はてなキーワード: 坐禅とは
書いてる私の略歴 中学で坐禅にはまって禅寺に通いはじめる。スピ系話が好き。ワクチンはP・P・Mで接種。年齢 中高年。
私が小学生の時、PTAのボス的存在に連れられて1946年に設立された教団に通い始める。
以下、母の証言による。
信者は皆の前で反省しなければならない。家のなかのあれこれを全部話させられる。貯金の額も申告させられる。
毎日布教に行く。母に同行した支部の班長は近所の不幸をあれこれ聞きだし、それを使って信者を獲得(○○で悩んでいた人が入信して良くなったみたいな)し、毎月信者獲得数トップで誉められていた。
布教の時に配る教団の冊子は信者が買う。沢山買って沢山配れば誉められる。返品不可。
ごく短期間で母ギブアップ。辞めるときにかなり揉めたらしいがなんとか脱退。
その後私が禅寺に通い始める。
退職後知人に誘われて入信。
一日中道場に詰めて連絡が取りにくくなるも、当初は留守番電話の設置だけ薦めて我が家は静観。
その後我が家に来て自分は清浄、我々は不浄な態度を露骨に見せ、他人の不幸を今まで以上に嬉しそうに話し始めたので、信者の自惚れに餌をやるタイプの碌でもない教団なのか、元々性格に難のある親戚だけがそうなって教団はまともなのか判らず我が家は対応に苦慮。
ご奉仕に身につけるエプロンは他で使うと穢れるとか、お守り袋作成の中に電話に出ると穢れるのとか、禁忌があまりにも厳しすぎ、自分達は守られているので医者に行かなくても大丈夫、薬は毒等々と言い出す。
うぬぼれはどこの宗教でも社会常識でも悪い事なのだが、それを抑えている気配が無く、禁忌によってそれを煽っているように見える。私の入門した禅寺の御老師様はこういうことにかなり厳しかったので絶句する。これはかなりまずいかもと退団の説得に乗り出す。しかし時既に遅く不浄な我が家の言葉は届かず、「守られている」と大見得切っているので事故や病気になったときに我が家に助けを求められず、却って事態が悪化すること数えきれず。
薬は毒だとか恐怖を煽りつつ、私たちだけは救われるんですよと優越感をくすぐる、宗教というより殆どマルチ商法という気がしたので「苦情の坩堝」や「悪徳商法マニアック」の体験談を読みあさり、なんとか脱退の糸口を掴もうとするも結局力及ばず。
晩年、教団墓地管理費を長年二重取りしていたことが判ったが(お金は返ってこない)、それでも結局親戚は死ぬまで信者だった。
親戚の死後、親戚が身につけていたお守りの事で親戚を誘った女性とも初めて会ったのだが、教団墓地の話ははぐらかすのに、突然の葬式仕切りで大忙しの私を道場へ何度も何度も誘った。控えめで気が弱そうで善良そうな女性がである。長年道場だけが重要で世の中の事は些事と教え込まれているとこうなるのだろうか。「世の中に間借りして修行させてもらってることを忘れるな」って御老師様は言ってたから、あんまり世の中を軽く扱うのもまずいのではと思う。
また信者に口寄せさせて、その人が話したことを真に受けて皆で実行していたようなのだが、そんな心許ないものに左右されてどうするのだろう。世間に対しては一々疑いや不信を抱くのに自分達の行いに対してはあまりにも信用しすぎなのもまずいと思う。「自分を疑え」「脚下照顧」と先達も諭しているのに。
通帳など紛失しているので判らないままだが、親戚が教団に納めた金額は8桁を超えていたようである。教団の維持にお金が必要なのはわかるけど、それも程度問題だと思う。
職場と家以外、人間には案外居場所がない。親戚にとって道場は第二の我が家だっただろうし、母も家とパート先以外の居場所が欲しくてあの教団に行ったと思う。でも信者獲得数やお布施の額で確保する居場所は良くないと思う。
余談だが、コロナが流行した年にこの教団の他県支部でクラスターが発生したらしい。薬は毒、我々は神様に守られている、発熱は好転症状と言い続けていたら、三密対策もとるにとれなかったろうとは思う。
タイトル通り。ある日知人ともう一人が冊子をもって布教に来たので、私は中学の時に禅寺に入門して受戒していること、今も信者である事を告げてお引き取りを願ったところ、「先祖供養はお寺任せではなく、自分でやらないと。ここなら自分でできるんです」と連れの年配女性。「自分でやってますが」と私。
しかし相手は怯まず他のやり方では駄目と言わんばかりに押してくる。
それなのに冊子には教団名が書かれてない。祈祷文をネットでくぐって漸く判明した。自信あるならちゃんと名乗れよ。
知人も過去の自分の不幸を開陳するのだが、母の体験もあるので私は一切自分の状況を口にせず「現状に大満足(大嘘)」で押し通す。キリスト教の告解は神父様だけにだし、仏教は仏に懺悔する。到らぬ身の人間相手に懺悔しても悪い結果にしかならないと御老師様も言っていたしね。
大宗教でも自派が一番優れているといってるけれど、それは大昔の、印刷術も電話もなく、人の移動がほぼ徒歩だった時代にアクセス出来る範囲にある宗教では一番と言ったわけで、色々な宗教信者が一緒に暮らす現在それをいうのは利より害の方が大きい。私の禅の師である御老師様は他宗教をくさす言葉は一言半句仰らなかった。
確かに小学校の友達が教会で入信したときに「私は救われるがあんたたちは煉獄」と言い放ったし、私が禅寺で入信したときクリスチャンの友人が牧師執筆の本を貸してくれ、そこには孝行を尽くした妹よりなにもせず親の死後仏壇を買った長男が誉められる仏教は間違っていると書かれていた。
事実に基づかない批判(貧女の一灯をしらんのか)を展開する行為の方が、私にはドン引きだった。さすがにこういうのは今は少なくなっていると思う。
常識を疑う、破るのは仏教にもあるが、それは修行が進んだあと、無意識下の刷り込みを打破するためのもので、一般信者が社会常識を踏みにじっていいということではない。
普遍的な道徳に照らしてアウトなものは宗教でもアウトだと思う。
この二人組は本当に何度も来た。コロナになってやっと音沙汰がなくなって悪いがほっとしている。
20代後半のある日、家で読経中に宗教の勧誘が来た。中断させられてイラっとした私は数珠袈裟のままドアを開けた。そこに立っていた男性は、私の数珠袈裟をみて「これはお邪魔をしました」と深く一礼した。近所のキリスト教会の牧師である事を名乗って、若い女で異教徒の私にもう一度お辞儀をして、信者を引き連れて帰っていった。信仰する者に出会ったことが嬉しいという顔をしていた。「美味これ淡味」本当に価値のあるものは奇をてらわない普通の姿をしているのだという御老師様の言葉が浮かんだ。私も深く一礼した。
暑くて自律神経のバランスが崩れると、一回寝ないと頭がぐらぐらして会話も覚束なくなるんだよな…飲酒するとちょっと持ち直すがデメリットがでかい。暑くて、って言うとなに言ってんだみんな暑いわってなるし…。
自律神経を鍛える筋トレを半年ほど続けているが、夏はやっぱだめだ…出社しているときは見るからにダメそうなのが伝わるのか、意識レベルが低い人向けの話し方をしてくれていた。リモートで多少声がへろへろしている位だと話が通じているものとして進んでしまう。家から出ていないのに暑さの何が影響するんだって感じですよね…。
こんなん誰にも言えない。どう考えてもただのダメ人間だ。病院では言っているけれど、なんか暑いとそうなる人もいますよねーって流されて、どうすりゃいいんだ。病院的には無理な時は休んで欲しいんだろうが、そんなしょっちゅう休めないし。
でも酒はダメだ。エスカレートしそうだし。ベンゾジアゼピン系ももう処方してもらえないし。
坐禅するとちょっと落ち着くけれど止めて作業し出すとぐらぐら。焦ると自律訓練法もうまくできない。できても坐禅程度の効果だし。
はーどうすりゃいいんだ。
睡眠、運動、瞑想、バランスのいい食生活…この4つの習慣を身につけるのにもある程度の精神力がいる。特に、既に鬱っぽかったり、発達障害などで生きづらさを感じている人にとっては、そんなん言われなくたってよーく分かってるけどできねーからつらいんだよ!という思いがあるのではないか。
そこで、睡運瞑菜に代わって「ストレッチとトリプトファン」というのを推したい。簡単に言えば、ストレッチが「運動・瞑想」、トリプトファンの摂取が「睡眠・野菜」の第一歩になるのではないかという考え方だ。
ストレッチは運動として一番とっつきやすく、疲労回復効果もあり、翌日の反発もない。その上、まじめにストレッチに取り組み始めればある程度は筋肉を使うことも実感できると思う。自分自身をより良い状態にするために身体を動かしているのだという自信を即座に得られるのも大きい。慣れない状態で筋トレやランニングをすると、かえって翌日以降のコンディションを損ねて精神的にも落ち込んでしまう可能性がある。その点、軽度のストレッチは限りなくリスクが低く、得られる効果が高い。
身体が硬くてストレッチが苦手だという人にありがちな間違いが、痛くなるところまで筋を伸ばしてそれを我慢しなくてはならないと思い込むことだ。「痛気持ちいい」でもいけない。まったく痛みを感じずに「ちょうど筋が伸びていて気持ちい、でもここから少しでも倒すと痛くなるだろう」というところでゆっくり10回呼吸するだけでいい。
ストレッチは瞑想の代用とすることができる。身体の内側がどうなっているのか意識を傾けて、ゆっくりと呼吸をする。それだけで立派な瞑想的な行為といえるはずだ。坐禅や特定のヨガのポーズなどは「瞑想するまさにそのために、それをするんだ」という目的を強く持てる人じゃないとなかなか続かない。安心して見てもらえる師匠みたいな人がいる環境でない限り、ネットで見聞きした情報だけで瞑想を始めるのは万人にはオススメできない。
起床直後にするなら動的なストレッチがいい。ラジオ体操と若干似ているが、身体を目覚めさせるように、息を吐きながら身体を伸ばす(倒す)というのを1秒ごとに10回繰り返すとか。一番怪我をしやすい時間帯なので、上とかぶるが痛みを感じるところまで倒してはいけない。また、寝る前ならジワジワと伸ばす静的なストレッチが好ましい。副交感神経を優位にするイメージで、半目の状態でいかにも眠くなりそうな感じでやるとよい。
個人的に最もコスパがいいと思うストレッチは、合蹠(がっせき)のポーズ、長座前屈、開脚前屈の3つだ。合蹠のポーズは無理に体を前に倒さなくてもよくて、膝を揺するだけでも股関節まわりがほぐれてくれる。長座前屈は、つま先に手を触れようなんて思わなくていい。膝裏と背筋を伸ばして真っ直ぐに座っているだけで十分ストレッチ効果がある。慣れてきて物足りなくなってきたら上体を前傾させればそれでいい。開脚前屈も同様で、90度の開脚、身体は真っ直ぐ起き上がっていても問題ない。ももの内側が伸びているなーという感覚が得られるところで止めるので問題ない。
次に、トリプトファンだ。朝にトリプトファンを摂取すれば、昼に光を浴びてそれがセロトニンになり、夜にはメラトニンが分泌されて眠くなるという。3食バランスの良い食事や野菜350gなんていきなりは無理なんだから、まずは起きた後の栄養素のことだけ考えてみるのだ。トリプトファンの摂取を「野菜・睡眠」のきっかけとしてみよう。
ご飯派であれば納豆や卵かけご飯、豆腐・お揚げの味噌汁が手っ取り早い。味噌汁はインスタントでも全く問題ない。朝に味噌汁って偉くない?なんか気分いいよね?と思えることが大事だ。パンはご飯よりそもそも多くのトリプトファンを含むらしいが、しいていえばベーコンエッグやスライスチーズを乗っけたトーストが楽だと思う。
朝が苦手な人は、昼食や「起床後の食事」に意識するだけでもいいと思う。要は、寝る前の食事でトリプトファンを摂取してもすぐにセロトニンやメラトニンに変換されるわけじゃないということだ。1日あたり必要な量のトリプトファンは、日本人であれば普通の食生活で充分摂取できているとされるが、ちゃんと朝(起床後)に摂取できているかを気にするべきだ。セロトニンが足りないと脳がハッピーになりにくいし、メラトニンが足りないと寝たくてもなかなか寝付けない。睡眠習慣に悩んでいる人はトリプトファンに着目してみてはどうか。
ちなみに私自身は栄養学や脳科学の専門家ではないし、そもそも高校生物すら履修していない。明らかな間違いがあればコメントやトラバで指摘して欲しい。ちょっと調べれば分かるが、上記の全てだっていわゆる「ネットでかじった程度の情報」のまとめでしかない。しかし自分の場合は、ストレッチとトリプトファンのことを考えるようになってから、毎日死ぬことだけを考えていたような状態から、なんとなく人生を前向きに考えられるまで復活してきた。
勢いで書いたら長くなり過ぎたので、短縮バージョンをまた書くかもしれない。でも、一人でも多くの人に生活習慣改善のきっかけとして見てもらえると嬉しい。とにかく、生きづらさを感じているはてな民に幸あれ。
以下は自分の個人的な意見およびやり方なので、「納得しかねる」部分や「自分とは考えが違う」部分は各氏アレンジして活用することをおすすめする。
自分のやり方としては古いバージョンだが、それなりに効くはず(自分の最新バージョンはチューニングしすぎて保証しかねるので紹介しない)。
まず、「本当にしんどい時に見るもの」と言うが、「見る」という行為は脳を非常に使う。
脳と眼球の距離が近く、太い視神経が通っていることからもそれは理解出来る話であるはずだ。
したがって、「見ない」方が良いというか、坐禅を組む時の「視界を薄明かり気味にした方が良い」と思う。
目を半眼にして視界をぼやかせるのも良いし、簡単なのは、室内の電気の明かりをそれなりに落としてしまうことだと思う。
心が半壊して何もする気が起きない場合は、このままボンヤリとしていても良いと思う。
ただ、「ヒマだ」という人や「ツラくてダメだ」という人もいるだろう。
(もちろん、「つらいことを紙に書いて吐き出す」という別のやり方もある。それはそれで興味のある人はやれば良いと思う)
そういう人は「音」を活用した方が良いと思う。
やり方は色々あると思うが、多分、タブブラウザを使うのが一番楽かなと思う。
以下、タブブラウザで、
(1)YouTubeへ飛ぶ。
(3)新しいタブを開いて、「雨音」で検索し、雨音を流す。
基本的にやり方としては以上になるが、注意点としては、
【1】ボリュームは小さめにして、演奏を聞くことに集中すること(耳を澄ませて聞く)。
【2】(2)はショパンでなくてもいい。般若心経でも、ケルト民謡でも「心が癒やされる」ような音楽を選択すること。今は動画の右クリックメニューで繰り返し再生も出来るのでそれも上手く活用する。
なぜ「雨音」を流すかというと、「ノイズが入っていた方が演奏に集中出来る(どこかの実験で証明済みだったはず)」のと、「雨音自体、心を癒やす効果がある」からだ。
なぜ「演奏を聞くことに集中する」かというと、「落ち込んでいる状態」というのは、「心が自分の中の落ち込みに集中しているので、その集中を自分の外の癒やしの音楽に向ける」ためだ。
別に横になって聞いていても構わないし、そのまま眠ってしまっても良い。
この方法が合う人には、開始5分くらいで乱れた心が整ってくることが実感出来るはずだと思う。
仏教というのは釈迦の思想を勝手に発展させたものであり、ずいぶん偽書もあり、それが正統に受け継がれていたりするが、これはインド人の大雑把さなのであろう。
釈迦そのものが荒行を否定しているのは確かであり、これはだいたい枉げられずに受け継がれている。身体的な苦痛が激しい命懸けの荒行をする人間もいることはいるが、これはかなりの少数派である。
ほとんどは、快楽を減らすことで苦痛を減らすという発想を基本としている。欲しいものが手に入らなければ苦痛であるから、何も欲しがらなければいいのである。もしくは、苦しい苦しいと悪あがきするから苦しくなるのであり、平然としていれば、苦しくないこともある。
仏教でなくても、困難を前にして周章狼狽するのはみっともない。難局だからこそ、平然としていた方が、人間として好ましい。
痩せ我慢と言われるだろうが、腹を括ってこそ、この人間を縛り付ける痛みを超越できることもある。泰然自若としているのが望ましいというのは、おそらく仏教とはまた別に、人類普遍の発想でもある。
泣きたいときは泣けばいいという人もいるが、世の中はそれほど優しくないし、歴史的な偉人の末路を記録するときでも、気が動転して泣きわめく文弱な芸術家の素顔を書くこともあるが、大人物として描きたいときは、うろたえることなく無表情で腹を切るような様子を描くわけである。
禅というと臨済宗の方が有名であろうが、わたしは道元(曹洞宗)が好きなので、そちらに重きをおいて書くが、坐禅はただ座ることが大事なのである。
道元は禅問答を批判しているわけではないが、あまり重視していない。只管打坐、ただひたすら座る、それだけである。
寸陰を惜しんで生きている現代人には時間の無駄に思えるかもしれないが、挙動がおかしなパソコンは再起動したほうがいい。
なぜ仏教で坐禅をするのかというのも、いろいろ理由はあるだろうが、快楽や苦痛がわれわれをお誂え向きの弱者に仕立て上げようとする中で、ただ座っているだけというのが人生への気高い姿勢なのである。
坐禅は目を開いた状態、もしくは半眼で行うが、どちらにせよ瞼は閉じない。これは布団でゴロゴロしている朦朧とした状態とは対極である。
目を開いて、明晰な意識で身体静止することが肝要であると思うし、座り方はさほど重要でないだろう。正式な結跏趺坐でなくても、半跏坐で充分と道元禅師は述べられている。身体静止が何よりも肝心であり、座ったほうがその境地に至りやすい、という程度の気がする。
達磨大師のように九年間面壁坐禅とか、そこまでする必要はあるまい。
われわれは生まれてから死ぬまで悪魔に誘惑され、唆され、使嗾される。心が揺さぶられるからこそ、いわば耐震構造の強度を上げるため、身体を止めておかなければならない。
中枢神経に直接触って治すわけにはいかないので、身体の動きをとめることで、自分をコントロールするしかない。
ロボトミー手術みたいに、脳にノミを打ち込む方法は今の医学では効果が見込めないので、身体を静止させることで脳を落ち着かせるのである。
多動性こそが馬鹿の特徴であるという発達障害の考えは的確だが、リタリン服用への是非はともかく、身体が止まっていることが何よりも肝要であり、道元禅師には及ばないにせよ、その境地をお手本にするべきであるように思う。
仏教というのは釈迦の思想を勝手に発展させたものであり、ずいぶん偽書もあり、それが正統に受け継がれていたりするが、これはインド人の大雑把さなのであろう。
釈迦そのものが荒行を否定しているのは確かであり、これはだいたい枉げられずに受け継がれている。身体的な苦痛が激しい命懸けの荒行をする人間もいることはいるが、これはかなりの少数派である。
ほとんどは、快楽を減らすことで苦痛を減らすという発想を基本としている。欲しいものが手に入らなければ苦痛であるから、何も欲しがらなければいいのである。もしくは、苦しい苦しいと悪あがきするから苦しくなるのであり、平然としていれば、苦しくないこともある。
仏教でなくても、困難を前にして周章狼狽するのはみっともない。難局だからこそ、平然としていた方が、人間として好ましい。
痩せ我慢と言われるだろうが、腹を括ってこそ、この人間を縛り付ける痛みを超越できることもある。泰然自若としているのが望ましいというのは、おそらく仏教とはまた別に、人類普遍の発想でもある。
泣きたいときは泣けばいいという人もいるが、世の中はそれほど優しくないし、歴史的な偉人の末路を記録するときでも、気が動転して泣きわめく文弱な芸術家の素顔を書くこともあるが、大人物として描きたいときは、うろたえることなく無表情で腹を切るような様子を描くわけである。
禅というと臨済宗の方が有名であろうが、わたしは道元(曹洞宗)が好きなので、そちらに重きをおいて書くが、坐禅はただ座ることが大事なのである。
道元は禅問答を批判しているわけではないが、あまり重視していない。只管打坐、ただひたすら座る、それだけである。
寸陰を惜しんで生きている現代人には時間の無駄に思えるかもしれないが、挙動がおかしなパソコンは再起動したほうがいい。
なぜ仏教で坐禅をするのかというのも、いろいろ理由はあるだろうが、快楽や苦痛がわれわれをお誂え向きの弱者に仕立て上げようとする中で、ただ座っているだけというのが人生への気高い姿勢なのである。
坐禅は目を開いた状態、もしくは半眼で行うが、どちらにせよ瞼は閉じない。これは布団でゴロゴロしている朦朧とした状態とは対極である。
目を開いて、明晰な意識で身体静止することが肝要であると思うし、座り方はさほど重要でないだろう。正式な結跏趺坐でなくても、半跏坐で充分と道元禅師は述べられている。身体静止が何よりも肝心であり、座ったほうがその境地に至りやすい、という程度の気がする。
達磨大師のように九年間面壁坐禅とか、そこまでする必要はあるまい。
われわれは生まれてから死ぬまで悪魔に誘惑され、唆され、使嗾される。心が揺さぶられるからこそ、いわば耐震構造の強度を上げるため、身体を止めておかなければならない。
中枢神経に直接触って治すわけにはいかないので、身体の動きをとめることで、自分をコントロールするしかない。
ロボトミー手術みたいに、脳にノミを打ち込む方法は今の医学では効果が見込めないので、身体を静止させることで脳を落ち着かせるのである。
多動性こそが馬鹿の特徴であるという発達障害の考えは的確だが、リタリン服用への是非はともかく、身体が止まっていることが何よりも肝要であり、道元禅師には及ばないにせよ、その境地をお手本にするべきであるように思う。
http://www.glitter-car.com/blog/2013/12/entry_1053/
ここの整備会社がめちゃくちゃエーリストガレージ好き好きオーラ出してるから、エーリストガレージはここと提携してるのかもしれん。
お世辞にしても褒めすぎだし、嘘ではなさそうな気がする。
新型メルセデス・ベンツ E300 ワゴン 磨き・ガラスコーティング・ガラス撥水・ホイール・ルーム
http://www.glitter-car.com/blog/2014/05/entry_1313/
似たような記事見かけたから、一緒にまとめとこうと思ったら同じ所だった。
まぁベンツ買ってるならそりゃお得意様だよな
東日本の大地震を契機に、「オピニオン」を売り物にしている人たちがやたらとご乱心をして、見当はずれなドヤ顔を晒してしまっているのをたくさん見てしまった。
裏情報によるとあれはどうだとか、オタク文化が成り立たなくなるだとか、わいわいがやがや。
地震と津波の影響で、原発が壊滅的な被害を受けてしまったのは皆さんご存知の通り。計画停電等で関東全体がしわ寄せを受けていたり、東電が原発処理で醜態を晒しつづけているのも周知の事実だ。
そして、今回の事故を受けて、改めて原発の意義やエネルギー問題が議論として浮上してきた。ぜんぜんクリーンじゃないぞとか、作業員への手当がいい加減すぎるとか、放射線の影響はぜんぜんないorけっこうヤバいだとか。しかし、以下の発言のような方向にいってしまうのはどうなんだろう?
今回の異常事態で20世紀を貫いて絶対的な権威だった「科学」そのものが破綻した瞬間を日本社会は味わったのではないかと感じている。自分もその一人。今科学者や技術者が「問題は想定外だったこと。これから大地震にも耐えられる原子炉を設計すればいいまでのことだ」と言ったら…信じる?
死の影を見ず、コンビニエンスに生き、自然界がディズニー表現されている、いたって都合がいい、幼児的な宇宙に住む権利を捨てなければならなくなった。自然に謝って済むものではない。人格を超えた相手は管理できない。人間の「ごっこ」はあまりにも非力だったことがばれた。
呼吸法や坐禅だけでも相当に有効な洞察が得られるかもしれない。コンビニエンス社会はマスコミに意識を委ねるなど他律的な面が強調されるけど、便利さを捨てて自律的なライフスタイルへと徐々に切り替えていくというソリューションもあるかも。風力、太陽光以外に。
(ミュージシャンで作家、フォロワー1万5000人のモーリー・ロバートソンさんのツイート)
この手の「資本主義社会を見直そう」みたいな動きはあちこちで見かける。計画停電で都市機能が大きな影響を受けたが、そもそもこんなに電気を使う社会のほうがおかしいんだ。今の社会にある便利なものは、多くの犠牲に成り立っている。不便を受け入れて健全で質の高い社会を目指そう。
……みたいな意見。
なんだか「スローライフ」だとか「ロハス」だとかいった単語を思い出してしまう。どちらも自然志向のライフスタイルだ。競争に明け暮れるのはやめて、もっと価値のある食事に時間をかけようだとか、科学の発展で本当に価値のある何かを失ってしまっただとか、そんなような。要するに自然回帰。
そこまでいかなくても「経済を縮小させて云々」なんて言い出している人はごまんといる。
今回の原発事故を受けて、何でこんな発想になってしまうんだろう? おそらく、こういう人は元々ここういう考えを持っているんだろう。今回の事故から自然回帰的な発想に至ったんじゃなくて、「資本主義って何か嫌だな」「大事なものを失っているんじゃないか」って日頃から考えていて、安易に原発事故に繋げてしまっているんだ。
事故で問題だったのは津波対策をきちんとしていなかったことと、東電が隠蔽体質を発揮して泥沼に陥ってしまったことだ。そこで考えるべきことは、もっと確実な地震対策、津波対策はないのか、想定の精度をあげるにはどうすればいいのか、隠蔽体質に陥らないようにするにはどうしたらいいか、だ。
私には資本主義がどうこう言い出すのは、答えのだせない大きな話にして逃げてるようにしか思えない。
こういう人は何でもかんでも資本主義反対に繋げちゃって、貧しいアジアを見て「でも、ここには日本人が失ってしまった何かがある」とか言っちゃうのだろう。きみが感傷に耽っている数秒間に、水不足で死んじゃう人が何人もいて、それは科学の力で救えるんだけど。
もちろん、原発の代替案は探っていかなきゃいけない。でも、「昔に戻る」はとても安易な考え方だと思う。私には思考停止に思える。
僕は十年来の抗うつ剤服用者で、根本的に治さねばと思ってカウンセリングをうけたことが3度あるのだが、3度とも惨憺たる結果だった。
1回目は受診していた医者に進められたカウンセラーだったのだが、僕が小賢しかったせいなのか、物分りよくスムーズに治る患者を演じてしまったせいで、何も解決しないままカウンセリングが終結した。
2回目はなんかスピリチュアルなところだったらしくて、自律訓練の指導をされて(小学生の頃から自律訓練は本からマスターしていたので、この指導は全く意味がなかった)「額が涼しい」の状態に入ったところで「トラウマを思い出しましょう」「あなたのそばには誰がいますか?」「この世は魂が磨かれる場所です」などの謎な言葉をかけられるという妙な体験をしただけだった。あんなもんに通うくらいなら、坐禅組んだ後に坊さんの話でも聞いていたほうがまだましだった。
3回目は「カウンセリングは科学だ!」を標榜するカウンセラーだったのだが、到底僕にはそれが科学とは思えなかった。十数回セッションをやったのだが、僕の話したことに妙な解釈を付けて、挙句「あなたは別のカウンセラーを探した方がいい」と放り投げられた。
僕の結論は「少なくとも対話的カウンセリングは民間療法の域を全く出ない」というものだった。これから先どんなに辛くなることがあっても、カウンセリングに頼ることだけは無いだろう。壮大な時間と金の無駄遣いだと思う。
ただ、僕は心理療法のすべてを否定しているわけではない。認知療法などは正しく学んで使えば(メンタルの問題を抱えている人のみならず様々な人にとって)良いツールになっていると思う。
って書くとやばい宗教にでもはまった感じがするがそういう訳じゃない。
自分の感情がコントロールできない感じがあって、訳もないイライラ感があった。
2chで煽ったりもした。増田でブクマ稼ごうとしたりした。何の解決にもならないけどね。
未来への漠然とした不安とか、生とか死の意味付けとかから、仏教書を手にとったのがきっかけで
その読書の思ってもなかった副作用として、その感情というか思考のひきこもり感から脱した。
それらは全て自分の思考が引き起こしてて、その思考に気づけってのが仏教の考え。
あとそりゃあった方がいいが生きがいがなきゃ生きていけない訳じゃないことを何千年も前から言ってる。なんせ一切皆苦だからね。
簡単に伝わらんと思うし、別に寺行った訳じゃないから、ちゃんとした考えはわかんないけど、
手当たり次第、自分の状態に参考になるような本読んで、自分の思考とか行動を考えたりしてた。坐禅とか瞑想も一人でやった。
今はそのせいかわからないけど、前とは違う感覚があるし、いわば安定状態にある。
ボコられるのは仕方がないとして。
誰にも読まれないのはなんか手応えがないなあ、と思い、自称ネトウヨである俺のブログの記事を転載してみる。
メンヘルの寝言だと思って聞き流して下さい(と言っても、皆さん、容赦はされないと思いますが)。
~
戦後はともかく、戦前~戦争中の日本の戦車はとにかくしょぼかった(好きな人はごめんね)。
エンジンはディーゼルエンジン(ただし、技術的にはすさまじい)。装甲は紙のよう。
で、運転が無茶苦茶難しかった。戦車の運転手として、名人芸を問われた。
アメリカはどうか?
当然、ガソリンエンジン(しかもオートマ)。楽々前進。運転簡単。
司馬遼太郎は戦車乗りの一人として、米国の戦車と自国のそれを比べたとき、大変無念な思いをした訳ですよ。技術って普遍的なもので、優れた技術はそれを扱っている人間にはすぐに分かる。
で、この差はなんなんだろう?という話になる訳だけれども。
司馬遼太郎曰く、"文化"と"文明"の違い。今でこそ、日本のサービスは優れているけれども、戦前の日本は、"名人の文化"だった。「できないのは、お前がグズだからだ」という文化。タクシーの運ちゃんが「私は助手時代から一度も道を間違えたことがないのですよ」と威張れる文化(戦前の道路は、道は整備されていないし、道路標識もほとんど無かったので凄いことらしい)。
戦争中、すでにアメリカは、ベルトコンベアを採用したT型フォードの生産とかから始まる、機械の大量生産・大量消費の社会に入っていた。で、品質のバラツキをなくすため、品質管理をアホでもグズでも出来るように普遍的なマニュアル化、"文明化"した。日本の場合、品質は個々の情熱と自負心と技量に依存した"文化"だった。
日本は戦後、(サービスにおいて)、名人主義、"人はみな有能"という考えを捨てた。で、品質管理(QC)が、日本産業の基本的性格の一つになった。つまり、アメリカの"文明"を吸収して、日本"文化"にしてしまった。その結果、日本の航空会社のスチュワーデス(あえてこの語を使う)は(優しい)母親となって客を扱う、とは司馬遼太郎の弁。
まあ、大体、アメリカは移民の国であるから、モザイクのようにバラバラにまとまって住んでいる"文化"の違う住人達をまとめるには、普遍的な価値観の"文明"が必要だった面もあるかも知れない。
だから、アメリカは、"文明"的には優れているが、"文化"的には未熟、と言える。
だから、四つ足で一生懸命スタコラ歩く哀れなデザインのマシンを蹴り上げることが出来るのだ。Yes, We can !
参考映像→http://www.youtube.com/watch?v=W1czBcnX1Ww
まあ、俺辺りが簡単に説明できれば、誰も苦労はしないよなあwとは思いつつ、適当に私見を書こう。
結論から先に書くと、「禅的構造への落とし込み」だと思う。
じゃあ、"禅"とは何かというと、Wikipediaによれば、「ただひたすらに(坐禅を)実践せよ」とか「以心伝心」とか「言葉でなく体験」みたいな説明が出てくる。要するに、「空気読め」ということだと思う。多分、それが、日本人を日本人たらしめている。
「禅的構造への落とし込み」の例。
例えば、日本庭園の枯山水庭。とか言うと俺にもよく分からなくなるので、例えば、漫画とか。
昔の劇画でもアメコミでもバンドデシネでもいいのだが、基本的に良く描き込んである。でも、劇画は廃れ、現在の日本では、あまり描き込まれていない、もっとシンプルな記号化された漫画が主流だ。
これが何を意味するか?
まず、描き込むだけの時間がない、という面はある。つまり、「資源が少ない」のだ、我々は。島国は。で、例え結果的でも、描き込まれていないということは、紙に染みついたインクの量は少ないということである。ということは、それだけ、"何を紙に染みついた少ないインクにするか"考えなければならない。その結果、"何を書くか、どの線を選ぶかなどを作家が(生き残るために)魂を込めて選択しなければならない"(もちろん、適当に描いている人もいるかも知れないが、読者を脱力させるための線や展開などの構造を(無意識のうちに?)選んでいると思う)
で、アニメも描き込みの量が少ないわけだが、ストパンの監督は、エヴァンゲリオンの庵野秀明に「お前の描くパンツには魂がこもっている」と褒められたわけだ。
ゲームもそう。わびでもさびでも萌えでも良いのだが、日本の強みは現実の換骨奪胎と記号化であり、「逆に要素を少なくすることで、対象者に想像力を使わせる」のだ。禅的構造への落とし込みとは、「対象者に想像力を使わせるための魂のこもった取捨選択」だ。小さくまとめ上げる。美を追究する。そのために職人は技を磨き、我々は空気を読む。
で。
ハッカーの話になる。
「ソフトウェアは工業製品ではない」、Rubyのまつもと氏が講演 " @IT
http://www.atmarkit.co.jp/news/200904/10/matz.html
つまり、まつもと氏は、名人主義だ。
だが、そこが彼らの、我々の、日本人の限界性でもある。日本の技術者のかなりが未だに、紙のような装甲と、ディーゼルエンジンを装備し、精神を病むほどの"根性"で、自分を、現実を、だましだまし、日々を戦っている。
とは言え、泣き言や呪詛を並べても仕方がないのだろうが。
どうだろうか。歴史で繰り返される技術者の奢りであるかも知れないという疑念は?
正直、アメリカなら、やりかねないのではないか?
そのうち、ソフトウェア設計を合理化/普遍化/文明化/マニュアル化し、アホでも作れるようにしてしまうのではないか?
大抵のソフトウェアが適当に注文するだけで、9割方、自動生成されてしまうとか。しかも何回もやり直し可能。
俺はそれを恐れる(そして、楽しむ)。
現に、アメリカ発のインターネットというテクノロジーで、編集者は青息吐息ではないか。
多分、思いも寄らない方向から、必殺の一撃が来る、と考えた方が自然ではないか?
そいつは、非人道的に、無慈悲に、機械的に我々を殺しに来るのだ。我々は合理的結論で殺される。OK. 原爆はアメリカにとって合理性があったのであろう。殺される方はたまった物ではないが。それが村上春樹が恐れているものではないか。しかし、"技術革新は誰にも止められない"。
果たして、アホに生きる権利があることを許さない、名人主義のその狭量さが、限界性を作っているとしたら。そして、よりハッキリ言えば、技術バカ(ギーク)がやり手の営業マン(スーツ)に負けるように、好きでやっているアマチュアがプロフェッショナルの作った構造的罠に負けるように、負けるのが宿命づけられているとしたら(日本vs欧米のスポーツもか)。
もっとも、人間はどこかしらの部分で優越感を感じていないと生きていけない生き物であるから、腕のある人間はアホに優越感を感じて、差別して、見下して、生きているのだろう。底辺の人間が、例えば、外国人に優越感を感じて、差別して、見下して、生きているように(繰り返すが、それを自覚し、どう振る舞うかが重要なのであって、その感覚を無くせなどとは言っている訳ではない(というか、存在論の部分に関わってくるので無くせない)。どうプラスに活かすか。"かわいげがある"というのは、見下しているが、プラスの評価だ。だから、日本が"カワイイ"文化で世界に浸透してしまうというのは、結果的に正しい。日本人は連中に"文化"を教えねばならない(←ネトウヨの勝手な思い込み))。
それに、穀物を育てながら、畑を保守しながら、計画に戦略にロジスティクスにストラテジーに取り込まれて生きるのではなく、その時々において、メシの種(獲物)を見つけて狩りをする戦術や技術やタクティクスやアートや道(タオ)を追求するというのも一つの生き方であろう。男だね。侍だね。無形の型。戦略などないので強い者だけが生き残る。生き残ったから強い。まさに逆転の発想。なんということでしょう。匠の遊び心が光ります。お前ならどこへ行ってもやっていけるさ。じかい、ほくとのけんつ~!奥義、万物流転!誰だ、日本人は農耕民族だから、みたいなことを言ったやつは。責任者出てこい(とは単純には言えないのだろうけど。経済は生き物で、強弱の違いこそあれ、両面の才能は必要だろうから)。
・・・・・・少し落ち着きました。
さて、では、はてなは、どんな立場を取るのか。
名人主義のSNSへ向かうか。2ちゃんねらの底辺にいるようなアホの流入を前提にして、文明化するのか(一時期、そちらに傾きかけた・・・というか、あの時のはてな社長は血迷っていたのだろうか?)。今は、どちらでもない、なんだかよく分からない、迷走している状態だ。
それとも、近松門左衛門が虚構と現実のはざまに真に我々の心をうつものがある、と言ったように、迷走状態のはてなであるからこそ、我々の心をうつものがあるのだろうか?"不満を言う楽しみ"。"馬鹿な子ほどかわいい"。"灰色の魔女(違う)"。なんかね~、"相手の優越感をコントロールする"のがサービス業だとしたら、『あたしは、はてながどうしたっていいと思うし、何も言わないわ。はてなはよくやったと思うもの』ですよ(と、また話が明後日の方向へ)。