2024-06-21

「好きと良いは違う」に対して還元主義(?)的に考えていった結果、良いと悪いは好き嫌い多数決しかないのではないかという結論に至った。

この服はなぜ良いのか?

着心地が快適だから。なぜ着心地が快適だと良いのか?快適である状態は良い事だから。快不快問題だ。

かっこいいから。なぜかっこいいと良いのか?そもそも「かっこいい」の定義は?かっこいいものを身につける事は精神的充足に繋がるから。かっこいいとは見ていて嫌悪感を抱かず、むしろ快楽や憧れの念を抱かせるような事である。快不快問題だ。ちょっとトートロジーめいてる気もする。

いから。なぜ安いと良いのか?可処分所得の減少が少なくなるから。なぜ可処分所得の減少が少ないと良いのか?可処分所得の消費による購買の機会を増やし、効用の追求機会が増えるから。快不快問題だ。

いから。なぜ高いと良いのか?高額な消費であればより大きな効用を得られるだろうという誤謬めいた判断快楽をもたらすから。高額の消費、及びそれを誇示する服を着ることが収入の高さ、引いては社会的評価の高さを示唆し、自尊心の向上や社会的承認が得られるから。快不快問題だ。

もっと言えばエシカルコンシャスネスだとか、造形の斬新さや精緻さ、テーマ性の反映度合いや精神性が云々だとかいくらでもあるけど、それらを測る評価軸はどこから湧いて出きたのかという事になる。

いずれの評価軸も快不快好き嫌い問題へと収束していくはずだ。デニムなんかで着心地が悪いからこそ「良い」みたいな美意識もあるだろうけど、それも然りだろう。

いつからかあってこれからもあり続けるであろう自然法則所与の前提として持つ自然科学と違って、何が良いかという判断においては意図的に何かを前提として置かなければならないのだから感覚的な部分に頼らざるを得ないのは当然に思える。

ただそれだと必ずしも多数派に支持されない「権威」の存在説明がつかない。

ハイメゾンの攻めたコレクションを見て賞賛を送る人間多数派だろうか?もっと定量的にいけばジャンルを変えてトマトメーターでも見れば分かるけど、権威大衆意見は必ずしも一致しない。それなのに権威意見が良し悪しの評価に無影響だとは受け取られていない。

謎すぎる。

世界共通自然法則支配される存在であって、かつ誤差みたいな個体差はあれどほぼ構造も似たような生き物同士なんだから、何かしら共有されている本質的感覚があるのだろうか。

それはまああるか。

様々なノイズを除去しながら、そういった本質的ものを見極めて評価対象物と照らし合わせる技能を持った人間が伝導師として権威を握っているんだろうか。

ただ人類共通感覚って言ったって大枠のものに過ぎない気もする。ドブ川の水を啜って美味いと感じる人間は多分いないだろうけど、椎茸を美味いと感じる人間もいれば嫌いな人間もいる。

アレルギーでもなきゃ、食わせ続ければいつかは美味しさを「理解」して好きになるのか?

宗教規範から脱却したように思えてその実人々が未だ様々な信仰に基づいて生きている点は全く変わらないように、本質主義だとか教養主義だとかが社会の中で生き永らえているだけの話なのか?

多数派が好き(あるいは嫌い)だと思わないようなものについても、新たな価値判断基準提示して「言われてみれば、確かに……」という共感を呼び、考えを変えてしまうような魔力を持った主張の出来る人間権威を握るのか?常にそれが達成される訳ではないにせよ。

論理的分析してみた所でそれが良いかいか論理ではなく基準問題なので、共感の方が重要に思える。

基準に沿った判断合理的にやっていけるけども、基準のもの妥当性はより上位の基準しか判断出来ない。好き嫌いというのは恐らく最上位の基準であって、それ以上の基準はなく共感によって一変してしまうのかもしれない。

これなら原則として良い悪いが好き嫌い多数決によって決まるという説の中でも得意的に良い悪いへの影響力を持つ事がさほど矛盾しない気がする。一番しっくり来るかもしれない。

哲学世界ではとうにこんな議論もグチグチと交わされてるらしいけどおれの中では前向きなニヒリズムが一番納得感があるし、それ以上の理屈を求めようという気にもあまりならない。

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