はてなキーワード: 一般受けとは
じゃあ婚活の極意教えてやるかな
釣り増田が自慢げに「実質言ってることは同じなのに言い方の違いで騙されるんだろ?アホはてな民乙」みたいな論建てをしていて
レスバ大好きはてな民が「同じだってわかってたしー」と混ぜ返してるが
この二つは違う、全然違う
何が違うのか?
まず自分で考えてみてください
分かりましたか?
そうですね、言い方が違いますね
言い方が違うことの重要性を理解できないのは大げさに言っていしまえば「異常」です
婚活というのは何か?
普通以下に落ちぶれ、敗者復活戦を自力で勝ち抜けない「異常」な人々を相談所が頑張って「正常」の枠に嵌めて出荷すること
それ以上でも以下でもありません
その意味では増田が最初言っていた「結婚できない男は平均よりカネ稼いで相手を養うことでディスアドを補うべし」という戦略自体は正しいです
頑張って正常になりましょうね
しかしそれ以上に「言い方が違うのは全然違うこと」を心から理解するのはもっと重要です
「論理的に同じことを言ってるのに、大げさ・露悪的に言うか、それっぽく粉飾して言うかで価値判断のネガポジが反転するのは非論理的」なんていう
感情欠落病患者の一部はてな民にしか通用しない「異常」な考えを捨てるべきなのは当然でしょう
考えてみてください
一般人は同じ契約書でも言い方の違い一つでサインするかしないかを容易に変えます
危険な金融商品でもオブラートに包めば購入してくれる可能性は上がります
安全なものでも「有害性」のデータをうまく張り付ければ忌避させられます
だからクソ商品を合法的に売り抜ける営業職やらがなくならないわけですが
ともかく普通の人は長文を見たときまず丹念に論理展開なんて追いません
快不快や敵味方の判定が最初で、そこから大体の結論を出し、あとから論拠を足りない頭で頑張って構成するのが「正常」です
「この二つは全然違うでしょ!とにかく増田はアホ!」という結論から始まり意味不明なアホ理屈を書いていたアホのはてな民のほうが「正常」なのです
価値判断はほとんど最初に決まります、だから最初に目に入る見た目で人的評価のほとんどは終わります
あとから覆すのはとっても大変です
もちろん学歴や年収なども最初に目に入るのでまあまあ効果的ではあります
しかしそもそも婚活している段階でもはやスペックを上げるというのはちょっと現実的ではありませんね
例えば婚活開始している時点で、見た目をよくしよう!年収を上げよう!とか言う発想
泥棒を見つけてから縄を綯うよりは少しマシですが、方向性は同じですね
遅い遅すぎる
転職とか整形とかそれなりに高リスクですしどうせやるならもっと若いうちにやるべきですね
もうすでにあるブツをすでにある環境で売り抜けるしかないのです
「言い方」が最大の問題になるのは当たり前ですね
しかし私が言いたいのは「言い方に気をつけろ」というだけの話ではありません
同じ商品を「言い方の違い」で売り抜ける
そのためには単に「このクソ商品を口八丁で売り抜けてやるぜ」という発想ではダメです
ではどうするか
そのためには「理由」を業務時間以外もすべて四六時中三百六十五日常に唱和しましょう
例えば
「平均以下の男と違い女性を全く見下しておらず対等に付き合いたいので常に主体性をもって女性をリードします」
「自分はほかの男とは違う真の男女平等主義者だから女性のキャリアは邪魔しません。しかしもし専業主婦を希望するなら喜んで養いたいです」
という内容を本気で行うには
「これは結局相手を見下して行っている慈悲的差別だけど結婚生活の維持のためにはやるしかないんだよな」などというクソの役にも立たないメタ認知は完全に邪魔です
反革命思想の本を読んで「これは二重思考なんだよなー」なんて思いながらも党に忠誠を持つ演技を続ける頭脳派キャラは、絶対最後は捕まるのと同じです
そんなことを思いながら演技できるほどあなたが器用なマインドセットを持っているなら間違いなく婚活に苦しむ羽目にはなりません
ギリギリ婚活だけを切り抜けることはできるかもしれませんがそのスタンスで結婚したなら離婚されないためには一生やる必要がありますよ?
メタ認知が強いほど、二重思考のストレスが高まり、目をそらすため増田でレスバなどをして発散する羽目になるでしょう
それよりも
「女性を見下しておらず対等に付き合いたいので常に主体性をもって女性をリードします」
「自分は真の男女平等主義者だから女性のキャリアは邪魔しません。しかしもし専業主婦を希望するなら喜んで養いたいです」
という内容をひたすら信じ、妻に向かって常に言い、はてなやツイッターに書き散らすほうがずっと簡単です
「一般受けのため、スポットライトが当たった時だけ言い訳のようにきれいごとを言う」というのはまず破滅します
しかし「一般受けのため、常にパターン化したきれいごとを言えるようにしておく、そのためにキャッチフレーズを常に唱和する」これは実は非常に簡単で再現性が高いのです
そのためには「実質的に同じことを言っている露悪的な文章」を見たら即座に「悪」として叩くことも非常に重要です
そしてその訓練に最適なサービスとは?
・送受信データ量が本当に少なかったので会話のほとんどがテキストベースでAAなどの絵文字が発展した
・パソコンという高額だが一般受けしない尖った製品を買える層だけが集まるので会話も笑いも他のものとは次元が違った(良い意味でも悪い意味でも)
・気を抜けばブラクラやウィルスなどの攻撃を受けてる無法都市、自衛は自分の知識で補うしかなく警察や弁護士もインターネット何それ?おいしいの状態で全く頼れなかった
・インターネットを除いた世界の情報は本当にごく限られた情報しかなく、大体都合よくコントロールされていたため1次情報に直接やり取りできるインターネットの魅力が絶大だった
正直、毀誉褒貶あれど18年~21年の審査員布陣がバランスとしては完璧だった気がするのよね。
「『私が日本のお茶の間の代弁者やで』という顔ができる関西ワイドショースター」
「ダウンタウン以前の漫才側の長老、正統派関西しゃべくりの守護者」
「浅草・漫才協会を背負った『非関西漫才』の代表、理論派、システム漫才の守護者」
「初期審査員の流れをくむ、他ジャンルの著名人、かつトリッキー地下漫才の守護者」
東西・世代・王道とトリッキー・芸人受けと一般受け、あらゆる方向からの評価軸に対応できている(少なくとも、そう見せることができる)メンバーだったと思う。
志らくさんの後任…太田さんや佐久間さんは、本人がこれだけ固辞して見せた上で「やっぱ出るわ」はサプライズより「嘘つかれた」興ざめ感が勝ちそうだからないとして。談志の流れをくむ、ってところを考えると立川流から?でもまさか志らくさんより格上年上な談春さんや志の輔さんが来るわけはないし、かといって下の世代にスターはいないから「笑点メンバー」って線はどうか。他の審査員と同じくらいの世代って考えると宮治さんとか。
あるいは「他ジャンル視点で見てくれそう」って枠で考えて、かつ今年こんなに準決コント漫才の人が増えてることを加味するとコントの人って可能性もある。東の富澤さんとのバランスで山内さんって思ったけどKOCからしばらく退かない(KOC審査員は今の布陣が本当理想的だと思う)だろうから、がっつりコント側でKOC退いた設楽さんとか?内村さんを「東・コントの長老」扱いで出す可能性もある?シティボーイズとして大竹まことさんが出てた時代があることを考えたら、別に小林賢太郎ってサプライズ人事があってもいいんだぜ?
あ、非関西・コント側だったら去年M-1も挑戦してるう大さんもABCの審査員とかしてるからあってもおかしくないけど、まあ岸田賞取ってからかな。サプライズで言えば、過去の因縁を乗り越えて矢作さんという説もある。ないか。
M1出身漫才師の枠は引き続き埋まってるから、石田さんや小沢さんのスライドはないと思うんだよな……ただ石田さんはNSCの講師とかしてるそうだからここ何年かで塙さんとかと交代で昇進(別に過去審査員やってるけど)はありそう。アンガ田中さんもそういうタイプじゃないし…。
というわけで個人的な予想
◎ 桂宮治
☆ 小林賢太郎
自分はどちらかと言うと無党派層だと思っているけれども、自民党の一強体制には不満。自民党単独で好き勝手に政策が決められる状況は良くないと思うので、政権交代とまではいかなくても、野党には頑張ってほしいと思っている。
最近の選挙では、比例は迷わず野党に入れているのだが、いざ選挙区の候補者に票を入れようと思うと悩むことがある。政策の書き方、街頭演説の頻度・熱意などから、(自分の主観的には)自民党の候補者の方が洗練されていて、魅力的に感じることが多い。この辺は、自民党の資金の豊富さ、議席獲得の期待値の高さから、質の高い候補者が集まりやすいのかもしれない。
選挙が特定されてしまうかもしれないが、ある民主党の候補者に投票しようと思ったら、尊敬する政治家にチェ・ゲバラ、と書かれていた。それでもいいと思う支持者ももちろんいるんだろうが、もうちょっと最大公約数を狙った選挙戦略を取れないものなのだろうか?
自分は野党への投票を続けるけれども、野党にはもう少し中道左派的なところを狙って一般受けする候補者選定、広報戦略を採用してほしい。
俺も今日観てきたので感想を書く。(ネタバレは極力避けたつもり)
絶対に世間で流行らないだろう造語を恥ずかしげもなく登場人物に語らせるのは、まさに岡田麿里だなと感じた。
ただ、「ぼんぼる」・「ほびろん」・「えすいばつ」・「あなる」・「あきらっきー」の様にインパクトのある造語が出てこなかったのは残念だ。
それと、岡田麿里はドロドロした恋愛や女同士の醜い争いに定評があるけれども、本作ではそうした描写が控えめになってたのも残念だ。
良くも悪くも一般向けに寄り添った映画だと感じたが、岡田麿里らしさを望むファンとしてはいささか物足りなかった。
『君の名は。』みたいな一般向けアニメ映画を作ってと岡田麿里に頼んだら『アリスとテレスのまぼろし工場』ができたのだろう、というのが全体的な印象だ。
ストーリーに関しては、世界設定が明らかになるまでの中盤までは難解で、話がどのように転ぶのか分からなくて作品世界に没頭された。
しかし、中盤で五実の正体と世界設定が明らかになると拍子抜けになる。ぶっちゃけ、いわゆる〇〇〇系だ。
そして、主人公の目的が定まると、その後のストーリー展開はあまりにもシンプルだった。
こんなシンプルな脚本にするなんて岡田麿里はどうしちまったんだ? と感じるほどにだ。
終盤のアクションや演出は映画らしく派手に表現されていたが、あまりにも話の流れがシンプルだったので、もしかしたらラストでどんでん返しがあるのかな? と思ったが特に何もなかった。
終盤の風呂敷の畳み方が甘いのも岡田麿里らしかったが、だったら登場人物同士のドロドロで醜い争いをもっと描いてしっちゃかめっちゃかにした方が良かったのでは?
漫画やイラスト描く人たちが「毎日○○したら画力は上がる」「□□を全部模写すれば画力は上がる」とか言ってて、その気持ちはわかるんだけどさ。
圧倒的に才能がない人のことを完全に蔑ろにしているのはどうかと思うんだよ。
三峯徹さんとか見てみなよ。
あれだけ情熱的に絵を描いてて、それはとても素晴らしいと思うんだけど、それでも一般受けするような絵柄ではないじゃん。
俺はさ、勉強の才能が有ったから「授業真面目に聞いて赤本やってれば旧帝大くらいなら現役で受かる」とか思ってたし、できたんだよ。
でもさ、友達は俺よりも勉強時間を取って、塾や予備校に通って、凄く頑張ってて、俺も勉強教えたけど志望校に受からず地方国立大がせいぜいだったんだよ。
才能の差っていうのは歴然としているんだから、成功している人たちが気軽に「○○したら成功する」って言うもんじゃないと思うんだよ。
テーマとストーリーはニッチではあるけど一般受けしない事はないし面白いと思う。
ただ医者ものってグロ・スプラッターシーンがうまくないと読者が付いてこない。別にグロが見たいわけじゃないという人も多いと思うけど
人体に刃を入れるシーンや内臓や吹きあがる血、死体、怖いのに見ちゃうみたいな。
なので1Pめの土葬死体が綺麗すぎてもうダメだなと思ってしまった。
いじめっこのキャラデザが主人公と似すぎ。腕を切られるシーンで混乱する。
歴史・医者物で結構テーマが重いのに、ベタが少なすぎる。画面が軽く見えてメリハリがない。
絵柄も古いが、意外とそこはネックにならない事が多い。けど医者物なのにデッサンが微妙すぎる。
人体がどうのこうの、という話なのに人体が描けてないのが致命的。
レディースコミックということで編集さんとの協議の結果かもしれないが、微妙なBL臭(サービスシーン?)はやめたほうがいいと思った。
もし打ち切りになってしまったら一般仕事をしながらtwitterに掲載する連載方式で描いていったらいいと思う。
描かないとうまくならないので、とにかく量をこなすこと。
原作者にまわるのもいいと思う。
この漫画がデューラーのような超絶上手いハッチング絵だったらと妄想してしまった。絶対面白い。
ルネサンス時代の欧州は好きですか?どうも絵の上手い下手以前にその時代への萌えが少ないように思う。
今のはてなは女叩きのメッカと言っていい状態で、特に最近運営が手を入れるまで半年ぐらい主に増田の女叩き記事が延々毎日複数個ホッテントリ入りしていた。
元々弱者男性論が幅を利かしているところで、そこまでは許容範囲なのだがそこで男性社会での疎外や表現規制の主題を扱えばいいのに女叩きの方に行ってしまい、雪だるま式にルサンチマンやデマで埋まってしまう。
更に最近だとコロナ初期での反PCR運動という反技術ラッダイトムーブメントの中心となり社会に甚大な悪影響を与えたのが記憶に新しい。
はてなは2010年頃からブクマリニューアルとか日経との提携とか「キャズムを超える」為の施策を色々やってたんだが、その結果キャズム超え出来ずに土着化したようなユーザーの楽園になってしまったんじゃないかと思われる。
創業当初のはてなは個性的な「変な会社」で、技術志向のユーザーと運営の距離が近かった。障害が発生したらその障害の内容を技術的に解説する、todoリストを公開する、ユーザーがwantリストに書き込める等の特徴があった。
人力検索だけだったサービスにはてなブックマークとダイアリーを加えると数年でユーザーの特徴や偏りが顕著になった。
IT技術者、経営者ワナビー、リベラル、非モテ、がメインユーザーとなった。
IT技術者が多いのははてなの運営特性に合致するターゲット層だから。
経営ワナビーは小泉改革と大人気学者だった竹中の影響だが、肝心の経済に弱いという特徴があった。日本の経済構造を一新する改革側に居れば既存の経済活動に関する知識や経験は必要ないしそれが自分を幸せにすると信じていた。金融とは証券取引の事と信じそれらとM&Aの記事に金融タグを付けて経済通のつもりになっていた。商慣行や銀行との付合いには無知だった。
リベラルが多かった理由は2chの隆盛の為だ。まだネットの書き込みに関する事件捜査は行われておらず、ブログや掲示板を炎上させれば意見が通ると信じられて全能感に浸る2chネラーが暴れており、その対極としてはてなが位置づけられていた。故にこの頃のはてなは一部のネラーに憎悪されていてはてな=在日朝鮮人などという病識がないコピペで溢れていた。「2chの専門板ははてなでは敵いませんよ」という有名な文章があった。このころの2chネラーの全能感に棹さしてキャリアスタートさせたのが佐々木俊尚。
非モテは今に繋がるが、この頃は革非同などネタに昇華させて外国メディアに記事にされたりもした。
はてなユーザはこういう布陣でいた訳だが、一方で「キャズム」が問題になっていて『キャズムを超えろ』なんてブログが人気をはくしてもいた。
キャズムとは断崖の事で、新製品の受容ユーザーをイノベータ→アーリーアダプタ→マジョリティと分類した時に分布が正規分布になり、そのベルカーブの縁の部分を超えて広がるのが困難だという事である。
当時のネットはキャズムを超えられずベルの端っこの下、ロングテール部分にしか訴求出来ていない。これは製品の販売量で規模の経済が働かない、それ故広告料も上がらないという事である。
はてなはユーザーが特殊で偏っていて更にブクマのせいで喧嘩も多いという特殊な環境で、それで一般の人に忌避され、日記を始めてみたけど止めちゃう、アメーバに乗り換えちゃうというケースも多かった。
そこでキャズムの中のキャズムを打破すべくはてなは2010年頃から色々なイメージアップ策をするようになった。
・日経と提携する:経済意識が高いユーザーが多いのに応えてだと思われる。B層的であり経済事件などに不如意な点も経済記事を毎日読めばリテラシーがアップすると期待されたと思われる。
・綺麗なオフィスを公開する:会社のイメージアップと社員の採用面で重要。
・旅ブロガー等の推し:ココロ社氏やメレ子氏、在華紡氏など、一般受けしやすい旅&食べ物ブロガーを推してインタビュー記事などを掲載。最後の在華紡氏は喧嘩や炎上があると必ず火事場にガソリン持って立ってる人で推していいのかと不安に思うが、この甲斐あって彼等ははてな出身ライター、ブロガーとして多種媒体に出るようになった。
・はてブの改変:人気コメントだけだが表示されるようにするなど。ブコメ欄での論争低減を狙ったものと思われるがかなり不評でユーザーの流出もあって元の仕様との折半になっていった。
だがこうやって一般化を目指すと一つまずい事がある。
はてなのユーザ層はオタクに寄っている。そこでキャズムを埋めると一番流入するのは当時隆盛を誇っていたまとめブログ層じゃないのか?すると一般人とのキャズムはより深くなってしまう結果となる。
このまとめ民流入が増えた時機ははっきりしていて2018年だ。18年にネトウヨ春のBAN祭り騒動というのがあり差別デマや文字スクロール動画で埋まっていた日本版Youtubeが大掃除されたのだがそれでネットでの風向きが変わった。
更にこの前後からまとめブログでの広告引き上げが続いており、要するにまとめブログがおいしい商売では無くなった。元々差別的なまとめブログが隆盛となったのは広告料の上昇によるもので商売の形として確立され情報商材屋のシマともなった。しかも情報商材屋はネット広告でカモを集めるというループである。ネット広告キャパが拡大するに従って拡大した循環参照だが、広告料の上昇で審査が厳しくなって商売にならなくなったのだ。
ヘイト動画の方は18年の前から米国で悪質動画が問題になっており、極右や極左、イスラムの過激派が過激動画で勢力を伸ばしている事が問題視されてgoogleは対策に追われていた。ISの殺人動画等は消されても支持者がアップしてしまうのでそれを上回る速度で面制圧して統制しろとの要求がユーザーだけに留まらず行政司法機関から出されていた。
その為にガイドラインが相次いで変更されノウハウが蓄積され組織化されていた。結局広告キャパの拡大がそれらのコンテンツを爆増させ、それにより広告料の上昇が阻害され、対策されて消され市場として消沈するという流れだ。
ところでイーロンマスクは買収相手の業態の上記の流れを知らなかった為に「広告料上昇阻害」のラインまで広告引き上げされた訳で素人丸出し過ぎるんだが、まとめキッズとかツイ廃キッズのままで経営出来ると思っちゃったんだろうか?不思議な人である。
こういう流れがあってまとめブログのパイが急速に縮小して代わりにはてなにまとめキッズ(中年)が増えたという流れである。
彼等はtwitter社の大量解雇ではコンテンツ制御部署や法務部署の存在理由や綺麗なオフィスをわざわざ見せる理由が判らずにバックオフィスを「キラキラ世田谷自然左翼」だとの認識に蝟集し、めいろまの「twitterはアニメやプラもが好きな人らのものなのにユーザーに背を向けている」との論難に快哉を送ってしまっていた。会社にバックオフィスがある理由やこれまでのネット事件での流れ(特に米国内)、メジャーサービスでのキャズムの超克というテーゼなどを何も知らない無垢さを現していて侘び寂びの念に包まれる。
ついでにM&Aでイーロン下でtwitter社が多額の負債を抱えることと成長企業は積極的に融資を受けて投資に回す事を混同しており、企業体質が巨額赤字だと信じていた。税制への無知である。後になって「LBOはそういうもの」等と誤魔化しているが、そもそも個人が手持ちの金で買うというスキームで考えていたので無駄である。これは給与生活以外の世界を知らないからでネットの経営者ワナビーの悪影響である。
新型コロナが流行し始めるとはてなでは「インフルより弱毒」「ゆっくり感染して社会免疫」「PCR検査数が増えると偽陽性が激増するので検査してはならない」との危険なデマが席巻する事になった。また悪質なブクマカがPCRを受けたいとの願う患者や意志を見つけ出しては悪罵して叩き潰すという行為に出た。
最早社会に対する驚異である。この時のはてなはパブリックエネミーと呼んで差支えない。
これらの主張が「科学的」の表皮を被っていた事は忘れてはならない。有名なのがベイズ推定での偽陽性の議論の援用だが、ベイズ推定はベイズ統計学の一つのタームでしかないので概念の理解が簡単な上に知的に背伸びした気分になれる。だがPCRの特性上、偽陽性が発生しないのだから適用出来るはずもない。
PCRは独立で機能出来る検査じゃなくて、DNAシーケンサーの開発と普及に拠っている。2001年頃にシーケンサーが開発され、塩基配列が容易に読めるようになった。更に開発競争により世に普及するとともにありとあらゆる生物、ウイルスの遺伝子が読まれるようになった。この時に沢山使用される試薬の需要に応じて多くの試薬ベンダや製薬会社の部門が設立され、例えば焼酎の宝酒造が設立した子会社がタカラバイオだ。
この流れでコモディティ化した技術がPCRで、生物由来の物品を扱う様々業種で利用されるようになった。もうコモディティ化して普及が始まって20年以上になる。
要するにバイオテクノロジーにキャッチアップ出来てない人間があれらのデマに乗っかっていたのである。そもそも遺伝子検査で偽陽性が出るという事に疑問を抱いて調べないものだろうか?遺伝子偽陽性とは端的に他の生物と配列が一致するって事で、人間ががんになったら光合成できるようになったとか、人間同士から時々マンモスが生まれるって事だぞ?
しかもコモディティ化した技術なら必ずマニュアルと技術説明は公開されている。ソーシャルブックマークなのにそういうのを探しに行かないのだ。
代わりに「最先端の特別な知」的なものに弱い。これは、それらは具体的に判る所まで判らなくても背伸びした知的な自意識が満足させられるのに対して、コモディティ化した技術や常識では具体的に判ったところでスタートラインのペエペエだ。自意識の面では効率が悪いのだ。
これは経済分野でも同じで、日本が発達した資本主義社会なので経済知識を身に着けるのは大変だ。学校では教えてくれずに社会に出てしか判らない秘術みたいな知識もかなりある。それを身に着けて初めてペエペエなのだ。
だが給与生活者が経営者エアプしている限りはそれらの摩擦に晒されずに済む。こうして「ネット経済通」となって中年の永遠に終わらない青春に浸り続ける事になる。
コロナ初期にはてなスターが機能停止し運営はテストだと言い、それをブクマカらは無能だと評していたが、まず考えるべきなのははてなの異常なデマバブルだろう。SIモデルとベイズ推定を全能感の為だけに消費して批判的に検証しない、技術マニュアルを見に行かないという自意識フィードバックを停止させるために止めたのではないかとまず考えるべきだろう。
元から弱者男性論が多かった地でまとめキッズの植民が始まったら女叩きに移行するのは目に見えている。自分たちの権利擁護として表現規制反対が多くなるのは当然の権利で真っ当な事だ。だがそこから批判対象がフェミに収斂し、女叩きへと容易に至る。
だからcorabo叩きの最中に男女平等パンチ賞賛の増田なども当然にホッテントリ入りする。
https://anond.hatelabo.jp/20230110202355
女に対する恨みの蓄積なんだそうだ。しかも世の男は皆女に恨みを抱いていると考えている。それは弱者男性だけであるし弱者男性の敵はそもそも「男らしい男」やその概念ではないのか?
それからcorabo叩きの最中には「西早稲田2-3-18-51」デマも複数ホッテントリ入りしている。これはプロテスタント教会が市民運動に事務所貸ししてるのだが以前は在日朝鮮人の根拠地という噴飯な差別デマであったものをアレンジしたものだ。エグザイルの伝統舞踊を踊りなんである。
非モテ+リベラル+経営者ワナビーの集団のうち、非モテは残って女へのルサンチマンで上書きされ、リベラルの非現実性とのバランスに実務者や現実主義ではなくて自称リアリストが蝟集して現実から遠ざかってしまい、経営者ワナビーの経済音痴は温存されたままになってしまったのが現在のはてなだ。
故に10年前のリニューアルはうまく行かなかったと言える。一般人を呼び込むつもりが一般人が近寄りがたいデマが横行するルサンチヘイトサービスの方に行ってしまったのだ。
いい本があればいい映画は勝手に出来る、と言ってたのは黒澤だっけ?(スピルバーグか?)
(そういやファイナルファンタジー7があんなに面白くて
ファイナルファンタジー8がクソな原因は
8にはその人がいなかったからだ、とかインターネット黎明期にABCが書いてたなよな。)
書いた脚本をカラーで働いてる子持ちのパート主婦とかに読ませて感想を聞いて
何度も何度もリライトすりゃいいのに
そこはぜってええに外部から人を連れてこなくちゃいけねえのかな?
宮崎駿のハウルの動く城も脚本に欠陥があって話が破綻してる、って色んな人から指摘されているし。
(つーかハウルのシナリオの欠陥、って何なの?みんな思わせぶりに書くばかりで具体的に指摘してるの読んだことねえぞ)
(最近はずいぶんと違ってるようだけど)
正直に言うと、よくわからなかった。
話そのものはシンプルだとは思う、戦いが進むに従って想像で補う必要がある部分もあるけど、それもまあ、無視してしまえばいいといえばいい。
やけに濃い映画だという印象はたしかにあるが、なぜそう思うのかも上手く説明できない。
以下、つらつら書く。
本郷猛は結局、相打ちに近い形で死ぬが、プラーナだけは仮面を通してライダー2号に残る形で終わる。
これ、普通に考えたらただのバッドエンドだが、そうとは思えない要素も残してる。
仮にシン・仮面ライダー2が制作されたとしたら、その映画の後半で復活するんじゃないかと思える。
そんな邪推をしてしまうくらい、彼の死に様は「悲しいこと」扱いされていない。
この辺、緑川ルリ子の死をがっつり悲劇として描写したのとは正反対になっている。
結局のところ、本郷猛について、あんまよくわかんねえ、というのが一番の引っ掛かりポイントなのかもしれない。
仮面ライダーというヒーロー像が最初にあり、それを邪魔しない形で人間性を付け足した印象すらある。
人間を殺してしまうことや、自身が人間ではないものである忌避感は、後半になるときれいに忘れられる。
とにかく極端なまでに「仮面ライダーであること」に注力し、それ以外の見方を許さない映画。
ところどころメタ的に見れる部分も出ているが、その後ろに「だがそういうオーグである」という注釈が強烈につく。
個人的に残念なのは、スタイリッシュでチープな暴力性とでも呼べるものが、後半になるに従って変質したこと。
生々しくて泥臭い戦い様と、痛さのまったく伝わらないスタイリッシュさの二極に分かれた印象。
世界的なことをしようとしているはずだが、本音としてはそんなことは誰もまったく考えていなかった。
世界観を広げる役目は、人工知能アイと、その観測者であるケイくらいか。
よくわからない文法だと感じているのは、真っ当な成長や変化が映画内で描かれていないからかもしれない。
あるいは、変わった端から死亡している。
世界征服をたくらむ者は計画をあきらめて死亡し、ショッカーの残党はまだ残っており、主要人物二人も死亡している。
世界は救われたが、何も変わっていない。
生き残った一文字隼人がそうした面を担っているのかもしれないが、いくらなんでも登場が後半すぎる。
まあ、いい風に考えると、緑川ルリ子→本郷猛→一文字隼人とバトンが渡ったのだ、と考えることもできるが、そのバトンの中身が今一つわからない。単純に考えればヒーローなのだろうが、彼らがそれを目指しているようにも見えなかった。プラーナが渡っただけにすぎないと考えるのは悲しすぎる。
文句ばかり言ってしまうのは、楽しむことは楽しめたが、なんか良く分からない、飲み込めない強烈な違和感があるからか。
ああ、本郷猛のことをヒーロー要素しかない人間、みたいに書いたが、これはひょっとしたら違うかもしれない。
考えてみれば、彼が精神的にタフで強い人間だと描写された場面は、ほぼない。ただ優しくて弱い人間として描かれた。
頭の中にある、仮面ライダー=ヒーロー=タフであきらめず強い奴、みたいなこちらの色眼鏡が、実のところ一番のネックになっていたのでは。
彼はあるいは、わめいたり文句を出さない碇シンジか、碇ゲンドウあたりの精神性の持ち主として捉えるべきだったのか。
そう考えてみると、最後に相打ちに近い形で死亡したことにも、ある意味では納得がいく。仮に生き残れば、緑川ルリ子復活のために世界を破壊するルートに行きかねない。それを阻止してヒーローのままでいるためには、あの場面で死ぬしかない。
自分自身を納得させるために書いた文章なので、実際には違っている部分も多いと思う。
とにかくシンプルで面白いが、根本がおかしなことになっている映画だった。
ひょっとして、バトンとして渡されたものは、とんでもなくありきたりな、些細なものだったのでは。
そして、本郷猛のコミュ障レベルは、こちらの想定よりもずっと酷くて重かったのでは。
映画内の大半では心を開かず、ようやく心の一部を開けたのは緑川ルリ子で、しかもその遺言に対してだった。
ちゃんとした他者と心の交流を持つことができたのは、実はプラーナ化してからでしかなかった。
これが正解だとは思わないものの、本郷猛がどういう人間かを想定するかによって、まったく違う映画になるとは思う。
意図的にそういう空白が作られている。
ただ、繰り返しのようになるが、これが正解の解釈ではあって欲しくはない。
なぜならこれだと「超絶コミュ障が体も命も全部失ってから、ようやくちゃんと他者と交流できるようになった」映画になるからだ。こんなのが一般受けするはずがない。