はてなキーワード: 1947年とは
※本人より聞いたまま書いたため何処まで正確な事柄なのか不明。
(祖父、当時83歳)
映画は昭和14年の10月ごろから観はじめた。当時14歳で静岡県浜松市の卸問屋で丁稚として働き、主にそこの配達仕事をしていた。その仕事にある程度の余裕ができてきたので、暇なときに映画を観に行けるようになった。映画館で映画を観たのは海兵に志願する前の18歳頃までだった。行っていた映画館は何軒かあって、機場町か塩町にあった「浜松アズマ座」、連尺町の「松竹館」、「浜宝映画」に主によく行っていた。その中でもアメリカの映画などの洋画は、「浜松アズマ座」でのみ見ることができた。映画会社の協定か何かで決まっていたらしいね。映画館には、フィルムの新しい、最新映画を見せる封切り館と、何ヶ月かまたは何年か前の映画を見せるところと二種類あったが、「アズマ座」は封切り館ではなかったので、たまにエノケン(榎本健一)の、まげもの(コメディー映画らしいです)を最新作として上映していたほかは、何ヶ月か、または何年か前の古い映画の、特に洋画を流していたよ。当時映画は2本立てが普通で、それに加えて短いニュース映画がついていた。(ニュース映画は、戦時中だったためかなりプロパガンダ色のつよい内容だったようです。)邦画は邦画と邦画の2本だったけど、洋画を見るときは邦画と洋画一本ずつがセットでの2本立てだった。洋画の方が邦画に比べて長かったからじゃないかな、だいたい洋画が1時間半くらいで、それに短めの邦画が一緒にやっていた。
洋画を見に来ていたのは、若者が多かった。英語を習っている学生なんかも多かったよ、映画は字幕だったから。自分も観ているうちに「カモーン」などといくらか覚えた。昭和12年頃はトーキー(声が入っている映画)と無声映画に弁師がいたのと半々だったけど、自分が映画を見はじめた頃にはもう大体今みたいな映画だった。あと、洋画は、高校生以下は保護者同伴でないと観に入ってはいけないという決まりがあった。自分は学校に行ってなかったから関係なく観ていたけども。
――どんな映画を観た?
初めて観たのは「ターザン」。20世紀フォックスだったかの、ハリウッドものの映画だったよ。主演のターザン役が何回も変わっていて、ターザンのシリーズは4本くらい観たことがある。バスター・クラブがやっていたのは覚えている。(バスター・クラブが主演を演じたのは「蛮勇タルザン」(1933) Tarzan the Fearless )ターザン役をやっていた奴は皆、オリンピックとかでメダルを取った選手だったみたいだよ。でも、「ターザン」を観た、と言ったら「そんなもの観るなんてガキだ」と奉公先の年上の人たちに馬鹿にされた。その次に覚えているのは、「ジェロニモ」。昭和15年に観た。タイロンパウアーが出ていた。(タイロン・パワーのことだと思います。しかしタイロン・パワーは「ジェロニモ」に出ていないようなので人違いでしょう。)アメリカのマフィアやなんかのギャング映画はあんまり受けてなかったなぁ。よくわからなかった。見た中で一番印象に残っているのは「再会」(1944制作。原題TOGETHER AGAIN。日本公開は1947年。このため、祖父が実際にこの映画を観たのは戦後であるのかもしれない。) シャルル・ボアイと、女の方がアイリン・ダンがやっていた。記憶喪失した女性が何年かして再び記憶を取り戻す話だった。
――その後は観る機会はなかったのですか?
19歳から兵隊として海軍へ行っていたので観られなかった。横須賀の竹山海兵団に3か月、そこで試験の成績がよかったので、飛行機整備学校へいって飛行機の整備についての勉強をしたよ。戦争も終わりの方だったから、整備学校では4か月ですべての事を勉強させられた。そして海軍で整備士として働いていたのだけど、そこで娯楽として洋画が観られた。教育期間中や、新兵にはみせなかった。「進め竜騎兵」(1936年制作)「ドナウ川のさざなみ」(詳細不明)「青きドナウ」(1963年公開のためこれも記憶違いか?)などを観た。あまり色んな種類がなかったらしく、同じ映画を何度も観せられた。
――なんで軍隊の中で観ることができたの?
敵の情報を知るため、というのが名目だった。でも、軍でみているということは他言してはいけないといわれていた。アメリカの映画を娯楽として観ることができたのは海軍だけだったみたいだ。映画のフィルムは、映画館から取り上げたものを上映していたらしい。映画を見るときは夕食を30分早くやって6時以降に観た。右舷、左舷と二つのグループに分かれていて、交替で観ていた。その頃は就寝が8時、飛行機の整備のためにパイロットの連中よりも1時間早く朝2時に起こされ飛行機の整備をしていた。
――戦争が終わった後は観に行った?
戦争が終わった後は、映画なんて見ている余裕がなかった。戦後すぐは警察官になっていたので、仕事の見回りで映画館にも観に行ったことはあった。でも昔ほどは興味がなくなり、外でたばこを吸ったりしている時間が多かった。
事実誤認がはなはだしいので、訂正しておく。
地方自治法の成立は1947年である。それ以前に自治体というものは存在しない。
現在でも道府県庁の幹部職員は自治省ー総務省から着任するケースが多い。
その名残が官僚が知事になるパターンである。ある意味で内務省以来の伝統が存続しているといえる。
また郡役所もすぐに消滅したが、郡自体は地域的な枠組みとして機能していることも多い。
江戸時代の村は消滅したわけではない。現在「区」として行政の下請団体として位置づけられている。
つまり、江戸時代以来の「村」は現在の市町村行政を支えているのだ。
また、江戸時代の村は用水や入会など多くの村と利害を共通とし、また競合もしている。
それほど事情は単純ではない。
法治国家を否定するラディカルな思想を持つ人がいても、おかしくはない。
しかし、日本が人治国家になったら法律は無用=法務を専業とする弁護士も不要となり、自らの存在意義を否定する「矛盾」に陥るのではないか?
オウム事件とこの集団対応は、この「前例のない事件に対しては前例のない体制で」でやってきた。それだけの大事件であり、特異な集団であり、特異な思想だったからです。
で、今回の支援要請につき、国が応えられないなんてありえない筈、と確信しています。
・その必要性があり、決して憲法に違反するものではなく、法令に違反するものでさえないのだから。
・日本が、テロと闘うならば、そのテロ行為の背景などにも対応していくことによってこそ、「闘う」といえるのだから。
助けてください。
社会は常に変遷して行く。かつてない状況に出会ったら、新たな対処方法を確立する必要がある。そこまではOKだ。
しかし、最初は手探りの試行錯誤ゆえ不具合が生じた場合、後でちゃんと不具合を修正できるのか?
滝本弁護士の独断で、関係者の利害を調整することなく、物事を強引に進めてしまった場合、その結果重大な人権侵害などが起きても、ちゃんと回復できる仕組みも併設されているのか?
新規の対応で失敗しないためには、ちゃんと保険もかけているのか?そこを注意深く観察する必要がある。
デリケートな問題を扱うにしては、十分な議論を尽くすだけの「慎重さ」が欠けていないか?
万一、間違った前例を作ってしまった場合、後戻りできなくなるのでは困る。
歴史を振り返ると、人類は多くの失敗を繰り返している。(同じ失敗を繰り返すのは、単なるアホでしかない。)
「前例がない」場合こそ、十分に時間をかけて話し合い、慎重に対処すべきという「共通認識」が必要だ。
民事および刑事の係争は、法律というルールに基づいて解決を図るべきだ。
なぜ、滝本弁護士は、他の利害関係者と対話の機会を持たないのか?独断と偏見で話を進めていないか?
司法試験の勉強をしたなら、少なくとも一度は日本国憲法を読んだことがあるはずだ。
1945年(昭和20年)に、ポツダム宣言を受諾して連合国に対し降伏した日本政府は、そこに要求された「日本軍の無条件降伏」「日本の民主主義的傾向の復活強化」「基本的人権の尊重」「平和政治」「国民の自由意思による政治形態の決定」などにより、事実上憲法改正の法的義務を負うことになった。
そこで連合国軍占領中に連合国軍最高司令官総司令部の監督の下で「憲法改正草案要綱」を作成し、1946年(昭和21年)5月16日の第90回帝国議会の審議を経て若干の修正を受けた後、同年1946年(昭和21年)11月3日に日本国憲法として公布され、その6か月後の翌年1947年(昭和22年)5月3日に施行された。
第14条 すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
なぜオウムだけは差別して、議論の輪から外しても良いと言えるのか?(言っていないなら問題ない。)
「好き嫌い」という感情ではなく、「真偽」という論理、すなわち法律(ルール)に基づく説明ができなければ、法曹としては失格だ。
パブリックコメントを発する以上は、他者からの質問に答える義務がある。(質問を受け付けないのなら、それは単なる独り言でしかない。結果、他者も聞く耳を持たず、自身が孤立する結果を自ら招くだけだ。)
滝本弁護士には、公開の場で質疑応答を行なうだけの「誠意」を見せて欲しい。
「テロ」といえば昨今の「テロ等準備罪」を巡る議論を思い出す。
「日本では犯罪を実行したことを罰するのが原則です。それに対して、共謀罪は犯罪の計画に合意したこと自体を罪ととらえ、犯罪を実行する前に処罰しようというものです。深刻な犯罪を未然に防ぐことが狙いです」
「過失」を巡る法理の分類は、歴史的に「旧過失論」「新過失論」「新々過失論」(危惧感説)などが挙げられる。
テロ等準備罪は、危惧感説に基づく新しいタイプの法律と言える。日本では、藤木英雄先生が先駆者として有名だ。
藤木英雄(1932年2月20日 - 1977年7月9日)は、日本の刑事法学者。元東京大学法学部教授。
戦後の数ある刑法学上の論争の中で、実務上最も重要な意義をもったのは過失責任を巡るものである。
藤木は、高度成長期において非伝統的な犯罪が多発するという状況に際して、新たに企業側の過失責任を拡張することで、被害に苦しむ市民を救わんと尽力し、新過失論を一歩進めて「新・新過失論」・「危惧感説」を提唱した。
危惧感説が登場する以前の新過失論は、逆に伝統的犯罪や交通事犯に対する過失責任の限定を意図していただけに、画期的な転換といえる。
危惧感説は、後に板倉宏らの一部の学者や検察官の支持を得て、森永ヒ素ミルク中毒事件で採用されるに至ったが、北大電気メス事件( 札幌高判昭 51.3.18 高刑集 29.1.78) では明確に排斥されており、学会でも一般的な支持は得られなかった。
日本ではまだ、危惧感説に基づく国民の合意形成が十分になされている状況とは言えない。(テロ等準備罪も始まったばかり)
従って、滝本弁護士が、「テロと闘う」という大義名分の下、かつてない法的判断を要求するつもりならば、日本国民に対する説明の義務が伴う。
滝本弁護士が単なる思い付きや感情論で言っているだけなら、後世に悪影響を残す有害な前例を作ってしまうかもしれない。
ハッタリではなく、滝本弁護士が藤木英雄先生の業績を踏襲し、発展させる意気込みがあるなら、一概に有害とは言えない。
従って、公開の場で議論を尽くされなければならない。
どのような方法で公開討論を進めていくべきか?日本国民全員で検討する必要がある。
(滝本弁護士には「オウム問題を風化させたくない」という思いがあり、さらに法治国家を否定しているわけじゃなければ、この結論に至るだろう。)
厚生省は少子化を未婚のせいとしているが、本当の原因は中絶の合法化(1948)だ。
http://www1.mhlw.go.jp/topics/syousika/tp0816-2_18.html
http://www.garbagenews.com/img17/gn-20170917-08.gif
上のグラフの通り、1947年までの出生率は4.5以上あったが、1948からたった数年で人口維持に必要な2.07を割っている。
それ以後は中絶前に生まれた最後の世代(戦争から戻った男性が子作りして生まれた世代)が子どもを産んだ1970年あたりで何とか2.07を超えたが、以後はまた2.07未満。
つまり、1947年まで人口が維持できていたのは中絶できなくて産むしかなかっただけで、ほんとは産むのも育てるのもイヤなのだ(当時の中絶の理由の最多は母体の健康状態)。1947年までは中絶は堕胎罪という犯罪だったので、妊娠したら産むしかなかった。
未婚率の推移グラフ
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/images/1540.gif
出生率が急減した1948年あたりは、逆に未婚率は下がっている(=成婚したのに子どもを産まなくなった)。
未婚率が顕著に上がり始めたのは1970年あたりだが、これは工業化により職住が分離して地縁のお見合いが成立しなくなったからだと言われている。
http://livedoor.blogimg.jp/ikikatahatarakikata/imgs/b/2/b28d39cf.png
見て分かる通り、高度成長期やバブルの頃に出生率や未婚率が改善した形跡はない。
あるのは中絶合法化前の最後のベビーブーム世代が1970年頃に出産した時の出生率の僅かな上昇だけで、それは景気や未婚率とは無関係である。
金があっても結婚したくないし子どもも要らない。それが戦後ずっと続いている動きだ。
昔はみんなが結婚して子どもがたくさんいたのは強制されていたからだ。
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ここまではデータに基づいた話。
以後はただの私見。
このように、厚生省の主張のままに未婚率を改善しても少子化は改善しない。
はてなーの言うように若い世代に金を回しても未婚率は改善しない。
個人の自由に任せれば社会は維持されず、社会の維持を掲げれば個人の自由を制限するしかないのだ。
でもこのご時世で社会のために強制結婚、強制出産なんて許されるはずもないだろう。
そうなると、出産と子育てを個人から分離して国としてやる必要が出てくる。
1948年3月10日の就任から4月17日(鈴木貫太郎死去)までの期間。内訳は
若槻礼次郎,岡田啓介,広田弘毅,平沼騏一郎,阿部信行 |
米内光政,東條英機,小磯國昭,鈴木貫太郎,東久邇宮稔彦王 |
幣原喜重郎,吉田茂,片山哲 |
一方で次代の吉田茂は,在任中に批判可能者が3名(東久邇宮稔彦王,片山哲,芦田均)にまで減少した。
これは歴代首相経験者が5名しかいなかった第4次伊藤内閣(1900-1901)以来の低水準である。
就任全期間(1947年5月24日~1948年3月10日)にわたって,上記リストから自身を除いた12名が存命であった。
野田は就任全期間(2011年9月2日~2012年12月26日),安倍は2度目の就任期間(2012年12月26日~)が該当。
中曽根康弘,海部俊樹,細川護熙,羽田孜,村山富市 |
森喜朗,小泉純一郎,安倍晋三,福田康夫,麻生太郎 |
鳩山由紀夫,菅直人,野田佳彦 |
なお臨時代理経験者を含めた場合,野田・安倍に対してはは青木幹雄が加わるが,芦田・片山に対しても後藤文夫が加わるため変動はない。
絶対に今が最大だろうと思って調べ始めたが戦中・戦後の混乱期には及ばなかった。ガセ情報に気を付けよう。
日本で「存命の元首相」の人数が最大となったのはいつですか? - ... - Yahoo!知恵袋
事件の犠牲者数については30万人説からゼロまで諸説あり、その背景として、「虐殺」の定義、地域・期間、埋葬記録、人口統計など資料検証の相違がある。
- 30万人以上 - 1947年の国民政府による南京軍事法廷判決書。中国共産党政府の見解はこれに依拠している。なお、この説には南京城外の犠牲者数は入っていない。30万人説は資料的根拠が乏しく、日本側の学者からは支持されていない。
- 20万人 - 極東国際軍事裁判判決。松井司令官に対する判決文では 10 万人以上。
- 11万9000人以上 - 南京郊外を含む説としては、中国兵犠牲8万、民間人犠牲3万9千(南京城内:1万2千人、農村部:2万7千人)、計11万9千人以上という笠原十九司がいる。
- 4万人 - 秦郁彦は、中国兵犠牲3万、一般人犠牲者1万人(南京城市のみ)で、4万人を上限とした。ほか久野輝夫は37,820人とする。中国文献では、中国軍約11-12万人のうち約4-6万人が南京で戦死と捕虜(行方不明を含む)とされる。
- 1〜2万 - 板倉由明は、中国兵の犠牲8千人と一般人の犠牲者5千人(南京城市と周辺農村部の一部(江寧県のみ))を合計し、1万-2万人とする。当時の戦闘詳報などの公式記録には約1万前後の敗残兵(捕虜)の殺害記録もある。
- ゼロ - 「大虐殺」否定説・戦時国際法上合法説では、30万人の市民の「大虐殺(大屠殺)」はなかったと主張。
いわゆるネトウヨは「全ての肯定派は30万人説を支持している」と批判する、
というズレがある。
人を殺すことは罪になるのか?
罪にならない殺人が存在していたとしても、殺されるときはどんな人でも苦しむだろう。
人を殺し、苦しみを与えることに、一体どんな価値があるのだろうか?
謎は深まるばかりである。
ベン・ブルース・ブレイクニー(Ben Bruce Blakeney, 1908年 - 1963年3月4日)は、アメリカ合衆国の陸軍軍人・法律家。東京裁判においては、東郷茂徳、梅津美治郎の弁護人を務めた。
開廷早々の管轄権問題では、国際法に戦争に関する法規があることから戦争は犯罪ではないと主張し、検察側立証段階では、有効な反対尋問を行った。
「歴史を振り返ってみても、戦争の計画、遂行が法廷において犯罪として裁かれた例はない。
我々は、この裁判で新しい法律を打ち立てようとする検察側の抱負を承知している。
「国家の行為である戦争の個人責任を問うことは、法律的に誤りである。
何故ならば、国際法は国家に対して適用されるものであって、個人に対してではない。
個人に依る戦争行為という新しい犯罪をこの法廷で裁くのは誤りである。
それは殺人罪ではない。
たとえ嫌悪すべき行為でも、犯罪としてその責任は問われなかった。
(以下の発言が始まると、チャーターで定められている筈の同時通訳が停止し、日本語の速記録にもこの部分のみ「以下、通訳なし」としか記載されなかった)
キッド提督の死が真珠湾攻撃による殺人罪になるならば、我々は、広島に原爆を投下した者の名を挙げることができる。
我々もそう思う。
それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。
原爆を投下した者がいる。
この投下を計画し、その実行を命じ、これを黙認したものがいる。
その者達が裁いているのだ。
と発言、
1947年3月3日にも、イギリスとソ連のパリ不戦条約違反を主張するとともに、原子爆弾は明らかにハーグ陸戦条約第四項が禁止する兵器だと指摘した。
更に、太平洋戦争段階の外交部門の主任を務めた山本熊一を証人に立たせて、「近衛手記」や野村吉三郎電報を駆使し、日本が日米交渉に最後まで努力したことを立証しようとした。
また、米国議会の真珠湾攻撃調査の委員会での証言や、開戦当時諜報担当だったブラットン陸軍大佐を証人に立たせてアメリカの電報傍受の事実を指摘した。
「メジャーリーグ史において最も重要な40人」はアメリカの著名スポーツメディア「スポーティングニュース」が先日発表して話題となったもの。ソースはこちら。
The 40 most important people in baseball history, ranked | MLB | Sporting News
ここで挙げられている40人について調べてみたんだけど、筆者はMLBにそこまで詳しいわけではないので、何か誤認・誤訳があったらごめんな。
MLB史上最大のスター。驚異的なペースでホームランを放ち、MLBの野球を「ライブボール時代」へと変えた。当時、ブラックソックス事件により信頼を失っていたMLBは、ルースの人気によって復活し、さらにはアメリカ最大のスポーツにまでなった。
近代MLBにおける初の黒人選手。ニグロリーグで活躍した後、1947年にドジャースでMLBデビューして、MLBの「カラーライン」を打ち破った。またMLBの初代新人王でもある。
1920年、ブラックソックス事件の収拾を図るために、強大な権力を有するコミッショナー職が新設され、判事であったランディスが就任した。事件に関わった8人の選手は永久追放とされ、その厳格な対処がMLBの信頼回復に繋がったと考えられている。
1900年にアメリカンリーグを創設し、現在まで続くMLBの2リーグ体制を作り上げた。審判に権力を与え、違反行為に厳しい罰則を課すことで、クリーンなイメージを生むことに成功した。強権的な性格から、のちにランディスと対立して辞任した。
カージナルスやドジャースのGMを歴任し、MLBで初めて選手育成のためのファーム制度を整えた。また、ジャッキー・ロビンソンと契約して、黒人選手がMLBに参加する道筋を作った。
1966年、エコノミストとしての経験を買われてMLB選手会の代表に就任し、最低年俸の増額、選手年金の拡充、そしてFA制度の導入に貢献した。彼の在任期間中に選手の平均年俸は1.9万ドルから32.6万ドルにまで向上した。
スポーツ用品のSpalding社を興し、ナ・リーグ創設にも関わった。初めて野球のルールブックを出版、ボールの標準化に努めるなど、初期のMLBの発展に尽力した。野球選手としても超一流で、通算勝率のMLB最高記録を保持している。
シカゴ・カブス(の前身)の社長であり、1876年のナショナルリーグの創設者の一人である。のちにナ・リーグの第二代会長に就任して公正かつ厳格な運営を行い、MLBの基盤を作り上げた。スポルディングとは盟友だった。
黒人野球チームのスター選手であり、また球団オーナーとしても成功した。彼の呼びかけによって、1920年にニグロリーグが設立された。「ブラックベースボールの父」と呼ばれる。
野球評論家・統計家で、「野球の父」とも呼ばれる。ボックススコアを考案して試合の記録を取り、「打率」などの指標を提唱した。またスポルディングのもとでガイドブックを刊行するなど文筆活動も盛んに行い、野球の普及に多大な貢献をした。
元はブルワーズのオーナー。MLB選手会とオーナーの対立が激化していく中で、1998年(実質的には1992年)に第9代MLBコミッショナーに就任。リーグの再編、収益分配制度の導入、オンライン配信の開始などにより、就任前と比較して5倍以上とも言われる空前の収益をMLBにもたらした。
ドジャースのオーナー。冷徹な経営者であり、1957年に球団をブルックリンからロサンゼルスへ移転させた。それによりアメリカ西海岸における野球ビジネスを開拓し、経済的には大成功を収めたが、ブルックリン住民からは深く恨まれた。
1977年から1988年まで刊行した「Baseball Abstract」を通じてセイバーメトリクスを提唱した。米国野球学会(SABR)のデータと統計の手法を用いて、RCやRFなどの様々な新しい指標を作り出した。
1974年、ドジャースの選手だったトミー・ジョンに、自らが考案した靭帯再建手術を施し、それを成功させた。この手術は「トミー・ジョン手術」として、いまでは広く施術されている。また、1990年には肩再建手術も成功させている。
ブレーブスで活躍し、ベーブ・ルースの記録を超える通算本塁打755本を放った。黒人のアーロンが白人のルースの記録を破ることには反発もあったが、彼はそれを乗り越えた。通算打点2297点は現在でもMLB記録である。
ヤンキースに所属し、当時の記録である2130試合連続出場を達成して「鉄の馬」と呼ばれた。しかし筋萎縮性側索硬化症に苦しみ引退、そして37歳の若さで亡くなった。背番号の「4」はMLBで初めて永久欠番となった。
野球クラブのニッカーボッカーズや全米野球選手協会(NABBP)において、チームの人数や塁間の距離、一試合のイニング数、バウンドルールの撤廃など、基本的なルールの策定に貢献した。遊撃手のポジションの創始者とも言われる。
(野球ルールの策定に関してはアレクサンダー・カートライトの名前がよく挙がるが、現在ではドク・アダムスを評価する声が多いようだ)
ニグロリーグで活躍した後に、MLBで最初の黒人スカウトとなり、最初の黒人コーチとなった。ニグロリーグ野球博物館の設立や、ドキュメンタリーへの出演、多くのインタビューを通して、ニグロリーグへの関心を高めることに尽力した。
MLBにおけるヒスパニック系選手の先駆けであり、中南米出身で初めてMLB殿堂入りした。慈善活動中の飛行機事故により38歳で亡くなり、そのため慈善活動に貢献した選手に贈られる賞にその名が冠されることになった。
肩、肘、膝に関する整形外科医。1985年、ロジャー・クレメンスに施術した関節鏡手術で脚光を浴び、以降もスポーツ医学の権威として数多くの選手の手術を担当している。
「シューレス」の異名で知られるMLB初期の名選手。しかし、MLB最大の八百長事件であるブラックソックス事件に巻き込まれ、MLBから永久追放された。ファンは彼に同情的であり、いまなお悲運の選手として記憶されている。
最多安打4256本や最多出場3562試合などのMLB記録を持つ「安打王」。しかし、引退後の1989年に野球賭博に関わっていたことが発覚し、MLBからは追放された。
走攻守すべてに優れたMLB史上最高のオールラウンダーであり、当時MLBにおいて台頭しつつあった黒人選手の代表格でもあった。オールスター24回出場は最多タイであり、「オールスターはメイズのために作られた」と評された。
1901年にアスレチックスの初代監督に就任すると、それから1950年まで指揮を取り続け、5度のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。もちろん監督の就任期間としてはMLB史上最長である。
上院議員、ケンタッキー州知事、そして第二代MLBコミッショナー。ランディスが黒人参加に否定的だったのに対して、チャンドラーは進歩的であり、1947年にドジャースおよびジャッキー・ロビンソンを支持し、その契約を承認した。
連邦最高裁判所の名判事として著名。1922年、球団が選手の移籍を制限できる「保留制度」について、それが反トラスト法に該当しないとの判決を下した。これにより、現在までもMLBは反トラスト法適用免除の特例として扱われている。
1900年にパイレーツのオーナーとなった。その後のナ・リーグとア・リーグの対立を調停し、「ワールドシリーズ」を提唱して1903年の初開催に尽力した。また1909年に、鉄筋コンクリート製の近代的な球場を建設したことでも知られる。
スコットランド出身のビジネスマン。1934年、野球発祥の地であるクーパーズタウン(これはスポルディングが広めたデマであるが)に野球博物館を作ることを思いつき、そのアイディアがアメリカ野球殿堂の元になった。クリーランド自身は野球に全く興味がなかった。
レッドソックスで活躍し、MLB史上最高のバッターの一人とされる。最後の4割打者であり、通算出塁率.482はMLB記録である。1970年に刊行された、自身の打撃理論を記した「The Science of Hitting」は、後の多くの打者に影響を与えた。
大学で統計を学び、1969年にスポーツ百科事典「The Baseball Encyclopedia」を、1974年からは「Sports Encyclopedia: Baseball」を毎年刊行し、高い評価を得た。他にサッカーやバスケットボールの百科事典も編纂している。
ジョン・マグローらと並んでMLB史上最高の名将とされる。ホワイトソックス、アスレチックス、カージナルスの監督を歴任し、ワールドシリーズを3度制した。データを駆使した細かな継投を得意とし、現代的な「クローザー」というポジションの確立に貢献した。
MLBで首位打者を獲得するなど活躍し、引退後は監督となった。1934年に日本の野球チームと対戦したとき、相手チームに「ジャイアンツ」というニックネームを贈った。1949年に訪日した際にはチームを率いて全国巡業を行うなど、戦後日本に野球を広めるのに貢献した。
アストロズのオーナー。1965年、世界初のドーム球場・アストロドームを建設し、さらにドーム球場では天然芝が使えないために、人工芝アストロターフを開発した。人工芝は70年代に流行し、その走りやすさからMLBの野球をスピーディなものに変えた。
MLBのインターネット部門であるMLB Advanced Media社(MLBAM)のCEO。MLB.comを運営し、試合のオンライン配信や、チケットの販売などを開始したことで、巨額の利益を上げている。
1998年のサミー・ソーサとの最多本塁打争いにより、1994年のストライキで低迷したMLBへの注目を取り戻した。最終的に70本塁打を放って当時の新記録を作ったが、2005年頃からステロイドの使用が確実視されるようになり、その名声は失墜した。
1969年、カージナルスに所属していたフラッドはトレードを拒否し、マービン・ミラーと共に「保留条項は反トラスト法違反であり、トレードは無効である」との訴訟を起こした。裁判には敗れたが、この事件をきっかけにFA制度が導入された。
日本での任意引退を経て、1995年にMLBのドジャースと契約した。30年以上前の村上雅則を除けば、MLBで長年に渡って活躍した初めての日本人選手であり、その後も続々とMLBに移籍する日本人選手たちの先駆けとなった。
1977年のワールドシリーズで、当時のMLBコミッショナーだったボウイ・キューンは、女性記者であることを理由にラットクの取材を許可しなかった。彼女は平等な取材を求めて訴訟を起こし、勝利した。これ以降、全てのチームが取材に制限を設けないようになった。
1920年、カージナルスの選手だった彼は、野球用品メーカーとして有名なローリングス社に、グラブの親指と人差指のあいだに「網」を貼るべきだと提案した。これにより現在の形の野球グラブが完成した。
2002年、レッドソックスのGMに史上最年少となる28歳で就任する。2004年のWS優勝で「バンビーノの呪い」を打ち破ると、2012年には新たにカブスの球団社長となり、2016年のWS優勝で「ビリー・ゴートの呪い」までも打ち破ってみせた。
青空文庫で「居場所」を用例検索してみたが、多くは普通の「○○が居る場所」という意味で使われていた。
強いて言うなら…ってのが宮本百合子著 二つの庭(1947年)
心と体の居場所がなくて、あちこちをふらついていた伸子は、漂いよったように古風な客間に入って来た。榧かやや楓、車輪梅などの植えこまれた庭は古びていて、あたりは市内と思われない閑寂さだった。竹垣のそとで、江田がホースを使っている水の音がきこえた。
伸子は竹村に対して、特殊の感情はなかった。よしんば竹村が、伸子にわかるような感情表現をしたとしても、伸子はそれで動けただろうか? この間、温室を見に行ったとき、夕飯の仕度をしながら、竹村と素子が手のことを話したときの微妙な感情の流れ、そこにも伸子は、自分の居場所から動けない自分の心を直感した。
民進党が党を挙げて擁立した、いわば野党の代表が就任早々に言ったセリフがこれだ。
事業仕分けで散々叩かれ、二重国籍問題で叩かれ、またも燃料投下。もはや炎上ブロガー以上の炎上スキルである。
続けてこう発言した。
「今の政権では社会保障の充実が置き去りにされている」(中略)
「人生の先輩方がどうやったら元気で、長く、自分らしく生きることができるのか、大きなかじ取りをさせていただきたい」
http://www.sankei.com/politics/news/160919/plt1609190021-n1.html
我が国の一般会計予算96兆円(H27)のうち、33%(31兆円)は「社会保障費」である。そのうち、いわゆる老人に使うカネである年金医療介護保険給付費 (年金,医療,介護)は23兆円なのだ。※1
つまりざっくり言うと、国家予算の23%は老人に費やしているのだ。この国の未来よりも、選挙で一番投票層の厚いこの世代の事を考えれば怖いもの無しというわけでしょうか。彼女はこれ以上社会保障費を充実して、何を削るというのだろうか?
社会保障費に対して、我が国の"未来への投資"はどうだろうか?
「文教及び科学振興 」(5兆円)と「公共事業」 (6兆円)の割合は合わせて11兆円程度であり、わずか11%にすぎない。
たしかに年配者は聡明で何でも知っており、できれば長生きして貰いたい人だっている。けどそれとこれとは別で、老いれば誰しもが、もはや独りで自立できる状態では無くなってくるのだ。
きっと原因は進みすぎた医療にあるとおもう。
いや医療技術は技術としては本当に素晴らしい。大昔の平均寿命を考えれば、もはや神の領域だ。しかし医療の恩恵を受けるのは身体のみであり、脳は延命治療は施せない。本来であれば脳が死ぬ前に身体が死ぬはずだったとしても、現在は身体が医療により脳の寿命より延命される。
つまり脳が死んでもなお身体は生き続ける。これが認知症の状態だ(少なくとも私はそう認識している)。
江戸時代の平均が30~40歳で、平均寿命が50歳を超えたのは戦後すぐの1947年。医療によりわずか70年で平均寿命はさらに35年も伸びたのだ。
現在、要介護認定者は2014年に600万人を超え、65歳以上の約2割を占める。(全体の人口の5パーセント)
この中のどれだけの人たちが認知症なのかはわからないが、医療により身体と脳の寿命のバランスが崩れてきているのではないかという気がする。
自立していたであろう大人が年を追うごとに、赤ん坊に帰化するかのごとく、頭も身体も、自分の足では立つことが難しくなる。
経済上も若者が納めた税金で年金を享受し、介護では肉体的に若者に支えてもらっているのが現状だ。それ自体は仕方がないし、支え合うのは当然だ。
しかし、老人ホームへ赴くたびに若者がこんな処で消耗していていいのか?と思う。
貴重な国の財産であり、これからの未来を担うはずの若者が老人ホームで、もうすぐ死ぬであろう者のお世話をしている。きっと好きでやっているんだろうな。
そう考えるとおこがましいが、勝手にどこかで彼らに対し"勿体無い"という気持ちになる。
高齢者に対し、身体的にも経済的にも投資することに対する見返りはほとんどない。いわば"沼"なのだ。反発係数ゼロの壁だ。そこへ投資するカネはとたんに"死に金"になる。
我が国はこれ以上本当に高齢者に、莫大な時間と、若者の手と、カネを費やす必要はあるのだろうか?
ただでさえ各国に追い抜かれ、後進国となりつつある我が国は若い層を大事にしなければならない。
子供を産ませ、教育サービスや経済的支援を充実し、社会資本整備による国際競争力の向上、モノづくりに対する支援などで景気を好転せねばならない。でなければ、もう手遅れかもしれないが、秒読みでもっともっと情勢は悪くなるだろう。
いずれは自分も、散々上記に挙げたような高齢者になるし、その時に誰にも助けてもらえなかったらと心配もするが、高齢者問題はこのままではあまりにも大きな重りとなって、この国を沈めてしまうだろう。
高齢者は尊いし知恵もある人生の先輩だ。いつまでも元気で自分らしく生きて欲しいと願う気持ちも当然ある。
かつて高齢者は大事にしなさいとはよく言われたものだが、それは高齢者が数少ない貴重な存在だったからだ。貴重なものは確かに大事にすべきだが、高齢者はもはや増えすぎだ。
正直アンバランスである。数が多いものを大事にする必要があるかというとそんな事はないように私はおもう。
もう子供の名前はわからないし、駄々をこねたように暴れたり、暴れお漏らしだってする。でもそんなことすら1時間もすれば忘れる。
そんな姿を見て、昔の姿と対比して、生きるってなんだろう?と思う。動いてれば生きてるということなんだろうか?解放できるのであれば、解放させてあげたいがそんなこともできない。
そんな祖母は上に挙げた社会保障費から補助金で施設に置くことができているし、幸運にも祖母自身にも貯金があった。そういう身内を支援する仕組みや貯金があって不幸中の幸いというやつだ。
よく無理心中の話も聞くが、これらが無かったらと思うとゾッとする。しかし世の中には当事者の貯金もなく、要介護認定を得られなくて苦しんでる人だって、おそらく相当沢山いるのだろうな。
どうやって高齢化問題を解決すればいいのだろう。現代版姥捨山が必要なのではないか?
安楽死という手段が合法化し、本人にも身内にも安楽死という手段が選択肢に入るようにする。
これくらいしか思いつかない。というかこうでもしなくてはいけない段階にきているのではないかと思う。でも人間の尊厳とかでそんなことを実現するのだって無理なんだろうな。根深い、根深いよ
※1 内訳には医療も含まれており一概に老人に使う金とは言えないが、医療費のかなりのウェイトを老人が占めるので多少大げさだがこの表現とした。
http://www.publicpolicypolling.com/main/2013/04/conspiracy-theory-poll-results-.html
「Public Policy Polling」より2013年の調査。
地球温暖化:アンケートに答えた人のうち37%が「温暖化はウソ」と信じている。本当だと考えている人たちは51%。共和党員は民主党員に比べて温暖化デマ説を信じやすい傾向にある。ミット・ロムニー(2008年と12年のアメリカ大統領選挙共和党候補者)支持者の61%は温暖化デマ説を信じている。
ビンラディン生存説:回答者のうち6%が「オサマ・ビン・ラディンはまだ生きている」と信じている。
9.11テロ・イラク関与説:回答者のうち28%がサダム・フセインは9.11テロに関与していたと信じている。ロムニー支持者の36%がこの説を信じているが、一方で41%はそう考えていない。
ロズウェル事件:回答者の21%が1947年にロズウェルでUFOが墜落し、政府がそれを隠蔽したと考えている。ロムニー支持者の27%、オバマ支持者の16%がUFOの実在が隠されていると考えている。
影の支配者:回答者の28%が、グローバリズムを信奉する影の権力者たちが世界の秩序をコントロールしていると信じている。ロムニー支持者のうち38%がそう信じており、35%がそうではないと思っている。
ワクチンで自閉症:回答者の20%が子供時代のワクチン接種が自閉症を誘発すると信じている。51%は信じていない。
オバマ=アンチキリスト説:回答者のうち13%がオバマ大統領のことをアンチキリストであると信じている。ロムニー支持者のうち22%がそうした考えの持ち主である。
イラクの大量破壊兵器査察問題:ブッシュ大統領が(イラク戦争の開戦理由であった)イラクの大量破壊兵器の所持について故意にミスリードを行ったかどうかについては、ほぼ半々に意見が分かれている。ブッシュが故意にウソをついていたと考えるのは政党別に、民主党員で72%、無党派層で48%、共和党員で13%。
CIA売人説:回答者の14%が「1980年代にアメリカの都市部にコカインを広めたのはCIA」と信じている。
飲水にフッ素:回答者の9%が「政府がある邪悪な意図から私たちの飲水にフッ素を混入している」と信じている。
レプリタリアン:回答者の4%が「"爬虫類人"が政治的な権力を握って私たちの社会を操っている」と信じている。
ケネディ暗殺:回答者の51%が「ケネディ暗殺にはより大きな陰謀が隠されている」と信じている。オズワルド単独犯説を信じているのは25%。
ビッグフット:回答者の14%がビッグフットの存在を信じている。
メディアによる洗脳:回答者の15%が「政府やメディアは国民をTV信号波を介して国民をマインドコントロールしている」と信じている。(いわゆる「アルミホイル帽ピープル」)
飛行機雲の成分:回答者の5%が「飛行機が飛んだ跡に出る飛行機雲は、邪悪な意図をもった政府によって散布されている悪い化学物質」と信じている。
病気を造る製薬会社:回答者の15%が「新しい病気は医療業界や製薬業界が金儲けのために『発明』したもの」と信じている。
ポール・マッカートニー死亡説:回答者の5%が「本物のポール・マッカートニーは1966年に死んだ」と信じている。
9/11政府陰謀説:回答者の11%が「政府は9.11テロの情報を事前に掴んでおきながらあえて黙過した」と信じている。78%は否定派。
関税かけまくってブロック経済を築き上げたせいで戦争をひきおこした反省から、自由貿易万歳な世界を作ろうとしたけどやっぱそれも色々無理があってみんな経済以外のことも包括した地域協定作るようになってまあTTPもその一貫だよ。
WWI終戦
アメリカ「ゾウさん(共和党)政権になりました。でも保護貿易はもっと好きです」
ヨーロッパ「こちとら世界大戦でボロボロなんじゃクソ米野郎殺すぞ」
アメリカ「うわあ、なんだか大変なことになったぞ」
アメリカ「とりあえず、世界のことはほっといて国内産業を保護するか。いでよ! スムート・ホーリー法!」
スムート・ホーリー「歴史上類に見ないほどめっちゃ高い関税かけます」
アメリカ「ハハハ! つよいぞーかっこいいぞー!!」
→世界経済ますます悪化。ブロック経済化が促進。そして、WWIIへ。
ヨーロッパ「……という悲劇があったので、これからは関税とかなるべくかけるのナシにしよう」
アメリカ 「だよな。おれ昔からマジそれ考えて色々やってきてん。ってかみんなで最恵国待遇やればよくない?ピース」
ヨーロッパ「(マジむかつくなこのジャリ……)じゃあ、これからは自由貿易な。まず条約作ってそのあと機関的なもの設立しよう」
ヨーロッパ「どうした」
アメリカ「ごめーん。ママ(議会)がダメっていうから機関のほうは無理だわ」
ヨーロッパ「おまえなーっいつもなーっ」
アメリカ「あと加盟するから、うちの農産物のこれとこれとこれを対象から除外してくれ」
ヨーロッパ「」
1950's ディロン・ラウンド交渉
ヨーロッパ「と、とりあえずなんとかGATTができた。とりあえず関税率のひきさげとかこれからみんなで相談していきましょう」
60s ケネディ・ラウンド交渉
GATT「工業製品の関税を一律で大幅引き下げることに成功したぞい」
70s 東京ラウンド交渉
ヨーロッパ「えー、今回も関税引き下げますけど、関税だけ下げても他に姑息な手段使って実質保護貿易じみたことしようとする(非関税障壁)馬鹿がおるので、そういうのもガンガン規制していきます」
アメリカ 「ギクッ」
80s ウルグアイ・ラウンド交渉
GATT「工業製品に比べてダンチにムズかった農業産品の関税も下げることにしました。
あとまー、知的財産権とかサービス業の輸出入とか、そういうのも大事だよねこのグローバル化社会」
90s ドーハ・ラウンド交渉
GATT「途上国とか巻き込んでいろいろ欲張ろうとした結果、うまくいきませんでした」
世界貿易機関「苦節半世紀、やっとオトナ(機関)になれました」
アメリカ「感動的だなあ」
ヨーロッパ「ほんっっっとーにな」
アメリカ「すっかり自由貿易が世界の常識なってアメリカさんは満足です。議会は相変わらずうるさいけど。なあ、ヨーロッパさん」
ヨーロッパ「うん、そおね」
ヨーロッパ「あ、これはね……」
アメリカ「ブロック経済圏じゃない? ずるくない? みんなでやろうって言ったじゃん! なにヨーロッパだけ内輪でそんな作ってるの!! GATT違反だ!!!」
ヨーロッパ「ち、ちがうよ……そもそも違反じゃないよ。GATTの24条で「地域内における関税その他の貿易障壁を撤廃すれば地域経済協定OK」って規定されてんだよ……」
メヒコ「わーいやろうやろう」
カナダ「……やだなあ……」
NAFTA爆誕
2000年以後
日本「WTOは出来たけど、やっぱみんなでみんなで仲良く自由貿易やるのって限界があるよな。ドーハ・ラウンドはあんななっちゃったし、最近じゃEUさんが成功したおかげで各所で似たような枠組みが雨後の筍状態だし……のるしかないな、このビッグウェーブに!!」
→ASEANをはじめとした地域・国々と独自の自由貿易協定を結びまくる。
シンガポール「うちらもなんか作ろ。金融とか情報とか著作権とかその他もろもろナウいもん全部乗せでさ」
ニュージーランド「そっすね。名前は『環太平洋戦略的経済連携協定』がいいかな」
ブルネイ 「かっこいい」
チリ 「なんかバラバラな感じのメンツだけど気にしない方向で行こう」
アメリカ「NAFTAのおかげで南北アメリカ大陸は制覇したけど、やっぱこれからは環太平洋地域だよな……でも一から作るの面倒だし……」
アメリカ「お、あそこにちょうどよさげな枠組みあるやんけ! GATT24条もクリアしてるし! おーい、入れてくれ」
TPP 「マジか……まあアメリカさんが入ってくれたら心強いっちゃけど……」
オバマ「がんばろう」
議会「がんばれない」
オバマ「がんばろう」
オバマ「がんばろう」
民主党「がんばれない」
オバマ「がんばろう」
共和党「普段は敵だけど、今回は強力してやるよ」
その前に79歳の誕生日より一般社会から隔離された施設に移住しないといけない。
そうしないと、死ぬ前にやりたい放題やってやろうと大きな犯罪に手を出す馬鹿が出るから。
これは老人差別じゃないよ。安楽死は国民全員に適用されるわけだから。
団塊世代の始まりは1947年生まれとのことなので、1947年生まれの国民から安楽死制度を適用しよう。
自分の寿命の上限が定められていれば、お迎えが近い人はできるかぎりの消費をするのでお金が回る。
年金や高齢者の医療費を無くせれば消費税は廃止できるし、社会保障は手厚くなり、貧困による犯罪や自殺は激減する。
働かなくても死なない社会なら労働は売り手市場になり、多くの人がまともな選択の上で仕事に付ける。
ども、ブクマでは散々突っ込みかましてる本業個人店経営チャレンジなう(死語)な、整体師のオバサンです。
なんだか、
乳幼児の頚椎カイロの死亡事故
首ひねる独自マッサージ後乳児死亡 NPO代表任意聴取:朝日新聞
http://www.asahi.com/articles/ASG9631WYG96PTIL003.html
から、
国家資格(あはき法免許)取得者による整体師やリラクゼーションのお店への批判論
なぜ整体やカイロ、無免許マッサージは放置されているか。 - Togetterまとめ
http://togetter.com/li/716729
へと発展していったのを見て、
なんだかいろいろ考えてたことぶちまけたいなー、
と思ったので、
今までこの「リラクゼーション」と「整体」に身を置いてきた私から見た、いろいろなよしなし事を、まとめてみたいと思います。
とはいっても、反論とか言うんじゃなくて、自分が今まで知ってきた事見てきた事聞いてきた事感じてきた事をつらつらとまとめてみたものです。
あくまで参考に、という感じでとらえて頂けたらなぁ、と思います。
いやぁ書いてるうちにめっちゃ長文になってもた。ごめんなさい。
50代は団塊世代じゃない。
俺達のへの当てこすりのつもりで、聞こえるように「老害」の「団塊の世代」というが、団塊の世代なんかうちの会社にはいないぞ。
一緒にしてほしくないのでもっと別の言葉を考えてくれ。「老害」は分かったから。
俺達も奴らが美味しいところだけ食い逃げするのを目の当たりにした側だ。お前らからみて敵なのは構わないが、少なくとも奴らと一緒くたにしてほしくない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%A1%8A%E3%81%AE%E4%B8%96%E4%BB%A3
人口論による一般的な定義としては、第一次ベビーブーム時代の1947年から1949年までの3年間に出生した世代を指す。
案外、お前らの父さんこそが団塊の世代だったり、それに近かったりするんじゃないのか?
おおもとになった堺屋太一の「団塊の世代」(1976年)を読んだことはないが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A3%E5%A1%8A%E3%81%AE%E4%B8%96%E4%BB%A3_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)
によると、
第四話 民族の秋
1999年が舞台。高齢化による年金や医療などの社会保障制度危機の話。
慰安婦がいたことを否定しているのはただの馬鹿なんだけどなぁ。
「軍に連れ去られた」とかその手のが気になるって話なんだよね。
年齢があやふやって事は、「慰安婦であった事」は嘘ではなくても、他の証言の信頼度は落ちるだろうって話なんだよね。
強制連行された年が不明って事は、それ本当に「日本軍だったの?」とか。
http://tanakaryusaku.jp/2013/05/0007159
始めにマイクを握ったのは金福童(キム ボクトン・88歳)さん。金さんの次に吉元玉(キル ウォノク・86歳)さんが話した。金さんは自らの体験を詳細に、吉さんは自らの体験には触れずひたすら平和、世界に遍在する戦時性暴力に対する解決を訴えた。
「満14歳の時、軍需工場に行くと言っていたのに、着いたのは日本ではなく戦場、遠い暑い国だった。そこで私は日本軍の奴隷となった。台湾を始め、中国の広東に着いた時は陸軍の軍医が身体を調べた。そこでは何人入るのか知っていて、私達の部屋が用意してあった」。
「満14歳」
ここだと年齢は88歳か。
http://article.okinawatimes.co.jp/article/2013-05-20_49450
旧日本軍「慰安婦」で韓国人の金福童(キムボクトン)さん(87)が18日来沖、西原町内で大学生らとの交流集会に臨んだ。その後の記者会見などで金さんは、日本維新の会共同代表の橋下徹大阪市長の一連の慰安婦発言を批判し、謝罪を求めた。
金さんは14歳のころ、旧日本軍に「軍服を作るために日本へ行く」と日本統治下の韓国から連行された。アジア各地の前線を転々とし、8年間、「慰安婦」を強いられた。
http://article.okinawatimes.co.jp/article/2013-05-20_49447
「国家による性暴力に遭い、人権を踏みにじられた少女のことを知ってますか」。韓国人の元「従軍慰安婦」、金福童(キムボクトン)さん(87)が、舞台の上から「慰安所」での生活を語り始めると、会場は静まり、地をたたく雨の音が響いた。
金さんが14歳のころ旧日本軍に連行された場所には、複数の部屋を備えた慰安所があったという。金さんは「日本政府は民間人が慰安所をつくったとしているが、(戦時下の)民間人があのような慰安所を準備できただろうか」と軍の関与を指摘。「日本政府はうそをつかず、公式に謝罪してほしい」と訴えた。
「14歳のころ」
年齢が87歳か。先の88歳が数え?
あと名前でチェック
生存する日本軍従軍慰安婦被害者の実名記録が初めて発見された。
韓国挺身隊研究所のカン・ジョンスク研究員は国家記録院の軍人軍属資料を調査途中、従軍慰安婦被害者の金福童(キム・ボクドン)さん(79)の実名記録を発見したと11日、明らかにした。
名簿に記載されている金さんの本籍や生年月日などの内容が挺身隊研究所が1997年に発行した『強制連行された朝鮮人軍慰安婦たちの証言2集』に収録された金さんの証言と一致するという。
今回発見された軍属名簿は、1947年9月に作成されたもので、「第16軍司令部同直轄部隊朝鮮人留守名簿第4課南方班」と書かれている。
この記録によれば、1945年8月31日、当時19歳だった金さんが南方軍第10陸軍病院の軍属の中で最も低い職級にあたる「傭人」として採用されたとされている。金さんは97年の「証言集」で「15歳で連れて行かれ中国の広東、マレーシア、インドネシア、シンガポールで日本軍の慰安婦として生活した」と明らかにしている。
結論がおかしな方向になってるなぁ。元記事が消えてるので、コピペで失礼。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2005/01/11/20050111000084.html
http://ratio.sakura.ne.jp/archives/2005/01/12073703/ コピー元
「15歳で連れて行かれ」
いつの間にか年齢が1歳変更されているようです。なんではてぶでこの修正は指摘されないんですかね?
年表
1938年 数え14歳 慰安婦に徴用される(満12~13歳)
数え8年間(満6~7年)勤務
1945年 数え21歳 終戦を迎える(満19歳)
2005年 数え81歳 第16軍名簿が発見される(満79歳)
2012年 数え88歳 来日講演(満87歳)
ところがここで本人談の「満14歳」が再び「数え14歳」で計算されるという、摩訶不思議な現象が発生。
15歳が14歳に変更が「数え年を満年齢に修正」じゃないんですかね?
で、最初の引用では年齢が88歳。去年が88歳で今年が89歳? あれ? 一番最初に取り出したページ書いたのは「今年の講演」。
まぁいいや。来日公演の年2012が間違いだったんでしょう。とりあえずそうしておきましょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E6%B0%91%E5%BE%B4%E7%94%A8%E4%BB%A4
1939年ですね。
年表
やった! こんな感じで考えれば年齢がきれいに一致したよ! 国民徴用令もぴったり一致だ!
じゃぁ、後は8年間慰安婦を強いられたって期間だね!
8年「間」だとやっぱり足が出る。数えでいっても6年。
そもそも慰安婦募集の広告を見ると、17歳とか18歳とかで募集。数えでこの年齢なので、満年齢だと15歳以上くらいか。
吉原遊女の事例だと、客取るのが17歳。数えだとして15歳以上。同じ条件だね。
第二次性徴終わって数年経ってるくらいなので、まぁこれくらいなら不思議ではない。
ところが最初の Togetter だと満12歳か満13歳で慰安婦になってることになる。ロリコンだね。
・若者、氷河期、ワープア叩き、マスコミの弱者蔑視が蔓延する理由
団塊どもは数が多かったので、激しい競争にさらされる人生を歩んできました。
従って、他人を蹴落としてはい上がることが至上の価値という価値観を持っています。
本来であれば社会において必要とされるスキルは「協力」ですが、彼らは「他人を陥れる」という、それに相反する価値を蔓延させた自己中世代です。
ワープアなどの弱者の問題は本来、社会全体で少しずつ我慢しあって分かち合うという方法が有効なのですが、強欲な団塊は絶対に自分の既得権を手放そうとしません。
そして、今や様々な分野のトップになってふんぞり返っています。
そう、おわかりの通り、マスコミの偏った自己責任論などの「弱者叩き言説」は、こうした自己中団塊の立場を正当化するために消費されているのです。
=これは団塊のせい。
要するに、多数派であり選挙に大きな影響がある既得権世代の雇用や保障を優先し、若年世代を犠牲にした結果が、良くない実態以上にさらに閉塞感をもたらしている格差問題なのです。
政治も選挙のことを考え団塊に媚びたために、被害が若年世代に集中した結果、経済の悪化、社会の閉塞感と言った問題を拡大してきましたが、マスコミも多数派である団塊に媚び、実態をゆがめて報道してきました。
この点、自民や経済界は当然責められるべきですが、では、はたしてマスコミや民主党、その支持母体の労組がこの問題を取り上げてきたか?と言うことを考えれば、彼らも共犯関係にあると言えます。
今までは公共心を持った世代の高い投票率で、まだ抑制されていましたが、これからさらに影響力を強める団塊世代は公共心など無い、私欲にまみれた徹底的なエゴイズムの世代です。
自分の利益を追求することを至上の価値と考え、他人を思いやる心に欠ける野獣のような世代が彼らであり、そのことは「日本という国家全体のことを考える」という左右を問わずに当たり前のことを、あたかも悪であるかのように主張してきた前科からも証明されます。
=もちろん団塊のせいw
数が多く、競争の中で生きてきた彼らは、他人を陥れるためならなんでもするという、禽獣にも劣る卑しい精神構造を持っています。
ですから、組織を円滑に運営するための人間関係構築の重要性が理解できません。
今やトップとなった彼らの価値観が現在の社会に蔓延していることが職場の閉塞感を高めています。そして、団塊どもは相変わらず「協力し合えない職場」の問題点を全く理解せずデタラメな対応を現場に強いているのです。
自分たちの無能を棚に上げ、現場に無理なコストカットなどの要求を繰り返してきた結果がブラック企業なのです。
=やっぱり団塊のせい。
しかし、いくら自民を叩いたところで民主が良い政党だと証明できるわけではないし、支持する要素にもならないと考えるのが常識。
しかも政権取ったとたんに内政も外交もダメ。景気無策、財政危機で結局国の借金は増え、そして増税という体たらく。
が、団塊どもの性質として、「とにかく負け組になりたくない、叩く立場になるのが最高」という腐った価値観があります。
だから、マスコミのメディアスクラムが起きると一斉にそっちに流されるわけです。
普段は「個性」「主体性」と喚き、また、協力し合うと言うことを知らない連中ですが、こういうときは結託して叩きに走ります。
それがこういう状況の原因の一つにもなっているのですね。
そして、注目したいのが世代問題。団塊とは一般に「1947年から1949年までのベビーブームに生まれた世代」を指しますが…
安倍(1954年)
福田(1936年)
麻生(1940年)
…
鳩山(1947年)
菅(1946年)
朝鮮進駐軍 ※Weblio辞書にて削除予定の為、全文コピー。
http://www.weblio.jp/content/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%B2%E9%A7%90%E8%BB%8D
概要
一般に朝鮮進駐軍と言ったときは、おおむね1945年昭和20年以後に現在特別永住権を持つ在日一世(朝鮮人・韓国人)、もしくは現在日本に帰化または半島に帰国した朝鮮民族によって作られた犯罪組織を指す。 戦後、日本がポツダム宣言を受け入れると日本各地で、婦女暴行、窃盗、暴行、殺人、略奪、警察署の襲撃、公的機関への襲撃、土地建物の不法占拠、鉄道や飲食店での不法行為等様ざまな朝鮮人による犯罪が多発した。 自称「戦勝国民」(正しくは戦勝国民ではない)であると主張し、自らを「朝鮮進駐軍」と名乗り各地で徒党組んで暴れ事件を起こした。GHQの資料にあるだけでも最低4000人の日本人市民が朝鮮進駐軍の犠牲となり殺害されたとされている。
戦後の混乱を利用し、日本刀等の刃物・鈍器以外に多くの銃火器を使用した。銃は三八式歩兵銃や機関銃など盗んだ旧日本軍の武器で武装し組織化を行った。朝鮮進駐軍では旧日本陸軍のパイロットの軍服を好んで着用したが、これは日本兵に対するあてつけとも、日本人(皇民)に対するあてつけとも言わた。 組織ではいくつかの本部設けたが、実際は各地域ごとに部隊名をつけその部隊が、個別に日本人を狙った犯罪行為を繰り返しすことが多かった。 朝鮮進駐軍総本部(在日朝鮮人連盟総本部)はのちの在日本朝鮮人連盟。更にこれが在日本大韓民国民団(略称「民団」)と在日本朝鮮人総聯合会に分かれ、これが現在の民団と朝鮮総連となる。
時代背景
当時の日本では戦場に男手が駆り出され極度の男手不足に陥っており、また都市部においても疎開や空爆による被害で人手が足りない状況が長く続いていた。 また警察組織においても、武器の使用が認められないなど戦後特有の制限があり。戦後朝鮮人犯罪が増加の一途をとどった背景には、このような犯罪に対する抑止力の空白化が背景にあったとされている。いまでは考えられないことではあるが、当時はヤクザ(現在の指定暴力団)が朝鮮人から、日本人の生活を守る役割を一部果たしていた。 この当時は朝鮮人の殆どが実名で暮らしており、通名を使用しだすのは朝鮮の姓に対して嫌悪感や犯罪者といったイメージを日本人が抱くようになってからである。ただしこれは、朝鮮人側からはもともと差別があったからとされている。
朝鮮人による犯罪
朝鮮進駐軍による犯罪は全国に及んだ。特に川崎・大阪・神戸・都心等当時朝鮮人が比較的多かった地域で多発した。特に東京では、原宿等を中心に三八式歩兵銃や拳銃・日本刀等で武装した朝鮮人によって占拠されており、のちに警察やGHQにより鎮圧された。
市民を狙ったものとして白昼に堂々と集団で婦女子に暴行を加えるなど、多数の犯罪行為を行った。拳銃や刃物で武装しており一般市民は無力であり繰り返し行われることも多かったため被害が拡大した。またGHQの調べでは少なくとも4000人の日本人市民が殺害されており、多い説では1万人以上であったとも言われている。
略奪・窃盗・密売・土地の強奪等においても組織的に関与していた。一般の露天商からの強奪や農作物・家畜の強奪(利根川水系の牛の強奪などが有名)等、さまざまな方法で集められた商品が朝鮮人によって売買され、その後の朝鮮人社会の資金源として利用されてきた。その他に、戦後土地建物の所有に関する書類の損失や強引な立ち退きにより土地・建物の収奪も相次いだ。
1945年12月翌1月におきた生田警察署襲撃事件では武装した朝鮮人50人が襲撃し警察署を占拠。翌46年には長崎県警察本部で、在日朝鮮人連盟と名乗る総勢約200名が同署を襲撃して破壊活動を行い、10名に重軽傷を負わせうち1名は死亡にいたらしめた。46年には国会議事堂前でも集まった2000人の朝鮮人と応援出動した武装警官358名・進駐軍憲兵20名とが銃撃戦に発展。首謀者は軍事裁判に付され、翌年3月8日に国外追放処分になった。1948年4月には阪神教育事件では数千人の朝鮮人によって庁舎が占拠された。これに対して3000名の警官隊を動員して、朝鮮人を庁舎から強制排除し1800名の朝鮮人が検挙された。戦後はこのような事件が日本各地で続発した。
第八軍司令官ロバート・アイケルバーガー中将は、正規の大部隊を治安確保のため朝鮮人に対して街中に簡易陣地を引くなどして配備した。GHQダグラス・マッカーサー最高司令官は「朝鮮人等は戦勝国民に非ず、第三国人なり」と発表するなど朝鮮人に対する取り締まりにおわれた。 昭和26年に浅草で朝鮮進駐軍と思われる朝鮮人が起こした集団暴力事件では、米兵一名が死亡、二名が負傷した。
主な事件一覧
朝鮮進駐軍及びその後の在日本朝鮮人連盟が関わる事件の一覧である。
生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)
大村収容所脱走企図事件(1952年5月12日~25日、11月9日~12日)
参考文献
横幕胤行、富久公、船越信勝『吹田・枚方事件について』1954年
宮城県警察史編さん委員会編『宮城県警察史 第2巻』1972年
警視庁富坂警察署編『富坂警察署100年史―新庁舎落成記念―』1975年
兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和編』1975年
仙台市警察史編纂委員会編『仙台市警察史―仙台市における自治体警察の記録―』1978年
李瑜煥『日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』1980年
福岡県警察史編さん委員会編『福岡県警察史 昭和前編』1980年
竹前栄治、中村隆英監修『GHQ日本占領史 第16巻 外国人の取り扱い』1996年
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