はてなキーワード: バブル経済とは
こんなこと言っても仕方が無いけど、なぜ2010年代の中盤期になってLGBTの人達の人権や待遇の問題がクローズアップされているんだろう。
今の日本は経済が文字通り縮小していて、GDPも税収も先細りになっていく段階に入っている。
そんな状況において、LGBTに限らずあらゆる弱者の人達に対する経済的な支援なんて難しいに決まっているだろう。
LGBTに限らず、健常者でさえ生活保護の減額のように、社会保障のリソースは年々減っていくのだ。
結果論だけど、LGBTにしろADHDにしろ、あらゆる少数弱者にしろ、今のような経済が縮小している時期に声を上げたとしても無視されることになると思う。
30年前のバブル経済の時期にLGBTの問題がクローズアップされていれば、また違っていたのではないか。
当時は金が余りまくっていて、行政も金の使い道が無いから無駄な施設や道路ばかり作るはめになっていた。
1990年代前半のバブル崩壊によって日本は長期に渡って経済が停滞し続けている。
その間の期間は失われた20年とも、30年とも呼ばれていて、日本では中流のボリュームゾーンが消失し、日本の経済そのものが縮小し続けていることになっている。
今の若者たちは皆、経済力が無いので結婚して子供を作ることができず、人口の再生産自体が危ぶまれている。
しかし、今までの約70年間の戦後の歴史の中で、本当に一億総中流が実現したことがあったのだろうか。
1980年代のバブル経済期にしても、国全体のGDPは増えているけど、実質的な経済成長率はそれほど高くはなかったし、国民1人1人の所得も増えていない。
その証拠に、バブル期も非婚化や少子化は進んでいたではないか。
今現在(2018年)の日本人の大半は、1980年代前半の時期の日本人の豊かさと大して変わっていないのではないか。
いつしか「経済成長」は私たちにとって当たり前のものになっていた。だが、それは永遠のものなのだろうか。
アベノミクスの大黒柱である日本銀行の異次元緩和はお札をどんどん刷って国債を買い支えるという、かなり危うい政策である。にもかかわらず世論の支持が高いことが不思議だった。
思えば「成長よ再び」という威勢のいい掛け声と、「必ず物価は上がって経済は好循環になる」と自信満々の公約に、人々は希望を託したのかもしれない。
希望をくじいたのはくしくも日銀が放った新たな切り札「マイナス金利政策」だった。昨年1月に日銀が打ち出すや世論調査で6割超の人が「評価できない」と答えた。いわばお金を預けたら利息をとられる異常な政策によって、人々がお金を使うようせかす狙いだった。これには、そこまでする必要があるのか、と疑問を抱いた人が多かったのだろう。
政府も国民も高度成長やバブル経済を経て税収や給料が増えることに慣れ、それを前提に制度や人生を設計してきた。
だがこの25年間の名目成長率はほぼゼロ。ならばもう一度右肩上がり経済を取り戻そう、と政府が財政出動を繰り返してきた結果が世界一の借金大国である。
そこで疑問が浮かぶ。ゼロ成長はそれほど「悪」なのか。失われた20年と言われたその間も、私たちの豊かさへの歩みが止まっていたわけではない。
その間、日本のミシュラン三つ星店は世界最多になったし、宅配便のおかげで遠方の特産生鮮品が手軽に手に入るようになった。温水洗浄便座の急普及でトイレは格段に快適になった。
若者たちが当たり前に使う1台8万円の最新スマホが、25年前ならいくらの価値があったか想像してほしい。ずっと性能が劣るパソコンは30万円、テレビ20万円、固定電話7万円、カメラ3万円、世界大百科事典は全35巻で20万円超……。控えめに見積もったとしても、軽く80万円を超える。
スマホに備わるテレビ電話や会話する人工知能の機能となると、25年前ならSF映画の世界の話だった。
ただ、この便益の飛躍的な向上は国内総生産(GDP)というモノサシで測ったとたんに見えなくなる。80万円超の大型消費が、統計上はスマホの8万円だけに減ることさえあるのだ。
そこで見えなくなってしまう豊かさの向上を考慮せず、「どんな政策手段を使ってでもとにかくGDPを膨らませよ」というのがアベノミクスの思想である。
人間はそうまでして成長を追い求めるべきなのか。
実は、いまのような経済成長の歴史が始まったのは200年前にすぎない。長い人類史のなかでは、ほんの最近だ。GDP統計が初めて作られたのは、さらにずっとあとのこと。1930年代の大恐慌、第2次世界大戦がきっかけだった。
昨年夏、GDP統計をめぐるちょっとした論争があった。所管官庁の内閣府に日本銀行が「実態より過小評価されているのではないか」と問題提起したのだ。
きっかけは日銀の若手職員が発表した個人論文。ただ論争には日銀上層部の意向も働いていた。アベノミクスの主軸として史上空前の超金融緩和をしながらインフレ目標を実現できず、成長にも結びつかない。現実へのいらだちがあった。
数字ひとつで財政や金融政策を動かし、人々の景況感にも影響するGDP。その歴史は、長い人類史のなかでは意外と短い。
世界で初めて国の経済全体の大きさを測ろうとしたのは英国。17世紀の英蘭戦争のためにどれくらい戦費が調達できるか知ろうとしたのだ。そこから現在のようなGDPになったのは、さらにあと。1930年代に英国、米国で大恐慌の対策を探り、第2次世界大戦に向けた生産力の分析を進めるためだった。(『GDP』ダイアン・コイル)
一般的には1760年代の英国産業革命が成長の起点とされる。だが西暦1年~2000年代の世界の成長を人口や歴史資料から推定した経済学者アンガス・マディソンによると、1人当たりGDPがはっきり伸び始めた起点は60年ほど後の1820年ごろだった。
その理由を投資理論家で歴史研究家のウィリアム・バーンスタインが『「豊かさ」の誕生』で分析している。1820年ごろになると、ようやく私有財産制度や資本市場が整い、迅速で効率的な通信や輸送手段が発達。技術進歩や新しいアイデアを評価する文化や制度ができて、成長を後押しする基盤が整ったという。
社会思想家の佐伯啓思・京都大名誉教授によると、国家が成長を必要としたのはもともと冷戦期に資本主義陣営が社会主義陣営に勝つためだった。「それだけのことにすぎない。なぜ成長が必要なのかという根源的な問いに、経済理論には実は答えがないのです」
冷戦が終わったあとも成長への渇望だけが残った。むしろ成長の限界や弊害について、以前より語られなくなったのかもしれない。
1970年代初頭、世界の科学者や経済学者たちが集まる民間組織ローマクラブがまとめた報告書『成長の限界』は、経済成長を謳歌(おうか)する人類への警告だった。人口が増え、先進国経済が膨張しすぎると、資源の使いすぎや環境悪化などからいずれ限界が生じる、という問題提起だった。
いつしかその問題意識は薄れ、成長信仰だけがひとり歩きしはじめた。
佐伯氏は「ローマクラブが指摘した問題の重要性は今も変わらない。これから無理やり市場を膨張させ、成長させようとする試みは競争や格差を激しくして、人間にとってますます生きにくい社会にしてしまうのではないか」と話す。
紙幣を発行し、金融政策をつかさどる中央銀行。その「元祖」は英国のイングランド銀行とされる。もともと民間銀行の一つだったが1844年の制度改正で中央銀行に進化した。
つまり1820年ごろに始まる「成長」とともに誕生した機能だった。
いま世界経済の成長スピードが落ちている。2008年のリーマン・ショックでマイナス成長に陥った先進諸国は、危機から回復した後も以前のような成長軌道に戻れていない。
サマーズ元米財務長官は3年前、物質的に満たされた先進国は簡単に低成長から脱せないという「長期停滞論」を唱えた。
日米欧の中央銀行はまるで自分の存在意義を確かめるように、ゼロ金利政策、量的金融緩和、マイナス金利政策……と成長を取り戻すための異例の緩和策を次々と繰り出した。
「これは長い目でみれば中央銀行の終わりの始まりだ」と言うのは日銀出身で金融史にも詳しい岩村充・早稲田大大学院教授だ。
中央銀行が政府から独立する必要があるのは、たとえ政権が代わっても、お金の価値が変わらない金融政策を続けることが経済の安定には大事だからだ。岩村氏は「政府といっしょになって成長のために異常な金融緩和を進める。そんな今の中央銀行に独立性はない。存在意義がなくなってしまった」と指摘する。
経済史の泰斗である猪木武徳・大阪大名誉教授は、成長を謳歌したこの200年間を「経済史のなかではむしろ例外的な時期」と言う。そのうえで無理やり成長率を引き上げようとする最近の政策に異を唱える。
「低成長を受け入れる成熟こそ、いまの私たちに求められているのではないでしょうか」
成長の意義も認めてきた猪木氏が最近そう考えるのは、成長そのものの役割が変質してきたからだ。
「かつて経済成長には個人を豊かにし、格差を縮める大きなパワーがあった。最近は国家間の経済格差は縮まったものの、上っ面の成長ばかり追い求める風潮が広がり、各国の国内格差が広がってしまった」
主要国の成長戦略、金融政策は往々にして強く富めるものを、さらに強くさらに富ませる傾向がある。それがトリクルダウン(滴がしたたり落ちること)で中間層、低所得層に広がるという想定だ。現実にはそうなっていない。
19世紀の経済思想家ジョン・スチュアート・ミルはゼロ成長の「定常社会」を構想した。だが近代経済学は事実上、成長ぬきには語られなくなった。いつしかあらゆる経済理論が成長の持続を前提に組み立てられるようになったからだ。
むしろ現実社会に変化の兆しが出てきた。たとえば最近広がりつつある、買わずにモノを共有するシェアリングエコノミー。大量消費と一線を画す動きだ。
四半世紀にわたるゼロ成長期を過ごした日本人の意識に変化もうかがえる。
博報堂生活総合研究所の定点観測調査によると、「日本の現状はこの先も、とくに変化はない」と見る人は昨年54%で、9年前より22ポイントも増えた。さらに身の回りで「楽しいことが多い」人が増え、「いやなことが多い」人は減った。
同総研の石寺修三所長は「人々の意識が定常社会を前向きに受け止めつつある変化がはっきり示されている。いわば『常温』を楽しむ社会です」と話す。
いま世界が直面する低成長が「成長の限界」を示すものかどうかは、はっきりしない。ただマディソンの2千年の成長率推計を見れば、この200年の2~3%成長が、まるでバブルを示す急騰曲線のようだとわかる。
成長の鈍化はむしろ経済活動の「正常化」を意味しているのかもしれない。少なくとも成長は「永遠」だと思わないほうがいい。(編集委員・原真人)
元ページ(リンク切れ): http://www.asahi.com/articles/ASJDY5DR2JDYULZU005.html
ブコメ: http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/articles/ASJDY5DR2JDYULZU005.html
数日前に亡くなった西城秀樹の「ヤングマン」の歌を久しぶりに聞いてみた。
「さあ立ち上がれよ
今翔びだそうぜ
もう悩む事はないんだから
ほら見えるだろう
君の行く先に
楽しめる事があるんだから」
この曲がリリースされたのは1979年のことである。高度経済成長も一段落して、石油ショックのアクシデントから省エネ経済への転換期の日本。
この10年後に発生するバブル経済に向けて、国民全体が更なるギアチェンジをふかそうとしている元気のある日本の姿がよく現れていると思う。
経済も、文化の発展・成熟も右肩上がりの時代であり、誰も後ろ側を振り向いていることは無かったのではないか。
そして、バブル崩壊後の1996年にリリースされた近藤真彦のミッドナイト・シャッフルの歌詞を読んでほしい
※マイナーかもしれないが、この曲こそ低成長時代を象徴していると思うので例にしています。
「強そうに生きてゆくよりも
本当に強くなるために
その羽を震わせて見上げてる
冷たい夜空を」
バブル崩壊と低成長時代への突入という事態に対して、自信を無くしつつある日本人の心情をよく表現していると思う。
そもそもバブル自体が、日本人が世界第二位の経済大国になったという幻想だったのではないか。
この歌がリリースされて約20年経過したが、今の日本は当時よりも更に悪くなっている。
経済の縮小、人口の減少、過疎化、高齢化、東京一極集中、格差の拡大などの課題先進国・日本はこれからどこへ向かうのだろうか。
久米宏が「バブル当時は「金余り現象」って呼んでいた」といってたんだけど
「バブル経済」って「はじけた」から名付けられた言葉で「儚いもの」が本来の意味でない?
いつの間にか好景気の意味で使ってるような気がするが、そういう解釈は間違いなのかな??
バブルを経験したいまだから、同時代的に好景気に沸いていることを「バブル」と呼ぶことに異論があるわけではないんだが、
辞書を引いてみたけど、どれも実態と乖離しているさま、としか書いてない
辞書が現実に追いつけないことも分かってはいるんだが、泡沫やうたかたという訳語とイメージが結びつかない
金儲けといえば人聞きは悪いが、ビジネスといえばいいみたいな感じがする
バブル芸人とやらが人気である。80年生まれの私は、当時のことを懐かしむ思いを感じつつも、微妙な気分で眺めている。何故?バブル経済は悪だったからである。続く「失われた20年」生み出した元凶。(ちなみに「失われた20年」は英語で”lost two decade”であり、「負けた」という意味もある。)彼女なんかはあの時代を茶化してやってるんだろうからいい。でも、ここのところ、なんか素晴らしい時代だったかのような受け取られ方をされてる雰囲気を感じてしまって、イヤなのだ。
そんな雰囲気を感じてるんだろう、金融関連ではバブル史本の出版がラッシュである。どうせ当時の銀行員か何かが自己正当化の文言を並べてて、こんなことが今後あってはならない、みたいなまとめられ方をしてるんだろう。読んでないから分からないけど。
バブル経済の後遺症が長引いた原因は、バブル崩壊当時、窮地に立たされた銀行を国が救ってしまったことにある。バブル期に後先考えず融資した金が焦げ付き、国全体の金の流れを止めた。いわゆる不良債権問題である。あの時、銀行をじゃんじゃん潰してしまって、焼け野原からスタートした方が良かった。20年を失ってしまったあとでは、そう思える。ちなみに私が大学を卒業したのが2003年、就職率がワーストを記録した年である。バブル崩壊から10年以上過ぎた当時ですら、不良債権問題はくすぶっていた。
今となってはバブル期という一面的な捉え方しかされないが、私が幼少の頃を過ごした80年代は、冷戦の時代でもあった。幼心に最初に覚えている政治家は、中曽根、レーガン、そしてゴルバチョフだ。まだ、ロシアがソ連と呼ばれていた時代、スポーツの国際大会なんかでは「西ドイツ」代表が良く出てたのを思い出す。なんてったって核兵器の量がハンパじゃない。その当時は40何億人くらいだったと思うけど、全人類を殺しても余るくらいの核兵器があった。いわゆるオーバーキルというやつ。
その頃、こういった状況を反映して、人類滅亡後の世界を描くようなマンガや映画が作られていた。私がいちばん思い出すのは、「北斗の拳」と「ターミネーター」だ。「ターミネーター」の方は、スカイネットというコンピューターが暴走して世界を壊滅させてしまうって設定だったと思うが、今、キューバ危機なんかのことも合わせて考えてると、もの凄くリアルだ。ちょっとしたボタンの掛け違いで、全面核戦争に突入してしまう危険性があったのだ。
「北斗の拳」の方は表面的には、格闘技マンガで、私もそのように楽しんでいた部分もある。しかし設定が怖かった。なんといっても「199X年」である。現実に起こりうる未来、世界が滅亡してしまうかもしれない未来。今となっては笑いものではあるが、こんな設定が、時代の中でリアリティーを持ったのである。そして幼い私は、そんな小さな恐怖を受け取ってしまったのである。
80年代から90年代にかけて、バブル経済は崩壊、またソ連が崩壊して冷戦は終結した。この2つの重大な出来事が同時期に起きてしまったことが、日本人にとっては不幸なことだったと思う。冷戦が終わり全面核戦争の危機は去ったにも関わらず、経済的な壊滅状態がやってきてしまい、安心を感じれなかった。「世界は滅亡しない」という安心を。
そんな不安感の中、オウム真理教が登場し、信者を集め、凶行に走った。彼らが持ってた終末思想は麻原個人によるものも大きいが、多くの日本人が心のどこかで持っていた疑念と共振していた。世界は何か別の形で滅亡してしまうんじゃないだろうか?と。阪神大震災がダメ押しになったのも無理はない。95年だ。
ちょっと違うかもしれないけど、90年代末に登場したエヴァンゲリオンにも触れておきたい。エヴァンゲリオンのメインのテーマは親子関係であるとか、成長であるとか、そういったことになるのかも知れない。しかし、設定として「サードインパクト」なる壊滅的な何かが起こった後の世界が舞台となっている。ここでも世界が滅ばない訳では無いのである。いずれにせよ、私達に「世界は滅ばない」と安心させてくれるものではなかった。
そして、21世紀の現在、新たな「終わり」を予感させる出来事が次々と起こっている。それはやはり、2016年のイギリスEU離脱、そしてトランプ大統領の誕生である。世界が大きく動いている。何かこれまでとは違ったことが、起きているし、これからも起きるだろう。もしかしてこれは、「終わりの始まり」なのか・・・。書店に行った。「たとえ世界が終わっても」という新書が並んでいた。
そんな中、話題の「けものフレンズ」を見た。なんでも、「疲れたオッサンを癒やしてくれる」らしい。私も36のいいオッサンで、程よく疲れている。癒やされるか。そして見てみたところ、なかなか楽しくはあるが、いまいちピンと来ない。「すごーい」や「たのしーい」で微笑ませてくれるんじゃないのか。それとも自分には合わないだけなのか。
でも、ふとした時に気がついた。あの世界、「ジャパリパーク」は冷戦の終結と、バブルの崩壊の2つを同時に表現していると。バブル期に日本では、アミューズメントパークが雨後の筍の如く建設され、そしてバブル崩壊と同時に多くが破綻し、そして廃墟化していった。「ジャパリパーク」はそんな廃墟化したアミューズメントパークそのものだ。人間が出てこないし、話題になっているように人類滅亡後の世界に思えなくもないが、アミューズメントパークが倒産しただけだ。冷戦は終わった。世界は終わらない。そう思うと涙が出てきた。
確かにオッサンを癒やす作品だ。でも、私の場合はそのほのぼのとした雰囲気にそのまま癒やされるのでは無かった。自分が幼い頃から育んできてしまった小さな恐怖、心に刺さってしまっていた小さなトゲを、取り去ってくれるという形で、癒やされた。すごーい!
(以前、普通に話している時、「随分高座からの物言いだな。」と話している相手では無い人間に横槍を入れられ、揚げ足を取られ、怒鳴り返そうかと思ったことがある。まぁ、それはどうでもいいんだが。)
身分制度がこの国から表層的に消え、(職業)身分による分類・分析が出来なくなった今、何か別の指標・方法を使わなければ社会現象を分析する事はできない。
(実の所、「身分制度解体」もその嫉妬心から「士族階級」をスケープゴートにして寄って集って叩くと言う単なる日本の伝統芸能()であるイジメと全く同じ構造であった。今で言う「公務員叩き」と同じ。その証拠に士族以外は殆ど身分を解体されていない。何故なら元々平民が9割以上であったから。「士族のみ」が社会的追い剥ぎにあっただけ。それ以外はいつもながら安穏とした生活を続けているだけで終った。平和ボケして暇だったからストレスの捌け口として士族を狙った八つ当たりに過ぎない。平和ボケすると人は傲慢になる。それまで守ってもらっていた人間を攻撃すると言う恩を仇で返す事を平気でするようになる。それどころか明治維新の混乱に紛れて不義を働き、ぼろ儲けしたような成金もいる。まぁ、それは商家や豪農と呼ばれる大規模農民が主だが。長くなるので別の時に残すか、、、)
様々な分類法が考えられるが、社会学的・経済学的に見るならばやはり所得や資産が解り易いだろう。
そして更にその所得を細かく分析すると、ある特徴が現われてくる。
(もしこれが解らないようであればこの先の記事は読まない方が時間を無駄にしなくて済む。)
経済学や社会学をやっている人間、或いは企業経営をしている人間にとっては「市場分析」が当たり前になるが、それが出来ない人間が一部ではいるようだ。(もしかしたらその能力がないのかもしれない。)
個人的にも実際、会社経営をしながら市場分析が出来ない人間を何人も知っている。
勿論、そう言う人間は大抵経営に失敗している。(まぁ、必然ではあると思うが。)
バブル経済に作った蓄財を細々と消費しながら何とかやっている人間も少なからずいるようだが、まぁそう言う人間の先は永く無いだろう。
そして「最近の若者は消費をしない」と言うマスコミの低レベルなスケープゴート作りが愚かしく、滑稽に思える。
自ら調べて分析する事も考察する事もなく、ある一部の人間が垂れ流す駄情報だけを取り入れ、飲み込み、踊らされてしまう人間達。
そして、その結果が齎す事に対して何の責任も感じていない。
自分は高座に上がって、それより下に抑圧されている人間を叩くのは簡単だろうな。
(大抵、イジメ撲滅運動をやっているような市民団体の構成員がイジメをやるような皮肉が世の中には多いから、理由は容易に理解できるのだが。)
「何故、最近の若者は消費しないのか。」を考えた事がないらしい。
意図的に「消費しない」のではなく、消費する元手がないから消費できないのである事さえ理解していない。
滑稽であり、愚かしい。
(そう言えば他人を何の理由も根拠も示さないままに「愚かしい」と誹謗中傷していた零細企業の社長がいたが、ソイツが一番愚かしいと言う事には気づいていなかったようだな。無知・無学・無教養なのに他人を罵る愚かさは過去俺が関わりを持った人間の中でも一番酷かった。慈悲深いならまだしも本当にソイツ以外の他人を全員見下し、貶めていた。まぁ、そう言う最低な人間も世の中にはいる。)
http://www.jili.or.jp/lifeplan/houseeconomy/asset/3.html
http://www.nli-research.co.jp/report/gerontology_journal/2011/gero11_007.pdf
http://rh-guide.com/data/kojin_sisan.html
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/4690.html
バブル経済が崩壊してからと言うもの、給与は右肩上がりにもならない上に若年層の給料は低い水準で停滞したまま。
その人口層に「お前らがカネを使わないから経済が回らんのだ。不況はお前らの責任だ。」とする人口層がいる。
或いは自分達で持っているから意図的にそう言っているのだろうか。
まぁ、自分が優位に立てる立場におかれている時に、自分より立場の悪い状況下に置かれている人間を罵る事など誰でもできるし簡単な事である。
しかし、それでは何の問題も解決できないどころか、問題は時間経過と共に悪化していくだけである。
「水は高きより低きへ流れる。人の心もまた、高きより低きへ流れる。」
タイトルを記事内容に合ったものに変更しました。内容は変えていません。
http://twitter.com/InsideCHIKIRIN/status/535980176283566080
「円安が好きな人ってほんとーにわからない。自分の国を安く売って何が嬉しいのかな。」
http://twitter.com/InsideCHIKIRIN/status/534181673152565248
「消費税が逆進的だ(所得の低い人に厳しい)という人は多いけど、円安もかなり逆進的だよね。円安で利益がでるのはトヨタなど大企業ばっかり。
その一方、格安な輸入食材&商品が軒並み、円安で値上がりして、低所得者層は出費が増える。」
この2つのツイートへの返答をマクラにしつつ、アベノミクス(このダサいネーミングはなんとかならないのか)の良い点と悪い点、
民主党執行部への愚痴(これがメイン)なんかを書いていこうと思います。
ここ15年ぐらいずっと言われてきた「デフレ不況」、デフレとは、物価が持続的に下落している状態を指します。
単純に考えればモノの値段が下がることはうれしいはずなのに、なんでデフレが問題なんでしょうか。
そんなことわかってるよと思われるかもしれませんが、順を追って説明するために書いておきます。
物価が下がって企業の売上が減ると、企業収益が減ります。企業は利益を出すためには費用も減らさなければいけません。
今回はこのうち、人件費を抑える、というポイントにしぼって話をします。
物価が下落したのと同じ割合で社員全員の給料を減らせれば何の問題もないのかもしれませんが、そういうふうにはできないですよね。
正社員の給料は、物価が下落する割合ほどには下がりません。これを「賃金の下方硬直性」と言います。
リストラされずにすんで定収入がある人たちはデフレで少しずつ得をしますが、その分をリストラされて収入が無くなる人がかぶるんです。
結局この被害を一番受けるのは、これから社会に出て仕事をしようとする若い世代です。求人が減って有効求人倍率が下がります。
企業はすでに雇用している人を解雇するよりも先に、新しく入ってくる人を減らすので失業率が高くなります。真っ先にこの影響を受けるのは若者です。
これがデフレを問題視するべき大きな理由です。若年失業者が増え、世代間格差が拡大していきます。
物価上昇率と失業率にははっきりとした相関関係があって、フィリップス曲線と呼ばれていますが、物価上昇率が低いと失業率が高くなります。
ここまでに書いたとおり、景気変動によって不況時にはデフレによって失業という経済問題が起こります。
また、好況時にはインフレーションという問題が起こってしまいます。だから過度のインフレもデフレも望ましくないのですが、
経済は常に循環してるのでほっておくと景気変動は避けることができません。
金融安定化政策とは、このような景気変動を平準化するために政府がとる政策のことです。
インフレ時には世の中に出回るお金の量を減らすことで景気の過熱をおさえて、デフレ時には出回るお金の量を増やすことで景気を温めます。
この政策の効果がよくわかるのは、リーマンショック以降の各国の金融政策です。
中央銀行(日本だと日本銀行)が供給している通貨の総量をマネタリーベースと言います。
リーマンショック以降、アメリカは大規模な金融緩和によってマネタリーベースが急増しました。
それに対して日本はあまり増えていません。不況下でも出回るお金の量を増やさなかったことでデフレ不況が加速していきました。
また、出回るドルの量が増え円の量が増えなかった影響で円高ドル安も加速しました。
ドルはたくさん出回っているから安くなり円はあまり出回ってないから高くなります。
ここで大事なのは、通貨の交換レートというのは出回っている量の比率で決まるものでしかないということです。
最初に紹介したちきりん女史のツイートでの誤解はここにあって、円が高いか安いかと、自国を高く売るとか安く売るとかはなんの関係もありません。
その国の通貨がどのぐらい出回っているかは金融政策によって決まりますが、それは好不況の影響を平準化するための結果でしかありません。
リーマンショック前には1ドル110〜120円だったのが、2011年には1ドル70円台というとてつもない円高ドル安に突入しました。
円が高くなったからと言って日本が豊かになったわけでないのはご存知の通りです。
アベノミクス(もう一度言うけどこのネーミングはダサすぎると思う)ではこのデフレ不況に対して、やっと金融緩和をして出回るお金の量を増やしました。
今まで金融緩和をしてこなかったのが異常なだけで金融政策に関してはごくごく普通の政策なんです。
ここからが本題です。というか民主党支持者としてのただの愚痴です。はぁ…
日本銀行には、第一次石油危機の時の高インフレや、バブル経済の時代に金融緩和をしすぎた記憶から、インフレは悪だという認識が根強くあります。
デフレでも良いからとにかくインフレにならないような金融政策を行ってきました。
38度の熱を出してしまったトラウマが忘れられなくて体温を34度に保って体を鍛えようとしている人がいたらまず36度ぐらいまで体を温めろよと言うと思うんですが、
体温を上げるのは絶対に許せないと言う考えが日本銀行には強くあります。
それと、マスコミや知識人に多いのがイデオロギー的に金融緩和にアレルギーを持っている人たちです。バブル時代、自民党政権は好景気の中で金融緩和を進め
赤字国債を発行し財政支出を増やしていきました。この時期の「自民党的」な政策に対するアレルギーから、金融緩和政策に対して脊髄反射的にバブルの再来、
という言葉を使いたがる傾向があります。バブルを知らない私にはこの感覚が全くわからないんですが、バブルのトラウマはこんなにも大きいのか、と心から思います。
ただ、ここまででも書いたとおり金融政策はイデオロギーとは関係ない技術的な問題です。
インフレ時には引き締め、デフレ時には緩和する、それ以上でも以下でもありません。
国の経済政策についての学問であるマクロ経済学には、大きく分けて二つの考え方があります。「新古典派」と「ケインズ学派」です。
おおざっぱにいうと新古典派の経済政策というのは、経済活動は市場に任せていれば最適化されてうまくいくから国はなるべく介入すべきではない、という考え方です。
それに対してケインズ学派の経済政策というのは、新古典派経済学は特殊な環境でしか成立しないから、国が環境をうまく整えるべきという考え方です。
金融安定化政策というのは、ほっといたら物価は勝手に上がったり下がったりしてひどいインフレやデフレになったりするからそれを安定させようとする政策なので、
当然ケインズ学派に属する政策です。ケインズという経済学者が書いた「雇用・利子および貨幣の一般理論」という本の中で提言されていて、
アベノミクス(ry)が設定した3つの論点は1,金融政策2,財政政策3,成長戦略です。経済学的にも妥当な論点の設定だと思います。
タイトルにも書いているように私は民主党を支持していますが、現政権の政策で経済政策に限らず私が唯一支持しているのが1の金融政策です。
そしてこの点についてずっと民主党に不満をもっています。金融緩和アレルギーの項で、金融政策を体温の上げ下げに例えましたが、とにかく36度ぐらいまで体温を
上げないと何も始まらないという現政権の金融政策を否定する理由は特にありません。ただ、その上でどんな栄養を取るかだったりどういう風に体質改善するかについて
は全く支持できません。金融緩和は短期的(2~5年)に企業収益を押し上げ失業率を低下させます(個人的にはこの失業率低下が超重要!)。
そして長期的(10年以上)なスパンで考えると制度疲労がおきている仕組みを変更したり不要な規制を撤廃するための体質改善やトレーニングが必要です。
この体質改善の部分については民主党を支持しています。だからこそ民主党に金融緩和をしてほしかった。そして実際にそのチャンスもあったと思っています。
でも結局できなかった。なぜなのか私なりに感じていることを書いてみます。
民主党政権時代に民主党議員を中心とした超党派のデフレ脱却議連というのがありました。遅すぎるだろうという不満はともかくとして、
デフレ脱却のために金融緩和をすべきということを民主党内にも真剣に考える議員達がいました。2010年6月と7月にはこんな記事がでています。
新政権で金融緩和、円安進む-民主のデフレ脱却議連事務局長http://www.bloomberg.co.jp/news/123-L3GOBZ0D9L3501.html
民主デフレ脱却議連、インフレ目標導入など財務相に提言http://jp.reuters.com/article/businessNews/idJPJAPAN-16524520100730
でも結局政策として実現することはありませんでした。民主党の最大の問題点はガバナンスだと思います。人材がいても執行部のイデオロギー的な好みで実現しない
ことが多すぎるのではと思っています。デフレ脱却議連の人達は今の海江田代表&枝野バカヤロウコノヤロウ幹事長体制をどう見てるんでしょう。
2012年に民主党の野田首相と自民党の谷垣総裁、公明党の山口那津男代表が三党合意によって10パーセントへの増税をおまけみたいな景気条項つきで決定しました。
実際には景気の悪い時に増税して、財政再建が成功した例は世界的にみてもありません。この後、年末の解散で安倍政権が誕生して金融緩和が始まりましたが、
あのタイミングで金融緩和をせずに増税してたらと思うと本当に恐ろしいです。
歴史的に見ても、名目GDPが増えない限り、財政再建には成功しません。日本でもかつて2005年から2008年くらいまで、名目GDPが多少増えた時には、
一番大事なのは、まず経済が成長することです。成長することで税収を増やしていく。
実際に2013年度に関しては、経済成長のおかげで3.6兆円ほど税収が増えています。
こういう話をすると結局カネかよ、という反応をされることがあります。正しい政策を主張しているのはこっちなのに景気さえ良ければいいのかと。
リベラルに一定数いるこういう浮世離れした反応が正直に言って一番苦手です。安倍政権は大嫌いだし自民党には投票しないけど支持が落ちない理由は理解できます。
自民党に投票する人を見下して笑ってれば支持が増えると思うならそうすればいいですよ。安倍首相は表舞台からいなくなってる間、デフレ脱却のために真剣に
マクロ経済の勉強をしたおかげで、いまだに支持率が40パーセント以上あって長期政権になりそうです。このことを民主党の政治家はを本気で考えてほしいです。
最初に書いたとおり定収入が保証されていたり資産が十分にある人にとってデフレは得なんです。
そして何度でも言うけどデフレ下での金融緩和は直接的に失業率を下げる効果があります。実際に下がっています。
あまり報道されていませんが、中小企業景況調査報告書を見ると中小企業の景況感も良くなっています。
http://www.chusho.meti.go.jp/koukai/chousa/keikyo/137keikyo/137sokuho.pdf
定収入がある人達の賃金アップはその後に来ます。金融緩和は上位3パーセントだけが得をする政策だと一生懸命に主張している人達には
下位5パーセントは見えていないのか、それともイデオロギーのほうが大事なのかどっちなんでしょう。
私が民主党を支持する理由をあえてイデオロギーを強調して書くと、保守が再分配に興味を持つよりもリベラルが金融緩和するほうが可能性があると
今でも思っているからです。それなのに、実際にこの二年間でデフレ脱却のための道筋をつけた現政権の支持者を馬鹿にしてる人とケンカになったりすると、
一回まとめておきます。私が望む経済政策は、金融政策によって過度なインフレやデフレを抑えつつ、子育て世代や社会的弱者への厚い再分配や余計な規制の緩和、
同一労働同一賃金を実現して世代間格差の緩和や財政健全化を目指すことです。そんな政党があれば今すぐ飛びつきます。飛びつきたくてしょうがないです。
それなのに現状デフレ下で金融緩和に賛成している政党は自民党以外だと維新の党や次世代の党、もうなくなったけどみんなの党みたいに
再分配に興味がない政党ばかりで泣きそうです。どんなに失業率が少なくなっても失業者がゼロになることはないです。
この二年で雇用を増やして失業者を減らしたけど、それでもまだ失業している人への再分配には興味がないのが現政権で、
再分配に興味はあるけどその原資のために景気を良くしたり失業率を下げるための政策を最後まで採らなかったのが前政権です。
知らん。誰か教えてください
また、景気が良かったため、正規就職しようと思えば比較的簡単に就職できた時代でもあったので、人生設計上の問題も生じなかった。こうして、自分の好きな時間帯に働く事ができる“新しい雇用形態”として、学生のみならず一部の社会人の間でも重宝された。[6] また、1986年7月1日に労働者派遣法(通訳、航空機操縦士、プログラマーなど専門技術を持つ者のみ対象)が施行されると、一つの会社に所属するのではなく、不特定多数の会社と契約を結んで生きるフリーエージェントのような生き方をする若者が発生した。
これが当初のフリーターの発生経緯であり、初めの頃のフリーターは“不安定な雇用”ではなかった。 フリーターの状況が一変したのは、アルバイトの賃金が急速に落ち込んだバブル経済崩壊後である。
もともとフリーターって言葉ができた頃には「悪い」意味で使ってる人なんてほとんど居なかったんだよ。
もちろん、いつの時代も老人達はそんな自由な生き方をする若者を否定しては居たが、
上にもあるように、まさにお前ら大好きな「フリーエージェント」と言っても過言では無い働き方だったんだよ。
日本政治のセクハラ、子を持つ女性に世界最悪の賃金差別=男性のわずか39%、OECD30カ国平均の半分
http://bylines.news.yahoo.co.jp/inoueshin/20140621-00036611/
統計数字だけ見ると絶望的な国に見えますね。私も絶望してます。
理想を言う割に何でこうなるのかをちっとも勉強しない人の多さに。
理想だけ言ってれば誰かが何とかしてくれるという姿勢が染み付いているのかもしれません。
お金に余裕がある大組織orお金の心配しなくていいお役所とお役所的な組織、
歴史的慣習的に女性労働者が主であったため産後育児と業務の両立に対応した業務形態をとっている産業企業、以外は
やはり労働法規での規制が多い http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/bukyoku/koyou.html 女性労働者の正規雇用を敬遠するでしょう。
ポジティブ・アクションだとか、安全圏からバカが何かわめいても前線の人たちは聞き流すだけです。
従業員の給与は販売費及び一般管理費で、多ければ多いほど企業の利益を圧迫する。
http://kabukiso.com/apply/zaimu/pl.html
何とかならないのか?と思う人が多いかと思いますが、私のようなアホでも思いつくくらい解決策は単純です。
でも、もしかしたら福島原発事故まわりを収束させる程度に面倒なので誰もやりたがらないだけです。
どうするか。それは、高度経済成長期~バブル期の方法を全否定すること。
しかし、そもそも日本の経済成長自体がアメリカに国防丸投げして予算を浮かせ、戦争特需で儲かったカネを経済振興に突っ込んだだけのごっつあんゴールです。
考えることから逃げるために働くのやめましょうよ
成熟期に入った日本国に適用して存続する方法であるわけがありませんね。
『高度経済成長期~バブル期の方法の全否定』とは?箇条書きにしたいと思います。
・・・ね、誰もやりたがりたがらないですね。
親元から遠く離れた土地に核家族世帯を作るライフスタイルは専業主婦と同様に戦後の一時期だけのものです。
地域密着人口 http://tmaita77.blogspot.jp/2011/08/blog-post_03.html
共働きと親世代との同居はセット http://allabout.co.jp/gm/gc/12462/4/
行政が何とかしろ ⇒ 実現するためのカネはどこにあるの? http://www.kh-web.org/fin/
また、勤続年数が永ければ無条件に昇給する年齢給の賃金システムを採用しているのは
日本くらいであるらしく、http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/rxr_detail/?id=20090416-90006696-r25
実はこれが新卒フリーターや中高年無職、育児のために離職した女性の再就職を阻んでいます。
「○○歳なら、これぐらいの業務能力がなければならない」とリアルで言われたことがありますが、少し考えただけでもキチガイ沙汰ですね。
でも企業はお金儲けのために人を雇い、人を退職に追い込むわけで、制度を変えれば必ず被害を被って不平不満を言う人が出てきます。
勤続年数=年齢が高いほど高賃金のシステムで得をしてきた人々をどうやって説得するか。企業だけを悪者にすることは難しい。
定年までの生活を保障しないんなら、年齢給をやめれば良くね?という発想に至るのは自然であるわけですが、
そうするとおびただしい数の既得権益層=中高年世代が猛反発して口にしただけでもそのような政治団体は選挙で負けてしまうわけですね。
あと、公的年金制度。歴史を紐解けばわかりますが、本格的に整備されたのはGHQがやってきてから。
サラリーマンとお役人優先で、それ以外の人は後回しにされるという特徴が日本の社会保障制度にはあります。
厚生年金のモデル年金は、これまで、片働き世帯、すなわち夫は財政再計算の基準年当時の現役男子の平均的な標準報酬月額を得ている被用者であって、
厚生年金に標準的な期間加入しており、妻は厚生年金にまったく加入したことがないという夫婦世帯を標準的な世帯として、標準的な年金額を示してきている。
わけですが、共働きが増えて妻子持ちであろうが定年前に容赦なくリストラされる時代には全く合っていませんね。
徐々に変わりつつ有りますが、国民年金より生活保護のほうがお得というシステムを是正するには時間がかかります。
もう読む方もめんどくさいでしょうから結論を言うと、女性の雇用形態及び賃金の現況は単一でない、複数の要因による構造的なものなので
改善しようと思えばMacのPCを中身だけwindowsにしましょうというような事が求められているのですよ、ということです。
個人的にはバブル経済で良い思いをした世代が自力で投票に行けないくらい老いた時代にならないと変わらないのでは?と思っています。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/9484.html
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/2473.html
また女性に産まれたいと思っている
易きに流れるのも手かもしれませんね。
なんだか違和感があるのです。
なんでそんなしょーもない嘘をついたんだろう。
意図的というより、都合よくナチュラルに嘘をつくタイプかしらん。
http://d.hatena.ne.jp/Chikirin/20080810
ちきりんは「古き良き時代の日本企業」で働いた後、極端にアグレッシブな人事制度をもつ米系の投資銀行でも働いたことがあります。
転職前には「そのうち日本企業も年功序列や終身雇用を維持できなくなる。だったら早めに欧米的な組織環境に慣れておいた方がいいよね。」と思っていました。
けれど実際に外資系企業で働いてみてわかったのは、「こんなに高いプレッシャーの下で楽しく働けるのは、ごく一部の人達だけだ。大半の人はこんなところでは力が発揮できないだろうな・・」ということでした。
http://bizmakoto.jp/makoto/articles/0907/23/news018.html
ちきりん 私は普通に大学を卒業し、大手の金融機関で働いていました。しかしそこを退職し、外資系の投資銀行で働こうと思ったのですが、その会社は日本の大学を卒業した人を相手にしていなかった。米国の大学を卒業していないと、「最終学歴を満たしていないわよ」といった雰囲気。
「じゃあ私も海外に留学しよう」ということで、27歳から2年間、海外で過ごすことに。そして日本に戻って来て「また金融機関で働くか……」と考えたのですが、当時はバブル経済がはじけたばかり。これから“落ちていく”業界を選ぶよりも「違ったところのほうがいいかな」と思い、今は畑違いの外資系で働いています。
●1986年 – 1991年 日興證券 引受本部(当時)勤務
●1991年 – 1993年 University of California at Berkeley, Haas School of Business (MBA)
●1993年 – 2010年 McKinsey and Company, Japan 勤務
・1993年 - コンサルタント(Associate, Engagement Manager)
バイオの今までの数年の動向と現状、そして進路について思うことを書いてみたよ。
受験生やバイオ系の学生さんに進路を考える点でちょっとでも参考になればうれしいよ。
数年前までバイオがとても注目されて、クローン技術、移植医療、ヒトゲノム計画、遺伝子組み換え食品などが
有名になったよね。
では今はどうかと言えば、そんな言葉見る影もない・・。
あれだけ騒いでいたマスコミ連中は「これからはナノテクの時代」などと別なことをほざくようになって、
バイオなどどこ吹く風・・・。当時、理工学系の学部で最もレベルが高かったのは紛れもなく「バイオ系学科」だったのに、
いまは最もレベルが低い学科に成り下がってしまっているみたい・・・。
受験生の間では、
クローン羊ドリーの誕生によってクローン技術が世界で騒がれ、はたまた脳死患者からの日本初の臓器移植、あるいは、
世界規模で行われていたヒトゲノム計画の激化、夢のような食品を作ろうと考え出された遺伝子組み換え食品、まさに
それと同時に「バイオは倫理観が伴う非常に難しいもの」と倫理性も問われるようになったんだ。
例えば、「クローン技術や遺伝子組み換えは自然が作ってくれた生物の存在を根底から覆すものだ!」って
非難を浴びたし、「脳死患者からの移植は倫理的に問題がある」ってお偉い方は慎重だったし、
ヒトゲノム計画は、「それによって人の遺伝子が分かることでその人の人間的な価値まで判断されてしまう!」
なんて言われていたんだ。
これを読んでいるみんなもこれらのことは知っている人も結構いるだろうね。
倫理観まで問われるってことはそれだけバイオが注目されていた証拠でもあるよね。
じゃあ、あれから数年経った今はどうかって言うと、悲しいけど全く言われなくなっているよね。
それともバイオはみんなを幸せにしたからもういらなくなっちゃったってこと?
繰り返すけど、1990年後半は紛れもなくバイオブームだった。
でもこの言葉って罠がある。
あくまで1990年後半はバイオ"ブーム"ってわけで、バイオの時代が来たっていみじゃなかったんだよね。
ここに大きな問題点がある!マスコミ連中が報じる「これからは○○の時代」って言葉には注意が必要なんだ。
(2)それを大々的に報じる
(3)そして世間がそれに食いついてきたら「これからは○○の時代」って報じる
と言うやり方があるんだよね。
だから「これからは○○の時代」と言われても本当にその時代が来るかどうか誰にも分からないよね。
確かにそれを報じた時やその数年後はその○○が注目されるけど、それ以降はまた別な◎◎が注目されるようになって、
「これからは◎◎の時代」ってふうに話題がすり替わっているものなんだ。
では、この前後で科学の世界ではどういったブームがあったかを振り返ってみよう。
年代 | ブーム |
---|---|
1985~1990 | バイオブーム(利根川先生のノーベル賞がきっかけ) |
1989~1994 | 地球環境ブーム(→農学部の大幅な改組) |
1995~1998 | 大型基礎研究施設ブーム(SPring-8、スーパーカミオカンデ、地球シミュレーター) |
1998~1999 | ITブーム(正確にはIT革命ブーム) |
1996~2000 | バイオブーム(クローン技術、移植医療、ヒトゲノム計画、遺伝子組み換え食品) |
2000 | ヒトゲノム計画のドラフト(概要)が完了 |
2000 | ITバブル崩壊(IT不況へ、しかし近年持ち直す) |
2001 | (このあたりからバイオが騒がれなくなる) |
2002~ | ナノテクブーム |
2003 | ヒトゲノム計画が完全終了(しかし世間はすでに見向きもしなくなっていた・・・) |
あれあれあれ??!1985~1990年にもバイオブームがあったんだ~。
実はこれ、利根川先生がノーベル賞を取ったことを機にかなり盛り上がったみたいなんだ。
当時バブル経済まっただ中で、いろいろな企業もこぞってバイオの研究をするようになっていたんだ。
電機メーカーが線虫っていう虫の脳神経を調べたり、神経細胞が伸びていく方法を利用して半導体の
でも、バブル経済が崩壊したらそれらのメーカーもバイオの研究をやめちゃったんだ。
バイオの研究って他の分野の研究とは違ってきちっとした方法論が確立されていなくて手探りでやるから、
本業で稼ぐのが一番ってことで電機メーカーは撤退しちゃったんだ。
その次の1995~1998の大型基礎研究施設ブームっていうのは主に物理学の世界で、宇宙とか素粒子
(原子を構成しているもの)を研究するのには大型の研究施設が必要ってことで各地に建設がされたということだよ。
当時マスコミ連中が言ってた言葉は当然「これからはITの時代」。
2000年にヒトゲノム計画のドラフトが完了したことで、当時マスコミ連中はバイオの倫理について大騒ぎしたんだよね。
でも、これを境にだんだんとバイオが騒がれなくなっていったんだ・・・。
これとは対照的に2002年くらいからナノテクがだんだんと報じられるようになってくる。
2003年にヒトゲノム計画が完了したときにはもう誰も世間の人は見向きもしなくなってしまっていたんだ・・・。
何でだろうね・・!?
2つ目は同じことの繰り返しで真新しさがなくなってしまった場合。
1つ目にあたるのは、ヒトゲノム計画だね。
当時は人の遺伝子が全部分かれば、病気の原因も分かるようになるって注目されたけどそんなことは全然ないよね。
結局、遺伝子解読したから何が分かると言えば、その遺伝子の配列が分かっただけ。
それ以降には全然進まない。
だってどの遺伝子が原因は結局は実験をしてみないと分からないものだから。
ヒトゲノム計画は学問的にも産業的にも利用価値がなかったってわけ・・・。
ヒトゲノム計画の時にアメリカのある企業ががんばっていたんだけど、終了後はこの計画にあまり意味がないことに
ヒトゲノム計画はそんな程度だったみたいだね。
2つ目の理由に当たるのは、クローン技術や脳死移植、遺伝子組み換え食品だね。
その後はあまり技術的な革新はないから(クローン技術はその対象を広げたけどそれ以上はないし)、マスコミ的には
何かフタを開けてみるとあっけないよね・・・。
それにしてもいろいろなブームがあったんだよね(皮肉/苦笑)。
ブームってのは確かに山があって頂上まで行ったら後は滑り落ちるだけってのは分かる。
でも科学の世界ってそんな短期間で語れるようなブームで動いているわけ!?答えは「それは正しくない」よね。
今まで言ったように科学の世界のブームは単純にマスコミが作り出しただけで、実際の科学の研究はもっとコンスタントに
行われていて、確かにある分野が注目されるときはあるけどそのあとは見向きもされなくなるなんてことは変なことだよ。
だって見向きもされなくなるってのはその研究が価値がなかったってことが分かったってことなんだからね。
でも、世間の人はそういうたった数年のブームにのせられてしまうし、多感な受験生なんてそれだけを信じて進路を
「これからは○○の時代」ってフレーズに載せられてその○○の分野に入学しても自分がいざ研究や就職を
しようとするときには世間は完全に見放していたなんてことになったら、いったい何のためにその分野を
バイオの研究者は生物をどのように解析するか?それは文字通り「ただやみくもに」って言葉がぴったりな方法なんだ。
びっくりしたでしょ?ぼくはバイオの研究の問題点は3つあると思っているよ。
1つ目は、生物学の研究方法では他の分野(特に物理学や化学、工学)のように原理原則を見いだそうとは
されていないこと。だから生物学の研究方法はまるで『錬金術』のように「訳の分からない遺伝子をやみくもに入れてみたら
どうなる?」とか、「この薬品とこの薬品を入れてみたらどうだろう?」ってふうに原理原則を見いだそうとせずに、
結果さえよければそれでいいって感じでやっているのが現状なんだ。
錬金術ってのはみんなが小学校・中学校で習ったと思うけど、昔の人は金属ごとに違う原子でできていることを
知らなかったから、鉄やアルミニウムから金を作ろうと必死にいろいろな方法を試していたんだ。
これらの原理原則を知っている現代の人から見ればバカバカしいことだけど、残念ながら生物学の研究は現在でも
2つ目は1つ目とも関連があるんだけど、生物学の源流が『博物学』であるから、その博物主義的な発想から
抜け出せないところ。みんなも博物館に行けばいろいろな昔のものが陳列してあってどの時代にどのようなものが
あったかよく分かるよね。でもそれが分かったところで今の自分の生活には活かせないでしょ?それと同じで生物学も、
その対象が動物・植物から細胞・分子レベルにまで移ったのに、やっていることは昔の生物学者がおもしろい生物種を
追い求めて野外を駆けめぐったように、今の生物学者も同じ発想で遺伝子や細胞の中で働いているタンパク質を
発見することに全力を注いでいるよ。そしてそれに名前を付けて陳列して「どうだ!オレはこんなにたくさんのものを
発見したんだぞ」って威張っている状態なんだ。
だから、そこから一般的な原理原則を見いだすことはないし、それを何かに役立てようって雰囲気も全くないんだ・・。
表向きは生物学は理系に属しているけど、理系らしさの証でもある数学・物理学・化学を駆使して数理的に
解析するなんてことは絶対にない。
そういった解析をしている学者は生物学者ではないんだ(苦笑)。
確かに生物と言えども自然界に存在するものはすべて物理化学的法則に縛られているから、その方向からの
解析が必要になるはずだけど、生物学は博物学の流れを持っているからそのような部分には生物学者は
見向きもしないんだ。
文系でも経済学や心理学、社会学では数学を結構使うから、生物学者は文系以上に
それだったら何のために大学入試で数学や理科をやってたんだよって感じだよ。
しかも、生物学の研究には多くの機械を使うけど、生物学者は機械の原理や中身の動作については
全く分かっていないんだ。機械のボタンを押せば何か分からないけど目的の研究ができるってふうにしか
機械を捉えていないから、機械がうまく動かないときは自分で直したりせずに修理を頼むんだ。
その間はだたぼぉ~って待つだけなんだ(笑)。他の理系の研究ではまず考えられないことだよね。
大事なのは、世界のバイオ機器を支えているのは電気工学と機械工学で、この2つがなければバイオは
ダメになるということ。でもバイオの人たちは、自分の研究が電気工学と機械工学に支えられていることに
全く気づいていないんだ。それなのに自分達だけでバイオの研究をしているって勘違いしている部分がヤバいんだよね。
バイオの人間はもっと発想を変えて、理系らしくすべきだと思うけど、みんなそんな意識はなくて毎日朝から晩まで、
続きは
まず、金利という考え方に疑問。
今は昔と時代が違って、実に40%以上の企業が無借金経営で、金余りの時代による負の金利時代。
欧米でも日本でも、内部留保をどう投資に回すか?という時代で 金利は関係ない。
だいいち、インフレを起点として利益が2%増えたとしても、通貨価値が2%下がっているので、それは利益ではない。数字のマジック。
その数字のバブルがはじけたのが、正にバブル。よって、本来、 決算からはインフレ分を引いた 実質利益を株主に示したりするようにすれば
デフレなら通貨価値のぶん企業業績が上がるんだから 問題がない。
10%のインフレ時に、10%利益が上がっても、それは外的要因であり、企業の内部要因ではない。それを評価するのはオカシイ。
だいいち、額面ではなく、通貨価値を考えれば プラマイ0だから利益は出ていない。 額面利益ではなく、実質利益が必要。
でなければ、それは バブル。
そして、その10%の中から、たとえば、役員報酬5%などを受け取るとしたら、 実質は マイナスになっている。
そんな、バブル経済をもう1度というのは勘弁。
言い方を変えれば、インフレ率2%の経済で、利益率が1%なら 実質はマイナス1%の通貨価値減損だろ。
帳簿上の利益ではなく、実質利益で説明して欲しい。その場合、企業は内部留保を使うので、金利は0%だとおもわれる。
また、現在は中国は先進国だが、もともとは経済面は発展途上国であり、先進国ではない。先進国の殆どはデフレ化しているという事を考えると
中国など発展途上国がインフレしているのは当然。 なぜなら、先進国との物価格差が縮まっているから。
言い方を変えると、先進国と発展途上国のグローバル化による物価格差の是正がデフレ圧力の要因の1つではあるのに、
なんのデータも見ないで,知識なく想像ですが、安直なストーリーですが考えます!!
wikipediaの薬価差益の項参照 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%BA%E7%99%82%E5%A0%B1%E9%85%AC
A郡とB郡の相乗効果
好きなものをその時々に応じて「価値がある」とか「美しい」とか「建設的だ」とか自分勝手に賞賛する
…いやごめん、それは憶測かもしれん。
でも高確率で人は好きなものを自分の周りに置こうとしたり、追い求めたりする。
わざわざ自分の嫌いな曲を集めて聴く人なんてまずいないし、
苦手な人と付き合うという人も…いるかもしれないけど苦痛だと感じているかもしれない。
(自分が何かを嫌うという「対象への嫌悪」それ自体を好む人はいると思うし、実際にいる)。
ネガティブな発言は人を不幸の方向に導く。
不幸せになりたい人なんてのはほとんどいなくて、みんな自分が幸せになりたくて必死だというのが現状だ。
金がほしいし、
恋人がほしいし、
仕事したくないし、
気ぃ遣うの疲れたし、
時間がほしいし、
休みたいし、
あのボケナスの脊髄ひっこぬいてフニャフニャにしたろかっておもうし、
あー遠いなー 幸せって。
だからまあ、どこの誰かも知らん人のネガティブ発言を聞いてるヒマなんかこれっぽっちもない。
ストレスばっかりたまっていく。
もうちょっと説得力のあるというか、全体の最大幸福のための話だと、
要するにネガティブな発言を吐いても、主体も客体もだれも幸せにならない。
(私はいいけど)他の人が迷惑するからやめろ、という感じで主語が大きくなる。
ネクラではない「明日が楽しみな人たち」は、自分が幸せだと周りも幸せになるということを知っている。
その逆の発想で自分の不幸を拡散すれば周りも不幸になってしまうじゃないかとかなり注意勧告される。
更に明日が楽しみじゃない人たちにとってもこの説はけっこう支持される。
糾弾されるのはネクラでネガティブ発言をやめられない人たちだけになってしまった。
(ベテランのネクラになると自分をネガティブな気持ちに落としこむことですら快感になったりする。
それでもネガティブな発言をする人はあとからあとからどんどん増えていく。
仕事場や学校でたまるストレスを愚痴として発散するのと似ている。
みんな人生という仕事場でたまったうっぷんをちょっとでもごまかしたくてネガティブ発言をする。
「イヤなら見るな」と言われてもムリだ。
あーじゃあ、そういうネクラな人の心理状態を鑑みて、慎重になってネガティブ発言は見逃してあげるべきなんだろうか?
友だちのグチを聞いてあげることは許して、ほかの人のグチは聞かないし許さないだなんて不公平なのかも?
そんな誰かが割を食うような解決方法はイヤだなあ。
ネクラな人だって「我慢してやってんねんぞ」みたいな態度を感じると気ぃ悪いわ。
できればwin-winの関係がいい。
もうちょい考えを深めてみよう。
論争が起こることのそもそもの疑問が二つある。
ネクラな人たちにとってこの世界は、悲しみとか怒りとか醜さとか無意味とか悪に溢れているように見える。
しかし、もっと冷静になって考えるとそれは世界の一側面でしかないことに気付く。
ネクラな人たちが見る世界と同じくらい、そこには楽しみとか喜びとか美くしさとか価値とか善がある。
実際、自分を劣悪な環境に置いていれば、どんどんネガティブになっていくけれど、
ちょっと笑える話を聞いたり、
お酒を飲んだり、
気の置けない友だちと話したり、
引越ししたり、
仕事をやめたりするだけで、なんかちょっと楽しくなる。
環境の改善する度合いが高ければ高いほど(つまり劣悪な環境から離れれば離れるほど)、
(世界が変わるのを期待して待っていても、その前に狂うか死んでしまうかもしれない、
もっと悲惨なのは、より悪い方に世界が変わっていくかもしれないということだ)。
ぼくの書いたことがもし正しいとすれば、ネガティブな発言を我慢するだけでない、もう一つの道が見えてくる。
世界のことをよく知っている人がいるならば、この世界はどうしようもないと思っている人に向かって
と教えてあげることである。
これがやはり根本的な解決となる。
できれば言葉で教えるだけでなく、一緒に楽しいことをするといい。
言葉による理論ではなく体験による感動で理解してもらうといいんじゃないかな。
人にはその避けがたい特性があるから、誰か忍耐強い人が世界の素晴らしさを説く前にケンカが起こってしまうのだ、
たぶんね。
しかし、だからといって個人的には「対象が嫌いだ」という感情を封殺してしまいたくはない。
人はなるべく朗らかに、全てを愛する博愛主義者のように生きたほうがいいんだろうか?
そんなせまっ苦しい考え方のために人が生きているとは思えないし思いたくない。
人はもっともっと多様な価値観や考え方を持っていいと思う。
ニューギニアの島では弔いの儀式として食人の文化があった気がする。
今はない?
かならずしも弔いのために用いられた儀式ではない?
それを野蛮で邪悪な悪習だと言えるのは現地人でない人だけである。
アフリカの牧畜民ヌアのコミュニティでは、不妊の妻にかわって姉妹が夫の子を生んだり、
またその逆や、あるいは夫が子を持つ前に死ぬと兄弟が亡兄の妻との間に子を作ることがある。
前者の場合は夫の子であり、後者の場合は弟の精子で宿った命でも、亡き兄の子どもということになる。
この社会でいう夫とは、彼らの生業手段である蓄牛を婚資として支払ったものだ。
日本では親子関係は血のつながりなんだけど、彼らは牛のつながりであって、
ぼくらは彼らをバカにする時、彼らはぼくらをバカにするのだ。
「血のつながりってwwwwwつながってるわけないやろwwwwww」
ある事象に価値があるとかないとかって判断してしまうのは多くの場合、
特定のコミュニティ内でしか成立しない狭い考え方による独断と偏見でしかないのかも。
あれ?ちょっとまてよ…。
ぼくさっき”個人的には「対象が嫌いだ」という感情は封殺してしまいたくない”と書いたよねえ?
んで、
今その理由を書いたよねえ。世界にはいろんな価値観を持った人がいて、
それを認め合っていいんじゃねーの?みたいな。
「みんなちがってみんないい」論法。
でもちょっとまって。
ネガティブな発言をする人は、世界を(あるいは自分を)嫌悪している。
バーロー「あれれー?どっちの人たちも{きらい}って感情は同じだねー。」
そうなのだ。
ネガティブな発言というのはポジティブな感情ではない。絶望とか嫌悪感の表出なのである。
ネガティブ発言を許せないという人は「○○が嫌いだと、人が言うことは嫌いだ」と言っている。
これはなんともバカバカしい話だ。
自分の嫌いは認められても、他人の嫌いは認められないと言っているのだから。
ぼくは個人的にはみんなちがってみんないいと思ってるんやけど、
その前提が成り立つことを許してもらえるなら、
「自分の嫌いを認めるなら、他人の嫌いも認めていいんじゃないか?」
ってことになる。
そうじゃないと「ネガティブ発言やめろ!」と言うたびに自分のクビを絞めてることになる。
ブーメランが飛んですぐに返ってきてる。「あんたがやめろよ…」と。
このバカバカしさは「ネガティブ発言をするな」という注意喚起のけっこうな抑止力になるかもしれない。
わーい!ぼくらは誰のことを嫌いと言ってもいいんだぞー!
○○のバカヤロー!!必死に走って間に合わずに目の前で電車のドアが閉まってしまえー!!!
というわけで
これでみんなハッピー?かな?
間違ってるかなあこれ?
2つ目は若干強引な感じもするから、もっといい方法あったら教えてほしいな~◎
ここまで読んでくれてありがとうございました。
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追記
現段階で寄せられたコメントにできる限り返答していきたいと思います。
どうしても批判のほうに目がいってしまって精神的にキツいです。
お前が一番ネガティブなんじゃね?って誰か突っ込んであげるべきだと思うの
ぼくはたぶんネガティブなんだと思います。ポジティブそうに見える書き方になっていますが、
ネガティブさを排斥しようとする状況が見るに耐えられないのです。
せめて「死にたい」ぐらいは言わせてほしいのです。ほんとに死なないために。
そういう人がたくさんいると思うんです。たぶん。
殺したくないんです。
ごめんなさい。生きててすいません。
生きてるんじゃなくてまだ死んでないだけのような気がしています。
ぼくはあなたのような人と共に生きたい。許しあいたい。強い人が怖い。
よかったらぼくのブログを読んでください。
http://d.hatena.ne.jp/yukkun1986/
新人の頃、意識的なマイナス思考が仕事には重要だと教わった。物事のいい面よりも隠れた危険性を常に考えろという「かもしれない運転」的なやり方
建設的なマイナス思考ですか。たしかにそれはいいのかもしれないですね。
未来という不確定性を検証するための思考はプラス・マイナス関わりなく可能性の一つとして考える余地があるのかもしれない。
ぼくはなんの役にも立たない(かもしれない)マイナス思考も封殺したくない。
あとでよむ
お願いします。
そうだね~、「いけない」ていう義務的じゃなくって、「いいたくないなぁ」ってね、うん。
誰も傷つけたくないのですが、それよりも自分が傷つくことのほうが怖かったりします。
これに関して自分は結論がまだない
ぼくもたくさんの意見をいただいて、
これで終わりにすべきではないと思いました。
そうなんです。相手の気持ちを考えることができれば、ぼくらは少しは寄り添えると思います。
問題は、双方にその余裕があるのかということです。
個人的にはぼくたちはもうちょっと相手を褒めたり、甘やかしてもいいんじゃないかと思います。
もうこれ以上人が病んでいくのは、堕ちていくのは耐えられない。
結論は俺も同じ考え。
現状が少しでもラクになればいいんです。
死ねばラクになれる、みんながもっと優しくなってもきっとラクになれる。
ぼくはどうせなら後者のほうがいい。
わーい。ネガティブ発言してもいいんだー(違)
ぼくはそれを咎めません。咎められません。
でも彼らを嫌いになれないのです。
ぼくがもうちょっと社会的に弱い立場だったら、
その立場を利用して言い返すこともできたのに、だなんて
【一番いけないのは、お腹が空いていることと、一人でいること】という話。
どこかで泣いている人がいたら、笑わせるんじゃなくて
バーローww
ちょっと悪ノリが過ぎたかも知れません。
でもあなたが喜んでくれるなら、それはよかった。
注意喚起くらいなら別にいいよ。強制力もないし、カウンターできるし。ポジであれネガであれ、みんなで同じ方向向いてるのが一番キモい
カウンターできません。
ぼくが正しいとか間違ってないなどとは思えないのです。
ちきりんさんが最近おすすめしていた「若者殺しの時代」という本の中では
バブル経済のことを「国中上げて間違ったことはやってないだろうと思っていたのだ。」と表現していました。
ぼくが合ってるとも思えませんが、じゃあ世の中の望むべく方向が合っているのかと考えると、
ポジティブ思考のイケイケで日本は負けただろwww / 「文句言う前に努力しろ」の一言で様々なデモが潰れちゃってるんだよね、それ一番言われてるから。
ぼくはネガティブで、基本的にネクラだと思います(たまにはポジティブにもなりますが)。
「文句言う前に努力しろ」の一言でいったい何人が死んでいるのだろうと思うと、ほんとうに恐ろしい。
暗い人は四六時中年中無休で暗いわけではなく、暗いことを言う確率が高いのでは。明るい人も同様。10回会って7回暗かったら70%の暗い人確率/キャラってやつなのかしら
そうだと思います。
ネガティブな発言が少しでもその人の気を紛らわせることができているのなら、
それでまだ死なないでいてくれるなら、死んでしまうよりははるかにマシだと思います。
ネガティブな発言をしている人間はネガティブ志向と解釈してしまう時点で説得力が無い。ネガティブな事をいう奴は人生を面白がっている奴も多い。ポジティブバカのように人生を楽しもうとはしてないかもしれないが。
これはたしかにそうだと思います。ネガティブ発言を風刺漫画のようにコメディに昇華する人はいると思います
(その喩えが適切かどうかはわかりません)。
読みにくいけど、今抱えてる問題意識に近かったので読んだ/かくして、「そんなネガティブ発言してると、世間からうざいやつだと思われちゃうよ」という太宰メソッドで注意勧告する羽目になって自己嫌悪するわけよ。
人間失格にある
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
自己嫌悪するしかないほど逃げ場がありません。もう首を絞めつくしました。
ぼくはそれをどうにかしたい。
何かを貶める発言をするなら逆の考えの人達から反感を買うくらいは覚悟してないとそれは甘え。反感を買ってでもする意義があると思う発言だけすればいい。
甘えたいです。ごめんなさい。
ほんとは人をイヤな気持ちにさせたくないです。ごめんなさい。
自分にウソをついて「大丈夫です」と言う度に、自分が嫌いになっていく。
皆でネガティブ言い合って皆でそれを嫌い合う。それが公平なのかも。どちらかが我慢するのはどうかな?/寛容さは大切だと思うけど。。
例えば、学校でデブな同級生に向かって「やーいデブ」と悪態をついて、
ひるんだり、へこんだりせずに「デブで悪かったな!」と言い返せることが対等で良い関係を作るのかもしれません。
乙武さんはそういうことをやっているので、みんなが彼のように強くなれればいいなと思いますが、現実はそうはいかないですね。
メンタルの弱い人に救済を。
あなたは素晴らしい人だと思います。あなたのような人が救いになるんじゃないかと思います。
出家するべき
今も思っています。
「ネガティブ発言を許せないという人は「○○が嫌いだと、人が言うことは嫌いだ」と言っている。これはなんともバカバカしい話だ。」…「フジテレビが嫌いだと、人が言うことは嫌いだ」と言っている人は多いね。
誰のこともあまり嫌いになれない(苦手な人はいます)ので、嫌いだと言ってる人に遭遇すると混乱してしまいます。
長期的な幸せを望みます。それと同時に短期的な不幸・死の連鎖を止めたい。
それらが同時にこなせたらどんなにいいだろうか。
何が間違っているのかぜひ教えていただきたい。
前にポジティブシンキングだかの企業が倒産したような。見えてる世界で綺麗醜いを言うことはプラスマイナスはないのかな。それをどう思って聞くか言うかでかわるのかな。
解釈の違いで人の反応は変わるかもしれません。
そういう人たちは怖いですが、ぼくには彼らを叱りつける権利がない。
しかし、気に入らないという思いが誰かを殺しているのかもしれないならば、
ぼくはこのケンカをやめさせたい。
ぼくもそう思います。
もし、将来ネガティブにならざるを得ない状況がひっくり返ったとしたら(つまり誰もが「明日が楽しみな人」になったら)、
根本的な解決になるかもしれませんが、その分ネガティブ発言への風当たりの厳しさは増すだろうと憶測します。
だから、やっぱり「それでいい」ということにしたい。
ぼくはもっともっと慎重になりたい。
間違ったことをしたくない。だから、