はてなキーワード: いでとは
現在足を引っ張ってるのはどっち?
早く成立させたいなら民主が自民の出した案を丸のみすればいいだけやん?
なぜそれをしなかったの?
おれのことかと思って鳥肌たったわ。
でもおれはろくでもないしょぼくれた寂しい人生を歩んでるから安心してくれ。
それにおれは結局両方失った。
全てが終わったときに一人だったわ。
いや、失ったというのは都合のいい言い方だったわ。
自ら捨てたんだ。
そのくせ今でもその事を悔いて、おセンチになったりしてる。
捨てた女が忘れられないでいる。
人間のクズだ。おれは。
会社と家をいったりきたりするだけ。
風呂を洗ってくれるヒトもいない。
脱ぎ散らかした服をたたんでくれるヒトもいない。
何のために生きているのか。
なんていうぐずぐずに使い古された雑巾のような言葉についてまたどうしようもなく考えてしまう。
文字通り、死ぬまで本番のこないリハーサルのために汗と涙を流している。
苦労した分だけ成長できるだとか、頑張った分だけその後楽だとかいうけれど。
そもそも、成長って何?成長したからって、何かあるわけでもないでしょ?
あって「成長したな自分。」ってつまんない自己満足に浸るくらい。
それでさえ次の瞬間には霞んで、またその先の実現しない本番にむけてせっせと苦労し続けるのに。
したくないのに、ただ先も考えず好きなことばかりしていくのは怖い。
訳知り顔で適当なことを言えば自分を正当化できるとでも思ってるのか?
そんなことにかかずらわっていないで、お前の大切なものを言ってみろ。言えないのならとっとと探せ
被災地にいる。
「がんばろう○○(市や県名)」
ということばをよく見かける。
最近は、その「がんばろう」を「顔晴ろう」と書いているものが増えてきてる。
そして、顔晴ろう派の人たちはたいてい
「頑張るだと頑なに気を張るという意味だけれど
顔晴るは、顔が晴れやかになるように笑顔でがんばるという意味になる。
さぁみんなで笑顔になれるよう、今日からがんばるは顔晴ると書きましょう!」
的な布教活動をしている。
布教している本人たちは、
と思い込んでいるだろうから、「それはいいですね!」とか感心したフリをしてるけど、
正直気持ち悪い。
父親が私にかけた金額を考えれば貸して当然どころか
もらえて当然と思うのかもしれない
(もともと気に入らない事がある度に誰が稼いでやってると思ってるんだって言うタイプだったので)
これは縁きらないと不味いなって気持ちすらある
娘が結婚した。娘が言うには、相手はなんだか頼りなさそうなのだが、同じ頃合いの若者にしてはよくできたほうで、稼ぎもいいという。
一応このときは娘を信じたし、娘のその言うところにおいては全面的に正しいようだ。若者が車を持たなくなったと言うが、彼は30を前にして持ち家と車を持っている。
ローンも心配しなくていいらしい。40を前にして完済できると意気込んでいた。草食系とは言ったものだが、彼は見た目より猛禽類のそれに近いのかもしれない。ヒョウヒョウとしている割に、眈々と獲物を狙っているのかもしれない。猛禽類だけに。ちったあやるじゃないか。猛禽類だけに。
で、そうも言うなら子供に期待せざるをえない。鳶は鷹を産まぬと言うが、蛙の子は蛙である。弱々しいタマではない、そう考えていた。オタマジャクシだけに。
もう十数回を数える帰省。何度目かは覚えていない。彼の入浴する合間に、恥を省みず娘に直截聞いてみた。
「こどもはどうだ?」
嫁が怪訝な顔をする。しかし、父としては確認しておかねばならない。それに、もう退けない。娘は、
「どうしたの、急に?」
と、笑顔だ。しかしこの笑いは営業スマイルのそれであり、娘もまた肉食生物のそれを隠そうとはしなかった。そうだ、社会においてその美貌は武器だ。
「いや、俺も、お前の孫を見てからでないと、安心して死ねないからな」
「んー」
娘は言葉を選んでいるのだろうか。そして
「こどもは、まだ、いいかなって。シンイチとも、そういうことにしてる」
笑顔を崩さず。髄まで染みた化粧は仮面のごとく。それでこそ我が娘よ。
「そうか」
少し残念そうな顔をして牽制してみる。デリケートな話題ではあるが、やはり血の行く末は見届けてから死にたい。
しかし、わからないでもない。自分の人生を謳歌したいという気持ちも。俺も若い頃は尖っていたつもりだ。社会なんか俺達でぶち壊せるという思いもあった。
その武器のために賢くなろうとしたし、世間の言う高学歴の大学に入り、野心を温めて社会に出た。親父もお袋も泣きこそしなかったが喜んでくれた。
ただ、社会を変えることはできなかった。いや、正確に言えば変えることをいつしか拒む自分がいた。そうしていれば黙っていても財を蓄えることができたから。
「父さんは、どうして孫が欲しいの?」
娘はその顔を変えることなく尋ねる。
「どうしてっていうようなものじゃない。家族が増えることは、それだけで喜ばしいことじゃないか」
と、それらしいことを言ってみる。もしかしたら、俺は先代からの呪縛に囚われているのかもしれない。しかし、これは本意だ。孫の顔を見たい。
ここで、娘の顔が曇った。それまでの笑顔が上っ面のものだとはわかっていたが。私は娘の今よりいい顔を知っている。
少し、間ができた。嫁は娘の顔をじっと見ていた。先行く女として看過できないものがあったのだろうか。洗い物をする手を止めていた。
「私は、こどもを産みたくない」
娘は、俺が最初に尋ねたときと同じ刃をぶつけてきた。すっぴんだ。水溜めに浮かぶ皿とフォークがぶつかる。
「私が、シンイチと結婚したのは、お金じゃない。こどもを産まなくてもいいと、言ってくれたから」
「私、こどもを産まないから」
反抗期があまりなかった娘だが、なんとなく理由がわかった気がした。
間。
シンイチ、浴室の戸を開ける音。嫁は洗い物を続ける。俺と娘は視線を外さない。居間に来るシンイチ。娘が視線を外す。仲睦まじき夫婦が私の視界に。娘は自立した。
http://anond.hatelabo.jp/20110426181228
http://anond.hatelabo.jp/20110427161226
・・・その先は言う必要ないですよね。
いや、俺は城には生まれてないよ。
既得権益層に歯向かう人って、それがあたかも勝手に出来上がったものだと思ってるひとが多いでしょ。
あれって様々な努力のおかげで生まれた当然の対価なんだよ。
その努力を底辺の嫉妬で打ち崩されるのが嫌だって言ってるだけ。
あ、ちなみに俺は非正規雇用の残念な人だからそんなお城はおろか庭番もさせてもらえてません。
だけどそれは相応の人間が相応の生活をしているだけだから関係ないよね。
移民たくさん入ってきて俺より優れた人がバッファの殆ど無い俺を蹴落としても当然だと思うし、俺はそれを受け入れるけど。
ああいうのに歯向かう人ってなんだか「俺のがうまく立ち回れる」とか「俺が国を動かすにふさわしい」とかマジで考えてそうできもちがわるいよね。
震災、原発事故、と未曾有の苦難に見舞われている東日本ですが、風評被害の影響で空前のタナボタ状態なのが西日本の第一次産業。
タダ同然で取引される福島、茨城、千葉辺りと裏腹に、卸価格が2倍近くにもなっているとか。
海外との取引があるところは同じく風評被害でダメージ受けているものの、そのマイナスを相殺してあまりある好景気なのではないでしょうか。
そこで、このタナボタ利益を東日本救済に充てられないものでしょうか。
例えば農協は農家から平年の仕入れ価格で仕入れ、市場で取引する。
例年以上の利益が出た分は東日本の漁業、農業関係者に対する低金利長期融資、一時見舞金の原資とする。
あくまで西日本の農協さんの心意気頼みな考えではありますが、困ったときはお互い様精神なのが農協の農協たる所以。
ある意味風評被害の加害者となっている人たちも、実は復興支援に役立ったとなれば罪悪感も多少は薄れるというもの。
一番親しいか仕事上密接に関係あるメンバーとか、あるいは輪番制の単なる名目の代表が、「全員の適切な距離感に基づく見舞いの意」を表明しに行く。これをしとかないと、その人が復帰してきたときとか、ちょっと微妙な空気になってしまう。「あいつは見舞いに来たけど、あいつはこなかった…」とか、そういう空気になると困る。
これはない。
そういう人は、代表が見舞いに来ても「来なかった人」を覚えてる。
個人的に来てくれた人を優遇する価値観を持つ人だ。
そういう人にとって、「式」は名前を記帳することに意味がある。
式に出ない人は「でない人」の分類で、代表が来ようが関係ない。
さて、では「式」をやらないとどうなるかと言うと、対応が大変面倒になる。
結婚でも同様だろう。
それらを、日付も含め一括にまとめるのが「式」なのであって、決して「微妙な距離感の人への配慮」などと言ったものではない。
自分たちの便宜のために行うもので、行わなかったことによる弊害(散発的に人が訪れる)との兼ね合いになる。
しかしだからといって、「自分は式をしないでおこう」と考えるのは、やめてもらいたい。それは、そういう人の気づかないところで随分迷惑なことだからである。
論外。
繰り返すが、そんなことのために式があるんじゃない。
あくまで式を行う側の便宜のためだけにある。
そもそも掛け算とは何か?
例えば 1 x 3 があったとする。
これは、1を3回足すと言う意味。
つまり、0 + 1 + 1 + 1
小学生の頃「りんごが5円のりんごが3つで何円になるでしょう?」
0を最初に置いてるのは、合計というものは空(0)から始まるから。
じゃ、-1 x 3なら?
-1を3回足すという意味。
0 + (-1) + (-1) + (-1)
なので-3
逆に1 x -3なら?
1を-3回足すという意味。
-3回ということは、"足す"という言葉は+なので+(-3)と表せる。
+(-3)は-3なので足す(+)が消えて引く(-)になる。
つまり3回引くという意味。
という事で1 x -3は
0 - 1 - 1 - 1
なので-3
さて本題。-1 x -3は?
上の例に基づき-1を-3回足してやればいい。
0 - (-1) - (-1) - (-1)
- (-1)は +1 なので
0 + 1 + 1 + 1
こうして答えはプラスの3になるわけだ。
じゃ割り算が気になる人もいるかもしれない。
割り算とは何かが解れば、後は掛け算と同じです。
例えば4 ÷ 1。これは、4から0になるまで1を何回引けるかという意味。
1回め 3 = 4 - 1
2回め 2 = 3 - 1
3回め 1 = 2 - 1
4回め 0 = 1 - 1
なので答えは4
-4 ÷ -1 なら
1回め -3 = (-4) - (-1)
2回め -2 = (-3) - (-1)
3回め -1 = (-2) - (-1)
4回め -0 = (-1) - (-1)
答えは4
ついでに・・・。足し算は、順番があるのに引き算には順番がある事を不思議に
1 - 1は略式で、本来は( 1) + (-1)という形になる。
被災就活学生、国が支援へ : マネー・経済 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) http://t.co/PULuJgG via
就活生どころか、失業した人とかを企業が積極採用するじゃないですか。
で、被災地から来ました。実家が被災しました。という人は無論大変だと思うから優先されていいと思う。
でも、これだけの支援・心情面でのアドバンテージがある被災地の人相手に、非被災地の学生が苦戦しなきゃいけないのもなんだかな。
同じ程度の学歴・能力の人がいたら、どっちかというとおそらく被災地に関係のある人が採用になるよね。
そしてあぶれる非被災地就活生。非被災地ゆえに、一切の言い訳も許されない。
被災地の学生は優先的に取ってもらえるし、もし失敗してても被災が理由になる。
勿論そんなメリットと秤にかけるまでもないほど、被災地の方が被ってる被害は甚大である。
ゆえに、被災して良かったねなんて死んでも言ってはいけないし、被災した学生を支援することは必要だし、優先的に採用してあげたい。
しかし、実情として震災に遭わなかったことがハンデになってるって恐ろしい。
去年終わって就職できてて良かった。
正直、この状況で勝ちぬける自信はない。
今年の子可哀想。
ゼノギアスは大好きだけど、FF13なんてストーリーに1ミリも魅力無いでしょ。
その肝心のストーリーが厨二ネーミング満載で、支離滅裂だったじゃん。
ゼノギアスのDisc2が、ストーリームービーとダンジョンのみの構成だったけど、これはストーリーが面白かったし、ストーリーに集中していないとわけがわからなかったから、そこそこ好意的に受け入れられた。
ま、つまり、ユーザーに以前のRPGの自由度から外れてでも、ストーリーに集中したいと思わせられなかったのが問題なんだよ。
ステータス画面から何から、キャラクターとストーリーに集中できる作りになってたんだけどね。
一部のキャラやアクセが強すぎて、多少強い構成にするとすぐにバランス崩壊するので、バランスは酷いモノだったけど。
とか言いつつ、360版でトラペゾヘドロンとインゴット集めてるとこだけど。
MGS4は、今までのMGSのゲーム性をきちんと受け継いでいて、かつ前のマップに戻れる自由度がある。
強制的に前に歩かされるFF13と、選択して前に進むことの出来るMGS4は、ユーザーの気分/やらされてる感が全然違うと思うよ。
世の中には「社交」というものがあって、知り合いの人生になんらかのイベントが起きたとすると、それなりの交流が発生することになる。たとえば結婚とか誕生とか病気とか死とか。特に多数の人が関わることになる最初と最後の奴については、その「社交」にかかるコストの効率化を図ることが重要になる。
職場で誰かが入院したとして、全員が個々に「お見舞い」に行ったら、こちらも大変だし先方も迷惑だ。ロスが膨大すぎる。だから誰かが代表して「お見舞い」に行くことで、コストの低減を図ることになる。一番親しいか仕事上密接に関係あるメンバーとか、あるいは輪番制の単なる名目の代表が、「全員の適切な距離感に基づく見舞いの意」を表明しに行く。これをしとかないと、その人が復帰してきたときとか、ちょっと微妙な空気になってしまう。「あいつは見舞いに来たけど、あいつはこなかった…」とか、そういう空気になると困る。だから、大抵そういう「適切な距離感で多数の人が気持ちを表明する機会をつくる」というやり方をすることになっている。
つまり、「式」というのはそういうもんで、これを省かれると、『多数の(微妙な距離感の)人』にとって大変面倒なのである。適切な距離感で祝意なり弔意なりを表明する機会が与えられないと、『社会』が困るんである。当人とか家族とか近しい人ではなく、『社会』が効率化を求めた結果として「式」は存在するのである。個人による心からの祝意とか弔意とかと「式」とは、本来無縁のもので、そういうのは別な機会に表明することになるだろう。『社会』による結婚や死の承認の場として「式」は存在する。従って、自分が『社会』に所属しているとき、また『社会』と深く関わる生活をする結婚や親族の死を抱えた当人にとって、「式」は必要不可欠で便利なものであることは自明である。同じ理由で、「近しい知人」あたりには、「式」というもののメリットがさっぱり見えてこないのも、また自明であろう。しかしだからといって、「自分は式をしないでおこう」と考えるのは、やめてもらいたい。それは、そういう人の気づかないところで随分迷惑なことだからである。