はてなキーワード: ジョン・スチュアート・ミルとは
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Auguste Comte
Flag of France (1794–1815, 1830–1958).svg フランス共和国、オクシタニー地域圏エロー県モンペリエ
イジドール・オーギュスト・マリー・フランソワ・グザヴィエ・コント(フランス語: Isidore Auguste Marie François Xavier Comte、1798年1月19日 - 1857年9月5日)は、フランスの社会学者、哲学者、数学者、総合科学者。1817年からアンリ・ド・サン=シモンの教えをうけ、助手を務めたこともあったが、1824年にけんか別れした。1841年から1847年までジョン・スチュアート・ミルと親交があった。「社会学」という名称を創始し、彼の影響を受けた英国のハーバート・スペンサーと並んで社会学の祖として知られる。『社会再組織に必要な科学的作業のプラン』、『実証哲学講義』、『通俗天文学の哲学的汎論』、『実証精神論』などの著作がある。生涯を在野の学者として過ごし、パリで死去した。
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まず最初に、こちらフェミニスト業界では、昨今の性教育関連エントリの各所でのプチブームを、大変嬉しく思っていることをお伝えしておくよ。
本当は、性教育を語るには、セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス・ライツ(性と生殖に関する健康と権利)から入らなきゃいけないんだけど、ちゃんと書くとそれだけで元田が眠くなるくらいの長い記事になるので、ここでは簡単に触れるだけにするよ。
セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス・ライツ(SRHR)とは、男性も女性も、それ以外の性別の人も、同性愛者も異性愛者もそれ以外の性指向の人も、とにかくあらゆる人が性(性欲を満たすこと。以下、セックスとしよう)や生殖(子どもを産み育てること、以下、出産・育児としよう)に関して自分の意思を持つことが許され、その意思が尊重され、セックスや出産・育児についてのやり方を自分で決めることができる権利のことだ。
例えば、親や親戚、近所の人に「あんた長男なんだから、はよ結婚して子ども産みなさいよー」って言われて無理やり見合い結婚させられるのは、SRHRの侵害だ。逆に、結婚して子どもを産み育てたいのに、「あんたには家事・介護をして欲しいから結婚は許さない」とか、望まない妊娠(これ自体がまずSRHRの侵害だ)をした時に、産もうと決心した女性を無理やり中絶させたり、逆に中絶しようと思った女性を法律や説得で無理やり出産させるのはSRHRの侵害だ。
セックスと出産に関する体の部品(男性なら主にペニス、女性なら主に子宮)の使い方、政治家さんの好きな言葉を流用するなら「子どもを産む機械」は、持ち主である男女が自分の意思で自由に使い道や使い方(使わないことも含めて)を決める権利だ、と言ってもいいかな。
純潔も、淫乱も、本人の好きにすればいい。ただし、他人に迷惑をかけない(他人の道具を相手の同意を得ずに使わない)ことが条件だよ。ってことね。あと、好きに使うためのメンテ(性感染症の予防や、妊娠出産に伴う医療リスクの軽減)ができる環境が、全ての人に与えられなければならない、っていうのが、SHRHの考え方だ。
そんでね、性教育っていうのは、この権利について学ぶ、人権教育なんよ。
元田も、多分これを読んでくれる多くの人も、日本で育っていれば性教育っていうのはほとんど受けたことがないと思う。保健体育でちょこっと生殖の仕組みについてやったり、性感染症について学んだり、あと女性なら初潮が来る頃に生理について学んで生理用品のサンプルもらうくらいかな。
でも、実はこれは国際的に見るとかなり遅れている。
国際的に、って言ったな。うん、言った。
実は、ユネスコが「性教育の国際的ガイドライン」を出してるんだ。英語、フランス語、中国語などはここで見れるよ(これは2018年の改訂版。初版は2008年に出されている)
https://unesdoc.unesco.org/ark:/48223/pf0000260770
https://www.akashi.co.jp/book/b297731.html
性教育は、「性の認知、感情、身体、社会的な側面を学ぶこと」というのが、ユネスコの定義だよ。これは通称「包括的性教育」と呼ばれる。
日本でやることは、あくまで身体面の、生物学的な性(というか生殖)についての教育でしかないんだよね。でも、「包括的性教育」では、自分と他人の体の仕組みを学び、それに自信を持つことから、他人を尊重すること(ここには、シスヘテロでない少数派の人たちの多様性を理解し、尊重することも含まれる)、自分と他人の感情を理解・尊重することなども含まれる。当然、セックスの前の合意の確認の仕方や、嫌なら嫌と言っていい(むしろ言うべき)っていうことも教わる。
この手の問題になるとよく「セックス同意書ないと安心してセックスもできない」と言い出す人達がいるけど、その発言自体が日本に包括的性教育が欠けているということの証明になってるわけだね。(日本では性犯罪の構成条件が難しすぎて現実的に無罪になりやすい、というのは、それとはまた別の問題だ)
そう考えると、男子が生理を含む「女性の生殖器の特性について知ること」と、女子が勃起や射精を含む「男性の生殖器の特性について知ること」は、表裏一体なんだ。
同時に、男女それぞれが自分の生殖器について理解し、例えば男性なら「仮性包茎は問題ない」とか、女性なら「生理の辛さには個人差があるから、必要なら産婦人科に診てもらう」とか、知識を持ってきちんと自己管理することを学ぶのも、性教育の大切な意義だ。
さらにいうと、男女問わず子どもが性的なパーツを触られた時に、「それは犯罪であり、拒否する/拒否できなかった(暴行された)時は、大人に報告するべきだ」という理解を持つことに持つことにもつながる。
実際のところ、未成年の性的虐待っていうのは、当初は「子ども自身がおかしいと気づけないから」表に出ないっていうことがすごく多い。たまたま性について学んだことがきっかけで、気づいて病院を訪問するケースが、かなり多いそうだ。
さて、ユネスコの定義に戻ろう。性教育とは、「性の認知、感情、身体、社会的な側面を学ぶこと」だったね。
元田のいう(1)は、「性の感情面の理解」という文脈に含まれる。これは明確だからいいよね。
(3)は、身体面と社会面になるかな。例えばテクノブレイクは都市伝説だし、AV男優とペニスの形が違う(=包茎)も大抵は問題ないし、手マンは爪を切って手を洗ってからやらないと膣を傷つけて女性が大変なことになるし、潮吹きはAV女優側が水とかいっぱい飲んで頑張って出してるもので普通は起きない。そういうことをきちんと知ったり、あとは「女性は男性に従うもの、好きなら生でセックスさせて当然」みたいな社会的規範はおかしいというのも、当然教える前提になる。
(4)は、身体面だね。マスターベーションは普通だし、テクノブレイクなんて存在しないし、女性だってオナニーしていい。オナニーって言い方がなんかやだったらセルフプレジャーって言おう、みたいな。
(5)は、社会面と認知面かな。恋愛工学なんて典型的な認知の歪み(自己中心性バイアス、投影バイアス、多集団同質性バイアスあたりか)に基づく行動原理だしね。
さて、問題は(2)なんだけど、これは典型的な権利(自由)に関する問題だ。
日本人は自由を「無制限に好き勝手する権利」と考えがちなんだけど、実は自由というのは、近代では「他人に迷惑をかけない範囲で、自分の好き勝手をする権利(バカなことも含む)」だと定義されている。フランス人権宣言第4条とか、ジョン・スチュアート・ミルの自由論とかが、この辺の定義として著名なソースだね。
そこに基づいて考えると、「他人の自由を害さなければ、好きにセックスしたりオナニーしたりしていい」し、逆に「他人の自由を害するならば、セックスやオナニーをしてはならない」ってことになる。
こういう部分は当然、包括的性教育にも含まれるわけだけど、それ以前に「社会生活をする人間としての常識」なんだよね。
たとえば私は「SRHRは最終的にはKKOもインセルも救うことを目的としている」と思っているんだけど、それは「KKOやインセルに彼らの望む可愛い恋人をあてがう」という形では実現し得ない。なぜなら、それは「恋人としてあてがわれる個人」の自由を侵害してしまうからだ。他人の自由を侵害する自由は、存在しないのだ。
彼らを救うには、「モテないことが悪いことではない」という認知を全ての人が持つように働きかけることや、相手の感情を理解し合意の取り方を知ることで交際の入り口をなだらかにすること、同時に他人を尊重し、断る権利・断られたら(少なくともその時は)諦める責任を腹落ちしてもらうこと、などが必要だろう。
これらは全部、包括的性教育のカリキュラムに含まれるものでもある。
包括的性教育は、男性の性欲を管理するだけのものでも、女性の性欲を解放するだけのものでもない。これまで、日本を含む多くの社会が男性の性欲に寛容・女性の性欲に抑圧的であったがために、一見そう見えるけれども、本来は「あらゆる人が、自分のセックスと出産・育児について、自分で決断できるようなライフスキルを身につけること」なんだ。
だから、増田の意識しているものは当然のように含まれるけれど一部でしかない、ということと、そういうことを教えるためのノウハウは欧米諸国を中心にすごく普及しているよ、ということを伝えたくて、長々と書いちゃったよ。
本当は日本は女性のSRHR、特にヘルスではなくライツの部分が世界でもかなりやばい状況にあるとか、そういう話もしたいんだけど、若干オフトピックなので今回はぐっと我慢するよ。
いつしか「経済成長」は私たちにとって当たり前のものになっていた。だが、それは永遠のものなのだろうか。
アベノミクスの大黒柱である日本銀行の異次元緩和はお札をどんどん刷って国債を買い支えるという、かなり危うい政策である。にもかかわらず世論の支持が高いことが不思議だった。
思えば「成長よ再び」という威勢のいい掛け声と、「必ず物価は上がって経済は好循環になる」と自信満々の公約に、人々は希望を託したのかもしれない。
希望をくじいたのはくしくも日銀が放った新たな切り札「マイナス金利政策」だった。昨年1月に日銀が打ち出すや世論調査で6割超の人が「評価できない」と答えた。いわばお金を預けたら利息をとられる異常な政策によって、人々がお金を使うようせかす狙いだった。これには、そこまでする必要があるのか、と疑問を抱いた人が多かったのだろう。
政府も国民も高度成長やバブル経済を経て税収や給料が増えることに慣れ、それを前提に制度や人生を設計してきた。
だがこの25年間の名目成長率はほぼゼロ。ならばもう一度右肩上がり経済を取り戻そう、と政府が財政出動を繰り返してきた結果が世界一の借金大国である。
そこで疑問が浮かぶ。ゼロ成長はそれほど「悪」なのか。失われた20年と言われたその間も、私たちの豊かさへの歩みが止まっていたわけではない。
その間、日本のミシュラン三つ星店は世界最多になったし、宅配便のおかげで遠方の特産生鮮品が手軽に手に入るようになった。温水洗浄便座の急普及でトイレは格段に快適になった。
若者たちが当たり前に使う1台8万円の最新スマホが、25年前ならいくらの価値があったか想像してほしい。ずっと性能が劣るパソコンは30万円、テレビ20万円、固定電話7万円、カメラ3万円、世界大百科事典は全35巻で20万円超……。控えめに見積もったとしても、軽く80万円を超える。
スマホに備わるテレビ電話や会話する人工知能の機能となると、25年前ならSF映画の世界の話だった。
ただ、この便益の飛躍的な向上は国内総生産(GDP)というモノサシで測ったとたんに見えなくなる。80万円超の大型消費が、統計上はスマホの8万円だけに減ることさえあるのだ。
そこで見えなくなってしまう豊かさの向上を考慮せず、「どんな政策手段を使ってでもとにかくGDPを膨らませよ」というのがアベノミクスの思想である。
人間はそうまでして成長を追い求めるべきなのか。
実は、いまのような経済成長の歴史が始まったのは200年前にすぎない。長い人類史のなかでは、ほんの最近だ。GDP統計が初めて作られたのは、さらにずっとあとのこと。1930年代の大恐慌、第2次世界大戦がきっかけだった。
昨年夏、GDP統計をめぐるちょっとした論争があった。所管官庁の内閣府に日本銀行が「実態より過小評価されているのではないか」と問題提起したのだ。
きっかけは日銀の若手職員が発表した個人論文。ただ論争には日銀上層部の意向も働いていた。アベノミクスの主軸として史上空前の超金融緩和をしながらインフレ目標を実現できず、成長にも結びつかない。現実へのいらだちがあった。
数字ひとつで財政や金融政策を動かし、人々の景況感にも影響するGDP。その歴史は、長い人類史のなかでは意外と短い。
世界で初めて国の経済全体の大きさを測ろうとしたのは英国。17世紀の英蘭戦争のためにどれくらい戦費が調達できるか知ろうとしたのだ。そこから現在のようなGDPになったのは、さらにあと。1930年代に英国、米国で大恐慌の対策を探り、第2次世界大戦に向けた生産力の分析を進めるためだった。(『GDP』ダイアン・コイル)
一般的には1760年代の英国産業革命が成長の起点とされる。だが西暦1年~2000年代の世界の成長を人口や歴史資料から推定した経済学者アンガス・マディソンによると、1人当たりGDPがはっきり伸び始めた起点は60年ほど後の1820年ごろだった。
その理由を投資理論家で歴史研究家のウィリアム・バーンスタインが『「豊かさ」の誕生』で分析している。1820年ごろになると、ようやく私有財産制度や資本市場が整い、迅速で効率的な通信や輸送手段が発達。技術進歩や新しいアイデアを評価する文化や制度ができて、成長を後押しする基盤が整ったという。
社会思想家の佐伯啓思・京都大名誉教授によると、国家が成長を必要としたのはもともと冷戦期に資本主義陣営が社会主義陣営に勝つためだった。「それだけのことにすぎない。なぜ成長が必要なのかという根源的な問いに、経済理論には実は答えがないのです」
冷戦が終わったあとも成長への渇望だけが残った。むしろ成長の限界や弊害について、以前より語られなくなったのかもしれない。
1970年代初頭、世界の科学者や経済学者たちが集まる民間組織ローマクラブがまとめた報告書『成長の限界』は、経済成長を謳歌(おうか)する人類への警告だった。人口が増え、先進国経済が膨張しすぎると、資源の使いすぎや環境悪化などからいずれ限界が生じる、という問題提起だった。
いつしかその問題意識は薄れ、成長信仰だけがひとり歩きしはじめた。
佐伯氏は「ローマクラブが指摘した問題の重要性は今も変わらない。これから無理やり市場を膨張させ、成長させようとする試みは競争や格差を激しくして、人間にとってますます生きにくい社会にしてしまうのではないか」と話す。
紙幣を発行し、金融政策をつかさどる中央銀行。その「元祖」は英国のイングランド銀行とされる。もともと民間銀行の一つだったが1844年の制度改正で中央銀行に進化した。
つまり1820年ごろに始まる「成長」とともに誕生した機能だった。
いま世界経済の成長スピードが落ちている。2008年のリーマン・ショックでマイナス成長に陥った先進諸国は、危機から回復した後も以前のような成長軌道に戻れていない。
サマーズ元米財務長官は3年前、物質的に満たされた先進国は簡単に低成長から脱せないという「長期停滞論」を唱えた。
日米欧の中央銀行はまるで自分の存在意義を確かめるように、ゼロ金利政策、量的金融緩和、マイナス金利政策……と成長を取り戻すための異例の緩和策を次々と繰り出した。
「これは長い目でみれば中央銀行の終わりの始まりだ」と言うのは日銀出身で金融史にも詳しい岩村充・早稲田大大学院教授だ。
中央銀行が政府から独立する必要があるのは、たとえ政権が代わっても、お金の価値が変わらない金融政策を続けることが経済の安定には大事だからだ。岩村氏は「政府といっしょになって成長のために異常な金融緩和を進める。そんな今の中央銀行に独立性はない。存在意義がなくなってしまった」と指摘する。
経済史の泰斗である猪木武徳・大阪大名誉教授は、成長を謳歌したこの200年間を「経済史のなかではむしろ例外的な時期」と言う。そのうえで無理やり成長率を引き上げようとする最近の政策に異を唱える。
「低成長を受け入れる成熟こそ、いまの私たちに求められているのではないでしょうか」
成長の意義も認めてきた猪木氏が最近そう考えるのは、成長そのものの役割が変質してきたからだ。
「かつて経済成長には個人を豊かにし、格差を縮める大きなパワーがあった。最近は国家間の経済格差は縮まったものの、上っ面の成長ばかり追い求める風潮が広がり、各国の国内格差が広がってしまった」
主要国の成長戦略、金融政策は往々にして強く富めるものを、さらに強くさらに富ませる傾向がある。それがトリクルダウン(滴がしたたり落ちること)で中間層、低所得層に広がるという想定だ。現実にはそうなっていない。
19世紀の経済思想家ジョン・スチュアート・ミルはゼロ成長の「定常社会」を構想した。だが近代経済学は事実上、成長ぬきには語られなくなった。いつしかあらゆる経済理論が成長の持続を前提に組み立てられるようになったからだ。
むしろ現実社会に変化の兆しが出てきた。たとえば最近広がりつつある、買わずにモノを共有するシェアリングエコノミー。大量消費と一線を画す動きだ。
四半世紀にわたるゼロ成長期を過ごした日本人の意識に変化もうかがえる。
博報堂生活総合研究所の定点観測調査によると、「日本の現状はこの先も、とくに変化はない」と見る人は昨年54%で、9年前より22ポイントも増えた。さらに身の回りで「楽しいことが多い」人が増え、「いやなことが多い」人は減った。
同総研の石寺修三所長は「人々の意識が定常社会を前向きに受け止めつつある変化がはっきり示されている。いわば『常温』を楽しむ社会です」と話す。
いま世界が直面する低成長が「成長の限界」を示すものかどうかは、はっきりしない。ただマディソンの2千年の成長率推計を見れば、この200年の2~3%成長が、まるでバブルを示す急騰曲線のようだとわかる。
成長の鈍化はむしろ経済活動の「正常化」を意味しているのかもしれない。少なくとも成長は「永遠」だと思わないほうがいい。(編集委員・原真人)
元ページ(リンク切れ): http://www.asahi.com/articles/ASJDY5DR2JDYULZU005.html
ブコメ: http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/articles/ASJDY5DR2JDYULZU005.html
ゾーニングできてるじゃん。被害者なき犯罪。逮捕劇がなけりゃ誰も迷惑しない。
根本的にワイナリーや、クラフトビールのブルワリーで地域おこしするのと何が違うというのか。
追記:「村の人に迷惑かけたじゃないか!」というブコメを複数いただきました。
それは現在、大麻の所持・栽培・売買が違法であり、逮捕劇によって騒動をもたらしたからですよね?
大麻使用による迷惑ではなく、大麻取り締まりの"逮捕による迷惑"です。
離島民が迷惑してます。誰も住んでないと思ってんの? 石垣島には5万人近く住んでんの!! 一度は追い出されたんだけどねー。いつの間にか戻って来てた。 - b.hatena.ne.jp/entry/310297382/comment/shimasoba
そこに元々住んでた人やその子孫。当たり前だろ - b.hatena.ne.jp/entry/310297382/comment/mouseion
イメージの問題。観光で食ってる。 - b.hatena.ne.jp/entry/310297382/comment/pzp
高樹沙耶が移住したことで、石垣島在住の約5万人にどのような迷惑をかけましたか?
大麻吸引による被害と、大麻取締法違反による騒動への言及が混ざってませんか?
あなたの隣の住人が大麻吸ってたら嫌でしょ。 - b.hatena.ne.jp/entry/310297382/comment/jhflh
嫌いな人たちなら犯罪者として取り締まってもなんとも思わない、という発想ですね。
来年からアメリカでデバッグ始めるから。テストが終わってから段階的に導入しよう。 - b.hatena.ne.jp/entry/310297382/comment/yamadadadada2
テストはアムステルダム、クリスチャニア、ニンビンで実証済み。すでに10年以上の歴史があります。
日本の法律では外国で吸おうが違法行為で帰国した瞬間に捕まるから真似しちゃ駄目だぞ - b.hatena.ne.jp/entry/310297382/comment/Fushihara
なるほど、ブコメで「海外でやれ」「そういう国へ行け」って言ってる人たちは違法行為を教唆してるわけですね。恐ろしい恐ろしい
おまわりさんこちらです。いつもお世話になっています。ええ、またはてなブログなんです。すみませんいつもいつも、、、 - b.hatena.ne.jp/entry/310297382/comment/is0ladelcane
増田って、「名前を隠して楽しく日記」であって、匿名掲示板ではないのに、なんでこんなことを書いてしまうのか(´・ω・`) - b.hatena.ne.jp/entry/310297382/comment/gui1
この増田の文章はどの法に触れましたか?大麻取締法に疑問を持つことは犯罪でしょうか?民主主義、言論・表現の自由への弾圧ですね。
増田でルサンチマンを燻らせていないで法改正へのロビイングから始めるのが筋。 - b.hatena.ne.jp/entry/310297382/comment/dot
増田でコソコソ法改正へのロビイングしてる、って解釈をする人がいるかもしれないし、いないかもしれない。
「人に迷惑をかけなければ何をやっても良い」なんてしょうもない考えすよ - b.hatena.ne.jp/entry/310297382/comment/yy00610106
ジョン・スチュアート・ミル、ディスってるの…?
法律っていうのがあってだな。 - b.hatena.ne.jp/entry/310297382/comment/nine009
日本は法治国家であると同時に、法改正、憲法改正もできる民主主義国家であります。法改正を訴えることに何の問題が?
法律を破ってもいい、何をしてもいい、とは一言もどこにも書いてないのですが。
「無法地帯」って言葉知ってる? - b.hatena.ne.jp/entry/310297382/comment/kuro_pp
法律を一切無くせ、とはどこにも書いてません。「非犯罪化して、規制して、課税すべし。」と書きました。新しい法律を作れという意味です。
その大麻コミュニティが発展して、サティアンみたいなアジトになったらどうするのよ? - b.hatena.ne.jp/entry/310297382/comment/aoven
間違った類推です。オウム真理教はサリンを製造し、テロ事件という加害行為を起こしました。被害者が明確に存在してます。宗教団体やってて、田舎に集団で移り住んだから悪いのだ、ってわけではないです。実際に今も田舎で生活してる宗教団体はありますし、法律上は何の問題もありません。
「大麻 害」で検索したら普通にこういうの出て来て害だらけと感じた - b.hatena.ne.jp/entry/310297382/comment/zz_sexy
そのアンチ薬物を掲げてるサイトは英語版ウィキペディアによると、アメリカの新興宗教団体サイエントロジー関連っぽいですが。
Foundation for a Drug-Free World - Wikipedia
大麻は暴力団の資金源だから規制するわけで、 - b.hatena.ne.jp/entry/310297382/comment/u06nh
暴力団の資金源にならないようにするため、海外の一部の国では合法化しています。逆ですね。禁酒法時代、酒を禁止したために反社会的勢力(アル・カポネが有名)の資金源になりました。
議論すれば少数派に勝ち目はない。 - b.hatena.ne.jp/entry/310297382/comment/kunitaka
それは議論ではなく、多数決だからですね。LGBT、障がい者、オタク、少数民族、自らの意見や権利を主張し、社会に浸透させている人たちが日本にもいます。民主主義、人権問題は多数決ではないのです。
グローバルに考えよう。ゾーニングとして合法な国に行けば誰も迷惑しないと思うよ。 - b.hatena.ne.jp/entry/310297382/comment/ybc
違法なものが一部では合法という状態が法治主義に与える影響がでかすぎる。 - b.hatena.ne.jp/entry/310297382/comment/son_toku
このグローバル・ゾーニング理論とあわせて考えるなら「日本で違法なものが、海外の一部では合法」ってことの意味や影響も考えたいですね。
すでに日本には海外旅行や留学中に大麻を経験した人がいて、合法の国や地域から大麻を吸ったことのある外国人がたくさん来日してるわけですから。
二度と一生そこから出てこないのならばいいのではないだろうか - http://b.hatena.ne.jp/entry/310297382/comment/sharia
二度と出てこないと保証できるならいいよ。 ゾーニングってそういうことでしよ? - b.hatena.ne.jp/entry/310297382/comment/momopopohate
ポール・マッカートニーやレディー・ガガの来日公演が見たい!
ブラッド・ピットやジョニー・デップと握手したい!東京オリンピック!
大麻が合法のアメリカ・ワシントン州の嗜好大麻ショップで、日本人がジョイント1本とバッズ1gを購入したときの映像https://t.co/lDU0Xh6WLV— SHIVA (@francisco_bot) July 11, 2016
これが通るほど薬物問題は簡単じゃないというか、国が何個も滅ぶような歴史的経緯があるからな…。b.hatena.ne.jp/entry/310297382/comment/TakamoriTarou
麻薬によって国が崩壊した清の話とか知らないのかな? - b.hatena.ne.jp/entry/310297382/comment/kenjou
医療用の大麻も含め、個人の使用で逮捕されない国や地域は現在もあるわけなんだけど、滅んでないよね?
今は大麻の話してるんだけど、もしかするとアヘン戦争と勘違いしてるのかな?
自己責任論の大部分ってさ、無自覚なボンボンのタワゴトなんだよね。
はてなブックマーク - トラックドライバーの長時間労働・低賃金は誰のせいか?|「経営×物流」日本の企業経営には物流戦略が足りない|ダイヤモンド・オンライン
はてなブックマーク - 生活保護の男性、3割超がメタボ 女性も非受給者の3倍 (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース
貧乏なのが自己責任だっつうなら、そりゃ「貧乏人は死ね」って言ってんのと同じだよな。
やりがい搾取とか言われながらも、働いてる人がいる。
で、稼げなきゃ貧乏だ。
以下略だ。
つまり、職業選択の自由が自己責任だっつうなら、そりゃ「ある種の職業人は死ね」って言ってんのと同じだよな。
まあソモソモだよ。
「日本にいたら透析患者の重い負担を、健康な人間が負担することになる」とかって言うんだったらよ、
そりゃせめても「日本国籍抜いて、外国に移住してから言うべき」だろ。
クズだろ?
努力できなきゃ死ねっていうぐらいの努力家なら、当然出来るよな?
ジョン・スチュアート・ミルが「自由論」書いたの、1859年だぞ。
一歩も前に進んでねえのかよ。
なんにも悪いことしてねえガキが透析受けてるだけで、クズみたいなオッサンが毒づくの聞いてから、馬鹿は積極的に馬鹿にすることにしてる。
周りとおんなじモン食っておんなじことしてたガキが透析受けてる現状知ってて、
なお「病気は自己責任って言えば議論が盛り上がるだろ?」みたいなこと言うクズは死ねばいい。
いまの愚行権の話題ってさ
國府田マリ子のすばらしさを語って「國府田マリ子を称えるBeeメイツになろう!」ってシメて
「Beeメイツはそうじゃねえだろ」って総ツッコミ食らってるように見えるんだよね。
分かり難いか。
まずね、id:netcraftさんは謝った方が良い。
「愚行権」という単語で定義される概念は、ジョン・スチュアート・ミルの「自由論(1859年)」にあって、
それなりに一般的な学術用語として、その歴史的な経緯を踏まえて定義付けがなされている。
だから、いかにキャッチーであろうとも、自分の表現したいことを「愚行権」とラベリングした時点で、
「オマエの言う愚行権は、ミルの定義とは違うし無知乙」と言われるのがオチで、学術的にも混乱を招くので良くない。
原則の第一は、個々人は、その行動が自分自身以外のだれの利害とも関わらないかぎり、自分の行動について社会にたいし責任がないということです。他の人たちが自分の利益のためには必要と考えてなす、忠告、指図、説得、忌避は、社会が彼の行為にたいする嫌悪や非難を正当に表現できる唯一の手段なのです。第二には、他人の利害を侵害するような行為については、個人に責任があり、もし社会がその防衛のためには社会的処罰や法的処罰が必要だという見解をもつなら、そのどちらかの処罰に服すだろうということです。
他人が、忠告、指図、説得、忌避をするのは、嫌悪や非難を正当に表現できる唯一の手段としてる。
(ミルは結構過激で、飲酒が原因での暴行前科があれば、飲酒に対しての予防的な制限は適法とまで書いてる)
だから、netcraftさんが主張したいコトのために「愚行権」という単語を使うのは、全くもって間違っている。
netcraftさんが主張したいことって、ダイバーシティ・マネジメントの概念に近いことなんじゃないの?
Twitterがバカ発見器と言われるように、私達はソーシャルメディアを通じて毎日全国や全世界の馬鹿を発見しては、イナゴのように食い散らかして消費する。
このエントリで言わんとしていることは、「愚かなことを表現しても、他人から、忠告、指図、説得、忌避、嫌悪や非難の表現をされないこと」じゃないの?
このままでは混乱を招くので、ここでは仮に「愚表権」とするな。
この場合、1番目まではアグリーな人間であっても、2番目はノーセンキューだったりするだろう。
そりゃそうだろう。今だって認められてる。
他人に害を及ぼさない限り、例え「他人から見て」愚かでも、現在だって自由に行える。
(その人が子供だったり、錯乱していたり、興奮したり上の空で、よく思案する能力が十分使えないというのでなければ)危険の警告を受ければ十分で、危険に身を曝すことを無理矢理防ぐ必要はないと思います。
ミルは少なくともそう言っているし、現状でも限りなくそれに近いことになっている。
ただ、ミルは自己責任で、自分が犠牲になっても良しとせよと言っているけど、実際には警察や消防等のリソース(つまり税金)が投入されてる。
だから、「自分自身以外のだれの利害とも関わらない」については、ある程度予想できることについては予防的に禁止されてる。
この線引きに文句を言いたいわけじゃなかろう。
netcraftさんが主張したいことってこっちじゃないの?
たぶん一番近い表現は、the right to diversityだけど、より広い概念だと思うんだよ。
肌の色、国籍、宗教、性別、趣味で差別されるべきでない、許容すべきだって言うのは、その通りで、ダイバーシティーなんて単語が使われてる。
例えば、「私はキリスト教徒です」というだけで、会社での昇進が遅れたり排除されるのは、正義ではない、と今の社会はされている。
「オマエはアイヌであることを止めないんだから、自己責任の基、ネットイナゴや政治家からのヘイトも受容すべきだ」とはならないだろう?
(それがアグリーな社会もあり得るが、現代日本ではそれは政治的には正しくない態度とされている)
この、「趣味」の部分に、極端な性癖であるとか、「刑事罰に至らないような行為」を入れて欲しいって事じゃないのかい?
俺が愚行権の話を読んで真っ先に思い出したのは、NHKの「ドキュメント72時間、トランクルーム もうひとつの秘密の部屋」なんだよね。
取材されていた人達は、それが他人には理解されないと痛々しいほどに理解していた。ただ、そっとしておいて欲しいと願いながら。
趣味嗜好で、バレたら後ろ指をさされながら生きていかなきゃいけないって、やっぱり間違ってると思うんだよね。
今までは、勝ち取ってこないと権利は得られなかった。
レインボーフラッグ振って、主張して主張してやっと、「居て良い」レベル。
アナと雪の女王だって、どうみてもカミングアウト後の家族との和解の物語だろ。
他人から、誰に迷惑をかけるわけでもない趣味に対して、忠告、指図、説得、忌避、嫌悪や非難の表現をされる。
ある程度以上定義付けがなされた単語を使うときは、注意しよう。
「刑事罰に至らないような行為」を許容して欲しいという主張は判る。が、それを愚行権とは呼ばない。
ネット上での愚かな行為を、ムスリムを見つけては過激なメンション飛ばさないのと同じで、尊重しようっていう主張は判る。
netcraftさんの主張とは違うが、放置権みたいな「叩くのではなく、そっ閉じ」される権利は、確立されて欲しいと思う。
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John Stuart Mill : On Liberty (4th ed.1869 [Originally published in 1859])の日本語訳である
自由について、ジョン・スチュアート・ミル:著、永江良一:訳 http://page.freett.com/rionag/mill_js/lib.html より行った