はてなキーワード: 本質主義とは
https://x.com/anatatachi_ohno/status/1846395326380273869
https://x.com/nichijohe/status/1846125390714360240
マジョリティ女性として、これまで性別異和に苦しんだり差別を受けてきたトランスジェンダーの人々に対して引け目を感じる面があったからだと思う。むしろ、トランス女性は学びたくて来るはずなのにすぐにトイレ問題をいうことが失礼なんじゃないかとさえ思っていた。つまり性善説だった。
ツイッターで、問題の対立の深さ、議論のできなさを目の当たりにし、その話題自体にうんざりしてしまい、何人かフォローしていたTRAや当事者やアライの人をほとんどリムーブし、しばらくその話題に触れないようにしていた。自分の中ではどっちつかずの感じになっていたこともある。
彼らの主張は単に反差別、人権主義ということだけなのか、トランスジェンダリズムは何を目指しているのかが気になり、あれこれ読みつつ今に至っている。まとめると私の場合、マジョリティの引け目と情報不足、ヒートアップするツイッター状況への忌避感から、問題の解像度が上がらなかったのだと思う。
トランス問題は、やはり、ほかの差別問題と必ずしも同様には論じられない
性差における本質主義は男女では体の構造が異なって、それによって異なる生理を持つと、このことから誰も逃れられないという事実を指摘しているだけですよ
好きじゃない(嫌いという訳ではない)音楽を聴くのってなんかしんどい。
BGM的に耳へと入ってるくる分には別に良いんだけど、腰を据えて聴くとなるとなんかさっさと飛ばして好きな曲聴きたいよって気分になってくる。
サブスク時代の弊害とかよく言われてるけど、ブッコフで少ない小遣い叩いてCD買ってた頃からそうだった。まあレコードとか録音技術のない時代にまで遡ればその言い分が更に相似形に存在するのかもしれんけど。
5秒聴いてハマらない曲は最後までハマらない。稀に耐えながらも聴いて好きになる事もあるけど。
技巧や目新しさとかそんなもの置いといて、ハマる曲を聴いた時は雷が落ちたように心が震える。
映画やアニメのクライマックスに来るようなライブシーンでいまいち盛り上がり切れないのが寂しい。
それまでの物語にお膳立てされて非常に昂ぶっているのに、肝心の音楽にノリ切れないとちょっと冷めてしまう。その手のシーンで音楽的にも物語的にも最高潮の共鳴をする体験がしてみたい。
教養主義というか本質主義的な人にしてみれば、良い音楽を理解できないのは然るべきリテラシーがないからとか言われそうだけど。
でもやっぱ刺さる曲を聴いた時のあの震えって理解するとかしないの問題じゃないような気がしてならない。なんか理屈で解剖出来ない神秘のようなものを信じたい気持ちもあるのかもしれない。
それもまあ分析するだけのリテラシーを持ち合わせてないだけで、実は好き嫌いを分かつ要素やシステムが明確にあるのかもしれんけど。
「トランスジェンダーに対する疑問や異論を表明することすら許容されず、「トランスフォビア」として一方的に攻撃されることがあります。これは、言論の自由や学問の自由を脅かし、健全な社会的議論を封じるものであり、民主主義社会における自由な言論の基盤を危うくします。異なる視点や議論の余地がある問題に対して、抑圧的な手法を用いることは、社会の多様性や寛容さを損なうものです。」
→むしろミスジェンダリングなどのトランスジェンダーの存在や尊厳を無視するような内容を含む「議論」はトランスジェンダー当事者に対する排除的圧力として働き、民主主義社会における自由な言論の基盤を危うくする。これはあらゆるマイノリティに関して同様であり、同じ理由で「女性には理性が足りない可能性」「黒人は生物学的に知能が低い可能性」などは民主主義的な自由な言論における健全な意見とは見なされない。
「トランス女性が女性専用の空間にアクセスする権利を強く主張することが挙げられます。」
→基本的に主張していない。主張されているのは主に「これまで通りトランスジェンダーの人々が各々の移行状況やパス度に合わせて各種の設備を利用できる状況を維持するようにし、『トランスジェンダーの使用を禁じる』のような過剰反応による排除をしないこと」である。要するに、「いま使っていない者を入れろ」ではなく、「いま使っている者を追い出すな、攻撃するな」である。トランスの人権を求める側が望んでいるのは基本的に現状維持+ジェンダーレストイレの増設くらいのものだろう。
「トランス活動家の中には、科学的根拠に乏しい主張を展開し、それを広く受け入れさせようとする者もいます。例えば、「ジェンダーは完全に社会的に構築されたものであり、生物学的な性別は無意味である」といった主張は、多くの科学的研究によって否定されています。性別には生物学的な基盤があり、それを無視することは、医学的および社会的な混乱を招く可能性があります。」
→もちろんひとによって意見は異なりうるが、大抵の場合そのような主張はしていない。生物学的な特徴も無意味ではない。そのことを誰よりわかっているからトランスはホルモン治療などを重視する(すなわち、生物学的、生理学的レベルでの介入を求めている)。ジェンダーが完全に社会的に構築されるという主張も、せいぜい少数派である。むしろマネーの実験の失敗や、割り当てられた性別への適合を望みながら失敗した過去から、「ジェンダーは社会からの要請によって決定されない」という主張をする者のほうが多いだろう。実際、トランス当事者にはホルモンシャワー説などを採用し、脳における生物学的基盤に自身の性自認の根拠を求める者も多い(それはそれである種の本質主義ではないかという批判はありうる)。
医学に関しては、トランスの人々が求めるのは自分の身体とメンタルに適した医療的ケアを受けることである。その際、ホルモン治療などにより典型的な男性でも典型的な女性でもない身体になっているトランスの場合には、その非典型的な身体状態に合わせたケアが必要になるが、生物学的決定論的な男女二元論の元では、そうした非典型的な身体に適したケアが難しいため、より繊細な扱いが必要となる。
また、科学的研究は多くのトランスが求めるところのものである。むしろジェンダー肯定医療などに関する査読付き医学論文や専門家によるレビューを無視し、手法に問題のある疑似科学的論文や非専門家によるセンセーショナルな問題含みの本ばかり取沙汰す非科学的な態度に批判的な者が多い。トランスの身体的、メンタル的ケアのために科学的/医学的なエビデンスに基づいた手順が求められている。
「一部のトランス活動家は、過激なレトリックを用いて社会的対立を煽る傾向があります。例えば、異なる意見を持つ人々を「敵」と見なし、彼らを排除しようとする姿勢は、社会の分断を深める原因となります。このような過激なアプローチは、トランスジェンダーの権利の正当性を損なうだけでなく、より広範な社会的理解や共感を得ることを困難にします。」
→これに関してはそういう人も中にはいるかもしれない。他方でトランスへの危惧を表明する側にも、「トランス女性は男性」などの攻撃的なレトリックを用いたり、トランスジェンダーを性的な加害者かそれに類似した存在のように語り社会の「敵」であるかのように扱うなど、分断を深める言説が多く見られる。両者がそうしたレトリックをやめ、トランスジェンダー当事者の実際のニーズを聞きながら、合理的な社会的調整を目指すべきだろう。
ところで、1点目で「意見の多様性」を語る一方で、こちらでは「過激なレトリック」の排除を求めるというのは、整合性が怪しいという点は意識すべきだ。トランス側にどうしても耳に入れたくないような意見も否定されず聞かせるようにしたいのであれば、自らも「過激なレトリック」と感じる言葉に耳を傾けるべきであるし、「過激なレトリック」が対話にとって問題だと考えるなら、相手が「過激なレトリック」と見なすような意見表明を控えるべきである。両者が思うがままに語ることを求めるか、両者が節度を持つことを求めるかのいずれかが合理的なのであり、そうでない立場はダブルスタンダードである。
これらに関して、「それはリベラルやフェミの特徴では」という疑問の声が上がるのは理に適っている。というのも、トランスに怯える者の「トランス活動家」への見方は、表現の自由が危ういと怯える者の「フェミ」や「リベラル」への、治安の悪化を恐れるものの移民やその権利をサポートする者への見方と相似形となるためだ。まさに、「フェミ」や「リベラル」のようなことを言うのが「トランス活動家」なのである。実際、トランスの権利を擁護する層とフェミニスト、リベラルは大きく重なっている。トランスの権利を擁護する者はほとんどフェミニストでリベラル、ないしは左翼である。またトランスの権利を擁護してきた主要な層のひとつはフェミニストである(むろん、フェミニスト内部でのトランス排除の問題はあったが)。
ところで、「トランス活動家」の運動に懸念を抱く者は、それが具体的に誰を指し、その人のどの記事、本を念頭に置いているのかを意識してみてもいいだろう。Xなどでは成りすましも含めた有象無象が好き勝手なことを語っているし、ウェブメディアは信頼性が担保できていないものも多い。率直に言って、実際のトランスのことも、アクティビストのことも、運動のことも、すでに一定の知識があるのでなければそれらで調べてもまずわからないだろう。基本的には社会的に信頼されている出版社からの書籍、査読付きで一定の評価のある学術ジャーナルを中心に、その中で言及されているアクティビストや運動に目を向けるべきだろう。
無明は単なる知識の欠如ではなく、存在の根本的な誤解を指します。これは阿頼耶識(あらやしき)の深層に潜む根本無明(ごんぽんむみょう)に起因します。
3. 異熟識:業の結果が熟す場
根本無明は異熟識の最深部に位置し、輪廻の原動力となっています。
空性(くうせい)は単なる「無」ではなく、縁起の真理を示す概念です。
1. 有ではない
2. 無ではない
3. 有でも無でもない
4. 有でも無でもないのでもない
これは言語や概念による把握を超えた真理の在り方を指し示しています。
中観思想は「八不中道」を通じて、あらゆる概念的思考の限界を指摘します。
1. 不生(生じない)
2. 不滅(滅しない)
3. 不常(常住ではない)
4. 不断(断滅ではない)
5. 不一(一ではない)
6. 不異(異なるのではない)
7. 不来(来ないし)
8. 不去(去らない)
これらの否定は、究極的な真理が言語や論理では捉えられないことを示しています。
如来蔵思想は、全ての衆生に仏性があるとする考えですが、これは単純な本質主義ではありません。
これらの三性が不可分に絡み合い、我々の存在の本質を形成しています。
これらの四句は、究極的な真理が二元論的思考を超越していることを示しています。
これらの曼荼羅は、智慧と慈悲の不可分な関係を表現し、究極的な悟りの状態を象徴しています。
愚かさは、これらの深遠な真理を理解できないことから生じます。しかし、同時にこれらの真理は、概念的理解を超えたものです。
真の智慧は、言語や論理を超えた直接的な体験を通じてのみ得られます。それは単なる知識の蓄積ではなく、存在そのものの根本的な変容を意味します。
この観点から見れば、愚かさとは単なる無知ではなく、我々の存在の根源的な在り方に関わる問題なのです。それを超越することは、仏教の究極的な目標である悟りそのものに他なりません。
女性:ええと、私たちは、あなたたちが性別違和を改善するために移行しなければならない男性だと思っていたのですが?
トランス活動家:いいえ、それは時代遅れで病理化しています。女性とは、その人を女性たらしめるジェンダーアイデンティティを持つからこそ女性なのです。
女性:あの、私たちは女性(female)だから女性(woman)だと思っていたのですが?
トランス活動家:いいえ、あなたが女性であるのは、あなたを女性たらしめている魔法的な女性的本質(magic womanish essence)を持っているからです。私たちもあなたと同じ、魔法的な女性的本質を持っています。ただ間違った体に入ってるだけで。
フェミニスト:それは性差別的に聞こえますね。その女性的本質とは何なのか、そしてそれがどのようにして間違った身体に入り込んでしまったのか、教えていただけませんか?なぜならそれは、奇妙で形而上学的な…
フェミニスト:科学が「魔法的な女性的本質」があると言っている???本気なの?だってフェミニズムは...
フェミニスト:ごめんなさい、何て?
トランス活動家:あなた達は私達を抑圧しており、あなた達に発言する機会はない。あなた達が発言すれば、私達は抑圧され、文字通り殺されるのです。
フェミニスト:何ですって?
トランス活動家:あなた達はシス女性で、シスの人々は私達の抑圧者です。
トランス活動家:それがあなた方の新しい名前です。ラテン語から来ていて、自分の体に一致した魔法的なジェンダーの本質(magic gender essence)を持っていることを意味します。そしてあなたの魔法的なジェンダーの本質があなたの体と一致しているから、あなたは特権を受けていて……
フェミニスト:ちょっと待ってください、女性は女性であるがゆえに抑圧されているのです。それが特権だとは……
トランス活動家:ジェンダーアイデンティティが体と一致しているから、あなたは特権を受けているのです!間違った身体に閉じ込められた苦しみを誰も知らない。それは全人類に起こったあらゆる苦痛の中で最大の苦痛であり、この苦痛を知らない人はみな特権階級であり、したがって私たちの抑圧者なのです。
フェミニスト:あー、私たちがあなた方を抑圧しているというのはよく分かりませんね、私たちはあなたを抑圧するような社会的権力はあまり持っていませんし。このジェンダーアイデンティティとかいうものについていくつか質問があるのですが……
トランス活動家:私たちが存在する権利について議論しているのですか???
フェミニスト:何ですって?いいえ、ただ尋ねたかっただけで……
トランス活動家:あなたは私たちの生存権について議論しているのです!これは文字通りの暴力だ!
フェミニスト:いやいや、ちょっと待って、私たちはただ質問しようと……
トランス活動家:私たちの存在する権利について議論するつもりはない!あなたたちは私たちを絶滅させようとしている!あなたたちは大量虐殺をする人種差別主義者と同じだ!
フェミニスト:はあ???私たちが大量虐殺をする何だって???こいつクソやばいな。ちょっと落ち着いて、これについて話し合いましょうよ。
トランス活動家:いいえ!議論はなし!議論は文字通りの暴力であり、私たちを危険にさらすものです。私達の後に続けて繰り返してーートランス女性は女性です。トランス女性は、シス女性と同じように、女性の本質を持っているから女性なのです。あなた達は肉体ゆえに女性なのではない。身体と女性であることは関係ない。
フェミニスト:さて、これはもう頭がおかしくなりそうだ、私たちは、私たちが女性であることと、私たちの身体は大いに関係があると考えているのですから。
フェミニスト:何?本質主義が悪いというのは同意するけど、それはつまり、ある種の身体を持つ人々が……
トランス活動家:違う、本質主義とは男性や女性が存在すると考えることです。
フェミニスト:うわぁ
実際年末の某番組みたいに、「お高くとまってる連中が本当に違いの分かる奴らなのか試してやろうぜ!」的な目利きがエンタメとして成立してる。ああいうのがヤラセかどうかなんてのは知る由もないし、大した問題でもない。
あれは違いを確かめる作業で、僅かな違いを識別する能力を示しはする。でも「イイもの」を見分ける能力であったり定義づける妥当性とは特に繫がらない気がする。
区別もつかないのに「こっちの方がいい」なんて言うのもちゃんちゃらおかしいけど、じゃあ違いが分かってる人の好みならある程度の普遍性を伴った基準になんの?って思う。ならないんならそれは単にその人が好きなものってだけで、別にイイものであるという事にはならんよね。「違いの分かる人」からのお墨付きにはなるだろうけど。
仮にそういう基準になるんだとしたら、共に違いの分かる二人が
「うん、どっちも美味しいね。それはそれとして高いのはこっちでしょ?」
「美味しさがまるで違う。当然こっちの方が高いに決まっている」
と言ったときに、イイものを定義づけるのはどっちの意見にすればいいの?って話になる。まあどっちも別軸でイイものなんですといえばいいんだけど。安易な二項対立は良くない。
もっと言えば、そもそも本当にその感想は本心から来てるのか?って所もある。
人の本心なんて分かりはしない。違いが分かるかどうかなら試して答え合わせをすれば分かる事だけど、何が好きで何が嫌いかなんて拷問にかけたって本当の気持ちは確かめようがない。
まあ好き嫌いごときでそこまで嘘を貫く道理もなければ、そこまで確かめようとする道理もないんだけど。だからこそ気持ちの確認の精度にも疑問が残る。
まあこれは単におれがしょーもない事で嘘つく虚言癖の気があって、他人にもそういう部分があるんじゃないかっていう邪推がデカいのかもしれない。
仮に大抵が本心であったとて、単に好きではなくイイものを定義づける感想として扱うにはもう理屈というより共感の問題になってくる気がする。
SNS開いてるとたまに「あの名作の論理的な分析」的な記事が流れてきたりする。
あの手のやつを読んでみると、作中の具体的な要素を並べてあったり、あまり指摘されていなかった視点が提供されていたり、あるいは社会の風潮なんかと結びつけてあったりする。
でも根本的な問題として「じゃあなんでそういう要素がイイの?何の基準を以て?」と言われたら、そこはもう答えようが無いんじゃないかと思う。言われてみたら確かにそこがイイよね、という共感くらいで。そして「別にそこがイイとは思わんな……」と思うのだって不思議なことではない。
仮に辛いものは美味しいという定義が存在するのなら、このカレーは辛いので美味しいというのは論理的な評価として成立する。
いわゆる目利きでやってるのは、カレーが辛いか否かを判定する作業にあたる。
じゃあ根本的な話として、定義そのものの妥当性はどこにあんの?
美味しいものはイイものである、という定言的な前提に対する仮言的な前提として扱えば、まあ正当性は得られる感じはする。
美味しいものがイイという前提を支持する理屈は何ら存在しないけど、まあ直感的に否定する人はあんまりいない気がする。
ただそれにしたって、辛いものと美味しいものとの関連の必然性も詰めていけば結局そこも理屈では解決しなさそうだけど。
個人の好き嫌いとは区別して扱われがちなイイものの定義も、共感の問題にしか帰結し得ないんゃねえか?それって結局好き嫌いで同調する内輪の問題でしかなくねえか?って思う。
別にそれが良いとか悪いとかは一切思わんけど、なんか好き嫌いと違ってイイものは論理的に語れるし、然るべきリテラシーがあれば「理解」出来るんですよ、的な発言を見るとホンマか?って思うよね。
いや理屈以前の前提部分が共有されてるかどうかが一番肝心なんじゃないの?って。
まあこれの理屈もまたおれの世界観の上でしか成立しないのかも分からんけど。人が何かを考えるのに先んじて人間がイイと思うものなんて存在しなくて、定義の問題でしかないと思ってるし。
イイものはあると言ったらあるんだ!という宗教めいた本質主義だったり、それか特定の物質が特定の感情をもたらすっていう唯物論めいた世界観なら、それはそれでイイものを定義づけられんかもしれんし、違いだけではなく「良さ」までもを見抜ける審美眼だって存在するかもしれない。
まあそれにしたって、快感をもたらすものがイイものであるという定義は必要になるし、であればドラッグだってその範疇に入ってしまって、更に恣意的な定義を重ねないといけないかもしれない。
https://anond.hatelabo.jp/20240721230541
ジジェクは道を誤った / メラニー・ゼルMelanie Zelle [スワースモア大学の学内新聞『スワースモア・フェニックス』の編集者] ※削除済
ttps://web.archive.org/web/20230303073524/https://swarthmorephoenix.com/2023/03/02/zizek-has-lost-the-plot/
私が哲学に興味を持つようになったのはスラヴォイ・ジジェクのおかげである。
彼の著書『終焉の時代に生きる』と『パララックス・ヴュー』に偶然出会い、中学2年生の私が苦労して読み進めたこの本が、
ジジェクの文章は、彼が即興でする賛美のすべてにおいて、素晴らしく説得力があると私は感じた。
本棚に積まれた1000ページにも及ぶ矛盾の山に憤慨しながら『Less Than Nothing』を読み通したのは、高校時代に果たした偉業だった。
私は、ジジェクの長編作品の論旨を理解できるかどうかで、自分の知的価値を測るようになった(現在はほとんど理解できないが、以前はまったく理解できなかった)。
それだけに、現代の政治文化に関する最近の記事で、ジジェクを非難するのは心苦しい。
しかしある意味で、ジジェクと私の関係は、彼が何について間違っているのかだけでなく、
なぜこのような著名人が、あのように明らかな知的陥落にはまることができたのかを理解しようとする上で、
有利なポジションに私を置いていると感じている。
私の怒りの主な対象は、先週発表されたばかりのジジェクのエッセイである。
そのタイトル「Wokeness Is Here To Stay」は、たぶん私がそれほど警戒するものではなかったと思う。
ジジェクの哲学は、ヘーゲル、ラカン(そしてフロイトも)、そしてもちろんマルクスへの愛着から、オーソドックスな、ほとんど伝統主義的なものと特徴づけうる。
他方で世間一般におけるジジェクのペルソナは、意図的に培われたものだと私は主張したいが、ディオゲネス的挑発者であり、象徴破壊者であるが、自分勝手なものではない。
ジジェクのこうした面が、彼の論文や公開講演会、そして彼の知的活動への、より親しみやすい影響を及ぼしているようだ。
したがってジジェクが、クリックした人々が眉をひそめるようなタイトルを選んだことを読んでも、私は驚かなかった。
私は、ジジェクのお気に入りのトリックのひとつである、正式な哲学的分析の範囲外と考えられている文化の側面を選び出し、
喜びを感じながらそれを切り裂くことに慣れてしまっていた。
(ある講義では、カンフー・パンダについて論じており、また別の講義では、ヨーロッパ各地のトイレの特殊な構造が、
ポストイデオロギー的なポストモダニズム世界の概念に対する究極の反論となっている)。
ほとんどの場合、ジジェクの指摘は最終的に重要であり、さらに重要なのは、彼の広範な哲学のいくつかの要素について、面白おかしく、
しかし(おそらく結果的に)効果的に紹介者の役割を果たすことである;
そして一見したところ、"Wokeness Is Here To Stay は同じ公式に従っている。
トランスジェンダーの権利をめぐるスコットランドの政治的混乱から始まり、他の現代政治問題にも触れ、最終的にはフロイトとラカンへの言及で締めくくる。
表面下に潜む構造的な違いを無視しても(これについてはまた述べる)、この作品には、ジジェクのいつものトーンとは正比例しがたい苦渋が感じられる。
これは、私の最大の関心事である彼の議論の内容については言うまでもない;
ジジェクは、スコットランドにおけるトランスジェンダーの権利をめぐる、最近の政治論争をめぐる議論について、記号論的な分析を行っているわけでもなければ、
正確に他の多くのことと結びつけているわけでもない。
結局のところ、ジジェクは皮相な哲学的手法とともにただ単に政策論争に参加しているだけであり、遺憾ながら完全に間違っている。
ジジェクは、過去10年間にリベラルな知識人全体に伝染した観を呈するトランス医療をめぐるパニックに陥っている。
ジジェクのいつもの懐疑論は、ここではいつもの懸念荒らしconcern trollingの再現に留まる。 ジジェクはこう書いている:
「思春期ブロッカーは、タヴィストックでの診察に送られたほぼすべての子供に投与された。
その中には、性的指向がはっきりしないという誤診を受けた可能性のある自閉症の若者や、問題を抱えた若者も含まれていた。
言い換えれば、医学的な性別移行を望むかどうか判断できる年齢に達していない脆弱な子供たちに、人生を変えるような治療が行われていたのだ。
批評家の一人が言ったように、『性別の悩みを抱える子供には時間とサポートが必要である。あとになって後悔するかもしれない医療措置に進むよう仕向けられるべきではない』 」。
この一節は疑問を投げかける。ジジェクは、その知的能力において、思春期ブロッカーが何であるかさえ知っているのだろうか?
ジジェクの引用の使い方は、この作品の中で頻繁に行われていることから特に明らかであり、すでに示唆されていることを裏付けている。
実際、彼が引用したガーディアンの記事を読んでいれば、上で引用した段落を修正できたかもしれない。
ジジェクが引用した記事の上の行には、"異性間ホルモンは16歳からしか処方されず、専門家によれば思春期ブロッカーは不妊の原因にはならない "と書かれている。
したがって、このスロベニア人に知的怠惰の恩赦を与えることもできない。 これは純粋で単純な不誠実さであり、危険な形態である;
さらにひどいのは、ジジェクが記事の冒頭で取り上げた最初の文化的分析対象である。
『コンパクト』編集部がありがたいことに、ページをスクロールすると引用文が表示されるようになっているのだ(まだ彼の論調を十分に理解していない人のために)。
それはこうだ: "女性だと自認する人物が、ペニスを使って2人の女性をレイプしたことを我々は知っている"
“We have a person who identifies itself as a woman using its penis to rape two women.”
ジジェクが言及しているのは、アイラ・ブライソンの事件である。
この有罪判決は、スコットランドにおいてレイプで有罪判決を受けた史上初のトランス女性となり、
トランスの人々に対する「懸念」を持つすべての人々にとってのロールシャッハ・テストとなった。
ここでジジェクは、基本的な事実認識が間違っている。ブライソンの性別移行の時系列を誤って伝えているからだ。
さらに問題なのは、読者を煽動するために、本質化するような言葉を使い、さらに誇張していることである
(「ペニスを持ったレイプ犯が、囚われの女性たちと刑務所にいる」という表現が思い浮かぶ)。
ブライソンを「彼he」、そしてさらに厄介なことに「それit」と、ジジェクが性別を間違えて表現することに固執するのは、
ジジェクがトランスのアイデンティティを尊重することを、裁量に任された、善行次第のものだと考えていることを示唆している。
ジジェクはこの論文で、控えめに言ってもトランスフォビックtransphobicだ。
しかしそれ以上に、ジジェクは退屈で、独創性がなく、不誠実で、怠惰である。
彼はトランスの人々について、『ガーディアン』紙や『ニューヨーク・タイムズ』紙の同様の記事からは得られないようなことを何も書いていない;
この時点でようやくジジェクが哲学について語るかもしれないと思うのも無理はないが、残念ながらそれは間違いである。
記事の次の部分はさらに長く、さらに面白くない。『コンパクト』誌に掲載された別の記事の宣伝である。
(中略)
で、どういうこと? なぜジジェクはこんなことを書くようになったのか?
その答えは、対立的でありたいという彼の誤った願望にある。
彼は、この作品の中で他者が陥っていると彼が非難する事柄に陥っている。すなわち、自分を悩ませる他者を、自分自身の中で勝手に思い描く罪を犯しているのだ。
The answer lies in his misplaced desire to be oppositional. Ironically, he is guilty of the thing he accuses others of falling prey to within the piece, that of envisioning for himself an Other that haunts him.
[ジジェク]「要するに、ここにあるのは、政治的に正しい突き上げと、金銭的利益の残酷な計算との最悪のコンビネーションなのだ。 」
思春期ブロッカーの使用は、[ジジェクによると]"目覚めた資本主義 "のもうひとつの事例であるとされる。
ここでジジェクは、ジャニス・レイモンドの1979年の『トランスセクシュアルの帝国』に端を発する、トランスジェンダーの人々が選択する様々な処置や療法は、
製薬企業にとって重要な経済的利益をもたらすものであるという、一見したところ長年にわたる議論に訴えかけている。
そうすることで、救命医療へのアクセスを容易にするべきだと主張する人々を、自分たちの身体をめぐる現実の物質的な対立のために戦うのではなく、
資本の側、つまり極悪非道な個人の側にいる人々として捉え直すことができる。
バトラーやフーコーを読んだことのある人物が、このように書くことができるのは、こうした運動が誰のためになるのかという、権力についての混乱がジジェクを盲目にさせているのだ:
[ジジェク] 「性的混乱に「異常」なことは何もない。「性的成熟」と呼ばれるものは、長く複雑で、ほとんど無意識のプロセスである。
それは激しい緊張と逆転に満ちている。自分の心の奥底にある「本当の自分」を発見するプロセスではない」。
作品全体と同様、これはジジェク特有の哲学的プロセスといううわべに包まれたいつもの本質主義と、トランスフォビアtransphobiaである。
この最終的な帰結は、英米でトランスジェンダーの物質的な生活にすでにダメージを与えているヒステリーhysteriaの波に、ジジェクがお墨付きのスタンプを押したということだ。
ジジェクは、社会の変化に懐疑的なジャーナリストや知識人の瘴気miasmaの中に紛れ込んでしまったかのようだ。
これはポストモダンの懐疑主義に非常に批判的な人物から出た究極の皮肉である。
過去の思想家からの豊かな引用を悪しき議論の隠れ蓑に変え、気まぐれさを苦味に変えてしまう。
私たちにとって悲しい日であり、多くの意味でジジェクにとっても悲しい日である。
ジジェクは豊富な理論的な著作の中で最高のパフォーマンスを発揮し、ここでは最悪のパフォーマンスを発揮している。
このエッセイを読むと、あなたは感じ取るだろう。少なくとも少しは彼がそれを自覚していることを。
[終]
「好きと良いは違う」に対して還元主義(?)的に考えていった結果、良いと悪いは好き嫌いの多数決でしかないのではないかという結論に至った。
この服はなぜ良いのか?
着心地が快適だから。なぜ着心地が快適だと良いのか?快適である状態は良い事だから。快不快の問題だ。
かっこいいから。なぜかっこいいと良いのか?そもそも「かっこいい」の定義は?かっこいいものを身につける事は精神的充足に繋がるから。かっこいいとは見ていて嫌悪感を抱かず、むしろ快楽や憧れの念を抱かせるような事である。快不快の問題だ。ちょっとトートロジーめいてる気もする。
安いから。なぜ安いと良いのか?可処分所得の減少が少なくなるから。なぜ可処分所得の減少が少ないと良いのか?可処分所得の消費による購買の機会を増やし、効用の追求機会が増えるから。快不快の問題だ。
高いから。なぜ高いと良いのか?高額な消費であればより大きな効用を得られるだろうという誤謬めいた判断が快楽をもたらすから。高額の消費、及びそれを誇示する服を着ることが収入の高さ、引いては社会的評価の高さを示唆し、自尊心の向上や社会的承認が得られるから。快不快の問題だ。
もっと言えばエシカルコンシャスネスだとか、造形の斬新さや精緻さ、テーマ性の反映度合いや精神性が云々だとかいくらでもあるけど、それらを測る評価軸はどこから湧いて出きたのかという事になる。
いずれの評価軸も快不快、好き嫌いの問題へと収束していくはずだ。デニムなんかで着心地が悪いからこそ「良い」みたいな美意識もあるだろうけど、それも然りだろう。
いつからかあってこれからもあり続けるであろう自然法則を所与の前提として持つ自然科学と違って、何が良いかという判断においては意図的に何かを前提として置かなければならないのだから、感覚的な部分に頼らざるを得ないのは当然に思える。
ただそれだと必ずしも多数派に支持されない「権威」の存在の説明がつかない。
ハイメゾンの攻めたコレクションを見て賞賛を送る人間は多数派だろうか?もっと定量的にいけばジャンルを変えてトマトメーターでも見れば分かるけど、権威と大衆の意見は必ずしも一致しない。それなのに権威の意見が良し悪しの評価に無影響だとは受け取られていない。
謎すぎる。
世界共通の自然法則に支配される存在であって、かつ誤差みたいな個体差はあれどほぼ構造も似たような生き物同士なんだから、何かしら共有されている本質的な感覚があるのだろうか。
それはまああるか。
様々なノイズを除去しながら、そういった本質的なものを見極めて評価の対象物と照らし合わせる技能を持った人間が伝導師として権威を握っているんだろうか。
ただ人類の共通の感覚って言ったって大枠のものに過ぎない気もする。ドブ川の水を啜って美味いと感じる人間は多分いないだろうけど、椎茸を美味いと感じる人間もいれば嫌いな人間もいる。
アレルギーでもなきゃ、食わせ続ければいつかは美味しさを「理解」して好きになるのか?
宗教規範から脱却したように思えてその実人々が未だ様々な信仰に基づいて生きている点は全く変わらないように、本質主義だとか教養主義だとかが社会の中で生き永らえているだけの話なのか?
多数派が好き(あるいは嫌い)だと思わないようなものについても、新たな価値判断の基準を提示して「言われてみれば、確かに……」という共感を呼び、考えを変えてしまうような魔力を持った主張の出来る人間が権威を握るのか?常にそれが達成される訳ではないにせよ。
論理的に分析してみた所でそれが良いか悪いかは論理ではなく基準の問題なので、共感の方が重要に思える。
基準に沿った判断は合理的にやっていけるけども、基準そのものの妥当性はより上位の基準でしか判断出来ない。好き嫌いというのは恐らく最上位の基準であって、それ以上の基準はなく共感によって一変してしまうのかもしれない。
これなら原則として良い悪いが好き嫌いの多数決によって決まるという説の中でも得意的に良い悪いへの影響力を持つ事がさほど矛盾しない気がする。一番しっくり来るかもしれない。
哲学の世界ではとうにこんな議論もグチグチと交わされてるらしいけどおれの中では前向きなニヒリズムが一番納得感があるし、それ以上の理屈を求めようという気にもあまりならない。
ディスタンクシオンは文化資本元増田の源流にあるブルデューの著作。ディスタンクシオンを直訳すると「区別」になるらしいが、フランス語の語義では「他から区別された」→「特に優れた」→「卓越した」と派生し「卓越化」を訳語としている。訳者は石井洋二郎先生。東京大学の名誉教授。凄い。
文化資本が家庭環境と学校教育の両方によって形成されるものであること
これを念頭に置いた上で、初めて文化資本を捉えることができる。
元増田が話す通り、これが本質。文化資本に恵まれれば「強くてニューゲーム」になる。ここで学校教育機関が登場する。学校は相対文化資本を学歴資本に転換していくもの。そして教育は家庭環境による文化資本の差を拡大する可能性を秘めている。これは上にも下にも働く作用する。学校は教育機関である故に「身分振り分け効果」を見えざる機能としている。
学歴資本を手に入れた人間は、最終的に〇〇大卒という肩書きを手に入れ、社会的承認を得ることになる。社会的承認は文化資本を所有している証明でもある。これを持たない人間は、なんらかのパフォーマンスによって、自分が所有する文化資本の価値を証明する必要がある。これは貴族に比喩される。貴族は「貴族であるから貴族」。日本ならば、天皇は「天皇であるから天皇」である。文化資本のパフォーマンスが要求されることなく、それが本質であること。これを「本質主義」とブルデューは呼んだ。
「東京が文化資本に富んでいる」これを疑問視する意見、あるいは否定的な意見が目立った。先に本質主義の話をした。客体的に東京=優れていると考える人が多いことは、本質的に東京の文化資本を証明している。
これらを捉えれば「東京」とは客体化された形態の文化資本を持っており、文化資本に富んでいることが東京の本質である。
ディスタンクシオンの第1章では美的思考について長く語られている。「趣味や美的思考は人々を区別するものでもある。これが文化的階級に繋がってくるし、諸階級間を隔てる最も超えにくい障害のひとつ」と物凄く端的にまとめた。で、問題なのは。美術館に行くことが身体化された形態の文化資本につながること。これを考えてしまうと、あながち使い方として正しいのかもしれない。もちろん社会資本としていってんだろと感じなくもないが。
勉強になるな~
https://femalelibjp.net/?p=1357
フェミニズムからトランスジェンダリズムへ――キャサリン・マッキノンとその政治的移行
マッキノンを含むトランス派のほとんどは、実際には「トランス女性」を生物学的に定義している。つまり、彼らは、生物学的に男性である人だけが「トランス女性」になれることを確信しており、「トランス女性」であることの必要条件を生物学的男性に置いている。「トランス女性」であるためには、何よりも彼らは生物学的に男性でなければならない。生物学的女性は「トランス男性」や「シス女性」になれても、けっして「トランス女性」にはなれない。生物学的男性だけが「トランス女性」になれるのである。
わはは、せやな
「トランス女性」たちは女性を、その長い髪、赤いマニキュアの塗られた爪、豊かな乳房、丸みのあるお尻、ヴァギナなどに還元したうえで、それらのパーツを疑似的に自分たちの身体上に再現して、自分たちを女だと称している。つまり、彼らにとって「女性」とは、これらの身体パーツの単なる寄せ集めなのである。GCフェミニストはまさにそれを批判しており、女性は、男でも視認できる「女性的な」身体パーツの寄せ集めではなく、生物学的ないし政治的なあらゆる差異と特徴を含むトータルな存在だとみなしている。
まさにその通りや。
さらに、マッキノンは次のように述べている。「女性は、実際には、私たちの身体によって従属したり抑圧されたりしているわけではない。私たちは染色体や卵巣から解放される必要はない」。
まず、女性を生物学的に定義することを拒否しているマッキノンは、「私たちの身体」という言葉でいったい何を指しているのか? 「私たちの卵巣」と言っていることからして、この「身体」は明らかに「生物学的女性の身体」を指していると解釈するしかないが、もしそうなら――マッキノンの規定によれば――それは生物学的本質主義になるではないか。
女性固有の身体が抑圧の条件であるからと言って、その身体性からの解放が女性の解放であるという結論にはならない。男性が女性をレイプするためには、ヴァギナを含む女性の身体が必要であるが、だからといって、レイプをなくす運動がヴァギナをなくす運動であったことは一度もない。
あったり前やな。
実際には、「トランス女性」が生きているのは「女性の生」ではなく、彼らが想像する「女性の生」にすぎない。何をしたら女性の生を生きることになるのか? 髪を長くして、化粧して、乳房を大きくして、ブラジャーをして、スカートを履いて、生活することか? もしそうなら、マッキノンは、女性をそのようなパーツや服装(社会的ジェンダー)に還元していることになる。
おい裁判官聞いとるか?
そもそも、「トランス女性」は、とりわけオートガイネフィリアに分類できる人々(「トランス女性」の大部分はおそらくそうだ)は、「女性にアイデンティファイしている」のではなく、女性の長い髪や化粧、赤い唇、女性のドレスやスカートや下着、女性の豊かな乳房、女性のすべすべの肌、女性的な振る舞い(男が考えるそれ)にアイデンティファイしているにすぎない。つまり、女性の外面、女性の装飾、女性のステレオタイプにアイデンティファイしているにすぎない。
彼女はこの論文において過去の自分の理論のほとんどすべてを放棄したが、過去から継続している面もある。過去の彼女との連続性がかろうじて見て取れるのは、彼女の年来の反生物学的立場である。生物学フォビアと言ってもいい彼女のこの反生物学主義は、女性身体の生物学的構造を徹底的に利用し搾取しようとする男性権力の核心をつかみそこない、その新しい運動形態たるトランスジェンダリズムの本質を理解しそこねる結果になっている。
"フェミニストのトランスフォーブの多くが、女性のジェンダーロールやステレオタイプにトラウマを持ち、身体的、心理的に、あるいは人生の野心において、それに適合しなかったことは明らかである。彼女らは女性として受け入れられ、評価されることに苦労したのに、一部のトランス女性がやすやすと女性として受け入れられていることに憤りを感じているようである。"
これは真に驚くべきインセル的主張である。つまり、GCフェミニストは「トランス女性」に嫉妬していると言いたいのだ。何かに対するフェミニストの批判を「女の嫉妬」に還元して説明する仕方は、ミソジニスト、インセルに典型的なものだ。女性の参政権のために闘ったサフラジェットの場合も、男に愛されない年増の女の欲求不満だと言われた。この古典的なミソジニー的主張がよりによってマッキノンによって繰り返されるとは!
彼女は、女性の多くが女性にアイデンティファイしていない理由として、「男性のいる何らかの集団の一員として自分を見る方がより尊厳があるからだ」と述べている。マッキノンが「トランス女性」という名の男性を女性カテゴリーに入れようとした心理もまさにこれである。
今では、彼女は、女性というカテゴリーそのものに男性を含めており、マッキノン自身が、自分を「男性を含む集団」の一員とみなし、そのことによって自分たちが「より尊厳ある」存在になったと感じているのである
名誉男性になりたいわけやね。
つまらないものでも、楽しみしろを見つけようとすれば楽しめる余地はある。
つまらないと思うのは、あなたの感性や教養が乏しく解像度()が低いからだ。
これってどう違うん?って思う。同じ事象を指してどちらにも言い換えられると思うんだけど。
キューブリックの映画がつまらんとか言ったらそういうのがウジャウジャ湧きそう。
あの作品を面白いと思えないのは、鑑賞リテラシーが低くどこに注目して観れば分からないからだ、とか。この映画の話はただの例えで、他の物事でも色々と。
まあ自分も好きなものが軽く扱われた(ように感じたら)そういう言葉が喉元までせりあがるかもしれない。私は社会性があるのでグッと堪えますけど、世の中失禁してしまう人の多いこと。
なんちゃらの影響がどうこうでどこそこが革新的でこういう特色が云々、みたいなどっかで仕入れたような受け売りを諳んじる。
どう感じるかの話をしているのに歴史の話を持ち出すのアスペでしょ。
受け手の感性がとか言い出したら、じゃあ大怪獣のあとしまつがつまらないという人も全員感性が乏しいって事になりますね。
そうでないなら、オレの好きなものが嫌いな奴は感性が乏しい。オレの嫌いなものが嫌いな奴は正しい。その対象がつまらない。言ってることそういう事になりますからね。「教養」さえあればいくらでも楽しみしろは探せるはずなんだから。
まあ教養主義というか権威主義というか本質主義丸出しな……どのような信仰をお持ちでも結構なんですけど、それをグイグイ押し付けられるのは甚だ鬱陶しいという自覚くらいはあって欲しいね。
どれそれがつまらんと言う人がいれば、教養が足りない。歴史を学べ。想像を膨らませろ。オマエは感性が乏しい。って吐き捨てに行く人がいる。インターネットでよく見かける。
全方位を貶す2ch脳みたいな奴もウザいけど、こういう連中もアレだなって思う。
言わんとしてる事は分かるけど。物事に楽しみしろを見出していけば人生割と楽しいけど、ただ偶然の出会いに身を任せて受け身でいるだけじゃそこまで面白くはないし。
ただ何を面白く感じるかは各々が決めればいいことだし、つまらないと思う気持ちは楽しむ気持ちと等価だとも思う。
これを面白いと思えないオマエが間違ってる、みたいなのは余計なお世話だよなって。一般的な感覚と照らし合わせるとズレてるかもね、くらいのことはあるかもしれんけど。
それがつまらないんじゃなくて、お前がつまらないだけ。みたいな事を言う人は多分に本質主義、教養主義、権威主義的な考えを持ってる気がする。
前情報無しに受け身でも楽しめるようなゲームやエンタメ全振り映画よりも、知識をコンパスに言葉の先を行く表現物を鑑賞したり、自分の考えなり価値観なりを挟んだり照らし合わせる余地のあるモノを楽しむ方が素晴らしい、より優れた人生体験である、みたいな価値観が前提に置かれてる感じ。
まあ各々の中でそう思うのは勝手だけど。おれもそういう物事の方が生きている意義を感じられるし、自分という存在を確かにできる感じがする。でも別にそれがこの世界に用意された正解という訳ではない。
極端な話をすれば、じゃあその豊かな感性や想像力、知識でもってしてその辺の石ころでも眺めながら一生諸行無常や宇宙の歴史にでも思い出を馳せてれば?そういう身近な喜びを無視して、わざわざ人の作った芸術作品なりで分かりやすく楽しみを得る事も受け手がショボいって事になるんじゃないですか?でもそうではないでしょ。見る側がつまらないとか言い出すと、突き詰めるとそういう事になってくると思う。
人が人を楽しませるために、相互的なものとして作り出した作品と無為に存在する自然物とではまた話が違うんだけど。でも説教マンって多分グランドキャニオン見たけどつまらなかった、みたいな人がいれば多分知識が想像力がとか言い出すんじゃないかな。知らんけど。
Q:ジュディス・バトラーの主張と批判について教えてください。
A:ジュディス・バトラー (Judith Butler) は、ジェンダー、アイデンティティ、権力の問題に焦点を当てた哲学者、ジェンダー理論家である。彼女の主な主張は、ジェンダーは固定的で自然なカテゴリーではなく、むしろ私たちの日々の行動や相互作用を通じて継続的に生産され強化される社会的構成物であるという考えに基づいている。彼女はクィア理論の発展に影響力を持ち、フェミニズム、異規範性、伝統的なジェンダーの概念に対する批判を行ってきた。
バトラーの主な主張の1つは、ジェンダーは遂行的であり、それは単に生得的または既存のアイデンティティを表現する問題ではなく、むしろ私たちが行動や行動を通じて創造し、実行するものであるということである。彼女は、ジェンダーは私たちが学び、内面化する文化的なスクリプトであり、私たちの日常的な他者との交流を通じて常に再生産されていると主張している。つまり、ジェンダーは私たちから独立して存在するものではなく、私たちが積極的に生み出し、参加しているものであるということです。
バトラーの研究のもう一つの重要な側面は、本質主義に対する彼女の批判である。本質主義とは、特定の特徴や性質が個人や集団に固有のものであり、これらの特徴がそのアイデンティティを定義するという信念である。バトラーは、本質主義は抑圧の一形態であると主張する。それは、アイデンティティには固定的で自然なカテゴリーがあり、それが差別や排除につながる可能性があるという考えを強化するからである。代わりに彼女は、複数の変化する表現形式を可能にする、より流動的で柔軟なアイデンティティの概念を提唱している。
ジュディス・バトラーに対する最も一般的な批判の1つは、あまりに抽象的で理論的であり、彼女のアイデアを現実世界でどのように実践できるかが必ずしも明確ではないということである。批判者は、ジェンダーのパフォーマンス的な性質とアイデンティティの流動性に焦点を当てることは、具体的な政治的または社会的行動に変換することは困難であり、彼女の仕事は不平等と抑圧の問題に対処するための明確な戦略を提供していないと主張している。
バトラーの研究に向けられたもう一つの批判は、個人のアイデンティティと主体性に焦点を当てすぎており、より大きな社会的・制度的構造が私たちの経験を形作る方法を十分に説明していないということである。一部の批評家は、彼女が成果主義とジェンダーの社会的構築を強調していることは、家父長制、資本主義、人種差別のような制度的システムを通じて権力が機能する方法に十分に対応していないと主張している。
最後に、フェミニストの学者や活動家の中には、生物学的な性と女性の経験の重要性を損なうとしてバトラーを批判する者もいる。彼らは、ジェンダーの流動性とアイデンティティの社会的構築を強調することで、バトラーは女性の身体の物質的な現実と、性に基づいて歴史的に抑圧されてきた方法を消し去ると主張している。
Q:トランスジェンダリズムに対する主な批判について教えてください。
A:トランスジェンダーは、生まれた時に割り当てられた性別とは異なる性別と同一視することであり、論争や議論の的となってきた。トランスジェンダーに対する主な批判には次のようなものがある。
ジェンダー本質主義:トランスジェンダーは、ジェンダーが社会的構成体ではなく、固定された固有の特性であるという考えを強化すると主張する批評家もいる。彼らは、これがジェンダー本質主義を強化し、ジェンダーの固定観念を強化すると考えている。
医学化:トランスジェンダーのアイデンティティの医学化は、トランスジェンダーの個人を病理化し、烙印を押すと主張する批評家もいる。彼らは、トランスジェンダーのアイデンティティは精神障害と見なされるべきではなく、そのように扱われるべきではないと考えている。
安全上の懸念:トランスジェンダーの権利は、特に公衆トイレやロッカールームにおいて、シスジェンダーの人々の安全を損なう可能性があると主張する批評家もいる。トランスジェンダーの個人が自分の性同一性に合った施設を利用することを認めると、性的暴行や嫌がらせを受ける可能性があると主張している。
イデオロギー的な懸念:トランスジェンダーのイデオロギーは、特に子供や若者に関して、社会に有害であると主張する批評家もいる。トランスジェンダーの活動は、若者がホルモン療法や手術などの健康に悪影響を及ぼす可能性のある医療処置を受けることを奨励していると彼らは考えている。
結婚して子供を産むのが正しいの、生まないのが正しいのでケンカしてる光景はインターネットでザラだ。
そんなもの正しいと思ってる人には正しいし、そうでない人にはそうでないだけの話で。意味があると思ってる人にはあるし、無いと思ってる人には無いだけ。
当然の話で、人が生きるのも、社会に参加するのも、生物が種を残すのも、理詰めで言えば何の意味もない。存在の話ではなく当為のそれなんだから。
大人の義務や責任?どこから湧いた?生産性?何の為の?社会の維持?何の為に?人権思想?何の為に?生きるため?なぜ?
子供を作る事に限らず、人の営みはリンゴが上から下に落ちていくのと本質的には何も変わらない。
現実的な議論としては、人権思想が公理であり土台となっていて、そこで一旦は打ち切られる訳だけど。それにこれはあくまで「お気持ち」や「主観」から離れた場合の理屈だ。
まあ人権という公理から導き出される規範も一義的なものではなくて、それぞれの解釈が対等だからまた言い合いになるんだけど。
その対等な言い争いは民主主義と呼ばれて割と尊重される。しかし人権を認めるのであれば、人に結婚出産をするな、しろと強要できる道理はどこにもない。
そもそも社会を生き長らえさせる意義を感じていない人間に対して、子供を持つ事がいかに社会の持続に必要かを説いても無駄。
人生に先立った苦しみなどなく、行い次第で如何様にも幸せになれる。と信じている人間に対して、辛く苦しいだけの生を生み出す残酷さを熱弁するのも然り。
前提が揃っていない段階で話をしてもボタンの掛け違いになっている。
共通認識を揃え、対等な異なる意見を持ち寄って考えを深める事はあっても、最終的にどちらに転ぶかは自分の納得の問題だ。
全ては無意味、と言うとすぐ冷笑と抜かす人間がいる。無意味を開き直り、さらに他人を巻き込もうとすればそうかもしれない。
しかし規範において、理詰めで言えば無意味である事実は変わらない。
それを歪めるのは不誠実な物の考え方ではなかろうか。いくら生活の為にはある程度の忘却や思考停止が必要と言ったって。
ともかく、無意味とはいっても自分の中で実感や確信に基づいて意義を見出す事は可能だし、多くの人がそうしてきて、今もそうしてる。
そもそも意味などを問う以前に、まず生きる事そのものが価値のある、というよりあまりにも当たり前のものだと思っている人も少なくないんだろう。
むしろその方が多いかもしれない。もっともそれにしたって、意識的であれ無意識であれ生を肯定する規範、信仰、納得を持っている訳だけど。
世界に元々用意された意義なくて、そこに「正解」を用意したらそれは宗教だ。
別に宗教が悪いとは1ミリも思わないけれど、それを押し付けるのがいかにグロテスクかは歴史を見れば明らかで。
他者の生き方に口出しをしてかくあるべしというのは、自分の選択に腹の底から納得できていないじゃなかろうか。これは理屈の話と言うよりは邪推だけれど。
一度きりの人生、自分の選択が、価値観が「間違い」だなんて思いたくはない。そんな疑問が浮かびもしないほどの実感と納得がある生き方をしたいもんだ。
でもそう強い人ばかりでもない。自分の選択に自信がないが、自分の中に納得の源泉がない。だから外部にそれを求める。他人に肯定してもらいたい。
同じ意見を持つ人間と集まって、互いに肯定し合う。あるいは単純化した二項対立の上、自分の対岸にいる者を「間違い」だと断罪し、そして自分は正しいんだと思う。
そうした正当化が健全か不健全かは知る由も無い。が、考えの異なる者同士、互いに説教や罵倒を受ける道理は無い。
視野狭窄、知識が足りていないように見える人間に対して「こういう見方もあるよ」と助言する事はあるかもしれない。教育とは、学びとはそういうものだ。
しかしそれが強く押しつけがましく攻撃的で否定的、あるいは過剰に肯定的なものですらも、そこには自分と同じでない他人への苛立ちがあるのかもしれない。
社会の利害調整を問うなら互いに言い分もあるだろうけれど、生き方の問題に口を出すのはナン ノブ マイ ビジネス(夜に影を探すようなもの)だ。
その点、受け売りの胡散臭い政治思想とアイデンティティや価値観が悪魔合体している人は非常に厄介という事になる。
まあ上から目線で説教する道理もなかろうけど、なかった所で誹謗中傷やらにならない範疇で批判をするのも勝手だ。
よしんば中傷じみた人格攻撃でも、そんなもんネットに溢れてるし、それで捕まるのも稀だ。という事を踏まえて平気でやる人間がいるのも事実としてある。
悲しいね。
等しく無意味な人生に価値を見出せるのは自分だけだ。上手い飯を食うでも、芸術を愛でるでも、ギャンブルに狂うでも、何だっていい。
愛に囲まれ他者から存在を肯定してもらうのも、神様を信じてみるのもいい。それは一見外部の他者が価値を与えてくれるように見える。
しかし結局それによって得た納得が湧き出るのは自分の心の中だ。
「敵」を罵り「仲間」と慰め合って拵えた後ろ向きの納得よりも、内から発される声に対して真摯に耳を傾け、それに従った方が良い、ような気がする。私は。
まあ私だってきっと自分の考えに腹の底から納得できていないから、こんなサイトに長々と文章を書いているのかもしれない。
勿論意味など最初から問わない、忘却するという選択肢だって大いにあり得る。今際の際に蓋していたものが頭を過るのが怖くて私は出来ないが。
人をブチ殺して回りたい、それが私の納得する生き甲斐だ。こう思うのだって非難される、というか過剰に誹られる謂れはない。
なんなら思うだけではなく、法だの人権だのがいくら殺人はダメと言った所で、別に実行する事は可能なのだ。現に殺人事件は一定的に発生している。
出来るからやって良いなどとは言っておらず、可能な事実があると言っているだけですからね。
当然我々が恩恵を受ける司法や人権思想のもと、社会によってしばかれるだけだが。バレなきゃしばかれないけど。
茨の道が待っていると知った上で尚もその納得、価値観を手放さないというのなら、私は敬意すら覚える。当然自分が殺されるのは御免で、それはまた別の話だが。
個人主義、民主主義社会の範疇における多様性とはそういう事なんだろう。
お気持ちがどうとか主観がどうとかいった言葉を使って何か言った気になってる人がいるけど、事実でなく規範を語るなら感情論で当然なんだよね。
絶対的な真理、善、正義を信じる本質主義者なんで、と言われたらそれまでだけど。
金持ちがネオリベにかぶれるのも貧乏人がその逆になるのも当然だろうし、いくら事実と論理を積んだ所で最終的には感情論。
勿論ノブレスオブリージュを語る金持ちも、支配者への忠義が大事だと思う貧乏人だっているかもしれない。
それもまた価値観や納得に基づいたものであって、どちらに転ぶか、必然性はない。
「ブーメラン」はロジカルを自負するインターネットマンの口癖だけど、言行不一致は理屈ではなく感情の問題だ。
殺人犯が「人殺しはダメ」と言ったらどの口が言うかって話だけど、言ってる事は間違ってない。
でもやっぱりコミュニケーションにおいて心象というものは無視できないので、お気持ちのない、ポジショントークでない意見など神様にしか言えない。
まあいくら社会性に則った無難な話をした所で、「こういうヤツ、バカですw」みたいな強い言葉を使った話にばかり注目が集まるのも悲しい事ですね。
人生は有限だし、触れる事のできるコンテンツなんて全体の中の一握りの一握り。だからこそ限られた時間の中で普遍的に好かれる、自分にとっても良いと思える可能性が高いものを選び抜かないといけない。凡作に付き合う暇などない。
名作は凡作駄作との差異によって名作たらしめられる。凡作の何が悪いかを知る事で初めて名作の良さを知る事ができる。名作ばかり観ていたら、それは自分にとって普通のものになってしまう。
良いものは良い。駄作など関係なくこの世に本質として存在する美に迫った普遍的な良さというものは存在する、という本質主義的な考えに立つか、いや本質的な価値など存在しない。実存と差異によって「良いもの」が浮かび上がるのだという考えに立つかの違いなのではないか。
あと、後者の方がより作り手側に立った側面が強い気がする。良いものの良い部分を取り入れようと思っても何が良いのかが分からないと無理だし、悪いお手本を見る事の大切さ、みたいなのは当事者性の強い問題だと思う。
チェンソーマンでもデンジくんに「クソ映画のある世界の方が良い」みたいな事言わせてたし、クリエイターにはそういう意識があるのかもしれない。でも悪役にこそ作者の主張が込められていて、主人公が一般論や良識でねじ伏せるのが定石だ、みたいな話もあるしな。
「名作」と言っても、それそものの出来の素晴らしさを讃えられたものとエポックメイキングな価値を評価されたものがある。後者は過去にない新しい価値や手法を世に突きつけたという文脈があってのものだし、それはまさに「差異」が価値を生み出している訳で。何も知らない人が、絵ならキュビズムやら印象派やらの代表作を見ても、知識がなければ変な絵だとか寝ぼけた絵だとしか思わんだろうし。映画ならヒッチコックなんかを今観ても、教科書を読んでるような気分になるだろうし。新しい手法を使いつつより洗練されたフォロワー作品の方が面白いだろうし、今の人にとってはそちらの方が魅力的な訳で。
でも、教科書に載ってるような絵画を見てよくわからんけどなんかいいなーと思ったり、2001年宇宙の旅を観て退屈だけどなんか凄いっぽいと思う事もあるだろう。その「なんとなく」を説明できないのなら、それは本質的な美があるという話になるんじゃないかと思う。
構築主義「本来、男性は女性の身体に欲情しないものであり、社会によって刷り込まれた変更可能な性質である」
本質主義 「本来、男性は女性の身体に欲情するものであり、変更不可能な性質である」
本質主義な平等主義者 「本来、男性の同性愛者は男性の身体に欲情するものであり、同性愛は変更不可能な性質である」
本質主義な差別主義者 「本来、男性は女性の身体に欲情するものであり、同性愛は社会によって刷り込まれた変更可能な性質である」
構築主義な平等主義者「本来、男性の同性愛者は男性の身体に欲情するものであり、同性愛は変更不可能な性質である」
構築主義な差別主義者「本来、男性は男性の身体に欲情しないものであり、同性愛は社会によって刷り込まれた変更可能な性質である」
https://note.com/dadasp/n/nf0deab7c28e4
純粋な住宅地には無いだろうが、工業地帯と住宅地の隣接地帯、古い商店が点在するくすんだ住宅街の商店や町工場なんかに共産党のポスターが貼ってあるのを見ないだろうか?
個人商店、自営業、町工場っていうのは30年前は自民党のガチ票田だったんよ。その票田を共産党が奪取してるって事なんよこれは。
この人はそういう変化を見てないんじゃないの?給与生活者で綺麗に計画された住宅街に住んで上辺の知の世界に生きてるだけなんじゃ?
票田かっ攫うって言っても自民党支持者が甘言だけで革新に転ぶわけがない。困窮した時に救済制度を知っていたり行政との橋渡しが出来なきゃ信頼されない。それ以前に経営に就いて理解していなきゃ話も聞いてもらえない。
その背景には90年代の金融の再編があって、不良債務を抱えるリスクを減らす為に銀行が中小零細の債務をノンバンク子会社に付け替えてる。銀行から借りてない会社なんて経済的信用が無いって事だからそのせいで取引先も減ってしまう。まともに扱われてないのだな。
なのに「革命が」とかいつまでも浮ついた事言って「地べた這いずって生きてきた人たちのほうがよっぽど偉かったよ」とか言ってる。自分が地べたはいずりゃいいでしょが。
ATMで金下すだけで今は銀行がただで両替してくれないとかも知らないんだろうな。ただで両替しないのは店舗経営者が客じゃなくなったからだ。
ずっと以前は共産党は悪しき前衛主義で頭でっかちのエリート組織だった。東側陣営の崩壊後、宮本顕治失脚後は党勢を維持できずに無くなるだろうと目されていた。都市部の給与生活者と環境問題などに軸足を動かした新左翼が生き残ると思われていた。国鉄解体でもJRに参画出来たのは転向した嘗ての超急進派の革マルで穏当な日共系はパージされるという憂き目にあった。
だが実際には党勢が風前の灯となっているのは新左翼政党となっている。何故か?
それは小泉以降の自民党が「改革的でイデア的な」な世界観の競合となっているからだ。ゼロ年代に帳簿も読めないどころか複式簿記も知らないのにやれ金融だM&Aだと言い立てて経済通の気分に酔うのが流行ったが、あれと90年代社会党の気分は似ている。競合関係なのだ。
文中で出てくるキクマコ先生はその判りやすい例で、アベノミクスで素養の無かった経済問題に触れるや「社会の全ての事象が設計的に読めるように」なり、「全ての事象の評価軸」を得てしまった。それでその中から出て来なくなったんである。キクマコ先生がこうなったのは彼がリベラルだったからに他ならない。世間知らずさがその本質主義を担保している。私だってこういう風になった事はあるが普通は18~20歳あたりで通過するものだ。
こういうのと競合しない路線を進んだので共産党はニッチを得た。
だから大家なんかには自民党と共産党交互に投票する人もいる。普通にいる。ここにもいる。
健保保険料払わず病気になった店子の面倒みて貰った先生に入れて、冠婚葬祭に来てくれた先生に入れて、とそういう感じだ。
筆者とキクマコ大先生はシラケ世代の還暦なんだろうがアリバイの自覚はあるのに自分が殻に入っている事も気づかないのだな。
お気持ち表現規制派を殴るついでに社会構築主義殴られても困るんだよねぇ,正直.
私は人文系で別にジェンダーの問題には関心ないけど,構築主義的な考え方は別にフェミニズムに限られた概念でもないし,社会学だけじゃなく人類学や歴史学でも受け入れられてる.
「民族」が構築されたもので云々みたいな話はさんざんされてきていているわけで.きちんと実証的にやろうとすればするほど構築主義の考え方を取らねばならない局面って多いんだよね.
社会構築主義への批判もあるにはあるけど部分的修正を促すものだし(たとえば「老人」というカテゴリの特殊性から社会構築主義の大前提を疑った論文もあり,これはかなり面白い),本質主義に戻れるかといえば戻れないので,まあ構築主義を受け入れた上でどうやって実証に活かすかという話になるわけだけど,そもそも社会構築主義はおかしいって言われると「ええ……」ってなるよな.
社会構築主義批判が悪いわけではなく,きちんとした論を立てて批判してくれるなら全然大歓迎なわけだけど,一部のアンチフェミな方々の議論は耳を傾けるべき水準に達していないので.
正直もう本当にうんざりなんだけど,お気持ちフェミニストを殴りたかったらお気持ちフェミニストをピンポイントで殴ってほしい.社会学批判とか始めるならネット上の断片的な社会学についての解説だけじゃなくてちゃんと社会学の本やら論文やらをちゃんと読み込んでほしい.当たり前のこと言ってるはずなんだけどなぜか通じない.いやキズナアイを叩くなら彼女の配信をちゃんと見ろとか宇崎ちゃんポスター批判するなら漫画を読めよとかと同じことを言っているはずなんだが? という.
表現規制を求めるお気持ちフェミニスト批判ならオタクとして賛成するけど,雑きわまりない構築主義批判を始めるならそれは文系の学問に喧嘩を売っているに等しいわけで,こちらも文系アカデミシャンとして「は? お前何言ってんの?」というモードに入らざるを得なくなるんだよな.
だからまあ私の感想は,去年キズナアイが叩かれてたときに書いたの(anond:20181011062902)と同じになるわけだけれど.
とにかく私は両側にもうウンザリ.ろくに事実関係を調べもせずVTuberについて基本的なことを知りもせずキズナアイを叩く連中にも,ろくに文系について知りもせずどんな研究をしているか理解もしないできないのにクソバイスを垂れ流す連中にもウンザリです.オタク叩きも文系叩きもクソくらえ.どっちも私の敵.
仕事仲間から趣味を貶められ趣味仲間から仕事を侮蔑されるのそろそろ勘弁してほしいわけですが,まあこの流れは収まらないんですかねと諦めモード.どっちの陣営にも話通じない人がいて辟易.
まあせめて自分が誰に喧嘩を売っているのかはちゃんと把握してくださいね.表現規制派を批判するためにフェミニスト全体を殴ると性の解放を唱えるフェミニストに流れ弾が当たるし,社会構築主義にまで戦線を広げるならフェミニズムや社会学だけじゃなく人類学とか歴史学にまで喧嘩を売っていることになるわけだけどそこはちゃんと自覚してます? 自覚がないなら攻撃対象はもうちょっと限定しようね.もしそれらの分野に喧嘩を売るなら各分野の基本書はちゃんと読んで勉強してねという話になるけど,その覚悟はありますか?
(もちろんこれは男性向けジャンルの潮流とか文化とかについて碌に知らずお気持ちで批判してくる一部のフェミニストや社会学者にも当てはまることだけどね.よりにもよってそのジャンルでデータベース消費論に基づいた雑分析をやりますか? ほんと勘弁してくれ.男性向けだからどうせ女体目当てのポルノだろうみたいなその偏見をどうにかしろ.オタク,というよりも男のセクシュアリティを単純化するな.参与観察なり文献調査なり統計なりの実証手法を使いこなせ.表象分析やるならちゃんと作品に向き合え)
ところで献血行って冴えカノのクリアファイルもらってきたんだけど,今期アニメで白衣着て献血のポスターに採用されてほしいキャラって誰? 僕は,クリーブランドちゃん! アズレン未プレイなんだけどアニメは見てます.出来いいよね.さすが艦これより先にアニメ化されるだけはある.ユニオンとロイヤルと鉄血と重桜でそれぞれ1種類ずつナース服のクリアファイルとか作って献血ルームで配布してほしい.あ,『放課後さいころ倶楽部』も捨てがたい.翠ちゃんいいよね……仮にコラボやるならやっぱり京都府内限定とかになるのかな……(やると決まったわけじゃないだろ起きろ)(もう一回『ヤマノススメ』とコラボしてほしいよぉ……)(いま気づいたんだけどアズレンの鉄血って「血」って字が入ってるから献血にちょうどいいんじゃないか? プリンツ・オイゲンが上から目線で献血を要求してくるポスターとか,どうすか)
似たような話題を似たような面子で似たようなコメントで殴り合うの見てるのは正直言って苦行なので、色々な所に飛び火するのは割とありがたい
勘弁してください.俺は楽しくオタ活や研究して気分よく献血したいだけなんです.献血ポスターを燃やされ趣味を踏み躙られた挙げ句に仕事にケチつけられるとかただただ迷惑でしかないんです……一部のフェミが放火してまわって一部のオタクが焦土作戦しかけてきてるのは巻き込まれた村人Aとしては消耗するだけなんだ……
これはっきり言っておくけど,去年のキズナアイバッシングに付随しての文系バッシングのときにも,私が書いた増田を読んで「こういうのが読めたのはよかった」と言ってる人大勢いたけど,私まだ根に持ってるからね.なんもよくねーよ.水が言葉を記憶しないことについてやたら解説が充実していたり数多の歴史的事件のなかで南京大虐殺にだけやたら詳細なFAQがあったりするのはちっとも良いことじゃねーよ.文系バッシングはこれっぽっちもありがたくないです.一部のフェミに好きな作品を燃やされてもちっとも嬉しくないのと一緒.宇崎ちゃんの売上は上がったらしいけどそれを素直に喜べるかといったら喜べないでしょ.宇崎ちゃんバッシングなんてない方が遥かに良かったわけで(もちろん表現の自由というものがあり,作品への批判をするなとは言わないのだが,しかしその批判をどう思うかというのはまた別の話で……).
社会学部に運動家が集中しすぎている。法学部や経済学部や文学部とは比較にならないほどに集中して存在する。社会学と社会学部全体がうさんくさいものとして見られるようになった。
社会学部なんて設置してる大学は少数派なんですが本当に印象論でしか語ってないんですねというのがよくわかる.偏見を正当化したいだけのノイズ.
この世界は全て物理法則に従って動いている、というのが本質主義なら実際それは多分正しいんだよなぁ…そこに戻れないのは単に人間の知性が追い付かないから「仕方がない」だけなので/クリーブランドはロリだから叩
学問的良心からはたかだか門外漢との対話なんぞのために本質主義を採用するなんてできませんわ.
社会学部を設置してる大学は少数派でたいていの大学に社会学部なんてものはないわけですが本当に印象に基づいたお気持ちで社会学を叩いているんですね(それとも,ひょっとして社会学部がある大学の卒業生なのかな?).
人によります.普通の句読点使う人とかカンママル好きとかコンマピリオド派とか.出版社だと東京大学出版会は横書きの本は基本コンマピリオドですね.岩波もそうだっけ?
「お気持フェミが自分のお気持の裏付けとして使用していますがそもそも関係ありませんし用法も間違っています」というならわかる。フェミニズムと深い関連があるなら批判に耐えるだけの論拠が欲しい
耐える以前の問題で批判側が雑すぎてマトモに相手してやる価値もないというだけの話なんですが.社会構築主義を批判するなとはもちろん言わないけど,批判の質が悪ければ歯牙にもかけないよ.当たり前でしょ.
というかそもそも,社会構築主義の是非と一部のお気持ちフェミの表現規制要求の是非って無関係だし.勝手にその2つを結びつけたのはアンチフェミの側.一部のお気持ちフェミには自由主義とか哲学とかのツールを使って対抗すればいい話で,社会構築主義を疑う必然性はどこにもないし,疑うっていうなら俺の立場は表現規制反対派のオタクから文系研究者に変わりますよというだけの話.文系研究者としては雑なアンチフェミの議論なんて支持できるわけないでしょ.一介の市民としてなら喜んで性的解放とか表現の自由とかを叫ぶけどさ.
本来ならそこは互いに削り合ってこそ信頼性が担保されるはずなのにおフェミさん達は互いにお手々つないで仲良しするからこうなの。社会構築主義の信頼性を担保したかったらおフェミがそれを乱用するのをたしなめろよ
マジで社会構築主義がフェミニズムのあいだでしか通用しない概念だと思ってんの? 馬鹿じゃないの? もう何度でも言うけど本当に馬鹿じゃないの?
文系の学問について無知なのは別に悪いことじゃないけど無知なのにこんな勘違いしたままでドヤ顔で物申すのは馬鹿で恥知らずだと思う.勉強しろよ.
社会構築主義はポスター批判側から確かにあんまり出てなかったけどいなかったかといえば居たような…。「表象」とかゆってた人はソレとは違うの?教えてください!
表象の話は『世界』5月号に載ってた小宮さんのやつかな? あれは社会構築主義とはあんまり関係なくない? いやもちろん関係ないということはないんだけど,小宮さんが言ってるのは表象と女性差別の問題だよね.
実のところ社会構築主義ってマジで社会について分析する上でのベースとなる考え方だから社会構築主義が滲み出てくるのはある程度仕方ないところはあるんだけど,anond:20191104014500でも書いたように社会構築主義の是非以前の問題だなと思うことはあるんだよね.ジェンダーは(というかセックスも)社会的構築物だけど,それは議論の前提であって,じゃあその上でどの程度の女性表象を許容すべきかみたいなそういう話は倫理とか哲学とか思想とかの領分じゃないですか.そこに社会構築主義はどうなんだみたいな話を持ってくるの不毛すぎない? ロールズとかの話しません?
ちなみに私は小宮さんの主張には反対するんだけど『世界』掲載論文の注10(236ページ)には同意する.みんなもっと本質的な話しよ.「そもそも男性だって公共空間で性的消費されてるんだから架空の女性が多少公共空間で性的消費されてたって別にいいじゃないですか」「性的自由の拡大が目指されるべきであって表象を制約しようとするのはおかしいでしょ」「医療のための広告には高い倫理性が求められるのだとしても,人気マンガの多少えっちなイラストを使った広告すら問題とされるのはおかしい.それは医療のための広告に求められる倫理の範疇に収まるはずだ」みたいな話しよ.
……この規制反対増田を多数の「お気持ち棍棒」で殴り倒して口封じし「パワフル表現規制」した方が、学問で論破するより遙かに低コストって事は確実そう。だから規制派は扇動するのか。なるほど、俺でもそうするな。
それは過大評価ですよ.私はフェミニズムに学問的反論を加えているのではなく,フェミニストの一般社会に対する主張の一部に対して一人の市民として反対しているだけだもの.私は知の体系としてのフェミニズムにはちっとも触れていないので学者としてフェミニストに勝つことはできません.それはジェンダー研究の偉い先生が私の専門分野で私に勝てないのと同じ.
気持ちはわかる。が、賛成批判両側ともに多数の人間がいる以上、雑でなんも考えてない意見は出るだろうし、そういう意見は大体過激でツッコミ所が多いから目立つんだよねえ。正直、どうしようもない気がする。
フェミニストのお気持ちで趣味を殴られるのもオタクのお気持ちで仕事を殴られるのも正直疲れ果てたというお気持ちがあるけど,でも流石に今回は献血ポスターが叩かれたということで全血献血15回以上行ってるワイもちょっとプチッと来たよね.これまでは割とフェミの言い分もわからなくもないという感じだったけどキズナアイバッシングと献血ポスターバッシングで「こいつらの主張は基本聞く必要ないな」くらいにまで変わった.メチャクチャすぎるものこの2件.でもこの2件でオタク界隈に吹き荒れた文系バッシングの嵐も忘れてないからね.キズナアイバッシングや献血ポスターバッシングを主導したフェミと社会学叩きや文系バッシングを煽ったオタクはどちらも僕の中では絶許という扱いです.あとpixiv論文事件での学問叩きのことも忘れてないぞ……(しつこい)
まあフェミのことなんて無視して表現の自由を満喫してオタクのことなんて気にせず学問の自由を謳歌すべきなんだろーけども,オタクであることも学者であることも私の重要な一部なので,そう簡単に忘れることはできないんだよなー.
あー、キズナアイの時と同じ人か。私の感想としては当時のこちら(https://anond.hatelabo.jp/20181010204115)の増田とほぼ同じです。ていうか、学問の重要さを訴えたいなら匿名じゃない場所でやったほうが効果的でしょうに。
ネット上の有象無象が学問をdisってるときになんで納税者様への説明責任みたいな話になるのか理解できんわ.科研費の報告書とかはちゃんと出してますし論文も書いてます.納税者様への責任はそれで果たしてるはず.はてブ民とか棘の米欄住人とかに丁寧に説明して差し上げる義理はどこにもないよね.
というかそういうこと言うなら同じ口で二度と民主党政権の事業仕分けを批判しないでほしいんだが……
匿名じゃない場所でやれ? 嫌です.自分の専門分野を誠実にさらけ出して物申した先生方がいたけど,どうなったかといえば物知らずの連中が学問分野ごと燃やしに来ただけでしょ.私は私の専門分野に無知と思い込みでケチをつけてくる連中を招き入れるつもりはありません.
あのさ,それは何一つ否定してないじゃん? 法学部や文学部と並んで社会学部って書くのはおかしいよねって話じゃん? 誰も社会学専攻は置いてないなんて言ってないじゃん? 学部の名前と学問分野の名称は往々にして乖離するもので,そんな肌感覚もなしに批判してるのかよって話じゃん?
ただ関西の方だと有名な私大には社会学部を設置しているところが多いので,関西の有名私大を出た人だと社会学部があるのは当たり前って思っちゃうかもしれない.関東の大学でも,例のキズナアイバッシングの急先鋒だったセンセの勤務先は社会学部だしね.けど繰り返すように全国的には社会学部を設置してる大学は少数派です.
「社会学部」と「社会学専攻」を混ぜて論じてよいと思っている人につける薬はありません.文学と文学部,法学と法学部を区別できないってことでしょ?
歴史学者や政治学者や文学研究者もヒウィッヒヒーには生息して色々発言しているわけだけど,社会学者への偏見があるから社会学者が目立っているように見えるだけでは???