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はてなキーワード: ギャング映画とは

2019-10-09

anond:20191009013351

ハーレイ・クインには友達必要なんです。彼女はおしゃべりが大好きだから単独映画よりも、誰かと組むような女ギャング映画であるべきだと思っています。そういったアクション映画劇場であまりたことがないので、重要な要素のひとつとして持ちたいですね」

まりジョーカーに振られたハーレイ女友達と大暴れして鬱憤を晴らす話なんやろ! 絶対面白いやん!

2019-07-31

オタクにもポリコレ構文は存在するんだよな

努力してない主人公ダメ感情移入できない

・御都合主義ダメ!つまんない

幼女大剣振り回すのはリアルじゃない。おっさん大剣もたせろ

ツンデレという名の暴力女は消えろ。暴力反対

ハーレムキモい。1人の女を愛せ

超人主人公感情移入できない。

主人公に触っただけでモテるのはおかしい。

登場人物セクハラさせるな

難聴系はうざい

社会的現実的には正しい批判ばっかなんだけど

全部聞き入れてるとただのオタク人生のものになるのでつまらない。

そのオタク文句言いつつ、結局俺tueeモテモテハーレムなろう小説を見るという悲しさ。

「俺の人生のものを大作にしろ」って批判でも、本心では自分と全く違う世界を求めている矛盾

まり世界的なポリコレと逆を行く作品を作れば売れるかもしれない。

舞台は徹底的な男尊女卑

主人公差別主義者の超イケメン白人で、セクハラレイプドラッグなんでもする

・女は徹底的に性的アイコンとして使い、主人公に媚びさせる。

有色人種、女、は活躍させず、主人公だけ活躍

最後は悪が勝つ・軍隊暴力賛美

・秩序に抗う

ここまで書いて気付いたけど、主人公黒人にしたら只のギャング映画やん

これからギャング映画が来る!!よく考えたらブラックパンサー映画ってポリコレと逆の作品やん

女侍らせて身辺警護課させてるし

2019-07-05

アメリカ映画を観た思い出について約10年前祖父に聞いてみた記録

※本人より聞いたまま書いたため何処まで正確な事柄なのか不明

祖父、当時83歳)

――初めてアメリカ映画を観たのは何才頃でしたか

映画昭和14年の10月ごろから観はじめた。当時14歳で静岡県浜松市の卸問屋丁稚として働き、主にそこの配達仕事をしていた。その仕事にある程度の余裕ができてきたので、暇なとき映画を観に行けるようになった。映画館で映画を観たのは海兵に志願する前の18歳頃までだった。行っていた映画館は何軒かあって、機場町か塩町にあった「浜松アズマ座」、連尺町の「松竹館」、「浜宝映画」に主によく行っていた。その中でもアメリカ映画などの洋画は、「浜松アズマ座」でのみ見ることができた。映画会社の協定か何かで決まっていたらしいね映画館には、フィルムの新しい、最新映画を見せる封切り館と、何ヶ月かまたは何年か前の映画を見せるところと二種類あったが、「アズマ座」は封切り館ではなかったので、たまにエノケン榎本健一)の、まげものコメディ映画らしいです)を最新作として上映していたほかは、何ヶ月か、または何年か前の古い映画の、特に洋画を流していたよ。当時映画は2本立てが普通で、それに加えて短いニュース映画がついていた。(ニュース映画は、戦時中だったためかなりプロパガンダ色のつよい内容だったようです。)邦画邦画邦画の2本だったけど、洋画を見るとき邦画洋画一本ずつがセットでの2本立てだった。洋画の方が邦画に比べて長かったからじゃないかな、だいたい洋画が1時間半くらいで、それに短めの邦画が一緒にやっていた。

――洋画を観に来ていた人達の年齢層は?

洋画を見に来ていたのは、若者が多かった。英語を習っている学生なんかも多かったよ、映画字幕だったから。自分も観ているうちに「カモーン」などといくらか覚えた。昭和12年頃はトーキー(声が入っている映画)と無声映画に弁師がいたのと半々だったけど、自分映画を見はじめた頃にはもう大体今みたいな映画だった。あと、洋画は、高校生以下は保護者同伴でないと観に入ってはいけないという決まりがあった。自分学校に行ってなかったか関係なく観ていたけども。

――どんな映画を観た?

初めて観たのは「ターザン」。20世紀フォックスだったかの、ハリウッドもの映画だったよ。主演のターザン役が何回も変わっていて、ターザンシリーズは4本くらい観たことがある。バスタークラブがやっていたのは覚えている。(バスタークラブが主演を演じたのは「蛮勇タルザン」(1933) Tarzan the Fearlessターザン役をやっていた奴は皆、オリンピックとかでメダルを取った選手だったみたいだよ。でも、「ターザン」を観た、と言ったら「そんなもの観るなんてガキだ」と奉公先の年上の人たちに馬鹿にされた。その次に覚えているのは、「ジェロニモ」。昭和15年に観た。タイロンパウアーが出ていた。(タイロン・パワーのことだと思いますしかタイロン・パワーは「ジェロニモ」に出ていないようなので人違いでしょう。)アメリカマフィアやなんかのギャング映画あんまり受けてなかったなぁ。よくわからなかった。見た中で一番印象に残っているのは「再会」(1944制作原題TOGETHER AGAIN日本公開は1947年。このため、祖父が実際にこの映画を観たのは戦後であるのかもしれない。) シャルル・ボアイと、女の方がアイリン・ダンがやっていた。記憶喪失した女性が何年かして再び記憶を取り戻す話だった。

――その後は観る機会はなかったのですか?

19歳から兵隊として海軍へ行っていたので観られなかった。横須賀の竹山海兵団に3か月、そこで試験の成績がよかったので、飛行機整備学校へいって飛行機の整備についての勉強をしたよ。戦争も終わりの方だったから、整備学校では4か月ですべての事を勉強させられた。そして海軍整備士として働いていたのだけど、そこで娯楽として洋画が観られた。教育間中や、新兵にはみせなかった。「進め竜騎兵」(1936年制作)「ドナウ川さざなみ」(詳細不明)「青きドナウ」(1963年公開のためこれも記憶いか?)などを観た。あまり色んな種類がなかったらしく、同じ映画を何度も観せられた。

――なんで軍隊の中で観ることができたの?

敵の情報を知るため、というのが名目だった。でも、軍でみているということは他言してはいけないといわれていた。アメリカ映画を娯楽として観ることができたのは海軍だけだったみたいだ。映画フィルムは、映画から取り上げたものを上映していたらしい。映画を見るときは夕食を30分早くやって6時以降に観た。右舷、左舷と二つのグループに分かれていて、交替で観ていた。その頃は就寝が8時、飛行機の整備のためにパイロットの連中よりも1時間早く朝2時に起こされ飛行機の整備をしていた。

――戦争が終わった後は観に行った?

戦争が終わった後は、映画なんて見ている余裕がなかった。戦後すぐは警察官になっていたので、仕事の見回りで映画館にも観に行ったことはあった。でも昔ほどは興味がなくなり、外でたばこを吸ったりしている時間が多かった。

2019-06-09

被害者怪我しただけで生きてればギャング映画みたく

俺の屈辱人生を思うたびに俺はお前の顔を思い出す

お前も顔の傷を見るたびに俺の顔を思い出せ

とゴッドhぅあーざーを気取れるのに

 
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