はてなキーワード: 大正11年とは
現在のところ「煮詰まる」という言葉は、「議論や交渉がまとまって結論が出る」という用法が正しいとされ、「議論が進まなくなって行き詰まる」という用法は誤用であるとされている。「煮詰まる」という言葉がどのように用いられてきたのかに興味を持ったので、その変遷を辿っていこうと思う。ソースはだいたい国会図書館デジタルコレクションである。
注意として、ここでは「煮詰まる」と「煮詰める」を区別して、「煮詰まる」の用例のみを追っていくこととする。現在においても「煮詰める」のほうには「行き詰まる」という用法はなさそうだからである。
調べてまず気付くのは武者小路実篤が「煮詰まる」を多用していたことである。そして同じく白樺派の有島武郎や長与善郎、その影響を受けたという岸田劉生・木村荘八なども「煮詰まる」を用いている。まるで実篤から伝染したようである。それらは概ね「無駄な修飾を排して凝縮されている」あるいは「態度が一つに決まっていく」というような用法であり、いずれもポジティブな意味で使っているところが共通している。いくつかの例を挙げる。
心が二元的である間は、即ち或る機縁によって煮つまって一元的にならない間は、どこまでも二元なり多元なりの生活を押し通して行くがいいと思う。
牛のよだれのようにだらだらした書きぶりがいかんのは問題にもならぬ事であるが、さればと云って何でも只無暗に簡潔に端折って書きさえすればいいと云う事を一つおぼえて、まるで電報の文句のような言葉さえつかえば煮つまったいい文章だ、と思っている人の文章は又不自然な、とらわれた感じのするものである。
もちろん白樺派以外の用例も同時期にあった。意味的にはさまざまだが、ネガティブな用法も多かったようだ。
この説明には余程可笑しな点がある、で、僕は云った。
もとは『The Scarlet Empire』というタイトルのアメリカの小説である。原文は「It looks as if religion may correctly be said to have gone to seed, in this country.」となっており、「gone to seed」は「盛りを過ぎて衰える」という意味なので、つまりそういった意味で「煮詰まる」が使われていると考えられる。「加熱しすぎて水分が飛んでしまった」ようなイメージだろうか。
私が余りに余計なことを喋舌り、私の心の中で長い間煮つまっていたことを必要もないのに述べ立てたことを、而もそれに就いては私は書いたものから読むように話すことが出来たのだ
こちらも翻訳書。英文は「I had unnecessarily described what had long been simmering in my heart」。「心の中でくすぶり続けていた」とか「ずっと感情が渦巻いていた」といったイメージか。
真夏の暑い日に遠く法華宗のお題目が聞こえてくる…という場面で、この「煮詰まった声」は「重苦しく絞り出している」ような印象を受ける。ものが煮詰まったあとのドロドロとしたイメージだろうか。
「居た堪らない」というので、世界が煮られて、そこにいられなくなるような感じだろうか。ぎゅっと狭窄するような感覚もあるかもしれない。
議論が悪い方向に盛り上がってヒートアップしているという描写。結論が出そうにないという点では現在の「誤用」のほうに近いか。
かるが故に自己の生活を安泰ならせんが為には儼然として己れが階級の城壁を固守しなくてはならない。科挙制度がそれだ。かかる試験制度を採用することは一に権力者に反抗する意志を学問の為に煮つまらせ、又一には士大夫階級思想擁護の有為なる人材を作ることになる。
この式場隆三郎も白樺派との交流があったらしいが、「作品を見ない」ということは、ここでの用法は「行き詰まる」に近いのではないか。
勿論コチコチ官僚型で煮つまって、倒さにふっても水っ気もないような人ではなく、時代に対する感受性は強く、好んで人の長所を認識する感服癖さえある。
昭和10年 ギュスターヴ・フローベール『ジョルジュ・サンドへの書簡』
では左様なら。もう遅いのです。頭がまるで煮詰まりそうです。
翻訳書。英文は「Adieu, it is late, I have an aching head.」なので、普通に頭痛がすることを言っているのか、それとも「悩んで行き詰まっている」的な意味なのかはわからない。
戦前は武者小路実篤を中心に、小説・詩歌・戯曲などの文学的文脈で使われることが多かった「煮詰まる」だが、戦後になると現在のような「議論や交渉が煮詰まる=結論が出る」といった用法が登場し、やがて支配的になっていったようだ。
それに関してわかりやすいのは「国会会議録検索」で、戦前の「帝国議会会議録検索」では「煮詰まる」はほとんどヒットしないが、国会会議録では1950年代あたりから見られるようになる。さらに用例を確認していくと1960年代から爆発的に増えていったようだ。労使交渉の文脈が多いように思われるので、そのあたりをきっかけに流行りはじめたのかもしれない。
となると次に気になるのは「議論が煮詰まる」=「行き詰まる」という用法がいつごろ確立されたのかということである。どうやって調べればよいか。たとえば「煮詰まってしまった」みたいな形だとネガティブな文脈で使われていそうだ。ということで検索してみよう。
しかし日本側は表面上は「朝鮮総連を相手にせず」とその抗議を重視せず、裏では字句は修正せずとも運用面に幅をもたせるという妥協の動きに期待を寄せていた。それが、日赤が相手にせざるをえない北朝鮮赤十字から真向に攻撃を受けたのだから、問題は煮詰ってしまった。
やはり人間は災害にあってみないとなかなかわからないもので、そういったことで安堵感を持っている。しかしジワジワと危機に瀕してきているわけで、そのときの判断をあやまると、残念ながら煮詰まってしまう。
ハイ・スクールからジュニア・カレッジヘと進んだアリス達は2年間のカレッジ・ライフで煮詰まってしまい、カリフォルニアに向かったのである。
ああいう自由さが背景にあってのこの音楽じゃなくて、すごい煮詰まっちゃってて、つらいだろうなというところで出て来る音なんですね。
「でも、仕事ばっかりしていると煮詰まっちゃう」「煮詰まっちゃうってのは、息詰まる、退屈する、スランプに陥るって意味なんです。」
昭和60年 毛利子来・岡島治夫・末永蒼生『「体」発、宇宙へ』
「結論が出る」用法と比べれば圧倒的に少ない。とはいえ1970年代くらいからは、日常語として「行き詰まる」的な用法もわりと広まっていそうな感じはする。というか「結論が出る」用法は議論や交渉の文脈でしか使えず、それ以外のときは「行き詰まる」用法になることが多かった、という感じではないか。
ちなみに、この「行き詰まる」用法が誤用として問題視されるようになったのは2000年ごろらしい。実際、Google Booksで「煮詰まる 誤用」などと検索すると2000年以降の書籍しか引っかからない。
といったところか。
「煮詰まる」のコアイメージは「熱されることで水分がなくなっていき固形分だけが残る」というようなものであろう。
それをポジティブに捉えると「余分なものが削ぎ落とされて本質がはっきりする」といった意味合いになり、ネガティブに捉えると「瑞々しいものが失われて停滞する」といった意味合いになる。たとえば「議論」にポジティブなイメージを適用すると「論点が整理されて結論がはっきりする」になり、「思考」にネガティブなイメージを適用すると「新しいアイディアが生まれなくなり行き詰まる」になるわけだ。
もともとの料理としては「美味しくするために煮詰める」ことも「熱しすぎて煮詰まってしまう」こともあるわけで、どちらのイメージで使うのも自然な感覚である。当初から「煮詰まる」は多義的な比喩表現だったのだから、「これが唯一正しい用法なのだ」などとはあまり気にしなくていいのではないだろうか。
どうもですググって勉強になりました
日本における受容
海外の英語圏で流行していた「幸運の手紙」が日本で最初に流行したのは1922年(大正11年)のことで、外国に知人がいる上層階級から侵入したとみられている[2]。 戦前の「幸運の手紙」は大人の間で拡散するものであったが、1954年(昭和29年)頃から子供の間でも「幸運の手紙」が広まり始め、1970年(昭和45年)秋頃には「幸運の手紙」は「不幸の手紙」へと変質し、子供の間で流行した[3]。
また「幸運の手紙」は商品の広告や選挙活動のほか二次大戦中には反戦運動にも利用され、特高警察が取り締まりを行っている[4]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB
太郎乙も漢語・英語・蘭語を使えたので、幕府の洋学校教授や外国奉行などを歴任した。
1869年(明治2年)、イギリスのヴィクトリア女王の次男であるエディンバラ公アルフレッドの来日が決まったとき、
各藩から英語が出来る人物が呼ばれて接待係に任じられたが、静岡藩からは太郎乙が選ばれた。
その折、薩摩藩の軍楽隊を指導するために来日していた軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンから、
「歓迎の式典では国歌を流さなければならないが日本の国歌は何か」との問い合わせがあった。
接待係たちは国歌などというものを聞いたことがなかったので、どうすべきか政府上層部に問い合わせたところ、
「その程度のことでいちいち問い合わせてくるな、そういう問題を何とかするためにおまえらを呼んだんだろ」
そのときに太郎乙が「もう古歌のなかから適当に選定すればいいんじゃね」と、
徳川将軍家が毎年の正月に行っていた「おさざれ石の儀式」で歌う、
という古歌を推薦した。
これが採用されて、そこにフェントンが作曲したメロディが付けられた。
つまり乙骨太郎乙は国歌「君が代」の生みの親と言っても過言ではないのである。
ただし諸説あり。
https://anond.hatelabo.jp/20170901172529
私よりずっとこのような事件に詳しい2氏ならば「6000人にはこんなにしっかりとした根拠がありますー! バーカバーカ!」と
が、それをせずに迂回した。
これはたしかにダセエ。ダセエのでブコメで端的に指摘しておいた(b:id:ss-vt)。で、ここでも書いてみる。
すでにBuzzfeedでも報じられているように、古賀議員は都議会において、大正9年の国勢調査をひいて関東地方の朝鮮人人口の少なさを指摘している。
が、この当時朝鮮人の内地への渡航は急増していたのである。大正9年の国勢調査では、内地の朝鮮人の総人口は40,755人。いっぽう同年12月末現在の内務省警保局による調査統計では30,189人となっているが(多くの要因で数字に大きな差がある)、内務省統計を年次ごとに追うと大正10年38,651人、11年59,722人、震災の起きた大正12年末には80,415人に至っている。これには朝鮮の植民地化に伴う小作農の貧窮化や、第一次世界大戦後の好況に伴う内地の工業化・都市化の進展、また大正11年末の渡航自由化(大正8年以降、三・一独立運動の影響で朝鮮人の内地渡航は制限されていたが、企業は日本人よりも安価な労働力として朝鮮人を求めた)など、複数の要因が影響している。
東京府 2,485人、
埼玉県 78人、
千葉県 40人、
神奈川県 782人、
合計3,385人。
震災直後の首都圏で何が起きたのか?――国家・メディア・民衆 / 山田昭次 / 日本史 | SYNODOS -シノドス- http://synodos.jp/society/14990
から大正12年の数字を引用して、古賀議員の発言形式に合わせると、以下のようになる。
東京府 8,567人、
神奈川県 3,645人、
合計12,840人。
「工業化・都市化の進展」に伴って多くの朝鮮人が労働力としてやってきたため、東京・神奈川といった都市部や工業地帯に集中しているわけだが(横浜での虐殺目撃証言の多さにも反映している)、少なくともこの時点で、
とは言えなくなる。
また自分が直接参照した一次資料として、国立国会図書館デジタルコレクションに所蔵されている『在京朝鮮人労働者の現状』(東京府学務部社会課、1929年) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445292 には、大正12年の「在京朝鮮人労働者」は5,347人と記されており(警視庁調べ)、アジア歴史資料センター所蔵の『在京朝鮮人状況』(朝鮮総督府警務局東京出張員、1924年5月) http://www.jacar.archives.go.jp/das/image/B03041602800 によれば、「八月末震災直前の見込綜数は八千人を超へ」ていたという。
繰り返しになるが、とりあえずこのあたりで「6000人という数字は当時の関東の朝鮮人人口より大きい」とは言えないことをご理解いただけるだろうか?
ちなみに6,000という数字の具体的な出所は、震災直後に在京の朝鮮人迫害事実調査会が独自に調査を行い、上海の大韓民国臨時政府機関誌『独立新聞』に12月5日付けで発表された数字6,661人。この調査の10月末までの中間報告では2,613人という数字が出ていて(当時東京で催された経過報告会でも発表された)、その後さらに神奈川県で遺体を発見できなかったおよそ1,800人などが追加されている。シノドスの山田名誉教授は「追加合計数の根拠を今日解明することはできない」としていて、その点ではたしかに6,000人という数字の根拠は薄いのだが、同時に帝国政府がマトモな調査を行わなかったことにより、これをデタラメであると断ずる根拠もまた乏しい(はからずも、秦郁彦が『当時ロクに調査せず公文書も終戦時に焼きまくった以上、30万人に代わる数字を日本側から出すのは無理』と嘆いた南京事件と似ている)。少なくとも犠牲者数のもっとも大きな数として採用せざるを得ないわけである。
内閣府のホームページで公開されている、災害教訓の継承に関する専門調査会による報告書 http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/pdf/19_chap4-2.pdf で
殺傷事件による犠牲者の正確な数は掴めないが、震災による死者数の1~数パーセントにあたり、人的損失の原因として軽視できない。
という書き方になっているのは、そうした事情によるだろう。
追記
b:id:y-wood 8500人のうち6000人殺せるのか、すげー。『「6000人という数字は当時の関東の朝鮮人人口より大きい」とは言えない』
揶揄のたぐいだとは思うけど念のため。
「6000人」というのは虐殺犠牲者の総数である。東京府の朝鮮人人口と比較するのは不当。ついでに、古賀議員が何故か東京・神奈川・千葉・埼玉に限定しているのもいささか不当で(たとえば群馬でも、自警団が警察署を襲撃して朝鮮人17人を殺害した藤岡事件などが起きている)、山田名誉教授のシノドス記事によれば茨城・群馬・栃木を加えた関東地方1府6県の大正12年朝鮮人人口は14,144人となっている。
また、山田名誉教授の著書内容の、内閣府の報告書のコラム『殺害事件の検証』 http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1923_kanto_daishinsai_2/pdf/22_column8.pdf からの孫引きになるが、例の「6,661人」のベースとなった在京朝鮮人側の調査では、東京府の犠牲者数はおよそ1,000〜1,400人。最終的に『独立新聞』に掲載された数は1,781人となっている。
y-wood氏の言葉を借りるなら
「8500人のうち1800人殺せるのか、すげー」
となるが、現実味は如何?
b:id:fu-wa 戦争知らないんだろうなあ。戦車でダーってやっても6000人殺すのってものすごく大変なんだよ。
ルワンダではそれこそカマとか棍棒とかのたぐいで、およそ100日で50万〜100万人が殺害されている。こうした事態と「戦争」を比較するのは不当。まして、繰り返しになるが「6000人」は関東地方1府6県の総数である。「戦争」を持ち出すなら、せめて戦域や作戦継続期間が同程度に及んだ戦闘でなければならない(それでも戦闘員vs戦闘員では不当だが)。