はてなキーワード: 宗教規範とは
「好きと良いは違う」に対して還元主義(?)的に考えていった結果、良いと悪いは好き嫌いの多数決でしかないのではないかという結論に至った。
この服はなぜ良いのか?
着心地が快適だから。なぜ着心地が快適だと良いのか?快適である状態は良い事だから。快不快の問題だ。
かっこいいから。なぜかっこいいと良いのか?そもそも「かっこいい」の定義は?かっこいいものを身につける事は精神的充足に繋がるから。かっこいいとは見ていて嫌悪感を抱かず、むしろ快楽や憧れの念を抱かせるような事である。快不快の問題だ。ちょっとトートロジーめいてる気もする。
安いから。なぜ安いと良いのか?可処分所得の減少が少なくなるから。なぜ可処分所得の減少が少ないと良いのか?可処分所得の消費による購買の機会を増やし、効用の追求機会が増えるから。快不快の問題だ。
高いから。なぜ高いと良いのか?高額な消費であればより大きな効用を得られるだろうという誤謬めいた判断が快楽をもたらすから。高額の消費、及びそれを誇示する服を着ることが収入の高さ、引いては社会的評価の高さを示唆し、自尊心の向上や社会的承認が得られるから。快不快の問題だ。
もっと言えばエシカルコンシャスネスだとか、造形の斬新さや精緻さ、テーマ性の反映度合いや精神性が云々だとかいくらでもあるけど、それらを測る評価軸はどこから湧いて出きたのかという事になる。
いずれの評価軸も快不快、好き嫌いの問題へと収束していくはずだ。デニムなんかで着心地が悪いからこそ「良い」みたいな美意識もあるだろうけど、それも然りだろう。
いつからかあってこれからもあり続けるであろう自然法則を所与の前提として持つ自然科学と違って、何が良いかという判断においては意図的に何かを前提として置かなければならないのだから、感覚的な部分に頼らざるを得ないのは当然に思える。
ただそれだと必ずしも多数派に支持されない「権威」の存在の説明がつかない。
ハイメゾンの攻めたコレクションを見て賞賛を送る人間は多数派だろうか?もっと定量的にいけばジャンルを変えてトマトメーターでも見れば分かるけど、権威と大衆の意見は必ずしも一致しない。それなのに権威の意見が良し悪しの評価に無影響だとは受け取られていない。
謎すぎる。
世界共通の自然法則に支配される存在であって、かつ誤差みたいな個体差はあれどほぼ構造も似たような生き物同士なんだから、何かしら共有されている本質的な感覚があるのだろうか。
それはまああるか。
様々なノイズを除去しながら、そういった本質的なものを見極めて評価の対象物と照らし合わせる技能を持った人間が伝導師として権威を握っているんだろうか。
ただ人類の共通の感覚って言ったって大枠のものに過ぎない気もする。ドブ川の水を啜って美味いと感じる人間は多分いないだろうけど、椎茸を美味いと感じる人間もいれば嫌いな人間もいる。
アレルギーでもなきゃ、食わせ続ければいつかは美味しさを「理解」して好きになるのか?
宗教規範から脱却したように思えてその実人々が未だ様々な信仰に基づいて生きている点は全く変わらないように、本質主義だとか教養主義だとかが社会の中で生き永らえているだけの話なのか?
多数派が好き(あるいは嫌い)だと思わないようなものについても、新たな価値判断の基準を提示して「言われてみれば、確かに……」という共感を呼び、考えを変えてしまうような魔力を持った主張の出来る人間が権威を握るのか?常にそれが達成される訳ではないにせよ。
論理的に分析してみた所でそれが良いか悪いかは論理ではなく基準の問題なので、共感の方が重要に思える。
基準に沿った判断は合理的にやっていけるけども、基準そのものの妥当性はより上位の基準でしか判断出来ない。好き嫌いというのは恐らく最上位の基準であって、それ以上の基準はなく共感によって一変してしまうのかもしれない。
これなら原則として良い悪いが好き嫌いの多数決によって決まるという説の中でも得意的に良い悪いへの影響力を持つ事がさほど矛盾しない気がする。一番しっくり来るかもしれない。
哲学の世界ではとうにこんな議論もグチグチと交わされてるらしいけどおれの中では前向きなニヒリズムが一番納得感があるし、それ以上の理屈を求めようという気にもあまりならない。
欲望を実現するための具体的な方法論においてはバランス感も大事だろうけど、その欲望を生み出す信仰だとか納得だとかは心の底の底まで貫くものをたった一つだけ持った方が幸せになれるような気がする。
中庸とか言って反復横跳びするような真似はせず、大事な一つ以外には一切の疑いも迷いも捨てる。自分の信仰も心の持ちよう次第ではいくらでも曲げられてしまうものだと思わず、この世でたった一つだけ確実に存在する所与の真理とみなす。
ヒューマニズムだとか人権思想だとかコミュニタリアニズムだとか宗教規範だとか、その他の価値は全てただ一つの真理に基づいた行いを現実的に実践するための手段としてのみ存在させる。
おれは実存主義的な生き方が一番美しいと思ってたけど、こういう生き方の方が遥かに美しいような気がしてきた。
似ているようだけど、ほんの少しの違いが決定的に違う。
ちょっと嫌な事があれば「でも結局全部意味ないしな……」と思えてしまうような、論理にお膳立てされた「好きに生きよう」ではない。一度全てを論理的に疑って無限の還元主義へと陥るような小賢しいメタ思考を挟まず、ただ情熱と信念のみによって信仰の獲得を成し遂げる。
別に宗教規範に限らず世俗的価値観にせよ個人の感覚に依拠した価値規範にせよ、やっぱ無垢の信仰は満足に生きるにあたって大事な気がする。
人生の楽しさを感覚で味わえないから、せめて理屈だけでもと生きる意義を論理的に追及してみる。そして考えれば考えるほど、今まで所与の事実だと思っていたものが快不快の多数決に過ぎない規範へと後退していく。
寄る辺なく存在しながら、じゃあ好きに生きるしかないか……と思いつつ、そもそもが人生つまんなくてこんな事考え始めてるので、改めて振り出しに戻っても活力が湧くとは限らない。何なら虚無感だけが残って、余計無気力でつまらない人生になるかもしれない。
一度虚無へと至ってしまったら、もう二度と無垢の信仰は手に入らない。
でもあんまり一つの信仰だけを貫いてると、何かのきっかけで打ち砕かれるような事があったら自殺しちゃいそうだなとも思う。
ここまで強烈に徹底はしなくともそれなりの強度でこういう生き方をしている人はいて、そういう人が信念を支えきれなくなるといわゆる中年の危機的なやつを迎えるんだろうか。
https://twitter.com/tomomachi/status/1546609830734942208?s=21&t=w5YqSRZoQNU7PM6LEf8D3A
「政権と宗教の癒着のどこが悪い?」というコメントが来ているので説明しますと日本国憲法第20条「いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」に反するんですよ。
こんなもへもへにすら論破されるようなこと言っちゃってまあ。もへもへはハゲ煽りしてくるから好かんのでその論破は貼らんけど。
「宗教団体が政治参加!」はOK。ただ国民の忌避感が強いだけ。
これだけなんだよね。なので政権と特定の宗教が密接な関わりにあろうが程度超えて宗教行事や宗教規範押し付けなければセーフ。
まあ右翼史観とか家族観なんかは統一教会の宗教規範みたいなもんだけど、ドグマ扱いするのは難しいわな。
国家神道の反省みたいなスタンスだから。地鎮祭訴訟とか勉強したでしょ?
公明党が「国立の仏壇建てるやで〜」とか言ったのに対して怒られ発生したのも有名な話。
昔は町山さん好きやったんやけどなあ。クサヴァーさんも草葉の陰で泣いとるわ。
扶養照会、99%以上断られてるらしい。そりゃそうだよね。共助の社会構造じゃないもん
まず三親等以内と一緒に住んでない人が大半でしょ。単身世帯が3割、夫婦と子供が3割ちょい、夫婦のみが2割、二世帯同居が0.5割。で三親等のおじおば、甥姪なんかと同居してるのが当てはまりそうな「その他」は7%もない
だいたい親戚なんか、よほど血縁重視の田舎じゃなきゃ年に2回も会えば多い方で、年1も会わないのも普通
仕事のために引っ越すのもよくある話
今や血縁共同体なんか、せいぜい親子と夫婦関係でしかもはや成り立ってないんですよ
昔の日本には確かにあったかもしれません。でも、それもけして強いものではありませんでした
中国人なんかどこの国にいても、中国人のコミュニティを発達させてきましたし、今だって親戚をすごく重視します。アラブもそうです。日本にアラブや中国のような強い血縁主義はありません。あなたは親戚をあげて一族いちの秀才に学費を援助したりしないでしょう?
もともと「絆」の薄かった日本の血縁共同体をさらに薄くしたのが終身雇用です
会社のそばに暮らし、会社の中で一生を終える社会では血縁共同体はますます不要になりました
血縁共同体を軽視し、破壊したのが転勤制度です。会社に依存させるためにあちらはこちらへ人を飛ばし、血縁や地縁を切らせてきました
そんなことをしておきながら、まさか2020にもなって「共助」なんて言葉を耳にするとは思いませんでした
別に共助が悪いというわけではありません
共助ができるような土壌が日本にはないんですよ
共同体意識の拠り所は「うつくしい国、日本」。ネトウヨの愛国心なんか共同体意識とは言えません。地方の衰退は共同体意識の喪失の表れです。地方を愛しているのは今やマイルドヤンキーぐらいのものです
今までもなかったし、これからもないでしょう
今や毒親からも嫌な親戚からも生まれ育った地域からも皆解放されたがっていますから
「自助共助公助」、気が触れた発言だとしか思えません。さもなくば何も考えずに言ったか、おちょくってるかです。
「自助 公助」しかないんですよ。「自助 null 公助」なんですよ。国に頼らないでnullに助けてもらってください、なんて何も言ってないのと同じです。
ひとつ援護するならば、政治家が世襲であることが原因かもしれません。コネと地縁と血縁で構成された政治家の世界に生まれれば、「共助」なんて口から出るのも仕方のないことなのかもしれません
実家では箸置きというものを使う習慣がなかった。確か4,5歳くらいの時だったと思うのだけれども、夕食の時間に箸の置き場所に困った自分は、茶碗に盛られたご飯に箸を突き立てた。ごはんの粘性は相当なもので箸はぴたりと静止してくれた。これならテーブルを汚すこともない、何て自分は冴えているんだと当時思ってたかは記憶にないが、それを見た母親は「箸を刺したご飯は死者への食事という意味を持つのでやめるべきだ」と言って俺のことを注意した。その言葉に強い反感を抱いて、「母さんは死者が食事をすると信じているのか」「死者への食事という意味を持つからといって、自分がそれをやめなければいけない理由はあるのか」といったような反論、というか質問を投げかけたように記憶している。それに対しての母の回答は「私は信じていないが信じている人はたくさんいる。そういった人が見ると不快になる」「宗教的な意図に関係なくとも、単純にみっともない」といった内容だった。幼少期の自分は親にとても従順であったため、釈然としないながらも引き下がった。
年を重ねるにつれて「宗教的な儀礼を除いて箸をご飯に突き立てるべきでない」という規範は自分自身にも深く根付いていった。思春期に差し掛かかるころには「日常の中でご飯に箸が突き立てられている光景」を見て直感的に不快感を抱く程度には。
さらに長じて倫理とか規範とかに興味を抱き始めてから、幼少期のこの出来事に対して強い反発を覚えた。幼少期の自分に対して母親が示したルールは、要するに以下2つのような意味合いとなると考える。
「私は信じていないが信じている人はたくさんいる。そういった人が見ると不快になる」より
①自分が尊重していなくとも、他社が尊重している信仰や規範(平時にご飯に箸を突き立てるべきでない)は、自分の便益(机を汚さない)を害しても配慮すべきである
「宗教的な意図に関係なくとも、単純にみっともない」→箸を突き立てられたご飯に対して「みっともない」と感じるのは明らかに生得的ではないと考える。実際のところ後天的に植え付けられた規範からの逸脱に対して不快になっていると考えると、
②すでに共有されている規範・マナーから逸脱すると人は不快に思うため、規範・マナーから逸脱すべきでない
ちょっと露悪的に書きすぎたきらいはあるけれど、この2つのルールって本当に正しいか。
①「自分が尊重していなくとも、他社が尊重している信仰や規範は、自分の便益を害しても配慮すべきである」について
当たり前であるが、個々人によって尊重している信仰や規範は違う。ただ、共通してる部分もかなり多く、例えば現代日本人の多くは自由や平等だったり人権思想に基づく価値観(以下、世俗倫理と表記)について、強く尊重すべきものであると考えている。信仰していると言い換えてもよい。一方で特定宗教の人格神みたいなものは信じていないし、その教義の基づく規範(以下、宗教倫理と表記)に価値を見出さない。見出さないは言い過ぎにしても、少なくとも自由や平等などの世俗倫理がより優越すると考えている。自分は平均よりかなりラディカルだと思うけれど、同様に世俗倫理を支持し、宗教倫理より優越すると考える立場にある。
具体的な例を考えてみる。例えば原理主義的なキリスト教徒が聖書を引用して「同性愛者は倫理的に悪であるため社会から排除すべきである」と主張しても自分はそれを尊重しないしその思想に基づく実力行使を許容しない。なぜなら「同性愛者は倫理的に悪であるとする聖書の記載」に自分は価値を見出さない。「原理主義的なキリスト教徒が同性愛に対して抱く不快感情」については価値を見出すが、「同性愛者の幸福追求権や自由権」がそれに優越すると考える。なぜなら自分は世俗道徳を尊重し支持しているからである。宗教倫理と世俗倫理が背反するときには世俗倫理が優越されるべきで、それは世論だったり、それに実行力を与える法律や暴力装置によって施行されるべきと考える。これは宗教倫理の優越を主張することを制限すべきでないという意味ではない。あくまで思想・信条の自由は最大限尊重されるべきであり、言論によるパワーゲームは続けられるべきだと考える。
ここまでの整理については大多数の人に同意してもらえると思う。「宗教規範」と「世俗規範」が対立して共存できない問題については、他社の尊重する「宗教規範」を踏みにじってでも自分が尊重する「世俗規範」の基づいて社会が運営されるべきと考える。どれだけ他者の価値観を尊重するとは言っても、共存できないものはある。そうなったら、その社会で尊重される規範は身も蓋もないパワーゲーム(必ずしも直接的な暴力ではない)で決定されるしかない。これについてはISISの騒ぎで個人的に痛感したのだけれど、実際問題として世俗倫理に反する宗教倫理を現代で志向しようとすると暴力に頼るほかないし、それに対するカウンターだって経済的・暴力的なパワーゲームで押しつぶすしかない。人権思想よりコーランの字義通りの解釈を尊重している相手に「お前は人権思想に反している!」と言っても対立者に対してはまるで効力がない。
さて、話を戻してこの理屈が「ご飯に箸を突き立てること」にどのように適用されるかを考える。ここで対立するのは「ご飯に箸を突きたてることで便益を得る」自分の自由権・幸福追求権と、「ご飯に箸を突き立てるべきでない」という宗教倫理である。これは共存し得ないので、世俗倫理を尊重する立場からすると「ご飯に箸を突きたてることで便益を得る」ことが優越すべきであると考える。不快になる人間に配慮して箸をご飯に突き立てないことは賞賛すべきかもしれないが、配慮をしないことについて非難されるいわれはないと考える。私はシャルリーを引き合いに出してもいいけれど、他者の規範の尊重は、私の尊重する規範を害さない範囲でないともちろん認められない。人権思想や表現の自由は自分にとって宗教倫理より優越する。宗教倫理を害す表現に対しての批判、「ムハンマドの顔を書くべきでないし、揶揄すべきでない」という主張は許容できても、ムハンマドの顔を書き揶揄することは制限すべきでないし、それに対する実力行使は許容できない。なぜなら自分は「ムハンマドの表象を書くべきでない」という宗教倫理より表現の自由という世俗倫理をより尊重する立場にあるからである。
まあ、そもそもこの「ご飯に箸を突き立てる」ことに対して特別な意味合いを見出してる教義って明確にはないみたいで、「仏教・神道の教えっぽいとみんなが認知してる慣習」以上のものでは無いっぽいので、宗教倫理とするよりも単純なマナーの問題と考えたほうが筋は良いと思ってます。ということで次の話につながります。
②「すでに共有されている規範・マナーから逸脱すると人は不快に思うため、既存の規範・マナーから逸脱すべきでない」について
これを言い換えると
・上記より、マナーを破る行為は人を不快にするため好ましくない
いやー完璧な3段論法が完成してしまった。ただよく考えると「マナーはそれがマナーであるから守るべきである」と言っているのと何ら変わりない発言である。そしてこの「マナーはそれがマナーであるから守るべきである」という考えについて自分はそれはそれはもう憎悪を抱いている。
まず、ここでいう「マナー」という言葉について自分は「緩い規範」くらいに定義している。例えば「人を殺すべきでない」みたいな基本的に絶対に逸脱すべきでないし、逸脱したら重大なペナルティと非難が避けられない「重い規範」とは対照的に、「逸脱するのはなるべくやめたほうが良い」くらいの「緩い規範」=マナーということで話を進める。
何かのマナーに価値があるとすると、そのマナーを守ることによってメリットがある場合であると考える。なぜならマナーとは往々にして「○○をすべきである」「○○をすべきでない」とい行動の強制を伴う規範であり、選択肢を狭めるものであるからである。基本的に選択肢は多いほうがいいと自分は考える。
さて、例えば「電車の乗り降りは降りる人を優先すべき」というマナー。このマナーが広く共有されていることにより、電車の乗り降りをスムーズに行うできる。確かにこのマナーを守ることによってメリットが存在するため、「電車の乗り降りは降りる人を優先すべき」というマナーには存在価値があるだろう。
ひるがえって「ご飯に箸を突き立ててはいけない」というマナーに価値があるだろうか。真っ先に思いつくのが「ご飯に箸を突き立てている光景を見ることによる不快感」を回避できるというメリットだ。たださらに思考をすすめてなぜ不快に思うのか?を考えると「ご飯に箸を突き立てるのがマナー違反であるから」に行きつくだろう。「ご飯に箸を突き立てること」に対して特別な意味を見出しているのは日本だけのようだし、ご飯に箸を突き刺して悦に浸っていた幼少期の自分を例にとってみても、この不快感は生得的なものとは思えない。(このあたり、まじめな研究があったらめちゃくちゃ見てみたいので情報大募集です)多くの人は後天的に「ご飯に箸を突き立てることはマナー違反である」と学習し、そのマナーが逸脱されたことに不快感を抱いていると考えられる。つまり、「ご飯に箸を突き立ててはいけない」からこそそれに不快感を抱く人がいるのであり、そもそもこんなマナーが存在しなければ多くの人は箸にご飯を突き立てられている光景をみてもおそらく何とも思わない。
マナーが増えるということはもちろんマナー違反が増えるということでもある。つまり、マナーが増えるとマナー違反による不快を感じる機会が増えるとも言える。これは本当に声を大にして言いたいことで、「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーは不快を感じる機会を増やしているだけである。不快を感じる機会は減らしたほうがもちろん良いので、メリットのないマナーなんて無いほうがいい。ご飯に箸を突き立てて机を汚さないメリットを自由に享受できる社会のほうが絶対にいい。自分がマナー業界を蛇蝎のごとく嫌っているのはこの辺が理由で、メリットのないマナーを創作して稼いでるあいつらマジで不幸の商人だよ・・・・・と思っている。
と、ここまで書いたけれども、実際のところ「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーにもメリットはある。マナーに合理的な意味があろうがなかろうが、「その場において支配的な規範=マナーに従順でない」人間、長いものに巻かれない・巻かれることのできない人間を排除する上では非常に有効に機能する。良く言えば自立した人間であり、悪く言えば協調性のない人間だ。こういう用途で使うならむしろ合理的なメリットなんて存在しないマナーの方が有用かもしれない。とはいえ、自分の信仰としてこういった排除のロジックは気に食わないのでやっぱり「それがマナーであるから」以外に守る意味のないマナーなんて無いほうが良いと思う。マナー業界はいち早く滅びてほしい。
ここまで読んでくれた方なら、我々はご飯に箸を突き立てるべきであると十分に理解していただけたと思う。実際問題として「平時にご飯に箸を立ててはいけない」というマナーは多くの日本人に強烈に内面化されており、箸が突き刺されたご飯を見ると理屈に関わらず一定の不快感を生じてしまう。これは自分だってそうである。ご飯に箸を突き立てる人は、間違いなく突き立てなかった時より嫌われる。それでも、嫌われるから、すでに定着してるからなんて理由で有害なマナーを継承していいのか。それがなんであり、どのような影響を与えるかについて何の疑問も抱かず、ただ「私はマナーを守っているから道徳的である」と悦に浸っているだけでよいのか。それは将来の不幸を増やしているだけじゃないか、そんなものに迎合していいのか。他人に自我を預けていいのか、自分を誇れるのか。
「ご飯に箸を突き立てるなんてマナー違反だ」という前に少し考えてほしい。なぜ?と聞かれたときに十分な説明ができるだろうか。誇りをもった説明ができるだろうか。実際、子供にそれを言わないのは難しいだろう。ご飯に箸を突き立てる子供は間違いなく悪意にさらされるし、それをはねのけろというのはあまりにも酷だ。でも、それがただの処世術だと伝えることはできるはずだ。幼児には無理でも、中学生、高校生ともなればこの理屈は理解できる人が多いはずだ。せめて、突き立てられたご飯を許容することはできるはずだ。社会は時に非合理で残酷になるが、あなた自身までそうなる必要はない。非道を止められなくとも、一緒になって非道をやる理由はないはずだ。ベストを選択できないことはベターを選択しない理由にはならないはずだ。
将来のことを考えてほしい。より良い世界のことを考えてほしい。私たちはご飯に刺さった箸を見たら不快になる。箸置きがなければ直接箸を置くしかないし、机の上はご飯粒でぐちゃぐちゃだ。まかり間違ってもご飯に箸を突き刺さないように気を付ける食卓はピリピリして緊張感に溢れている。それでも私たちがここで勇気を出してご飯に箸を突き立てれば、他人から嫌われることを厭わず「そんなマナーは無いほうが良い」と言い続ければ、そんな人が増えていけば、次の世代ではどうだろうか。「ご飯に箸を突き立てるべきでない」なんてマナーの存在を知らない世代の食卓はどんな光景だろうか。
彼ら、彼女らは箸置きがなければご飯に箸を突き立てることができる。箸置きが無くったって机は清潔に保たれるし、それを見て不快に思う人なんかいない。ご飯に箸が突き刺さっていたからそれが何だというのだ?机にへばりついた米粒なんて誰だって片付けたくはないではないか。ご飯に箸が突き立つ、そんな清潔でリラックスした食卓は朗らかな幸福に包まれている。それはささやかながら、今よりももっと良い世界であるはずだ。
これからの世界がそんな素晴らしいものであってほしいなら、これからの世界をより良いものにするため、私たちはご飯に箸を突き立てなければならない。
現実の離婚率は上がっていて、日本人の宗教規範や保守道徳なんてどんどん無くなっているにも関わらず、なぜ不倫に対して世間は厳しくなっているのだろうか?
芸能人の不倫なんて一昔前は、男がやったなら甲斐性や芸の肥やしで、女がやったなら「進んでる恋多き女」と魅力的なキャラ扱いだったというのに。ついでに戦前から日本の女権運動家には不倫の恋をした人が多かったりねー。
上野千鶴子「人はなぜ不倫をしないのか。私には信じられない」 性的自由を手放すなんて恐ろしい
https://president.jp/articles/-/36855
こういう上野先生がおっしゃるような方向に社会は「進歩」していくと昔は思っていたのだけど、むしろ逆行しているのはとても不思議。
めんどくさい類の話をしよう。
例えば、教師や先輩といった立場の人間には敬意を見せ従わねばならない。
例えば、場の空気を乱してはならないし、郷に入りては郷に従わねばならない。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、そんな慣習如きで自分の人生を生きてんじゃねーよ、ボケが。
ちょっと考えれば分かる事だが、これアメリカっつーか先進国とは真逆だからな。
外から見れば分かるが、こんなもんは広義の洗脳でしかない。厳密にはマインドコントロールだ。
そりゃ欧米諸国やイスラム圏だって宗教なんつーマインドコントロールに従ってるが、それでも自由主義や道徳規範が大なり小なり機能してるだけマシだ。
それに引き換え日本は、なんだ?無宗教とか言いながら夏にはお盆に祭、冬にはクリスマスに正月。
よくそれで無宗教なんて言えたな……?ってくらい、1976年から日本人は「日本教」に染められてる。
その宗教規範が上述のソレなわけです。
日本教において神などの超常存在は存在しないと思わないといけない……ってのが不文律としてあるんですが。
これが無駄に強固だ。宗教において神の存在は絶対視されるのに、その肝心要の神が「まるで神そのものであるかのように」現実的には居ないものであるとされる。なのに居ると思ってる。
これ、なんか心当たりがないですかね?
「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」
上のを現代風に言うと「天皇と国民とは相互の信頼と敬愛とで結ばれてるもので、それは神話と伝承から生じるものではない。同時に『天皇は現人神!日本人は神の子孫!だから優れた日本が世界を支配すべきなのだ!』なんて架空の観念に基づく結びつきでもない」と言ってるわけですね。
これが「天皇は現人神ではない」と天皇自らが否定した事になる……ってのが普通の受け取り方なんですが。実は、これが日本教のポイントだと思うんですよ。
そう、日本教の正体ってのは本当は「天皇教」なんですよ。それもクッソ強固な。
これ実際に聞いた人間以外は、まあ歴史の教科書で「天皇人間宣言」って見るだけなんで何も思わないんですが。
だけどWikipediaでも書いてあるように「天皇と日本国民の祖先が日本神話の神であること」を否定してない。そして更に疑った見方をすると……現人神である事は否定したが、天皇自身が「神」である事を否定していない。
これを重度の天皇教が聞くと、どうなるか?想像しにくい場合は、自分にとっての絶対者で想像する。
(例えば嫁や夫だとか推しのアイドルやキャラだとかネコだとか、そういう自分の人生を決める最高の存在な)
1. 神は言っている……お前達との絆は絶対的な信頼と敬愛こそが本質である、と
2. だけど神話とか伝承は忘れろ……それは語り継がれることを許されなかった、遙か古の物語……
3. つまり「天皇は神だけど人間のフリをするからオメーら宜しくな」って事か。そんな解釈で大丈夫か?
かくして、日本教はここに成立する。
ここで仮に時の昭和天皇が神の不在を半端にしか言わなかった為、ヤベー存在が量産されまくるのである。
なにせ、最初に超絶技巧で日本国民をガチ感動させてる訳だからね。神ムーブしまくってるからね。
アイドルうんちしないから……なんてレベルでは到底ない。もっと恐ろしいものを垣間見たね。
理想面である天皇の権威と、現実面である総理大臣将軍の権力。この恐るべき分業によって構成された上意下達の支配構造により、この現人神否定ムーブは「その神意でもって」全体に通達される。
そして、それらがメディアのフェイクタイトルによって教科書へと掲載される。
そうなると何が起きるか?
日本教の隠れた神が人間宣言をするのだ、どうやっても劣化した形でそれは受け継がれる。
だから、日本人は自由を「自分の好き勝手に、自分や日本人が神だと思ってるかの如く、周囲に日本人を人間である事を強要する」のだ。
日本人は神を否定する。だけど、そこには自分達こそが神だと言わんばかりの傲慢さと、矛盾した無宗教への信仰が確かに存在するのだ。
そして、そこには昭和天皇の意図は伝わらない。それは戦前戦中と全く変わらない。
思うに、権威と権力の分業というのは……きっと、世界で最も上手くできたファシズムなのだろう。
欧米人の脱権威/脱権力は、その全てが内部からの撃発によって否定された。
つまり真の意味で民意からの革命であり、それは少なくとも「大衆の主観では」自発的に行われた。
それが一種の虚構である事は今の政治を見ても明らかではあるが、しかし、そこには個人の意思こそが優先されるべきという思想が根付いたのだ。
では、今の日本人は……それができるか?
例えば天皇の踏み絵を用意したとして、それを踏めると言えるか?実際に踏めるか?
まず僕には無理だ。
心理的なもの道徳的なものもあるが……それ以上に、周りが怖い。
そんな事をしたとバレたら、きっと僕は今までに得た人間関係の全てを失うだろう。親でもギリギリ、いや知人レベルくらいに避けられるだろう。
それくらいのレベルで恐ろしい行為だ。そうDNAが叫ぶくらいの恐怖を感じる。
我々は、今もまだ「天皇陛下との信頼と敬愛と」に、結ばれ続けているのだと……
僕は、そう畏れている。
それが良いことか悪いことかは、わからないけど。
まあなんでもいいけど、本当に無宗教って神の不在を確信してるなら「宗教の話がタブー」ってのは異常だと思うよ。
本当に神は不在って思うなら勝手に話させとけば良いじゃん。どうせ入信しないんだし。適当に話を合わせておいて受け流しておけよと思わなくもない。