はてなキーワード: 所以とは
彼女たちは創作物を一時的な享楽のためのささやかな娯楽とみなしていて、なおかつフィクションと現実を明確に区別できる、そんな分別のついた人間だという自負を持ってる。
多分そう。
だから絵本みたいな作風のものを好んで鑑賞も、それは暇つぶしにツムツムをやるようなものであって、幼児的嗜好の兆候だなんて言われる所以はないと考えている。
ではなぜディズニー好きな女子の中にはアニメや漫画というサブカルチャーの愛好家を貶す者がいるのだろうか。
僕が思うに彼女たちは愛好家が好むアニメ・漫画・ラノベ等をみた際に、作品の舞台設定やキャラクター描写に現代日本の流俗や現代日本人の嗜好を見て取れることから、フィクションと現実社会の世界観の違いを上手く分けることができず混乱する。
そして愛好家たちが作品の世界観と現実社会のモラルのギャップに戸惑わずに鑑賞を続けられるのは、フィクションと現実社会を混合しているために違いないという判断を下しているのではないだろうか。
彼女たちは創作物に対するメディアリテラシー能力に長けていると自負しているために、自分が理解出来ない物を愛好する人々を分別のない愚劣な者とみなして半ば強引にアイデンティティを守るのである。
古典的名作や純文学といったアカデミックな扱いをされがちな物は、読み解くためには予備知識が多大に必要であり、理解出来ずとも自分の知識不足のせいにできる。
テレビドラマ等実写作品は非現実的なビジュアルなり辛いうえ、全ては俳優を引き立たせる装飾であるという鑑賞スタイルも成り立つために、フィクションと現実社会の違いを意識せずとも楽しむことができる。
アニメ・漫画・ラノベ等を含む日本的なサブカルチャーでは、基本的に、ハイコンテキストな世界観やテーマをローコンテクストな文法や世俗的な媒体に落とし込んだ作品が評価される。
サブカルに関心がなく、作品を読み解く気がない人からすればそれらはとても奇々怪界な物なのかもしれない。
ワンピースや進撃の巨人、ティーン向け少女漫画が、サブカル愛好家を下に見る人にも受け入れられるのは、ハイコンテキストな主題がない、もしくはローコンテクストなわかりやすいメッセージで包み込んでいるからだと思う。
自由があると思ってた先が人間同士の戦争という非情な答えだったということ、
そしてそれでも進み続けなければいけないという記憶のバトンがエレンに託されたということ。
今まで出た巻の中でエレンの悲しみが短くも強烈に描写されてる。
これから迎えるであろう悲惨な未来にどうエレン・アルミン・ミカサたちが立ち向かっていくのか。
【進撃の巨人のここがすごいよ】
他の漫画を引き合いに出して悪いが、アイアムアヒーローは駄作だった。
完結後、再び全巻読み直して落ち着いて出した結論が駄作だった。
ライブ感とか毎週楽しませてくれたからというのはやはり作品の総評をする際に適切ではないと思う。
世界崩壊系、パニック系漫画のラストが尻すぼみや雑な投げやりされる理由は、
既存世界を崩壊した先にある新たな社会形態を作者が想像(創造)しきれないからだ。
増田は嘘だと思うかもしれないが、人間の想像力には限界がある。
体験し想起し再現できないものは頭の中でも思い描くことは不可能。
実現可能なのは予測できる範囲内の事象に延長線上を引いたものであり、
だからこそ人間が想像できることは全て実現可能であると言われる所以である。
漫画、小説…アニメ…というのは舞台設定を異世界や世界改変とし、
世界の有り方そのものをテーマに据えた場合、作者の頭脳演算能力に対して要求されるスペックが跳ね上がってしまうことが多々ある。
そうなった際に作者ができることは投げっぱなしにするか、夢オチ、爆発オチ、とってつけたようなオチしかない。
漫画の登場人物は作者の頭脳を超えることはできないのと同じように想像力の限界に突き当たってしまった漫画は
そこで先に進めなくなり見えない壁にぶつかり、幕を下ろすしかなくなる。
それがアイアムアヒーローであり、20世紀少年であり、ドラゴンヘッドであり、数多のゾンビパニック映画のオチだ。
とにかく異世界を整合性を保って作るにはミニチュアの宇宙を新生させるに等しく、要求の脳スペックが高くなる傾向にある。
最後まで整合性を保ちながら物語を盛り上げ、終極させカタストロフィを見せるというのは
サッカーでいうとハットトリックを全部オーバーヘッドシュートで決めるくらいの高難易度技法である。サッカーよく知らないけど。
作者にパニック物の終局地を書ける力量さえあれば問題ないのだ。
そうやって終わらせた作品は数多あるけどそれを当たり前だと受け取ってきた結果、尻すぼみエンドが目立ってきた次第だ。
話を戻して、進撃の巨人は初期から最後までのプロットができているという発言が作者本人のインタビューで分かっている。
つまり連載開始時点である程度世界を完成させてしまっているのだ。
実際書き始めながら着地点を探しているのではなく既に脳をまわして宇宙を構成した後に書いている。
だからこそ支離滅裂になったり伏線が回収できなくなったりしないし、本筋の中で意味のない寄り道をせずに本編を進めていっている。
単純に、1話ごとに重要なエピソードを詰め込んで読ませてるから、面白くないわけがない。
本来昔の週間連載がやっていた毎回読者をハラハラドキドキさせるということをやりつつ、
あとから通してみても楽しめるという理想的な漫画を描いているだけなのだ。
この当たり前のことをどの漫画家も目指しているが大半の作家はそこに至らないが、
連載はじめての作品で既に両立させているという点が驚愕するべきところだろう。
一言でいうと
はてなで仕事について語ってる、特にホットエントリに入るような記事やブコメって
もしかして俺が知らないだけで
はてなって元々プログラマーのコミュニティ発祥だったりするのかな
そうじゃないのなら
例えば地方の役場とか銀行に勤めてる人の話もあっていいと思うんだけどなあ
世の中にプログラマーなりエンジニアなりが何人いるかは知らないけど
にも関わらずこんなに人種(そしておそらくイデオロギー的なものも)偏ってるように見えるって
東京でIT土方してる人間以外は村八分にされるインターネット部落はてな村なのか
山形県と山口県と山梨県と福島県と福井県と福岡県それぞれの場所がわかるのは小学生の4人に1人くらいと何かで聞いたことがあるけど
僕はキモオタだ。
アニメが好きでゲームが好きで、大学生になってバイクにも手を出して、あれだけじいちゃんにやめろと言っていたタバコも吸い出した。
こんなことでうまくいくわけもなく、悪いやつに絡め取られ、金も心もボロボロにされ休学した。
全く違う環境でビシバシされた、弱い自分を見つけ少しは上手くやって行く術を学んだと思った。
学校に戻ったら彼女でも作れば良いとその人は言った。何言ってるんですか、これからそんな余裕全くありませんよ、いた事もないし。多分、その時、ほんとうに僕はそう思ってたんだろう。
俺は大学に帰ってきた。やりたい勉強を無我夢中でやった。気づいたらアニメもゲームも関わらなくなっていたし、バイクはまた乗り始めてしまったけれど、月月火水木金金やれるだけのことはやって外部の大学院も決めた。
本当に俺は俺にはそれにしか価値が無いと思ってやっていた。学年がひとつ下のやつに囲まれながら、通学片道二時間半でも、自尊心がボロボロになってもやった、就職したほんとの同期のやつに飯に誘われるのも辛かった。
当然周りの同期の子は見てすらいなかった、俺は彼ら以下だと思っていたから。
何であの子は俺に声を掛けたんだ、飲み会で潰れてる俺に水を渡したんだ、なんでその後も俺にずっと声を掛けてきたんだ、何で俺の事を尊敬してますなんて言ったんだ…
僕は恋愛する価値もないゴミのキモオタだとずっと思ってきた、自信がなかったんだ、自分に。
結局、目の前のことに必死になってるふりをして最後はずっと彼女のことを見ていた。
最後の発表が終わって今まで浮いたことをしたことなんてなかった俺は勇気を出してデートに誘った、とんとんで二回も遊べた、とても幸せだった。卒業式の後にだって会う約束もできた、プランだって二人で観光雑誌を眺めて決めた。
自分だって幸せになって良いんじゃないか、ゲーセンでガンダムやってた頃がなんてクソだったんだと。
こんなに面白いものだったかな、かなり思い出してきたぞ、今度はもっと話せそうだ。そう言えばドリフターズもアニメがやってたのだ、これを機に見てしまうか…
あまりに凄すぎたので、とにかくこのホットな感動を伝えたいという衝動に突き動かされて今これを書いている。
もう本当に凄い。
クオリティという意味でもそうだし、面白さという意味でもそうであるし、何かもうこの映画の全てを総合して凄いとしか表現しようがない。
もう色々な人に出来る限り観に行って欲しいくらいに素晴らしい映画なのだが、その中でも特にオタク達に観に行って欲しいのだ、この映画を。
何故ならこの映画は普段のディズニーアニメのメインターゲット層であるお子様達よりも、素敵なお姫様と王子様とのラブストーリーに憧れる少女達よりも、大人になってもディズニーラブなお姉様方よりも、それらのどの層よりも、何より冒険と戦いと伝説の勇者にいまだに憧れる馬鹿野郎共にこそ深々と心にぶっ刺さる熱い熱い熱い映画であるのだから。
そう、この映画は大いに感動も出来るし、ハートフルな気持ちにもなれるという普段のディズニーの看板を全く偽ることなく、果てしなく広がる海を旅する冒険と、心を奮わせる激しい戦いと、熱き血潮と筋肉と入れ墨をも同時に詰め込んだスーパーマッチョアクション巨編なのである。
しかしこのまま熱く内容についても語り尽くしたいところではあるのだが、まだ公開して一週間も経っていない今そこまでネタバレしてしまうのは気が引けてしまう。
何よりこれを書いている目的はより多くの人にモアナを見て欲しいという気持ちからであるからして、そんな未視聴の人達から初見の感動を奪ってしまうのも忍びない。
なので、大筋のネタバレを避けつつ「モアナと伝説の海」という作品の魅力をいくつかピックアップして紹介していきたい。
1.ストーリーがいい
すでに巷では海のマッドマックスだのワイルドスピードだのと評判であるが、まずモアナは決してそんなインパクト重視な部分だけの映画ではないことを強く主張したい。
確かに途中から明らかにマッドマックスだし、終盤のセーリングバトルはまさしくワイルドスピードである。
そういう面がモアナのわかりやすくキャッチーな面白さであることは否定しないが、それらに劣らぬ魅力がそんな荒唐無稽な描写を単なるパロディやギャグで終わらせない骨太なストーリー展開にある。
序盤の展開を少しネタバレしてしまうことになるが、ここで軽くその一端を語らせて欲しい。
・村長である両親や周囲の期待に応え、村を継ぐという自分の将来がすでに決まってしまっている少女・モアナ。
・しかし同時に彼女は小さい頃から抱き続ける、海を越えて旅することへの憧れを捨てきれずにいた――。
ここまではディズニーでよくある抑圧されたプリンセスという構図であるが、モアナはここからが少し、いやかなりいつもと違う。
・しかし、村長の娘として過ごす内に、彼女が暮らす島には徐々に異変が現れ始める。
・島の命が涸れていく――。
・異変の原因は、今も口伝で伝わる神話の昔に起きたある伝説に原因があった。
・伝説は嘘ではない。海へ出ることを夢見るモアナの唯一の味方である祖母は、島に危機が訪れた今こそ彼女に真実を語る。
・島の先祖達の真なる歴史、そして島の中のとある場所に封印された船達。そして幼少の頃より海に選ばれし者であった自分の運命。
・島に、いやこの世界全てに危機が迫る今こそ、少女は己の運命と先祖から受け継いだ血に突き動かされて、封印された船を駆り、世界を救う旅へと出発する――!
そう、もう完全に少年漫画なのだ。ジャンプに連載されていても違和感がないほどに完全に少年漫画なのである。
何だったら船をロボットに置き換えても通じる。
飄々とした老人が語る真実。選ばれし血筋と運命。島に封印された兵器で世界を救う旅に出る少女。
まさしくロボットアニメ文法そのまんまである。そんな作品を見てみたいと思わないオタクがいるだろうか。
俺は見たい。そして実際に見た。凄い。この序盤以降も、もう本当に自分が望むままの血湧き肉躍る冒険活劇が繰り広げられるのである。
この時代にガッチリと、一分の隙も無く見事な、全く伝統的でブレることなく王道を真っ直ぐ突き進む冒険活劇が見られるのだ。
それこそが、そんなストーリーこそがモアナ最大の魅力であると、自分はまず自信を持ってオススメしたい。
そして二つ目のポイントもそのストーリーに掛かってくる部分なのであるが、「この映画は全くラブストーリーではない」というところをそれとして挙げたい。
そうは言ってもディズニーで、一応プリンセスが主人公なんだぜ? ラブストーリーじゃないなんてことあるの?、と思われるかもしれない。
自分のようにモテない独身男が一人で観に行っても全く闇を抱えることがない程に、清々しいくらいにラブストーリー要素は一切ないのである。(一応カップリング的なものはあるが、あくまでファンの受け取り方次第である)
前年度のディズニー映画「ズートピア」も恋愛関係というよりはバディものに近い関係性であったが、モアナはそれよりも更にバディもの、なんだったら師弟もののような関係性となっている。
一応に一応を重ねて今作のプリンス的立ち位置であるマウイというキャラクターは存在するし、彼と二人でモアナは旅をすることになるのだが、映画全編通して二人の間には一切恋愛を匂わせるような心の交流は存在しない。
しかしだからと言って二人の関係が薄いということは全くなく、冒険を通じてモアナという少女とマウイという英雄の間には友情のような、あるいは兄妹のような、あるいは師弟のような、固い固い絆が結ばれることになる。
そしてそこに恋愛というモチーフが一切入ってこないというのが、本当に爽やかで気持ちよく思えるのである。
恋愛的感情の一切無い男女のコンビというと「シュガーラッシュ」の例も存在するが、デフォルメの効いたキャラクター同士であるあちらよりも一人の人間としての形を色濃くデザインされた男女二人が恋には落ちないモアナはより珍しく映るだろう。
そしてそんな関係の二人だからこそ、シンプルに恋愛だけでない複雑な魂の結びつきを感じる余地も生まれ、キャラクターとしての奥行きを生み出しているようにも感じられるのだ。
独身男の心を傷つけない優しさという点だけではなく、そういう作品的な深みを生んでいる意味としても、ラブストーリーでないということはかなりオススメ出来る点であると個人的には考えている。
3.単純な悪役のいる物語ではない
これまたストーリーに掛かっているポイントであるが、個人的にもこのポイントは独立したものとして強く推したかったので語らせて欲しい。
さて、ディズニー映画と言えば必ずわかりやすいヴィラン(悪役)がいるというのが御約束である。
時には極悪非道、時にはコミカルで憎めない、そんな多種多様なヴィランがディズニー映画には登場するのだが、彼らはまた必ず物語の最後には主人公達に打倒されるものでもある。
単純な小悪党というパターンも多いが、彼らは多かれ少なかれ作品内の歪みを体現した存在でもあり、彼らが単純に倒されるだけでいいのだろうかというモヤモヤを残していったりもする。
それをして作品に奥行きと考察の余地を与えたり、現代における社会問題を反映させた構図としてみせたりするのがディズニー映画の一つの魅力ではある。
それは個人的にも長所ではあるとも思うのだが、やはり作品を見終えた後でいくらかの引っ掛かりや疑問を抱えたままになるし、それがあまり気持ちのいい感情ではないことも否定は出来ないだろう。
しかし、今回のモアナにはそれが一切存在しなかった(と、個人的には感じている)。
単純に歪みと闇を抱え、倒されるだけのヴィランというものが存在しないのである。
確かにモアナの冒険の途中には、モアナ達を狙う敵達が登場したりはする。
しかし、いずれも己の信念、というよりは生き方に基づいて立ち塞がるのであり、憎み合う敵というよりは障害物に近いものとなっている。
そしてその全てが憎めなくてどこか面白い、魅力のあるキャラクター達となっているのだ。
だからと言って、モアナという作品がそんなただ優しいだけの世界を描き、テーマ性の薄いものになっているのかというとそんなことも一切ない。
作品のテーマは最後まで一本筋の通ったものが存在しているし、それは様々なことを深く考えさせられるものである。
モアナを取り囲む世界も優しさに満ちていることは否定しないが、時にどうしようもない厳しさというのも十分に描かれている。
そして、この世界におけるこれまでのようなヴィランが体現する歪みというものは、モアナとマウイを含む全ての人物が己の心の中に持っているものとされている。
モアナとマウイは冒険を通じて自分の歪みと向き合うことでそれを打倒し、誰にも押しつけることなくそれを昇華する。
だからこそ、明確なヴィランの存在しない物語というものが存在し得るのである。
そして、そんな物語の迎える結末というものが、もう本当に、涙が出るほど清々しく、爽やかな気分にさせてくれるのだ。
何の引っ掛かりも疑問もなく、ただただ爽快感だけを残してモアナという作品は終わってくれるのである。
単純なハッピーエンドではなく、みんながこれからも考え続けていかなければならない。確かにそういう作品は大事だし、素晴らしいこともわかる。
しかし、たまにはここまで気持ちよく、優しい世界を描いた作品を讃えるのもいいではないか。
さらに加えてこの作品はプリンセスの不遇を描くに辺り、誰かしらや何かしらからの悪意が存在したりしないことも個人的には素晴らしいと思っている。
物語の序盤のモアナは抑圧された状況下にあることは確かなのだが、それは全て優しさと正当な理由があってのことなのである。
だからこそ、モアナの旅立ちのシーンが本当に胸を打つものになっている。
そしてそれはプリンセスの生い立ちや状況だけでなく、マウイという存在や行く手を阻む様々な困難の全てに単純な意地悪や悪意だけで構成されているものがない。
そういった部分も、この作品の優しさと爽やかさと気持ちの良さを支えているように思う。
作為的な悪というものが存在しない点。それもまたこの作品における重要なオススメポイントとさせていただきたい。
これについては今更自分のような者が語ることはないほど周知されていることだとは思うのだが、それでも今一度ここではモアナの魅力としてオススメさせて欲しい。
そして透き通るような美しさを持ちつつも精巧な絵画のように鮮やかな色をも見せ、生き物のようにうねる、これがアニメーションで可能なのかと驚愕しきりの海の表現。
愛くるしくも時に凜々しいキャラクター達の活き活きとした表情と動き。
そして何より激しいアクション! グリグリと動きまくる格闘戦! ド迫力な神と英雄のバトル! 躍動する筋肉! 精緻な美術設定によって作られた変態改造船舶!
もう枚挙に暇がないし言葉も足りない程に美しくて活気に満ち溢れた、そして過激かつマッチョなモアナの世界がスクリーンの向こうには広がっているのだ。
なのでこれはもう是非ともディスク化を待たずに劇場へ足を運んで、ドデカいスクリーンでこの映像美を拝んでいただきたい。
そのマッチョでマッハなアクションにはとてつもなく興奮することは間違いないし、そのあまりに美しい世界観に感動することもまた間違いがない。
特に予告編でも一部見ることが出来る夜の海を光る船団が行くシーンは本当に、本当に美しすぎて溜息が出るので絶対に劇場で見て欲しい。
そして海のマッドマックスと呼ばれる所以たるシーンも併せて是非。いや、マジでスゲーのよ。
5.挿入歌の使い方が最高
これもまあ今更自分が語るようなことではないと思うのだが、それでもあまりに感動したので書かせて貰いたい。
劇中歌の強さで天下を取ったディズニー作品と言えば「アナと雪の女王」が記憶に新しいが、個人的にはモアナのそれはアナ雪に勝るとも劣らぬ力があると感じた。
その上で、更にアナ雪よりも強いモアナの要素として劇中歌が挿入されるタイミングがとにかく最高ということが個人的には挙げられると思っている。
アナ雪で一番有名かつ作品のテーマソングともなっている「Let It Go」であるが、実は劇中での使用は一度のみなのである。
それもエルサが城から逃げ出して自身の能力で氷の城を作り上げるという、映像的には圧巻の美しいシーンではあるのだがタイミングとしてはいまいちカタルシスを感じていいのか微妙な部分で使用される楽曲であった。
対してモアナにおけるメインテーマソングである「How Far I'll Go」は、作中で数回に渡って使用される。
そして、それは主人公であるモアナが悩む時、壁にぶつかった時に、己を慰めるように、あるいは鼓舞するかのように歌い上げるのだ。
この劇中歌の流れるタイミングと、ストーリー的なカタルシスの一致がとにかく素晴らしいのである。素晴らしいシンクロ具合を見せてくれるのだ。
そしてこのテーマソングが一度ならず幾度も使用されるというのもありがたい。
作中のシーンに合わせて幾つもの曲を書き下ろすディズニーにしては珍しいしそこを欠点に感じる人もいるかもしれないが、一つの曲を大事に使ってくれる今回の方が個人的にはより好みであった。
そして何より言うまでも無いこの「How Far I'll Go」という楽曲自体の素晴らしさ。
切なくも力強いこの曲のサビの部分は、何度も使用されてこの歌を覚えていくことで作品の後半に進む程により心を震わされ、感動させられる作りになっているように思える。
更にモアナ役の吹き替え声優である屋比久知奈さんの歌声もこれまた最高で、これがあってこそと思えるものであり、この歌声と曲が合わさる相乗効果は本当に言葉にならない。
そして無論、「How Far I'll Go」以外にもモアナには素晴らしい劇中歌の数々が存在しているし、それらの使い方も言うまでもなく素晴らしい。
特に「We Know The Way」という曲はこれまた複数回使用される曲なのだが、映像と力強いメロディーとを合わせて自分の中の冒険心というものをこれでもかとかき立てられる素晴らしい曲であった。
とまあ、とにかくモアナの劇中歌は「曲自体の素晴らしさ」、「それが使用されるタイミング」、「その曲を覚える程繰り返し使用してくれる演出」と三拍子揃ってとてつもない感動を与えてくれるものとなっているのだ。
そしてそれを劇場の迫力ある音響で堪能出来る至福といったらもう、是非とも映画館に足を運んで味わって貰いたい。それ程大きなオススメポイントである。というかモアナでも極上爆音上映とかないですかね……。
さて、以上が自分のモアナという作品で素晴らしいと感じたポイントであり、オタク達にオススメするポイントである。
いかがだろうか、正直書いてる内に止まらなくなって自分でもちょっと引くほど長くなってしまったが、それくらい情熱に任せて書いてしまえる程モアナという作品は面白かったのだ。
なので、これを読んで少しでも食指を動かされた人には、本当に是非、すぐにでも劇場で観ていただきたい。
というか今すぐ観よう、今日のレイトショーで観よう、明日のレイトショーでもいい、休日は言うまでもなくモアナで予定を埋めよう。
誰に何を言われたからでも、観覧特典のような配布があるわけでも、ディズニーから金を貰ったからというわけでもない。
ただただあの優しくも熱い冒険の世界をまた味わいに行きたいからである。
そしてこれを読んでいる皆様にも、是非ともそれを味わっていただきたい。
純粋にそう願いながら、この文章をようやくここで終わらせることにしよう。
いや、やはり最後にもう一度。
…
……
………
…………
……さて。おまけで、かなりネタバレになってしまうがもう一つのオススメポイントを書き残しておきたい。
6.特殊性癖
巨女こそが女神の姿であり、自然であり、豊かな緑であり、巨女が島となり、大地となり、命を生む!
この映画は紛れもなく巨女信仰映画であり、子供達に巨女属性を幼い頃より刷り込ませ、更に一般的認知をも拡大せんとする目的で作られた映画であることは間違いがないだろう。
http://webseeya.com/2015/03/27/hell-camp-2weeks/
管理者を養成すると聞くと、どんな訓練内容を想像するだろうか。
タスク管理・時間管理の方法、役割の振り方、問題解決の考え方…
素人でもこれくらいのことは思いつく。
しかし、この管理者養成学校の訓練内容は全くそういうものではないらしい。
足並みを揃えるために自分を殺す方法を学ぶのだろうか、むしろ被管理者養成学校である。
ここに日本の管理部門がクソだと呼ばれる所以があるのだと思う。〇ニー、シャー〇、〇芝…etc
マネージメントとは精神論でどうにかすることだという考えが根底にあるのだ。軍国主義から変わらない経営の在り方だ。
タスク管理、問題発見、問題解決は二の次三の次にされているこんなマインドでは日本の管理部門が他の先進国に勝てるはずがない。
大別
3トランプを否定的にとらえた上でのトランプ支持者と断し、今後の日本を憂う
(前提として脱線→トランプは本当にそういった人々からしか支持されていなのか。トランプの良い面は全く見ないようにしているかのように見える。)
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htnmiki 良い悪いとは別に、この問いを無視することはトランプ誕生に繋がるよね。衣食足りて礼節を知る、貧すれば鈍する、理屈じゃない
同時にこのコメ主が貧して鈍じたとも言っているようにもとれる。
解決策を提示はしておらず、トランプの当選をネガティブと捉えている。
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rgbv お前らが結婚もできず子どもも作れず必死に働いてるのは外国人がいるせいなの?追い出したらトントン拍子に結婚できて子ども授かって給料うなぎ上りになんの??日本死ねって叫んだ方が健全なんじゃないの???
リベラルはバカが嫌いだ。バカ、特に合理的でないことや非論理的な事など。
コメ主の言ってることはただの逆恨みだ!と言っているが、嫌いという感情によって批判しているため、他のコメントによって感情によって批判したことを批判されている。
また、バカを掘り下げて精神的貧困や、貧困によって引き起こされる問題と捉えることによって庇護の対象として組み込もうというコメントもみられる。
3
yunitaro 典型的認知の歪み。貧困から家庭を持てないならそれは経済政策の失敗であり行政の責任。責めるべきは政府であって外国人ではないし、明後日の方向へ抗議をしているから行政も変わらない
→リベラルからみたら全くもって正しい理屈だが、その実、対象者(精神的or知性的貧困者)の思考に即していないことを指摘されている
「責めるべきは政府であって」政府をどう責めるべきなのかを補足してコメ主と語り合ってほしい
→これに対する批判
netonlinejob ブコメの「経済政策の失敗であり行政の責任」とか言い出したら、外国人排斥政策を支持する政治家が台頭するだけだと何故わからないのだろう? 認知の歪みという指摘は逆ではない
→政治に転嫁した場合、己が(リベラル側からしたら間違った考えをもっている人間)がそもそも自分の考えが間違っているという前提に立たないだろうという当たり前の示唆。実際に思考実験するとおそらく正しい。
lcwin この意見を自己責任論とせずにうまく寛容とリベラリズムに沿ってゆるく導く発言をすることが今求められていることかもしれないんだよなあ。本当に難しい。
hanyan0401 「結婚も出産もしようと思えばできる」という自己責任論に、弱者男性、いわゆる「キモくて金のないおっさん」が、「金のないフィリピン国籍の妊婦」ほどには弱者として顧みられないという現実を垣間見ました。
augsUK ここに自己責任論なんだ。救うべき対象の選別をする権利が欲しい人が一定数いるなあ。さらに、救われない対象を叩くことを楽しむ人が主流派になってる。
→この人のを自己責任として切り捨てるのはちがうのではないかというリベラルの内省が垣間見られる。では自己責任とは、何が自己責任なのか。コメ主が置かれている現状がってことなのだろうか。おそらく違う。リベラルが自己責任として切り捨てるのは「知性のなさ」だ。自分は頭がいいと思っていて、バカは自分で改善されるべきものという思想が根底にあるのかもしれない。
kirifuu これを自己責任で切り捨てるのが今の日本の現実だからなぁ。セーフティネットと言っても難しいのだけど、あざ笑ったり叩いたりするような発言ではあるまいよ。
kasugano ここに自己責任論が出てくるの本当に地獄だよな。異性獲得弱者のオッサン相手になら何言ってもいいと思ってる連中がワラワラと湧いてくる
awkad まさに「キモくて金のないおっさん」問題。キモくて金のないおっさんは誰も哀れまないし、救われない。「自己責任だろ」を浴びせ続けられる。そしてどんどん歪んで沈んでいく
shira0211tama 問題切り分けるべきが正論かもだけど切り分けると自己責任論で各個撃破されるんじゃ? これだけ他を引っ張って来ないと辛いと言えないし、これだけ引っ張ってもボコボコにされる闇
dongdeng 弱者の味方を自称するリベラルがなぜキモい金のないおっさんに寄り添わないのかわからなかったが、人気のブコメを見ると差別を行なってる仮想敵に無条件に見下せるおっさんを置いてるからなのかなと思った
→確かに、、、どうやらリベラルどもには、救うべき対象者は、経済的に貧している人間であって、知性的、あるいは精神的に貧困している人間は救う対象にはなりにくいようだ。それはリベラルのアイデンティティのベースにの「批判」があるからかもしれない。そしてその批判の対象に知性的貧困をするのが手っ取り早いからだろう。
CelestialFire 努力すれば結婚できるなら誰も困らないんだけどな。普段は自己責任論を心底嫌ってるくせして、「キモくて金のないおっさん」には平気な顔して自己責任論を押し付けてくるリベラルのダブスタにはいい加減うんざり。
cloq 貧乏自己責任論者の頬を金でひっぱたいて黙らせろ案件
danaca この人を叩いてるはてブ民を見ていると、はてブ民は弱者の味方ではない事がよくわかるよね。はてブ民は「助けたいと思える綺麗で気持ち悪くない弱者」を助けたいだけで、決して弱者の味方ではない。
→ここでいう「気持ち悪くない」というところがやはりダブスタと言われる所以だろうし、リベラルの内包する自己矛盾かもしれない。
(先に断っておくが、彼はとても偉いと僕は思っている。これだけ批判されているのを認知しておいて、自分のコメントを消していないのだから)
dj_superaids 結婚もできず子どもも作れず、と必死に働いてるの相関関係が理解できなかった。かわいそうだな、とは思った。
→この指摘のとおり本来相関はない。だが文章の読み方を逆にしてある補語を補うと、「必死に働いているのに、結婚や子供を持てるほど稼ぐことができない貧困にある」
という彼の中では実際に因果が生じているのかもしれない。
しかし、フィリピン人を批判することと結びつけることで、知性的、精神的な貧困になった。なぜコメ主はそのような結びつけをしたのか。
kirifuu 結局救われる優先度の最下層に自分がいるって自覚がこの発言を生んでるんだろう。この発言を叩くのは簡単だがそれは割と社会として末期的だと思うね。
→このコメントの言うとおりだとすると、他の層が見えていない問題。これだと根深い
T_Tachibana 主 語 が で か い 。 金が無い事と結婚出来ない子供が作れない事はイコールじゃないって本当は気がついてるんでしょ。
crapman 一切同意できないがこの叫びの理由を考える必要はある。世代別の保有資産を見てもわかるけど、日本の若者世代は世界一相対的に金がない。世代間で分配が進んでないという叫び。だがフィリピーナにあたるのはよくない
→本当だとしたら興味深い話だ。
totoronoki あの人を救ったら次はおれの番だ、じゃないんだよな。他人が救われても自分は絶対に他人の手によって救われないという確信があるから露悪的になれる。
baikoku_sensei 弱者同士は連帯せず、自らの待遇改善より他人の改善を妬むのが現状。全体の格差是正より「俺たちを優遇しろ」の声を拾い上げ、扇動して支持を集めたのがヒトラーやらトランプなので、感情論を持ち込むべきではない
→慧眼なのに感情論を持ち込むべきではない、という結論ではなぁ。わかり合うためにはどうすべきかを提示してほしかった
tGsQqV この発言をした人が困っていることと、この外国人女性が困ることにまるで因果がない。 例えば、自分が別の理由で本当に困ったときに他人から難癖つけられて適切な手当てを受けられられなったら…なんて考えないの?
→実に正しくリベラルチックな考え方に見えた。
mamezou_plus2 子供作って生活保護受給すれば良いじゃん?何故出来る事をしないのに僻むのか?結婚も子作りもやろうと思えばできるよ?幸せかどうかや自分の基準を満たしてるかは別として。
→それは違うんじゃないか?社会を構成する一員として、自覚をもってる面があって、それだからこそのフィリピン人への妬みだとか恨みになってるわけで、それを取っ払えばいいじゃん?って言っちゃうと社会が崩壊するわけだから、彼の我慢が社会の安定に資するところであることは評価しなきゃ
地球連邦宇宙海兵隊が開発した、過酷環境における機動歩兵用強化防護服。
外惑星における高低温・低酸素・放射線から人体を保護しつつ、戦車に匹敵する装甲とジェットパックを駆使した高い機動性の両方の実現に成功している。
パワーワードスーツ部隊は4人1個小隊を格納したカプセルで目標地点の超高高度に接近した強襲揚陸艦から降下、作戦遂行後集合地点に設置した脱出ポッドで母艦に帰還という戦術を採用する。
パワーワードスーツ両肩のアタッチメントレールには作戦内容に応じてミサイルを含む多様な武器を装備することができ、火力による意図しない同士討ちを避けるべく歩兵同士は互いに1000メートル以上の距離を取りつつ行動するため、味方の状態は母艦を経由したHUD上のコマンドメッセージでしか把握することができない。これにより、戦況が悪化すると機動歩兵は強い孤独感と恐怖に苛まれる。パワーワードスーツ部隊が宇宙海兵隊最強の部隊でありながら大量のPTSD患者を出す所以である。
PTSDにまでは至らなくても、作戦終了時の歩兵のストレスは相当なもので、「無人在来線爆弾」「フレンズ細胞」「野沢雅子におしめを取り替えられた大塚明夫」「機密情報は紙でやりとり」「ヤリマンボウが新潟に漂着」「民意に反して支持を集める」など意味不明の言葉を皆一斉に口走るのが当たり前の光景となっている。
この節ではライブ音源を礎と築いた伝説とまで称されるマイク・ミラードという人物を紹介しよう。
彼自身に関してはWikipediaをはじめとして、雑誌の特集や個人のブログ記事を通して幅広い話題があるので人物名のみの紹介で割愛する。
前節でも話に触れたマイク・ミラードが伝説のテーパーと言われる所以は、何も伝説と称される名演を残したことだけではない。
本人の意図せぬ部分である可能性はあるが、彼の歩む足跡に付随したテープ・トレード文化の発展に貢献した軌跡である。
本稿はテーピング・ポリシーに則ったアーティストのテープ・トレードの文化に対して触れることはない。
確固たるシステム、または精神が介在することのない海賊版の流通経路、関わる人間達の側面に対して潜考するための草稿である。
容赦願いたい。
マイク・ミラードがパラノイアと誇張表現を得るまでに至るには、収集家、好事家といった類の人種が関与する。
聖地と呼ばれる西新宿で販売される製品も、データを取り出した後は製品としての価値が形骸化する。
生産数が限られた廃盤製品とは違い、複製されることが前提であるブートレグは実物として鑑賞に耐えうる強度を持たない。
昨日の日付の演奏も、インターネットの海を眺めれば数時間もしない間に流布されたライブ音源を入手出来る。
それは砂浜に漂着した瓶詰め入りの手紙のように。
収集物に関しては興味を持たない人間には一銭の価値も感じられないものが多い。
生前の身内のコレクションを二束三文で手放したという事例を耳にする限りでは少ない話ではない。
"事物が本来の実用的な機能から切り離されて日常とは別の体系に組み込まれること"という哲学者が打ち立てたコレクションの定義を借りて、ブートレグ・コレクターを表するなら鑑賞を前提としない膨大な演奏の記録を持つ人種である。
だが、彼らのコレクションがアーカイブとして日の目を見る日は来ない。
密造酒は興味を持たない人間には味を噛み締めながら酔うことは叶わない。
それは味を理解出来る人間にしか味を説明出来ないことでもあり、コレクターが希少価値を訴える相手が同種の人間に限られる。
マイク・ミラードは自身の録音が外部に供給されないようにテープにデジタル信号を付加するなどの工程を経た。
それは自身の録音のコピーが出回った際に誰が流布したか把握するように念を押した作業であった。
現在では容易にミラード・テープを見つけることが出来るが、当時は残したアーティストの演奏の内容、また入手のし難さから数多くの好事家が録音を欲した。
中には彼の死後に彼の生家を訪ねた者もいるという。
趣味で集め始めた者がいつしかコレクションの穴埋めをするという脅迫観念に囚われ、寄生した。
彼が懸念した事態は奇しくもミラード・テープを愛する人物達からの評価と、年月を経たテープ・トレード文化の発展の影に忘れ去られた。
市場が介在しない空間で語られる希少価値という曖昧な価値観に汚染された人種はやがて、パラサイトとなる。
マイク・ミラードが残した同時期から日本でも同じ状況であり、秘密裏に録音された多数のライブ・テープが存在する。
古くは音楽雑誌での投稿コーナー、インターネット黎明期に於いてはファイル共有ソフト、好きな内容を書き込むことの出来る掲示板まで、ライブ会場で知り合ったアーティストのファン同士の交流から、現在ではSNSまで水面下ではあるが数多くのブートレグが生産され、流通する。
Dead Headsに倣うように群れを成して活動した録音者達が、日本のアーティストの録音を販売したことで逮捕される事案も聞かない話ではない。
YouTubeから連なる動画共有サイトでも初期の段階では、日本のアーティストの動画も数多く見受けられた。エンコード情報を消す手段を知らない者から得られなかった者に供給される状況は、テープ・ヴァインに連なってコンパクトカセットかDATを使用しダビングによる劣化する状況を再現する。
とあるアーティストのニコニコ大百科の項目では、ブートレグの存在を明記されるほど動画共有サイトの発展は影響を及ぼした。
ともあれ、YouTubeでも著作権侵害での削除要請が相次ぎ、現在では日本のアーティストのライブ録音を公に聞ける場面は少ない。
コンサートワッチを嗜む人間は録音現場であるライブ会場で知り合うこともあり、時には機材者の駐車場の取り合いになることもある。
デビューを前提に結成されたアーティストではデビューからブレイクに至るまで、また精力的に活動する現在までの公演の80%の記録が現存すると言われている。
現在ではマスタリングの手法が容易になったこと、高品質の内臓マイクを備えた録音機材が安価であることも鑑みると簡単にミラード・テープに匹敵すると言っても過言ではない録音を生産出来る。またスマートフォンの流行による簡易的な録音も存在する。
特に売上の上位に列なるアーティストの大規模なツアーが行われる期間には、音楽交換掲示板の投稿の量も膨大に膨れ上がる。
彼らの多くはメールで連絡を募り、アップローダーを利用したオンライン・トレードを行う。
海外ではDimeを中心とした界隈があるが、ライブ会場に足を運べなかったファンが、その日の間に新しい演奏を聞こうとするのは日本でも難しいことではない。
時にテーパー、トレーダーの各種が集う場所には目的の物を耳にすることで出来なかった愚痴や被害報告の類も見受けられるが、
ライブ会場でのアナウンスにもあるように禁止行為ということを理解しながら禁忌に触れようとする連中である。
善も悪もないのが前提だ。
表立って行動しない録音者から音源を入手した後に、希少価値を訴え、人の褌で相撲を取るトレーダーも一定数はいる。
マイク・ミラードが至った思考は時代のうねりを渡ろうと、現在のテーパーにも精神は濃厚に受け継がれる。
( 4 ) 決別
筆者自身も隠しもしないがテーパーであり、コレクターでもある。過去形だが。
ひとつの音声ファイルでも再生時間は数時間になり、非可逆圧縮音源だとしても保存容量は比例して肥大化する。
ブートレグを入手することのメリットを語るとすれば、自身の生前以前のライブ音源を聴けることや限られた会場でのみ披露された楽曲を聴けることであろう。
だが、マイク・ミラードが録音を残したことは後世を憂いてのことではない。彼は自身の録音が拡散されることを望まなかった。
彼の近親者のみが入手したfirst-generation copiesと呼ばれる最初のコピーは、彼の直筆のイラストや文字が散りばめられ包装としても凝ったものであった。
簡素なダビングでも済む作業に余計な一手間を付け足したのは、彼がパラノイアであったからではない。
喜ばせることを前提として、実物としての鑑賞にも耐え得る付加価値を生み出そうとしたからだ。
複製の芸術でもある写真を表現手段と選択するアーティストは生産数を限定して、価値を高める。
現在、流通するミレード・テープのコピーに彼の意思は介在しない。
それは現在でも同様に個の間柄から逸脱しては配布されるブートレグに於いては録音者自身の意図は抜け落ちる。
ミラード・テープの精神はテープ・トレードの文化で生まれた星の数ほどあるブートレグにも共通する。
またテーピング・ポリシーを持たないアーティストのファンの間では、流通しないライブ・テープを持ち合わせないトレーダーは相手にもされない。
テーパー同士の限られた関係性の中でしか交換されることのない録音も存在する。同時に寄生虫は繁殖する。
自身の経験を振り返っても、総再生時間にして年単位に匹敵する膨大なライブ音源を耳にすることはない。
愛着と思い入れのあるブートレグ、またはテーパーとしての自身の録音を耳にすることの方が有意義であろう。
ライブ音源を耳することの最大限の感情の再現性にある。時にライブ会場の音響よりも優れた音質で聞かれる演奏には違った感情が湧き上がるかも知れない。
アーティストの込めた感情は違った形ではあるにしろ、いつか聞きたい者の耳に届くことだろう。
パラサイトから見れば喉から手が出るほど欲するブートレグの大半のデータを削除した。
人生を賭けて手に入れようとしたライブ・テープを入手した時から遅かれ早かれ決断しようとしたが、この瞬間に決別をしよう。
ミラード・テープは彼の友人のために。何より彼自身のためにある。我がテープは我が友のために、誰より私のためにある。
Thank You Tapers. I Love You Baby. Fuck You Traders. I Hate You Baby.
○朝食:ヨーグルト
○夕食:一平
○調子
まあ、仕事は疲れるものなので、それなりにそれなりにこなした。
一応、今週から忙しくなるので、頑張るぞいや。
●DS
2Fを攻略中。
FOEって言って、基本はランダムエンカウントのこのゲームに、突如として現れるシンボルエンカウントの敵。
どうも、自分が歩いたマップの箇所以外は、シンボルが見えないらしく(最初のはチュートリアルだからサービス?)、突如出てきてビビる。
で、これが超強い。
昨日書いた、自分のアルケミスト(魔法使い)の職業についてる「ヤマちゃん」の必殺技「大爆炎の術式」を使っても、半分もHPを減らせれない。
「まあ、勝てんじゃね?」と思って挑むも、ボッコボコにされて、なんとか逃げるも、帰り道に毒アゲハの毒にやられてゲームオーバーになった。
いや、FOEが強いのはいいけど、この毒アゲハの毒も大概強いな、HPの半分以上持ってかれたよ。
まあ、別にタイムアタックや低レベルクリアをしてるわけでもないので、気長にレベルを上げようと思う。
イマイチまだシステムをわかってないから、スキルの割り振りとか、かなり無駄がありそうだ。
●3DS
自分でもまだとれそうな、ぼうしチケットがあるので、もう少しプレイは続ける予定。
ログボのみ。
○ポケとる
一応、メガスキルアップはもらえそうなので、メガレックウザを完全体にできそうだ、楽しみぞいや。
ログボのみ。
下手に自己分析とかし始めると
と無気力になって、貴重な10代を蔑ろにしてしまう可能性もあるよ。
まあ自分のことだけどね。
ルックスは、良くて三浦春馬(14歳の母とか出てて影のあった時代、全然顔は似てないよ)で、
大抵は実写版ちびまる子の藤木だとか言われるような陰気な感じ。
教科書なんて絶対開かなかったし、同級生に会うのが怖くて外出は極力避けた。
親から再三「不登校になると社会からドロップアウトする」と言われたからか通学はやめなかった。
進研ゼミを暇つぶしに解くだけで平均点+10点ぐらいは最低でも取れるというレベル。
学年順位で言えば240人中30位以内。増田と比べるとちょい下くらいかな?
本気出せばもうちょっといけるはずでそれが強みになると思ってた。
だから2年生の2学期からはテスト対策だけはそれなりにするようになった。
それ以上あれば文句なしに頭が良いと言えるはずで、当時の俺にとって絶対的な指標だった。
提出物を全くといっていいほど出さなかった俺の評価はズタボロだ。
三者面談を重ねる中で偏差値60以上の学校はまず無理だという現実を突きつけられた。
自分の決めたあの偏差値のラインは、俺が頭が良いという長所を有するための最低条件だったのだ。
それをクリア出来ない以上、唯一の長所を手に入れることは叶わない。
その時はそうとしか思えなかった。
なんの取り柄もないゴミである為、誰からもまともに相手にされずぞんざいに扱われるのが相応な人間なのだ。
そんな人間が努力したところで何もなさないことぐらいは俺でもわかる。
そんな風に考えていた。
俺は自分がなんの取り柄もないゴミであることが確定してしまったと思い込んだのだ。
勉強もろくにせずに挑んだ受験でちょうど偏差値60の高校に合格した。俺は嬉しいはずもなく、周囲のねぎらいは嫌味にすら感じられた。
高校受験で自分を開花させることができなかった俺は、自分に降りかかる不快な体験は全て自分のせいなのだとし、終始無気力で情緒不安定な鬱屈した高校生活を過ごした。
高校は地元町からそう離れていないので同じ中学からの進学者は二桁以上になる。
彼らが中学時代の俺について有る事無い事広めてくれたことおかげで、中学時代に塾や部活動に関わることが少なく他校生との交流がなかった俺は瞬く間に孤立した。
幸い部活や学外で友人はできたが、終始教室内では嘲りの対象で、「こいつがいるとその場が陰気臭くなる」「こいつさえいなければいいクラスなのに」と後ろ指をさされながら十代後半の3年間を過ごした。
ゴミだなんだと卑屈になった俺はやはり勉強に身が入らず、先生の助力のおかげで留年もなく、なんとか大学への進学を決めて卒業した。
今思えば入学時にそこまで卑屈にならなければいけない所以などなかった。馬鹿にされるところはあったにせよ、こんな俺にも魅力となるところもあったろう。
そんな自分を愛する心を、おぼつかない中学生の思慮で排斥してしまったのだ。
俺が中学生に何か言えるとすれば、下手に自分を分析なんかするなと言いたい。
自分が思っている以上に社会には様々な価値観や世界があって、君たちが見て来たものだけで自分を規定してしまうのは勿体無いと。
君たちの間でまかり通っていることが必ずしも正しいわけでないとも言いたい。
分析ということは他人にわかるよう簡潔にまとめあげるということだ。
自分のことは自分しかわからないし肯定もできないのにそんなことしていいのか?
分析なんかしなくていい、ただ自分の気持ちを自分で否定することがないよう努めればいい。
中学生ができることは、今じゃなくでもいいから、自分の気持ちに素直に行動できるように、卑屈にならないように、前に向かって進んでいくだけなんだ。
そして大人は10代の初々しい感性を傷つけないよう、挫けそうなときに優しく彼らの気持ちを受け止めてあげなければいけないのではないだろうか。
ポルノのポルノたる所以は,女性の複雑な主体性を無視して,その劇中での人格を観客である男性の性的興奮を刺激することにのみ隷属させることにある。
で,24時間テレビ〜バリバラ近辺で知られるようになった感動ポルノもまた同様に,障害者の複雑な主体性を無視して,その番組中の人格を観客である健常者の感動を呼び起こすことにのみ隷属させることを指している。
食欲ポルノというのもあるらしいが,それもまた,料理本来の複雑なありようを無視して,その映されかたを視聴者の食欲を刺激することにのみ隷属させることを言う。つまり,本来は不要なクリームなりチーズなりが,本来は不要なほどに熱せられて溶けしたたっていた方が美味しそうなのであればそう見せる,ということだ。
だからポルノか否かの違いは,岡田斗司夫が言うように安直であるかどうかにあると言ってもいいのだが,同時に彼が言っている「感動させようとしているかどうか」にはない。
そんなの,誰だって感動させようとはしている。
ただ,感動させようとするときに,時に失われそうになる題材の複雑なありように気づけるかどうか,気づいた上でそれを尊重するかどうかにこそ,ポルノか否かの分かれ目はある。
クライマックスでいかにもなBGMを流すのは安直だと,岡田は安直に否定するが,話はそう単純ではない。
例えば対位法はいかにも安直ではない雰囲気を可能にする手法だと言えるが,何故そうなのかといえば,例えば残酷なシーンであればそれが持つ複雑さの中にある悲しさや可笑しさをBGMに担わせれば対象の複雑さの一端が担保されるからである。
しかし,本当の現実に寄り添えば,そもそもBGMなんて流れないわけで,何かしら音楽を流した時点で対象の複雑さを毀損してるとも言える。BGMが流れていなければ如何ようにも解釈できたはずの対象に,一定の方向付けをしてしまうからだ。
それでも,繰り返しになるが何かしらの芸術的作品を作るからには誰だって受け手に感動してほしいと思っている。ただ世界の複雑なありようが描かれていればそれが正義だというわけでもない。
もう一度言う。
感動させようとするときに,時に失われそうになる題材の複雑なありように気づけるかどうか,気づいた上でそれを尊重するかどうかにこそ,ポルノか否かの分かれ目はある。
つまり,例えば目の前の女性に対して,自らの性欲に隷属させようとして彼女の主体性を踏みにじるような,そんな行動様式で何かを伝えようとすることこそがポルノを作るという行為なのだ。
女性の,障害者の,料理(を丹精込めて作った料理人の心)の,その尊厳を一顧だにせず自分勝手な目的の手段にすることがポルノを生むのであれば,それはもはやレイプと言えよう。
感動ポルノに感動するということは,レイプの映像を見て性的興奮を覚えるのと同じくらい,道徳的には救い難く,精神分析学的には,まあしょうがないのかもね。
ポルノのポルノたる所以は、女性の複雑な主体性を無視して、その劇中での人格を観客である男性の性的興奮を刺激することのみに隷属させることにある。
で、24時間テレビ〜バラバラ近辺で知られるようになった感動ポルノもまた同様に、障害者の複雑な主体性を無視して、その番組中の人格を観客である健常者の感動を呼び起こすことにのみ隷属させることを指している。
食欲ポルノ(?)もまた、料理本来の複雑なありようを無視して、その映されかたを視聴者の食欲を刺激することにのみ隷属させることを言う。つまり、本来は不要なクリームなりチーズなりが、本来は不要なほどに熱せられて溶けしたたっていた方が美味しそうなのであればそう見せる、ということだ。
だからポルノか否かの違いは、岡田斗司夫が言うように安直であるかどうかと言ってもいいのだが、同時に彼が言っている「感動させようとしているかどうか」にはない。
そんなの、誰だって感動させようとはしている。
ただ、感動させようとするときに、時に失われそうになる題材の複雑なありように気づけるかどうか、気づいた上でそれを尊重するかどうかにこそ、ポルノか否かの分かれ目はある。
クライマックスでいかにもなBGMを流すことを岡田は安直に否定するが、話はそう単純ではない、
例えば対位法はいかにもハイドラマな雰囲気を出す手法と言えるが、何故そうかといえば、例えば残酷なシーンであればそれが持つ複雑さの中にある悲しさや可笑しさをBGMに担わせれば対象の複雑さの一端が担保されるからである。
しかし、本当の現実に寄り添えば、そもそもBGMなんて流れないわけで、何かしら音楽を流した時点で対象の複雑さを毀損してるとも言える。
それでも、繰り返しになるが何かしらの芸術的作品を作るからには誰だって受け手に感動してほしいと思っている。ただ世界の複雑なありようが描かれていればそれが正義だ、と言うことでもない。
なるべく複雑さを保ったまま、感動に向けて受け手を誘導したいというのがすべての作り手の想いだ。
だからポルノか否かの分かれ目は作り手の意図にあると同時に受け手の読解力にもある。
複雑さが捨象されていることに鈍感であれば何でも(ターミネーターでも)ハイドラマに思えるだろう。
あるいは逆に、一般にはベタでも、敢えてそこに身を委ねる可笑しさや悲しさや、果ては残酷さなどをそこに込めることで、ベタなハイドラマを超える感動を生むことができる。逆か。感動を得ることができる。
苦しい発達障害の現状を伝えようと思う
彼は多動性の強いADHDだと思う。そして私は軽度のADHDだ。なぜ軽度と言っているのかといえば病院などで診断を受けているわけではなく自覚症状として勝手にADHDの気があると思っているからである。傾向を見ると間違いなくソッチの気があると自分でも断言できるのだが、ADHDテストなどを受けると辛うじてクリア(健常)してしまい、自閉的な強いこだわりであるとか衝動性は少ないので目に見える違和感は少ない。それゆえ今まで友人が出来、恋人が出来、定職にもありつけた。しかし、これが苦しい苦しい。
ADHDとはどういう病気かと言うと、キーワードクリックして詳しく調べてくれと言いたいところだが、簡単に言うと多動性と不注意性に分かれる。彼の場合は多動の傾向が強く、いわゆるお調子者、クラスでうるさいガキというやつだ。調子に乗ってウザいと嫌われるときもあれば、クラスのムードメーカーと愛されるときもある。しかしこの病気は、うるさく騒ぐことが面白いとウケる=認められる=嬉しいと思うあまり”やりすぎてしまう”ことが顕著で、決して迷惑かけてやろうと思っているのではなくて快楽に忠実に従って「どこでやめたらいいかわからない」だけなのだ。怒られたりして冷静に考えるとたしかに自分の行動はよくなかったなと終わってから初めて思える。彼の行動原理が分かるために切ない。アスペと違うのは空気や行間はわりと読める、でもやめどきがわからない。高難度の空気は読めないということになる。発達障害が高機能自閉症と言われる所以はここにあり、普通の生活は営めるんだけども細かいところが分からないのだ。でもこの「細かいところ」日本ではとても重要視しているために生きづらさを強く感じる。
私は不注意の傾向が強い。注意力散漫がどうとか学術誌には書いてあるが自分では注意力が散漫とは思っていない。知らない間に怪我したり忘れ物が多いとか遅刻をしやすいとかがあるけれどもみんなそんなもんでしょと思って生きてきた。しかしこの遅刻やらケアレスミスの頻度が多すぎるのだ。人間誰しも一度はミスを犯したり、忘れ物したり、寝坊してしまったりがあると思います。ADHDはほぼ毎日なにかしらやらかします。そうすると信頼を失っていきますよね。自己嫌悪に陥るからタチが悪い。いっそ脳の認知度レベルも落としてくれと思うこともある。それを許されないのがグレーゾーンのつらさ。私は遅刻魔のレッテルを貼られているし、大事なもの(ライブのチケット、パリのお土産、鍵、定期、財布)を幾度となくなくしてきた。平和な日本では財布や携帯を落としても大体の人が拾ってくれることを知っている。ディズニーランドのパスポートを駐車場まで持っていたのに入場前でなくして凹み、買いなおして貰ったが申し訳なく罪悪感で楽しめなかった事があった。
人間関係においてはからかってやろうと思うと行き過ぎてケンカを売っている状態になり嫌われる。でもからかわずにいられない衝動に駆られる。何の呪いだ
話を聞いていなく(聞いている途中で無意識に気がそれる)移動教室がどこのクラスで行われるかわからず授業時間始まっているのにもかかわらず彷徨い続けたことが人生で2度もある。
先読みが出来ない。モタモタ行動は遅い。帰りの会が終わり教室を1番に出ることは6年間皆無だった。
自分が生き辛さを強く感じ発達障害を疑いだしたのは大学生のころだった。大学生にもなるとゆとり教育などとも言っていられず自立が求められる、なにより友人知人の関係性がとても浅くなる。高校生までであれば今日は風紀検査があるよだの○○で移動教室あるよだの教えてくれる人が一人はいた。休もうものなら心配してメールの1本入る。だが大学生が授業フケこんで休むなんてザラにある。仲の良い友人だっていちいちメールしてこないのだ。私は始業日を1日間違え、無自覚のずる休みをしていた。それに気づいたのは翌日登校し「昨日なんで休んだんだよ~」と声をかけられてはじめて知った。ショックだった。大学では持ち物やレポート期限などをご丁寧にレジュメに発行せず口頭で伝えるものだ。手帳を普段携帯しないしメモってもそれを見ないので忘れ物の数が半端じゃなかった。また君か。やる気はあるのか。鬱になった。2限から始まる授業のほうが遅刻していた。余裕ぶっこいてダラダラ支度し、遅刻決定している時間に焦って家を飛び出す。そんなこんなで就活の時期になり自分が愚図なのを自覚していたので、誰よりも早く決めてやろう、そう意気込んだ。就活期間は3ヶ月、短期決戦で集中した。驚くことに志望していた会社にきまった。3年の11月ごろに決まっている奴なんか私くらいしかいなかった。
しかしうまくはいかない。見る目がないのでブラック企業にストレートインしていたのだ。めちゃくちゃ体育会系の会社にADHDの愚図が合うはずもなくいじめに逢い1年でやめた。1年がんばったのは逃げたくなかったこととすぐにやめるとその程度の能力しかないと思われ次の就職先に響くと思ったからだった。でもさっさと辞めればよかった。無理して働いたせいで心身共に病み、完全復活するまでに1年半掛かった。働いていた期間より長い。その後転職エージェントを使い再就職できたものの空白期間は当然つっこまれる。留学したとうそをついた。ADHDは怒られないようにうそを平気でつけるようになる。クズに拍車がかかる。ちなみにその1年の間に物は壊すわ顧客に失礼するわ遅刻もするわでいじめられる原因は自分が作っていることにうっすら気づきながらもミスは無意識に発生するためどうしようも出来ない。フォローもやりかたがわからないしうまくできやしない。リスクを未然に防ぐ想像力がなく、それによって起きたリスクに う ま く 対処できないのが特徴。
私が言いたいのは発達障害だからって有効な薬もなく対処療法になるし、一生ついて回るものだしどうにもできない。できるだけ健常なみなさんに広い心を持っていただきたく、我々もミスることを自覚して慎ましく生きなければならない。
発達障害って最近認知された言葉だけれど、急にふっと沸いた人種なのだろうか。
クラスに一人はやばい奴認定されていた奴がいたと思うが、あいつらは絶対にそう。でも特別支援学級に行くまででもない。
ほかにおっちょこちょいなやつ、忘れ物多いやつ、どんくさいやつ、こいつら全部軽度の障害。
ねえ、そう思ったら多すぎませんか。
なんでも規則でしばって、ちょっとでももたもたしていたら障碍児って、安直すぎやしませんか。窓際社員がいたっていいじゃないか。働きアリは全員が働いているわけではなく何割かはサボっていて、よく働いているアリグループを別のゲージにいれるとその中でまたよく働くやつほどほどのやつ、サボってるやつで役割が分担されるという。社会というのは何割か使えない奴がいて初めてうまく回るんですよ。私のようなかなりグレーなおそらく病名が付かないで”傾向”で済んでしまう人はずっとこれからの人生このまま生きていかなきゃいけないんですよ。働いて生活できるようにしないといけないし、結婚して家庭だってもちたい。発達障害は遺伝するから子を産むななんて悲しい事言わないでくれよ。人間やぞ。ショックなんやぞ。自分が障碍者かもって思ったことあるか。ガビーンだぞ。ショックすぎてむせび泣いたわ。これから先困難が予想されるけども、もう仕方ないから受け入れている。ひたすらメモにとってせめて忘れ物や遅刻はしないように気を使っている。
発達障害は往々にして鬱
高畑敦子の愛情によって、通常なら鬱を発症するはずが、裕太容疑者は明るいキャラクターを通している。
これってすごいこと、私は母親の教育は失敗に終わっていないと思う。
発達障害児は失敗行動が多いのでとにかく叱られたり嫌われたり自分でもやってもうまくいかないので塞ぎこみがち、というか凹むしかない。私は物心付いたときから割りと反抗的な性格もあってまわりからは規則を守れない奴とみられてきた。するとどうなるか。鬱になる。ずっと性格に卑屈な面が出てきてテンション低い、低度の鬱状態が延々続いていく。非行に走らなかったのは親が厳しかったためであるが鬱で息苦しい鬱蒼な毎日だ。高畑家はどうだろうか。おそらくやつの個性を認めて明るく育ててきたのだろう。途中まではうまくいっていたのになんとも悲しい結末だ。
ハメられやすい
私も若いころ経験があるのだが、予測行動を苦手とするために悪意を持った人間にハメられたり騙されたり非常にしやすい。そして騙されやすい。アホに違いないがアホっていうかなんというか知能テストはクリアするものの純粋ゆえに人を信じて騙されているんだろうなと思う。詐欺に引っかかる人、認知レベルが落ちている(高齢者など)か発達障害の傾向がある人だと思う。今回の事件、被害者は実際に被害にあっていると思うが、これまでもあいつならちょろいぜと美人局的な事件に遭っていそうだなと客観的に思った。
障害児の親も往々にしてそういう傾向がある。昔はお見合いだったから相手が不器用が過ぎる人間かどうか気づかず結婚していたのだろうと推測する。遺伝の可能性は否定できない。
また、高齢出産の影響も強い。卵子のタイムリミットをしっていますか。これはこの年齢を境に機能がガクっと落ちることを意味しているのだけれど、37歳なんです。今日本で結婚を意識する年齢って30歳前後ですね。仮に30歳の女性が結婚したとしてあと7年しかないんです。短くないですか。女性の社会進出や医療の発達などで晩婚・高齢出産をしても安心して生めるように環境はそろったけれども、肉体としてはあまり進化がない。元々人間の寿命は50年ほどでした。いたずらに長く生き過ぎているのかもしれませんね。精子も劣化します。男性は生涯現役だとばかりにジジイになっても性欲はおちないものですが、ジジイになればなるほど劣化します。精子が劣化しているとそれだけ不具合を持った子供が生まれやすい。福山雅治さんが先ほど第一子の妊娠を発表なされ非常にめでたいのですが46歳の精子はなかなかですね。顔はきれいだろうけれど、障害グレーが生まれる可能性高いです。イケメンは隠し子の1人2人いてもいいと思いますよw若いときに作ったほうがいい。
ここまで長く書いて何いいたいんだろうって話ですが、あまり糾弾せずちょっとどんくせえなくらいに受け止めてほしいということ。そして障害を持つものも幸いにして知能は高いのだから怠けたい衝動に突き動かされず、やるべき社会的行動にロジカルに対応すべき。ルーティーン作業ほどミスるので、日常生活をマネジメントしたメモをいたるところに張ってそのとおりに行動すればまだましかな?まったくの健常者だって忘れ物くらいするのだから、お互いがんばりましょうや、ということです。
1-1 序
情報空間でこれだけ匿名で思想が交換されているのに、その淘汰の中で哲学が生み出されるのは不自然ではないだろう。物理的空間に拘束されていた先人が、その環境に必要だと感じられた概念を生み出してきたように、物理的空間と情報空間に境界はない今の「日常」に、最適な概念の創出を理想に掲げた思想が生まれてしかるべきだからだ。逆に言えば、物理的空間に拘束されていた人々が生み出し且つ淘汰されてきた思想は、そのような外的環境における状況に最適なのであれば、現在の「日常」に当てはめるのには限界があるのだ。従って、物理世界と情報空間が統合化されつつある環境で存続する知性にとって最適な思想を、過去にとらわれることなく自ら模索するというのは現存の知性にとって急務であるとも言える。
1-1-1 情報空間と物理空間が融合化された社会における知性を対象とした思想の深耕、展開における前提条件
物理空間と情報空間の融合が前提の社会における思想を深耕、展開させるうえで増田をその場とする主要な理由は、その匿名性にある。つまり情報空間と物理空間が融合しつつある社会においては、ある思想を発した、または提起した特定の人間を神格化するというのは適切でないとの思想からだ。思想は往々にして人間に額面以上の価値を付加してしまう。そしてそれが多くの対立を生み出すのが常だ。だが、物理空間と情報空間が融合するという、従来では考えられることのなかった社会体系を人が享受しつつある今、この新たな社会体系においては人が思想を所有し、過去と同じような対立状況を生み出してしまうことは望ましいことではない。そしてこの発想自身、増田哲学における根本である。つまり、それぞれが匿名で考え方を晒し、取捨選択の中で淘汰されて生まれる思想を特定のひとが「所有」するという状態は生まれるべきではない。つまり 増田哲学において、その思想は物理空間、情報空間に関わらず「無所属」であるべきである。
更に言えば、生成される思想は、「静的」なものでなく「動的」なものである必要がある。たしかに思想の交換の中からは「不変のモノ」も生まれ得る。しかし、「更新」を前提にすることこそが、情報空間における相互依存が前提である知性社会においての哲学のしかるべき姿なのだ。
「更新」も前提にするべきものである。時代とともに、新たな情報が交換される中で新たな知がそこに統合される必要があるからだ。それこそが情報空間で生まれた「哲学」の所以である。
「拡散」、「改変」、「複製」、「転載」も自由だ。様々な、改変、解釈が行われていっても最終的に優れたものだけが淘汰されて残り、それが改めて集約されることで思想自体の「更新」へと繋がるからだ。
でありその均衡状態を念頭に、いずれそれを達成するために準拠しうる行動指標を示しうる思想を目指す。その本質的な部分は
恒久的視野からみた「大いなる良」を達成するうえでの「相互補完」
ということになる。「相互補完」とは各知性の「個」を尊重しつつも同時に「他」の存在なしには持続的存続はあり得ないということを理解し、「他」を「自」と実質的な「等価」として常時意識する状態を指す。そして、「大いなる良」とは、「相互補完」の意識が浸透した「個」が相互に、そして「全体」と連結することで、存在しうるあらゆる知性がそれぞれにとって最適な存続環境を作り出すうえでの均衡状態を持続的に維持することを実現する思想であり行動様式を指す。
増田哲学における「あらゆる知性」とは、物理的制約に縛られている存在、すなわち「限定知性」(以下、前述の制約に存在する知性について言及する場合のみ限定知性と呼ぶ)に加え、物理的制約から解放された知性の存在をも内包する。現段階においては、物理的制約から開放された知性が存在するという確固たる立証は存在していない。ただし、そのような存在が悠久の過去における一時期、もしくは未来永劫存在し得ず、且つ時間軸、空間軸並びに次元を超えて介入し得ないと断言することも否定する。また、これらの知性は「大いなる良」というあらゆる知性の理念達成の名の下に、間接または直接的に物理的制約に縛られ知性と交わる可能性も否定しない。これらを踏まえ、増田哲学において、思想を深耕、展開させる際は、これら全ての知性の良を意識したうえで展開していく。むろん「全て」などという概念は無謀であるということを認識しつつも、それを理想とするということをここに付記する。
http://anond.hatelabo.jp/20160805213252
ネット社会が普通になったし、そろそろそれにあった思想とかがうまれても普通じゃね?ネットが無い時代にうまれた哲学っていうのは、ネットと現実がひとつになるなんてことを考えていたわけじゃないから、いまの時代とフィットするわけがないよ。だからネットと現実がひとつになった時代に生まれた俺たちがゼロから考えるべきなんだよ。これまでのことはとりあえず意識しないで。
増田なんだから、これは俺たちみんなのモノっていうことで。あと、みんなで考えるから、過去、現在、未来と常に変わらない考え方も出るとは思うけど、基本、バージョンアップされるのが前提だよね。ちなみに、基本的ポリシーは、「ここで生まれる思想はそれに関わる皆に所属するということ」、「常に更新されるべきということ」、「コピペ、改変、新解釈、拡散、すべて自由」。あとは、増田の住民がそれが正しいかどうかを判断するよ。
増田哲学をとりいれることで、人間も、宇宙人も、A.I.も、クジラ、シャチ、イルカなど独自の言語体系を持つ高等生命も全てがハッピーになればいいよね。お互い愛し合って。出来れば永遠に。
あと、ふつう、みんながハッピーにっていうといま生きているものが重要だけど、138億年以上もある宇宙の一時期、またはこれから未来永劫、時間とか空間から解放された存在が絶対に存在しなかった、または、存在することは絶対ムリとは言い切れないよね。あと、時間や空間から開放されるっていうことは、何らかの形で現存する世界に介入をすることも。分かってる。これはかなりぶっ飛んでるよ。でも、これまで生きてきた数十億という先人たちが伝承してきた存在、つまり神とか菩薩、精霊とか、グレートスピリットなどなどとかいう概念も単なる「迷信」とかで片づけずに、いろいろ考えていくよ。