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はてなキーワード: 尊崇とは

2022-11-02

図書館司書待遇問題解決する方法

図書館司書現場国民知識水準を担保する国家的な役割を担う人材であり、人々の尊崇を集めている

このため、図書館司書経済的苦境が明らかなになれば支援の手を差し伸べる人が続々と現れることは確実である

したがって図書館司書収入を確保する手段としてクラウドファンディングは有望である

クラウドファンディングサイト図書館司書の窮状を伝えれば十分な資金が集まることが想定される

2022-06-16

白井聡、こいつもダメだな

https://twitter.com/shirai_satoshi/status/1536398891016327169?cxt=HHwWgsCoxdapsdIqAAAA

「下」と言うとカネの多寡とか肩書地位のことだと自動的に思い込む。そういうのが「下」ってことなんだ。俺が言っているのは「品」の上下以外ではない。

世間一般では下っていったら普通地位金銭的なものだろ。おまえの定義なんて知らねえよ。

そもそも問題なのは「品」なんていう恣意的もんじゃなくて普遍的正義だろ。

それこそ「万世一系天皇家尊崇することは気品に満ちた行為」となるのでは?

2022-03-21

日本仏教なんてろくなもんじゃない

[B! 宗教] 財政難の京都市で「寺社から税金取るべき」の声 戸惑う宗教界、市の見解は(京都新聞) - Yahoo!ニュース

京都のお寺と一般のお寺(檀家寺)は違うからなあ。「高級車に乗る坊主」は京都特有で、普通の寺は半分以上は赤字、住職の副業で補ってるのが多い。ちなみに税務署は檀家が多い寺にはよく来て、過去帳まで漁るよ。 - wwakainkyo のブックマーク / はてなブックマーク

別に京都特有でもない。田舎でもちょっとした人口密集地なら普通に高級車や外車に乗っている。

お布施に税金取り出したら宗教みんな拝金主義に走っちゃうよ。一休さんが若い頃に嘆いていた室町初期の仏教にしたいのか?? 応仁の乱で全部忘れたのか?? - shikiarai のブックマーク / はてなブックマーク

仏教拝金主義だったのは室町以後も同じ。むしろ檀家制度の後の方がひどい。

仏教僧の戒律に肉食妻帯禁止があったと思うんですが…坊主は戒律くらい守ってから、色々主張しようぜ。 - scluge のブックマーク / はてなブックマーク

戒律重視は上座部仏教日本仏教は全て大乗仏教であり、解釈改憲の如き屁理屈破戒推し進めてきた長い歴史がある。日本坊主に「戒律を守れ」と言うと長い弁明がスラスラと出てくるか、もしくは「あなた仏教理解が足りない」で一蹴される。

宗教に対してなんの心得も尊崇もない破戒僧にすらなれない煩悩畜生風情から金儲けして高級車乗りまわしてたら言われるだろ。しかし最近の坊主は気の利いた説法もできないほど頭悪いのか - tettekete37564 のブックマーク / はてなブックマーク

仏教史を勉強すると最終的に「日本仏教仏教ではない」という辛い事実に突き当たる。誠実に勉強した坊主ほど御高説を垂れることができなくなるジレンマ

高級車乗ってる僧侶は副業で稼いでる人がメインかと。/トヨタは豊田市で中学生を海外短期留学させてるくらい納税してるらしいけど任天堂は何か貢献してるのかな? - keren71 のブックマーク / はてなブックマーク

京都場合観光収入かもしれないが、だいたいは葬式香典と毎年徴収している墓地使用料

仏教史は過去から現在に至るまで腐敗の宝庫なので、そろそろ次の「ネットDE真実」のネタになりそうな気がしている。

2021-05-13

科学とは

日本地質学界ではマルクス主義思想が強かったことや、ソ連が推す地向斜造山論に傾倒していたことなども重なり、センメルヴェイス反射状の反応を起こし、学会で受け入れられるまでには一般社会で普及してから10年以上を要した[58]。



やれやれ、こんなものだな。結局は。

科学と言いながら、結局それは政治権力や、もっと究極的には世俗世相の膾炙に大きく依存するということ。

正しいことなコペルニクス的にひっくり返る。

問題は、ひっくり返る前と後での憎悪の連鎖応酬系だ。

ワクチンも結局、正しいか否かではなく、

天動説派と地動説派の終わりなき永劫の憎悪応酬に過ぎないのではないのかね。

勝てば官軍負ければ賊軍

勝ち負けを科学の基礎に据えればそうした革命もどきの浅ましい構図に堕落する。

だが、本当に科学を求めるのなら、

―――それまでずっと正しいと思っていたことが崩壊し、

そして、新しいことを科学者として受け入れなくてはならない究極の悲しみに直面することになるだろう。

信じるが故に信じたもの永遠の死が訪れ、

信じるが故に信じもしなかったことを現実として信じることを受け入れさせられるのだ

それが、科学ということなのだ。

…育んだ命が死に、

命とも思えぬものが芽吹くのが科学なのではなかったのだろうか、・・・

そこに世俗の勝ち負けだ政治権力だ、名声だ名誉だ怒りだ憎しみだ執着だ望みだ富だ正義だ、正統だ、だのが絡んできたら・・・

正しいことなど途端に世俗の嵐の中に埋没して、

自らが求めていた正しさの果たして何が正しかったのか、私は一体何を求めていたのか、

見失うことは想像に難くない。

そもそも科学が正しさを根本から覆しにかかってくるのだ。

こんな不安定世界の中では、"正しさ"の輪郭背骨、根幹などは、何らの頼りにもよすがにもならない

それでも私は、科学が正しいと、

そこにずっとあり続けるものが正しい、というか、信じ続ける、というものが、あるかどうか

そうしたものへの尊崇が共有できない限り、人はきっと、決して、科学というものを語り合い、

況してや分かり合うなどということは適わないのだろうと思う

果てなき世界への問いかけこそが、科学であり、哀しみであり、人生なのではないだろうか

2020-12-12

フェニミズムとは一生関わらずに生きていきたい

ネット上での酷いやり取りを見ているだけでたくさんだと思える

寛容さがない人間はどの宗教を信望してもけっきょく他人攻撃したいだけなのだ

攻撃性の根底には日頃自分が感じている恐れがある

その恐れを感じてお気持ちを表明するのは勝手だが、それを無差別他人非難する口実に使わないでいただきたい

けっきょくのところフェニミズムとは知的訓練ができていない人間理論武装をした気になって他人攻撃するための口実に過ぎない

だいたい、古代オリエントの神フェニミを唯一神として尊崇する宗教という設定がよくわからない

世界本部」が東京東中野にあるのもおかし

2020-08-29

anond:20200829134729

まず将棋界には強烈な「若手信仰」がある。

中学生棋士」に代表される「プロになった年齢が低いほど天才だ」という信仰

そして、それは概ね正しい。

その最新の証明藤井聡太だ。

将棋界には数十年ごとに「その時代覇者」とも言うべき大棋士が生まれている(木村義雄大山康晴中原誠羽生善治…)。

藤井聡太はその後継者位置を確保した。

現時点で既に藤井聡太は他の棋士よりも圧倒的に強い。

渡辺豊島・永瀬の三強と比べても頭ひとつ抜けている(豊島には四連敗中だが次にやれば勝てるだろう)。

その強さに対して、将棋ファンは単純に畏怖している。

その才能を尊崇し、新たな覇者誕生を祝福している。

が、それと「藤井聡太という棋士個人ファンか」というのは別の話。

そりゃ興行的に言えば「いつも同じ棋士が勝つ」「自分の贔屓の棋士がボロ負けする」なんてつまんないよ。

新たな歴史目撃者としての高揚と、古い歴史が塗り替えられるのを見る哀愁、どっちが強いかは人それぞれです。

2020-01-16

anond:20200116044206

我が岡山さぬきうどん文化圏真正なる一員。はなまるだの製麺だのは相手にしない。

香川文化的宗主国として尊崇対象なので条例がどうたらなんてちっちゃいことはどうでもいい

2019-08-11

表現不自由展については、ここら辺が同意できる内容だった

東浩紀

まずは慰安婦像について。いま日韓はたいへんな外交的困難を抱えています。けれども、そのようないまだからこそ、焦点のひとつである慰安婦像に、政治的意味とはべつに芸術的価値もあると提示することには、成功すれば、国際美術展として大きな意義があったと思います

政治はひとを友と敵に分けるものだといわれます。たしかにそのような側面があります。けれども、人間政治だけで生きているわけではありません。それを気付かせるのも芸術役割ひとつです。あいトリがそのような場になる可能性はありました。

ただ、その役割機能するためには、展示が政治的扇動にたやすく利用されないように、情報公開や会場設計を含め、もっといねいな準備と説明必要だったように思います。その点について、十分な予測ができなかったことを、深く反省しています

宮台真司

「「社会の外」を示すから政治的対立を超えた衝撃で人をつなげる」「政治的文脈を利用してもいいけれど、そこに埋没したらアートではない」

橋下徹

今回の「表現不自由展・その後」は、「一方的な」政治表現に偏ってしまたことが問題だ。しかし、「手続き正義」の考え方をしっかり踏まえれば、実は、表現の自由の限界慰安婦像問題点などを深く考える非常にいい展示になっていたと思う。ただし、慰安婦像に賛成する者、反対する者、天皇制に賛成する者、反対する者、特攻揶揄する者、尊崇する者、それら両者から批判を浴びることになるだろう。場合によっては命の危険すらある。

2019-01-18

anond:20190118113306

のちにアリーの支持派はシーア派となり、アリーシーア派によって初代イマームとしてムハンマドに勝るとも劣らない尊崇を受けることとなった。アリーとファーティマの間の息子ハサンフサインはそれぞれ第2代、第3代のイマームとされている。また、彼らの子孫はファーティマを通じて預言者の血を引くことからスンナ派にとってもサイイドとして尊崇されている。

2017-05-19

園城寺(おんじょうじ)は、滋賀県大津市園城寺町にある、天台寺門宗総本山。山号を「長等山(ながらさん)」と称する。

開基(創立者)は大友与多王、本尊弥勒菩薩である日本三不動の一である黄不動で著名な寺院で、観音堂は西国三十三所観音霊場の第14番札所である。また、近江八景の1つである三井の晩鐘」でも知られる。

なお一般には「三井寺(みいでら)」として知られるため、本文では「三井寺」の呼称を用いる。

目次 [非表示]

1 歴史

2 伽藍

3 黄不動

4 文化財

4.1 三井寺秘仏

4.2 国宝

4.3 重要文化財

4.4 その他

5 御詠歌

6 前後札所

7 交通

8 周辺

9 脚注

10 参考文献

11 関連項目

12 外部リンク

歴史[編集]

三井寺7世紀大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学円珍天台寺門宗宗祖)によって再興された。三井寺平安時代以降、皇室貴族武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀から比叡山延暦寺との対立抗争が激化し、比叡山の宗徒によって三井寺が焼き討ちされることが史上度々あった。近世には豊臣秀吉によって寺領没収されて廃寺同然となったこともあるが、こうした歴史上の苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから三井寺は「不死鳥の寺」と称されている。

三井寺」の由来となった井戸「閼伽井屋」(重文

三井寺起源については、次のように伝承されている。大津京を造営した天智天皇は、念持仏の弥勒菩薩像を本尊とする寺を建立しようとしていたが、生前にはその志を果たせなかった。天皇の子大友皇子弘文天皇)も壬申の乱のため、25歳の若さで没している。大友皇子の子である大友与多王は、父の菩提のため、天智天皇所持の弥勒像を本尊とする寺の建立を発願した。壬申の乱大友皇子敵対していた天武天皇は、朱鳥元年(686年)この寺の建立を許可し、「園城寺」の寺号を与えた。「園城」という寺号は、大友与多王が自分の「荘園城邑」(「田畑屋敷」)を投げ打って一寺を建立しようとする志に感じて名付けたものという。なお、「三井寺」の通称は、この寺に涌く霊泉が天智・天武・持統の3代の天皇の産湯として使われたことから御井」(みい)の寺と言われていたものが転じて三井寺となったという。現在三井寺には創建時に遡る遺物ほとんど残っていない。しかし、金堂付近からは、奈良時代前期に遡る古瓦が出土しており、大友氏と寺との関係史料から裏付けられることから、以上の草創伝承は単なる伝説ではなく、ある程度史実を反映したものと見ることができる。

三井寺では、他宗で「管長」「別当」などと呼ばれる、一山を代表する僧のことを「長吏」(ちょうり)と呼んでいる。貞観元年(859年)、三井寺初代長吏就任し、その後の三井寺の発展の基礎を築いたのが、智証大師円珍である円珍は、弘仁5年(814年)、讃岐国那珂郡香川県善通寺市)に生まれた。俗名は和気広雄、母方の姓は佐伯氏で、円珍の母は弘法大師空海の妹(もしくは姪)にあたる。幼時から学才を発揮し神童と呼ばれた広雄は、15歳で比叡山に登り、初代天台座主義真に入門。19歳の時に国家公認正規の僧となり、円珍改名した。その後、比叡山規定に従って「十二年籠山行」(12年間、比叡山から下りずにひたすら修行する)を終えた後、大峯山熊野三山を巡って厳しい修行をする。このことから三井寺修験道とも深い繋がりを持っている。仁寿3年(853年)には唐へ留学して6年間、各地で修行青龍寺の法全(はっせん)から密教の奥義を伝授された。天安2年(858年)、円珍は多くの経巻、図像、法具を携えて日本帰国した。翌貞観元年(859年)、大友氏の氏寺であった三井寺に「唐院」(とういん)を設置。寺を整備して修行道場とすると共に、唐から請来した経典や法具を唐院に収蔵した。貞観8年(866年)、太政官から円珍伝法の公験(くげん、証明書)が与えられた。顕教密教に加えて修験道を兼学する円珍伝法は、これによって政府公認を得たわけであり、天台寺門宗ではこの時をもって開宗と見なしている。貞観10年(868年)、円珍天台宗最高の地位である天台座主就任。以後、没するまでの24年間、その地位にあった。

円珍の没後、比叡山円珍の門流と、慈覚大師円仁の門流との2派に分かれ、両者は事あるごとに対立するようになった。円珍の没後1世紀まりを経た正暦4年(993年)には、円仁派の僧たちが比叡山内にあった円珍派の房舎を打ち壊す騒動があり、両派の対立は決定的となり、円珍派は比叡山下りて、三井寺に移った。比叡山延暦寺を「山門」と別称するのに対し三井寺を「寺門」と称することから、両者の対立抗争を「山門寺門の抗争」などと呼んでいる。比叡山宗徒による三井寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を始め、中世末期までに大規模なものだけで10回、小規模なものまで含めると50回にも上るという。

三井寺は、平安時代には朝廷貴族尊崇を集め、中でも藤原道長白河上皇らが深く帰依したことが知られている。これら勢力から寄進等による荘園多数を支配下におき、信州善光寺荘園末寺として記録に著れる。中世以降は源氏など武家信仰も集めた。源氏は、源頼義三井寺に戦勝祈願をしたことから歴代尊崇が篤く、源頼政平家打倒の兵を挙げた時にはこれに協力し、平家を滅ぼした源頼朝も当寺に保護を加えている。頼朝意思を継いだ北条政子もこの方針継承し、建保元年(1214年)に延暦寺に焼き払われた園城寺大内惟義・佐々木広綱・宇都宮蓮生ら在京御家人に命じて直ちに再建させている。しかし、園城寺僧侶として育てられていた源頼家の子公暁叔父である源実朝暗殺するという事件を起こしたために、以後鎌倉幕府より一時冷遇を受ける。だが、北条時頼の信頼が厚かった隆弁が別当就任すると再興され、続く南北朝内乱でも北朝足利氏を支持したことから室町幕府保護を受けた。両幕府のこの厚遇は、強力な権門である延暦寺勢力牽制するために園城寺に対して一定支援をすることが必要であると考えられていたからだと言われている。

文禄4年(1595年)、三井寺豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領没収事実上の廃寺)を命じられている。三井寺が何によって秀吉の怒りを買ったものかは諸説あって定かではない。この結果、三井寺本尊や宝物は他所へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的に移築された。当時の三井寺金堂は比叡山に移され、延暦寺転法輪堂(釈迦堂)として現存している。慶長3年(1598年)、秀吉は自らの死の直前になって三井寺の再興を許可している。これは死期を悟った秀吉が、霊験あらたかな三井寺祟りを恐れたためとも言われている。秀吉の再興許可を受け、当時の三井寺長吏・道澄が中心となって寺の再興が進められた。現在三井寺の寺観は、ほぼこの頃に整えられたものである

明治維新後は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年以降は天台寺門宗総本山となっている。

2014-07-01

嫌悪」の政治家 石原慎太郎橋下徹

まず、冒頭に述べると、私は石原慎太郎橋下徹という政治家は嫌いではない。

特に橋下氏には大阪府民ではないが彼らの行動力や構想力、討論力そして徹底的に民主主義者たる有り様に好感をもつ。

少なくとも「ハシズム批判をしている自称・識者よりははるか社会にいい影響を与えていると思っている。

その橋下氏が先日の「たかじんのそこまで言って委員会」に出演されて熱い議論をされているのを見てある小説の一節を思い出した。

その小説とは、石原慎太郎氏の「嫌悪の狙撃者」である

なぜ、いまさら袂を分かった石原氏の小説を持ち出すのか、と訝しむ声もあるだろうがまずはその一節を引用したい。

===

嫌悪」こそが今日人間が生きるための情念である。「嫌悪」だけが、自らを正しく見出し、己の生を生きるための情熱を与え得る唯一の術だ。「嫌悪」の遂行こそが現代における真の行為なのだ。それが遂行される時にのみ、真実破壊があり、革命があり、創造があり得る。「嫌悪」に発する、精神的に凶悪な思考だけが真に知的ものであり得る、等々、私は私なりにその主題を発展させていったのだが。(石原慎太郎・「嫌悪の狙撃者」より)

===

嫌悪の狙撃者のあらすじ等は他におまかせするとして、嫌悪の狙撃者において石原慎太郎氏が述べようとしたのは「嫌悪」という感情純粋性と創造性であった。

そして嫌悪けが真の感情だという。

その石原慎太郎氏が嫌悪を向けた対象は①左翼リベラル主義者中華人民共和国アメリカ日本支配④硬直した日本官僚制、の大きく分けて4点であった。(その昔は田中角栄による金権政治にたいする嫌悪も強かったといえるだろう)

石原慎太郎氏を「右翼」とみる向きがあるがそれは違う。

右翼」とは日本の古くから伝統重要視し、「保守」し、必要に応じてそれを改革していく思想である

そして、日本の古くから伝統というのは皇室であり、戦前に「國體」とよばれたもののことである

まり右翼」ならば皇室に対する強い尊崇と、それを維持しつつ日本改革を進めていく姿勢必要なのである

しかし、石原慎太郎氏は日の丸については並々ならぬ思い入れを語る一方で、ご皇室に対しては「皇室日本の役に立たない」「皇居お辞儀するのはバカ」(http://biz-journal.jp/2014/03/post_4279.html)と語る。また、君が代についても斉唱する際は冒頭の部分を「わが日の本は」と替え歌して歌う旨をのべている。

この姿は日本右翼の姿とはかけ離れている。石原氏自身も自分のことを「真ん中よりちょっと左」とかんがえているようだ。

それでは、なぜ石原慎太郎氏は「右翼」と勘違いされるのだろうか。それは、上記①②への並々ならぬ「嫌悪からである国民の印象の中には石原氏が①②へ強いレトリックを用いて批判するのを見て石原氏は「左翼」の逆、つまり右翼」と勘違いしているのである

石原氏を知るには右左の切り口ではなく、「嫌悪」という切り口で考えなければその本質は見えてこないのである

そして、同じ構図は橋下徹氏にも当てはまる。

橋下氏は「たかじん…」において、自分保守だとかリベラルだとかの「思想がない」と批判されることを歓迎している。

そのおかげで「必要とき必要政策うつことができる」からだという。

しかし、その「必要」か否かを判断することに「思想」が必要なのであって、無思想というのはありえない。

橋下氏の「思想」は石原氏と同じ「嫌悪」なのである

橋下徹嫌悪するものは①左翼リベラル主義者②硬直した中央官僚制メディア王手から週刊誌まで)の3点あった。

橋下氏はこれらの人々にたいして徹底した論戦を挑む。論戦において彼らを叩きのめすことで嫌悪のはけ口とする。

彼を右左という切り口でみることもまた、本質を見失うことになる。

石原慎太郎橋下徹には上記のような共通性がある。橋下徹石原慎太郎の二人をつなぐものは「嫌悪」という感情以外の何物でもないのである

まり、この二人は「嫌悪政治家」といえる。

最後に忘れずに申し上げたいのは、「嫌悪政治家」というとなにかとても悪いものに聞こえるが、私はそうは思わないということである

フランス革命を成し遂げたのはプロレタリアートによるブルジョアに対する「嫌悪」以外の何物でもない。嫌悪があったからこそマリー・アントワネットを断頭台に導いたのである

しかし、その結果として「創造」されたのはフランス人権宣言という人類の宝であった。この例からも「嫌悪」によって創造されるものが悪とは決して言えない。

また、仮に「平和政治家」や「思いやりの政治家」と呼べる人がいたからといって、彼らの生み出すもの日本世界にとって素晴らしい物になるとも限らないのは日本過去政治家を見ればわかる。

しかし、我々有権者が、彼らが「嫌悪政治家であるということを理解し、その観点から政治活動を見守るのは意味があると思う。

以上

 
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