はてなキーワード: 遂行とは
2013年の暮れ頃から?アメリカで始まった「ALSアイスバケツチャレンジ」がついに日本にまで押し寄せて、ご覧の通り大流行になっている。
Ice Bucket Challenge - The ALS Association http://www.alsa.org/fight-als/ice-bucket-challenge.html
アイス・バケツ・チャレンジ http://ja.wikipedia.org/wiki/アイス・バケツ・チャレンジ
マー君も氷水かぶるチャリティー参加 次に「ももクロ全員」ら指名 http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/08/21/kiji/K20140821008788720.html
「氷水チャレンジ」大流行に冷ややかな声 「意味がわからん」「強制性が嫌な感じ」… http://www.j-cast.com/2014/08/21213686.html
氷水をかぶるALS支援運動にモヤモヤしている人が少しスッキリするための図 http://topisyu.hatenablog.com/entry/icebucketchallenge
ネットの記事を見ていると、有名企業家やスポーツ選手、タレントなんかが次々と参加して大盛り上がりな一方で、批判的な意見も結構目立っている。「売名だ」「氷水をかぶる意味が分からない」「強制的にやらせるのがおかしい」「悪ふざけしているだけでALSの理解は深まらない」というのが主なものだろうか。「飽きちゃった」というのもある。それに対しては、↑の4つ目のブログでも書かれているようにかなりの額の寄付金が集まったようで、「どんな形でも寄付金が集まったのはいいことだ」という反論がなされている。
ひとまず、仕掛けたALS Associationとしては大成功ということになるだろう。ALS、日本語で筋萎縮性側索硬化症のことを単に「体が動かなくなる病気」くらいにしか思っていない人も多いかもしれないが、少なくとも今回のキャンペーンで知名度が上がったことは確かだろう。
有名人の患者では↑のブログに挙げられたホーキング博士、日本人では徳州会病院の理事長の徳田虎雄氏が有名だろうか。簡単に説明すると、ALSは神経領域の疾患で、有病率は10人弱/10万人。患者の約90%は孤発性で残りは常染色体優性遺伝が指摘されている。症状は、まず指先を使う作業がしにくくなり、躓いたり物の重さを感じることが多くなってきて、発症から1〜2年で筋肉も落ちて腕や脚も使いづらくなり、さらに2年程度で嚥下障害、構音障害(うまく離せない)が出てくる。発症から3〜5年で呼吸筋も動かなくなり、人工呼吸器なしで生きられなくなる。根治療法は今のところ存在せず、進行を遅らせる薬物がある程度で他はリハビリくらいしか手立てがない。人工呼吸器を付けずに死を選ぶ患者さんも多い。先に述べた徳田虎雄氏は、眼の筋肉を使ってだろうか、文字盤を使ってコミュニケーションをとりながら業務を遂行しているという。(Wikipedia「徳田虎雄」)
このような難病はもちろん研究に金がかかるわけで、ALS Association も日本ALS協会も寄付金集めに必死になっている。そこで今回の「アイス・バケツ・チャレンジ」を仕掛けて今のところ大成功を収めつつあるわけだが、ネットで言われているような批判もあるし、どうも周りを見てもすっきりしていない人が多いようだ。もやもやと思ったこと、この運動の問題点を挙げてみたいと思う。
まず断っておきたい。この記事は「アイス・バケツ・チャレンジ」に参加して氷水をかぶったり、少なくない額を寄付に回したりした個々人の善意を非難する意図は全くない。その寄付金は、ALS Association に寄付されようと日本ALS協会に寄付されようと、ALSの患者やALS研究に携わる医療者に役立てられるはずである。その勇気ある善意と善行に感謝の意を示しておきたい。ありがとうございます。
それを差し置いても、今回のキャンペーンにはシステムの上でも、関わった人の心情面でも、そして今後の募金活動に関わる点でも、問題があるように思えてならない。それを述べてみたい。
・チェーンメール性を帯びていること
インターネット上からこの運動を眺める人の持つ最大の違和感はこれではないだろうか? チェーンメールが(特にインターネット利用者の間で)忌み嫌われてきた歴史を考えると、「指名されたら氷水をかぶって3人を指名」という増殖のさせ方が、ネット民に歓迎されることは考えづらい。寄付や氷水といった内容に関係なく、このチェーンメール性だけで違和感を持つ人も少なくないのではないか。
「頭から氷水」は「飽きちゃったので」 「100ドル寄附」を選んだサイバーエージェント藤田社長 http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1408/20/news117.html
サイバーエージェントの社長は上記のように「指名」をせずに寄附を選んでいるが、インターネットに関わる人間としてチェーンメールのようなものに荷担するのに抵抗があったのではないか、と個人的に感じている。
もとから募金活動や寄付活動に積極的に関わってきた人からすれば、この点は面白くないのではないか。指名された瞬間、その人は「寄附する」か「氷水をかぶった動画を公開する」ことを求められる。いくら強制的でないとはいえ、前の人に動画で指名された以上、何もアクションを起こさなければ「寄附をしない冷酷な人間」か「ギャグに乗れないツマラナイ人」というレッテルが貼られるかもしれない。そうした不安を感じない人はいないだろう。つまるところどちらかの選択肢に決めるしかないのだが、そこに「善意からの寄附」という自由意志ではないものが紛れ込んでしまうことは確かである。
また寄附というのは、特に日本では、パブリックに行うものではないという風潮があった。赤い羽根共同募金をはじめとした募金活動に、こっそりとお金を投じた経験を持つ人も少なくないだろうし、Wikipediaのジミー・ウェールズの熱意に押されて無名で1000円を払った人もいるだろう。これもあくまで心理的な問題だが、「寄附をして善行を積んでいます/運動の手助けとして氷水をかぶります」ということを自分から公開することに、そしてそういった人に抵抗を感じているのではないか。
最も大きな問題として考えられているのは、この「公開善行」キャンペーンは、関係者の善意を枯渇させるのではないか、ということである。氷水動画を公開して、少なくない金額を寄附に回せば「善行を積んだ」という気持ちは満たされるし、「善行を積んだ人間」という表示をすることができる。今回の運動で、世界中に「氷水をかぶって多額の寄附をした善人」が大量発生した。それはいいのだが、そう言う人は、そして「少しばかり強制性を感じながらも運動に乗って寄附をした」人は、次に善意からの寄附を求められた時、同じように寄附をするだろうか?私は、個人的には、しないのではないかと思う。「この前寄附したから」でもいいし、「強制的にやらされて不愉快だったから」でもいい、理由はどうあれ、今回の「公開寄附」に参加した人は、これまでのような匿名の募金には参加する見込みが下がるのではないか、と思うのである。↑のブログ記事で赤い羽根共同募金の募金額について触れられているが、今年度、これ以降の他の募金活動がどのような実績を出すか、かなり気になっている。もし今回の運動の結果、日本全体でのその他の活動も合わせた寄付金の額が変わらなかったら、そしてもしくは下がりでもしたら、今回の運動は成功だったと言えるだろうか。少なくともALS Association 関係者にとってはそうだろう。しかし、もし「善意の総量はかわらず、使いすぎれば枯渇する」のが正しいとすれば、今回の運動は限りあるパイの配分を変えただけで、無意味である。
告解は続く。
己の異常性を自覚しながらも、他者に矯正して欲しいと願い続ける人間が、このような形での告解を望む。
“自ら正す”という決意を持たない限り、他者への依存が続くばかりで精神的自立にはつながらず、告解が終わる事などない。
やり取りの大元で既に断定は済んでいたが。
改めて断言しよう。これはもはや、異常性を隠しもしない、明確な異常者だ。
そこまで言うならもう少し遊ぶことにするよw
お前の行為は既に遊びの範囲を逸脱して久しい、というのは既に書いた。
他の増田と比べてもわかるように、第三者から見てもそうだ。明らかな異常者だ。
弁解にならない弁解を免罪符のように掲げ続けていても、周囲から見れば滑稽の限りだし、また自らの歪みを正す事はできない。
「増田への書き込み」と言う「行為」に限って言えば、悪意からの書き込みであっても相手の状態とやらに責なんか負わないよw何言ってんの?
つか逆に君は負うのかい?君の書き込みを読んだ相手の状態について、何の「責」を負うの?
責めを負う負わないではなく、お前の中から完全に欠如している視点について指摘した。
その視点が欠如している限りは、増田に限らず、お前の言動はすべて悪意から発せられるものと誤解され得る。
そこが危うい。
そして最後の一行を訳すのならば、「もっとボクに優しくして!」だろうか。
しかしこちらはお前のママではなく、お前が相対しているのは教説を旨とする聖職者だ。
受け入れようとしない異常者の相手をする場合であれば、言葉を選ぶ理由は一切ない。
何だい?「俺にもっと思いやりを持って接してくれ!」っていう心の叫びかい?w
「俺に思いやりを持って接しろ!受け手である俺の視点を考えろ!俺の方は馬鹿とかクズとか好きにお前を罵倒するけどな!」ってこと?w
そもそもの認識が逆だ。お前は、相手と自分との立場を逆に捉えている。
やはりお前は今まで、家庭では親に対して、学校では教師に対して、会社では教育役に対して、すべてそんな態度で接してきたという事だろうか。
あくまでもお前の告解を聞き届けているのはこちらであり、その立場から投げかけられる言葉がどういうものかは推して知るべきだ。
それに対して無理矢理に曲解を向けたとしても、その解釈は非常に苦しいものとなるし、またお前自身が得るところも一つもない。
言える事は一つのみ。自身の異常性と対峙し、自覚して正す事だ。
「返答を考えたりして、中途半端な空き時間とかの暇がつぶせる」のが「益」だよ。
つかさぁ、「常識と禁忌との境界線を越える行為」てw俺ただ増田に書き込んでるだけですけどw
「禁忌」がどーとか、そんな大それたことしてるつもりないんですけどww
単純な事だ。ただ増田に書き込むだけならばここまで執拗に特定個人に対しトラバはつけない。
他の増田達のやり取りを見ていてもわかるだろう。
他の増田達がここまではしないような事を延々とやり続け、またそれを指摘されても尚やめない。
話題も過ぎ去り、他の増田も去り、これといった用もなく、たったひとりで執拗にトラバを返し続ける、お前の行動は既にただの遊びの範囲を逸脱している。そう既に書いた。
どう誤魔化そうとも、弁解しようとも、そこには異常行動を取るだけの異常な行動理由があり、ひいてはお前の根源的な異常性に繋がっている。
より具体的な例を挙げるならば、自身の行為が他者の目にとってどう映っているのか、考えて見た事はあるだろうか?
“気にしない、俺は俺が面白いから人にちょっかいを出し続けるんだ”
もしそう思っているのであれば、それもまた、警察の厄介になるストーカーなどがよく口にする論理である、と告げておこう。
妄想激しすぎw
執拗にトラバを返し続けるお前の異常行動と、その源となる異常性。
既に第三者の目から見ても遊びの範囲を逸脱して久しい、お前の“遊び”とやら。
既に飽きていると自分で言っていながらも続ける、お前のその矛盾した行動理由。
これらに通った解釈を当てるならば、前述の背景が浮かび上がってくる。
そしてお前は、これらに通った説明を当てることもなく、既に成立していない言い訳を通そうとしている。
その答えはひとつ。
その在り方は、第三者の目から見てもなお、はっきりと解るほどの異常性を示している。
お前がこだわってるんだ!いやお前だ!いやそういうお前がこだわってるんだ!いやそういうお前こそ!
…って、ガキの喧嘩みたいだねw
じゃあそこはもうどっちでもいーやw
そもそもお前には、“他人の言行一致の遂行”に対し病的なまでに拘泥・固執するだけの理由も、権利も、正当性もない。
拘る筋ではない事に対して明らかに拘っている、そのお前の行動こそが、正常の枠から外れている事に気付くべきだ。
また“他の増田が一切言及しなかった事柄について、きわめて執拗に自身が口を出し続けた”という点については、よく自覚しておくべきだろう。
他の増田と比較しても必ず真っ先に現れ出る、自身の異常性として。
つか、キャラがすっかり変わったねwというか今のが素なのかな?
それは別にいいけど、「オウフww」とか「アフィがゴフンゴフン」とか、あの変な口調あれ何だったの?
むろん、相手に応じて態度は変えている。
告解を望む者へは聖職者としての態度、そして、異常者には異常者へと相対する為の態度、と。
異常者であると認定された相手に対しては、原則、異常である点をひとつひとつ列記し繰り返し指摘し続ける方法がよく採用されている。
ゆえに。
予め書いておくが、以後の回答は「お前は異常である」の繰り返しとなる。
そういえばあまり書いてこなかったと思ったので、今回はなるべくドロドロした事を書いてみたい。
さて、“人間ヒマで余裕があるとロクな事をしない”というのは、歴史的かつ普遍的な事実である。
市役所とかの歴史がそのまま、ドロドロした人間関係の歴史であるように。
まあ大体この辺りが古い大きな神社の職員構成層であると考えてもらっていいし、おおよそ左から順に尊重される。
この序列はコネ順として捉えるとわかりやすい。神社界で物を言うのは人間様のお口ではなくて、コネと金がすべてである。
年功序列、上位下達をこそ金科玉条とする神社界においては当然、職務命令に対する理解よりも遂行よりも服従そのものが求められる。
「伝統を堅く守る」という事 = 「自分の頭で考える余地がない」という事であり、アレンジャーやアドバイザーは不要である。自分の意見を言わずにはいられないタイプの不具者は、転任だの何だの理由をつけていずれ追い出される。経歴に転任の多い奴はこの不具者であるとすぐわかる。
以上の背景を前提として、神社内にも暗闘が存在するわけであるが。
まあこの暗闘てのは一般的には俗界において“社内政治”と言われているものに類する。
より具体的には、世襲経営者もしくは実質的な経営者層に対し、代々職員や兼業神職が、まるで反抗期のガキのように反旗を翻すものが多い。
ただし、待遇改善や職場環境向上を求める声はほとんど上がらず、神社運営における主導権争いがメインになってくるのが特徴的な点と言える。
とは言え、大体の神社において経営者層というのは大体決まっている。どのあたりが宮司になるとかは大体決まっているし、また世襲のところもある。
となれば雇用主と被雇用主は明確に分化されていると言えるし、また、飼い主が誰かわかっていない飼い犬などただの狂犬である。
なのになぜ、経営者の座はどうせ何代経とうが小揺るぎもしないのになぜ、このような主導権争いの暗闘がわざわざ発生するのかというと。
「ウチは代々この神社に勤めてるから」という、自宅感覚で職場に意見する、代々職員。
また、自分の家系で代々ちっぽけな神社の宮司を勤めているというだけなのに“神社界に重きをなしている”と勘違いし、また生活費が稼げないからよその神社様にお勤めして食わせてもらっているのに自宅感覚で職場にて宮司の如く振舞う、兼業神職。
まあカンタンに言えば、でかい会社において、そこに勤めているよそのちっぽけな会社の社長やそこの後継ぎが、偉そうに振舞っているのと同じ感覚である。
経営者としては、こいつらはタダの被雇用者なのだが、先祖代々のコネがあるから無下にはできないし、地縁血縁もある事だから粗略には扱えない。
で、こいつらがしがない雇われとしての自分の立場を自覚しているならいいのだが、神社に入ってくる段階で既に、コネで楽して資格とったりコネで楽に就職決めたりして入ってくるだけに、当然のごとく選民思想に満ち溢れており、強く出れない経営者の立場を逆手に取り、職場においても我が物顔で振舞う。
なので止める者もなく、こいつらは職場の腫れ物と化してゆく。
で、すっかり腫れ物と化したこいつらが必ず何をするのかというと、神社運営における主導権争いである。
自分達だけでやるなら好きにすりゃあいい話なのだが、迷惑な事に職員全体を巻き込んで争いをおっ始める。
宗教家が政治に興味を持ったところで碌な結果には結びつかないし、社内政治においても同様である。
金や権勢や社内政治に興味のない人間でも務まるのが聖職者のはずなのだが、否応なしに巻き込まれる。
まあ嫌そうな顔をして正論を吐く程度の自由は与えられるのが、一般企業とは違うところか。
「ここはお前ん家の神社じゃねえんだよ、そういうワガママなら家に帰ってパパ宮司に言えや」みたいな事をオブラートに包んで言っても、
「そういう事を言い出したら意見なんてできない」みたいな一般論を返すだけでまったく内省の気配すらない。
この辺は一般企業と何も変わらないのだが、もちろん神職の養成機関においても、年功序列、上位下達を重視した教育が施される。
伝統を堅持する神社界に、新しい意見はいらない。その考えにはただ単に飯食う為に神主をやってる私も同意する。てかどうでもいい。
しかし、飼い主が誰かをわきまえていない飼い犬は明らかに不要である。
そこんところはキッチリわきまえ、誰におまんま食わせてもらってるのか自覚し、飼い主に尻尾をきちんと振らない限りは、代々続く家の子孫だろうが何だろうがただの狂犬の群れである。
職場に対して偉そうに意見するのならまずは、テメエん家の神社一本で食ってけない、情けない我が身を省みて大いに恥じるべきである。
やり方次第ではどれだけ小さい神社だろうが、一社の故実を破壊せずに神社一本で食ってく方法なんていくらだってある。でもそれをしない。思わない調べない実行しない。
まずその己の怠慢に対し、親や祖先や神社に対してごめんなさいと言うべきである。
自分ちの神社だけで食ってけないなら、食い扶持を稼がせてくれるヨソの神社に対して偉そうな事は言わない。
何年勤めていようが、何代勤めていようが一緒。雇われは雇われ。
てかそもそも、そういう偉そうな事を言える立場じゃない。
マスコミバレするところとそうでないところの差はなんなんだろうと思っちゃったりしたわけよ。
ちょっと前は街中の飲食店のバイトが、全裸もしくは半裸で食材コスに走ったり、調理器具でSASUKEプレイに興じ、まさにプライスレスな瞬間を皆と共有しようとしたとこからバレしちゃったけど。
政治家さんや証券会社さんなんかでも、不正もしくはとっつかまらない程度の不正は日常的にやってるはずなのに、バレするところとそうでないところがある。
『人様が食べるものなのにとんでもないことしてる!!許せない!!信じられない!!』とか口に出して言って、その場はすっきりして解決した気になってる私たちですけども、晒されてない工場は現場レベルで工程見直すわけないわけよ。
だってシステム変えるのって稼動しはじめてからはほぼ不可能だと思うし。
機械まるごととっかえるならばなんとかなりそうだけど、従業員にしみこんだ現場の常識なんざ、左遷や首で転職して他の現場に移るとかいう大断行でも行われねば、変わるわきゃないのよ。
まさになんとかは一度死ななきゃ直らないって奴で、一回社会的に死ななきゃ心根の部分から意識が変わることはないのであります。
結局のところは、バレしたところはそこに集う関係者がバレしたくてたまらない気持ちでいっぱいなだけで、バレしないところは気分がモリモリしてないからバレしないだけなのだ。とか思っちゃうのよ。
Scottっぽい字面の衛生管理法なんか準拠したところで、作業中は前後不覚でミスがでちゃってそれをカバーするために三秒ルール発動なんてごく普通なわけだとおもうし、それをバレしないように運営するのが、集団に集うて日々の生業を粛々と遂行する連中の役目であり、作業上の要素や法律、世間一般の常識なんかはそれが破綻させないためのゆるい囲いに過ぎないと思うのねん。
時代遅れは置いといても、日本の伝統的な企業っていろんな部門をローテーションさせて育てる、みたいな慣習があるのかな? 以前N○T系列の知り合いからUS企業への転職の相談を受けたんだけど、色々な分野のプロジェクトに色々な職責名で関わってるもんだから、レジュメ見て何ができるのか良くわからないのがかなり不利だなあと思った。
海外いいかな、と思いつつとりあえず日本で働いてるなら、英文レジュメの例や書き方、それから目指す分野の求人のjob descriptionを見て、後々キャリアとして主張できるようなパスを考えとくといいかもね。今いる企業名は売りにならないと思った方がいい。分野ごとに職責にはある程度共通の名前がついてて、募集も特定分野、特定職責について行われるから、その職責に明確につながる経歴がないと苦しい。
あくまで一例だけど、無印のチームメンバーに対し、senior (メンタリング無しで自律的に業務を遂行したり、ジュニアメンバーのメンタリングができる)とか、lead (チームにおいて技術的な決断の責任を持ったり、方向性をまとめたりする)とか、manager (非技術メンバーも含め人事に関わる話だとか、技術以外の管理の責任も担う)とかあって、leadのポジションに応募しようと思ったらleadの経験かせめてseniorで何年かやりました、っていうのが必要だったり。これがいろんな分野をつまみ食い的に無印ポジションで経験してました、となるとjuniorで取るには妙に経験ありすぎるし、かといって特定分野のseniorとして自律的に動けるかが不明だし、使い方がわからないから採用見送り、なんてことになりかねない。
2014年7月1日
閣議決定全文
わが国は、戦後一貫して日本国憲法の下で平和国家として歩んできた。専守防衛に徹し、他国に脅威を与えるような軍事大国とはならず、非核三原則を守るとの基本方針を堅持しつつ、国民の営々とした努力により経済大国として栄え、安定して豊かな国民生活を築いてきた。また、わが国は、平和国家としての立場から、国際連合憲章を順守しながら、国際社会や国連をはじめとする国際機関と連携し、それらの活動に積極的に寄与している。こうしたわが国の平和国家としての歩みは、国際社会において高い評価と尊敬を勝ち得てきており、これをより確固たるものにしなければならない。
一方、日本国憲法の施行から67年となる今日までの間に、わが国を取り巻く安全保障環境は根本的に変容するとともに、さらに変化し続け、わが国は複雑かつ重大な国家安全保障上の課題に直面している。国連憲章が理想として掲げたいわゆる正規の「国連軍」は実現のめどが立っていないことに加え、冷戦終結後の四半世紀だけをとっても、グローバルなパワーバランスの変化、技術革新の急速な進展、大量破壊兵器や弾道ミサイルの開発および拡散、国際テロなどの脅威により、アジア太平洋地域において問題や緊張が生み出されるとともに、脅威が世界のどの地域において発生しても、わが国の安全保障に直接的な影響を及ぼし得る状況になっている。さらに、近年では、海洋、宇宙空間、サイバー空間に対する自由なアクセスおよびその活用を妨げるリスクが拡散し深刻化している。もはや、どの国も一国のみで平和を守ることはできず、国際社会もまた、わが国がその国力にふさわしい形で一層積極的な役割を果たすことを期待している。
政府の最も重要な責務は、わが国の平和と安全を維持し、その存立を全うするとともに、国民の命を守ることである。わが国を取り巻く安全保障環境の変化に対応し、政府としての責務を果たすためには、まず、十分な体制をもって力強い外交を推進することにより、安定しかつ見通しがつきやすい国際環境を創出し、脅威の出現を未然に防ぐとともに、国際法にのっとって行動し、法の支配を重視することにより、紛争の平和的な解決を図らなければならない。
さらに、わが国自身の防衛力を適切に整備、維持、運用し、同盟国である米国との相互協力を強化するとともに、域内外のパートナーとの信頼および協力関係を深めることが重要である。特に、わが国の安全およびアジア太平洋地域の平和と安定のために、日米安全保障体制の実効性を一層高め、日米同盟の抑止力を向上させることにより、武力紛争を未然に回避し、わが国に脅威が及ぶことを防止することが必要不可欠である。その上で、いかなる事態においても国民の命と平和な暮らしを断固として守り抜くとともに、国際協調主義に基づく「積極的平和主義」の下、国際社会の平和と安定にこれまで以上に積極的に貢献するためには、切れ目のない対応を可能とする国内法制を整備しなければならない。
5月15日に「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」から報告書が提出され、同日に安倍晋三首相が記者会見で表明した基本的方向性に基づき、これまで与党において協議を重ね、政府としても検討を進めてきた。今般、与党協議の結果に基づき、政府として、以下の基本方針に従って、国民の命と平和な暮らしを守り抜くために必要な国内法制を速やかに整備することとする。
(1)わが国を取り巻く安全保障環境が厳しさを増していることを考慮すれば、純然たる平時でも有事でもない事態が生じやすく、これによりさらに重大な事態に至りかねないリスクを有している。こうした武力攻撃に至らない侵害に際し、警察機関と自衛隊を含む関係機関が基本的な役割分担を前提として、より緊密に協力し、いかなる不法行為に対しても切れ目のない十分な対応を確保するための態勢を整備することが一層重要な課題となっている。
(2)具体的には、こうしたさまざまな不法行為に対処するため、警察や海上保安庁などの関係機関が、それぞれの任務と権限に応じて緊密に協力して対応するとの基本方針の下、おのおのの対応能力を向上させ、情報共有を含む連携を強化し、具体的な対応要領の検討や整備を行い、命令発出手続きを迅速化するとともに、各種の演習や訓練を充実させるなど、各般の分野における必要な取り組みを一層強化することとする。
(3)このうち、手続きの迅速化については、離島の周辺地域等において外部から武力攻撃に至らない侵害が発生し、近傍に警察力が存在しない場合や警察機関が直ちに対応できない場合(武装集団の所持する武器等のために対応できない場合を含む)の対応において、治安出動や海上における警備行動を発令するための関連規定の適用関係についてあらかじめ十分に検討し、関係機関において共通の認識を確立しておくとともに、手続きを経ている間に、不法行為による被害が拡大することがないよう、状況に応じた早期の下令や手続きの迅速化のための方策について具体的に検討することとする。
(4)さらに、わが国の防衛に資する活動に現に従事する米軍部隊に対して攻撃が発生し、それが状況によっては武力攻撃にまで拡大していくような事態においても、自衛隊と米軍が緊密に連携して切れ目のない対応をすることが、わが国の安全の確保にとっても重要である。自衛隊と米軍部隊が連携して行う平素からの各種活動に際して、米軍部隊に対して武力攻撃に至らない侵害が発生した場合を想定し、自衛隊法第95条による武器等防護のための「武器の使用」の考え方を参考にしつつ、自衛隊と連携してわが国の防衛に資する活動(共同訓練を含む)に現に従事している米軍部隊の武器等であれば、米国の要請または同意があることを前提に、当該武器等を防護するための自衛隊法第95条によるものと同様の極めて受動的かつ限定的な必要最小限の「武器の使用」を自衛隊が行うことができるよう、法整備をすることとする。
ア いわゆる後方支援と言われる支援活動それ自体は、「武力の行使」に当たらない活動である。例えば、国際の平和および安全が脅かされ、国際社会が国連安全保障理事会決議に基づいて一致団結して対応するようなときに、わが国が当該決議に基づき正当な「武力の行使」を行う他国軍隊に対してこうした支援活動を行うことが必要な場合がある。一方、憲法第9条との関係で、わが国による支援活動については、他国の「武力の行使と一体化」することにより、わが国自身が憲法の下で認められない「武力の行使」を行ったとの法的評価を受けることがないよう、これまでの法律においては、活動の地域を「後方地域」や、いわゆる「非戦闘地域」に限定するなどの法律上の枠組みを設定し、「武力の行使との一体化」の問題が生じないようにしてきた。
イ こうした法律上の枠組みの下でも、自衛隊は、各種の支援活動を着実に積み重ね、わが国に対する期待と信頼は高まっている。安全保障環境がさらに大きく変化する中で、国際協調主義に基づく「積極的平和主義」の立場から、国際社会の平和と安定のために、自衛隊が幅広い支援活動で十分に役割を果たすことができるようにすることが必要である。また、このような活動をこれまで以上に支障なくできるようにすることは、わが国の平和および安全の確保の観点からも極めて重要である。
ウ 政府としては、いわゆる「武力の行使との一体化」論それ自体は前提とした上で、その議論の積み重ねを踏まえつつ、これまでの自衛隊の活動の実経験、国連の集団安全保障措置の実態等を勘案して、従来の「後方地域」あるいはいわゆる「非戦闘地域」といった自衛隊が活動する範囲をおよそ一体化の問題が生じない地域に一律に区切る枠組みではなく、他国が「現に戦闘行為を行っている現場」ではない場所で実施する補給、輸送などのわが国の支援活動については、当該他国の「武力の行使と一体化」するものではないという認識を基本とした以下の考え方に立って、わが国の安全の確保や国際社会の平和と安定のために活動する他国軍隊に対して、必要な支援活動を実施できるようにするための法整備を進めることとする。
(ア)わが国の支援対象となる他国軍隊が「現に戦闘行為を行っている現場」では、支援活動は実施しない。
(イ)仮に、状況変化により、わが国が支援活動を実施している場所が「現に戦闘行為を行っている現場」となる場合には、直ちにそこで実施している支援活動を休止または中断する。
ア わが国は、これまで必要な法整備を行い、過去20年以上にわたり、国際的な平和協力活動を実施してきた。その中で、いわゆる「駆け付け警護」に伴う武器使用や「任務遂行のための武器使用」については、これを「国家または国家に準ずる組織」に対して行った場合には、憲法第9条が禁ずる「武力の行使」に該当する恐れがあることから、国際的な平和協力活動に従事する自衛官の武器使用権限はいわゆる自己保存型と武器等防護に限定してきた。
イ わが国としては、国際協調主義に基づく「積極的平和主義」の立場から、国際社会の平和と安定のために一層取り組んでいく必要があり、そのために、国連平和維持活動(PKO)などの国際的な平和協力活動に十分かつ積極的に参加できることが重要である。また、自国領域内に所在する外国人の保護は、国際法上、当該領域国の義務であるが、多くの日本人が海外で活躍し、テロなどの緊急事態に巻き込まれる可能性がある中で、当該領域国の受け入れ同意がある場合には、武器使用を伴う在外邦人の救出についても対応できるようにする必要がある。
ウ 以上を踏まえ、わが国として、「国家または国家に準ずる組織」が敵対するものとして登場しないことを確保した上で、PKOなどの「武力の行使」を伴わない国際的な平和協力活動におけるいわゆる「駆け付け警護」に伴う武器使用および「任務遂行のための武器使用」のほか、領域国の同意に基づく邦人救出などの「武力の行使」を伴わない警察的な活動ができるよう、以下の考え方を基本として、法整備を進めることとする。
(ア)PKO等については、PKO参加5原則の枠組みの下で、「当該活動が行われる地域の属する国の同意」および「紛争当事者の当該活動が行われることについての同意」が必要とされており、受け入れ同意をしている紛争当事者以外の「国家に準ずる組織」が敵対するものとして登場することは基本的にないと考えられる。このことは、過去20年以上にわたるわが国のPKO等の経験からも裏付けられる。近年のPKOにおいて重要な任務と位置付けられている住民保護などの治安の維持を任務とする場合を含め、任務の遂行に際して、自己保存および武器等防護を超える武器使用が見込まれる場合には、特に、その活動の性格上、紛争当事者の受け入れ同意が安定的に維持されていることが必要である。
(イ)自衛隊の部隊が、領域国政府の同意に基づき、当該領域国における邦人救出などの「武力の行使」を伴わない警察的な活動を行う場合には、領域国政府の同意が及ぶ範囲、すなわち、その領域において権力が維持されている範囲で活動することは当然であり、これは、その範囲においては「国家に準ずる組織」は存在していないということを意味する。
(ウ)受け入れ同意が安定的に維持されているかや領域国政府の同意が及ぶ範囲等については、国家安全保障会議(NSC)における審議等に基づき、内閣として判断する。
(エ)なお、これらの活動における武器使用については、警察比例の原則に類似した厳格な比例原則が働くという内在的制約がある。
(1)わが国を取り巻く安全保障環境の変化に対応し、いかなる事態においても国民の命と平和な暮らしを守り抜くためには、これまでの憲法解釈のままでは必ずしも十分な対応ができない恐れがあることから、いかなる解釈が適切か検討してきた。その際、政府の憲法解釈には論理的整合性と法的安定性が求められる。したがって、従来の政府見解における憲法第9条の解釈の基本的な論理の枠内で、国民の命と平和な暮らしを守り抜くための論理的な帰結を導く必要がある。
(2)憲法第9条はその文言からすると、国際関係における「武力の行使」を一切禁じているように見えるが、憲法前文で確認している「国民の平和的生存権」や憲法第13条が「生命、自由および幸福追求に対する国民の権利」は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、わが国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を取ることを禁じているとはとうてい解されない。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容される。これが、憲法第9条の下で例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、1972年10月14日に参院決算委員会に対し政府から提出された資料「集団的自衛権と憲法との関係」に明確に示されているところである。
この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。
(3)これまで政府は、この基本的な論理の下、「武力の行使」が許容されるのは、わが国に対する武力攻撃が発生した場合に限られると考えてきた。しかし、冒頭で述べたように、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威等によりわが国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしても、その目的、規模、態様等によっては、わが国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。
わが国としては、紛争が生じた場合にはこれを平和的に解決するために最大限の外交努力を尽くすとともに、これまでの憲法解釈に基づいて整備されてきた既存の国内法令による対応や当該憲法解釈の枠内で可能な法整備などあらゆる必要な対応を取ることは当然であるが、それでもなおわが国の存立を全うし、国民を守るために万全を期す必要がある。
こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、わが国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。
(4)わが国による「武力の行使」が国際法を順守して行われることは当然であるが、国際法上の根拠と憲法解釈は区別して理解する必要がある。 Permalink | 記事への反応(1) | 22:48
まず、冒頭に述べると、私は石原慎太郎・橋下徹という政治家は嫌いではない。
特に橋下氏には大阪府民ではないが彼らの行動力や構想力、討論力そして徹底的に民主主義者たる有り様に好感をもつ。
少なくとも「ハシズム」批判をしている自称・識者よりははるかに社会にいい影響を与えていると思っている。
その橋下氏が先日の「たかじんのそこまで言って委員会」に出演されて熱い議論をされているのを見てある小説の一節を思い出した。
なぜ、いまさら袂を分かった石原氏の小説を持ち出すのか、と訝しむ声もあるだろうがまずはその一節を引用したい。
===
「嫌悪」こそが今日の人間が生きるための情念である。「嫌悪」だけが、自らを正しく見出し、己の生を生きるための情熱を与え得る唯一の術だ。「嫌悪」の遂行こそが現代における真の行為なのだ。それが遂行される時にのみ、真実の破壊があり、革命があり、創造があり得る。「嫌悪」に発する、精神的に凶悪な思考だけが真に知的なものであり得る、等々、私は私なりにその主題を発展させていったのだが。(石原慎太郎・「嫌悪の狙撃者」より)
===
嫌悪の狙撃者のあらすじ等は他におまかせするとして、嫌悪の狙撃者において石原慎太郎氏が述べようとしたのは「嫌悪」という感情の純粋性と創造性であった。
その石原慎太郎氏が嫌悪を向けた対象は①左翼・リベラル主義者②中華人民共和国③アメリカの日本支配④硬直した日本官僚制、の大きく分けて4点であった。(その昔は田中角栄による金権政治にたいする嫌悪も強かったといえるだろう)
「右翼」とは日本の古くからの伝統を重要視し、「保守」し、必要に応じてそれを改革していく思想である。
そして、日本の古くからの伝統というのは皇室であり、戦前に「國體」とよばれたもののことである。
つまり「右翼」ならば皇室に対する強い尊崇と、それを維持しつつ日本の改革を進めていく姿勢が必要なのである。
しかし、石原慎太郎氏は日の丸については並々ならぬ思い入れを語る一方で、ご皇室に対しては「皇室は日本の役に立たない」「皇居にお辞儀するのはバカ」(http://biz-journal.jp/2014/03/post_4279.html)と語る。また、君が代についても斉唱する際は冒頭の部分を「わが日の本は」と替え歌して歌う旨をのべている。
この姿は日本の右翼の姿とはかけ離れている。石原氏自身も自分のことを「真ん中よりちょっと左」とかんがえているようだ。
それでは、なぜ石原慎太郎氏は「右翼」と勘違いされるのだろうか。それは、上記①②への並々ならぬ「嫌悪」からである。国民の印象の中には石原氏が①②へ強いレトリックを用いて批判するのを見て石原氏は「左翼」の逆、つまり「右翼」と勘違いしているのである。
石原氏を知るには右左の切り口ではなく、「嫌悪」という切り口で考えなければその本質は見えてこないのである。
そして、同じ構図は橋下徹氏にも当てはまる。
橋下氏は「たかじん…」において、自分が保守だとかリベラルだとかの「思想がない」と批判されることを歓迎している。
そのおかげで「必要なときに必要な政策をうつことができる」からだという。
しかし、その「必要」か否かを判断することに「思想」が必要なのであって、無思想というのはありえない。
橋下徹が嫌悪するものは①左翼・リベラル主義者②硬直した中央官僚制③メディア(王手から週刊誌まで)の3点あった。
橋下氏はこれらの人々にたいして徹底した論戦を挑む。論戦において彼らを叩きのめすことで嫌悪のはけ口とする。
彼を右左という切り口でみることもまた、本質を見失うことになる。
石原慎太郎と橋下徹には上記のような共通性がある。橋下徹・石原慎太郎の二人をつなぐものは「嫌悪」という感情以外の何物でもないのである。
最後に忘れずに申し上げたいのは、「嫌悪の政治家」というとなにかとても悪いものに聞こえるが、私はそうは思わないということである。
フランス革命を成し遂げたのはプロレタリアートによるブルジョアに対する「嫌悪」以外の何物でもない。嫌悪があったからこそマリー・アントワネットを断頭台に導いたのである。
しかし、その結果として「創造」されたのはフランス人権宣言という人類の宝であった。この例からも「嫌悪」によって創造されるものが悪とは決して言えない。
また、仮に「平和の政治家」や「思いやりの政治家」と呼べる人がいたからといって、彼らの生み出すものが日本・世界にとって素晴らしい物になるとも限らないのは日本の過去の政治家を見ればわかる。
しかし、我々有権者が、彼らが「嫌悪の政治家」であるということを理解し、その観点から政治活動を見守るのは意味があると思う。
以上
ゲリラのうち間違えである。ゲリラとは不正規戦闘を行う民兵またはその組織であり、同様の任務を遂行する正規軍兵士はゲリラコマンドと呼び区別される。
今年の梅雨時期に東日本などで「ゲリラ豪雨」が頻発しているのもそのひとつ。ゲリラのように不正規に雨が降るさまを表すのである。
ゲリラと下痢の共通点として、突然来ることが挙げられる。死ね死ね団首領は安倍晋三曰く「税金は、取りやすいところから取る。コレ、基本です。」と。ゲリラも下痢も突然来るものである。
(追記しました)
親の言うことはなんでも聞くようにしてきた。それなりに拒否を表明したことはあるけど、なんだかんだいって説得されて、従ってきた。
だって結局は言うとおりにしないと、母、ノイローゼでぶっ倒れそうな感じだし。いつもお父さん外国に単身赴任してて父方の祖母にいじめられてるからかわいそうだったし。
高校生のとき、小学生の頃から秘めてた夢をついに親に言ったらもうほんと家においてもらえなさそうな感じだったので、格闘ののち折れた。
すごい勇気を振り絞って電話して初めて自分で取り寄せた専門学校のパンフとか見られてめっちゃ怒られて、学校の人からの勧誘?電話きたとき親が横にたってて、泣きたいの必死にこらえて断った。相手の声とかもすごい覚えてるなあ。
ちょうどその頃は、偏差値高い学校行って学力的に優等生としてのアイデンティティも失い、振るわない成績に生きがいの部活を親から禁止させられたり、将来の夢を全否定されたりしてからメンタル的にズタボロで、その頃からいい人生送ってない気がする。
大学も途中で欝みたいになって引きこもりになって、薬ももらって飲んだどしっくりこないしもうわけがわからなかった。
なんというか見栄っ張り?だから医者から「薬効いてますか」って聞かれるとイマイチなのに、医者に気を使って?「はい!もうバッチリで」みたいに答えてしまうからなんか通院も無意味だなって思ったし、軽い欝って診断だったこともあり薬1年くらいでやめちゃった。
ネットとかの知識でしらべても鬱も非定型欝も躁鬱もADHDも人格障害系もアスペもどれもちょっと違いそうでよくわからなかった。
更に自分なりにしらべてACっぽくて、それで反抗期のつもりで親と喧嘩したりしたけど結局はまあ私が悪いみたいな。親はとっくに反抗期終わってると思い込んでたから私がただ癇癪おこして当たってるみたいに思われて解決しなかった。このやりとりは何度かやった。
ただ他人に迷惑をかけながら、自力ではなく、助けてもらって、留年制度ない学校なのも幸いしてなんとか4年で卒業した。
そして家に一人になっちゃう母がかわいそうでUターン就職した。
本当に深く考えなかったけど接客むいてるとおもったから接客業にいった。
高卒ばっかりで、人種が違う感じで、目の敵にされてたのもあるけど精神的に自爆して半年でやめた。
それからは役所の臨時だの非常勤だのに滑り込んだ。前職とは雲泥の差ですごく居心地が良くて感動した。している。
運良くウマが合う人ばっかりで、仕事内容も苦手な事務作業だけどそんなに大変じゃなく(まあ非常勤だし)、幸せだって思う。
でも収入面からしても正規雇用になりたいし、いまパラサイトシングルだし、なによりもうこの家、土地から出たい。
私にはなんの技能もない。
昔諦めた業界がやっぱり気になる。憧れる。でも自分には許されないと思う。趣味レベルで専門知識ないし、学んでないし。おこがましいって思う。ありえない。
公務員になれしか言わない両親に、民間に行きたいんだって話をちらっとした。即答で、じゃあやれば?とっととやれば?はやく電話しろよwwwでもあんたのガラスのハートじゃ絶対民間じゃやってけないから、ぜったい公務員がいいんだけどなあ!民間はガラス過ぎて無理。御託はいいから、親としては「明日仕事やめて東京行くから応援してね!」っていうような主体性が欲しいの。とかいわれて、静かに衝撃うけてた。初めてパンフ取り寄せたときのことが思い浮かんで愕然としてた。あのとき確かに、自分で行動してはいけないんだって直感的におもって絶望したんだよ・・・。
私はずっと首輪をされてた気がするんだけど、両親からしたら、束縛はよくないから自由に育ててきたし、もう成人超えたんだから自分できめなさいよみたいな感じなんですよね。
じゃあいままでの何??
なんでこんなに苦しめられたの?なんで今もこんなに原因不明の苦しみを感じるの?
悔しい。束縛してきたじゃん!ってわけわからないままに悔しいし確かに成人こえてこんな親のせいで動けないとか喚いてる依存体質なのも自分に呆れて同年代以下に劣等感を強めて、いま何をすればいいのか、何をしたいのかわからない。
だってどうせガラスのハートすぎて働くところないんじゃん・・・?
いまの職場はたまたま恵まれてて、こんな鬱っぽい性格ってのを微塵も出さずに冗談いったりかわいがってもらえる場所にいるだけで、そもそも非正規の身分で、正社員とかやってもまえの会社みたいに到底耐えられないんだろう。
労働基準法守ってほしいっていうのが甘えなのかな?父にも労働基準法なんて守ってたら会社はなりたたないんだからなおまえは甘えすぎって説教くらったし母も「ブラック企業とかいうけど、ああいうのはどこの会社もやってるからね当然よそれが社会」っていうしわたしの労働観念がおかしいのかな。怖いよ。生きていけない。
何かするにもすごくエネルギーを必要とする。人の目をきにして動けないし。
人並みにいきていくにはどうしたらいいの。
すごい馬鹿なの承知だけど、自分の中におしとどめとくのが気持ち悪くて、バカだなっておもいながら深く考えず、書きなぐって、遂行もせず、匿名にブチ込む。ごめんね。
(追記)
埋もれずに反響があって驚きました。構成もなく読みにくいのに(「推敲」さえ誤変換してたのに)本当にありがとうございます…。
しかも叩かれるかと思ったら共感してくれる人や導いてくれようとしてくれる人ばかりでびっくりしました。お言葉も目からウロコ状態です。
話せば話すほどクズさが滲み出るので一度優しくされた身としては今どこそ叩かれそうで恐ろしいのですが、せっかく反応をいただけたので踏まえて簡単に追記をします。
はっきり毒親だとかいわれると、急に変な感じがして「いやでもうちの両親は優しいよ」みたいに反論したくなるので残念ながら共依存なんだなあと思います。
ふと昔のこと思い出しましたが母自身がけっこうやりたがりで、図工の宿題とかも気がつくと完成してたりしました。読書感想画も自由研究も私には主体性0で母の指示通りにやった作品が賞をとったことも多く、当時は深く考えず自分の手柄だと思ってましたから虚構のプライドだけ高いたいして能力のない人間になってました。「子の人生は、親の希望・親の人生でもあるんだよ♪愛しているからこそ」って言ってる母と、自分との線引き…がうまくとれないのかもしれません。
大学の頃カウンセリングには通いましたが本当にイマイチで、でもその方に非常に気にかけられてカウンセラー変更ができず、カウンセリングの時間はすごく気を遣ういやな時間しか過ごさなかったのでちょっと怖いです。マッチするカウンセラーという存在がにわかに信じられないのですが、カウンセリングは避けて通れないのでしょうか…(涙)
同じような苦しみを味わってる人がいるって、いいことじゃないのに、嬉しくなってしまう。安心?孤独感がちょっと和らぐという感じ。
ちげーよ脳みそついてんのか100ぺん読め
http://anond.hatelabo.jp/20140628202431
仕事貰えない男が噛みついてきただけで
私が男でも仕事貰ってたっつーの
女として上玉で、それが業務遂行上役立っても、サラリーマンだったらそれは評価されない、金にならねーって話なんだよ
それを惨め男がカンチガイして突っかかってきやがって
そんなに女がお得に見えるなら今すぐ玉縊っちまえよ
ま、どうやっても女は無能って喚いていたいだけなんだろうけどさ
そんなことしてたら潰れちまうよ
だからですね。外的な評価として絶対的に得意であるということと、内的な比較において相対的に得意であるということをごっちゃにされてませんかね。
例えば日本代表の常連の遠藤保仁はパスを出すのが得意な選手だが、それがイタリア代表のアンドレア・ピルロぐらいに上手いかと言うと、おそらくそうではない。ただ、例えば彼はマンマークや対人守備はJリーグでも怪しいぐらいに苦手だったり、ドリブルで持ち上がるというプレイはあまりしない中で、彼の中ではパスは得意なプレーなんだ。
レベルを変えて、高校サッカーで一昨年から俺が注目してる京都橘の中野克哉という選手がいて、彼はドリブルが非常に得意なんだけど、それが例えば日本代表に選ばれた斉藤学や世界的に有名なドリブラーのリオネル・メッシほど上手いかと言われると、決してそうではない。でも、中野くん個人で見た場合、彼はドリブルは得意なプレーなんだ。
もっと分かり易く、お前が大好きな俺の体育の成績が2だとか4だとか。体育の成績が平常3の人間でも、手を使う球技は苦手で、道具を使う球技はそれに比べればやりやすく感じ、それによって成績が上下する。それを指して、個人の中での比較の問題として、得意不得意があると言っている。
それが、平常5を取るような奴でも、競技に関して何となく「野球は得意だがサッカーは苦手だ」とか「剣道は得意だがテニスは苦手だ」とか、個人の内的な比較として、個々人のレベルに関わらず得手不得手は存在しているんだ、と言っている。
お前は常に絶対的な尺度で測って、何か一つの競技に長けた人間は万能にある程度何でもこなせる、と言っている。それは、一定のレベルではそうだろう。確かに日本代表に選ばれるようなサッカー選手で、100mに20秒もかかるような奴がいるとは思わない。
ただ、俺はある程度の運動神経があって仮に万能に何でもこなせたとしても、個人の中には比較の問題として得手不得手が存在する、と言っている。
遠藤保仁はパス出しが非常に上手い選手で、戦術(誤字のため訂正)先述の通りパスは非常に得意な選手だが、マンマークは非常に苦手としていて、ギリシャ戦でも後半たしか5回あったコーナーキックで3回は選手のマークを遂行できていなかった。遠藤は日本でも一流の選手だが、個人の内的な比較として、パス出しは得意でマークは苦手である、と言える。そのマークが苦手な遠藤でも、高校選手権に一人放り込んだらコーナーキックのマークはちゃんとやってのけるだろう。だが、遠藤個人の中で見た場合、やはりマークは苦手だと言わざるを得ない。
中野克也は高校レベルではかなり有力なドリブラーだし、彼のプレーの中ではドリブルが一番得意だということが出来る。しかし、これをいきなりドイツやスペインの1部リーグに放り込んで通用するほど得意と言えるとは考えていない。
他人の技術との比較や成績や世間の評価のような外的な基準ではなく、個人の行為の中における内的な基準として、得意不得意は常に存在し、そこには球を使うか使わないかや球の使い方のような要因が想定されても良いだろう、と言っている。
こう書くと誤解されそうだけど、尊敬できる人とは褒めてくれる人なんだと唐突に気付いた。
もうちょい幅を広げると、自分を肯定してくれる人か。
たとえば会ったことないけど尊敬できる人というのは、自分の考え方やスタイルを遂行して成功してくれた人なので、後者に含まれる。
ところで、この尊敬できる人というのは入学試験や入社試験では定番のようである。
となると、これはかなり強烈な質問だ。
暗に「あんた、他人から褒められたことある?」と訊かれているのだ。そこまで意識して問うてるかは不明だけど。
「尊敬する人は親です」という返答「そうじゃねーよ」と受け止められるのも然りである。親は褒めてくれるだろ。そうでない場合も多くあるけど、これは後に繋がることなので保留。
歴史上の人物など会ったことのない人を挙げる場合は、その根拠で受験者がどういうの人物か計られることになる。
なんとなく坂本龍馬とか織田信長とか挙げると「お前の人格はそんなありふれた回答で表現できるのか」となる。
そうなると、この質問、答えるのにけっこう苦労する人も多いんじゃないかと思う。
おそらく今の日本人はそういう人に出会えない場合がほとんどだ。
親すら褒めてくれない、だからどいつもこいつも自己肯定感が低い。
褒めてくれる人を尊敬するというのは、怒らない人が好きとかいう甘えた話ではない。
単なるお世辞やおべっかを超えた、「褒められた!」という実感を与えてくれる人、そういう人と関係を構築できた経験はとても有意義であると思う。
後輩のゆとり系独身女子(以後、ユトリン)が職場のオッサンたちに大人気である。
いろいろなくたびれたオッサン~おじいちゃんたちが「ちゃんと仕事してるのかー」なんて話しかけに来るし、みんな「仲良くなりたい」という下心がかいま見える。しかしオッサンたちは仲良くなった根拠として子供じみたことを言うのでやめてほしい。バカか。
アラサー男の自分としては、オッサン必死過ぎるwwwゆとりんガンバレwwwwと思ってたんだけど最近気づいた。
これはユトリンによる巧妙な作戦なのだ。ユトリンの変に甘ったるい声やたまに入るタメ語や意味不明のワガママはすべておっさんの心に刺さるらしく、この甘美な罠にひっかかったオッサンたちが吸い寄せられてくるのだ!
すげえーーー!すごい技を見ているんだな俺は。
既婚アラサーにすると正直言って、オッサンにも(ゆとりん)にもイラついてしまうことがある。たとえそれが生存戦略だとしても。
生き方の甘さやナメてる感じを感じてしまう。てか俺がナメられてるだけなんだが。(「もっと仕事を断ってくださいよー」とか言われる。)
お膳立てしてくれない周りが悪いと思っているのだろうか。
一回厳しく言ったほうがいいんだろうけど、そんな優しさは俺にはないしスネて仕事に来なくなったりしたらメンドイ。結婚してないからすぐ辞めれるだろうし。
平成 26 年 5 月 27 日
役職員各位
古 屋 輝 夫
職務に関わる情報の取り扱いについて
今般のSTAP細胞論文の問題に関する報道やインターネット上において、公表
されていない重要な情報が所定の手続きを経ることなく所外に出ているのでは
ないかと思われる記述が見受けられます。この状況は極めて遺憾であり、業務
の円滑な遂行を妨げるだけでなく、研究所の信用を著しく傷つけることにもな
りかねません。
STAP細胞論文の問題に限らず、研究所の役職員は、法律や諸規定により秘密
保持義務が課せられているとともに、これには罰則規定があることも再認識し、
業務に精励されるよう改めて周知いたします。
以 上
参考:
○独立行政法人理化学研究所法 (平成 14 年 12 月 13 日法律第 160 号)
[...中略...]
第 15 条 研究所の役員及び職員は、刑法(明治 40 年法律第 45 号)その他の罰
第 23 条 第 14 条の規定に違反して秘密を漏らし、又は盗用した者は、1 年以下
○定年制職員就業規程(平成 15 年 10 月 1 日規程第 33 号)
[...中略...]
http://ai.2ch.net/test/read.cgi/life/1401713853/166
http://shinka3.exblog.jp/4604977/
http://www.asahi.com/articles/ASG643PLFG64PLZB009.html
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2014/06/04/kiji/K20140604008296790.html
先週、ノルマンディー上陸作戦70周年で英米のメディアが騒がしかったので、ふと思い立ち、映画「プライベートライアン」を鑑賞。
サラリーマンになってからは初めて観るプライベートライアン。
労働基準法なにそれおいしいの系サラリーマンの私にとって、しみじみ感あふれるあるあるネタが満載で、別の意味で「ああ、戦争ってひどい」と思ったので、メモ。
ミッション「3人の兄が戦死した4人兄弟の末っ子(ライアン)を救うために、敵のど真ん中に8人で行ってくること!ライアンは必ず生きて連れて帰ること!」
会社上層部の指令だが、一人連れ戻すのに8人を高いリスクに曝すとかよくわからない。
しかし断れない。
「それって意味なくないすか?」と言いながら巻き込まれる下っ端。
ライアンがいた空挺部隊の1機が墜落、乗員のほとんどが亡くなったらしい。
戦死者のドッグタグ(識別票)が入った袋を受け取り、ライアンのものがないか、黙々と探すメンバー。
ドッグタグをトランプのように粗雑に扱いながら、「ライアンがこの中にいたら、俺たちこのクソジョブから解放されるなー」という下衆な表情を浮かべるメンバー。
それを軽蔑の目でみる、仲間を失った空挺隊員達。
中間管理職、ライアンの所在が分かり道を急ぐ途中、遠くの丘に陣取る敵部隊を発見。
任務遂行上、ちょっと遠回りすればその丘はスルーできる。そっちの方が安全。
「我々がやらなければ、この後に来た部隊が被害を被るかもしれないんだぞ!」
結果2名死亡。しかも逃がした捕虜が、その後自分達に攻撃してくるブーメラン。
ようやく見つかったライアン。
しかし自分の持ち場を離れたくない、一緒に戦いたいと言いだし、その熱意におされて作戦に巻き込まれる救出部隊一行。
あー、戦争ってひどい。
「採用の決め手となる何かが足りない。やりたいという熱意が見えてこない。たとえ、貴方が熱意を持っていたとしても、この面接で感じとることができない。後日、もう一度面接をしましょう。そのときまでに、もっと業界研究をして、弊社に入りたいということをアピールできるようにしておいてください。」
一次面接の壁を突破し、なんとか辿り着いた二次面接。そこで、社長さんに言われたセリフがこれだった。
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僕の今の状況を説明しよう。
24歳で大学院の修士課程を卒業。学生時代、十数社の企業や団体の採用試験を受けたが、どこも通らず。しかし、不採用だった1社から、契約職員のお誘いが来て、1年間の契約で働くことになった。しかし、契約更新はしてもらえず1年で退職。そして、25歳。就職先が見つからずに、ニートになってしまった。(厳密には、求職活動中の人はニートとは呼ばないらしいが、読者の方にとってはこの表現の方がわかりやすいと思うので、こう表現する。)
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学生(大学院生)の頃は、受ける企業を少数に絞って、就職活動をすることにしてた。手当たり次第に受けるよりも、少ない企業に絞って企業のことを深く研究したほうが、企業側には熱意が伝わるだろうと思ったからだ。さらに、この戦略をとる理由としてもう1つ挙げられるのが、僕はあくまで学生なので、卒業研究に専念したいという思いがあったということだ。僕はもともと、勉強や研究が好きで、就活なんていう雑用は早く終わらせたかった。
企業もなるべく、研究だとか開発というような色合いの強そうなところを選んで受けた。それなりに、入りたいという意志があった。
しかし、結果はどこも1次面接で不採用。筆記試験はほとんどの企業で通るのに、面接になると落ちる。
その結果、「こんなに入りたいという意志があるのに、落とすなんてひどい」という負の感情と「どうせ、僕はどこを受けてもダメなんだ」というモチベーションの低下が生まれた。それでも、周囲の人の支えにより、少しずつ企業や公共団体の試験を受けて行った。そして、2月。ようやく就職が決まった。1年の契約職員だけど。
そして、僕は1年間そこの会社で働いた。しかし、やっても失敗ばかり。イメージしていた仕事とは全然違う。職場の人との意見は合わない。円満な人間関係を作るために、もしくは職務を遂行するために、素の自分を殺し、つねに偽りの自分を演じなければならなかった。「言いたいことが言えない」という状態がずっと続いた。(1つだけ補足すると、いわゆるブラック企業ではない。福利厚生はちゃんとしているし、法律はちゃんと守ってるし、離職率も低い)
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僕は、再び、就職活動をすることになった。僕は今までの失敗の原因を「自分の性格と企業の求める人材像の不一致」と考えた。だから、自己分析を入念に行った。自分の心と向き合う作業。自分の今までの経験を踏まえて、自分の性格を見つけ、ノートに書き出してみる。例えば、僕は学生時代によく先生に質問することが多かったことや、研究をして新しいことを発見するのが好きなことから「好奇心が旺盛な性格」であることに気づいた。
問題は、ここからである。自分の「好奇心が旺盛な性格」にピッタリ合う職場はどこにあるのかということである。この問題には、「手当たり次第受けてみる」という作戦を取ることにした。幸い、ニートの僕には時間があった。企業を手当たり次第受けることに何の時間的制約も受けなかった。さらに、この作戦にはもう1つ利点があった。それは、心理的な安定が得られる点である。志望企業が2社ある内の1社から不採用通知がくるのと、志望企業が20社あるうちの1社から不採用通知が来るのでは心理的な負担が違う。20社のうち1社落ちても、たかが1社落ちただけで、まだ19社残ってると自分の心に言い聞かせることができる。また、学生時代に感じた「あれだけ熱心に調べたのに」という怒りも感じない。不採用通知が心のなかで穏便に処理されるのだ。
こんな流れができているもんだから、テスト(面接)の段階では、既に次に受ける企業のことを考えているという始末。
僕は、就職活動が順調に進んでいる。そう思い込んでいた。しかし、状況は何一つ進んでいなかったのだ。僕は、就職活動というイベントを行っただけで、「就職先を決める」という本質を見失っていた。
そして、「手当たり次第受けてみる」作戦の決定的な問題点が浮き彫りになった。それは、熱意の不足、もしくはやる気のなさである。僕の就活のスタンスは「僕はこんな性格の人間です。採用するかしないかは、御社が決めてください。」という形であった。「どうしても御社でなければダメなんだ。」「御社で働きたいんだ」という熱意が欠けていた。それが、不採用の原因となってきたのだ。
考えてみれば、僕には、「どうしてもやりたいこと」や「どうしても欲しいもの」がなかった。企業に落ちても「別にいいや」、雇用契約が更新されなくても「まあいいや」、恋人に別れようと言われても「しょうがないや」。いつしか、僕は、何かを追い続けるということをしなくなった。
http://diamond.jp/articles/-/53748
記事は「みんなこの改革を理解してないで的外れに反対している」ってことなんだが、この改革や記事の人がまったく理解していない(あるいは意図的に無視している)ことがあって、それは「大半の人は生産性が低い」ってことだ。というか「生産性ってのは属人的だ」って話でもある。
外資も含めていろんな企業で働いたし見てきたけれど、ある仕事を遂行するにあたって、どのくらい仕事できるか、利益に貢献できるかってのは、非常に属人性が高い。いわゆる「仕事できるやつ」ってのは、本当に掛け値なしにできる。同僚の20倍できるやつってのは事実存在する。それは一握りだとしても、10人程度の部署であっても3倍4倍の生産性の違いがあるのはザラだ。それは経験がどうとか年齢がどうとか入社時期がどうだとかじゃなく、もう本当に属人としか言いようがない。人によるのだ。
それでも日本的な企業ってのは、おおよそ給料は横並びだ。できるやつは多少給料に色がついてるだけで、間違っても20倍ももらえない。せいぜい出世が早くなる程度だろう。それすらも企業の規模によってはない場合も多い。現場のエースを管理職に回したら現場が回らない、程度の理由でだ。
生産性が低い労働者ってのが、属人として生産性が低いわけだが、それでも会社に貢献できる(とされている)ことがあり、それが残業なのだ。日本の少なくない企業で、残業というのは業務を終わらせるためのものではなく、「わたしは会社に対して忠誠心高い社員です」というメッセージを、労働者が周囲に示すために行われている事実ってのが現実じゃなかろうか。続くメッセージは「わたしが、給与に対して割り当てられた該当業務において売上ノルマの売上を確保できなくても、給与はちゃんと下さい。なんといってもわたしはこんなにも忠誠心が高いのですから」ということであり、これが「日本の労働は生産性が低い」の光景だ。
「日本の労働文化は国際的に見て生産性が低い」「だから生産性の高い人に対しては報酬で報いるべきである」ってのは正しい。正論だ。でもこの話の本質ってのは「忠誠心とかなんとか奇妙な踏み絵じみたアピをする無能な奴は全部アレしちゃおうぜ」って話なのだ。アレってのはもちろんクビを切るなんて云う安易な話ではなくて、無理やり生産性を上げるってことだ。そのために(スパルタンに)管理するという話でもある。そしてそれはムチとして「残業代カット」を含むだろう。だって同じ給与のエースは、残業をつかわなくても2倍のノルマをこなしているのだから、同一成果同一賃金の法則に照らせば、生産性が低い労働者に対して残業代を払うのは不公平だ。
おそらく圧倒的多数の国民は無意識にせよこれに気がついている。
「労働時間の規制改革」に反対しているのは、べつに「本質が理解できてないから」ではなく「自分がいままで寄生していた」自覚があるからだ。「仕事ができなくても、上司の嫌味を聞きながしながら長時間デスクに座ってればお給料がもらえる既得権益」を守りたいだけなんだ。だからこれは戦略的に見て極めて正しい反対である。
もちろんそんなことをしてれば会社も国も傾くけどな。
リベラルで理性的なコメントが優勢な「はてな」ですら、違法薬物については俗っぽい厳罰論が優勢なことに私は驚いている。
ヨーロッパやオーストラリアでは、違法薬物に対して厳罰主義ではなく実害最小化主義(Harm Minimization、適切な訳語が見つからないので私の感性に基づいて直訳した)の姿勢をとっている。発展途上国、シンガポールや韓国などの開発独裁国、ならびに日本は厳罰主義である。アメリカ合衆国は中間ぐらいだ。実害最小化主義は即ち危険や害悪の元を絶つことは不可能であるから、それらが存在しうる前提で実害を最小限に使用という試みであって、性風俗産業にコンドームを配布するとか、薬物使用されうる繁華街などで使い捨ての注射器を配ったりするとかがそれにあたる。なお実害最小化主義においても、違法売春の元締めや違法薬物の流通に関しては極めて厳しい罰則が定められている。したがって違法薬物の使用者は弱者であり守られるべきであるが、それらを食い物にして金を儲ける奴はけしからん、というある種の優しさからくる社会正義に基づいているといえる。賛否両論はあるだろうし偏見に基づく価値基準であることは否めないが、ヨーロッパ諸国と発展途上国のどちらが人類に最適化された社会システムを持っているかは、少なくとも私にとっては疑いの余地がない。日本は先進国として実害最小化主義に軸足を移すべきである。「覚醒剤やめますか?それとも人間やめますか?」なんて全くナンセンスであって、人間の価値は覚醒剤の使用で毀損されるほど不安定なものではない。「間接的に反社会勢力の資金源に・・・」とかいう話は置いておくならば、他人に何ら実害を与えていない違法薬物使用者を極悪人のように仕立て上げて報道するのは間違っている。
モルヒネで前後不覚になって職務遂行不能であったならともかく、社会生活に支障の無いリラクゼーション・ユースの覚醒剤使用で逮捕された校長先生の作曲した校歌を変える、チャゲアスの楽曲が使われているテレビ番組の現場が騒然、とか全く的外れもいいところである。それならば全員ヤク中、それもMDMAなんていうヤワなもんじゃない、皿に山盛りのヘロインとかコカインでパーティーやりながらレコーディングしていたMiles DavisやJohn Coltraneが作ったアルバムなんて完全に発禁だし、現代音楽も基になるバークリー音楽理論なんてそいつらが発展させたようなもんなんだから、違法薬物抜きには語れない現代の商業音楽作品は全て発禁だ。
そもそも私はモルヒネやヘロインなど「狭義の麻薬」を使用するのはやめた方がよいと思う。しかしMDMAのような穏やかで感染リスクのない覚醒剤や、身体依存の全くない大麻と、合法である酒やタバコを仕切る境目に合理性を見いだせない。後者は薬理作用の他に食品や嗜好品としての味わいがあるが、大半の使用者はこれらを薬物として摂取している。なぜか問題にされないが、特に飲酒の害悪は恐ろしい。加害者がそれなりの社会的立場を有している場合の喧嘩やセクハラなどは大半が飲酒による酩酊のせいといっても過言ではない。覚醒剤使用で懲戒免職なら、飲酒して他人に絡んだら懲役の実刑ぐらいじゃないと釣り合わないと思うぐらいだ。
だからASKAとか槇原敬之とかミュージシャンが薬やってたって騒ぐことじゃないし、「やまとなでしこ」も「ホテル」も再放送で観たいし、大麻くんは大野やってないよ。
勢いで描いたので多分に偏見や引用が不十分な部分があることは自覚しています。「アスカに覚醒剤を教えたのはチャゲであって、チャゲは「残念です」とかコメントしてる場合じゃない、自分が黒幕のくせして。見た目的に。」ぐらいの偏見で書いてる。ごめん。
今日、上長と先輩が「上に呼ばれて行って来たら、〇〇さんが今月末までって今告げられて、また上同士で勝手に決めて通達もせず、ゴニョゴニョ」みたいな話をしてた。
アレが今月末でいなくなるんだって!
やったーーーーー!
仕事増えるし、普段無表情無感情な私が凄く嬉しそうにしてるのが気に入らないのか複数人がチマチマした小姑みたいな嫌がらせしてくるけど、全然気にならない!
二年くらい居たけど、お客さん気分の抜けない奴で、客目線で行動しては職場ルールを破りまくって意見しまくって先輩なめた態度を取りまくってた。
「色々な業界やあちこちの職場で色々経験してきてるから自分は有能!だから先輩よりも使えるぜ?」みたいなアピールのウザいしゃしゃり野郎だったが、そもそもが、命令に対する理解や遂行ではなく服従が求められる世界。評価される基準がわかってない。
わかってないし、気付いても「そういうの間違ってると思う」とか意見するだけで、理解する気がない。お前の意見なんか誰も聞いてない。
で、結局はお客さん気分が抜けないから、どこでもお客さん扱いされて、これまでもあちこちの職場をたらい回しにされてる。
ほんっと、バカだねー。「まあ〇年くらいなら・・・」って言って雇ってくれたところはどこも、本当ならば永続雇用する気があったってのは聞いてるのにねー。「〇年だけ」って約束で雇ってもらってその後何十年って勤めている人という実例と実績もあるのにねー。お前がいつまでもお客さんだから帰されちゃうんだよ?
ところで、京都ではお客さんに帰って欲しい時に「ぶぶ漬けでもどうどす」って勧めるんだよね?
餞別は職場全員で渡すんだけど、別に私個人から餞別を渡してあげようと思う。
お客さん、早く帰って下さいね! 邪 魔 だ か ら !
業界や職種や地域、企業規模や経営方針によって変わるだろうけど、各等級の金額を調整したり等級を細分化/集約すれば、日本に良くある緩やかな成果主義の会社は大体これに準じた感じになると思う。
等級 | 役職 | 昇級時年齢 | 年収レンジ | 役割 |
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1 | 平社員(若手) | N/A | 300万~ 400万 | 先輩の指示のもと業務を遂行できる |
2 | 平社員(一般) | 25~27 | 400万~ 500万 | 自分の判断で業務を遂行できる |
3 | 主任 | 30~35 | 550万~ 650万 | 部下の管理、教育が行える |
4 | 課長 | 35~50 | 750万~ 850万 | 部の売上/利益目標のため、課の資源最適化が出来る |
5 | 部長 | 45~50 | 900万~1,000万 | 本部の事業計画実現のため、部の資源最適化が出来る |
6 | 本部長 | 50~55 | 1,000万~1,200万 | 経営戦略を実現するのための事業計画を立案出来る |
7 | 役員 | 55~60 | 1,200万~1,500万 | 長期ビジョンの策定、経営戦略の立案が出来る |
いや、毎回一応記者会見は開いていると思うけど・・
テレビに映らないからそう見えるのかもしれないけれど新聞は取材に来てくれたりする。紙の新聞はダメでもweb版なんかには載せてくれたりするよ。
テレビカメラも一応、地元NHKなんかは来てフラッシュニュース(時間調整用の10秒くらいのやつ)用に撮っていったりする。使われるかどうかは運次第。
全く人気のないうちの分野でもこんな感じ。
それから理研がどの研究をプレスリリース出すか選んでいるわけではなくて
http://www.riken.jp/pr/press/2014/20140130_1/
割烹着なんてどこにもない
さらに2日後の31日には「報道関係者の皆様へのお願い」が出されている
http://www.cdb.riken.jp/crp/news2014.1.31_2.html
しかし、研究発表に関する記者会見以降、研究成果に関係のない報道が一人歩きしてしまい、研究活動に支障が出ている状況です。また、小保方本人やその親族のプライバシーに関わる取材が過熱し、お世話になってきた知人・友人をはじめ、近隣にお住いの方々にまでご迷惑が及び大変心苦しい毎日を送っております。真実でない報道もあり、その対応に翻弄され、研究を遂行することが困難な状況になってしまいました。報道関係の方々におかれましては、どうか今がSTAP細胞研究の今後の発展にとって非常に大事な時期であることをご理解いただけますよう、心よりお願い申し上げます。
入学式や入社式を終えて、新しい環境でスタートを切った人も多いだろう。
期待と不安に包まれる4月、ネット上では「ぼっち」という言葉がバズワードとなっている。
twitterや2chでは「早速ぼっちになってしまった」「どうすればぼっち回避できるの?」といった投稿が目に付くし、
ブログやまとめサイトでは「ぼっちには絶対なるな」「ぼっちにならないための◯つの方法」なんてエントリがブックマークやいいねを集めている。
ぼっち=コミュニティにおいて孤立することは望ましくないことであり、忌み嫌われる。
会社において、より円滑な業務遂行のためにも孤立は避けるべきだろうし、経験上私もそう思う。
それでも同時に、孤独によって得られる時間がかけがえの無いものであることも、理解している。
このエントリではとりわけ大学という場においての孤独の価値を書きたい。
私自身の大学入学後にクズとつるんだ経験と、別大学への編入後のぼっち経験の両方から、タイトル通りの主張をしたい。
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漫画やアニメ、最近では動画投稿サイトに上げられた他者の作品を一方的に大食らいし、
自分と違う人(生産的で積極的な人)を見ては馬鹿にする、茶化す人のことだ。
(クズという呼び方は的外れかも知れないが、まあ呼び方はこの際何でも良い。)
クズとつるむことの何が問題か。
コミュニティに所属する人々の思考が平均化されるのは、至極自然の作用である。
特に大学というのは高校よりも遥かに大きなコミュニティであり、他者からの影響力が大きい。
入学したてともなれば、どのように大学生活を送って良いのか分からず、友達グループの他者を見て真似ることが多いだろう。
真似る対象がクズ、もしくは最初はニュートラルだったが後にクズ化する人だった場合、あなたのクズ化も始まる。
授業が面倒なのでサボる。ダルいダルいとアピールし不要なことは極力やらない。
自分と違う人間を馬鹿にしたりツッコミを入れるのも、それが楽で楽しいからだ。
読んでいる人の中にも心当たりのある人がいるだろう。
そんな何もしない人間がかっこ良く見えるのは漫画やアニメの主人公だけだ。
本人はかっこ良いつもりかも知れないが、周りから見たらクズはクズなのだ。
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こういったクズな人達とつるむくらいなら、自ら進んでぼっちになろう。
理想的には、生産的で積極的な人達とつるむのが良いのだけれど、大抵どの大学でもそんな人間は中々いるものではない。
ぼっちは悪いことではない。
孤立を怖がるのは生物としての心理的防衛本能が働くからで、そもそも良い悪いの尺度で図れるものではない。
ぼっちになるとどんなチャンスが得られるか。
孤独になることで、思考と試行をするための膨大な時間を確保できる。
他者に邪魔されない時間が手に入るのだ。これを大いに活用しよう。
読書をして知識と思考を深めるのも良いだろう。
適度にアルバイトをしつつ外国語を勉強して、海外を旅してみるのも良いだろう。
簡単ではないが、専門科目で苦戦するクラスメイトを尻目に、教授が驚くほどの専門知識を身につけてしまっても良い。
大学内でぼっちでいても、大学外で同じ趣味の人や気の合う人を見つけたって良いのだ。
独自の視点で作品を作って、動画投稿サイトに上げてみるのも良いだろう。
インターネットを通じて世代を超えた交流が生まれることもある。
クズは挙って馬鹿にするだろうが、生産的で積極的なあなたの行動をあなたは誇って良いのだ。
クズはクズのままである一方で、あなたが得た経験、知識、スキルはやがてあなたの自信となるだろう。
以前こんなエントリを書いた。
悪い面を過度に強調した釣り記事で酷い自分語りではあるが、これも私に孤独な時間があったからこそ体験できたことの一例である。
「ニコニコ動画で有名になっても良い事がなかった話」
http://anond.hatelabo.jp/20130124181650
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こんな反論があるだろう。
「友達付き合いもしながらも、1人の時には努力すれば良いじゃん。」
しかし、私を含めた多くの人は、多大な影響を他者から受けてクズ化してしまう。
周りの人達が口を揃えて明日の1時限目はサボると言えば、自分もまぁ良いかと思ってサボってしまうのだ。
周りの人達のTOEICスコアが450点だったなんて聞いてしまえば、自分は500点だったからまぁ良いかと思ってそれ以上の努力はしないのだ。
大学生なんてそんなものだ。私は大学編入を機にこの状態から抜けだしたが。
別の反論としては、
他人と違うことをやってきたこと自体は就活でアピールできるだろうが、
入社後、他人と考え方が違うことで摩擦を生む可能性は十分にある。
これはぼっちとしてやってきたことによる代償とも言える。
他人とうまくやる能力に関しては、クズ同士つるんで画一化された人と比べて劣っていると認めた上で、
多少の歩み寄りが必要かも知れない。
これも悪い面を強調してあるが、私自身入社後に苦労した体験から書いた記事である。
http://anond.hatelabo.jp/20130324133313
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大学時代をぼっちとして過ごす人は独自の経験と思考と価値観を武器にできる可能性がある。