はてなキーワード: アイメとは
https://dictionary.goo.ne.jp/word/%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%8B%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%8B/
じゃか‐じゃか の解説
[副]
「楽器を乱暴にかき鳴らす」ような音が「じゃかじゃか」という擬音になるのは自然だが、おそらくそれが比喩的に「乱暴に書き散らす」ような行為にも適用されるようになったのだろう。
「細かくコントロールされない大きな動作」というのがコアイメージか。
「じゃんじゃん」「じゃぶじゃぶ」なども近い音・意味であり影響があるかもしれない。
じゃかじゃか 鳴物を喧しく鳴らす音にいふ語
などと載っているが、二番目の意味はない。
といった用例が見られる。
じゃかじゃか。ぬかるんだ道や水溜りの道を歩く際の様子。擬態語。
じゃがじゃが、それでいいとよ(そうだよそうだよ、それでいいんだよ)
じゃかじゃか 絶対違う(重複強調)
といったものは散見されるが、先述の「じゃかじゃか」の意味からはいずれも遠い。
いまのところは「物事が勢いよくたてつづけに行われるさま」という意味での「じゃかじゃか」が方言だという話はなさそうである。
現在のところ「煮詰まる」という言葉は、「議論や交渉がまとまって結論が出る」という用法が正しいとされ、「議論が進まなくなって行き詰まる」という用法は誤用であるとされている。「煮詰まる」という言葉がどのように用いられてきたのかに興味を持ったので、その変遷を辿っていこうと思う。ソースはだいたい国会図書館デジタルコレクションである。
注意として、ここでは「煮詰まる」と「煮詰める」を区別して、「煮詰まる」の用例のみを追っていくこととする。現在においても「煮詰める」のほうには「行き詰まる」という用法はなさそうだからである。
調べてまず気付くのは武者小路実篤が「煮詰まる」を多用していたことである。そして同じく白樺派の有島武郎や長与善郎、その影響を受けたという岸田劉生・木村荘八なども「煮詰まる」を用いている。まるで実篤から伝染したようである。それらは概ね「無駄な修飾を排して凝縮されている」あるいは「態度が一つに決まっていく」というような用法であり、いずれもポジティブな意味で使っているところが共通している。いくつかの例を挙げる。
心が二元的である間は、即ち或る機縁によって煮つまって一元的にならない間は、どこまでも二元なり多元なりの生活を押し通して行くがいいと思う。
牛のよだれのようにだらだらした書きぶりがいかんのは問題にもならぬ事であるが、さればと云って何でも只無暗に簡潔に端折って書きさえすればいいと云う事を一つおぼえて、まるで電報の文句のような言葉さえつかえば煮つまったいい文章だ、と思っている人の文章は又不自然な、とらわれた感じのするものである。
もちろん白樺派以外の用例も同時期にあった。意味的にはさまざまだが、ネガティブな用法も多かったようだ。
この説明には余程可笑しな点がある、で、僕は云った。
もとは『The Scarlet Empire』というタイトルのアメリカの小説である。原文は「It looks as if religion may correctly be said to have gone to seed, in this country.」となっており、「gone to seed」は「盛りを過ぎて衰える」という意味なので、つまりそういった意味で「煮詰まる」が使われていると考えられる。「加熱しすぎて水分が飛んでしまった」ようなイメージだろうか。
私が余りに余計なことを喋舌り、私の心の中で長い間煮つまっていたことを必要もないのに述べ立てたことを、而もそれに就いては私は書いたものから読むように話すことが出来たのだ
こちらも翻訳書。英文は「I had unnecessarily described what had long been simmering in my heart」。「心の中でくすぶり続けていた」とか「ずっと感情が渦巻いていた」といったイメージか。
真夏の暑い日に遠く法華宗のお題目が聞こえてくる…という場面で、この「煮詰まった声」は「重苦しく絞り出している」ような印象を受ける。ものが煮詰まったあとのドロドロとしたイメージだろうか。
「居た堪らない」というので、世界が煮られて、そこにいられなくなるような感じだろうか。ぎゅっと狭窄するような感覚もあるかもしれない。
議論が悪い方向に盛り上がってヒートアップしているという描写。結論が出そうにないという点では現在の「誤用」のほうに近いか。
かるが故に自己の生活を安泰ならせんが為には儼然として己れが階級の城壁を固守しなくてはならない。科挙制度がそれだ。かかる試験制度を採用することは一に権力者に反抗する意志を学問の為に煮つまらせ、又一には士大夫階級思想擁護の有為なる人材を作ることになる。
この式場隆三郎も白樺派との交流があったらしいが、「作品を見ない」ということは、ここでの用法は「行き詰まる」に近いのではないか。
勿論コチコチ官僚型で煮つまって、倒さにふっても水っ気もないような人ではなく、時代に対する感受性は強く、好んで人の長所を認識する感服癖さえある。
昭和10年 ギュスターヴ・フローベール『ジョルジュ・サンドへの書簡』
では左様なら。もう遅いのです。頭がまるで煮詰まりそうです。
翻訳書。英文は「Adieu, it is late, I have an aching head.」なので、普通に頭痛がすることを言っているのか、それとも「悩んで行き詰まっている」的な意味なのかはわからない。
戦前は武者小路実篤を中心に、小説・詩歌・戯曲などの文学的文脈で使われることが多かった「煮詰まる」だが、戦後になると現在のような「議論や交渉が煮詰まる=結論が出る」といった用法が登場し、やがて支配的になっていったようだ。
それに関してわかりやすいのは「国会会議録検索」で、戦前の「帝国議会会議録検索」では「煮詰まる」はほとんどヒットしないが、国会会議録では1950年代あたりから見られるようになる。さらに用例を確認していくと1960年代から爆発的に増えていったようだ。労使交渉の文脈が多いように思われるので、そのあたりをきっかけに流行りはじめたのかもしれない。
となると次に気になるのは「議論が煮詰まる」=「行き詰まる」という用法がいつごろ確立されたのかということである。どうやって調べればよいか。たとえば「煮詰まってしまった」みたいな形だとネガティブな文脈で使われていそうだ。ということで検索してみよう。
しかし日本側は表面上は「朝鮮総連を相手にせず」とその抗議を重視せず、裏では字句は修正せずとも運用面に幅をもたせるという妥協の動きに期待を寄せていた。それが、日赤が相手にせざるをえない北朝鮮赤十字から真向に攻撃を受けたのだから、問題は煮詰ってしまった。
やはり人間は災害にあってみないとなかなかわからないもので、そういったことで安堵感を持っている。しかしジワジワと危機に瀕してきているわけで、そのときの判断をあやまると、残念ながら煮詰まってしまう。
ハイ・スクールからジュニア・カレッジヘと進んだアリス達は2年間のカレッジ・ライフで煮詰まってしまい、カリフォルニアに向かったのである。
ああいう自由さが背景にあってのこの音楽じゃなくて、すごい煮詰まっちゃってて、つらいだろうなというところで出て来る音なんですね。
「でも、仕事ばっかりしていると煮詰まっちゃう」「煮詰まっちゃうってのは、息詰まる、退屈する、スランプに陥るって意味なんです。」
昭和60年 毛利子来・岡島治夫・末永蒼生『「体」発、宇宙へ』
「結論が出る」用法と比べれば圧倒的に少ない。とはいえ1970年代くらいからは、日常語として「行き詰まる」的な用法もわりと広まっていそうな感じはする。というか「結論が出る」用法は議論や交渉の文脈でしか使えず、それ以外のときは「行き詰まる」用法になることが多かった、という感じではないか。
ちなみに、この「行き詰まる」用法が誤用として問題視されるようになったのは2000年ごろらしい。実際、Google Booksで「煮詰まる 誤用」などと検索すると2000年以降の書籍しか引っかからない。
といったところか。
「煮詰まる」のコアイメージは「熱されることで水分がなくなっていき固形分だけが残る」というようなものであろう。
それをポジティブに捉えると「余分なものが削ぎ落とされて本質がはっきりする」といった意味合いになり、ネガティブに捉えると「瑞々しいものが失われて停滞する」といった意味合いになる。たとえば「議論」にポジティブなイメージを適用すると「論点が整理されて結論がはっきりする」になり、「思考」にネガティブなイメージを適用すると「新しいアイディアが生まれなくなり行き詰まる」になるわけだ。
もともとの料理としては「美味しくするために煮詰める」ことも「熱しすぎて煮詰まってしまう」こともあるわけで、どちらのイメージで使うのも自然な感覚である。当初から「煮詰まる」は多義的な比喩表現だったのだから、「これが唯一正しい用法なのだ」などとはあまり気にしなくていいのではないだろうか。
アイムウグァー、アイムガー、アイムガール、アイムギューア、アイムギューレ、アイムギュアー、アイムギュラギュラ、
アイムギュリー、アイムギュル、アイムグー、アイムグール、アイムグアー、アイムグァー、アイムグェー、アイムグラ、アイムグワー、
アイムジャー、アイムジャグラー、アイムジャグランター、アイムジュアー、あいむじゅる、アイムモグラージュ、
【イマ系列】
イマージュ、イマガー、イマグー、イマグアー、イマギュー、イマグラ、イマグル、イマジャー、
【イム系列】
イムゥグァー、イムゥグゥール、イムガ、イムガー、
イムギュール、イムギャー、 イムギューレ、イムギュア、イムギュアー、イムギュラ、イムギュル、イムグール、イムグア、
イムグアル、イムグアー、イムグゥアー、イムグゥォア、イムグラ、イムグラァ、イムグル、イムグルアー、イムグユール、イムグロ、いむじゃー、イムジュラ
【イメ系列】
イメージャー、イメイガル、イメイジーア、イメイジャー、イメジュール、イメイジュア、イメガー、イメガル、イメギュア、イメギュラー、イメグラ、イメグラー、イメグラール、イメグル、
イメグルー、イメグァー、イメグラ、イメグラー、イメグリ、イメジャー、
【イモ系列】
イモーグラ、イモータルムーバーグレートアップローダー、イモグー、
イモグール、イモグラ、イモグリ、イモグル、イモゲウアー、イモゲウラ、
イモゴル、イモメグラ
【イン系列】
インガー、インガル、インガーラ、インガァ、インギャー、インギュー、インギュウ、インギュラ、インギュラー、インクルシオ、イングーア、
イングラ、イングリモングリ、イングル、イングリ、インジャー、インスタグラム、インムギュアー、インムグ、インムグアー、インムグラ、
インモゲラ
今川義元、芋がぁ、芋が売り、いもげ裏、淫夢ガール、陰毛ガール
【その他】
アイアムグール、アイアムアグール、アイエムギュー、
アイエムジーユーアール、アイジャグ、アイミンガー、アイメージャー、アイマー、アイマグラ、アイモグラ、アムグーラー、イミガー、イミグール、イミグアール、イミグォア、イミグラ、イミグラー、イミュギュル、グングニル、ケルナグール、ミミガー
増田がおすすめする「一度使うと手放せなくなるキッチングッズ」ってのがいらないものばっかりだったから理由を書いてみる。
おすすめはネクスタのごみっこポイ(約200円)。自立して立つ袋で、水切りそのまま捨てられる。ニトリにも200円で売ってる
シンクのゴミ受けに生ごみを溜めて、毎日一回ゴミ箱に捨てるのがよくないか?
蓋つきゴミ箱であれば、週2回ぐらいゴミ捨てれば、ゴミ箱は臭わなくね。
こんなの買う前にゴミを捨てろ!出勤時にゴミ捨てするだけだぞ。
そのときに役立つのがハウスホールドジャパン「臭いを通さない袋」(約800円)。そのまんまのネーミング。
これで包むと臭いがかなり防げるぞ。
これも同じ理由でいらない。生ごみは週2回捨てれば、そんなゴミ箱は臭わない。
こんなの買う前にゴミを捨てろ!出勤時にゴミ捨てするだけだぞ。
家で揚げ物あんまりしない。油の処理大変だし。揚げ物っぽいのは基本的に揚げ焼きにする。すると別に油はねしないからね。
揚げ物はスーパーの総菜で良くないか?レンジであっためてから、オーブントースターで焼くと結構いい感じになる。とりあえず、唐揚げに関しては調理の面倒くささに対する美味しさが割に合わない。
だしの素でいいでしょ。
とは言え、食べ比べしたわけではないから、断言はできないなぁー。
今度、比較してみる。
敢えて買うほどのものではないって思って買ってない。
ただ、これはあってもいいのかもしれない。
サラダの時の水って気になってたけど、味がどれくらい変わるか試してみたい。
いらねぇーーーー!!ジップロックで作れ!!
バターを10gずつ一気に切れるケースもあるが、ダイソーのバターケース(110円)は専用カッターで使うごとに切り取ってすくえる。酸化防止にもなり、格安でおすすめ
いらねぇーーーー。買ったバターについてアルミ箔で包めばええやん。
これはぶんぶんチョッパーが有名だが、ワンランク上を目指すならToffyのハンディーチョッパー(1800円)を。見た目がオシャレで、ぶんぶんチョッパーより速く細かく切れる
これは無印(490円)が有名だが、ダイソーもあなどれない。220円で同程度のシリコンスプーンで、持ち手に小さな突起がついており横置きできる。しなやかさもアップしていて無印の半額以下。気軽に試せる
これはいいよね。あって良かったって思う商品だね。おススメです。
ダイソーの「レンジで簡単だし巻きたまご」(110円)出汁入り卵をレンジし、型にギュッとはめるだけで簡単にだし巻き卵ができる
インスタントラーメンをレンジで作れる。器に乾麺と水を入れてレンチンするだけ。そのまま器で食べられるぞ
いらねぇーーーー!!!!!!!!!鍋で作ればええやんけーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
電子レンジでパスタを湯がける容器は定番だが、おすすめは3COINSのパスタメーカー(330円)。内側がザルになっていて湯切りがしやすい。
いらねぇーーーー!!!!!!鍋で茹でろ!!!!!!!!!!!!!
これで茹でるとまずいぞ。
まぁでも一口コンロしかない人は、パスタソースは鍋で作って、パスタ自体はこれで茹でるってするのはわかる。
ダイソーのレンジでオムライス(110円)。二重底になっていて、下に溶き卵、上にケチャップをかけた白ごはんをのせてレンジするだけ。シャッキリサラダとても簡単にオムライスができる
薄焼き卵くらいフライパンで作るけどなぁー。ていうか、薄焼きより卵2個使って、スクランブルエッグっぽくする方が美味しくね?
これはいい商品かもなぁー。鍋で煮てたけど、時短できそうで良い。
ダイソーのアイスバッグ24枚入り(110円)。コーヒーをバッグの中に入れて冷凍。取り出してミルクを入れると、コーヒーの味を薄めることなくアイスコーヒーができる
これまで、極限まで手間を嫌がってたのに、コーヒー淹れてアイスバッグに入れて凍らすっていうクソ手間かかる作業しだしたな。
普通に濃い目のコーヒー淹れて、冷えた牛乳で割って、氷を入れろ。コーヒーショップも同じや。
貝印が鉄板だが、4500円くらいするので、愛工業製だと3000円弱で買える。下村工業製はジェネリック貝印のような見た目で1500円くらいなのでこちらも
スライサー持ってるけど、ほぼ使わないのよなぁ。使うのおろし金部分だけだわ。怪我怖いし。
使うタイミング教えて欲しいわ。
スライスしたいときは基本包丁で薄切りするか、ピーラー使っちゃう。
大人気商品。湯煎、冷凍、電子レンジ対応の高密度ポリ袋で、ゴミ袋としても臭いが広がりにくい。60枚入りで200円弱なので財布にも優しい
湯煎できるのいいなぁーって感じかな。
リードのプチ圧縮調理バッグ5枚(約300円)。袋に具と調味料をいれ冷凍保存。食べたい時にレンジすれば料理の完成。自分でレンジ用冷凍食品を作る感じでストックを作れる。レシピは公式やクラシルなどで見れるぞ。
たけぇーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
イモタニの茹で蒸し工房(約600円)。容器に野菜も水を入れてレンジするだけで野菜がムラなくゆでられる。鍋で茹でる必要がなくなるぞ
ダイソーのわたぐも(110円)。フライパンで揚げ焼きした時など、少し余った油を吸い取ってくれるわた状の吸収剤。ちぎって使えるので便利
使い古した服とかを使えばええやんけ。
試してみるかぁー。食べ比べしてみたいわ。
ダイソーのシリコーン保存袋(220円)。一時人気で品薄に。電子レンジもオーブンもOK。洗って何度も使えるのでジップロックよりお得。
うちは基本的にタッパーを使ってる。タッパーと比較してシリコンバッグの良さって何なんだろうか?
どういう包丁が良いかとかは、ちょっとわからんけど、うちも昔4,000円くらいで買った包丁を使ってる。
そこまでパンこだわらない人だったら、切ってある奴買うか、パン屋で買ってもらえばいい。
料理をする人には、それなりによいハサミ(上にあるような800円とかする奴)を買うことをおススメする。
肉を切ったり、魚を捌いたりをハサミすると楽な時がある。そういう時に100円ショップのハサミだとストレスがちょっとある。
あと分解できると洗いやすくて良いよ。
ふきんを買えばよくね?なんか違いあんの?
おすすめはネクスタのごみっこポイ(約200円)。自立して立つ袋で、水切りそのまま捨てられる。ニトリにも200円で売ってる
そのときに役立つのがハウスホールドジャパン「臭いを通さない袋」(約800円)。そのまんまのネーミング。
これで包むと臭いがかなり防げるぞ。
高ければ、日本サニパックのニオワイナ(約330円)。百均ならセリアの「中身を見せない消臭バッグ」だ。
揚げ物をするときに上から被せて油はねを防止する丸型のネット。
おすすめはママクック製(約2200円)だが、高いのでアイメディア製(600円)でもいい。100均にもあるぞ
外側の器に水、内側の網に鰹や昆布などを入れてレンジするだけ。
コスパを考えるならトップバリュのサラダスピナーかニトリの野菜水切りシャッキリサラダ(共に約500円)がおすすめ。
ダイソー(110円)。少ない調味料で4つの味付けたまごが作れる。定番。
バターを10gずつ一気に切れるケースもあるが、ダイソーのバターケース(110円)は専用カッターで使うごとに切り取ってすくえる。酸化防止にもなり、格安でおすすめ
これはぶんぶんチョッパーが有名だが、ワンランク上を目指すならToffyのハンディーチョッパー(1800円)を。見た目がオシャレで、ぶんぶんチョッパーより速く細かく切れる
これは無印(490円)が有名だが、ダイソーもあなどれない。220円で同程度のシリコンスプーンで、持ち手に小さな突起がついており横置きできる。しなやかさもアップしていて無印の半額以下。気軽に試せる
ダイソーの「レンジで簡単だし巻きたまご」(110円)出汁入り卵をレンジし、型にギュッとはめるだけで簡単にだし巻き卵ができる
インスタントラーメンをレンジで作れる。器に乾麺と水を入れてレンチンするだけ。そのまま器で食べられるぞ
電子レンジでパスタを湯がける容器は定番だが、おすすめは3COINSのパスタメーカー(330円)。内側がザルになっていて湯切りがしやすい。
ダイソーのレンジでオムライス(110円)。二重底になっていて、下に溶き卵、上にケチャップをかけた白ごはんをのせてレンジするだけ。シャッキリサラダとても簡単にオムライスができる
ダイソーのシリコーン小鍋(220円)。野菜と肉と麺つゆをかけてレンチンするだけで鍋ができる
ダイソーのアイスバッグ24枚入り(110円)。コーヒーをバッグの中に入れて冷凍。取り出してミルクを入れると、コーヒーの味を薄めることなくアイスコーヒーができる
貝印が鉄板だが、4500円くらいするので、愛工業製だと3000円弱で買える。下村工業製はジェネリック貝印のような見た目で1500円くらいなのでこちらも
大人気商品。湯煎、冷凍、電子レンジ対応の高密度ポリ袋で、ゴミ袋としても臭いが広がりにくい。60枚入りで200円弱なので財布にも優しい
リードのプチ圧縮調理バッグ5枚(約300円)。袋に具と調味料をいれ冷凍保存。食べたい時にレンジすれば料理の完成。自分でレンジ用冷凍食品を作る感じでストックを作れる。レシピは公式やクラシルなどで見れるぞ。
イモタニの茹で蒸し工房(約600円)。容器に野菜も水を入れてレンジするだけで野菜がムラなくゆでられる。鍋で茹でる必要がなくなるぞ
ダイソーの電子レンジ調理器(温野菜用)なら110円であるのでこちらも。
ダイソーのわたぐも(110円)。フライパンで揚げ焼きした時など、少し余った油を吸い取ってくれるわた状の吸収剤。ちぎって使えるので便利
食パンを袋の中に入れて焼くと外はカリッと、中はふわっと焼けるぞ。セリア(330円)
ダイソーのシリコーン保存袋(220円)。一時人気で品薄に。電子レンジもオーブンもOK。洗って何度も使えるのでジップロックよりお得。
コスパで考えると、関孫六 茜 三徳包丁 (約4500円)がおすすめ
貝印 Bready ONE(約1300円)が安くて使いやすい
ダンロップホームプロダクツの樹から生まれた手袋さらさらりん(800円) がおすすめ。着脱しやすい
ダイソー(110円)でOK。プラスのフィットカットカーブ料理バサミ(約800円)なら分解して洗える
まな板の上に敷いて使うシート。切った時の汚れが気になる場合に使えるぞ。
おすすめはカインズのまな板シート(500円くらい)だが、100均で300円くらいで買えるぞ
実はこの投稿は、数ヶ月前に「一度使うと手放せなくなるキッチングッズ」というTogetter記事がバズってて、「もっとあるのに!」と悔しくなって書いてたものなんだ。
https://togetter.com/li/2097240
でもAmazonのリンクとか付けまくると増田では投稿できないことが分かり、力尽きてそのまま放置してたんだけど、もったいないかなと思ってなんとなく今日投稿した。
これを書くためにもちろん買って使ったんだけど、いろんな雑誌をチェックしてから買って書いたんだ。
「アイメッセージ」などというらしいが、最近これをしない・できない・したくない人が多いのではないかと思い始めた。
かくいう自分自身も「一般的には~」「普通は~」とか言ってしまうことがある。
正確には「一般的には~だと言われている通り"私も"~」ということを言いたいに過ぎず、本当に一般性があるのかどうかは不明瞭だし、一般論とか関係なしに単に「私は~」と言えば済むだけのことである。
それでもこういう言い方をしてしまうのは、やはり自分を主語にしてしまうと、主体が自分、つまり自分に責任が生じるから、それを避けたいという心理の表れなのではないかと思う。
言語能力や表現方法について未成熟で、泣くことくらいでしか意思表示できない赤ん坊や子供ならばいざ知らず、程度の差こそあれ一定の言語能力や表現方法を身につけた大人ならば、自らの責任において自分の言葉(手段)で語れなければならないと振り返るのである。
自分自身については心がけ次第で実行できるが、他人に強制することはもちろんできないから、そういった無責任な言動の人を見るとどうしてももやもやしてしまう。
たぶんだけど「他人のお世話もうやめてえよ〜〜〜」って言って実際にやめたいのよね元増田は。
共働きで家事と育児の負担がだいぶ自分に偏っている現状にとても不満があり、でもそれをなんらかの原因で口に出せず強く抑圧されているのが文章から伝わってくる。
とても沢山のことに怒っているのに、「お母さんはこうしたい」って一言も子供に伝えられてないのが抑圧の現れだなって思うわ。
でもいいのよ、お母さんだってああしたいこうしたいって言ってさ。アイメッセージすごく大事よ。
「靴下が汚れると洗濯が面倒になって嫌だから靴を履いて!」って言っていいのよ。
もし子供が裸足になって怪我をするのが心配なら「裸足になると怪我をするよ!」とだけ言っといて好きにさせりゃいいのよ。公園で裸足で走り回ってする怪我程度なら自己責任ですむんだから大丈夫よ。
夕方遅くなってきたし、「もう帰ろう」って言ったけど相変わらずニヤニヤ。
「あ"あ"〜おかあさんお母さん寒いしお腹減ってもう疲れたから帰りたい。帰る支度するわ〜」って言って公園の入り口行って立ってりゃいいのよ。来ないなら適当にスマホでも見てていいわよ。そのうち退屈になってついてくるから大丈夫よ。ついてこなかったらそれはそれで、その分子供の面倒つきっきりで見てる時間が減ってラッキーと思うといいわよ。
帰りの道中で期待たっぷりに言ってやんのよ。「ええ〜〜靴下本当に洗ってくれるの〜?? うわ〜お母さん楽しみだわあ!!111 お母さんが洗うより綺麗に洗えたりするのかしら〜!!?????」とかプライドを煽りに煽ることで、5歳のガキの中で母親より靴下を綺麗に洗い得意満面のセルフイメージが直ちに醸成され、家に帰ればすぐに風呂場へ直行して「どうやって洗えばいいの〜?」とか言い出すわよ。
風呂に入る余力があるなら靴下洗うついでに2人でシャワーすませちゃうのもきっといいわね。面倒なら風呂なんか入らなくていいわよ1日くらい。
不運にも靴下を洗いたがるそぶりを見せないようなら靴下のことは後日考えればいいわよ。なんなら捨てちゃってもいいわね。間違ってもその日のうちに自分だけで洗おうなんて考えちゃダメよ。
「んー。。。なんか、疲れちゃったから」
「あ"あ"あ"あ"おかあさんももう疲れちゃったあ"あ"あ"あ"めんどくせ〜今日はご飯も作りたくないしコンビニ行こうあ"あ"あ"あ"〜〜〜〜〜〜〜」
って言って夕飯は作らないでいいのよ。コンビニじゃなく外食でもいいし出前でピザ取ってもいいしなんなら飯の体裁をなしてなくてアイスとお菓子だけとかでもいいのよ。毎日やるわけでもないんだから自分が食べたいもの食べていいのよ。付け加えておくと子供が食べたいものとか子供の好きそうなものとか余計なこと考えるんじゃないわよ。
ちなみに増田が子供と一緒に食べた人生で一番やばい夕飯はビスケットサンド(アイス)とファミマのアメリカンドッグとフランクフルトと明太チーズもんじゃ味のじゃがりこよ。ファミマスイーツも2つほど買ったけど食い切れなくて翌日のおやつにしたわ。参考にするといいわよ。
まさかとは思うけどこんな状況でご亭主のためにちゃんとした夕飯こしらえて用意しておくのが日常なんて自殺行為やってるなら今すぐやめるのをお勧めするわよ。共働きなんだし帰りが遅いなら外で適当に食べてもらうのが一番よ。
きっと増田はいいお母さんでいたいし、人からいいお母さんだと思われたいのね。お子さんもいい子になって欲しいし、人からいい子だと思って欲しいのね。
でもずっとずっと「素敵なお母さんと可愛い娘」の顔してられる母子なんか、本当に限られた才能を持った一握りの人間だけなのよ。元増田書いちゃった時点で、残念ながら増田にはそういう才能はないってことなのよ。
だから、こういうオカマみたいな口調のクソダラ親が提案するようなろくでもない過ごし方も、そういう親子になるための踏み台だと思って一度試しにやってみて欲しいのよ。
今回ここで、「権利」概念が放ってしまう暴力性の起源について一人考えてみる
1週間もすれば3億人近いトンチンカンたちがまた祝うことになる、近代社会の幕開け=アメリカ独立宣言に遡ってみよう。250年くらい前のことだ。後にアメリカ人と呼ばれる極西の田舎者が黒人奴隷を足置きにしながらヨーロッパの政治哲学を読みふけっていた。そして、英国議会に「植民地のくせに生意気だぞ」と言われてしまったあの時、彼らのイギリスコンプは爆発し独立を宣言してしまう。この独立戦争とその後の歴史で彼らは「国家」を生み出しその中で「所有権」というものの不可侵性を「人権」として僭称したのだった。それまでもこの考え方は常にヤバい匂いを発してきたが「独立宣言」こそが全人類の脳みそに侵入し始めるウイルスになった。彼らはこう言う。「君たち、実はな、人間は生まれながらにして権利というものを持っていたのだよ」「君たち、これは自明の真理だよ」。誠に蒙が開かれるようである。実際に驚くほどたくさんの人が啓蒙されることになる。
ところで、ここで彼らが行なった欺瞞としてまずよく言われるのは足置きにしている「黒人奴隷」についてである。つまり黒人奴隷が人間の方にではなく所有物propertyの方に組み込まれてしまったことである。ところが、今回に限ってはそこは重要ではないと私は言いたいのだ。というよりも黒人奴隷の境遇があまりに深刻な問題であるから真の問題が後景化し見えなくなってしまっている。この深刻な問題をみたとき、我々、権利至上主義者の常識的な感覚からいって、100年後、200年後に黒人へ与えられたように、人間の権利、あるいは公民権で解決すべき(解決した)問題だと思わされてしまう。
でもこれは糞の上に城を立てただけなのだ。私たちの暮らす城の中はクソの匂いが充満している。「権利」などという考え方が、奴隷制的な、暴力的支配への渇望に支えられている。私たちはクソがあるなと思ったら「あっクソだ」と言わねばならない。「あれ?この部屋なんか、うんこの匂いしない?」は常に言いづらいセリフではあるが。
つまりどういうことか。権利を「持っている」、という発想自体にその欺瞞が現れている、と言いたいのだ。一般におそらくは「所有権を持つ」という表現すらあまり違和感をもたれないのである。独立宣言の下敷きになったヴァージニアで行なわれた会議の草案にもその矛盾を観れるかもしれない
That all men are by nature equally free and independent and have certain inherent rights, of which, when they enter into a state of society, they cannot, by any compact, deprive or divest their posterity; namely, the enjoyment of life and liberty, with the means of acquiring and possessing property, and pursuing and obtaining happiness and safety.
この2つ目の下線部は独立宣言では省かれるのだが「所有権を持つ」という循環した考え方を恐れたから、ではなく国家による税金の徴収を困難にするという理由であった。
何が言いたいかといえば、奴隷、武器、砂糖の三角貿易が成立して以降のヨーロッパ社会では、「権利」が「持つ」ものとして想定されねばならなかったのである。それは単純には、ある種の人々から「奪う」こと(あるいは「捨てる」こと)のできるものでなくてはならなかったからだ。つまり「所有権」が守るベーシックな価値は「権利」概念誕生の後に、「どんな種類の権利を作ろうかなー」と考えられて作られたものではなく同時に発生しているのである。そしてそのことは隠れたのだ。独立宣言に「自明の真実ではあるのだが我らは不可侵の権利を持っているのだと信じる」としれっと書き込むことで。じゃあ所有の意味を含む「権利」概念が発生した時に生まれていたものは何か。ここが今回の主張であるが、「支配欲求自体への承認」なのである。社会の一員として我々は「ある種の激烈な支配の形」を基盤にすることで社会を成立させている。それは「所有権」だけでなく「権利」全般の話である。
propertyに対しては当然そうだろう。犬猫などは黒人同様に解放が進みつつあるが根本的に我々は自分の所有する物をどれだけ傷つけても良いのである。対象物に対して欲求したことは特別に禁止されない限り全てぶつけることを許されている。私は自分の持っている熊の人形の腹を切り裂いてもいいしそこにペニスを突っ込んでも良い。それが所有権の意味するところである。ここで、人形はなんかかわいそうだし除外しようかというのもあまり意味がない。僕が言いたいのは、我々は所有権を「propertyに対して私が欲求することならなんでもしていい力」として想像していて、思考のスタート地点にそれをおいていることだ。この認識はもう一つ重要な感覚を孕んでいる。それは「私が支配するものに他者が介入することは許されない」ということだ。この二つの感覚両方が「権利」全般に流れ込んだのだ。そして実は我々の想像する「自由」のコアイメージでもある。自由にはこの欲望と支配の感覚が流れている。
しかしながらこの「自由」の感覚は「自由」を求める奴隷たちの反乱により一つの現実的妥協を産んだ。支配者はかつての奴隷たちと約束したのだ。我々はもはや君たちを支配しない。その代わりに我々は自分の体を支配するのだと。そして君たちもそうするのだと。人間なら誰もが己の体を支配できることにしよう。我々は平等に自由じゃないか。(現実として多くの旧黒人奴隷は扱いの悪い賃金労働者として己の体を「自由」に売買した。ほぼほぼ売るだけであったが。)
上記の経路は思考実験の一つでしかなく、実際は数百年前の「権利」概念の議論でも既に流れていただろう。しかし、ここで誕生したのは一風変わった、世界と人間に対する理解である。個人は他者からの介入=他者との人間的繋がりを切断できる独立した存在だという信仰なのだ。なぜなら自分の体を自由に支配し他者はこれに関与できないのだから。(工場で死にかけながら働く黒人労働者だって「自由」に辞められると考えることはできただろう。)「権利」や「自由」というものの概念自体にこれは染みついたのだ。
奴隷製の足置きで本を読む農園主の頭の中で作られた「近代国家・権利・自由」は、国家軍隊というとてつもない力に囲われながら、同じ発想の知的エリートを再生産し、根本思想の解体は迂回しながら様々なヴァリエーションを増やしてきた。その実践形は司法や行政の場から常に吐き出され、我々パンピーの脳みそにも影響を及ぼしてきた。
「権利」概念は、「権利」とは「持つ」ものだという支配欲求の肯定に支えられている、というのが基本的な今回の主張である。これが己の身体観や対人間観に影響を及ぼしてきた。実際皆が全く違和感なく自分の持つ時間と労働力を社長さんに売り払っている。基盤にある発想はまさに「権利」は「持つ」ものだから「捨てれる(売れる)」のである。あるいは私は他人の権利を「買える」のである。なぜなら私はその「権利」を「持っている」のだから。(一応断っておくが、これによって生まれる成果を否定するものではない。「支配/排除 と 欲望」を根幹にする原理が一度は平等性/対等性 になりながらも、次の段階で一人の人間があらゆる人の時間と行動の自由を支配し皆がそれに納得していることに注目したいのだ。この一人の人間も様々な人の投資で買われていてもう少し複雑だろうけれど。)
長々書いてるのに平板な話になってるだろうか。ここに資本の燃料をぶっ込めばいくらでも非人間的な方向に暴走できるのは想像にかたくないし、読んだことないけど共産主義とかポモとかもこういう認識の型への反発からスタートしてるのでしょ。現実に非人道的支配を読み取った人たちの反発から生まれた社会「権」などは対抗力として機能しただろう。ただそのことに対しても言えるのは「権利」「自由」の枠組みがそのまま利用されたということだ。近代国家という装置がこの世界にセットされた1776年の7月4日のあの日から全人類の脳みそはハックされた。今もなお屋台骨として社会を支え続けている我らが人権万歳!自由万歳!国家万歳!
いま苦しんでいるマイノリティも、「支配と欲望」の匂い漂う「権利と自由」概念を使って「国家よ行動しろ」と闘争せねばならない。あるいは彼らがそうでない社会活動を試みていても(例えば、他者との網の目を強化したり、国家ではなくコミュニティや人々の意識を変えるために動いていたとしても)、そのように立ち上がる姿をメディアでみた我々は、そこにまた「権利と自由」闘争の型を読み取っていないだろうか。「障害者が、また支配と欲望を前面に出してるのか。今度は何を要求するのか。」と。そして人間の、恥を知らない無意識は、何かを奪おうとしているマイノリティを見てこう訴えてくるのではないか。我々はこいつらを「支配」し「排除」しなければならない、我々の「権利」と「自由」のために。
Noだよ
日本語で「お金がない」って言ったらさ、まず「お金」を思い浮かべるじゃん?諭吉さん
そして「ない」を考える。諭吉さんを消す。お金なくなったじゃん。
でも英語で「No money」って言ったらさ、
まず「No」を思い浮かべるじゃん?
…
……?
無を思い浮かべるって?
日本語みたいに対象を指定してから消すならわかるんだよ。でもさ何も指定してないのに先に無を思い浮かべろとか意味不明じゃん?禅かよ。あいつらファッキンZen monksかよ。
無を思い浮かべれたとしてもMoney思い浮かべたら存在する感じにならない?なるよね?諭吉思い浮かべちゃうよ?こっちとしちゃ最初から無だったのにNoとか言われて無ってなんだよって思ってる中で諭吉だよ?諭吉いるよ?いまおれの頭に諭吉いるよ?
ここで消すのか?諭吉を消すのか?でもそれならmoney noじゃない?なんで先にnoとか言ったの?
I couldn't help but admire fucking zen monks.
って感じ。
俺がムカつくのはさ否定を先に言う文化が名詞の前だけじゃないことね。monkどもは動詞の前にも否定しちゃうのね。
この文章もさ "could not help but 動詞の原形"=「〜せざるを得ない」だったなとかいう、せこいアンチョコを使わないで、ゆっくり最初から読んでみてよ
Iね。私。毎回主語を言えとかいうルールもムカつくけどまぁ慣れたわ。
not。notってなんだよ!!!!!
ここまでゆっくり一個ずつ読んでいってこの段階で何を思い浮かべればいいのかわかんねーのよ。今オレ一人だよ。オレが一人ポツンと立ってる絵しか思い浮かばないわ。
続けるわ。helpな。こいつも「助ける」と「避ける」が一緒に同居してて大分意味不明な動詞だわ。この段階ではどっちの意味かわかんねーじゃんか。それともZen monk達は"help"と聞くと両方の意味に波及するコアイメージを思い浮かべてるの?どんなイメージなんだよ。
まあいいや。問題はnotからの動詞の流れな。Zen monk達は何を思い浮かべてるの?notからhelpの間に何が起こってるの?否定された後にhelpという動きを思い浮かべるの?helpしちゃわない?頭の中でhelpしちゃわない?
次のbutも相当に意味不明なんだよな。さすがのZen monksも使わなくなってきたらしいけどnot that的な接続詞として捉えろってさ。またnotかよ。はぁーーーーーーー。もうやめやめやめ。無理だわ。おれにはもう無理だわ。一つの文章も読めねーや。意味不明に意味不明に意味不明が重なって逆にスッキリだわ。admire zen monksって気持ちだよ。まじリスペクト。終わり