
無知で申し訳ないのだが、その時初めて密葬という言葉を聞いて、事実、彼の葬式は密かに行われた。
2日、いや、発見されてから40時間も経たない内に骨になってしまったのだから、一日半だろうか。
親族や仕事の関係者や平日の真っ昼間でも来るくらいの親しいごく一部の友人らが、火葬の前にご焼香。火葬が終わって、拾骨し、身内がお寺に納骨。
それで、終わりだった。
本当に、それだけだった。
何か、何かできる事が無かったのか。なぜうつ病だと気付いてやれなかったのか。
もっと飯に誘ってやればよかった。何か悩みがないかと一言聞いてあげればよかった。
火葬中、そんな事ばかり考えていた。
葬式に来ていた友人と別れ一人になった時、自分が出したものとは思えないような、ため息とも悲鳴ともつかない声が漏れた。
無論、こんな終わり方であろうと、彼の人生が無価値でも無意味でも寂しいものでもあった訳ではないはずだ。
彼は頭が良かったし、面白い奴だし、いいヤツだ。いいヤツだった、と過去形にしたくはないほど、いいヤツだった。
それでもあんな終わり方では、どうしても寂しい最後、と思ってしまう。
うつ病になった事がないからわからないが、俺もたまに病む事がある。ネガティブの塊に押しつぶされそうになる事もある。でも、彼はきっとそれよりもっと苦しかったのだろう。
死にたい人間に生を強要していいのか、という問いも世の中にはある。
その問いに俺は答える事ができない。明確な答えは用意できない。
実際、世界的に安楽死制度が議論されてきているし、今後もっと深まっていく事だろう。
ただ、どんな答えが導きだされようと、誰かに対して生きていて欲しいと願う事が間違っているなんて思わない。
今、苦しんでいるあなたも気付いて欲しい。
周りの人間は、思っている以上に、あなたに生きていて欲しいと願っている事を。
そして生きている俺たちは、もっと周りに伝えなければならないのだろう。
あなたがそこに居てくれて、生きていてくれて本当に嬉しいのだと。
「児童相談所 拉致 静岡市」などと検索すれば、当事者(親)が発信する記事を閲覧することができる。Twitterで実名発信すら行っている。
彼らの主張と、裁判所の認定事実とを対比しながら読めば、恐ろしさが伝わってくると思われる。
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判 決
(第1,第2 省略)
第3 争点に対する判断
前提事実に加え,後掲の証拠及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。
ア 原告Q1は,原告Q2及びQ9との同居を始めた平成19年2月頃,Q9が時間を守らないこと,嘘をつくことを矯正させる必要があると考えて,原告Q2との間でQ9へのしつけの方法について話合い,その結果として,原告らは,Q9が小学校に入学した同年4月頃から,Q9が上記の点について原告らの口頭での指導を守らなかった場合には体罰を与えることとした。
原告らの体罰は,当初は頭を軽く叩く程度であり,その後顔を平手打ちするようになり,同年6月頃からは,Q9に木製の子ども用バットを持ってこさせて,臀部をバットで叩くことなどがあった。
(甲4,75,原告Q1本人)
イ(ア)Q9の所属するクラスの担任であるQ12教諭は,平成19年4月頃,Q9の顔に痣があったことから,その痣について聞いたところ,Q9は,タンスの角にぶつけたと述べた。Q12教諭は,その後,Q9の顔の別の位置に痣があることを発見した。
Q12教諭は,同年5月下旬頃,Q9が忘れ物をして登校してきたため,どうしたら忘れ物をしないようにできるか尋ねたところ,Q9は泣き出して,自分で学校の支度をしていることのほか,原告Q1は殴るので恐いこと,原告Q2はQ9を守ってくれなくなり,原告Q1と一緒に怒ってばかりいるが,以前はそうではなかったことなどを述べた。そこで,Q12教諭は,Q9に対し,先生はいつも君の味方であり,先生が守ってあげるなどと述べた。
原告らは,同月31日,本件小学校の担任教諭と保護者との間での連絡帳に,Q9から,先生が守ってあげるという発言があったと聞いたが,その発言の真意の確認を求める旨の記載をした。
(イ)本件小学校のQ13教頭は,同年6月5日,原告ら宅を訪れ,原告らと面談した。その際,Q13教頭は,虐待の疑いがある場合についても適切な対応をとる必要がある旨述べ,原告らは,今までQ9はしつけを行われずに育ってきており,Q9を良くするのは今しかないこと,しつけの方針として,悪いことをしたら殴ること,虐待を疑っていることは理解していることなどを述べ,Q12教諭の上記(ア)の発言について,Q12教諭からの直接の謝罪を要求した。これを受け,Q13教頭は,一旦本件小学校に戻り,Q12教諭と共に再度原告ら宅を訪れ,Q12教諭の上記(ア)の発言について,誤解を招く発言であったとして謝罪した。
Q9は,同日以降,Q12教諭に対し,先生が来てくれてから殴られなくなったと述べた。
(ウ)Q9は,同年6月29日,右大腿部,右肩に赤色の跡があり,Q12教諭が,Q9がプールに入る際にその跡について聞いたところ,Q9は,原告Q2から叩かれたと述べた。
また,Q9は,同年7月2日,右目の下部に痣があり,Q12教諭からその痣について聞かれたところ,原告Q2に殴られたと述べたが,Q13教頭からその痣について聞かれた際には,Q9は転んで怪我をしたと述べた。そこで,同日,Q13教頭が原告ら宅に架電したところ,原告Q2は,Q9が2日続けて許せない嘘をついたことから原告Q2が殴った,私も人間だから感情的になると述べた。
原告Q1は,同月3日,本件小学校に架電し,Q13教頭に対し,原告らは冷静にQ9をしかっていること,同じ状況であれば原告Q1であっても殴っているはずであり,原告Q2も同じ方針であることなどを述べた。これに対し,Q13教頭は,殴らないで育てることをまず考えるべきであるなどと述べた。
(エ)Q12教諭は,同月4日,原告らから,本件小学校の教育方針等についての意見が記載された手紙が送付されたため,同日午後3時頃,原告ら宅を訪問した。その際,原告ら及びQ12教諭が居間にいて会話をしていたところ,原告Q2は,一旦居間を離れてQ9の部屋に行き,Q9を叩き,居間に戻ってきた際に,「今私,Q9のこと,叩きましたから,守って下さい。叩きました。嘘ついたから。」などと述べた。
その後,本件小学校のQ14校長,教務主任及び生徒指導主任が原告ら宅を訪れ,原告Q1から,学校で行う教育と家庭で行う教育の区別をしたガイドラインを示してほしいという要望があったため,Q14校長がガイドラインを示す旨述べて,同日午後8時30分頃にQ14校長らは原告ら宅を離れた。
(甲11,17,18,乙ろ2の12,乙ろ15,証人Q13)
(2)本件一時保護に関する経緯
ア Q14校長は,同月6日,静岡市教育委員会に対し,前記(1)イの経緯を報告した。静岡市教育委員会は,同月10日,静岡市α区の要保護児童対策地域協議会(児童福祉法25条の2参照)の定例実務者会議において,Q9を要保護児童として提示し,Q13教頭が前記(1)イの経緯をまとめた報告書(乙ろ2の12の1ないし6丁)を提出した。上記会議に出席した静岡市児童相談所の所員は,同日,本件小学校に対し,Q9は保護を要する児童であるため,今後Q9に痣等があった場合には児童相談所に通告するように指示した。
イ Q9は,同月13日の登校の際,左顎及び左目下部に痣があり,Q14校長がその痣について聞いたところ,Q9は,嘘をついたことを原告Q1に怒られて殴られたと述べた。そこで,同日「Q14校長は,静岡市児童相談所に架電してQ9について通告した。また,同日のプールの授業の際,Q9の大腿部及び背中に痣があることが確認された。
静岡市児童相談所は,同日,上記通告を受け,子ども虐待対応の手引き(平成19年1月23日付け雇児総発第0123003号厚生労働省雇用均等・児童家庭局総務課長通知。乙ろ2の10)及び静岡県中央児童相談所等作成の家族支援ガイドブック(乙ろ2の11)に基づき,上記アの会議に参加していた所員等による緊急受理会議を開催し,Q9に行うべき支援及び援助の内容を判断するための虐待処遇アセスメント指標(乙ろ2の6)で判定をしたところ,虐待の程度は,5段階の上から2番目(打撲,広範囲の軽外傷等)であり,調査格付は,生命を脅かす(又は高い可能性がある。)状態として,直ちに立入調査を行うこととなる「R-1」と判定された。また,静岡市児童相談所のQ15主任主事(ケースワーカー)等の所員3名が,本件小学校に立入調査をして,Q9の顔から足にかけて痣があることを確認し,Q9に聞き取りをしたところ,Q9は,原告らからは,Q9が時間を守らないという理由で毎日殴られること,原告Q2の方が多く殴ること,原告Q1からはおもちゃのバットでいろいろなところを殴られ,原告Q1から殴られた際に血が出たことがあることなどを述べた。静岡市児童相談所は,上記立入調査をした所員からの報告を受け,上記虐待処遇アセスメント指標及び所員の合議に基づき判定をしたところ,Q9の支援・援助格付は,直ちに一時保護が必要となる「AA」と判定された。
静岡市児童相談所長は,Q9に痣があり,Q9も原告らから殴られていることを認めたこと,本件小学校から,家庭訪問をした後も原告らからの虐待が継続していることが確認できたことに基づき,Q9を一時保護し(本件一時保護),その後に原告ら宅に架電し,原告らに対して本件一時保護をしたことを告げた。
Q9は,同日,静岡市立静岡病院のQ16医師の診断を受けたが,同医師作成の診断書には,「全身に打撲によると思われる皮下出血を認める」として,〔1〕両下眼瞼,〔2〕左顎部,〔3〕右肩甲骨上,〔4〕左大腿背側,〔5〕右下腿膝下部前面及び〔6〕両殿部について,「いずれも鈍器,または靴による打撲跡と考えられる」,「上記外傷について全治一週間と診断する」との記載がある。
静岡市児童相談所は,同日,静岡県中央児童相談所の一時保護施設にQ9の一時保護を委託した。
(甲11,乙ろ2の4ないし6・12,乙ろ15,16,乙は3の1・2,証人Q17,証人Q13)
(3)本件一時保護開始後の経緯
ア 原告らと静岡市児童相談所は,本件一時保護が開始された平成19年7月13日以降,電話等でやり取りをしたが,次のとおり,原告らは,Q9に対する体罰は虐待ではなく,親である原告らの意思を無視して本件一時保護を継続することは不当であるとの意見を繰り返し述べた。
原告Q1は,同月20日,静岡市児童相談所のQ15主任主事との電話で,虐待はしていない旨述べ,暴行が肯定されると考えているかとの質問に対して「ええ,肯定されますよ。当たり前じゃないですか」「一時的な感情だとかそんなことで虐待を繰り返してきているわけじゃないんだ」,「責任ある体罰っていうのだってあるんだ」などと述べ,静岡市児童相談所のQ18統括主幹との電話で,同月27日,「Q9をおたくらに任せますけど,やつが20歳ぐらいになったときにまともな,私らが考えているような大人になってなかったら,抹殺しますんで。おたくらも含めてよ。」,同月30日,「子どもがこう,おれらの考えてたとおりに教育できなくなったときに,おまえらどういう責任とる。とらなかったときは,おまえ,リンチしてもいいか」,同年8月1日,「根本からお前らの育て方とか教育論が間違ってるのに,何で間違ってる奴らと俺らが話し合わなきゃいけないんだよ。」などと述べた。また,原告Q2は,同年7月23日,Q18統括主幹との電話で,「私達は少なくとも体罰は体罰だって考えてるんですね。私の思う虐待と言うのは自分の憂さ晴らしですね。」,「体罰っていうのは暴力とは違う」などと述べた。
静岡市児童相談所のQ19主任主事(心理士)及びQ15主任主事は,同月20日から同年8月31日まで,一時保護施設を訪れてQ9と面談,行動観察,心理テスト等を行った。Q9は,同月8日以降の面接で,原告らと会いたくなく,施設から帰りたくない旨訴えた。Q19主任主事は,Q9について,同年9月20日開催の静岡市健康福祉審議会児童福祉専門分科会児童処遇審査部会に「現段階では,本児の家庭に対する拒否感が強く,両親と距離を置き,守られた環境下で,本児の話に耳を傾け,個別には母性的で受容的な対応が望まれる。」,「これまでの養育環境により本児の情緒面での成長が阻害されてきた結果が示されており,今後,両親の養育態度に改善が望めないようであれば,家庭との分離はやむを得ず,児童養護施設への入所が適当であると考える。」との心理診断の結果を提出した。同部会では,Q9の入所措置の承認を求める申立てを行うことに異議は出なかった。
静岡市児童相談所のQ20所長は,上記の原告らの発言,心理診断の結果及び上記部会の結果を踏まえ,原告らによる暴力が継続される可能性が高く,Q9も帰宅を拒否していることから,児童養護施設への入所が適当であるとして,同年9月25日,入所措置の承認を求める申立て(本件申立て)をした。
(甲11,14,乙ろ7の1ないし7)
イ 原告らは,同年9月28日,静岡市児童相談所を訪れ,Q20所長,Q17参事(平成20年4月1日に静岡市児童相談所長となった。以下「Q17」という。)等の所員と面談した。この面談の際,Q20所長らは,本件一時保護の経緯や,Q9については児童虐待防止法2条1号所定の暴行が行われたものと判断していると説明したが,原告らは,「体罰と虐待はこれ別物ですから」,「しつけの段階で,あざができるほどたたかなきゃいけなかった」などと述べてQ9の返還を求め,静岡市児童相談所はこれに応じなかった。
(甲9,10,乙ろ7の10)
ウ Q20所長ら及び原告Q1は,本件承認審判及び本件勧告がされた後である平成19年12月21日,静岡市児童相談所で面談した。原告Q1は,本件承認審判の「二度と虐待に該当するような体罰をさせない」という文言から,虐待に及ばない体罰については容認されたものと解釈している,体罰を主体にしない努力はするが,目的によっては必要なこともあるなどと述べたのに対し,Q20所長は,しつけ自体を否定するわけではないが,体罰を伴うしつけは子どもに心理的な影響があり好ましくない,本件勧告を受けて,静岡市児童相談所からの原告らに対する指導方法について年明けに提案する旨述べた。また,原告Q1が,原告らがQ9の通学している安西小学校に面会等を申入れることは問題となるか確認したのに対し,Q20所長は,今の状態だと問題となる旨述べた。
静岡市児童相談所は,平成20年1月頃,上記の提案として,Q9と原告らの家族再統合に向けた「ご両親への支援プログラム」(以下「支援プログラム」という。)を作成した。支援プログラムでは,〔1〕目標は,「Q9君が安心して生活できるような家庭づくり。」であり,〔2〕方法として,原告らが静岡市児童相談所を訪れ、概ね1か月に1回2時間程度を目安に面接を実施し,面接以外にも課題の提出をお願いすることがあること,〔3〕2月から3月頃にQ9の気持ちを確認し,写真やビデオレターなどを通した親子交流を始めること,〔4〕Q9が原告らに会いたいという気持ちを確認し,5月から6月に児童相談所内で原告らとQ9との面会を実施し,6月から7月初旬に親子での外出を実施すること,〔5〕面会・外出時の親子の様子,Q9からの外泊希望を確認し,児童相談所所員による家庭訪問を実施した後,7月初めに家庭への外泊を開始すること,〔6〕外泊が繰り返される中で,良好な親子関係が認められ,引取り後の支援のあり方について共通理解が得られれば,家庭引取りとなることが記載されている。
Q20所長ら及び原告Q1は,同年1月11日,静岡市児童相談所で面談した。静岡市児童相談所のQ21心理士が支援プログラムについて説明するなどしたところ,原告Q1は,支援プログラムは本件勧告を無視したものである,原告らは体罰をしているのであって虐待や暴力ではない,一時保護自体間違っている,おれは日常生活の中で普通にやっていく中で必要であれば絶対体罰は使う,まずはQ9を帰してもらいたいなどと述べた。そこで,Q20所長は,再度提案をする旨述べた。
Q20所長ら及び原告Q1は,同月24日,静岡市児童相談所で面談した。Q17が,本件勧告に基づいてQ9を帰宅させるためには,虐待に該当するような体罰はしないことが条件になる旨述べたところ,原告Q1は,裁判所は原告らが虐待をしていないと認めており,Q9をすぐに返してもらった上で静岡市児童相談所による指導を受けるというのが原告らとして譲歩案の全てである,静岡市児童相談所が原告らの意見を聞かずに一方的な主張をしているなどと述べた。
(甲9,10,乙ろ5の2,乙ろ7の11・12)
エ Q9は,平成19年12月31日,静岡ホームで転倒して頭を打ち,CT検査をしたが,脳に異常は認められず,頭部挫傷と診断された。
静岡市児童相談所は,原告らに対し,上記転倒事故を通知せず,原告らは,平成20年3月7日に静岡市個人情報保護条例に基づき開示を受けた文書により,上記転倒事故の発生を認識した。
(乙ろ1)
オ 原告Q2は,同年2月1日,静岡市児童相談所に対し,Q9の毎日の詳しい言動や様子を報告しない理由等の回答を求める質問状を送付した。また,原告らは,同月8日,静岡市児童相談所を訪れ,本件抗告棄却決定に対して特別抗告を申し立てた旨伝えるとともに,親権を行使するとして,Q9の毎日の一時保護施設及び小学校での言動を報告することを求めた。さらに,原告Q1は,一時保護期間の7か月でQ9の身長が2.4センチメートル,体重が1キログラムしか増えていないという理由で,Q9への精神安定剤等の投与を疑
「慰安婦被害者の象徴」元慰安婦の女性死去 韓国大統領が弔問 | NHKニュース
http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20190129/k10011795541000.html
tuzuraori 「ソウルにある日本大使館の前でキムさんの告別式を行うと発表しました。」→ 人の死まで外交カードにつかうとは韓国は本当終わってるね。
2019/01/31 リンク Add Starcyciatristtriggerhappysundaymorningmk12mod1tomoya_edwarvantesheltie_maczaatshigy-woodtGsQqV
grdgs 「人の死まで外交カードにつかうとは」←やってるのは政府じゃなくて市民。強姦を開き直る日本への抗議だよ。お前のほうが人としてつくづく本当に終わってるよ。カスウヨは本当にナチュラルに改竄捏造しやがるな。
tuzuraoriは「韓国政府は終ってる」 ではなく「韓国は終ってる」と言ってるんだから対象には政府も市民も入るのでは。
ついでに言えば、大使館の前でそんなセレモニーをやるには政府の裏での後押し(最低でも黙認)が必要な訳で
もちろん韓国政府は裏に隠れて「あくまでも市民が勝手にやっている(そんなの言い訳にならないんだけど)」って言い張るつもりだろうし
韓国的にはそこの理屈は大事なんだろうけど、tuzuraoriはそこまで細かい突っ込みをしてるわけではなく、