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2023-12-28

役不足」と「役者不足」の誤用について調べてみた

はじめに

一般に「役不足」と「役者不足」の誤用については以下のように説明されると思う。

役不足」とは「能力に対して役が不足している・地位が低すぎる」という意味だが、逆に捉えて「役に対して能力が不足している・地位が高すぎる」と誤用されることが多い。「役に対して能力が不足している」ときは「役者不足」と言うべきである

こうした言説について少し検証してみたい。

役不足

まずは「役不足」の辞書的な定義を見てみよう。

精選版 日本国語大辞典

やく‐ぶそく【役不足】〘名〙 (形動)

① 振り当てられた役に対して不満を抱くこと。与えられた役目に満足しないこと。

滑稽本・八笑人(1820‐49)四「くじ次第にして、役不足(ヤクブソク)をいひっこなしだよ」

② その人の力量に対して、役目が不相応に軽いこと。軽い役目のため実力を十分に発揮できないこと。

※文科大学挿話(1926)〈川端康成〉一「人間の才能は役不足時代に衰へてしまひ易いものなんだ」

③ (誤って、役に対して自分能力が足りないの意と解したもの) 役割を果たす力がないこと。荷が重いこと。

※続一等サラリーマン(1952)〈源氏鶏太〉「続・三等重役」の撮影現場を見て「僕は社長の息子なんてのは役不足だね。やっぱり、会社給仕の方が、いちばんピッタリだよ」

能力に対して役が不足している」は② の用法だ。ところが何故か① の用法と分かれている。日本国語大辞典は、古い順に語義を並べているので、つまり本来用法は①で、あとから②の用法が生まれた、ということだ。いったい役不足① と役不足② は何が違うのか。

結論を言うと、役不足①における「不足」とは単に「不満」の意味しかない。

ふ‐そく【不足】〘名〙

① (形動) (━する) たりないこと。欠けていること。また、そのさまやその箇所。不完全。不十分。欠点

② (形動) (━する) 満足でないこと。不平に思うこと。また、そのさま。不満足。不満。不平。

まり役不足」は不足①ではなく不足②の用法だということである。「もっと良い役をやりたい」というだけでなく「自分はこの役には向いていない」とか「こんな重い役はやりたくない」とかそういう不満もひっくるめて「役不足」なのである

たとえば明治22年加須屋寿賀蔵『花嫁』という小説

里吉は何を考へたるか、今更遅八刻(おそまき)の役不足

「アノ若 イゝヱ貢さん 妾(わたし)は萬の何テ、人にないから ヤッパリお岸にでもして貰へば好(よか)った、色気のある…」

これは『伊勢音頭恋寝刃』という演目をやる役者が「自分には万野の役は向いていないからお岸の役のほうがよかった」と文句を言っている場面である。万野は悪役だが重要登場人物であり、お岸と比べて端役だということはないので、これはただ向き不向きの話でしかないことがわかる。

明治23年の右田寅彦『垂氷の月』。

「何時までもお心易く交際(つきあっ)て妹を一人拵へたと思召して下さいましよ」

「イヤイヤ夫(それ)は不承知だ妹なぞと思ふのは些と此方で役不足からマア其気で交際(つきあ)ひませう」

女性が「これからは兄妹のように付き合いましょう」と申し出るが、男性はそれを断り「あなたを妹だと思うなんて役不足だ」と言う場面。このあと「そうですよね私ごときが妹などと迷惑ですよね」「いや妹ではなく妻だと思っているのだ」という少女漫画ばりの展開になるが。この「役不足」を現代的に解釈するとやや不自然で、ここは「兄のような立場には不満がある」とだけ理解すべきだろう。

明治40年の『慶應義塾學報』。

此創立五十年紀念理財学会に於て私は非常にむづかしい役目を言い付かつたので、少々困つて居る所でありますが、併し今更役不足を言つた所が追付かぬ、其役目は慶應義塾に於ける経済学研究の変遷に就ての講演をせよと云ふ、余程これはむづかしい事である

「非常に難しい役目」に対して「役不足」だと言っているので、現在解釈では誤用だと思われるだろうが、これも「役不足」を「役目に対する不満」と言い換えればすんなり意味が通る。

実は日本国語大辞典誤用例として挙げられていた以下のセリフも、

「僕は社長の息子なんてのは役不足だね。やっぱり、会社給仕の方が、いちばんピッタリだよ」

これは「社長の息子役には向いていないから演じたくない」という俳優の不満なので、本来の「役不足」の意味からすれば正しいのである

参考:https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihongonokenkyu/5/3/5_KJ00006039255/_pdf/-char/ja

ちなみに、現在誤用だとされている用法、すなわち「役に対して能力が不足している・地位が高すぎる」という用例は、いつごろから現れはじめたのだろうか。そもそも、どういうつもりでその語を用いているのか判断が難しいところだが、たとえば明治36年の月露行客『三百年後の東京』。

お話の男は貴郎に似ているやうじやありませんか、ホホホホ」

「爾(そう)だと結構ですが情けないことには私はその男に似てはいません誠に意久地なしで、併し貴嬢が能くそ婦人に似ていますよ」

「いいえ、妾こそ其役には適当(はまり)ませんが、貴郎はその役割に不足はありませんよ」

「ぢや拙者には荷が勝ていますが、無理に其役を務めたなら、貴嬢はその情婦の役を努めて下さいますか」

「妾しにその婦人の扮(いでたち)が出来ますものなら、真似て見ても可(いい)のですが……」

と口籠た、勝田ますます胸跳り、恍惚として我にもあらで、

「本統ですか、貴嬢それは、私の役不足を許して下さいますか、若(もし)もそれが真実であつたなら、私は此の世に他の望みがありません」

これは「役に不満がある」でもなし「役が軽すぎる」でもなし「役に対して能力が不足している」と解釈しなければ読めないのではないか

役者不足

現在のところ「役者不足」は「役者としての能力が不足している」と説明されることが多い。一方で、「役者不足」という言葉が多くの辞書に載っていないことを根拠として「役者不足などという言葉はない」あるいは「役不足誤用説明するために新しく生み出された言葉である」とされることも多い。

もちろん、単純に「芝居に出る役者の人数が不足している」という意味での「役者不足」の用例が存在するのは当たり前である。それ以外の、熟語としての「役者不足」の用法を探してみたい。

たとえば昭和6年六大学野球全集』。

これ等のチームが一枚看板たる以上の投手に配するに、力ある捕手をとらへ、しかして二三の力強き打者を加へたならばさういつまでも呉下の阿蒙たるべきものでないと思ふが、如何せん役者不足の憾みがある。

あるいは昭和9年『隣人之友』。

白井喬二といふ男は一時直木あたりが黒幕大菩薩峠の向うを張らせようとヤツキとなつて、身振りこはいろべたべたとすり寄つて見たものだが、そのうち黒幕の直木が舞台へ踊り出してしまつたので、ここもと少しテレた形だが、役者不足でこんどはヨタものどもが白井あたりを担ぎ出すの幕となる

これらのように、「役不足」よりは用例は少ないが、「役者不足」が「人材不足」「戦力不足」のような意味で使われることはあったようだ。

しか昭和12年『キネマ週報』。

妹尾「僕は凡て役者不足のやうな感じがさせられたんです。溝口監督メガフォン執って此のシナリオを用ひたら、まだまだいい映画が出来る筈だと思ひます。」

これはどう捉えるべきだろう。「実力のある役者が出演していない」という意味なのか「出演した役者能力が足りていない」という意味なのか。

昭和19年海音寺潮五郎『父祖の道』。

次には、久光公では役者不足である。かかる思い切った大経綸は、先君のやうなその力量手腕が天下にみとめられている人にしてはじめてできることで、久光公では荷がかちすぎる。

これは明らかに能力不足」の意味である

同じく昭和19年藤森成吉『太陽の子』。

対手がおひさでは風流話には役者不足だつたが、持ちまへの自然さとおほらかさで彼女は補つてくれた。

男が風景の素晴らしさを妻に語っている場面で、これも「能力不足」のほうか。

昭和24年1949年)『新日本経済』。

豪華舞台に淋しい役者不足

これは「財界人めぐり」と題したコラムタイトルだが、戦後財閥解体公職追放大人物がいなくなったことを嘆くものなので、「人材不足」の用例である

と、こうして見ていくと「役者不足」という熟語昭和初期から使われていたようであり、そして当時から人材不足」と「能力不足」で用法が並立していたようでもある。

まとめ

役不足

本来は「役に不満がある」という意味

・それが次第に「役が足りていない」と解釈されて「能力に対して地位が低すぎる」という意味限定されるようになった

・それがさらに「役に対して能力が足りていない」という意味でも使われるようになった(明治末?)

役者不足

本来は単に「役者の人数が足りていない」という意味

・転じて「人材が足りていない」という意味で使われるようになった(昭和初期?)

さらに「能力が足りていない」という意味でも使われるようになった(昭和初期?)

・ただし「役不足」と比べると用例はかなり少ない

2023-06-24

anond:20230624195107

編集

1934年昭和9年)。小学校6年生になった茂は、次のガキ大将候補となる。ライバルのかっぱと、住んだら不幸になると評判の「たたりものけの家」での肝試し勝負を決めようとするが、二人とも奇怪な妖怪に襲われ、たたりものけの家を逃げ出してしまい、勝負なしとなる。結局ガキ大将を決める勝負腕力での直接対決となるが、勝負の前日に食べた牡蠣が原因で食中毒にかかってしまい、不戦敗となった。茂を敵前逃亡と見なした新しいガキ大将・かっぱは、茂に「相手なし(仲間はずし)」を宣告する。茂は傷ついた心を隠して、大好きな絵に打ち込み始める。

2022-02-04

anond:20220204212501

山崎猛 - 第38代衆議院議長運輸大臣自民党幹事長経済審議庁長官水戸市明治39年

佐野学 - 戦前日本共産党委員長、元早稲田大学教授 明治43年

松野頼三 - 元防衛庁長官、元農水相 昭和9年

竹内潔 - 元参議院議員、元科学技術庁長官

戸井田三郎 - 元厚生大臣 昭和13年

友部達夫 - 元参議院議員 昭和20年

福田康夫 - 元内閣総理大臣 昭和30年

橋本龍太郎 - 元内閣総理大臣 昭和31年

平沼赳夫 - 元経済産業大臣運輸大臣 昭和33年

与謝野馨 - 元通商産業大臣、元自民党政調会長、元経済財政担当大臣、元官房長官、元財務金融担当大臣 昭和33年

佐藤観樹 - 元自治相、元国家公安委員会委員長 昭和35年

広瀬勝貞 - 大分県知事、元経済産業事務次官 昭和36年

谷垣禎一 - 元自由民主党総裁、元金融再生委員会委員長、元国家公安委員会委員長食品安全担当相、元財務昭和38年

丹羽雄哉 - 衆議院議員自由民主党)、元厚生相 昭和38年

橋本大二郎 - 元高知県知事 昭和40年

中川雅治 - 参議院議員自由民主党)、元環境相、元環境事務次官 昭和40年

中川昭一 - 元経産相、元農水相、元財務金融担当昭和47年

鈴木俊一 - 衆議院議員自由民主党)、元五輪担当相、元環境相 昭和47年

遠藤宣彦 - 元衆議院議員無所属昭和57年

水野賢一 - 元参議院議員無所属昭和60年

黒田太郎 - 愛知県議会議員 昭和60年

山田太郎 - 参議院議員自由民主党昭和61年

柿沢未途 - 衆議院議員自由民主党) 元東京都議会議員 平成元年

新妻秀規 - 参議院議員公明党平成元年

津村啓介 - 元衆議院議員立憲民主党平成2年

牧原秀樹 - 衆議院議員自由民主党平成2年

2021-09-14

見て閘門

石井閘門 - 宮城県石巻市北上川にある閘門1880年(明治13年)に完成した、日本初の西洋式の本格的な閘門現在日本国内で稼動する閘門の中では最古のものであり、国の重要文化財指定されている。

脇谷閘門 - 宮城県石巻市1931年12月竣工北上川本川旧北上川間の船の通行のために、脇谷洗堰に併設された。

見沼通船堀 - 埼玉県さいたま市。見沼代用水と芝川とを結ぶ閘門運河である昭和初期以降から使用されておらず、現在さいたま市緑区にその復元された遺構が残る。1982年(昭和57年)、国の史跡指定された。

荒川ロックゲート - 東京都江戸川区小松川東京都流れる荒川旧中川を結ぶ。大震災時などの災害時に水上交通有効であることから改めて水路が見直されることになり、2005年10月に供用開始された比較的新しい閘門

扇橋閘門 - 東京都江東区猿江一丁目。1976年(昭和51年)完成。小名木川に設置されている。

中島閘門 - 富山県富山市1934年(昭和9年)8月完成。富山駅北側付近から富山湾の河口まで南北に続く、富岩(ふがん)運河中流にあるパナマ運河閘門現在運用されており、観光船が運行し往来できる(冬季運休)。国の重要文化財指定されている。

牛島閘門 - 富山県富山市中島閘門と同時着工し1934年(昭和9年)8月に同時完成。富岩運河最上流部(南端)の富岩運河環水公園(旧 船溜まり)内にあり、並行するいたち川とを結ぶ現在運用可能パナマ運河閘門。国の登録有形文化財登録されている。

松重閘門 - 愛知県名古屋市中川区堀川中川運河とを結んでいた。1968年に閉鎖され、現在閘門としては使用されていない。名古屋市有形文化財1993年(平成5年)には名古屋市都市景観重要建築物等に指定されている。

船頭平閘門 - 愛知県愛西市立田町福原木曽川長良川の間をつなぐ。1899年(明治32年)に着工、1902年(明治35年)に完成した。1994年(平成6年)にはそれまでの手動から電動への近代化改修工事が行われた。2000年(平成12年)5月には明治期に建設されて現在でも使用されている貴重な閘門であるということで重要文化財指定された。冬季を除き、木曽川上流の葛木港より観光船が運航。一般には無料での往来解放がされている。

三栖閘門 - 京都府京都市伏見区宇治川と濠川を結ぶ伏見港に1929年(昭和4年)に建設された。いまは遺構が三栖閘門資料館として開放されている。

毛馬閘門 -大阪府大阪市北区淀川旧淀川(大川)を隔てる閘門明治40年(1907年)8月に完成した旧第一閘門1976年(昭和51年)まで使用され、現在重要文化財指定されている。

尼崎閘門(尼ロック) - 兵庫県尼崎西海岸町地先。日本初のパナマ運河式。物流機能としての運河を今なお支える船舶重要玄関口となっている。

下関漁港閘門 - 山口県下関市本土彦島を隔てる小門海峡(関門海峡小瀬戸)にあるパナマ運河水門1936年の設置以来、現在も稼動中。

三池港閘門 - 福岡県大牟田市1908年(明治41年) 完成。2008年機械遺産指定2015年世界文化遺産認定された明治日本産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業構成資産の1つ。

2020-04-30

anond:20200430164214

昭和天皇誤導事件(しょうわてんのうごどうじけん)は、1934年昭和9年)に群馬県で行われた陸軍大演習において、視察に訪れた昭和天皇一行の先導をしていた警部が緊張のあまり道を誤ってしまい、一時天皇一行が行方不明になったと大騒ぎになった警察の失態事件。前代未聞の事態であったため関係者処分されたが、先導していた警部の1人が責任を取って自決を図った。昭和天皇一行行方不明事件桐生鹵簿誤導事件とも呼ぶ(「鹵簿(ろぼ)」は行幸行列のこと)。

 
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