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はてなキーワード: 定言的とは

2024-07-24

審美眼なるものを疑う人間は多分一定数いる。おれもそう。

実際年末の某番組みたいに、「お高くとまってる連中が本当に違いの分かる奴らなのか試してやろうぜ!」的な目利きがエンタメとして成立してる。ああいうのがヤラセかどうかなんてのは知る由もないし、大した問題でもない。

あれは違いを確かめ作業で、僅かな違いを識別する能力を示しはする。でも「イイもの」を見分ける能力であったり定義づける妥当性とは特に繫がらない気がする。

区別もつかないのに「こっちの方がいい」なんて言うのもちゃんちゃらおかしいけど、じゃあ違いが分かってる人の好みならある程度の普遍性を伴った基準になんの?って思う。ならないんならそれは単にその人が好きなものってだけで、別にイイものであるという事にはならんよね。「違いの分かる人」からお墨付きにはなるだろうけど。

仮にそういう基準になるんだとしたら、共に違いの分かる二人が

「うん、どっちも美味しいね。それはそれとして高いのはこっちでしょ?」

「美味しさがまるで違う。当然こっちの方が高いに決まっている」

と言ったときに、イイもの定義づけるのはどっちの意見にすればいいの?って話になる。まあどっちも別軸でイイものなんですといえばいいんだけど。安易二項対立は良くない。

もっと言えば、そもそも本当にその感想本心から来てるのか?って所もある。

人の本心なんて分かりはしない。違いが分かるかどうかなら試して答え合わせをすれば分かる事だけど、何が好きで何が嫌いかなんて拷問にかけたって本当の気持ちは確かめようがない。

まあ好き嫌いときでそこまで嘘を貫く道理もなければ、そこまで確かめようとする道理もないんだけど。だからこそ気持ち確認の精度にも疑問が残る。

まあこれは単におれがしょーもない事で嘘つく虚言癖の気があって、他人にもそういう部分があるんじゃないかっていう邪推デカいのかもしれない。

仮に大抵が本心であったとて、単に好きではなくイイもの定義づける感想として扱うにはもう理屈というより共感問題になってくる気がする。

SNS開いてるとたまに「あの名作の論理的分析」的な記事が流れてきたりする。

あの手のやつを読んでみると、作中の具体的な要素を並べてあったり、あまり指摘されていなかった視点提供されていたり、あるいは社会の風潮なんかと結びつけてあったりする。

でも根本的な問題として「じゃあなんでそういう要素がイイの?何の基準を以て?」と言われたら、そこはもう答えようが無いんじゃないかと思う。言われてみたら確かにそこがイイよね、という共感くらいで。そして「別にそこがイイとは思わんな……」と思うのだって不思議なことではない。

仮に辛いものは美味しいという定義存在するのなら、このカレーは辛いので美味しいというのは論理的評価として成立する。

いわゆる目利きでやってるのは、カレーが辛いか否かを判定する作業にあたる。

じゃあ根本的な話として、定義のもの妥当性はどこにあんの?

美味しいものはイイものである、という定言的な前提に対する仮言的な前提として扱えば、まあ正当性は得られる感じはする。

美味しいものがイイという前提を支持する理屈は何ら存在しないけど、まあ直感的に否定する人はあんまりいない気がする。

ただそれにしたって、辛いものと美味しいものとの関連の必然性も詰めていけば結局そこも理屈では解決しなさそうだけど。

個人好き嫌いとは区別して扱われがちなイイもの定義も、共感問題しか帰結し得ないんゃねえか?それって結局好き嫌い同調する内輪の問題しかなくねえか?って思う。

別にそれが良いとか悪いとかは一切思わんけど、なんか好き嫌いと違ってイイもの論理的に語れるし、然るべきリテラシーがあれば「理解」出来るんですよ、的な発言を見るとホンマか?って思うよね。

いや理屈以前の前提部分が共有されてるかどうかが一番肝心なんじゃないの?って。

まあこれの理屈もまたおれの世界観の上でしか成立しないのかも分からんけど。人が何かを考えるのに先んじて人間がイイと思うものなんて存在しなくて、定義問題しかないと思ってるし。

イイものはあると言ったらあるんだ!という宗教めいた本質主義だったり、それか特定物質特定感情をもたらすっていう唯物論めいた世界観なら、それはそれでイイもの定義づけられんかもしれんし、違いだけではなく「良さ」までもを見抜ける審美眼だって存在するかもしれない。

まあそれにしたって、快感をもたらすものがイイものであるという定義必要になるし、であればドラッグだってその範疇に入ってしまって、更に恣意的定義を重ねないといけないかもしれない。

2024-07-21

日本にいて当たり前のように英語で話しかけてくる人間はまあ普通にカスだと思ってるけど、ふとグローバリゼーションが謳われる時代日本にいる東アジア人風の人間が必ずしも日本話者であるとは限らないのではないか

それは異文化への敬意というよりもむしろ属地的な排他主義なのではないか

という反論自分から発生した。

常識的感覚としては、程度の問題ってもんがあるだろ。日本にいる日本人風の人間ほぼ日本語話者だろ。

グローバル化「すべき」という規範に基づくならまだしも、観光地でもなきゃ言うほどグローバル化もしてねえだろ。

といった所ではあるけれど、理屈としてはまあさほど間違ってはいない気もする。

さりとて、であれば英語で話しかけるのが適切であるという結論一義的に辿り着く訳でもない。そう言いたいのであれば、前提として英語世界公用語として用いるべきだという覇権主義必要とする。

からといって日本語を使うべきだ、という結論になる訳でもない。

郷に入っては郷に従え、的な規範定言的に扱うか、名実ともにその領域において圧倒的マジョリティ公用語を使うべきだ、という話者数に依拠する事になる。

それが英語覇権主義に対して妥当かと言われるとどうなんだろうという気もする。宙ぶらりん状態だ。

おれはなんでわざわざ英語話者様に合わせなアカンねんという気持ちがあるので後者に与したいところだけど。

2024-05-24

感情なくして目的を設定するなんて事はありえないし、方法論の議論ならともかくとして定言的発言に「お気持ち」が伴わないなんて事があり得る訳もないだろうけど、それをやたらと嫌う人ってのは何なのか。

人間共同体に埋め込まれ、その中での他者奉仕のみによって価値を見出すべきであり、そこに疑問を挟む余地などない。

あるいは神かそれに類する存在から賜った義務に沿った行動だけが常に正当な目的であり、これを疑うものは許されない。

いずれにしても個人的自己完結的な快楽など全て紛い物の下劣価値であって、断じて認めねえという「思想が強い」人なのか。

単に事実規範区別がついてないだけなのか。

もっとシンプル性格が悪いのか。その両方なのか。

2023-11-15

働かざる者食うべからず、という言葉本来労働者から不労所得を巻き上げる資本家非難するものであり、新自由主義思想肯定する文脈転用するのはお門違い。

みたいな事を聞けば、まあそうかもなあって気もする。

言葉の背景によって宿される「正しさ」が変わるんですか?って気もする。

どうあるべきかを定めて、それを実現するためにこうする事がいか合理的手法であるか、という理屈が展開される言葉でもない。

神様から賜った定言的な真理を叩きつける言葉でもない。

単にこうあるべきという規範を主張するだけの言葉

それに共感していや全くその通りだ、いいことを言うなあと思う人もいれば、そうは思わないという人もいる。理屈としての正しさではなくて、詩と一緒で価値観共感問題だと思う。

 
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