ナイキ ハイパーヴェノム ファントム III ダイナミックフィット FG とか言うのの広告が偶に目に入ってくるのだがイモムシに見えて仕方ない。
どっかで見たカラーなのだが名前が出てこないので画像検索したらGoogle先生がアゲハ幼虫かスズメガ幼虫が近いのでは?とおっしゃる。ふと思いついて他のシューズも検索かけてみると、やはり今回のNikeのカラーテーマはイモムシと判明した。苦手な人が多いモノをテーマにするってどうなんだろ?
あのクソババア
仕事分担してこう、振れるのは振ろう、
あと少し頑張ろうとか言うけど、
結局打ち合わせ終わる時のまとめで、
今まで話し合ったこと全部あなたやってねッテ行って言って帰るからクソ
って言えないなら、分担しようとかやるからとか言うなよ
大根の葉っぱまで食べるのは、貧しかったから。ちゃんと別に菜っ葉を育てられる農家は、冬菜とか別のおいしい菜っ葉を育てて食べていたものじゃ。
そっちから話を聞いておいて、
業界の話、知りもしないのに、
コッチの身内の話まで口出さないでほしい
こっちの身内の業界で働いてるわけでも、
たしかに年齢いってるはハンデかもだし、
染めにくさはあるのかもしれないし、
一理あるのはわかるけど、
年上に苦労したのかもしれないけど、
それにしたって、
そーーういうの、分野違いなのにいう?
やだなあ
なるほどありがとう。具体的にはがんばって赦すみたいになるんかね。
しかし信仰にはバリエーションがあるな。前増田に書いてた人は「神がいるのかどうかは分からないけど、キリスト教の価値観でしか自分は生きられないから信じざるを得ない」って言ってたよ。元増田みたいなのがスタンダードなんだろうけど。
なんのやくにもたたねーー
中味のないランキングや、なんの参考にもならない弱小ブログの運営報告、ブログのネタの絞り出しかたの薀蓄・・などなど
最近のはてブでは、本当に中味のないブログのブクマで溢れかえっている。
互助会って昔は、良し悪しは置いといて、もうちょっと情報量というか書き手のエネルギーが溢れてなかったかなあ。
この頃の互助会ブログって、どうしてあんなに中味のないことを書き続けるのだろう。
「1万PVこえましたー」「3ヶ月連続更新達成」「ブログネタがない時でも記事を作るコツ教えます」
・・・いや、無理しなくてもいいよ、誰もそんなの読みたいと思ってないから。アフィで食えるには程遠いじゃない。そんなの状況ひけらかして、自分に引き出しも想像力も洞察力も何もかもない薄っぺらい人間であることを改めて文字にして、何がそんなに楽しいのかなあ・・・
・・と、思ってたんです。
けど、最近なんとなくわかってきました。
あー、また互助会のブログ踏んじゃった、と気づかされるブックマークの並び。
面白かったです!⭐️⭐️⭐️
参考になります!⭐️⭐️⭐️
なるほど!そんな方法もあるのですね!!⭐️⭐️⭐️
これなんかに似てるなあ
ああ、そうだ。
これ依存性患者が集まって自分語りを共有することで依存性に立ち向かう集会でのやりとりによく似てるんだ。
今の自分をさらけ出し、それを否定されずに共有共感される場がある。それが生きる糧となる。
そうゆうことか。
ぼくはここにいてもいいんだ
おめでとー おめでとー
そう思えば、側からはおざなりの儀礼スター交換のための互助会に見えても、
本人たちにとってはコミュニティにつながっていられる貴重な、もしかしたら唯一の場なのかもしれないではないか。
うざければブロックすればいい。
そこがあることで救われる人がいるならばそれでいいではないか。
元増田です。
そういうことはあり得るかも知れない。
ただ、それを理由に「信仰を捨てる(信仰しない)」という風に考えるクリスチャンはほとんどいないと思う。
個人的な考えだけれど、キリスト教の信仰というのは、あやふやな神の存在を能動的に「信じる」ものではなくて、歴然と示された神の存在を受動的に「受け入れる」ものなんだと思う。
当人にとって、神の存在は純然たる事実のレベルなので、信じるも信じないも、もはや選択の余地がないんだよ。
だから、仮に日本でキリスト教を信仰することに何らかの問題(愛の理念から離れる、とか)があると感じても、まずは信仰の範囲内で解決策を模索する方向にしか思考が向きようがない。
この辺りの感覚が、まさに日本人にキリスト教が理解されにくい理由の一端だと思う。
一応補足しておくと、もちろん上記の疑問をキッカケに、神の存在自体に疑念を抱いて、結果として信仰を捨てるクリスチャンはいるかもしれない。
ただ、神の存在を確信したままで、それでも信仰を捨てるというチョイスを採るクリスチャンというのは相当レアなケースだろうと私は思う。
24時間テレビに始まり、笑ってコラえて、ケンミンSHOW、行列、さんま御殿等々……。
日テレ好きな家族がテレビのチャンネル選択権を有している関係で、嫌でも目にする機会が多くなっている。
日テレの番組は面白い。しかし、どの番組も優等生といった感じで、ある意味で安心して見ていられるが、教科書的な規範を逸脱することは(あまり)ない。
安心感というのは、日本社会での常識や価値観を、ちゃんと踏まえているということに尽きる。
ケンミンSHOWはそれが顕著で、特定の地方公共団体に対する印象(常識、価値観)を軸に、番組が展開する(Ex:北関東は云々)。
しかし、その常識や価値観そのものにメスを入れるようなことはしない。むしろ、偏見ともいえる常識を再強化しているようにもみえるのだ。
偏見を改めようとする試みも、「常識的に」行われるだけで、揺るがされることはない(Ex:しかし、素晴らしい特産物が云々)。
さんま御殿でのトークも、さんまの司会芸としてパターン化されており、ゲストの話はさんまの理解できるレベルに調整され、結果としてわかりやすい常識や価値観に変換されて終わりである。
多くの番組が教科書的過ぎて息苦しい。教科書的に振舞えと言われているように感じるのだ。世間一般の感覚に従えと。
24時間テレビでの障がい者は清廉であれという言外のプレッシャー。日テレの番組は、世間一般の感覚を強化する。
デブはデブらしく、ハゲはハゲらしく、イケメンはイケメンらしく。
日テレの番組は、そのズレを許さない。許されるのは、わかりやすい教科書的なズレだけだ。