はてなキーワード: 物理的制約とは
ゲームは好きだけどかなり長いことやっていない。
中学生の頃初代プレステやPCゲームを1日2時間くらいやりこんでた時期もあったけど、それ以降は2年に1回くらい何かのソフト買ってやるとか、社会人になってPS3をブルーレイプレイヤーとして購入したに過ぎず、気づけば20年くらいゲーム事情をまとまに追ってない。
YouTubeにも飽きてしまったのでここいらでゲーム機をまた買おうと思っている。
外出先でもプレイできるように小型ゲーム機が欲しいので私の嗜好に最適なモノをオススメしていただけると有難い。
ちなみにスマホゲーはやる気がない(低スペ中華スマホを当分買い換える気がない&課金ありきのゲームをやる気がない&サービス終了リスクを受け入れられないため)。
パワプロ、ウイイレ、ファミスタ等のスポーツゲームをとにかくやり込んでいた。
また、プロ野球チームを作ろうや高校野球シミュレーションやベストプレープロ野球やキャピタリズムなどのシミュレーションゲームも好んでやっていた(A列車で行こうはダメだった。物理的制約が絡むシミュレーションは自分にはダメなんだと思う。なので恐らくマインクラフト?もダメだと思う)。
俺ガイルというアニメが好きだったがそれの恋愛シミュレーションゲームがPSVITAにあると知って一式買おうか悩んだことがある(他のソフトのラインナップが自分の好みから外れたものばかりだったらあまりにコスパ悪いので結局思いとどまった)。
時のオカリナ?とかインファマスとかメタルギアソリッドとか「感動するくらい面白い」と評判のゲームを触らせてもらったこともあったけど、いずれも20分そこらでギブアップした。
電子書籍は小説しか読まないとか漫画しか読まないとか、用途が定まっていると便利なんだけど、いろんなタイプの書籍を読もうとすると画面の大きさという物理的制約がかなりの足枷になる
家の中で図表やイラストの多い大判の書籍を読むなら画面は大きくないと困るけど、それだと移動中にちょっと小説を読みたいというときには不便
用途に応じていろいろな大きさの電子書籍端末を何種類も買うというのもムダが多い
そもそも大判の見開きサイズを表現できるほどの大きさの電子書籍端末なんてデカすぎ重すぎで邪魔
複数の書籍を同時に開いて見比べる必要があるようなジャンルにおいても紙書籍優位だ。
電子書籍なら分割して一部ずつ表示するか、画面を縮小して小さくしないとこれができないし、机に何冊も同時に広げておくようなことができない。
辞書なんかも、"画面"の大きさはかなり重要なもので紙の辞書と電子辞書は用途が違う。
とっさに意味を調べたいときには電子辞書で引くけど、リラックスして辞書を引くのに時間をかけてもいいときには、
当方、自称JDで増田にて活動している完全なオッサンですが、テレビ卒業歴20年を記念して、以下にその理由をまとめたいと思います。
・構造的問題。見たくもないCMが含まれていることが気に入らない。
・私は作り手のターゲットから漏れていると思う。(見たい番組があまりない。遅く浅く広い番組が多い)
・多様性の欠如(同じような顔ぶれで同じような構成で同じようにスタジオで大騒ぎする番組ばかり)
・全般的にパッケージ商品的な番組が多いのでニーズ的に個別商品(特定の芸人が見たいなら検索すればいい)に劣るため。
・是非はさておき、流し見を前提とした番組など私は見たくないが、それが多い。
・物理的問題。(あらゆる物理的制約による時代的な相対的劣勢により、消去法的に見ない)
1-1 序
情報空間でこれだけ匿名で思想が交換されているのに、その淘汰の中で哲学が生み出されるのは不自然ではないだろう。物理的空間に拘束されていた先人が、その環境に必要だと感じられた概念を生み出してきたように、物理的空間と情報空間に境界はない今の「日常」に、最適な概念の創出を理想に掲げた思想が生まれてしかるべきだからだ。逆に言えば、物理的空間に拘束されていた人々が生み出し且つ淘汰されてきた思想は、そのような外的環境における状況に最適なのであれば、現在の「日常」に当てはめるのには限界があるのだ。従って、物理世界と情報空間が統合化されつつある環境で存続する知性にとって最適な思想を、過去にとらわれることなく自ら模索するというのは現存の知性にとって急務であるとも言える。
1-1-1 情報空間と物理空間が融合化された社会における知性を対象とした思想の深耕、展開における前提条件
物理空間と情報空間の融合が前提の社会における思想を深耕、展開させるうえで増田をその場とする主要な理由は、その匿名性にある。つまり情報空間と物理空間が融合しつつある社会においては、ある思想を発した、または提起した特定の人間を神格化するというのは適切でないとの思想からだ。思想は往々にして人間に額面以上の価値を付加してしまう。そしてそれが多くの対立を生み出すのが常だ。だが、物理空間と情報空間が融合するという、従来では考えられることのなかった社会体系を人が享受しつつある今、この新たな社会体系においては人が思想を所有し、過去と同じような対立状況を生み出してしまうことは望ましいことではない。そしてこの発想自身、増田哲学における根本である。つまり、それぞれが匿名で考え方を晒し、取捨選択の中で淘汰されて生まれる思想を特定のひとが「所有」するという状態は生まれるべきではない。つまり 増田哲学において、その思想は物理空間、情報空間に関わらず「無所属」であるべきである。
更に言えば、生成される思想は、「静的」なものでなく「動的」なものである必要がある。たしかに思想の交換の中からは「不変のモノ」も生まれ得る。しかし、「更新」を前提にすることこそが、情報空間における相互依存が前提である知性社会においての哲学のしかるべき姿なのだ。
「更新」も前提にするべきものである。時代とともに、新たな情報が交換される中で新たな知がそこに統合される必要があるからだ。それこそが情報空間で生まれた「哲学」の所以である。
「拡散」、「改変」、「複製」、「転載」も自由だ。様々な、改変、解釈が行われていっても最終的に優れたものだけが淘汰されて残り、それが改めて集約されることで思想自体の「更新」へと繋がるからだ。
でありその均衡状態を念頭に、いずれそれを達成するために準拠しうる行動指標を示しうる思想を目指す。その本質的な部分は
恒久的視野からみた「大いなる良」を達成するうえでの「相互補完」
ということになる。「相互補完」とは各知性の「個」を尊重しつつも同時に「他」の存在なしには持続的存続はあり得ないということを理解し、「他」を「自」と実質的な「等価」として常時意識する状態を指す。そして、「大いなる良」とは、「相互補完」の意識が浸透した「個」が相互に、そして「全体」と連結することで、存在しうるあらゆる知性がそれぞれにとって最適な存続環境を作り出すうえでの均衡状態を持続的に維持することを実現する思想であり行動様式を指す。
増田哲学における「あらゆる知性」とは、物理的制約に縛られている存在、すなわち「限定知性」(以下、前述の制約に存在する知性について言及する場合のみ限定知性と呼ぶ)に加え、物理的制約から解放された知性の存在をも内包する。現段階においては、物理的制約から開放された知性が存在するという確固たる立証は存在していない。ただし、そのような存在が悠久の過去における一時期、もしくは未来永劫存在し得ず、且つ時間軸、空間軸並びに次元を超えて介入し得ないと断言することも否定する。また、これらの知性は「大いなる良」というあらゆる知性の理念達成の名の下に、間接または直接的に物理的制約に縛られ知性と交わる可能性も否定しない。これらを踏まえ、増田哲学において、思想を深耕、展開させる際は、これら全ての知性の良を意識したうえで展開していく。むろん「全て」などという概念は無謀であるということを認識しつつも、それを理想とするということをここに付記する。
http://anond.hatelabo.jp/20160805213252
ネット社会が普通になったし、そろそろそれにあった思想とかがうまれても普通じゃね?ネットが無い時代にうまれた哲学っていうのは、ネットと現実がひとつになるなんてことを考えていたわけじゃないから、いまの時代とフィットするわけがないよ。だからネットと現実がひとつになった時代に生まれた俺たちがゼロから考えるべきなんだよ。これまでのことはとりあえず意識しないで。
増田なんだから、これは俺たちみんなのモノっていうことで。あと、みんなで考えるから、過去、現在、未来と常に変わらない考え方も出るとは思うけど、基本、バージョンアップされるのが前提だよね。ちなみに、基本的ポリシーは、「ここで生まれる思想はそれに関わる皆に所属するということ」、「常に更新されるべきということ」、「コピペ、改変、新解釈、拡散、すべて自由」。あとは、増田の住民がそれが正しいかどうかを判断するよ。
増田哲学をとりいれることで、人間も、宇宙人も、A.I.も、クジラ、シャチ、イルカなど独自の言語体系を持つ高等生命も全てがハッピーになればいいよね。お互い愛し合って。出来れば永遠に。
あと、ふつう、みんながハッピーにっていうといま生きているものが重要だけど、138億年以上もある宇宙の一時期、またはこれから未来永劫、時間とか空間から解放された存在が絶対に存在しなかった、または、存在することは絶対ムリとは言い切れないよね。あと、時間や空間から開放されるっていうことは、何らかの形で現存する世界に介入をすることも。分かってる。これはかなりぶっ飛んでるよ。でも、これまで生きてきた数十億という先人たちが伝承してきた存在、つまり神とか菩薩、精霊とか、グレートスピリットなどなどとかいう概念も単なる「迷信」とかで片づけずに、いろいろ考えていくよ。
iOS 7でとうとうAppleもフラットデザインに舵を切った。
今までのAppleのデザインはメモ帳やカレンダーといった現実世界に既にあるものをソフトウェア上で表現するものだった。
このスキューモーフィックと言われるデザインは、ユーザが画面を見た瞬間に、現実世界の事前知識から「そのソフトウェアが何であるか」をすぐに理解できるメリットがあった。
iPhoneによってあらゆる人にコンピュータが広まる過程において、ソフトウェアの概念をスムーズに理解させるには、このような現実世界のメタファを利用することが有効な方法だった。
ただ、この方法では、メタファにこだわればこだわるほど、「ページをめくる」「ゴミ箱に丸めて捨てる」というような現実世界で対応する動作が無いと機能を追加しづらくなるデメリットがあった。
そして、iPhone発売から6年経ち、スマートフォンを活用して生活するのが当たり前になりつつある状況になった今、Appleは新しいデザインコンセプトへとシフトした。
新しいデザインをAndroidやWindows Phoneと同様の「フラットデザイン」と呼ぶべきか否か議論はあるかもしれないが、便宜上ここではフラットデザインと呼ぶ。
フラットデザインの一番本質的な違いは質感や影のあるなしではなく、ソフトウェアをソフトウェアそのものとしてデザインしているところにある。
ソフトウェアは現実世界にある道具と同様の機能を果たす面もあるが、それだけには収まらない様々な機能を提供可能な新しい「モノ」である。
Appleは今まで「カレンダーを画面上で再現したもの」という存在だったソフトウェアを、「日付を知るという機能を物理的制約のない画面上で最適な形で表現したモノ」へと変化させたのである。
これは既存のメタファに一切頼らないという意味で、直感的な理解が難しくなる危険性をはらんだ変更である。
中にはこの変更についていけない人も出てくるだろうが、それでもソフトウェア本来の能力を引き出すためにはどこかで現実世界のメタファから卒業する必要があったのである。
Appleは人類全体の中の十分な割合の人が、ソフトウェアというモノをメタファに頼らずとも理解できる段階まで来たと判断して、今回の変更に踏み切ったのだろう。
リマインドしようにも、これを書いた人(=自分)の学力だと読めない本だったから無理。無理ゲーだった。
第一章
1
意味論的に透明なシステムと結びついた心の概念および計算機モデルを意味する。
この主義の限界を
2
チューリングの形式化が持っている特徴
(1)物理的組織によってではなく、記号操作の形式的特性によるメカニズムの集合全体を包括
(2)そのメカニズムがいかにすれば十分に明確化された問題すべてに取り組むことができるか示している
(3)万能チューリングマシンを定義する方法を示している
⇒ 素材は重要ではなく、形式的特性が能力を原理的に保証している
フォン・ノイマンがコンピュータを設計し、1960s、ジョン・マッカーシーがLISP(プログラム言語)を開発。
⇒ 研究開発が可能に
A・ニューウェルとH・サイモンが物理記号システムという概念を提出
⇒理論的に自覚化・明確化される
3
・物理記号システム
①適切に操作可能なトークンに対して任意に意味を割り当てることができるシステムであり、
②正確にプログラミングすればこの割り当てられた意味論的内容と細かい点においても一致した仕方で行動すると信じられるようなシステム
by 1976 ニューウェル & サイモン
・強い物理記号システムの仮説
SPSS strong-physical-symbol-system
「標準的な記号アトムのフォン・ノイマン型の操作を行っている仮想機械は、一般的な知的行為を実現するための直接的かつ十分な手段を持っている」
①仮想機械
そのプログラムに我々が命令を与える機械を模倣させるような「機械」
・記号を割り当てる
・変数を束縛する
・記号列の複写、読みとり、修正
等々
③標準的な記号アトム
④一般的な知的行為を実現するための直接的で必要かつ十分な手段
そうした機械は、それを支えている特定のアーキテクチュア(その基盤になっている他の現実的もしくは仮想的機械から)まったく独立に真に知的でありうるのであり、逆に言えば他のアーキテクチュアや機械をシュミレートすることなく真に知的でありうる
4
このような主張(標準的なLISPのアトムのごちゃごちゃした操作が、知能や思考の本質を構成しうるという見解)が、ニューウェルとサイモンのものだとできる動かぬ証拠は、彼ら自身の実践。
彼らの仕事の特徴(例:BACON)
・規則あるいはヒューリスティックス(発見的手法)の直列的(経験則を用いたも多少は運が左右する⇔体系的)適用に依存している
・そうしたヒューリステイックスの大部分が、かなり高いレベルで意識的に内省可能
・選ばれた課題領域を扱う
BACON:一連のデータから科学的法則を帰納する(ケプラーの第三法則、オームの法則)
・BACONが取り組んだデータをフォーマット化下のは、人間の労苦
・BACONは十分に構造化された課題にしか取り組めない。
ケプラーの第三法則は見つけられても、ペトリシャーレのカビとバクテリアの関係からペニシリンを発見する事はできない
・BACONが展開する知識とヒューリスティックスは、人間のプロトコルや実験記録に大いに頼り、われわれが自分自身の思考について内省する思考のレベルからかなり直接的にコード化されたもの
⇒この種の思考は原初的で瞬間的なプロセスの上に後から被せられたもの。理解するということを具体的な例で説明する事には役に立たないであろう
サイモン等は、人間の思考のすべてがただ一つの種類の計算アーキテクチュアに依存すると信じている。
しかし、筆者は違う考えを持つ。サイモンとラングレイの仕事では、洞察のひらめきといったタイプの認識を表現できない。
心は、多くの仮想的アーキテクチュアからなる複雑なシステムであると考える
知的課題や、感覚運動的な課題のような、なめらかに無意識的に行われるものは無視されている
5
古典的システムは記号アトムの使用に頼り、コネクショニズムはこれを避ける。
古典主義者:意味論的に透明なシステムの構築に対して、方法論的にコミットしている人々
STS semanttically transparent system
「システムの振る舞いについての記号的な(概念レベルでの)意味論的記述と、システムの形式的な計算活動の内的に表現された対象についての投影可能な意味論的解釈との間にきちんとした写像関係の記述が可能な場合にのみ、そのシステムは意味論的に透明であるといえる」
きわめて大ざっぱにいえば、あるシステムかSTSと見なされるのは、そのアルゴリズムの記述(レベル2)における計算の対象が、概念的レベルの用語で表現されたその課題の分析の記述(レベル1)と同型である場合である。
(レベル1:計算理論:(高い抽象レベルにおいて)どのような関数が計算されるかについての考え
レベル2:表現とアルゴリズム:それを計算する(具体的な)方法
レベル3:インプリメンテーション:現実の機械において計算がいかにして肉体あるいはシリコンなどで実現されるか)
(1)古典的理論は――コネクショニズムはそうではないが――統語論と意味論を組み合わせた記号システムを仮定している
(2)もし何らかの種類の構造化された表現が利用可能であれば、それらの表現についての計算操作を、その構造に鋭敏に反応するかのような形で規定できる。
もしそのような構造が存在していなければ、(すなわち、どんな記号表現も存在していなければ、)計算操作を規定することはできない
◎要するに、古典的システムは、統語論的に構造化された記号的表現を仮定し、そうした表現の構造によって、それに適用される計算操作を規定するものである
第二章
1
ドレイファス:古典的認知主義の問題は、人間の常識的な知識を表象として再現し表現しようとする形式主義の妥当性
サール:形式的なものと志向的なものとの間に、あるいは統語論と意味論との間にギャップが認められる
この二つの種類の懸念について検討する。
2
「あなたの持っているのはそんなにいいボールじゃないわ。それを私にちょうだい。そしたら私、このキャンディーをあなたにあげるわ」
この言葉を理解するために、ミンスキーちとパペートは膨大な概念のリストをあげる。
ウィノブラードのSHRDLUでは不十分。
・フレームは、常識がうまく対処している偶発的出来事のすべてをカバーしているとは思えない(バースデーケーキに立つ黒いローソクに、フレームは対処できるか?)
・フレームからフレームへの移行を促す規則(メタフレーム?)をいつ適用すべきか、システムはどうやって知るのだろう?
ドレイファス:互いに関連しあった特徴や可能性のすべてを、文脈に依存しない事実や規則によって形式的に把握するという課題には際限がないのではないか
3
・ドレイファスの二つの主張
(1)身体問題
「このシャンプーが目に入らないようにご注意ください。もし入った場合は、ぬるま湯でよく洗ってください」
コンピュータは、身体、欲求、感情、共通言語や社会習慣も持たない。だからコンピュータは、この文章が何を洗うように言っているのか理解できない
(2)コード化
人間は自分たちを取り巻く状況がどんなものかを絶えず感じ取ることができる。
このノウハウは、何らかの知識表現言語によって、一種の知識として表現できるものなのだろうか?
AIプログラム(=言語)が知識を表現する仕方が、現実の課題に対して根本的に不適合だと懸念する。
4
「強いAI仮説」を、サールは批判する
強いAI仮説:適切にプログラムされたコンピュータは、文字通り認知的な状態をとり、その際プログラムは人間の認知を説明するものとなる
Schank and Abelson 1977の、「ストーリーを理解するという志向的活動をシミュレートしているかに見える特別なプログラム」に対して、「中国語の部屋」を使うことで批判する。
サール:形式的に区別される要素に対する計算操作を行っているだけでは、どんなコンピュータも〈理解する〉ことはできない。したがって、そのような計算操作を規定するプログラムが、心の固有の性質について何かを示すこともあり得ない。
具体例:英語話者が英語を理解することと、中国語の部屋の操作者が中国語を「理解すること」の比較
「人間は何も理解していなくても形式的な原理に従うことができる」
以下、サールの誤りについて論じる
5
サールに対する仮想反論「脳シュミレーター説」
脳シュミレータ説:あるりプログラムが中国語を理解する実際の中国人の形式的な構造をモデル化したと仮定すると、そのときそのプログラムは間違いなく真の中国語の理解を構成したことになる
↑(サールの再反論)
(1)脳の形式的な性質は志向性を構成しない(三章にて説明)
(2)脳の形式的な性質が志向性を構成しないのは、ある種の素材だけが思考を支えることができるからである
↑(アナロジー)
光合成:光合成の形式的な記述を手に入れても、素材が違えば光合成は再現できない
では、思考をもたらすような脳の物理的性質とは?
:外因的および内因的な刺戟に対して脳に大規模な変動が引き起こされること
↑(コメント)
『中国語の部屋』が大規模な構造的変動を必要としないシステムなら、中国語の部屋による反論は無効
6
微視的機能主義
機能主義は、心的状態の本質を、
入力、内的状態の変換、出力からなるプロフィールと同一視した。
(適切なプロフィールを持つシステムはどんなものであれ、その規模や性質や構成要素にかかわれなく、当の心的状態を実現するであろう)
↑(批判)
(中国国家脳のような)心的状態を実現する見込みがないようなシステムも、「入力、内的状態の変換、出力」のプロフィールを持つシステムへと組織することは可能であるよように思われる。
こうした極端な寛大さは、機能主義の立場を掘り崩してしまいそう
・問題は、「入力、内的状態の変換、出力」の系列をどこに位置づけるか
×大まかなレベルに位置づけ
⇒感覚質の欠如、極端な寛大さ
△ライカンの「小人機能主義」
○微視的機能主義
・機能主義の批判はゲシュタルト盲に陥っているのでは Lycan 1981
:機能的な構成要素があまりにも大きい、極度に小さい、それらしくない等であるために、そうしたものからなるシステムに志向性を帰属させるという考えに抵抗するということ
(ライカン「小人機能主義」
:機能的な下位システムは、それがエージェントのために何をしているかということによって同定される)
微視的機能主義
内容や目的に関連づけからはかけ離れた用語で
記述しようとするもの
・諸関係が得られたとき、システムには大規模で柔軟な構造的変動が引き起こされ、またそれによってさまざまな創発敵的性質が得られるようになる
第三章
1
2
「民間心理学」
:自分や他人が、信じたり、希望したり、恐れたり、欲求したりしているということについての日常の理解
民間心理学は、行為・運動を説明するときに、信念や欲求という表現を用いる
「民間心理学は、人間の行動に先立つ内的原因についての素朴で原初的な科学」
3
(1)民間心理学は、偏狭な、特定の人々に限定されたような理解しか与えない。
民間心理学は、子供や狂人や外国人を前にすると、まごついてしまう
(2)民間心理学は停滞したまま、なにも生み出さず、長い間ほとんど変化も進化も発展もしていないところが他の諸科学と異なる
(3)民間心理学は、これまでのところ科学の主要部分にうまく統合されていくような徴候をまったく示していない。残念なことに民間心理学は自然を神経生理学的ないみで妥当な要素にまで分割することには関心がないようである
最近の分析哲学
:頭の状態に関する科学理論というゲームと、民間心理学というゲームを比較することが、そもそも不適当なのではないか
4
Daredevil believes that Electra is dead.
Mary hopes that Fermat's last theorem is true.
のthat以下を、心的状態の内容と言う。
心的状態が考えられる傾向
:われわれの心理学的状態が、本質的に、周囲の世界がどのような状態にあるのかということによって決まるのではなく、
われわれにとってどのように見えているかによって決まる
↓(言い換え)
我々の意識や無意識に何らかの形で影響を与えられないものはどんなものであれ、
本質的に我々の心的状態の正確な限定に関わることはあり得ない
⇒我々の心的状態が現に持っているような内容を持つものは、われわれ自身のあり方ゆえであって、
知られていないかもしれないような周囲世界の事実とは関わりがない……☆
・双生地球……☆に対して疑いを投げかける
双生地球で、「海に水がある」と発話される。
地球A:海にH2Oがある
地球B:海にXYZがある
この違い以外は同質だとする。
すると、
地球上の発話と双生地球の発話は、それぞれH2OがあるかXYZがあるかによってその真偽が決まる
(たとえば、地球Aの海にH2Oがなくて代わりにXYZがあるとしたら、地球Aでの発話は偽になる)
⇒
もし意味が真理条件を確定するのだとすれば、
自然種に関する表現(水、金、空気など)を含む陳述の意味は、
単に主体の限定的に規定可能な状態に言及するだけでは十分に説明できない……☆に反して
二つの選択肢
(1)心理学的な内的要素(地球の話し手と双生地球の話し手に共通)と、
世界関与的な外的要因(仮定上、二つの地球を越えて不変ではない(H2OとXYZ))の両方によって内容が決まるとする、意味と信念に関する合成説
(2)そういったケース(地球と双生地球のケース)は
〈心的状態の純粋に内的でまったく心理学的な要素(☆のこと)〉という観念にさえも疑いを抱かせるものであると考えることもできるだろう
プティ と マクダウェル
「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない。
しかし、
〈頭の中〉にあるものが心の状態に対して構成的関係にあると考え必要があるのだろうか?」
筆者
:あらゆる内容が根本的に世界に関与している(選択肢(2))ということが判明したとしても、
そのこと自体は必ずしも〈認知科学は心の理解に深く(ことによると構成的にではないかもしれないが)関わる研究である〉という主張を覆すものではない
その主張に対する仮想反論と、それに対する再反論をHornsbyは行った。
仮想反論
:「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」とするならば、
心的内容は限定的に規定されねばならない(自然種を指示しない)
(「「行動傾向(心性はこれに随伴して生じるとされる)が二者の間で異なるためには、
内的構成に違いがなければならない。」
という考えを保持すべきである」までが、プティとマグダウェルの、「頭の中にあるものが、心の状態と因果関係を持っていることは疑いがない」に対応する。)
仮想反論の詳細
:仮定①:
二人の動作主の心的状態は、彼らの行動傾向に何らかの違いがある場合にのみ異なる
(そこに赤いボールがある、と信じなければ、ボールを投げようとは思わない)
仮定②:
行動が異なる(すなわち、行動が異なる)ためには、内的な物理的状態に何らかの違いかなければならない
結論:それゆえ、心的状態に対応する内的な物理的状態に何らかの違いがなければ、心的状態が異なるということはありえない
「(民間心理学的な心的状態を帰属させることは、限定的内容のみに関わることであるという)結論は、深刻な疑義にさらされることになる。
限定的内容といっても、それを妥当な概念として了解できるかは明らかではない」
なぜなら、
「民間心理学的な内容を(物理的状態に?)帰属させることは、身体的な動きを規定するような頭の状態についての独我論的な研究から引き出すことができるような切り口とは
まったく違った切り口で現実を切り取ることであるように思われる。
その具体的理由として、
ボールをひろうことは、「そこにボールがあると私は知っている」という心的状態と関連するが、そのときの細かな指の動きはそのような心的状態と関連するものではない。
5
筆者
:広域的内容を伴うによ伴わないにせよ、
頭の中で起こっていることに関することに関する科学的カテゴリーや分類に
きちんと還元されるなどということは
とてもあり得ないように思われる。
・民間心理学は、科学的心理学と同じゲームを行ってはいないかもしれない
→
世界を記述しない信念であり、なおかつ
ある人が同じ考えを抱いているといえるような別のケースに投影可能な述語が(科学的記述の上には)存在しないことも可能
6
民間心理学の道具立て(信念と欲求という概念によって、命題的態度を帰属せさるという道具立て)を用いて、心的状態を二者が互いに帰属させあうという日常の慣習(傍点)の目的は?
:
他人の頭の内的状態を追跡しようと試みることによって、
その人の身体の動きを予測し説明するための手段
民間心理学の主要な目的
:
世界の中で活動している仲間たちの行動を、(傍点開始)我々が(傍点終わり)理解できるようにすること
(予測したい対象であり主体である)われわれの仲間たちの四つの特徴
①世界に対する感受性、すなわち感覚や生得的な原書的概念の道具立てをわれわれと共有している
②世界をわれわれと共有している
③彼らは我々自身のもっとも根本的な関心と必要の大部分を共有している
④彼らの思考の有用性は、
(我々自身の思考と同様に、)
彼らが世界の実際の有様をたどっていることと関わっており、
彼らの思考作用が、世界の実際の有様に十分適応していると我々が(進化論的な理由から)考えるような目的と関わっている
この特徴があるので、
「~したい」という欲求さえ同じであれば、
・民間心理学は、脳の状態の違い(that かなり目の粗い、行動上の違いとしては現れてこないような)に対しては、敏感に対応しないように設計されている
・民間心理学は、個人の間の差異を覆い隠し、
さらには種の間の差異さえも覆い隠してしまう(長所であっても短所ではない)
7
筆者の見解
:私の見解では、われわれが信念を帰属させるのは、
行動の全体に一種の解釈の網をかぶせることによってである。
……関連する行動を可能にするものとしての、
根底にある物理的あるいは計算論的な構造がどのようなものであれ、
そうした構造における自然な区分に、網の結び目(すなわち信念と、欲求の特定の帰属)が
対応している必要はない。
――
ということは、Davidson(全体論者)に対するFordorの批判は、筆者の意見にも当てはまるのではないか?
<Fordor>
意識の全体論というのは、
「命題的態度の同一性――特に志向的内容――が、その認知的連関の全体によって決定される」
という考え方。
これに、Fordorは懐疑的。
(命題pの認知的連関というのは、主体がpの意味論的評価、すなわちその真偽の決定に関係するすべての命題のこと)
われわれは、信念や志向的状態を共有している。が、そのとき、すべての命題(認知的連関)を共有しているとは思えない。
信念は、その内容をそれぞれ別に持つ。
:信念がその状態を獲得するのは、脳の状態が逐一、世界と因果関係を結ぶことによってである。
「ある生物が『牛』という概念を持とうと持つまいと、その生物は『馬』という概念を持ちうる」
</Fordor>
筆者
:Fordorの間違い
全体論は、もしそうであれば、人間の心の理解が芋蔓式に進んでくれるのにという、いわば願望。
Fordorが軽蔑したものの通りに進んでくれるかは別問題。
Fordor:バラバラになったブロックを一つの全体に組み合わせるやり方が、全員同じになるはずがない。
筆者:一つのブロックの組み合わせ全体を理解するために、各人が別々のやり方でバラバラにしている
全体論という言葉の使い方が違うから、Fordorの批判は筆者には当てはまらない(という、批判をかわすための節)
7
一章3節での、チャーチランドによる民間心理学批判に、今では応答できる。
(3)に対して、
民間心理学の関心事は、他の主体の顕著の行動パターンだけを可能な限り効率的に分離することである。神経科学とつながることを目的とはしていない
(1)に対して、
民間心理学の道具としての適用範囲は、仲間。狂人の理解は、そもそも目標としていない
(2)に対して、
なので、その中核部分が時間的および地理的な次元を越えて相対的に恒常的であり続けてきたことは驚くべきことではない。
整理。
民間心理学には、きちんとした定義がある。
これまで「民間心理学」として使われてきた言葉の、新たな用語法:「素朴心理学」、「メンタリズム的な理解」
8
因果関係と、構成的関係の区別
構成的関係
:
研究の主題と何らかの形で密接に結びついているということ
因果的に関係
:
因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、
それらの要素を差し引いてもそれによって思考という観念そのものが存続しえなくなる
ということはない。
(チェス盤がなくなっても、チェスの続きは打てる。石を駒に見立てたり、口頭で)
9
・消去主義的唯物論:民間心理学が、心に関する科学に対して歪んだ影響を及ぼすのではないか。民間人は自分自身の心を知らないと、消去主義的唯物論は思っている
↑
(構成的関係)
↓
心
科学と心とを結びつける構成的関係。その得難さが二つのスタンスの対立を生んでいる。が、どちらの立場も同じく、認知という地形に同じ隆起とくぼみを見ている。
では、構成的関係とは何か。
構成的関係←→因果関係
構成的関係:研究の主題(この場合は心)と、何らかの形で概念上密接に結びついていること
因果的関係:因果的に関係している様々な要素は、それほど密接に思考と結びついているわけではないので、それらの要素を差し引いても、それによって思考という観念そのものが存続しえなくなるというひとはない
(駒はなくてもチェスは打てる)
人間って生き物は色々と面倒だ。
病気にはなる、情緒不安定だと仕事に支障が生じる、他人を妬む・・
色々と面倒なことが多い。
普通に暮らしてる人間は、まぁそれでもいいだろう。徐々にテクノロジーの発達が進めば、そういった不完全で面倒な部分を支えてくれる機械が当たり前になる。今はもうなりつつある。
でも、それが許されない、つまり不完全だと困る職業がある。それがアイドル。
アイドルといっても、別に某香水のような歌って踊って、という典型的なアイドルだけを示すわけじゃない。
たとえばアナウンサー、彼らもアイドルだ。ここで言うアイドルとは、テレビ向きの人間というべきか。
個性をつけるのは確かに難しいが、実在の人間を元にすれば結構簡単に出来るかもしれない。
たとえば初音ミクは実在する声優の声とイラストレーターが描いたイラストを合成して作られたアイドルの一人だ。
ここでバーチャルアイドルを提案する理由はたくさんある。そのほとんどが人間の不完全さをもたない、ある意味では完璧な存在であることに起因するものだ。
1、生活費が必要ない&出演料が安い
→アイドルを開発した会社が芸能事務所のかわりとなれば、メディアに出演するたびに出演料を払わなければならなくなるだろうが、アイドル自身に生活費は必要ないため、めちゃくちゃ安くなるだろう。
→アイドルを神聖な存在としてみる人間は多いが、バーチャルアイドルはその意味で完全に神聖な存在だ。当然、現実のアイドルと違って誰かと不倫してスキャンダルになったりすることはない。
3、排泄しない、汚い言葉を使わない
4、疲れない、物理的制約がない
→バーチャルな世界に生きているので、当然疲れない。ただし、疲れたような表現はする。さらに、物理法則に縛られないのでどんなことにも挑戦できる。当然、番組中に衣装を一瞬のうちに変えるのもラクラク。
5、歳をとらない
→アイドルは永遠にアイドルである。何年後も何十年後も、オプションで大人びた姿になることは出来るが、基本的にはその姿を永遠に保つことが出来る
ざっと挙げただけでもこんなに利点がある。必要なのは人間達が彼らを受け入れる土壌だけだ。
結局人間というのはどんなに頑張っても不完全な存在となってしまう。気分が悪ければ笑顔もぎこちなくなるし、体調が悪いのに無理に出演して後で入院なんてことになったりするかもしれない。
芸能界はそういう厳しい部分を「伝統」とすることで独特な世界を築いたが、人間は誰しも厳しい生活を望んでなどいない。それを望むのは調教された奴隷だけなのだ。
さらに、最近はハイビジョンや地デジなどで目に見えて画質がアップすると、誰かの皮膚のしみや肌の汚さがはっきりと映ってしまう。これも不完全さの一つだ。