はてなキーワード: 平沼騏一郎とは
保険業は古代の貿易船の保険から始まっているので、海運造船業界と保険業界は異種同業
船同士の事故、難破、事故船があえてコンテナを捨てざるを得なかった場合、過失割合、どちらの船がどこまで損害を負うのか
ドイツ帝国が率先して、国際法をまとめる国際法協会を作り、共同海損の保険規則を作った
そのドイツのシーメンスは薩摩閥と海軍軍人斎藤実などに贈賄したのはバレたが、当時の検事総長は忖度思想検察の平沼騏一郎
しまいには満州事変がおきて犬養が暗殺され、斎藤実の軍事政権が初登場
ナチス内閣は保険会社アリアンツ出身の閣僚が仕切り、平沼騏一郎も大審院長やら総理大臣になった
つまりナチス・保険業界・海運造船業界が、日本の人事をやって戦争計画を推進したようなもん(あるいは国際法協会も)
ロシアの政治家もよく「国際法がー」言うが、彼らは国際法協会の何だろうな
226事件だって斎藤の口を封じるための暗殺事件だったかもしれないしなぁ
・東条英機
近衛内閣で陸相を務め、東条内閣では首相、陸相、内相を兼任。米国に宣戦布告したが、サイパン島陥落の責任を取って辞任した。
陸軍軍人。関東軍参謀として満州事変を起こす。近衛・平沼内閣では陸相を務め、大戦中はシナ派遣軍総参謀長に就任した。
陸軍大将。満州国建国、華北分離工作において中心的役割を果たした。
・松井石根
陸軍軍人。東条内閣で陸軍次官を務めた。ビルマの戦いでは総司令官でありながら、無断で戦線放棄し、日本軍を大混乱に陥らせたにも関わらず大将に昇進した。三奸四愚の一人とされた東條の側近。
・武藤章
陸軍中将。東條の腰巾着として日米開戦の中心的役割を果たした。
・広田弘毅
文官。岡田内閣で外相を務め、広田三原則を決定し、華北分離工作を黙認した。二・二六事件後首相となり、軍部大臣現役武官制を復活した。近衛内閣では外相を務め、日中開戦を黙認した。
・小磯国昭
陸軍大将。米内内閣での拓相ほか、朝鮮総督を務めた。東條の辞任後首相に就任し、戦争を継続した。
・荒木貞夫
陸軍大将。犬養、斉藤内閣で陸相を務めた。皇道派の代表格であったため、二・二六事件後予備役送りになった。近衛・平沼内閣では文相を務め、軍国主義教育を推進した。
陸軍大将。シナ駐屯軍司令官として梅津・何応欽協定を中国に要求した。陸軍次官、関東軍司令官を務めた。ミズーリ号での降伏文書に調印した。
・南次郎
陸軍大将。若槻内閣の陸相として満州事変を起こした。関東軍総司令官や朝鮮総督を務め、内鮮一体化を推進した。
・畑俊六
陸軍大将。阿部・米内内閣で陸相を務めたが、辞職して米内内閣を打倒し、近衛内閣を誕生させた。シナ派遣軍総司令を務めた。
・大島浩
陸軍中将。ドイツ大使館付き武官として日独防共協定の締結、駐独大使として日独伊三国同盟の締結に貢献した。
・鈴木貞一
陸軍中将。近衛・東条内閣で企画院総裁、内閣経済顧問などを務め、戦時経済確立に貢献した。三奸四愚の一人。
・佐藤賢了
陸軍中将。東条内閣では陸軍省軍務局長を務めた。三奸四愚の一人。
陸軍大佐。急進派将校を集めて秘密結社「桜会」を結成、三月事件・十月事件を企画するも失敗。
・平沼騏一郎
山本内閣で法相を務めた。右翼結社国本社を結成。近衛の後を継いで首相に就任したが、独ソ不可侵条約が結ばれると辞職した。
・木戸幸一
近衛内閣の文相、厚相、平沼内閣の内相を務めた。天皇の側近として東條を首相に推薦したが、戦局が不利になると、和平工作に奔走した。
・賀屋興宣
・星野直樹
満州国国務院総務長官、近衛内閣の企画院総裁を務めた。東条内閣では内閣書記官長として東條を支えた。
・白鳥敏夫
・東郷茂徳
東条内閣で外相、拓相を務め、太平洋戦争回避に尽力。鈴木内閣では外相、大東亜相を務め、終戦に尽くした。にも関わらず日米開戦の責任者とされた。
・重光葵
・永野修身
海軍大将。広田内閣で海相を務め、その後、連合艦隊司令長官、軍令部総長を歴任し、戦時中に元帥に就任した。裁判中に急性肺炎で死去した。
・松岡洋右
ジュネーブの国連会議に全権大使として出席し、国連から脱退した。近衛内閣では外相を務め、日独伊三国同盟、日ソ不可侵条約を締結した。裁判中に結核で死去した。
・大川周明
学者。満州事変、二・二六事件、五・一五事件などに連座したほか、「日本二千六百年史」「近世欧羅巴植民史」などを執筆し、軍国主義を主張した。裁判中梅毒による精神異常のため免訴された。
・本庄繁
陸軍大将。関東軍司令官として満州事変を承認。戦後戦犯に指名されたが自決した。
・石原莞爾
陸軍軍人。関東軍参謀として満州事変を起こした。日米開戦に反対し、東条英機と対立したため予備役に編入された。東條との対立、重病のため起訴を免れた。
・近衛文麿
第一次内閣では日中戦争が勃発、近衛声明を発表した。第二次内閣では日独伊三国同盟を締結。戦犯に指名されたが、服毒自殺した。
1948年3月10日の就任から4月17日(鈴木貫太郎死去)までの期間。内訳は
若槻礼次郎,岡田啓介,広田弘毅,平沼騏一郎,阿部信行 |
米内光政,東條英機,小磯國昭,鈴木貫太郎,東久邇宮稔彦王 |
幣原喜重郎,吉田茂,片山哲 |
一方で次代の吉田茂は,在任中に批判可能者が3名(東久邇宮稔彦王,片山哲,芦田均)にまで減少した。
これは歴代首相経験者が5名しかいなかった第4次伊藤内閣(1900-1901)以来の低水準である。
就任全期間(1947年5月24日~1948年3月10日)にわたって,上記リストから自身を除いた12名が存命であった。
野田は就任全期間(2011年9月2日~2012年12月26日),安倍は2度目の就任期間(2012年12月26日~)が該当。
中曽根康弘,海部俊樹,細川護熙,羽田孜,村山富市 |
森喜朗,小泉純一郎,安倍晋三,福田康夫,麻生太郎 |
鳩山由紀夫,菅直人,野田佳彦 |
なお臨時代理経験者を含めた場合,野田・安倍に対してはは青木幹雄が加わるが,芦田・片山に対しても後藤文夫が加わるため変動はない。
絶対に今が最大だろうと思って調べ始めたが戦中・戦後の混乱期には及ばなかった。ガセ情報に気を付けよう。
日本で「存命の元首相」の人数が最大となったのはいつですか? - ... - Yahoo!知恵袋
大審院歴代院長
1 玉乃世履 1875年(明治8年)5月12日 岩国藩、代理
7 南部甕男 1891年(明治24年)4月8日 土佐藩、院長心得
9 名村泰蔵 1892年(明治25年)8月24日 長崎出身、院長心得
13 富谷鉎太郎 1921年(大正10年)6月13日 司法省法学校
14 平沼騏一郎 1921年(大正10年)10月5日 帝国大学法科大学
15 横田秀雄 1923年(大正12年)9月6日 帝国大学法科大学
16 牧野菊之助 1927年(昭和2年)8月19日 帝国大学法科大学
17 和仁貞吉 1931年(昭和6年)12月21日 帝国大学法科大学
18 林頼三郎 1935年(昭和10年)5月13日 東京法学院
19 池田寅二郎 1936年(昭和11年)3月13日 東京帝国大学
20 泉二新熊 1939年(昭和14年)2月15日 東京帝国大学
21 長島毅 1941年(昭和16年)1月31日 東京帝国大学