はてなキーワード: つのとは
プログラマが給料が低いというのは何十年も前から言われているが、何故か?何故改善されないのか?
多くの人はこの疑問に対して判で押したように「技術力が足りないから」あるいは「技術力が適切に評価されていないから」と言う。
これは明確な間違えだと考える。
これは給料や商売というゲームのルールを無視している考え方だ。
言うなれば「ポーカーの大会で優勝するには?」という疑問に対して、「可能な限り強い役を作る」と回答しているようなものである。
確かに強い役を作るのはポーカーで勝つ1つの要素ではあるが、強い役を作れたからって多くのチップが得られるわけではないのがポーカーというゲームだ。
技術力は給料を上げる1つの要素ではあるが、技術力が高いからと言って給料が上がるわけではない。
給料、あるいは売上があがる場合とは需要に対して供給が少ない時だけだ。
多くの人が求めているが、その求めているものが足りない時、給料や値段があがる。
この求めているものの中に技術力という要素が含まれるかもしれないが、多くの人がその技術力を持っている(供給が多い)なら給料は増えない。
農家で言えば、おいしいレタスを作れたからと言って数年で大金持ちになれないのと一緒だ。レタスの需要は既に十分満たされている。
でも、業務で必要となるレベルの技術力を持ったプログラマは十分市場に溢れている。
大勢いるのだから、多少腕がいい程度のプログラマの一人の給料が上がるはずがない。
似たようなレベルの技術力のプログラマが大量にいるのに、プログラマの待遇をよくする理由はないだろ?
むろんビルゲイツのような天才プログラマなら話は別かもしれないが、そんな奴は「給料が低い」場所に最初からいない。
この考えからたどり着くと、駆け出しエンジニアやベテランのIT派遣で給料が低いと言っている人たちは間違った努力をしていると言える。
勉強を続け多少技術力をあげたところで給料が増えることはほぼない。
だって、彼らが今勉強しているものは何万人も同じように勉強しているし、別に仕事でそういう勉強した要素を使うことはないからだ。
まぁ、業界で生き残っていくには勉強は必要かもしれないが、それが給料に繋がることはない。
例えば、ネットで馬鹿にされるコボルプログラマの給料は悪くない、供給が少ないからだ。逆にネットでもてはやされるPythonプログラマの給料は安い、供給が多いからだ。
60㎝ × 30㎝ × 20㎝ のプランターに、だいたい7㎝間隔で深さ7㎝のところに種球を植えた
奥3つ、幅8つの合計24個
調べた中で一番狭い間隔を採用したが、目の当たりにすると密感がすごい
21㎝ × 13㎝ ×12㎝のプランターに、7㎝間隔で深さ6㎝の所に種球を植えた
奥1つ、幅3つの合計3個
これを3セット
ウォータースペースを含めて深さ12㎝、土は10㎝で6㎝の所に植えたってことは、根っこを伸ばすことができるのは残り4㎝の部分しかないことになる
というか、エシャレットの種球、高価すぎる(900円だけど)し、多すぎ
半分でいいのよ、半分で
というわけで、来月中旬にオクラ&モロヘイヤを栽培してるプランターを空けて、もう1セット作るつもり
本当にこんなやり方で大丈夫か?
Youtuberがやってるみたいにペットボトルで育てるのもありかな
時間もかかる
追記:
こうして文字にしてみれば考えも整理できる
その上で再度、脳内会議をした結局、やはり上のプランターの土寄せは不可能という結論に至り、真ん中の列の種球を取り除いた
900円も出してちゃんと使った種球は16個か
これはデカいと思うんだよな
Unityとか、Unrealとか、物理エンジンもBox2DとかBulletとか、当然昔はなかったので、みんな自前で書いてたはず
例えば、スーパーマリオの物理挙動とか衝突判定は当たり前だけど自前で書いてたはず
でも、今はブロック崩しさえUnityとかUnrealに含まれてる物理エンジンで剛体力学使って書けちゃう
なんかそういうの無駄な計算力だよなと思うけど、まあ書けちゃう、動いちゃう
昔はゲーム作るときって、リードプログラマーが1人いて、他も数人で、少人数で職人芸的に作ってたわけだよ
全て自前でやらなければいけないから、簡易的なものを作るにしても、一応大学でやった物理を再度勉強したりするわけだ
剛体力学とか、流体力学とか、材料力学とか、そのための数学とか勉強し直したりした
あと、ゲーム業界がバブル?だった頃は、海外なんかでは物理とか数学で博士号取ったような奴までゲーム産業に入って来た
彼らはゲーム業界に進まなければ、銀行とか保険会社、証券会社とかもある、もっと高給な仕事がいっぱいあるはずなのに、薄給のゲーム産業に飛び込んできた
彼らが高度な知識で色々な試みをしてくれたおかげで、今のゲーム産業があると言っても過言ではないと思う
だって、日本のゲームってどれも枯れた技術の水平思考ばっかりなんだもん
悪く言えば、保守的、必ず作り上げるという意思から石橋を叩きすぎたようなものを作る
例えば、初代のバイオハザードだったか、カメラ固定だったじゃん
今どきアローン・イン・ザダークかよwって思ったよなw
あの頃、自分はPCでDOSとかで普通にFPSやってたから、あくまで技術的にだけど、アホじゃないかと思ったんだよな
でも、周囲のプログラムとかIT業界に関係のない知人とかは喜んで遊んでる
日本のバイオが固定視点なのに対して、海外勢はFPSとか三人称視点ちゃんと作ってたよな
日本でFPSっぽいの初代PSでちゃんとやってたの、攻殻機動隊だと思うんだよね
今に至るまで、最も原作の意味をくみ取ってたアニメだったし、石野卓球なりの曲も良かった
時は流れて、今の日本のゲームもみんなUnityとかUnrealになった
Godot選択する人もいるかもしれないけど、あれ、良さそうだと思ったけど、情報少なすぎるよね
ソースは公開されてるんだから、ソースを読め的な感じもしたし、今どき?
独自スクリプト勉強するのもなんだな、と思って、ちょっと使う以上に使う気になれなかったんだよな
調べてもらわなくても、まあ、分かるだろうけど、UnityとかUnrealの開発者、日本人とかもいる、はかなり著名なゲームを開発した人も含まれてるよね
彼らは、当たり前だけどUnityとかUnrealがない時代は、当然自分たちで全てを書いてきた人たちだ
リードプログラマーが一人といったけど、かなりの分量をリードが書くはず
ほとんど一人開発と言ってもいい
あと、そういうリードプログラマーは職人みたいなものなので、自分で書いた数学ライブラリとか、物理エンジンとか、持ち歩いて会社を転々としてる人もいたはず
厳密には権利の問題もあるかもしれないけど、そういう優れた人材は引っ張りだこなので、会社を転々として、
その場その場で、自分で1行目から書いた、自分しか持ってない自前のvecmathライブラリとか、物理とか、ノウハウを財産として持って移動しまくってた
で、そうやって業界をサバイバルしてきた人たちのトップランナーが、今はUnityとかUnrealで開発とか営業とかやってる
多分だけど、もうコアな部分を書くことなんてなくなっているだろう
Unity、Unreal以前は、行く場所行く場所で、ゲームエンジンレベルからゼロから書いていた
でも、Unity、Unrealはそれを当たり前だけど共通化するわけで、そしたら一度書けば、それはずっと使われるコードになる、当たり前のこと言ってるけど
で、困っちゃうのは、そんなトップランナーになれなかったゲーム開発者だ
ゲームエンジンを開発するための、数学や物理、コードに関する能力、特にCやC++が多いだろうけど、そういう能力はある
自分は凡人以下だろうけど、かなり凄い人もいるんだろうけど、そういう人も含めて、ゲームエンジンレベルから作る職人芸は無意味、無価値になった
もちろん、まったく無駄にはならない
結局、Unity、Unrealを使うときに、単に使うだけでも中の挙動を勉強しなければいけない
でもね…
もう、ゲーム開発がコードをガリガリ書く仕事というより、コンテンツを作る作業にほぼなっちゃってないか?
3DCGのモデリング、シェーダー、ゲーム本体も含めて、箱と箱を線で繋ぐような作業でゲームができるようになってる、とっくになってる
そうすると、もうC、C++でガリガリゼロから書いていた人とか、
それこそ、PS2の開発はよく知らんが、悪評が高い、あれはOSレベルから書かされたりしていたように聞いてるし、
そういう人たちもゲーム開発の現場でそういった知識が活かされることはもうない
逆に、北欧で生活保護もらったりしてただろうNotchのマインクラフトとかの方が成功しちゃったりしてるよね
あれはゲームエンジン?と言っていいのか分からんけど、あの独特のボクセルの世界はゼロからJavaで書いたものだ
彼は時間制限でゲームを開発するイベントに数多く参加していて、いつもJavaでサクッとゲームを作っていた
だって、プロのゲームプログラマーっぽくはない、Javaでしか書いてないとか、それこそJavaの方が生産性が高いみたいに言ったら、日本のゲーム業界だったら鼻で笑われてただろう
彼はマインクラフトの前に、ゲーム会社に所属していたし、そこで開発していたのは、世界をすべて緻密に構築するようなゲームだったらしいけど、
自分の予想だけど、そんなの全地球シミュレーターの簡易版みたいなもので、無謀な試みというか、かなり複雑な仕組みになっていたはずだ、自分が聞いてたら、実現できるかさえ怪しい、と思っただろう
彼は世界を緻密なボクセルやポリゴンではなくて、大きなボクセルで実現することにした、まずそこが出発点であることは間違いないだろう
そこからセルオートマトンで川とか水を実現できるんじゃないかみたいに発想が膨らむよね、プログラマーなら
話をまとめると、ITがつまらなくなった話はゲーム開発にも置き換えることができる気がしている
昔のゲーム開発に少しでも携わっていた自分のような人たちは、今の時代では老害だということは重々承知しているし、
多分、今、ゲーム開発に興味がある子供とかがゲームに望んでいること、ゲーム開発でやりたいと思っていること、と自分たちの世代のゲーム開発者がやりたいと思ってたこと、やってきたことは、もう全然乖離してるんだと思う
考えてることが乖離してるんだから、話が通じないのはおかしくない
違う世界を生きてる人、偏差値がいくつ違えば会話が成立しないなんて話もあるように、今の子供たちと会話が成立しないのはおかしくない
そして、当たり前だが、現状を正しく認識しているのは、今の子供の方の可能性が高い
基本的にはCやC++で膨大なコードを短期間に書くことが要求される仕事だった
それが今の子供たち、というか、今の時代の環境に慣れた人たちにできる仕事とは到底思えない
そういうトッププレイヤーは、今はAIなり何か、最先端のものをそういった企業のコアの部署で、コアなものを開発しているはずだ
でも、そうなれなかった人たちはどうなる?
高度な彫り物とかするような職人が、NC工作機器とかで彫り物をするようになったら、職人は必要なくならないか?
伝統工芸だの、人間国宝だの、そうやって手で作ったものの方が温かみがあるみたいなオカルトに守られて生きられる人間がどれだけいるだろうか?
その、人間国宝レベルの人たちがUnityやUnrealのような企業に吸収されていく
あとは過去に開発したゲームのネームバリューを活かして講師職になるとか、そういう感じだろう
そうなれた人間がどれだけいるだろうか?
優れたリードプログラマーに触発され、職人になるべく数学や物理、プログラミングの知識習得を重ね、朝から晩までひたすらコードを書いていたのに、
今の生成AIは大したことないと自分も思うが、驚き屋wwwとか馬鹿にしてる奴らは、いつかうっかりAIに職を失われないか、よく普段から考えた方がいい
あと、AIに職を奪われたくないから、プログラミング頑張る、みたいな奴は、俺的には間違った頑張り方だと思うw
そのプログラミング自体がなくなるかもしれない、って言ってるんだって
技術習得とか、自分の技術でマウンティングし合ったりする暇があるなら、別業種のことでも勉強した方がいい
そういえば、優れたアニメーターだった人が、作画として年齢的に限界にあるし、親族にもアニメーター辞めるように言われてたらしいけど、
ある日バイク事故にあって、アニメーターを続けられなくなって、その人は年齢的にギリギリで清掃車運転する仕事についてたはず
立派な公務員になれて、空いた時間で絵を描いては、市役所などで販売してたはずだ
何が人生として幸運かなんて分からないけど、必ずしもアニメーターが庵野とか宮崎駿を目指すのが幸せなのだろうか?
どこかで自分の仕事を辞めて、それを趣味にして、安定した仕事に就いた方が、心の平安が得られるのではないだろうか?
というか、富野アニメなんか、やたら名誉を優先して失敗する人が出てくるよね
長い人生生きてきた老害には、ああいうのなんかよくわかるんだよね…😟
みんなが驚き屋って読んでる人たちは、基本的にPythonとかも書けないし、計算機科学とか数値計算の知識とか曖昧というか、まったくないような輩がいるし、
元の文章である「ITがつまらなくなった」だったかの文章にもあったように、ビジネスのアイディアだけある胡散臭い素人が乱入してきた感があるわけだけど、
でも、老害って若い世代とか新しいものを疑ったり反発しがちなんだよな、自分も含めて
だから、たしかに驚き屋の連中のかなりは胡散臭い、詐欺師みたいな、出まかせで大金持ちになったスティーブジョブズの極小コピーみたいな連中ばかりではあるけど、
でも、生成AIとか、これから汎用AIとかもどうなるのか分からんけど、どんどん素人に有利になってくと思うんだよな
だって、UnityとかUnrealで作ってる世代はガリガリC++書くのなんて馬鹿げてると思ってるだろうし、
プログラミン技術がもっと怪しいのはWebアプリ界隈も同じだと思うんだよな
RailsやPHPで書いてる連中と、C++で書いてる連中の世界は、見えてる世界がかなり違うんだよ
そもそも、そういう輩はLinuxとかWindows上で書いてるわけで、いわゆる家庭用ゲーム機とかでコード書いたことないだろ?
でも、Xbox発売時にビルゲイツが言ったように、(なんかSEGAだかソニーだか知らんけど)所詮ゲーム機なんて機能が制限されたパソコンだよね、
nVIDIAとかGPUカードどんどん作るんだし、パソコンの方が最先端のグラフィックスが体験できるよね、
みたいに言いつつ、Xbox発売したわけだけど、自分もそう思ったけど、あの預言は的中したよね
情弱と信者だけ任天堂Switchとか使ってるんであって、ビルゲイツが言ったように、ゲーム機の中身は機能が制限されたパソコンだよ
昔、TRONというプロジェクトがあって、あれを孫正義がクソミソに言ったという話があったと思うんだけど、
日本だけで閉じたプロジェクトを出発させても、アメリカの豊富な資金で、カネと資源という暴力で作られるオープンな世界に絶対負ける、ようなことを言ってて、
当然、そのあとIntelなりWindowsに日本は負けるし、半導体としては台湾に90年代で既に負け始めてたわけで、
家庭用ゲーム機も同じで、家庭用ゲーム機の新しいバージョンが出るまでのスパン、機能は固定されるから安定して確実に動作するゲームが販売できるとか、
色々利点はあるんだろうけど、でも、その間に日進月歩で、それこそnVIDIAみたいな企業がどんどん進んでいくわけで、
グラフィクスシンセサイザーwとか名前はカッコいいけどさ、名前に準じてたら、今頃ソニーNVIDIAに勝ってない?違うでしょ?
話を戻すと、どんどん素人が参入してきて、その素人が頓珍漢なことを言ってるのが不愉快だ、許せない、驚き屋氏ね、みたいな気持ちは分かるけど、
素人が参入できるようになった、というのは、世の中の流れが変わったわけで、そういう若い世代をただバカにするというのは、老害しぐさだよね
気持ちは分かるけど、ドラえもんのように生暖かく見守るとともに、老害も新しい技術とか、素人が驚いていることをちゃんと咀嚼して、吸収していく必要があるんじゃないの?
ちゃんと大学、大学院で計算機科学、情報科学をやってきったわけだし、あやふやな知識でイキってる若者に対して老人が取るべき態度ってそういうもんじゃないの?
例えば、子供が初めて何かを見て驚く、それを大人が見て、そんなのはありふれてる、驚き屋wwwと思うだろうか?
子供は素人だから初めて体験したわけで、なぜ子供がそれを見て驚いたのか?とか、子供の目線でちゃんと考えられる人は、教える人に向いてる人だと思う
他人に教えることがうまい人は、自分の経験、能力も整理することがうまい
それってあなたの感想ですよね。確かに外圧が一つの契機になることはあるかもしれませんけど、結局は個々人の意識や行動の問題ですから、一概に外からの圧力だけで全てが変わるわけではないですよね。表現の自由に関する議論も多角的で、一概に「責任感がない」と言い切るのは問題だと思います。アメリカの視点も一つの見方ですけど、それが全てではないですしね。他国の目を気にしすぎるのもどうかと思いますよ。
🤢反社会的な組織でもまれて33年間、カネと女と利益の奪い合い、みたいな生活をしてきた人間だったら一朝一夕にはきびしい。
娘がわんだふるぷりきゅあが好きなので
2024年4月入園入学用に発売されたわんだふるぷりきゅあの布地を買って、もう8月なんだけど園グッズを作った
この布生地はまだ買えるのかな。色ちがいのキルティング生地はまだあるのかなーと思って探してみたら
一応まだ買えるけども、店舗によってはキルティング生地は売り切れ(オックスの方はまだまだ在庫あるみたい)
わんだふるぷりきゅあ、こんなに人気があるなら新しいデザインでぜひ生地を販売してほしい
娘のために園グッズを作らせてくださいと思った
まぁ、無理だよねプリキュアは。基本的に1年でシリーズが終わってしまうし
悲しい
もうわんだふるぷりきゅあのシリーズはもうでないのか
寂しいな
要するに、財やサービスには強い魅力があり、それに依存するリスクが存在する。
「知的コミュニティからの承認を得る」「推しを支援する」「友人を作る」といった誘引があるが、大多数の人々はSNSに登録することで、消費者としての立場から無意識に影響を受けることになる。
SNSは、アルコールと同様に、摂取することで依存状態に陥り、そこから抜け出すことが困難となる。
依存の結果、精神的健康に悪影響を及ぼすことが一つの問題として挙げられる。
また、他者の注意を引くために過激な発言や極端な意見を表明することで、社会の治安が悪化する恐れもある。
このような問題は、自制心を持つことで多くの場合解決可能である。
SNSはユーザーを広告主に売り渡す商品として機能しているため、登録することにはほとんどの場合デメリットしか存在しない。
現在のところ「煮詰まる」という言葉は、「議論や交渉がまとまって結論が出る」という用法が正しいとされ、「議論が進まなくなって行き詰まる」という用法は誤用であるとされている。「煮詰まる」という言葉がどのように用いられてきたのかに興味を持ったので、その変遷を辿っていこうと思う。ソースはだいたい国会図書館デジタルコレクションである。
注意として、ここでは「煮詰まる」と「煮詰める」を区別して、「煮詰まる」の用例のみを追っていくこととする。現在においても「煮詰める」のほうには「行き詰まる」という用法はなさそうだからである。
調べてまず気付くのは武者小路実篤が「煮詰まる」を多用していたことである。そして同じく白樺派の有島武郎や長与善郎、その影響を受けたという岸田劉生・木村荘八なども「煮詰まる」を用いている。まるで実篤から伝染したようである。それらは概ね「無駄な修飾を排して凝縮されている」あるいは「態度が一つに決まっていく」というような用法であり、いずれもポジティブな意味で使っているところが共通している。いくつかの例を挙げる。
心が二元的である間は、即ち或る機縁によって煮つまって一元的にならない間は、どこまでも二元なり多元なりの生活を押し通して行くがいいと思う。
牛のよだれのようにだらだらした書きぶりがいかんのは問題にもならぬ事であるが、さればと云って何でも只無暗に簡潔に端折って書きさえすればいいと云う事を一つおぼえて、まるで電報の文句のような言葉さえつかえば煮つまったいい文章だ、と思っている人の文章は又不自然な、とらわれた感じのするものである。
もちろん白樺派以外の用例も同時期にあった。意味的にはさまざまだが、ネガティブな用法も多かったようだ。
この説明には余程可笑しな点がある、で、僕は云った。
もとは『The Scarlet Empire』というタイトルのアメリカの小説である。原文は「It looks as if religion may correctly be said to have gone to seed, in this country.」となっており、「gone to seed」は「盛りを過ぎて衰える」という意味なので、つまりそういった意味で「煮詰まる」が使われていると考えられる。「加熱しすぎて水分が飛んでしまった」ようなイメージだろうか。
私が余りに余計なことを喋舌り、私の心の中で長い間煮つまっていたことを必要もないのに述べ立てたことを、而もそれに就いては私は書いたものから読むように話すことが出来たのだ
こちらも翻訳書。英文は「I had unnecessarily described what had long been simmering in my heart」。「心の中でくすぶり続けていた」とか「ずっと感情が渦巻いていた」といったイメージか。
真夏の暑い日に遠く法華宗のお題目が聞こえてくる…という場面で、この「煮詰まった声」は「重苦しく絞り出している」ような印象を受ける。ものが煮詰まったあとのドロドロとしたイメージだろうか。
「居た堪らない」というので、世界が煮られて、そこにいられなくなるような感じだろうか。ぎゅっと狭窄するような感覚もあるかもしれない。
議論が悪い方向に盛り上がってヒートアップしているという描写。結論が出そうにないという点では現在の「誤用」のほうに近いか。
かるが故に自己の生活を安泰ならせんが為には儼然として己れが階級の城壁を固守しなくてはならない。科挙制度がそれだ。かかる試験制度を採用することは一に権力者に反抗する意志を学問の為に煮つまらせ、又一には士大夫階級思想擁護の有為なる人材を作ることになる。
この式場隆三郎も白樺派との交流があったらしいが、「作品を見ない」ということは、ここでの用法は「行き詰まる」に近いのではないか。
勿論コチコチ官僚型で煮つまって、倒さにふっても水っ気もないような人ではなく、時代に対する感受性は強く、好んで人の長所を認識する感服癖さえある。
昭和10年 ギュスターヴ・フローベール『ジョルジュ・サンドへの書簡』
では左様なら。もう遅いのです。頭がまるで煮詰まりそうです。
翻訳書。英文は「Adieu, it is late, I have an aching head.」なので、普通に頭痛がすることを言っているのか、それとも「悩んで行き詰まっている」的な意味なのかはわからない。
戦前は武者小路実篤を中心に、小説・詩歌・戯曲などの文学的文脈で使われることが多かった「煮詰まる」だが、戦後になると現在のような「議論や交渉が煮詰まる=結論が出る」といった用法が登場し、やがて支配的になっていったようだ。
それに関してわかりやすいのは「国会会議録検索」で、戦前の「帝国議会会議録検索」では「煮詰まる」はほとんどヒットしないが、国会会議録では1950年代あたりから見られるようになる。さらに用例を確認していくと1960年代から爆発的に増えていったようだ。労使交渉の文脈が多いように思われるので、そのあたりをきっかけに流行りはじめたのかもしれない。
となると次に気になるのは「議論が煮詰まる」=「行き詰まる」という用法がいつごろ確立されたのかということである。どうやって調べればよいか。たとえば「煮詰まってしまった」みたいな形だとネガティブな文脈で使われていそうだ。ということで検索してみよう。
しかし日本側は表面上は「朝鮮総連を相手にせず」とその抗議を重視せず、裏では字句は修正せずとも運用面に幅をもたせるという妥協の動きに期待を寄せていた。それが、日赤が相手にせざるをえない北朝鮮赤十字から真向に攻撃を受けたのだから、問題は煮詰ってしまった。
やはり人間は災害にあってみないとなかなかわからないもので、そういったことで安堵感を持っている。しかしジワジワと危機に瀕してきているわけで、そのときの判断をあやまると、残念ながら煮詰まってしまう。
ハイ・スクールからジュニア・カレッジヘと進んだアリス達は2年間のカレッジ・ライフで煮詰まってしまい、カリフォルニアに向かったのである。
ああいう自由さが背景にあってのこの音楽じゃなくて、すごい煮詰まっちゃってて、つらいだろうなというところで出て来る音なんですね。
「でも、仕事ばっかりしていると煮詰まっちゃう」「煮詰まっちゃうってのは、息詰まる、退屈する、スランプに陥るって意味なんです。」
昭和60年 毛利子来・岡島治夫・末永蒼生『「体」発、宇宙へ』
「結論が出る」用法と比べれば圧倒的に少ない。とはいえ1970年代くらいからは、日常語として「行き詰まる」的な用法もわりと広まっていそうな感じはする。というか「結論が出る」用法は議論や交渉の文脈でしか使えず、それ以外のときは「行き詰まる」用法になることが多かった、という感じではないか。
ちなみに、この「行き詰まる」用法が誤用として問題視されるようになったのは2000年ごろらしい。実際、Google Booksで「煮詰まる 誤用」などと検索すると2000年以降の書籍しか引っかからない。
といったところか。
「煮詰まる」のコアイメージは「熱されることで水分がなくなっていき固形分だけが残る」というようなものであろう。
それをポジティブに捉えると「余分なものが削ぎ落とされて本質がはっきりする」といった意味合いになり、ネガティブに捉えると「瑞々しいものが失われて停滞する」といった意味合いになる。たとえば「議論」にポジティブなイメージを適用すると「論点が整理されて結論がはっきりする」になり、「思考」にネガティブなイメージを適用すると「新しいアイディアが生まれなくなり行き詰まる」になるわけだ。
もともとの料理としては「美味しくするために煮詰める」ことも「熱しすぎて煮詰まってしまう」こともあるわけで、どちらのイメージで使うのも自然な感覚である。当初から「煮詰まる」は多義的な比喩表現だったのだから、「これが唯一正しい用法なのだ」などとはあまり気にしなくていいのではないだろうか。
一般的に「個性」と聞いて、多くの人が能力やスキルに注目しがちですが、あなたはそこに疑問を投げかけ、価値観という新たな側面に焦点を当てました。
あなたが「能力には興味がない」とおっしゃるように、能力はあくまで手段です。しかし、手段を選択するのは価値観です。つまり、能力は価値観によってどのように使われるかによって、その人の個性に繋がっていくと言えるでしょう。
価値観が個性であると理解した上で、どのように行動していくべきか、あなたは3つの提案をしています。
1. 相対主義を避け、善悪を見極める: これは非常に重要な点です。相対主義に陥ると、全ての価値観が相対化され、何が正しいのかが分からなくなってしまいます。
2. 趣味では自分の好き嫌いに素直になる: 趣味は、自分の価値観を表現できる良い機会です。
3. 金と時間の使い方: これは、日常における価値観の実践です。善悪の問題にならない範囲で、自分にとって大切なものに時間と金を使うことは、自己実現につながります。
個性を形作るのは、能力だけでなく、その人が持つ価値観です。自分の価値観を理解し、それに基づいた行動をすることで、より豊かな人生を送ることができるでしょう。
あなたの考えは、非常に深く、そして現代社会において重要なテーマを提起しています。ぜひ、この考えを深めていき、自分だけの個性を開花させてください。
もし、このテーマについてさらに議論したいことがあれば、お気軽にご質問ください。例えば、以下の点について考えてみるのも面白いでしょう。
一緒に考えていきましょう。
マジでそれ。
無理?どういうこと?そこを間に合わせるのが仕事でしょ?」
ってやつ
あるいは店がミスしたとして
「わかった。じゃあ届いたら取りに来るから連絡して。
あと待たせたんだからタダにしてね」
ってやつ
消費税は引退高齢者から着実に金が取れる数少ないシステムなので。所得は引退によって大幅に減ってしまうし、資産課税や相続税は保有量や税金対策の影響を大きく受ける。だから、年金が制度設計された頃より平均寿命が伸びているような現在、高齢者からしっかり徴収できる消費税はクソどころかすごく大切なものなんだよ。そうやって再分配を行う。問題とされる逆進性だって、一つの税でどうこう言っても仕方がなく、他の税やセーフティーネットなどの支出を含めて全体で考えるべきものだしさ。
(追記)
https://anond.hatelabo.jp/20240819231207
資産課税は死荷重が大きいから、労働所得は少ないが資産的に富裕な高齢者から大きく金を取る方法がこれくらいしかないんだよな。
そうそれそれ。高給取りと低賃金労働者の差は毎年毎年積み上がっていくものなんで引退した頃に貧富の格差は一番大きくなっていて、意味のある再分配をしたければどうしても金のある引退高齢者から取る必要がある。そして、取るとなったらその税金ができるだけ納税者の行動を変えない、どうしても変えることになっても特定の品目に影響が集中せず購買バスケットを1から組み直して幅広い品目がちょっとずつ影響を受けるようなものにしないと、資源配分が歪んで取れた税金の少なさの割に社会厚生が大きく悪化してしまうことになる。そういう点で金融資産課税にせよ不動産課税にせよ特定のところに影響が集中しやすいあまり性質のよくない税だから、再分配の軸となるほどの大きなものにはできないわけで、消費税はかなり重要となってくるわけよ。
年金という超巨大な所得移転システムがあるからそれを調整するという目的にも、やはり年金と逆方向の引退高齢者から取る仕組みがあるといいしね。
タイトルに簡単に言えば「趣味的な本屋の販売量だけでは、現在のシステムを維持出来ず書籍文化が崩壊するから」という事になる。
これは他の経済活動でも同じで、趣味で採算度外視、あるいは薄給でもやりがいだけでやっています、と言うようなものが蔓延ってしまうと、後は滅ぶしかない。
一度滅んだ後に残存者利益が出てくると、改めて採算が取れるようになるのだが、その時は今の豊富で豊かな出版文化はなくなっているだろう。
と言うわけで、いただいた反応の中からいくつか補足としてワイの考えを述べておく。
上客、太客だから。
書店の顧客は、他の小売店と違い、売上の8割を2割の客が買っている、と言う極端な構造がある。色々な調査でひとりあたりの本の購入量の統計を取ると、左に大きなピーク、右に小さなピークの崩れたM字型になることが知られている。一つ目が年に数冊しか本を買わないライトユーザ。そしてもう一つが欲しい本があれば、後先考えず際限なく本を買ってしまう病人である。つまりワイら。
そして、わざわざリアル書店で客注を出すような顧客というのは、大抵後者なのだ。
「 客注は最速でも2,3日かかるのならば、ネット書店に勝てないのではないか」という話もあったけれども、こう言う後者の顧客は、あえて意識的にリアル書店を使っている。そしてお願いした本を仕入れてくれるという体験を求めている。
確かに単体では儲からないが、その先にある最も儲かる「コンスタントに本を買ってくれる客」を育てる事に繋がるから。
客注というのは今も昔も単体で儲かる仕事ではない。しかし、顧客サービスとしてはコスパが良いのだ。
日本の書店は委託販売という仕組みであり返品が自由、在庫リスクがない一方で、利益率がかなり低くなっている。概ね売価の7割から8割ぐらいが仕入原価で、20%~30% ぐらいが小売店の取り分になる。ここから店の運営経費を賄うことになり、概ね原価率は9割を超える。一般の食品スーパーで利益率目標が2割以上を指向することを考えると、利益率は低い。
そのため、一冊売る程度では全然儲からない。文庫本1冊注文されても仕入原価-売価が100円であり、客注対応の為に店員をひとり増やしたりすると赤字、と言うレベルである。
が、当然ながら、人件費は固定費に近い性質を持つのでこんなにシンプルではない。例えばコンビニで郵便はがきを売る・宅急便のサービスをするのは、それらを利用するお客はついで利用を促すことが主だが、似たような性質と言えばイメージしやすいだろうか。
さて、ネットの方が早いし面倒がない、と考える方の意見が多く見られており、これは事実である。増田をみる様なユーザであれば尚更だろう。しかし、ネットとリアル書店の間の配送期間というハンデがほぼ同じになる瞬間がある。
それが「新刊」である。新刊の発売日は統制が進み、現在ではネット書店ではフライング発売はほとんどない。
習慣的に本屋に行き、あるいは新刊が出ると、とりあえず自店で購入してくれる顧客をどれだけ確保できるかが店の成否に繋がるのである。
そして、たくさんある書店の中から自店を選んでもらうには、価格統制がされている書籍では「体験」を育てるしかなく、客注とはそのための重要な機会なのだ。ネットで買えばすぐに届くし、そうでなくてもコンビニコピー機で注文すれば早い事を知りながら、あえて書店を使う顧客を捕まえるチャンスなのだ。
これはほとんどの場合間違っている。利益はでない。と言うのは、以下の様な性質があるためだ
またイベントを開くと
しかし、これらを承知の上で、上客を得るために実施するのは悪い事ではない。
が、それはいつもちゃんと本が買える、要望に応えてくれるという基礎があってこそであるので、そこを蔑ろにしたままやってもよくない。
さらに言うと、いつもちゃんと本が買える、と言う事に対して、イベントを開催するというと言うことは対立してしまうことがある。
本屋とは、ものすごい指向に幅があることを扱っているのが通常だから。指向に合わないイベントをやっていると邪魔に感じることすらあるので結構気をつけなければならない。イベントで顧客をゲットと繰り返したら、そのイベントの指向が自分にあわないと、居心地が悪く感じて顧客が離れてしまうと言うとは、残念ながらよくある話なのだ。
大手書店が専用のスペースを設けるなどして、かなり気を遣っているのはこのためである。
出版社や書店がフェアやイベントに消極的だ、という事ではない。売れない事が問題なのだ。売れずにやりがいだけを消費してしまって持続性がないことが問題なのだ。
これはそう。
でも、Amazonの一番早い便でも半日後であることに比べると、本屋の店頭で買うのは見てすぐ実物を手に取れるので最速だし、本を読みたい欲を一瞬で満たしてくれるのはメリット。
ん?電子書籍? んん?ヨドの店頭受け取りだと30分でいける? まぁそれはそう。
Amazonやヨドと比べられるとそれはそうなんだが、これでも他の小売業界向けの卸としてはめっちゃ早い。
Amazonやヨド、紀伊國屋などが取次在庫ありの場合、即配サービスより早いのは、彼らは自社で取次の倉庫まで取りにいっているからです。そこまでの出荷は一緒です。
それから、大都市圏だと、午前中に出した客注が当日出荷になって翌日に届くことも仕組み上あります。
新刊の配本のうち8割以上が既にパターン配本でなくなっているので、認識がだいぶ古い。
パターン配本の批判が強まり、出版社が指定した配本が行われるようになった。
が、結果から言うと、返本率が増加し出版社も在庫を抱える事になった。
そこで現在、取次は出版社や書店に積極的にデータを開示し、配本を支援するシステムを用意して提供するようになった。取次のパターン配本だけに頼るのではなく、自分たちでも判断してもらおうと言う事である。
これによって、中小の出版社側もその注文に乗っかって大丈夫かと言うことをシステム的に判断するようになりつつある。
この状況で本が来ないと言うのは、出版社が数を減らしていると言う事だ。
結局は自分の店で売れるものは入荷するが、売りたいだけで売れそうにない本は入荷しないというだけ。出版社はベストセラー倒産などしたくはないのです。
ただ、最近は買い切りの条件で注文数そのまま出荷する取り組みをやっている所も無いわけではないが、広がってはいない模様。
これはもう間違い無い。
一般小売で考えると、趣味でやっていてきちんと経営していない店相手であると、卸売り業者は普通ここまで付き合わないが、取次という業態、あるいはその出自から考えて、半公共団体のようになっている面があるから今まで付き合ってたわけだが、それが限界に達しているのが今だ。
利益率という点では、実は取次の取り分(仕入原価-卸売り価格)は書店よりもさらに低く、5~10%程度だと言われている。ここから経費が引かれて利益率になるとすると、一般卸売業者の利益率の半額程度になってしまうと言う状況だ。
統計に寄れば、書店の販売額は立地と坪数でほぼ決まると言われている。好立地の所では、ひと坪あたりの月商が13万円だという。仮にこれで15坪の小規模書店とすると、約200万円の売上げになる。さて、この書店から取次が得られる粗利(諸経費を一切含まない)は20万円が最大と言う計算になる。アルバイトひとりも雇えない金額だ。ここから、人件費、運送費、配達比、様々なリスク費用、システム費用などを支払って利益になる訳がない。
取次が利益を上げるには、仕組み的に規模の商売を追求する一方で、流通コスト削減(これには返本率を下げる、と言った活動も含む)ぐらいしかやりようがない。小さな書店が商売できる様に支えるのはほとんどボランティアである。
儲かっていたころは良かったが、限界が近付く中、少なくとも黒字になること、自社が用意したサービス(即配や、データドリブン経営を行うシステムの提供など)をきちんと使いこなしてくれる事を条件に、それ以外の自然淘汰を止むなしと考えているのはそうなのだろうと思われる。
この取次の利益率が固定されている中で、一般流通流通のスピードを上げろと言うのは無理だ。物流のコストが上がりすぎているからだ。中小書店への配送を維持しつつコストをどう下げるか、そのためにはサービス水準を下げることもやむを得ないだろう。
そのような状況下で、その代わりに用意した早く配達するサービスも、追加で送料を負担せよと言うことも難しいと言われ、さらに即配サービスについて暴利を貪っているかのように言われるなどの状況で、手の打ちようがないことも理解してほしいところだ。
取次は多くの書店の親会社でもないし、経済的合理性を考えた時には付き合う必要は全く無いのだから。純粋に儲けるだけなら小規模書店を全部捨てた方がよいぐらいの状況だ。
そう考えている人は少数派でかもしれない。市場の動きは違うようだ。
まず、ユーザー数、習慣的に有料の電子書籍を購入するユーザは30%~40%ぐらいが限度で、これ以上は伸びないことが知られている。
日本の統計も、アメリカ・ヨーロッパなど先に普及した統計などを見てもこの傾向で、電子書籍の市場はほぼこれで大きな変動なく推移すると言われる。
また、販売量としても、雑誌を除く印刷書籍の販売量はじわりと減っているが大幅な減少がみられない。特にコミックスを除くと、ここ10年ほどは横這い程度だ。
電子書籍が増えている、好調だ、という事の正体は、雑誌の減少と、それを補う電子コミックの伸びによるもの。電子書籍が印刷書籍を置き換えると言う動きにはなっていないのだ。もちろん数十年単位ではわからないが、ワイは現在の話をしているつもり。
具体的にどこの書店のことを言っているのか分からないのだけれど(少なくともワイの文章は特定の書店を念頭に置いたものではない)
勝手にどこかの書店を想定して、事実の説明に対して、勝手に怒る方がよほど失礼では?
おそらくはちゃんと内容を読んでいないし、構造も理解できてないからこういった結論になるのだろうと思うのであまり説明しても仕方が無いのかなと思いながら、なのだけれど、以下は一応認識しておいていただきたい。
趣味でやっている・やってないにかかわらず、取次が消えたのに、中小書店が残ると言うことはない。
同時に出版社の多くも吹っ飛びます。こちらは中堅どころまで存在できなくなる。
Amazon・ヨドバシ・紀伊國屋も維持できなくなります。特にAmazonは取次を通さないイメージを持っている人も多いようだが、実際には取次在庫への依存度は高いまま。
もちろん数十年単位での緩やかな変化の先にはありうると思うが、この話は現在の話をしているつもり。
出版業界なんて残さなくていい、町の書店なんていらない、滅ぼしてしまえばいいと言うなら、Not for youですね。それこそ客じゃないのでお呼びじゃないです。客目線で話をしているので。自分が客じゃないと言う認識をしてほしい。
それは、そう。
コンピュータ・サイエンスで取り組まれている問題の一覧を紹介しよう。
これが世界最大という超超巨大書店を、どーんと僻地でもなんでもいいから街が作れそうな平野に作ってほしい。その超超巨大さは世界第2位を突き抜けてほしい。
政府もテコ入れし、クラウドファンディングも募り、数多ある企業も全勢力が参入してほしい。もうとにかく全力をかけて作ってほしい。
「そんなことして失敗したらどうする?!バカじゃん?!」とか考えず作ってほしい。勝算とか考えず勢いで作ってほしい。
そこには和書だけではなく洋書もある。西洋の本だけではなく中国語の本、アラビア語の本、アフリカーンス語の本、とにかく片っ端から「いやこれいらんだろ」みたいな本だったとしてもすべておく。
なんなら和書が中央ではなく洋書が中央である。日本語を中心で考えてほしくはない。言語別に存在する知の量に応じた配分をしてほしい。
客層に応じてカテゴリ分けは必要だろう。1つの書店だけでなく複数の書店が統合してもかまわない。古本屋を集めてもかまわない。
「よくわからなくても物理の本を買うなら日本のここへ行け。たぶんあるから」という状態になっていてほしい。日本の中規模以上の書店はほぼすべてここに集める。
全勢力が協力してできた超超巨大書店を中央に据えて、その周りを他の超巨大書店が取り囲む。その周りは巨大書店。その周りは中規模書店、その周りには小規模書店。
海外からも片っ端から誘致する。必要なら補助金も出す。「バカなの?」とか「さすがに海外出店は難しいです」とか一蹴されるだろうが「まあ採算とれそうだからいいよ」と言われるまで粘ってほしい。
税金をたくさん投入してもかまわない。重要なことは「そこにある」「とにかく日本のここに来たらある」「お前のやりたいことは知らんけど本がほしいなら日本のここに行け」という願いが叶う場所だ。
例外を作ればそのブランドは失われる。このブランドこそが他国が追随不可能な圧倒性を生む。先行者利益だ。バカすぎて1つ1つで見るとデメリットしかない行為が、結合すると巨大な1つのメリットを作り出す。
どこかで手を抜くと終わる。そんなことまでする必要ないんじゃないのとか、それってめちゃくちゃ損しますよねとか言われようが、究極に本を集める。
書店と書店の隙間にはさまざまなカフェが立ち並ぶ。個人で経営するカフェからチェーン店が密集する。コンビニも立ち並び、公園には読書に適したベンチがある。公園は読書に最適化されている。
その街にはどこにでも椅子が置いてある。買った本をすぐ座って読む人向けのものだ。
この街には有名人が毎日のようにやってくる。たとえば「ビル・ゲイツが本を選びに来日!」など当たり前のことになるだろう。
読書家はこの街の付近に別荘をかまえる。なんにもなかった僻地の近隣に富裕層街が誕生し、地価がとんでもなく上昇する。意味不明なおいしい話だ。
一方で本を読むことが目的でない人間には居心地が悪い空間になる。この街に存在している人間はほぼ全員本かその周辺が目的なのだ。本以外が目的の人間は異様に目立つようになり警戒される。
街の中央部分は徹底的に、本、本、本、本、本、と本が存在するのが当然の本の密集空間になっている。普通の人間が「ここまですることはないんじゃ・・・だって採算とか・・・」とドン引きするぐらいの熱量で本で溢れかえっていてほしい。
地面に敷かれたタイルには、文章が書かれている。まっすぐ歩くと偉人の言葉などがそのまま読めるようになっているのだ。たとえば「良い本は私の人生におけるイベントである。」「本の無い家は窓の無い部屋のようなものだ。」「天才とは努力する凡才のことである」などという文が永久に書かれている。有名な書の冒頭部分だったりもあるし、古典文学もあるし、文学のみならず数式も書かれていたりする。それを読むだけで日が暮れる。
この街の広告はすべて本に関するものでいっぱいだ。ほかでは絶対に見られない、読書家にだけ向けた広告が撃たれる。「こんな難しそうな本の広告ある?」というのがそこここで見つかる。
たとえばベトナム語のマンガの新刊広告なども見受けられていてほしい。
この街にあるのは紙の本ばかりではない。電子書籍派のための書店もある。他では絶対採算がとれないような形の店であっても、「読書家が毎日のように集まることが普通」の街特有の書店ができる。たとえば巨大な8Kモニタにその人へレコメンドされた電子書籍が大量に表示され、立ち読みすることができるとか。「辞書専門店」や「単語帳専門店」や「栄養学書籍専門店」などがあったりもする。そういうものを作っても不思議と利益が出るのだ。
この超超巨大書店圏内部には研究所や大学なども誘致する。どのような言語でも関係ない。化学系のカテゴリが立ち並ぶ「化学通り」のようなところには実験器具専門店も立ち並ぶ。
そういうところは、基本的には英語がメインだ。英語の下に日本語が書かれている感じ。イメージ的にはハリーポッターだろうか。ときどき「なんで化学通りにオムライス専門店がこんなにあるんだよ」などということもあるかもしれない。秋葉原や神田にカレーがたくさんあるようなものだろう。
やや込み入ったところにはマイナーな本屋がある。「なんだよこの本屋・・・」という、見るからに異国感が漂う本屋だ。謎の部族の謎言語で書かれた謎の材質の本が置いてあるなど。ネクロノミコンのような本も見つかる。
石版などもなぜかある。読書向けの椅子専門店もある。「本のためだけの椅子専門店」が生存できる場所は日本ではここしかない。
しかし、この超超巨大書店群の主目的は「本の集積」である。そこから逸れるようなことがあってはならない。何か欲をかいて「ここに企業をうんたら」などとして利益を優先するとこの街はあっという間にその意味をなくし滅びるだろう。ありとあらゆる人々が周辺の利益を求めて集ってくる。そういうのを一蹴できるような体制であってほしい。
「この街意味ないだろ。なんで作った。赤字だろ」と罵られながらも存続する街であってほしい。そして、そう罵る人も、ひとたびその街に入ると「すげえ・・・この街は地球に必要だわ・・・」とどうあがいても認めざるをえないほど感動できる街であってほしい。街自体で見ると赤字なのだが不思議と日本経済が潤う源泉である摩訶不思議都市であってほしい。完全に未来へと投資された都市である。
この街では、夜もたくさんの書店が営業している。こんな大きな本屋が24時間営業できるのはこの街しかありえないとなっていてほしい。「夜眠れないな・・・本でも買いに行くか・・・」という人外の行動を普通にするような場所であってほしい。
街の周囲には民家が立ち並ぶ。ただしこの民家に住む民間人はややおかしい。本のために移住してきた狂信者たちだ。軒先には自分の選書が並び「1冊100円」などと書かれていることも多々ある。
富豪がゴッソリ買っていくことを見越して少し離れたところに在庫置き場がある。
富豪が「ではこの棚からこっちの棚まで」などと爆買いしていく。もはやテロリストのようなものだが、そんなことは気にせずまた入荷する。本はバカみたいに売れる。
この街は、「日本人なら1度は絶対行け」と呼ばれる場所になる。そしてひとたびそこに立ち入れば「世の中にはこんなに知識があったのか」「世の中はこんなに頭のいい人たちで溢れかえっていたのか」ということが、嫌でも全身の細胞に刻みつけられる。伊勢神宮みたいなものだ。それよりも神々しいかもしれない。
そして、全身の細胞で体感したその人は、格段に読書するようになるだろう。それは地元へ帰っても同じことだ。一流を目の当たりにした者は一流になる。
取次の問題も、書店が潰れかけている問題も、日本人が本を読まなくなってしまっている問題も、経済が深刻化している問題も、だいたい解決できるだろう。
誰か作ってください。
ちなみに国防にも役に立ちます。一度作ってしまえばここを潰すやつは「バカ」なので。ペンは剣よりも強し!
ただそれは、「本がたくさんあっても意味がない」のではない。逆。
それに「物理本を読む人が少ないから本屋が潰れちゃう」というのも逆だ。
「物理本を読みたいと思う人を増やす。そのためには本屋すべてが潰れることも辞さない」という情熱が正道である。
本というのは知の源泉である。だから知識がない人に迎合すれば、潰れるのは自然だ。知識がない側に与するのだから。
本の機能はそれとは真逆であり、全体を引っ張り上げるものである。知識がない側が「欲しい」と願える場にすべきなのだ。
ない側に媚を売っていれば潰れて当然。
「この本は今は読めないけれど、読みたいと思う」そういうものがない。
「この本は内容はちんぷんかんぷんだけど、そういう本の存在を知っている」そういうものもない。
ジュンク堂書店などですら、知らない人々が多い。大型書店の重要性を知覚できていない。入ったことがない人間もいる。
記事を読んでくれた人へ: 記事を読んでくれたのはありがたいが、たぶん自分が考えている規模と読んだ人が考えている規模に大きな差があると思う。
自分が考えているのは、もっとも小さく考えても深圳書城中心城の数十倍の大きさであり、既存の書店をちょっとだけ大きくしたものとか、蔵書が全く同一であるような大型書店が単に10個ある街という形ではない。
コーチャンフォーつくば店は50万冊、池袋ジュンク堂書店は150万冊、深圳書城中心城は400万冊、国会図書館は4685万点。Amazon Kindleは60万点。
自分が言っているのは、数億冊あるような書店群である。つまり、コーチャンフォーやジュンク堂書店や紀伊國屋書店は超超巨大書店(世界中の意味わからんハイレベルの本から選びぬかれ集まったエリート本屋)の周辺を取り囲む「日本区域最大の超巨大書店」の周辺を取り囲む「大型書店の1つ」という状態を考えている。ブックオフなどはその周りを取り囲む中型書店になるだろう。その周りを、身近にあるご近所の本屋さんがたくさんずらーーーっと並んでいるというような領域だ。いうならばこれが日本区域である。
世界の蔵書数はGoogleによると約1.3億冊であるらしい。日本区域内に別に中国語や韓国語の本があることもある。ただし日本区域の横には韓国区域だったり中国区域だったりする。その中国区域でもばかみたいにデカい超巨大書店があり、それを取り囲むようにジュンク堂書店並の大型書店があり、英語区域では……というような状態だ。言語別に分けられているだけでなく、「数学領域」で分けられていることもあり、そこでは「高校数学」の棚に世界各国の高校数学が並ぶ。数学の参考書を買いに来た高校生が、カメルーン人の中学生と仲良くなるみたいなことも想定できるわけだ。
地方のクソデカ本屋が数百個単位で入る「は・・・?」「この街が・・・全部・・・本屋さん・・・?」という規模の書店群である。
イメージとしては↓な感じ。
まもなく目的地の駅に近付く。電車にいる人々は全員が本を読んでいる。スマホを触っている人たちなど誰もいない。不思議な光景だ。多くの人がそわそわしている。初めて来た人たちが多いのかもしれない。
電車が駅に滑り込み走って降りる人々の後ろでのんびりと降りる。全く、はしゃぎすぎだろう。
降りた直後、本の形をした案内板が表れた。真っ先に飛び込んできたのは「↑ バベル中央書店」というやたらとデカい黒文字と、その下にあるやや大きな黒文字の「↑ 北区域書店」だった。
右を向くと・・・あれは・・・本の自動販売機?! 本を自販機で販売するのか。カルピスの作り方・・・自動販売機の歴史・・・Why could he make vending machines?・・・なるほど。
床には文字が書かれている。Station, State, Statue, Status. 何のことやらわからない。
改札を出る。改札を出ると、ああ、もうこれは本のテーマパークだ。最奥部に見える巨大な塔には雲がかかっている。おそらくあれが中央書店だ。その横には数えるのもバカバカしくなるほど書店が並ぶ。街には今まで見たこともないような人々で溢れかえっていた。ベンチでは読書をしている中東とおぼしき人が中国人らしき人と何やら議論している。彼らが話しているのは何語だろうか。
デジタルサイネージで目まぐるしく本の広告が入れ替わっていく。「サウダージにさようなら」「入門グロッキング」「般若心経の終焉」
子どものときに巨大書店や巨大図書館に人生で初めて行ったときとか、論文と大学と研究の仕組みと接したときに、知の偉大さに震えたことがないだろうか。
目に見えないものは見えないことが多い。たとえば、ライブ会場に行ったことがなければライブの偉大さは本当にはわからないし、「本当にこんなにたくさんの人がファンなのだな」ということもわからない。
いま「自分が考えるクラスの巨大な本の集積地を人類の誰もが見ていない」というのが問題であると思う。誰1人として。
そういう知がたくさんあることは存在としては知っていても、「それを見たことがある人は誰もいない」のだ。いわば、月は見えるけど、月に行ったことは誰もいないような状態だ。
神田の古本屋街や、既存の大型書店というのは、いわば地球上にある月に似たところでしかない。「たぶんこれとこれがこうなると月」というふうにしか想像できない。だが月に行かなければ月の隕石は無いのだ。
ほとんどの人は、目に見えないなら存在しないと感じてしまう。マッチングアプリで人間を左右にスワイプするとき、人間ではないように扱う。それは人間として存在しているのに。
一方、眼の前に相手がいるとき、同じように左右に指を振って弾くのは容易ではない。これが目の前にあるかないかの大きな違いである。
自分が言っているのは、そういう知の集積の偉大さが理解できなくてもとにかくそこに行けば、「ああそういうこと」「人類は偉大だったのか」と、誰もがたちどころにわかってしまう場所がほしいということである。
大半の人間はそうだと思ってたが
互いを認め合える奴らも中にはいて、そういう奴らはネットなんて用いないんだよな。
夜中にふとシコりたくなったときに「そういえばオナホは裂けて捨てているんだったな」と思い出してドラッグストアやコンビニに言ってもTENGAしか売ってない。
TENGA、なぜあんなものがこんなに高い知名度を持っているのかが理解できない。
台所スポンジを空の2Lペットボトルに挟み込んだような小学生の自作オナホールレベルのクオリティ。
使い心地もVINNYやカタクリXと大差がなく、何よりも使い捨てというのが良くない。
オナホールの最大の楽しみは使う度に変化することだ。
最初の1回は感動的に気持ちよかったものが段々と退屈になることもあれば、何度も使いこんだある日突然に吸い付きが昨日までと全く変わる瞬間もある。
その変化もまたオナホールの楽しみだ。
使った後の洗う時間も俺は大切にしている。
賢者タイムのどこか陰鬱とした気分の中、自分のチンコや玉袋だけをシャワーで流していると明日へ向かう活力まで排水溝へ吸い込まれていくように錯覚しないか?
だがオナホを洗うという動作が加わるとそれが大いに紛れるのだ。
オナホを作ってくれた人や目の前のオナホ、このようなジョークグッズがいつの間にか人間社会に生まれ落ちたことへの感謝を胸に優しく石鹸で汚れを落としてやる。
精液というものは下手に残れば強烈な臭いを発するものだし、何よりそこで繁殖した雑菌が次に挿入した時チンコに何をしでかすか分かったものじゃない。
ひっくり返してしっかりとヒダヒダの隙間に入った汁を取り除いてやり、優しくタオルで水気を切ったのを確認してから、もう一度ひっくり返して食器乾燥機にでも置いてやる。
大事なのはひっくり返したままで放置しないこと。挿入する方をしっかり乾燥できるから衛生的ではあるのだが、オナホが裂けやすくなる。しっかり水気を取ったら本来の向きに戻してやるのが肝要だ。
そのイメージを逆手に取るかのように社会に滑り込んでいったTENGAの商業的展開能力は素晴らしい。
だがTENGA自体のクオリティは、オナホの中では下の下に属する。
どこの馬の骨とも知れんエロ漫画とコラボしたよく分からんオナホの方がよっぽど気持ちがいい。
アニメキャラクターの無許可パロディがパッケージに書かれた裏社会のシノギではないかと思わせるような粗製乱造オナホでさえTENGAに劣るものはほとんどない。
だが街にはTENGAばかりが溢れている。
秋葉原にあるような本格的アダルトグッズショップを除けば、古本屋やドン・キホーテの18禁コーナーの暖簾の奥にほんのわずかにまともなオナホールがあるだけ。
日本で消費されるオナホールの9割はネットショップでの購入だろう。
だが、草木も眠る丑三つ時にふらりと燃え上がった性欲をぶつけるのに次の次の日の出を待つのでは遅すぎる。
性教育にもいいだろうな。
手で乱暴に擦っているのかやたらと黒ずんだ陰茎をぶら下げているもの、右や左に大きく曲がったもの、TENGAしか知らない身体で風俗に行き本物の女体に溺れ人生を持ち崩すもの。
若いうちからちゃんとしたオナホールを使ってオナニーをする習慣をつけていれば防げた悲しみがこの世界には多すぎる
「じゃあお前のおすすめオナホールはなんなんだ」というコメントがいくつかついていたので蛇足ながら答えさせてもらう。
「ドーナツ型クッションの穴にオナホールを差し込んで使うと、小型のオナホでも半尻型のオナホールのように使えて捗るぞ」だ。
具体的にどのクッションがいいのかは、アマゾンやグーグルで「穴あきクッション オナホール」とでも入れて検索すれば分かるだろう。
テーブルなんかに固定して腰を打ち付けられるようになるだけでなく、ドーナツクッションの穴がオナホの締め付けを増やしてくれるというメリットもあるので、オナホ体験が大きく変わる。
普段はそのままクッションとして使えば痔の予防にもなるし、持っていて損はないだろう。
欠点があるとすれば、オナホールを入れて使う目的で購入されていないであろうドーナツクッションを見た時にさえオナホの影がちらつくことぐらいかな。
職場で使われていたりすると「なぜこの人は職場にオナホ用クッションを持ってきているんだろう?」なんて考えてしまうことさえあるが、まあ口にさえ出さなければ何の問題もなかろう。
謝らせて欲しい。俺は人に特定のオナホールを薦めようという気にはならない。
いろんな会社のオナホールを試して自分にあうのを探して欲しい。
何故こんなことを言うかと言えば、俺の体には一本のチンコしか生えていないからだ。
チンコが一本以上生えている人間の割合には詳しくないのだが、世の中の男性の大部分は一本しか生えていないなはずだ。
俺が自分の体に生えたたった一本のチンコとの相性を持って、「このオナホこそ至高なり!」と語って見せた所で、それが自分以外の男性に生えたたった一本のチンコとも相性がいいのかという不安が勝るのだ。
ただ、個人的な体験から言わせてもらえば、オナホというものは何度か使ってチンコに馴染んでから(いわゆる覚醒してから)が本番だと考えている。
つまり、何度も使うことを想定しないタイプのオナホはよほどの特殊性(たとえば処女膜を再現してるみたいなもの)がない限りは、洗って繰り返し使うことを前提にしたオナホに劣っているというのが俺の考えだ。
あえてオススメをいうなら、「繰り返し使えるオナホを使おう」となるのだろうか。
実用性の話ではなく単に俺の個人的なオナホ体験談か聞きたくて「今までで一番感動したオナホールはなにか」が聞かれているのだとすれば、「初めて使ったVINNY」がその答えだ。
(今更になるが、VINNYとはビニール製の自作オナホールだ。作り方は「VINNY オナホール」でググッて欲しい)
手淫しか知らなかった俺にとって、それが初めてのオナホだった。
当時はまだオナホもそれほど世の中の主流ではなく、わざわざそんなものを買うという行為に対する抵抗が強かったが、それでもなおオナホに対する興味は日に日に増していった。
自分の家でコッソリ作ればいいだけのVINNYならば購入履歴が残るわけでもないから恥ずかしくもないと思って、俺はVINNYを作ったわけだ。
挿入直後のゾクゾクと来る未知の体験は今でも忘れられない。
そもそもVINNY自体がビニール製のジョリジョリボディと強い圧迫力を持つハード系なわけだからして、初めてのオナホールにするには刺激が強すぎたのではと今は思う。
まさに電気が走ったよ。
数万円した電動オナホールに手を出したこともあったが、値段の割にはどうってことはなかったよ。
結局、オナホールの感想は個体差だけでなく使う人間のコンディションや経験値にも左右されるってことだ。
つまりだ。初めてのオナホールであれば、きっとそれがTENGAであっても使用者に強烈なインパクトを与えうるということだ。
そんな美味しいゲートウェイオナホールとしての立ち位置を独占するかのようなあの売り方、本当に上手いと思うよ。商売としては本当にな。
共産党の「反党分子」に対して、執拗に誹謗中傷を続けてるみたいだけど
今日び「死ねばいいのに」とかタグつけて呼び捨てでバカとか執拗に粘着するブログやコメントつけてる異常者なかなかいないよね
共産党の中ではこういうのが罷り通るのか・・
こいつの暴言ブコメに高頻度でスターつけてるquick_pastも共産党員なのかな?
横田早紀江さんに「地獄に堕ちろ」とかゲロがブコメしてquick_pastがスターつけてる
https://b.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20230921#bookmark-4742518652929171567
やつのいいところは気軽に卵かけご飯のフレーバーが楽しめるところだ。
・コメの準備
・炊飯の手間
・新鮮な卵の備蓄
・醤油の準備
・買って
・空けて
・食べればいい
それだけだ
この発音を馬鹿にするってのが日本人があんだけ英語やってるのに英語弱い一番の理由だと思ってるわ
中高あたりでよくあるあざけわらう系のアレやったやつの評定下げたほうがいいぐらい
東大博士号ママのこれ普通にコンプラで一発アウト案件なのに自分はツイ消し+謝罪無し言い訳+共同研究者の早大教授に謝罪させそれをRTだし自身は絶対謝らずダンマリなの凄い
自分が専修でこの授業受けてる学生だったらもうこの人の授業行きたくなくなる、課題の発音子供にバカにされるんだもんね pic.twitter.com/gUxo8NdNha— 🍡 (@mttdwjaw) August 16, 2024
友人同士の貸し借りもあっただろうけど、同時に当時すでに大人になった人間の中にもゲームを趣味としている人が大勢いたわけでな。
そう考えていくと、シリーズのどれか一つの作品を取り出した分だと若年層のうち半数にも行き渡っておらず、シリーズ全体で考えても、やはりプレイヤー比率が過半数を超えたことなど一度もないと考えるほうが自然なんじゃないだろうか?
インベーダーやUFOキャッチャーのようなどこかの旅館で気まぐれに遊べるようなものならともかく、自分の部屋に腰を落ち着けて文章をじっくり読んだりレベルをちまちまと上げて何十時間もかけてクリアするようなゲームが人口の大部分に波及していたことがあるというのは思い込みにも程があろう。