はてなキーワード: 昭和54年とは
現在のところ「煮詰まる」という言葉は、「議論や交渉がまとまって結論が出る」という用法が正しいとされ、「議論が進まなくなって行き詰まる」という用法は誤用であるとされている。「煮詰まる」という言葉がどのように用いられてきたのかに興味を持ったので、その変遷を辿っていこうと思う。ソースはだいたい国会図書館デジタルコレクションである。
注意として、ここでは「煮詰まる」と「煮詰める」を区別して、「煮詰まる」の用例のみを追っていくこととする。現在においても「煮詰める」のほうには「行き詰まる」という用法はなさそうだからである。
調べてまず気付くのは武者小路実篤が「煮詰まる」を多用していたことである。そして同じく白樺派の有島武郎や長与善郎、その影響を受けたという岸田劉生・木村荘八なども「煮詰まる」を用いている。まるで実篤から伝染したようである。それらは概ね「無駄な修飾を排して凝縮されている」あるいは「態度が一つに決まっていく」というような用法であり、いずれもポジティブな意味で使っているところが共通している。いくつかの例を挙げる。
心が二元的である間は、即ち或る機縁によって煮つまって一元的にならない間は、どこまでも二元なり多元なりの生活を押し通して行くがいいと思う。
牛のよだれのようにだらだらした書きぶりがいかんのは問題にもならぬ事であるが、さればと云って何でも只無暗に簡潔に端折って書きさえすればいいと云う事を一つおぼえて、まるで電報の文句のような言葉さえつかえば煮つまったいい文章だ、と思っている人の文章は又不自然な、とらわれた感じのするものである。
もちろん白樺派以外の用例も同時期にあった。意味的にはさまざまだが、ネガティブな用法も多かったようだ。
この説明には余程可笑しな点がある、で、僕は云った。
もとは『The Scarlet Empire』というタイトルのアメリカの小説である。原文は「It looks as if religion may correctly be said to have gone to seed, in this country.」となっており、「gone to seed」は「盛りを過ぎて衰える」という意味なので、つまりそういった意味で「煮詰まる」が使われていると考えられる。「加熱しすぎて水分が飛んでしまった」ようなイメージだろうか。
私が余りに余計なことを喋舌り、私の心の中で長い間煮つまっていたことを必要もないのに述べ立てたことを、而もそれに就いては私は書いたものから読むように話すことが出来たのだ
こちらも翻訳書。英文は「I had unnecessarily described what had long been simmering in my heart」。「心の中でくすぶり続けていた」とか「ずっと感情が渦巻いていた」といったイメージか。
真夏の暑い日に遠く法華宗のお題目が聞こえてくる…という場面で、この「煮詰まった声」は「重苦しく絞り出している」ような印象を受ける。ものが煮詰まったあとのドロドロとしたイメージだろうか。
「居た堪らない」というので、世界が煮られて、そこにいられなくなるような感じだろうか。ぎゅっと狭窄するような感覚もあるかもしれない。
議論が悪い方向に盛り上がってヒートアップしているという描写。結論が出そうにないという点では現在の「誤用」のほうに近いか。
かるが故に自己の生活を安泰ならせんが為には儼然として己れが階級の城壁を固守しなくてはならない。科挙制度がそれだ。かかる試験制度を採用することは一に権力者に反抗する意志を学問の為に煮つまらせ、又一には士大夫階級思想擁護の有為なる人材を作ることになる。
この式場隆三郎も白樺派との交流があったらしいが、「作品を見ない」ということは、ここでの用法は「行き詰まる」に近いのではないか。
勿論コチコチ官僚型で煮つまって、倒さにふっても水っ気もないような人ではなく、時代に対する感受性は強く、好んで人の長所を認識する感服癖さえある。
昭和10年 ギュスターヴ・フローベール『ジョルジュ・サンドへの書簡』
では左様なら。もう遅いのです。頭がまるで煮詰まりそうです。
翻訳書。英文は「Adieu, it is late, I have an aching head.」なので、普通に頭痛がすることを言っているのか、それとも「悩んで行き詰まっている」的な意味なのかはわからない。
戦前は武者小路実篤を中心に、小説・詩歌・戯曲などの文学的文脈で使われることが多かった「煮詰まる」だが、戦後になると現在のような「議論や交渉が煮詰まる=結論が出る」といった用法が登場し、やがて支配的になっていったようだ。
それに関してわかりやすいのは「国会会議録検索」で、戦前の「帝国議会会議録検索」では「煮詰まる」はほとんどヒットしないが、国会会議録では1950年代あたりから見られるようになる。さらに用例を確認していくと1960年代から爆発的に増えていったようだ。労使交渉の文脈が多いように思われるので、そのあたりをきっかけに流行りはじめたのかもしれない。
となると次に気になるのは「議論が煮詰まる」=「行き詰まる」という用法がいつごろ確立されたのかということである。どうやって調べればよいか。たとえば「煮詰まってしまった」みたいな形だとネガティブな文脈で使われていそうだ。ということで検索してみよう。
しかし日本側は表面上は「朝鮮総連を相手にせず」とその抗議を重視せず、裏では字句は修正せずとも運用面に幅をもたせるという妥協の動きに期待を寄せていた。それが、日赤が相手にせざるをえない北朝鮮赤十字から真向に攻撃を受けたのだから、問題は煮詰ってしまった。
やはり人間は災害にあってみないとなかなかわからないもので、そういったことで安堵感を持っている。しかしジワジワと危機に瀕してきているわけで、そのときの判断をあやまると、残念ながら煮詰まってしまう。
ハイ・スクールからジュニア・カレッジヘと進んだアリス達は2年間のカレッジ・ライフで煮詰まってしまい、カリフォルニアに向かったのである。
ああいう自由さが背景にあってのこの音楽じゃなくて、すごい煮詰まっちゃってて、つらいだろうなというところで出て来る音なんですね。
「でも、仕事ばっかりしていると煮詰まっちゃう」「煮詰まっちゃうってのは、息詰まる、退屈する、スランプに陥るって意味なんです。」
昭和60年 毛利子来・岡島治夫・末永蒼生『「体」発、宇宙へ』
「結論が出る」用法と比べれば圧倒的に少ない。とはいえ1970年代くらいからは、日常語として「行き詰まる」的な用法もわりと広まっていそうな感じはする。というか「結論が出る」用法は議論や交渉の文脈でしか使えず、それ以外のときは「行き詰まる」用法になることが多かった、という感じではないか。
ちなみに、この「行き詰まる」用法が誤用として問題視されるようになったのは2000年ごろらしい。実際、Google Booksで「煮詰まる 誤用」などと検索すると2000年以降の書籍しか引っかからない。
といったところか。
「煮詰まる」のコアイメージは「熱されることで水分がなくなっていき固形分だけが残る」というようなものであろう。
それをポジティブに捉えると「余分なものが削ぎ落とされて本質がはっきりする」といった意味合いになり、ネガティブに捉えると「瑞々しいものが失われて停滞する」といった意味合いになる。たとえば「議論」にポジティブなイメージを適用すると「論点が整理されて結論がはっきりする」になり、「思考」にネガティブなイメージを適用すると「新しいアイディアが生まれなくなり行き詰まる」になるわけだ。
もともとの料理としては「美味しくするために煮詰める」ことも「熱しすぎて煮詰まってしまう」こともあるわけで、どちらのイメージで使うのも自然な感覚である。当初から「煮詰まる」は多義的な比喩表現だったのだから、「これが唯一正しい用法なのだ」などとはあまり気にしなくていいのではないだろうか。
オレオレ、俺だよ。
厳密には俺の主張の帰結としては反論ではなく、元増田の情報不足に対する補足なんだけど、これは俺がそうとも読める書き方をしたのが悪いな。
「この増田の主張を前提に」俺から言わせれば、ごく稀だからこそ、取り上げることに意味がある。
俺の主張の一番重要なところは、「人間が警備する限り、起こらないってことはないでしょ」ということ。
そこを
とシチュエーションを限定して書いてしまったところは俺の反省するところだけれども。実際他の増田にツッコまれたし。
「例外的事象」については、元増田の主張を前提の発言ととればまあ、「俺は」理解できなくもない。
ただ、少なくとも明石の事故の当事者にとっては例外的事象ではないだろ?
元増田や擁護した増田についたブクマカの中にも、当事者として明石の事故に言及した人たちがいるかもしれない。
その当事者たちは、明石の事故の経験によって、元増田の主張する「雑踏事故を甘く見過ぎてはいけない」ということを身をもって知ったわけだろ?
そんななかで明石の事故を例外的事象として捉えてしまって良いのか?
んでもって、「ごく稀」とはどれくらいだ?
どれくらいの期間のうちどれくらいの件数であれば、「この増田にとって」「ごく稀」であると言える?
よく言われることだし、元増田の
の「まず」にも係るけれども、曖昧な言葉遣いは、読み手側に書き手側の意図しない解釈を与えやすく、批判の糸口になりやすいから気をつけた方がいいよ。自戒を込めて。
さて、ここでまた、このやさしく暇をもてあました俺がこの増田の代わりにちょっとだけ調べてあげよう。
まず、当初俺は「雑踏事故」というワードで調べたのだけど、「群集事故」という呼び方もされているようだ。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/群集事故
ここに書かれている内容に元増田の主張と齟齬があるようには感じられなかったので、以下群集事故を調べることにする。
調べた限り、一番事例が載っていたのはこれ。
https://www.wikiwand.com/ja/事故の一覧#群集事故
で、元増田は1972年以降の事例を(宇崎ちゃん以外に)挙げていないので、
の条件で絞り込んで拾い上げると、2001年の明石の事故までに少なくとも2件起きている。
一つずつ挙げていく。
Wikipediaには項目がなかったが、昭和54年の警察白書に事例として記載がある。
https://www.npa.go.jp/hakusyo/s54/s540800.html
ただし、警察が事故の起きた当時警備業務に関わっていたか、事前にコンサートの概要を把握していたかは読み取れない。以下白書より引用。
1月、札幌中島スポーツセンターで開催されたイギリスのロックバンド「ブラックモアーズ・レインボー」ショーで、興奮した観客約500人が開演と同時にステージに殺到し、このため、いすにつまづいて倒れた観客が将棋倒しとなり、下敷きとなった1人が死亡、7人が負傷した
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/ラフィンノーズ公演雑踏事故
この公演に3000人の観客が集まり開演と同時に観客がステージ近くにまで駆け寄り演奏に興奮した一部の観客がステージに上がろうとし、それに続こうとした後続の観客が重なるようにして転倒・下敷きになったのが原因であった。この事故で死者3人・重傷1人・軽傷19人の計23人が被害に遭った[要出典]。主催者は公演前日に警察署に届出をしたが、当日は主催者スタッフのみで警備員の配置を全くしていなかったことも事故を増幅させた。
これは当時の音楽ファンの間では有名な事故みたいなんだけど、情報源を探すのに苦労した。
https://aucview.aucfan.com/yahoo/s1053964729/#&gid=1&pid=3
ちょっと目を通すだけでも、Wikipediaの記述と相違があるように見受けられる。速報だからかも知れないけど。
ことが辛うじて読み取れる。
本件に関するこれ以上の調査は図書館行って当時の新聞を読み漁る必要があり、こもりびとである俺の行動できる範疇を超える。誰か調べてちょ。
らしい。
その要綱の内容は、やっぱり探すのに苦労した。Wikipedia記載の警察庁への外部リンクはhttpでリンク切れになっていて、httpsにしてみてもnot foundだった。
代わりに見つけてきたのは↓。栃木県警が上記の要綱を受けて、内部通達した資料と思われる。
https://www.pref.tochigi.lg.jp/keisatu/n15/jourei/documents/11_2.pdf
一応、時期的にも内容的にも一致しているように見える。
詳細は各自で読んで欲しいし、俺も全文はさすがに読んでないんだけど、要綱の
警察は、施設使用公演等に伴う雑踏事故の防止対策に資するため、これら事故の過去における発生実態及び原因等の分析を行うとともに、タレント等の人気度、観客層の構成等の実態について、平素から把握に努めるものとする。
という記述をみるに、この事故は、その発生以前と以後で警察の雑踏事故に対する態度が変わったという意味で、取り扱っても良い事例かもしれない。
に、
がこの時点で加わったわけだ。
元増田は主に戦後日本の雑踏警備について話しているので、ここでは戦後(1945年以降)に限って話を進める。
群集事故件数の年次推移的な資料を探したのだけどなかなか見つからなかったので、ここは妥協して「報道されるほどの被害をもたらした事故」に限るとし、先ほどの群集事故の一覧で数えることにする。
自分で数えた限り、1945年から現在までの80年弱で、日本では明石の事故含め21件ほどの群集事故が起きている。
明石の事故の前後は、前は先述の1987年ラフィンノーズ公演雑踏事故、後は2003年の中日阪神戦でのファン乱入・乱闘騒ぎ。
ちなみに後者では死者は出なかったものの、誰が使ったか知らないが防犯用の催涙スプレーが使われたとある。なんでや阪神関係あるかわからへんやろ。
んでもって、1945年以降1972年までの28年間に13件、1973年以降現在までの50年間に8件。
当然、
といった点は考慮すべきではある。
けれども俺としては、明石の事故がというよりは、報道されるほどの被害をもたらす日本の雑踏事故自体が、数年に1〜2回程度しか発生しないという印象を持つに至った。
大きな事故は、数年に1〜2回程度。
だからこそ、恐らく雑踏警備は難しい。
ラフィンノーズ公演雑踏事故の教訓を受けて、「常日頃から情報収集に努める」という要綱を施行した14年後に、明石の事故が起きた。
そしてその主たる原因は、過去のイベントの警備計画をほぼ流用した警察らの怠慢にあった。
その14年間に色々なことがあったであろうことを隅に置いて物事を単純に捉えると、明石の事故の当事者の方々には大変申し訳なく思いつつも、警察のこの失敗に共感してしまう自分がいる。
もし俺が雑踏警備を主たる業務とする警察官(仮定が成立するかは知らん)で、5年も10年も雑踏事故が起きなかったら、全てではないにしてもいくつかの雑踏警備に手を抜いてしまう可能性を否定できない。俺怠け者だし。
長期にわたって怠慢に抗うのは、少なくとも俺にとっては、とても難しい。
おわり。
・国会議事録( https://kokkai.ndl.go.jp/#/ )から「丁寧に説明」「丁寧な説明」を検索し結果を取得、合算
・発言総数は、5509回
岸田文雄 108
石井啓一 60
西村康稔 55
麻生太郎 52
中谷元 50
菅義偉 49
茂木敏充 42
塩崎恭久 39
岩屋毅 37
吉川貴盛 35
望月義夫 35
野田佳彦 34
林芳正 32
梶山弘志 25
野上浩太郎 25
下村博文 25
■年別推移
令和3年 350
令和2年 391
令和元年 463 (平成31年を含む)
平成30年 621
平成29年 497
平成27年 569
平成26年 446
平成24年 188
平成23年 185
平成22年 93
平成21年 76
平成20年 77
平成19年 64
平成18年 102
平成17年 83
平成16年 53
平成15年 39
平成14年 43
平成13年 26
平成11年 43
平成9年 16
平成7年 9
平成6年 6
平成5年 13
平成4年 8
平成3年 14
平成元年 8
昭和63年 5
昭和62年 5
昭和61年 3
昭和59年 3
昭和58年 2
昭和57年 6
昭和56年 4
昭和55年 7
昭和54年 5
昭和53年 5
昭和52年 3
昭和51年 7
昭和50年 3
昭和49年 2
昭和48年 4
昭和47年 1
昭和46年 2
昭和45年 4
昭和44年 5
昭和43年 7
昭和42年 8
昭和41年 4
昭和40年 4
昭和39年 3
昭和38年 4
昭和37年 5
昭和36年 6
昭和35年 2
昭和34年 5
昭和33年 7
昭和32年 6
昭和31年 4
昭和29年 8
昭和28年 8
昭和27年 5
昭和26年 7
昭和25年 8
昭和24年 4
昭和23年 6
①社会的地位を利用し、断りがたい立場の人に狙いを絞り、お金は38万必要だ
が とてもいい話が聞ける。この様に誘われることすら、得がたいことであ
り、行けば必ず納得してくれるだろうと、教団名、宗教であることを隠して
勧誘する。
②京都へ行けば、2日間にわたり、念仏宗・無量寿寺信者としての(かなり洗
このとき、念仏宗の秘儀というものも教わるが、(太陽を裸眼で見る方法、
化仏、化菩薩を見る方法等で、この秘儀を伝えられたことにより、極楽往生
が決定し菩薩の仲間になったと教え込まれる。) これは普通の生活では経
験していないことを教えるだけで、同じようにすれば、誰でも見える。また
徹底した秘密 主義を誓わせ、たとえ家族のものであれ念仏宗無量寿寺で聞
③釈尊本来の仏教というよりも 浄土系、密教系の複合したもので 開祖、久
世太郎(本名 福井真尚、別称 戸倉貞和)教と呼ぶべきものである。ちな
みに開祖の前歴は占い師で詐欺による訴訟を神戸地方裁判所にて起こされた
こともある。
④念仏宗 無量寿寺の会員(同行という)になると、3人を済度(信者を勧誘
すること)するノルマを与えられる。
⑤学術的文献によれば一般に 「隠し念仏」と呼ばれている。浄土真宗側から
仏教歴史学によれば、秘事法門と呼ばれ、 布団被り、御蔵法門、御杓子講
空也派、天王寺派等、が存在するようだ。念仏宗が、どの派に近いのか、ま
た、混交したものであるのかは不明である。 いづれにしても 善智識と呼
ばれるものを立て、自宗の奥儀として儀式を秘匿し、門外に他言すれば地獄
におちると 信者に言い含めるのが特徴としてみられる。
⑥2チャンネルの「念仏宗無量寿寺」掲示板や、「知りたい。。。」掲示板の
元信者、現信者家族の書き込みに寄れば 無量寿寺への入信が原因で、離婚
や、家庭不和、鬱病に悩まされているという報告が数多く寄せられている。
また、念仏宗の幹部、であり、回向相伝を授けられた土屋 悟 氏が(2001
護持費(会費)1口 2000円・・毎月支払い、口数は各信者の自由意志
その他、地方会費(各地区の別院、檀信徒会館、等施設維持のため)として
信者1人当たり1000円 ~5000円/毎月)の支払いがあるようだ。
回向 (先祖供養等) 一体1口 10000円 (1年に先祖1人につき6回必要)
集中回向 一体 100000円
法名 100万円
仏像 一体 100万円
本堂の柱 寄進 1本 1000万円
⑧念仏宗無量寿寺は昭和54年に宗教法人としての認可を監督官庁から受けた。
平成4年に 日本の仏教 第14宗として監督官庁に認可されたと、無量寿寺
の月刊誌に書いてあるそうだが、監督官庁が認可した事実は無い。
⑨開祖の久世太郎は 真言宗第195代 琳真大僧正の6番目の末弟というふれこ
みだが、真言宗に確認してみると そのような事実は無いとの返答であった。
⑩念仏宗・無量寿寺 信者として、六大祭事(初詣、大涅槃会、観音祭、降誕
⑪これまでに5回 世界仏教サミットを開催しているが、これは念仏宗のお手
盛り、宣伝的なイベントであり、 日本の仏教会からは 全く無視されてい
る。
日本の仏教会は、全日本仏教会という組織(日本仏教会の9割以上が参加)
があり、これまでに20回以上も 世界仏教徒会議というものに参加している
を受けるに当たっては 五具足相伝に300万円、回向相伝には1000万の冥加
金を支払わねばならない。
念佛宗では信者が儀式の際に使用した上記のものを死後8時間以内にこれら
を身に付けさせ、蝋燭を燈さなければ輪廻の輪から解脱出来ず、極楽浄土へ
向かう事が出来無いとしている。
胎内にいる間に、仏との縁を結び、無事にこの世に生まれさせていただくと
いう儀式 いわゆる、安産祈願、不退は産まれてくる子が 真実の道、浄土
へ向かう道から外れないという意味を含むようだ。この儀式を受けたあかち
ゃんは臍のおが白いと云われるが、元、念仏宗信者の言によれば、他のあか
開祖の久世氏をはじめとして、法主:宮川氏、善智識:郡氏、清水氏の4名
かと思われる。清水氏は企業セミナーの講師もしているとの情報あり。
⑯念仏宗・無量寿寺 同行となったものは 精進しなければならない。(具体
的には、本山、 別院、檀信徒会館、王堂 関連の 維持、管理、世話等の
仕事が順番に回ってくるらしい。)
うーん、まあそういうことを言いたい気持ちが分からんではないんだが、
(1) 和暦において二文字でない年号は「天平感宝」「天平勝宝」「天平宝字」「天平神護」「神護景雲」の五つしかない。これは奈良時代、聖武天皇の「天平」の後の20年ちょっとの時期に集中していて、それ以前にもそれ以降にも元号は二文字のものしか存在しない。
(2) 昭和54年、元号法が制定された時期の閣議報告である『元号選定手続について』(昭和54年10月23日 閣議報告、昭和59年6月29日 一部改正、同7月1日施行、昭和64年1月7日 一部改正):
https://www.kantei.go.jp/jp/content/20190208choukan_shiryou.pdf
の 2(2)イ に、
内閣官房長官は、候補名の検討及び整理に当たっては、次の事項に留意するものとする。
(中略)
大津市教育委員会教育長の給与等に関する条例(昭和31年大津市条例第22号)によると、1,250万円超もらってるそうな。
http://www2.city.otsu.shiga.jp/reiki/reiki_honbun/x400RG00000571.html
計算できる範囲では、年額1,258万1,184円也。
これだけもらっりゃ、諸々の責任認めて辞任したくない!と考える奴もいるかもしれない。
早速検討すると、「給与」は、①給料、②地域手当、③期末手当、④通勤手当から成っている(2条)。
(給与の種類)
①の「給料」は、月額736,000円也(3条1項)。
(給与の額)
②の「地域手当」は、月額73,600円也(3条2項)。
③の「期末手当」は、6月支給分が1,360,128円、12月支給分が1,505,856円也(3条3項)。
3 教育長の期末手当の額については、大津市一般職の職員の給与に関する条例(昭和32年条例第21号)の適用を受ける職員(以下「他の一般職に属する職員」という。)の例によるものとする。ただし、期末手当の額の算定に当たっては、同条例第20条第2項中「100分の122.5」とあるのは「100分の140」と、「100分の137.5」とあるのは「100分の155」とし、同条第4項の期末手当基礎額は、給料及び地域手当の月額の合計額に、給料及び地域手当の月額の合計額に100分の20を乗じて得た額を加算した額とする。
→期末手当基礎額:971,520円(=(736,000円+73,600円)*1.2)
→6月支給分:1,360,128円(=971,520円*1.4)、12月支給分:1,505,856円(=971,520円*1.55)
参考:大津市一般職の職員の給与に関する条例(昭和32年大津市条例第21号)20条2項
http://www2.city.otsu.shiga.jp/reiki/reiki_honbun/x400RG00000156.html?id=j20_k2
2 期末手当の額は、期末手当基礎額に、6月に支給する場合においては100分の122.5、12月に支給する場合においては100分の137.5を乗じて得た額に、基準日以前6箇月以内の期間におけるその者の在職期間の次の各号に掲げる区分に応じ、当該各号に定める割合を乗じて得た額とする。
(2) 5箇月以上6箇月未満 100分の80
(3) 3箇月以上5箇月未満 100分の60
(4) 3箇月未満 100分の3
で、〆て、1,258万1,184円也。
∵給料8,832,000円(=736,000円*12月)+地域手当883,200円(=73,600円*12月)+期末手当2,865,984円(=1,360,128円+1,505,856円)
ちなみに、退職手当は、大津市長等の退職手当に関する条例(昭和54年大津市条例第2号)3条参照。
http://www2.city.otsu.shiga.jp/reiki/reiki_honbun/x400RG00000171.html?id=j3
(退職手当の額)
第3条 市長等に対する退職手当の額は、退職又は死亡した日においてその者が受けるべき給料月額にその者の在職月数を乗じて得た額に、次の各号の区分に従い、当該各号に掲げる場合を乗じて得た額とする。
http://anond.hatelabo.jp/20080823131346
反響が大きくてびっくりしました。
ご意見に返信していきます。
大阪で育ったけど
こんな教育受けたことない。
本当に「大阪では」と書いてあるところは
全部「大阪にある僕が通った学校では」と書かなくてはいけない話だと思う。
一般化してほしくない。
ごめんなさい。
自分の育った地域は大阪の中でも同和教育の時間数が多かったのかもしれない。
「にんげん」....憶えてますよ。表紙がオゾマシイイラストのあの本ですね。
道徳の時間はすべて部落差別問題(たまに障害者差別)に充てられました。教材は、「にんげん」もしくは先生が用意したプリント。
「にんげん」の表紙のおぞましさは忘れられません。表紙になにか別の紙を貼って隠してしまえばよかった。あの表紙は今でもみたくない。
個人的な感想で申し訳ないが、自分もあの表紙は怖かった。
確かにまっとうな同和教育は必要。それは正しいことだと思う。
でも、僕が受けた同和教育はおぞましかった。
いつもと違う、怖い形相の先生にピリピリした空気の中、偏った思想を植えつけられることがどんなにつらいか。
なんていうか、時間数も、内容も、度を越している。
広く大阪で一般化されてもな。俺はずっと大阪だが、そんなアホな教育受けてないぞ。ちなみに豊中市。
仮にそんな漫画みたいな同和教育があるとしても、もっと狭いごく一部の話なんじゃないか? あるひとつの市か、町か、一校かは知らんけど。
もちろん同和教育はあったし全校集会的なものだったけど、部落差別の歴史と、それで辛い目にあったという話を聞く授業がメインだった。
って当たり前だわ。部落のお陰で濡れ手に粟でいい目にあってんぜ、というアピールをして部落の外の人がいい印象を抱くわけないだろ。ネガティブキャンペーンにしかならんのは自明だ。本当にそんな逆効果にしかならん教育やってんのか?
仮に今逆差別で彼らがウマウマやってるんだとしてもその公演は非合理だぞ。とても信じがたいが。
(追記)
あ、もしかして……。
「人権ってええで!ぬくいで!」→「人権はすばらしいものだ、我々(聴衆も含めて市民全員)を守ってくれるものだ」
「キミ等は結婚するときに差別したらアカンのや!」→これはまあそのままにしか受け取れないが。
「差別されてた人たちは、ほんまはゲキ(たぶん、劇のこと)とかの天才のすごい人やったんや!」→河原者のことを指してる?(この国の演劇の起源と言われている)
お前、変なミスリードしてねえか?
まず、劇についてはたぶんあなたが言っているとおり、教科書に載っている通りだと思う。これは小学校の時にも知っていた。
でも話した人の発音が明らかに「劇」の発音じゃなかったのでカタカナで書いた。誤解を招いたならごめん。
自分が書いたことは全部個人的な体験談なので、あなたの学校ではそうではなかったかもしれない。
で、「自らバラすわけがない」に対して、これも個人的な体験で申し訳ないのだが、
「うちのアパート、同和委員会入ってるから正月は無料で市がタタミ換えてくれるねん」
などなど、子供同士ではけっこうどぎついことも話しまくっていた。あ、これは中学校の時の話。
自分が同和問題に興味を持っていたから、そんな話を聞きやすかったのかもしれないけど。
あと、公演も授業も、「差別された人たちを今優遇しなければならない」という思想を延々とコドモに対して繰り返すこと自体が悪いと思う。
非合理だとは思うが、実際に体験したのだからしょうがない。
結婚の話にしても就職の話にしても順調に交際が進んでいたり内定が出てたりしていたのにある日突然相手の態度が変わった。
興信所に私の素性を調べさせて部落出身だと分かったからだ、みたいな展開でしょ?
だからその言葉の意味はわかるけど、はてなでのコンセンサスというかニュアンスはわからない。と先に断っておく。
それが素性がわかったから結婚を断るという話だけではないのだ。
結婚とか、友達と遊ぶのを断られたから、「部落出身者だからか」と勝手に結論付ける話が存在していたし、僕は読まされた。
「大阪」で一般化するなと自分で言っておいて一般化しないでください
ここに書いてあるような授業の元締めである大阪府(市)同和教育促進協議会の事務局と同じビルに事務所のある某組織の中の人だった俺が保証する.どれもおおむねホント,あるいは学校によっては更に凄かったよ.もちろん「自分は大阪出身だけどここまでではなかった」とコメントしてらっしゃる方が嘘をついてるとも思わない.たぶん,学区内に「行政が公認した対策事業対象地域」が存在しない学校だったんじゃないだろうか.
元増田のような地区外出身者への洗脳も凄かったけど,個人的にいちばんえぐいと思ってみてたのは,「部落出身者としての自覚を促す」とかの戯言に基づいて地区出身者に強要される「部落民宣言」だな.連中にとっちゃ,「地区出身であるにも関わらず自分が差別されてるとは特に感じてない」存在が許せんのだろうね.自分たちが運動を行い対策事業の恩恵にあずかる最大の根拠を身内に否定されてるようなもんだから.
部落民宣言の話は、友達から聞いたことがあるが、名称を覚えていなかったので書けなかった。
お詳しいようなのでこの際聞いてしまいます。
これも中学校時代に友達から聞いたのですが、「同和委員会に入っているだけで特定部落出身者でなくとも減税など特定部落出身者の受ける行政処置を受けられる」という制度は本当にあるのでしょうか?
もちろん増田なので正確度は期待していませんが…一応。
自分が生まれ育った大阪府枚方市ではこんな教育は受けなかったんだけど(昭和54年生まれです)、
同和の予算がカットされていってるから、これから縮小されていくのではないかな、と思うよ。
こういう教育が残っているにしてもね。
それを願います。
率直に言って、僕は安心してもいます。
どうやら大阪ならどこでも同和教育がきついわけじゃないということがわかって。
あの異様な空気を味わう子供が少ないなら、それは良い事だと思う。
僕の書き方は過激な部分もあったかもしれない。
でも誇張はしていない。僕の経験したことをありのまま書いた。
僕の話を読んで、想像して欲しい。
僕は、同和委員会がすごく怖い。
あなたが小学生だったら、この教育を9年間受けてどう思うだろうか?
「絶対逆らえない」「同和委員会を批判するとやばい」という恐怖を植えつけられないだろうか?
非合理だという意見があったが、僕なりに考え出したこの教育の理由のひとつは、
「同和関係の団体に逆らうとやばい。批判することさえ許されない。話題にすることさえ…」という恐怖感を子供に植え付けることではないか、と思う。
確かに差別は悪だ。これからの時代を生きる子供たちには絶対に差別主義者にはなってほしくない。
でも、同和や在日外国人など、差別問題について、その利権を吸う団体について議論すらできなくなったら。
その議論をおこした人間のほうが「差別主義者だ!!」と無条件に断定される世の中がきたら。あるいは来ているのかもしれない。
確かに刺激的な話題だし、僕の文体やレトリックにつっこみたい気持ちもあって当然だと思う。
でも、一度想像してみて欲しい。真剣に。
追記:怖いけど言ってしまう。
僕の通っていた学校には同和関係の団体のトップの子供が通っていた。
あと、僕はまったく同和・在日外国人に対する差別意識は持っていない!これは明記しておく。
そして、同和委員会に入っている家庭の子供がみんな漠然と利権がおいしいと思っているわけでもない!
僕の友達には、部落出身者の中から同和利権を潰したいと熱く語るやつもいた。(当時中学生)
彼とは今でも年に一回くらいは会っている。友達だ。
だからこそ、僕が彼の住所を口に出しただけで恐怖を感じるような、偏った同和教育は嫌だ!(そしてもちろん、同和委員会を優遇する行政も、同和委員会の子供は無試験で入学させるような学校(実は私学にも多い)などの民間団体も間違っているとはっきり言える。)
「片側をあけるのが常識」という考え方と、「片側をあけるのは危険」という考え方の間で、マナーが揺れているようにも見えるけど……。これっていつからなの?
「もともとエスカレーターは片側をあけないで乗ることが基本です。片側をあけ、急ぐ人が歩いて通るというのは、自然発生的に生まれてしまったもの。本来は、ステップの黄色い枠の中に立ち、必ず移動手すりを持つというのが、正しい乗り方ではないでしょうか」
と、事務局長の井出さんは言う。
ただ、法的根拠としては
昭和54年建設省住指発第31号建設省住宅局建築物防災対策室長「協力依頼」
として
(1)「エスカレーターの安全対策標準」(昭和52年1月19日付け建設省住指発第25号別添)に掲げる事項について、可能な限り実施するよう努めること。
(2) 建築基準法第12 条に基づく定期検査を励行すること。
(3) 利用者に対し、エスカレーターの正しい利用方法の周知徹底に努めること。
(4) 店員等が利用者に対し、エスカレーターの正しい利用方法を指導することができるようにするとともに、緊急の場合に的確な措置をとることができるよう、安全教育に努めること。
の(3)のようでまあお願いつうところではあるんだけど。