はてなキーワード: 化身とは
10回匿名ダイアリー書いて、だいたい3つくらいは200user越え、1つは500越えくらいのブクマがつく。
そんなレベルで、匿名ダイアリーでたまに記事をかいているんだけど、ホッテントリ入りするには記事の勢いがやっぱ大事だね。
大体投稿してから6時間くらいで200userくらいのブクマがつけばホッテントリする。
で、ホッテントリに入ると承認欲求が高いヤジウマの化身がわーっと自説を書き綴るから、そこで追加で300userくらい追加される。
序盤にブクマする組は割と記事を読むけど、ヤジウマ層は本当にちゃんと記事を読まない人の割合が大きくなる。
みんなとにかく自分の特別感出そうとしてるんだなってが見えて結構おもしろい。笑
あと、主語の大きさが流行ってるけど、キャッチーなフレーズで多数派に届かせるには効果的な方法だから、
各所で絶賛されてるけど、個人的にはナシでした。
場面が切り替わってはテロップ、画面が切り替わってはテロップ、正直に言えば、わかりやすいし面白いんだけど、なにか違う気がしました。
ニコ動ではなく、映画なのだから、映画は映像で魅せるべきなのに、文字情報に頼りすぎてるように思った、
ほぼほぼ、人間パートは会議のシーンと会議室までの移動シーンでしたが、テレビドラマというか、お笑い番組のなかのミニドラマのような感じを受けました。
そう強く思わせる映画でした。
もう1つ、気になったのは、ゴジラへの愛が薄いことです。
特撮が撮りたかっただけで、ゴジラが撮りたかったわけではなかったように思いました。
1番、熱を感じたのは、序盤の水棲生物型のゴジラがビルに抱きついてはなぎ倒すのを繰り返す街破壊シーンと、在来線型爆弾のところです。
ゴジラの熱線なんかは、とってつけたようなCGで、特撮シーンに比べると、「とっておき」感が薄かった。
ゴジラにとっての熱線は、派手さじゃなくて、もっと、もっと、特別なものだったので、派手だけど気に入らなかった。
新シリーズは、旧シリーズの否定なのだから、それは仕方ないことなのかなと思ったのですが、ゴジラ映画の思い出は、幼年期の思い出で、幼年期を否定されたような、寂しい気分になりました。
天災、破壊の化身であると同時に、裁きを与えるもの、神でした。
神に仇なすムートーは裁きを受け、核に頼ろうとする人間、銃に頼る人間もゴジラが裁く。
強く、雄大で、公正な、神の姿でした。
他方、シン・ゴジラでのゴジラは、自然災害ではあるものの、乗り越えるべき存在です。
とってつけたように、博士は核を憎んでたとか、ゴジラの世界を作ろうとしたけど、やっぱり別にゴジラでなくてもいい存在だった。
別にゴジラでなくとも、ゼットンでもよかったし、巨神兵でよエヴァでもよかった。
シン・ゴジラが面白いと思ってる人は、騙されてるだけだと思います。
お笑いにテロップをいれたら、その瞬間は視聴者を笑わせることが出来たとしても、笑いのポイントを解説しなかった時点で敗北でしょう?
シン・ゴジラの作戦名どっかできいたことあるけどなんだっけとおもって、でもしらべるのめんどうで放置していたら、ちょうど今読んでいる本で、その由来を確認して、もーそっから色々妄想がとまらなくなり、深読みをしたくなりまくってしまったので書きます。途中までは、あんのさんのゴジラの作戦名とかに仕込んだ神話ネタの説明。途中からはちまたにあふれるエヴァの超解読本ぐらい怪しい俺の推測。でもまあこういうの含めて盛り上がるのがあんのさくひんだよなとおもうので様式美としてひさしぶりに長文かきます。結論だけかくと、一見くそつまらない勧善懲悪にみえるのだけど、今回もちゃんとあんのさんてきひねくれた映画だったのだろうということです
まずシン・ゴジラ、構造として、わりと愚直なまでにスサノオのヤマタノオロチ退治の神話をなぞっています。誰でも気づくのが、ヤシオリ作戦はヤマタノオロチに眠らせるために飲ませる酒の名前、はしご車の名前であるアマノハバキリはスサノオが使った剣の名前ってとこです。この2つで明確にヤマタノオロチ神話をなぞっていることを示しています。
ということはゴジラはヤマタノオロチということになるわけですかね。ゴジラは原作では恐竜のミュータント、つまり龍です。龍と蛇は限りなく近く、概ね同じ存在と見なしていいと思うのでヤマタノオロチ=龍=ゴジラってことでもいいのだけど、やはり微妙に異なる。今作では幼体の姿で4つんばいの状態を見せているところからも蛇としてのゴジラというのも意識させている気がします。尻尾が長いのもその象徴かなと。後常に状況に応じて進化するのは蛇の脱皮をイメージさせる。だから今作のゴジラはより蛇であり、ヤマタノオロチに近い存在であるとは思います。
そうなると、矢口はスサノオなのか。スサノオの神話は基本構造は貴種流離譚、つまりアマテラスの弟という高貴な血筋をもつものが、本人のか何らかの欠損を理由に追放され試練を乗り越える。矢口は親が力を持った政治家であることが示唆されている。しかし本人の性格は、権威に頼らず上との衝突を辞さず、どちらかというとうとまれる存在。結果、メインストリームから外された専門家集団の責任者になるなどする。まあありがちな設定だが、違和感があるのは親が政治家である設定だ。この流れならはじめからたたき上げの能力戦いがコミュニケーション力低いオタク的性格の主人公でもよかったはずだが(実際アニメだと死ぬほどよくある)、そうしなかったのはスサノオを重ね合わせるための設定かなと思いました。
牧教授の奥さんが、放射能が原因でなくなっているというのは、ヤマタノオロチがこれまですでに八人の乙女を食らってきたという部分に重なる。放射能の象徴がゴジラでもあるからだ。そしてまたヤマタノオロチが暴れ狂うのだと、旅先で出会ったアシナズチという老人はスサノオに告げるのだ。アシナズチは牧教授なのでしょう。もう少し妄想を広げるならクシナダ姫は、日本(出雲に近い広島)の血を引き、過去親族が放射能というヤマタノオロチの被害をうけ、同時に高貴な一族の出(パターソンという名前は、貴族の血筋)であるカヨコかなと。クシナダ姫なら、今回のゴジラに殺されそうになだてるのかというと、そうでもないのがこの説の弱いとこですが、アメリカから核爆弾が落ちるときに、ぎりぎりまで日本にいる選択をしたところで、ゴジラではないが同じ放射能的存在の核爆弾の被害をうけ兼ねないという意味ではまあそういってもいいかなと。
後半になればなるほど、若干強引な結びつけにはなってますが、作戦名ひとつで、まあヤマタノオロチ退治の物語にかけているというのはある程度明らかなのだろうと思います。それはあんのさんがよくやるゲンガクテキになんとなく、物語に深みがあるようにみせかけるためにやっているのかというと、もしかしたらそうじゃないのかなとか思います。ここからは、さらにさらにこじつけになっていく部分が大きくなりますがご容赦ください。妄想です。
まず、事前説明として日本における蛇信仰について説明。蛇は、最も古い信仰だと1 外形が男根相似 2 脱皮による生命の更新 3 一撃にして敵を倒す毒の強さという特徴から世界各地で祖神として崇められていました。時代が移ると、蛇は稲にとって害獣である鼠を食べる特徴から農耕の神という属性が強まったこと、また蛇を邪とし龍を崇める信仰が流れてきたことから祖先神の側面はうすくなり農耕の神の側面がつよくなったのです。
オロチとは、そのまま蛇という意味もありますが、峰の神、山の神という意味もあり、かなり古い蛇信仰の対象といえる名前です。それがまず害をなす存在として描かれる。助けを求め最後に勝つの側のアシナズチという老人はテナズチという配偶者がいます。その足がない、手がない神という名前から彼ら自身も蛇の化身と考えられる。その娘がクシナダ姫。奇稲田の姫と書き、農耕の神を意味し蛇の神の子供であるから、彼女も蛇の神。善とみなされるのは農耕の蛇の神なのです。農耕は中央集権的定住型の社会の象徴、それより古い祖先神は、集権化される前の氏族的共同体の象徴ともいえます。この国は、かつて様々な小さい国が、自分たちの祖先神をもち、乱立し互いに牽制し互酬しあう仕組みでした。稲の神である天皇による大和の支配が確立し日本という形がつくられるようになりました。
つまり、ヤマタノオロチ退治の話は、農耕の神としての現体制の蛇神が高貴な新しい王族の血を引くものといっしょに、出雲を中心とした旧支配者としての蛇を倒す話ともよめます。
今回のゴジラを投影しているのがヤマタノオロチだとすると、それは眠っていた古い戦いの神、すなわち現体制にとっては無秩序をもたらすものなどのイメージを仮託してるのではないでしょうか。一方、総理を中心とした秩序を維持し続けようとする政府側、そこからうとまれながらも、大きな役割を果たす矢口は、当然そうした、ありとあらゆる秩序を破壊しようとする悪を許さない中央集権的社会の体制をイメージされているのでしょう。そして日本の力を政府に結集して、無秩序な純粋な力に打ち勝つ。
ただ、ヤマタノオロチ神話のように、実際に打ち勝つことはできず酒で眠らせたとここておわっているところ、本来ヤマタノオロチのしっぽからは草薙剣がでてくるはずなのに、何かまがまがしい生き物が出てきそうになっている描写、おそらくゴジラの次の進化を、におわせていて、勝負はついていないところを見ると、あんのさんの目線はどちらかというと、ゴジラ側の反体制的、封印された本能の塊のような存在に共感をし続けているようにしか思えます。
実際日本においては、かつて天皇による中央集権化画家たちの上ではなされたとはいえ、現代に至るまで強力にそれが機能したことはなく、困ったときは旧来のお互いの話し合いで解決するというやり方がずっと続いています。氏族的共同体のありかたは死せず、この国に眠り続けています。今回の映画でも、体制側の否定されつつ、賛美もされた特徴として徹底した非合理な合議制があります。そしてトップが死んでもすぐに首のすげ替えがなされる。まさに蛇的なありかた。これがゴジラを倒した最大の理由であるとすれば、あんのさんが、最終的に勝たせて賞賛したのも中央集権的な正義ではなく、日本の体制側のなかにもある蛇的、ゴジラ的な部分だったのではないでしょうか。
今回、怪獣は一匹しかでてないようにみえましたが、じつは今作も怪獣同士の戦いであったのです。ゴジラ vs 日本人。
そう考えると、最初いつものエヴァとかのひねくれた作品とちがって、今回は単なる勧善懲悪映画なのかな、つまんねーなとおもってたりしたのですが、やっぱりそうじゃないひねくれ映画だったのだろうな、いつものあんのさんだっとほっとします。
蛇足ですが(蛇だけに)人間も使徒ほひとりで、進化の形が少し違っただけの怪物であるというのはエヴァとまんまおなじな訳ですよ。そう考えるとゴジラは、アダムであり、尻尾から生み出されるのは使徒なのかも。イメージ的には貼り付けにされたリリスの下半身からにんげんがぽこぽこくっていていたのとおなじなのかも。
ゴジラって、いままでSF定番の行き過ぎた現代科学に対する警鐘としてえがかれてきたかとおもうのですが、そして今回も福島原発のイメージはわかりやすいほどかぶせているとは思うのですが(こちらでも言及されてますね http://anond.hatelabo.jp/20160805000418 )、ヤマタノオロチを持ち出してきたことによって、いままでのような科学の力への警鐘ではなく、また311の反省映画でもなくしているのではないかと。単発の事象に対する象徴的な映画なのではないとおもうのです。この国が根本的に抱え、なおかつ封印している体制側の否定をともなう無秩序への回帰願望の力強さとその恐ろしさへの警鐘、それと同時にその力は今でも脈々と体制側の中にもすでにとりこまれていてそれを有効に使うこともできるよね、というような話をみせたかったんじゃないかなとかおもいます。ゴジラは死なないよどこまでも、ってかんじで。
あーーーー、妄想がとまらない。とりあえずここまで読んでくれた人ありがとう。ヤマタノオロチの解釈に関しては、たぶん世の中的には主流ではない解釈だと思います。一般的には、川の氾濫の象徴とか、そんな感じでしょう。でもまあこういう解釈の方向性は、いろんな人が出していて(この本とか https://www.amazon.co.jp/dp/B00PS2FK8C/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1)そこ自分で味付けして解釈してみましたというかんじです。
まあ、最初にも書いたけど、こう言うのを考えるのが楽しいのがあんのさくひんだなとおもいました。
http://anond.hatelabo.jp/20160807101757
読み方は(増田も言っている通り)やや(かなり?)牽強付会くさい点もあるけど、面白い読みだとは思った。
ただ、増田の言うことが正しいとして、何で今の時代に「氏族的共同体と中央集権の争い」を描いたの?ってのが気になった。「体制側の否定をともなう無秩序への回帰願望」が発現した事件とかって最近あったっけ?ISとか?
前提として、巷で言われるように右翼礼賛、共同体万歳的な側面がこの映画にはある。ただ、共同体主義には2種類あると思っていて (1) 国家型(中央集権的) (2) 地域型(地方分権的) がある。
今回は地域型共同体主義に共感している映画だとおもっていて、結果的に国家型を否定するなぞりがあるんじゃないかと。
地域型共同体主義の人にとっては、リベラルのいうような何か理想とする社会を人工的に作るというのはぴんとこない。もっと自然な感情で、近しい人で社会をつくりあげたいとおもっている。しかし、国家というのは大きすぎてぴんとこない。そしてそこにひも付きやすい全体主義的な思考には拒否反応をしめす。そういう思想です。
これって全く特別なイデオロギーではなく、割と普通のネトウヨとかじゃないけど、左翼むかつくとおもっているネットによく人たちの自然な思想だとおもっていて、おとなしめのリベラルちっくなオタクと親和性がたかい。そしてあんのさんもそういう思想を意識的か無意識的かもっているんだろうなと思うのです。だからこういう対立を描いたと。
無秩序への回帰というのはちょっと「現体制にとって」の無秩序であり、ほおっておいても自然に生まれる家族的情愛による秩序への回帰に共感したいというメッセージかもしれないなと思います。
それも核心部分を書く。
誰かに言いたくてしかたがないのだ。
これも庵野の魔力か。
無表情にズンズン歩くゴジラ(後に野村萬斎だと知ってなるほどと思った)。
なんだかんだ、攻撃されてもビクともしないし、反撃もしない。
「あれ?このゴジラ咆哮しないの?」「ブレスは?放射能吐かないの?優しいゴジラ?」と不安になる中盤。
満を持しての、咆哮&ブレス。
最初炎が出て、威力が強まると放射能に変わり、東京を一瞬で壊滅させるだけの威力を魅せつけた後に、再び炎に変わり止まる。という一連の動作がカッコよくて死ぬ。
やっぱ、B-2最強だな。ホルホル。としていた自分をあっという間に絶望の淵に叩き落とす破壊力。
まさに神。
最高だった。また見たい。
(あースッキリ)
本作も庵野作品らしく、元ネタからテーマを考えると分かりやすい。以下、元ネタと目される作品・事件との比較から本作のテーマを考える。
http://anond.hatelabo.jp/20160731121447
『シン・ゴジラ』は『日本のいちばん長い日』から多大な影響を受けている。激しいカット割りは岡本喜八作品の特徴そのものであるし、日本が重大な危機に直面した際に、どう対応するのかということを題材としている点でも同一である。
しかし、そこで描かれるテーマは異なる。『日本のいちばん長い日』はポツダム宣言受諾を目前に、原爆を2発落とされておきながら、なお利権争いを続ける官僚・政治家の醜悪さが描かれる。そこでは官僚・政治家が一丸となって事態に対処するという姿勢は見られず、最終的な解決は天皇が”ただ独りで”下した「御聖断」によってつけられる。
他方、『シン・ゴジラ』では、責任逃れのために策謀を凝らす政治家・官僚が現れたりはするものの、官僚・政治家・科学者(+ドイツ・中国・米軍)が”一丸となって”ゴジラの問題に対処する。そこには、どんな重大な危機でも、みんなが一丸となって理性を行使すれば必ず解決できる、というポジティブなメッセージがある。
『シン・ゴジラ』のストーリー展開は『エヴァ/ヱヴァ』におけるラミエル戦とそっくりである。すなわち、『エヴァ/ヱヴァ』においては使徒ラミエルを倒すために全国の発電所および送電車が動員され、日本国が一丸となって協力する姿が描かれる。『シン・ゴジラ』においてはゴジラを倒すために全国のプラントおよび化学工場が動員される。
『エヴァ/ヱヴァ』においては、こうした戦いを通じて主人公シンジ君が生きる意味を見出す過程が描かれる。父に捨てられた経験から生きる意味を見失っていたシンジ君は、エヴァに乗って世界を救うことが自分の使命であると自覚していくのだ。
しかし、シンジ君はその後、使徒レリエルとの戦いの過程で、自分が乗っているエヴァがとんでもない化け物であることに気付きはじめ、続くバルディエル戦で親友トウジに重傷を負わせる(漫画版では殺害)に至って、生きる意味を完全に見失う。
そこで描かれるのは「みんなで協力して事態に対処したところでそれらは全く無意味である」というかなりニヒリスティックな結論である。
他方、『シン・ゴジラ』においてはこうしたひねくれたストーリー展開はないため、「みんなが一丸となって協力すれば危機を乗り切れる」というポジティブな結論になっている。
『シン・ゴジラ』においては初代ゴジラをリスペクトすることが明言され、ゴジラのデザインやストーリーに初代ゴジラの影響があることがしばしばインタビューなどで語られている。
『ゴジラ』のテーマの1つは、当時問題となっていた第五福竜丸事件を背景とする、反核兵器の思想である。ゴジラは水爆実験の影響で出現し、東京でゴジラがまき散らした放射線は罪のない児童にまで及んだという描写からこれがうかがえる。
他方、『シン・ゴジラ』でも核及び原子力問題がテーマとされている。ゴジラは海中に投棄された核廃棄物を喰らったことで東京に出現し、原子力エネルギーによって動いている。
しかし、『シン・ゴジラ』ではこの問題に対する姿勢はもう少し複雑なものとなっている。
まず、①原子力で動くゴジラの破壊力はすさまじく、東京は一瞬で火の海にされてしまう。他方、②ゴジラがまき散らす放射線による被害は小さいとされ、③ゴジラのエネルギー源の研究を進めれば現行の原子力発電よりもより安全でクリーンなエネルギーを調達することができることも示唆される。作中ではこのゴジラの2面性を評して「ゴジラは神の化身にして、人類に福音をもたらすもの」とも言われる。
しかし他方で、④国連安保理による核兵器投下はきわめて否定的に描かれる。
ここには、「核兵器の使用には断固として反対するが、原子力の活用については現実的に考えなくてはならない」というメッセージがうかがえる。
以上の検討から、『シン・ゴジラ』のテーマは、「どんな重大な危機でも、みんなが一丸となって理性を行使すれば必ず解決できる」ということと、「核兵器の使用には断固として反対するが、原子力の活用については現実的に考えなくてはならない」という点にある。
◇「私は好きにした。君らも好きにしろ。」は岡本喜八監督から庵野監督へのメッセージ(牧吾郎の写真に岡本喜八監督の写真を採用したのはこのせい)。「この国で好きを通すのは難しい」はこれに対する庵野監督の回答。現代における作品作りの難しさを言っている。
これを踏まえてラストの「そろそろ好きにしたらどうでしょうか」を聞くと趣深い。すなわち、『シン・ゴジラ』は、色々な制約(予算やオールドファンの批判)で自分の好きに映画を作れない監督が、それでも俺は好きな映画を作るんだ!という映画である。結局、TV版の『新世紀エヴァンゲリオン』のラストと同様、フェリーニの『8 1/2』と同じ結論になる。
◇ラスト、血液凝固剤を流し込むシーンは、一見バカバカしいと思ってしまうが、福島第一原発にコンクリートを流し込むという形で実際にやったこと。
◇ラスト、ゴジラは死には至らず、凍結されるにとどまるが、これは同じく凍結状態にある福島第一原発を模している。今後も対処を続けないと、とんでもないことになるよ、という暗喩か。
(1) 孤独な男(シンジ・牧吾郎)が、強大な力(13号機・ゴジラ)を手にして事件を引き起こす。
(2) 危機に対応するのが現実主義的な集団(ゴジラ討滅のために核の使用も辞さない人類・エヴァ殲滅のために初号機を主機として使用するヴィレ)である。
すなわち、両者ともに、危機に対する現実主義的な対応を描いている。トーンの明暗を分けたのは、視点を孤独な男(シンジ)サイドに置くか、現実主義的な集団(日本政府)に置くか、の違い。
妻を放射線で亡くしたことで反原発思想になった結果、日本の学界を追放されてアメリカへ。
国民の生活や命よりカネを優先して原発開発を続ける日本に報復するために、核エネルギーで動くゴジラを出現させた。
その結果、①多数の東京都民が疎開により生活拠点を奪われ、②いつ復活して再び惨禍をもたらすか分からない凍結ゴジラが都のど真ん中に鎮座してしまった。
おみくじで大吉しか引いた事が無い福の神の化身のような大らかで優しい女性と、
おみくじで大凶しか引いた事が無くやることなすこと不幸続きで貧乏神に祟れていそうな女性とが、
ひょんなことからコンビを組み、互いに協力し合いながら、何かを頑張りだす、
自分が幸運であることを自覚しつつも、それを他者に還元し、自分だけが運がいいんじゃなく、周りのみんなが幸福になれるように努力する、その献身的な姿勢に惚れたり、
自分が不幸であることを自覚しつつも、決して他人に当たり散らさず、粛々と次の一手を考え、最低の運をも逆に利用するその強かさに惚れたりして、
2人で手をつなぎ合えば、おみくじで吉しか引かないことに気付いたりして、
もうとにかく凹と凸がピッタリ合わさるような理想的なコンビが生まれる場合、
不幸は西明日香さんで決定です!
みなさんのキャスティングをお待ちしておりまーす!
rebuildfm からアニメに入った人に見てほしいアニメをあげてみる.
http://www.kokaku-s.com/root.html
サーヴァント型のPMである荒巻課長,リーダーである素子,それぞれの分野でプロフェッショナルであるメンバーが在籍する公安9課.
マネジメントを語るなら Fate/Zero より断然こちらを語ってほしい.
荒巻課長の「我々の間には、チームプレーなどという都合のよい言い訳は存在せん. あるとすればスタンドプレーから生じるチームワークだけだ」という名言はまさしく理想のチームと言わざるをえない.
スタンドプレーだと言ってもメンバーはみんなちゃんと情報共有するしリーダーである素子から指示を受けて動く.
映画としてのGhost in the shell, 1stシーズンである笑い男,2ndシーズンである個別の11人, そして最後に綺麗に締めるSSS.
映画とテレビの違いは「人形使い」に出会ったか出会わなかったか. 出会った世界線が映画シリーズで出会わなかった世界線がテレビシリーズ. それぞれどのような結末に辿りつくのかも見逃がせない.
日本の地下にすごい資源が眠っているのがわかってアメリカっぽい国に占領され併合された世界.
そんな世界の日本の学校に通う主人公ルルーシュは実はアメリカっぽい国の王子で後継者争いに破れ死んだ事にして日本に亡命していたのだった.
そんな日本から親に復讐するため,世界復讐するためギアスという名の超能力を手にいれひっそりと軍隊を組織して復讐をはたしながら世界の頂点にのぼりつめていくストーリー.
ルルーシュは基本的に頭が良くさまざまな陰謀を巡らせてのしあがっていくのだが,罠をはったつもりが予想外の事がおきすぐに困った事になるのは「ハウス・オブ・カード」につながる所がある.
毎回次回への引きがすばらしいので続きを常に見たくなる.
中世のような世界で商人ロレンスが狼の化身ホロと共にお金を稼ぎながら旅をしていく物語.
ラノベ原作にしては登場人物の平均年齢が高く内容も無双やハーレムと違って経済の基本をちゃんと抑えたミステリーファンタジー.
金貨や銀貨を使用している世界で為替や信用取引といった現代の金融の仕組みを上手く使いながら立ち回る様は異世界召喚ものに近い雰囲気がある.
作者がトレーダーな事もあり付け焼刃ではない知識がベースとなってる事がうかがえる.
アニメの雰囲気がすばらしく,ホロがかわいい. わっちかわいい.
中東の戦地で少年兵として育てられた主人公・相良宗介が対抗組織に狙われているヒロインを守るため日本の学校に転校するボーイ・ミーツ・ガール.
原作の作者が氷菓のアニメ脚本等もやっており京都アニメーションとの関わりも深い.
以上の事からもわかる通りふもっふが最高でそれを最高に楽しむために無印を見ると良い
http://www.gonzo.co.jp/archives/druaga_anime_2nd/
SAO のような雰囲気があり原作ゲーム同様塔の最上階を目指すストーリー.
ちゃんとファンタジー世界でRPG(原作はRPGじゃないけど)していてゲーム好きにはオススメできる.
第一期と第二期があり一期の最後に大どんでん返しがあり見てて「まじかー」となる.
タイにある警察も軍隊も腐敗にまみれた架空の都市ロアナプラを中心としたガンアクションストーリー.
ダイハードと仁義なき戦いを混ぜて煮詰めたような濃厚なストーリーに善悪の価値観が崩壊していく.
ロシアマフィアや中国マフィアなどの街の勢力争いに巻き込まれながらそれらを相手に立ち回る様は厨二病的にみてもかっこいい.
第三期まであり最後までダレなかったのは素晴しい.
特殊能力が一般化した世界で最強の暗殺者が組織を裏切り戦う厨二ストーリー.
第一期と第二期があるが第二期の最後まで見て満足できる.
http://www.geneon-ent.co.jp/rondorobe/anime/hellsing/
最強にして真祖の吸血鬼アーカード. 吸血鬼を敵とするバチカンの特務機関イスカリオテのアンデルセン神父,世界にナチスドイツを復権しよと蘇えった少佐.
GONZO版のテレビシリーズと原作準拠のOVAシリーズがある.
テレビシリーズはよりキャッチーになってるがそれが不満な原作信者向けにストーリーが濃厚なOVAシリーズが原作者監修の元作成された.
http://www.jvcmusic.co.jp/flyingdog/last-exile/
人類はその人工惑星で2つの国に別れて戦っていた. その戦いを仕切るのが惑星の管理を行っているギルドという組織.
しかしこのアニメの目的は2国間の戦闘ではなく,それを取り仕切るギルドに対しての復讐劇となる.
登場する戦艦や航空機「ヴァンシップ」が見た目スチームパンクでめちゃくちゃかっこいい.
1シリーズで終わって続編として「銀翼のファム」があるが,間の漫画を読まないとストーリーがわからなくてアレである.
http://web.archive.org/web/20151016184554/http://www.gainax.co.jp/anime/top/index.html
宇宙の果てからやってくる敵.それを迎えうつために戦う少女たち.
ストーリーのキモとなるのはウラシマ効果で一回戦いに出て戻ってくると地球では数十年たっているという悲しみ.
続編にトップを狙え2があるがテイストが違うためオススメは1stシリーズ.
人類が宇宙に進出してしばらくたった世界で宇宙に漂うスペースデブリを回収するデブリ屋.
そこに所属する主人公が新入社員に若さと青さで刺激され夢をとりもどすストーリー.
NHKアニメらしく「なぜ働くのか」や「夢とは何か」といったような説教臭さもあるが制作してるのがガンダム等を作っているサンライズだけあって宇宙の描写はすばらしい.
http://king-cr.jp/special/mo-retsu/
宇宙海賊が敵対勢力ではなく一子相伝の伝統芸能となっている世界.
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/956291
「騙されない自分」病だ。
ネトウヨもレイシズムもミソジニーもミサンドリーもまとめサイトも
twitterもはてブも増田も陰謀論も放射脳も疑似科学も文春もネタもマジもデマも何もかも
全部「騙されない自分」のイメージを求めた結果、陥穽にハマってしまっている。
何も進んで水素水を買えと言っているわけじゃない。
「騙されない自分のパブリック・イメージに固執している」ことだ。
みな賢くあろうとしている。それ自体はいいことだ。懐疑や相対化は視点として常に大事だ。
ところが、他人に賢く見せたい、賢いと認めてもらいたい欲、それがインターネットを病ませしまう。
人は「賢い自分」を見せようとするとき、かならず自分の面子以外のことに考えが及ばなくなる。その言葉は攻撃的になってしまう。
なぜなら、賢さとは相対的な概念であって、「賢い俺」が存在するとき、他の人間たちは必ず「俺よりバカ」に位置づけられるからだ。
こういう心理状態になるときほど、近視眼的で酷薄な人間はいない。
しかし、それならば賢しらに振る舞わなければ万事解決なのか。
違う。
そうなってしまったら、インターネットなどに利用価値はなくなってしまう。
我々はみな自分の賢さ、ポジション取りのうまさを見せつけるためにインターネットをやっているのだ。
見栄がなければネットではない。
では、どうすればいいのか。
ハンドルネームやIDを含む顕名制度をやめて、みな記号ですら無い完全なる匿名に帰ればいいのだ。
といっても掲示板はダメだ。集団化という別の暴力の温床となる。
では約束の地はどこに?
ここだ。
増田だ。
我々は群れない。我々は同化しない。我々は顕れない。
国会デビューをしたからといってtwitterアカウントを立ち上げるなどは、見下げ果てた所業である。
我々は存在しない。
我々に魂はない。意識もない。
騙すことも、ダマされることもない。
我々の書くことは「真実か、虚偽か」ではない。真実であると同時に虚偽である。
増田がウンコを漏らす時、その記事を書いた都内在住の誰かは実際に脱糞してないかもしれない。
書き手の人格は肉をもったリアルな誰かとは切り離され、一人の偉大な分裂症患者の名のもとに統合される。
増田。
私はあなたの名前を知っており、あなたは私の名前を知っている。
増田は増田を傷つけない。わたしはあなたを傷つけない。あなたもわたしを傷つけない。
「裁かれた者」サバカレーの使徒であり、「死を刻む名の者」しなもんの化身であり、「剥がす鬼」hagexの下僕である。あるいは水曜日の天使である。
わたしたちはあなたたちブックマーカーである同時に、あなたたちに相対する者である。
実名を捨てよ。
ハンドルネームを捨てよ。
twitterを、Facebookを、メルカリを、LINEを、Yahoo!IDを、amazonのアカウントを捨てよ。
そこは肛門。入る時はさまざまな形をとるが、出る時は常に同じ色形。
ジョン・ヴァーリイには〈ガイア〉三部作というのがあるが、『ティーターン』『ウィザード』に続く完結編 Demon だけが未邦訳となっている。
2004年に2chスレッドで匿名の有志がその概要を日本語でupしていた。すでに消失しているが、当時保存してあったものを最近発掘したので、そのテキストを基に修正・編集・再構成したものをここに置いておく。
残念なことに話の途中で終わっている。ということで原書で読んだ人は続きプリーズ。
なお〈ガイア〉三部作については、以下にある堺三保氏の解説を参照のこと。
《ガイア》三部作に見られるヴァーリイのテーマ性|堺 三保|note
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冒頭、ガイアで「伏魔殿」(ハリウッドみたいな映画都市……だと思う)の建設が始まる。ガイア名物の便利生物がセットを組み立て、ボレックスだのアリフレックスだのパナフレックスだののカメラ生物、フィルムを現像するディレクター生物とかが登場し、準備が整ったところにガイア本人登場。身長15メートルのマリリン・モンローの姿で現れる。
地球では第五次世界大戦が勃発する。コンピュータのプログラミングミスから始まったそれは、全世界を巻き込んでパイ投げみたいなしっちゃかめっちゃかの大戦争に発展する。主要都市は次々と蒸発し瓦礫の山となる。放射能は向こう800年くらいなくならない。
さて、戦争が始まって間もない頃、カナダにコナル・レイというマンガとホッケーとボディビルにしか興味の無いお馬鹿な男が居た。彼は元「リングマスター」乗員、ジーンの曾孫だった。それを知ったコナルはガイアに旅立つ。
ガイアでシロッコを見つけた彼は、いきなり「ジーンの仇うちに来た、あんたを殺す」とぶちかます。シロッコはティーターニスの協力を得て彼を縛り上げ、自分の隠れ家に連れて行く。
(あれ? ジーンって、『ウィザード』の時点で生きてなかったっけ? キャビーがジーンを拷問したとは言っていたけど、シロッコのせいで死んだんだっけ? と思ってたら)
コナルは「ガイアのウィザード」というマンガを持ってきていた。それは実に酷い代物で、シロッコの冒険を歪曲して猥雑な物語に仕上げたものだった。それによるとシロッコとギャビーとジーンは三角関係。しかもガイアからウィザードになるよう持ちかけられたのはジーンだったのに、シロッコがジーンを殺してその地位を奪い取ったということになっていた。コナルはそのマンガを丸々信じ込んでいたのだ。
シロッコは一旦コナルを殺そうと考えたが、コナルはシロッコに一生従属することを誓って死を免れる。
ガイアは壊滅状態の地球に救難船を送った。難民はガイアに押し寄せ居留地を作る。人間の居留地ベリンツォーナ、そこは人間の悪徳を寄せ集めたような無法の町になる。それこそガイアの望んだことだった。数年後。ロッキーというティーターニスがベリンツォーナを訪れる。ロッキーはコナルと落ち合い、ベリンツォーナにある「自由婦人」地区に向かう。
ちなみにコナルはシロッコに対する必からの忠誠を抱いている。コナルが命乞いをし時に、彼は一生シロッコの奴隷となると誓ったが、シロッコはそれはあまりに酷な誓約だと思い契約は3年間限定にしようとした。コナルは20年と主張し、結局5年間で決着した。しかしコナル自身はシロッコに一生仕えるつもりだった。
「自由婦人」地区では頭を剃ったシロッコが待っていた。シロッコの頭にはスパイ生物が埋め込まれおり、ロッキーはシロッコに脳手術を施すためにやっててきたのだ。なんとか手術は成功し、スパイ生物は取り除かれ、箱に閉じ込められた。そのころ「伏魔殿」で2本立てを見ていたガイアは突如として怒り狂った。
地球の戦争は終わろうとしていた。平和が訪れたとか休戦協定が結ばれたとかではなく、戦争を続けられる人間がもう残っていないからだ。地球自体が終わるうとしていた。軌道上のコロニーは地球を見捨てて様々な場所に移動していった。火星、金星、木星の軌道上、さらに外宇宙に向かうものもあった。
ガイアへの難民は増え続けた。難民がまず訪れるのはベリンツォーナの隣町ポータルだった。ベリンツォーナと同じく無法の町であり、流入する難民を身ぐるみ剥ごうとする悪党が待ち構えている。
コナルはその町に度々訪れ、ある活動を行っていた。言ってみれば「闇の始末人」みたいなもの(らしい)で、町のギャングだの強盗だのスリだの人攫いなどを闇から闇へ葬るというものだった(いささか乱暴に思えるが、ガイアの難民都市には警察も監獄も無い。量刑というのがありえないのだと説明されている)。或いは負傷した人を治療師のもとに運んだりもしていた。
さて、今日も今日とてコナルはポータルをうろついていたのだが、そこで新たな来訪者を見つけた。着の身着のままで、やってくる難民が多い中、彼らは裕福に見え沢山の荷物を携えていた。しかも女性2人組である。格好の餌食だ。女たちは瞬く聞にジャッカルの群れに固まれる。
ジャッカルの一人が包みを奪って逃げた。それが、女二人の連れていた赤ん坊だと気付いたコナルは誘拐犯を追う。暴徒に固まれた女二人を助けるのは無理だと判断し、せめて赤ん坊だけでも助けようと考えたのだ。
誘拐犯を捕らえて殺し、赤ん坊を取り戻したコナルが道を引き返し、元の場所に戻ると女たちはまだ殺されていなかった。それどころか襲撃者たちを迎え撃っていた。すさまじい勢いで死体の山を築いている。
赤ん坊を返そうにも近づくことすら出来ないと思ったコナルはセルパンというティーターニスに会い、出来事を説明する。セルパンは女たちを知っていると言う。「額に目の刺青があっただろう?」ティーターニスの加勢でコナルは騒ぎを鎮め、女二人に赤ん坊を渡す。
そのころシロッコはガイアを徒歩で旅していた。ポイペーの「コングマウンテン」でシロッコはコングが死んでいるのを見つける。死体をアイアンマスターが解体している現場で、はぐれポレックスからフィルムを奪う。どうやらそのフィルムにはコングがなぜ死体になったのか、その経過が記録されているようだ。
旅を続けるシロッコはティーテュースでギャビーの幽霊に会い、魔女団のロビンがガイアを訪れたことを知らされる。コナルが彼女をシロッコのもとに連れてくるという。
ガイアをほぼ半周して、シロッコが行き着いた先は「タキシードジャンクション」(この名前はジャズの有名な場所らしい)という、クリスが取り仕切るツリーハウスだった。
シロッコの到着から少し遅れて、「タキシードジャンクション」に人間とティーターニスの一行が到着する。ティーターニスのロッキ一、ヴ、アリーハ、セルパン、人間はコナル、ロビン、ノヴァ、赤ん坊のアダム。ノヴァとアダムはロビンの娘と息子(!)だ。ノヴァは母親に対して何やら欝屈した感情を抱いているようだ。
シロッコとクリスは一行を出迎える。ロビンはクリスの変貌に驚く。『ウィザード』以降、彼の外見はかなり変わっている。下半身は毛むくじゃらで、尻尾まで生えている。彼はティーターニスへの変身を望んだのだ。
ロビンはシロッコに今までの経過を語る。ロビンは『ウィザード』の後、ガイアを去り魔女団に戻った。故郷で彼女はスーパーヒーローとして祭り上げられる。
彼女は妊娠した。ガイアから戻って一年以上経っており、女ばかりの「魔女団J で妊娠するはずが無いにもかかわらず、である。そのとき生まれたのがノヴァで、奇跡はロビンを、魔女団の中でますます高い地位に押し上げた。しかしその18年後、また彼女は原因不明の妊娠を経験する。そして生まれたのはアダム、魔女団には存在してはならないはずの「男」だった。
そして成長したノヴァの外見的特徴は、明白に彼らがクリスの子供であると告げていた。もちろんこれはガイアの悪趣味な冗談だ。シロッコも同じことをされたことがあった(あのとき、もうそんなことしないって言っていたのにガイア……)。
ノヴァの欝屈はそのためだった。聖人であったはずの母親がおぞましい「男」を産み、故郷を追われたのだ。「魔女団」は外宇宙に旅立ち、ロビンたちはガイアに来た。
ロビンとシロッコが話していた頃、クリスは物置からプロジェクターを引っ張り出していた。シロッコがポイペーから持ち帰ったフィルムを見るためだ。
フィルムがプロジェクターにかけられ、一同はコングの末路を目撃する。身長15メートルの巨大な女がコングと格闘し、しかも瀕死のコングを強姦していた。巨大女は勿論ガイアだ。フィルムの最後で、ガイアは何かを産み出したようだ。
ガイアは自分が産んだ「ラクダ」に満足していた。「ラクダ」は死んでいたが、それを元に何か面白いものが作れそうだった。材料を漉過器に放り込み、本日の上映『アラビアのロレンス』を見ながらガイアは辛抱強く出来上がるのを待った。
ガイアに造反して、不老不死治療を受けられなくなったはずなのに、シロッコの見た目はロビンより若いくらいだ。なぜかというとその原因は「ジャンクション」の近くにある鉱泉の効果らしい。シロッコはロビンをその鉱泉に連れて行き、疲れた肉体を若返らせる。
鉱泉に連れて行ったのは若返りのためだけではない。シロッコはロビンに催眠術をかけた。ガイアの策略を探るためだ。ロビンの二人の子供に対し、ガイアは何をしたのか? ロビンの過去の記憶を探るとともに、シロッコは「何か」に尋問する。(何に尋問していたのか。「私のデーモン」と、シロッコは言う。おそらくガイアのスパイ生物だろうと推測される)
それによると、出生がガイアの手によるものであるのは確かだが、幸い、特に有害な処置は
されていないようだ。ひとまず安堵するシロッコ。
さてここで、ルーサーという名のゾンビが登場(ゲーリー・クーパーのキャラをモデルに作られたゾンビ? らしいのだが、ここらへんどうも、映画を元ネタにしていると思われる固有名詞が多くて、はっきり分からなかったです……)。墓地から死体を漁ってゾンビに変え、自分の部下にしている。
ルーサーはペリンの「自由婦人」地区を襲う。彼は神(もちろんガイア)の命を受け、ある子供たちを捜しているようだ。子供たちが「タキシードジャンクション」にいるという啓示を授かり、彼は一路「ジャンクション」を目指す。カーリに先を越されないことを願いながら。
シロッコはロビンをクリスに委ね、浜辺に一休みしに行った。そこでギャビーの幽霊に会い、幸せな夢を見る。目覚めた彼女は不穏な臭いを察知する。
ノヴァは悩んでいた。クリスとロピンが戻ってきて、母親が美しく若返っているのを見ても彼女の心は晴れない。台所でいくつかのハーブを手に入れると、部屋に篭って一生懸命に怪しげなものを作りはじめた。どうやらそれは恋の娼薬らしい。ノヴァはシロッコに恋をしてしまったのだ。作った薬をシロッコの部屋に仕込んだり、入念にメイクをしたり、やっぱり全部落としたりする。恋に悩むノヴァ。
This must be love; what else could hurt so much?
ロビンを鉱泉から連れ帰ったクリス。彼はロビンに対し、子供の父親としての権利を主張する。母親としての自分に疑問を感じるのかと尋ねるロビンに、彼は説明する。ティーターニスに変身しつつある彼は、人間としての絆を欲しがっているのだ。ロビンは彼の思いを理解し、申し出を受け入れる。二人はいい雰囲気。そこに突然誰かの悲鳴が届く。
そのころロッキーとヴァリーハは畑を耕していた。クリスのツリーハウスに滞在することに対する返礼だ。彼らは義理堅いのである。二人は労働で汗をかいた後、後部セックスで楽しく汗をかいたりする。
ロッキーはヴァリーハに恋をしていた。エオリアン・ソ口があまり好きではないロッキーは、ヴァリーハがエオリアン・ソロだということで、躊躇ったりもするが、恋は止められない。
ロッキーはヴァリーハに「シャープド・リディアントリオ」を提案する。(注1)ヴァリーハが提案を受け、セルパンに相談しようと話していたそのとき、当のセルパンが現れた。しかし、明るい家族計画を話す間もなく、3人は空気の中に何かを嘆ぎ取った。
「ゾンビだ! 」
異変を察知した彼らは「ジャンクション」に駆け戻る。
コナルはアダムの子守をしていた。ティーターニスの卵で遊ぶアダムはご機嫌だ。コナルはついついノヴァに思いを馳せてしまう。彼はノヴァに恋をしていた(コナル、お前もか……ここらの場面、登場人物は揃って頭の中がピンク色です)。
ノヴァは彼を憎んでいるように思えたが、最初の頃、コナルはあまり気にしていなかった。なぜならノヴァは周囲の全てを憎んでいるように見えたからだ。しかし次第にノヴァの中で自分は特別なのではないかと思い始める。特別に忌み嫌われているのではないかと。ガラガラヘビか、ロリペドか、梅毒持ち並に。しかしやっぱり恋は止められない。
埒も無く彼女とのキスを夢想していたそのとき、コナルはノヴァの恐ろしい悲鳴を聞く。ゾンビがノヴァを襲ってきた。ノヴァを守ろうと飛び込んできたコナルをぶちのめし、弾丸を撃ち込んでも襲ってくるゾンビ。手当たり次第に物を投げつけているうちに、何かが致命傷になり、ゾンビは倒れた。
ノヴァを襲ったゾンビは撃退できたが、コナルが目を放した隙に、別のゾンビがアダムを誘拐する。シロッコたちは誘拐ゾンビを追跡するが、そのとき天使が空から現れる。目と鼻の先でアダムは攫われ、天使は西の空に飛ぴ去った。
少し遅れてルーサーがジャンクションに到着する。ノヴァを襲い、アダムを誘拐したゾンビはルーサーではなくカーリの一隊だった。カーリは暴力と破壊の化身で、4本の腕を持っている。ルーサーと力一リは反目しあっているようだ。激しく罵りあう両名。ルーサーはカーリの奴隷を、カーリはルーサーの従者を殺す。
アダムが誘拐された。事態は一刻を争う。シロッコは即座に指揮をとった。まず、何がゾンビに致命傷を与えたのか? ノヴァは自分が最後に投げたのが、シロッコのために作った「恋の娼薬Jだったことを思い出す。
アダム救出とゾンビ対策のため、シロッコは矢継ぎ早に命令を下す。ヴァリーハはペリンツォーナに向かい、ティーターニスを召集する。ロッキーはジャンクションに残る。セルパンは陸路で西に向かう。人間は飛行機で天使を追う。それぞれ無線で連絡を取り合うこと。
行動に移ろうとしたそのとき、シロッコは、アダムが遊んでいたティーターニスの卵に気付く。それは透明に変化しかけていた。
人間5人は格納庫に向かい、2機の軽飛行機を発進させる。一つにはコナルとノヴァ、もう一つにシロッコ、クリス、ロビンが搭乗した。
西に向かう飛行機の中、シロッコは瓶の中から「デーモン」を取り出した。シロッコの頭の中に埋め込まれていたスパイ生物だ。2本の足を持った蛇みたいな生き物で、口があり喋ることができる。ご丁寧に性別まであり、一応オスだ。
「90年の間、こいつは私の頭の中を犯し続けていたの」
シロッコは彼をスニッチ(こそ泥?)と呼んでいる。スニッチはガイアの手先だが、重度のアル中なので、酒を餌に情報を得ることができるのだ。シロッコはスニッチが指し示した地点を目指す。
さて、もう一つの飛行機に乗っているコナルとノヴァだが、問題が起きた。シロッコから防弾スーツを着用するように言われたノヴァが、コナルの目の前で服を脱ぎだしたのだ。慌てるコナル。コナルはノヴァに惚れているし、そんなことをされると困ってしまうと言う。ノヴァはコナルの心情を理解できない。そもそもノヴァは「男」を人間とみなしたことがなかった。二人の聞に誇いが起こるが、コナルは懸命に説明し、ノヴァは理解しようと努める。
「傷付けるつもりじゃなかったのj
「それは分かってる」
「……私、また間違ったことを言ったのかしら』
こんな感じながら、それなりに相互理解した二人。かなりいい雰囲気。(注2)
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注1:「シャープド・リディアントリオ」とは、ロッキーが前父と後母を兼ね、ヴァリーハが前母、セルパンが後父となる組み合わせ。ロッキーとヴァリーハが前部セックスをしてヴァリーハが卵を産み、セルパンとロッキーが後部セックスをしてその卵をロッキーの子宮で育てる……ああ、ややこしい。
注2:というか、二人の会話が可愛いので、へっぽこですが訳してみました。
「君は僕に嫌悪感を感じるんだろう?」
「あなたを傷付けたくないわ」
「正直に言ってくれた方がいい」
「そうね、毛深すぎるし、顎はざらざらしていてキスをしたら痛そうだわ。腕や足は……おかしい。それって地球の女たちには魅力的なのかしら」
「どうだろう」
「あなたは私に魅力を感じるの?」
「魅力的どころか。失神しそうだ。君ほど美しい女性は見たことが無い」
僕の大好きな小禄心ちゃんがおそらくいる世界の本編漫画。(この紹介、なんか悪意があるな。でも咲世界に死ぬって概念があって、心ちゃんがまだこの時間軸に登場してないから、なんかこんな書き方をしてしまった)
お風呂で裸で体と体を触れ合わすって、
冷静に考えると、とんでもないことしてる気がしてきた。
(車の中のかじゅももとか、松実姉と新子さん、充電とかぐらいじゃない?)
それらも、当然服は着たままだしさ。
服着てる状態で抱きついたり、手をつないだり、お膝の上に乗ったりっていうのは、
まあ確かに、同性同士であれば、恋人や家族でなくても可笑しくないかもしれないけど。
さすがに、お風呂場で全裸の状態でここまでの肉体的接触をするのは、
僕なら友達はもちろん、家族に同じことやられてもちょっと嫌な気持ちになってしまう。
っていうか、恋愛関係にある人でも、別にそういう気分でお風呂入ってるわけでもないのに、こんなことされたら、
「ごめん、離れてください」って言うわ。
(もちろん、僕ならそう感じるというだけで、咲さんが和さんのことをそういう気持ちでないといけない、というわけではないです)
こういう、パートナーとの気持ちを通じ合わせる描写は、決勝戦でキーになりそうですね。
Aブロック側の準決勝で、リザベーションや枕神などの「パートナーとの繋がり」による能力は、
長野予選でも、イーシャン地獄を、池田仮名さんやかじゅさんは、能力こそ発露していないものの、
「パートナーとの繋がり」をキッカケに支配を破っているんだよなあ。
ネリーのふぇいタライザーや、咲さんみたいな一人で完結した能力は不利なのかもしれませんね。
何故か、はてなブックマーカーの名前が二人も紛れ込んでしまった。
これは、女子高生雀士たちは実質はてなブックマーカーなのでは?
○朝食:サンマの缶詰
○昼食:担々麺
○調子
むきゅー。
洗濯して、電気代払って、来週の食料を買ってと色々雑事をやっていた。
なんかとっても疲れた。
ポケモンダイレクトで、第七世代?にあたるサンとムーンが発表されましたね。
この第七世代とか第六世代ってのはファンが勝手に言ってるだけなので、
抜け道が無いわけじゃないけど、
悪ポケファンとしては、月の光を使う「げっこうポケモン」であるブラッキーが、ムーンと何か関係があると嬉しいですね。
あと、三日月の化身のクレセリアと、ストーリー上関係があるダークライも出番があると嬉しいね。
ポケスペは14章にして、20人目と21人目の図鑑所有者の登場。
と、ゲーム以外の分野も風呂敷を畳みだす時期になったということですね。(トレッタはどうなるだろうなあ)
まあ、ポケスペは未だにBW2時代の宿題が残ってるので、マイペースに進んで行くと思うけどね。
アニポケのサトシは歴代最強とか噂されてるし、そろそろポケモンリーグを勝ち抜けるぐらししても良いんじゃないかなあ。
悪ポケ好きとしては、まずまさかのアニメオリジナルの形態を披露した「サトシゲッコウガ」が良い感じでしたね。
ゲッコウガは悪ポケ初の御三家、初のスマブラ参戦と、色々と楽しませてもらえました。
あと、セレナのヤンチャムは、あんまり目立ってない感じだな、冷凍パンチうつシーンがあるだけマシか。
(そうやあ、セレナの手持ちには悪がいないから、ゴロンダにはなれないのか、イーブイがブラッキーに進化してれば……)
ポケカは、BW落ちたと思ったら、フウロ、Nが再録だし、ダークライは色と技と姿を変えてマナフィとして生まれ変わるし、
未だに世代交代した! って感じじゃないんだよねえ。
でも、始終トップメタに大好きな悪ポケのイベルタルがいたし、地雷枠のバンギラスもいたし、ゾロアークも強いしで、
悪ポケ好きとしては満足のいく環境だったね。
さらに、新情報として、なんとバーチャルコンソールの赤緑青ピカチュウのポケモンを、
へー、これは面白い試みだな。
第一世代と第二世代は完全に隔離されていたので、こうして繋がりが出来るのは良いことだと思う。
思うので、買ってきました。
○ポケモン赤緑青ピカチュウDLカードとポケモン緑同梱版2DS
しめて1万7000円だけどまあ、20年間ずーーーーっと楽しませてもらったことを考えると安すぎるよね。
(第五世代の攻略本やムック本を使った、かそくアチャモガチャ、サンパワーヒトカゲガチャ、を思い出すと未だにイライラするけどね)
さあ、サンとムーンに向けて悪ポケたちを今のうちに用意しとかないとなあ。
えーっと、カントー地方の悪ポケは……
あっ……
そうやん……
のブラッキーの進化前のイーブイと、メガ進化前提のギャラドス系列しかおらんやん……
えーっとでも、ほら技。
なんか貴重な技が……
ものまね、ってFRLGの教えにあったな。
そもそも、あっても何に使うねんって感じだし。
あー、ロケットずつき?
ブラッキーで耐久あげながら攻撃? ギャラドスで威嚇で交代誘発させて、その隙に打つ?
うーん、一発ネタにすらなってないなあ。
そもそも、実際その技が使えるからって、個体値の厳選どうすんねんとか考えると憂鬱にもほどがあるな。
孵化すらできないってのはツラすぎる。
(サンとムーンに輸送時に何かしらのロジックで変更されるしさあ)
あ、あれ、なんかテンション上がって思わず全種に加えて2DSまで買っちゃったけど、
でも、第七世代で、それこそロケットずつきのB上昇が三段階になるとか言われたら、爆上げだし、
なにが起こるかわからないし、買ってよかった、と思っておこう。
私が見たぶんの、二次創作物としての夢小説、狭い範囲の夢小説について話したいと思う。
とはいえ、そんな狭い範囲においても、夢小説というものの幅は広い。名前変換小説、という別名をとるだけあって、「名前変換機能」がついている二次創作小説は、すべて「夢小説」と呼ばれる。JavaScriptのダイアログでも、Cookieのフォームでも、投稿SNSサイト・ホームページ作成サービス付属の機能でもいい。
その形式。愛おしいあのダイアログは、そっけなく「苗字」「名前」、とだけ書かれたものもあれば、「御名前をドウゾ」「Please enter your name.」なんていう、意味はよく分からなくともすてきな言葉遣い。
なぜならば――それはインターネット上で行われている。
すてきなものは同人誌即売会にある。オフラインにある。二次創作というものを知って以降、私はそう覚えこまされた。「オフ本を作りたい」と作家さんは言い、「やっぱり本になるといい」「ちゃんとしてるように見える」と言う、「差し入れありがとうございました」「こんどのイベントは限定ペーパー作ります」「コピ本作ります」。
指を咥えながら見ていた。
愛が足りない、と言われればそうだったろう。小学生だって即売会に行くことはできる。通販を申し込むことだって不可能じゃない。けれど私にはそうするだけの愛が足りなかった。住所を入力する勇気もなかったし、新幹線に乗って大都市に行くお金を貯めることもできなかった。
夢小説は私の味方だった。
クリックひとつで手が届く、インターネット上で完結した世界だった。本になって、「ちゃんとしてるように見える」ことはなかった。同人誌はインターネットがはじまる前からあったらしい。夢小説は、常にインターネットとともにあった。メアリー・スーの存在は知っている。けれど「名前変換」。名前変換が出来なければ夢小説ではない。
振られるもの。振るもの。いじめられるもの。いじめるもの。嫌われるもの。嫌うもの。
ただ一瞬だけ人生が交わるもの。交わることすらなく通り過ぎていくもの。
主人公の性別に制限はなく、男の子になってキャラクタと交わる夢小説は女の子になる夢小説と同じくらいたくさん書かれているように見えた。百合夢小説だってある。少なくとも私は書いたことがあるし、『テニスの王子様』のヒロインたち、竜崎桜乃と小坂田朋香や、『ハリー・ポッター』シリーズのハーマイオニー・グレンジャーの夢小説はかなり読んだ。夢中で読んだ。
ハーレム夢小説が好きだった。登場人物が多いぶん、たいていは長編のラブコメだった。ジェットコースターみたいな展開に夢中になり、連載が更新される日はいつも待ちきれなかった。男の子たちと丁々発止とわたりあう聡い女の子たちに憧れた。女の子を大切に大切に扱う男の子たちは原作とはまたちがう輝きを放っていた。「キャラの立った」女の子たちは、ときに作品の垣根を越えた作品を生み出すことがあった。それもまた好きだった。
傍観者になる夢小説が好きだった。「無糖」という言葉はよく覚えている。夢小説の脇には、しばし「狂愛」「死ネタ」「悲恋」などと属性が書かれていたけれど、そのなかの「無糖」は、キャラクタのそばを、傍観者として通り過ぎていくことを意味していた。見つめるだけでなにも起こらないことが約束されていた。書き手の視点から切々と綴られた誰かの横顔は、どこまでもいとおしかった。
これらの、相反すると思えることが同時に起こり得たのは、すべて、「名前変換」というものがあったから。
夢を見なければ、夢小説は書けない。
夢中にならなければ、作品のなかに入り込むことがどうしてできようか?
夢小説を読むとき、書くとき、私はずっとずっと夢中だった、冷静な判断なんてなにひとつしなかった。ただ、情熱の赴くままに行動した。
文字通り夢を見ていた。
さらにこの遭遇の多段階化は、それが単なる素朴な設定の開示であっても十分な効果をもたらしうる。『小説の秘密をめぐる十二章』において河野は谷崎の「少年」を例にあげ、少年が穏健な家庭の子であることがほのめかされることによってこそ、のちの異常性愛への没入のインパクトが強化されるのだ、と指摘しているが、ラノベはこれをより極端かつわかりやすく行っていると言ってもいいだろう。
例えば『マリみて』における第一の遭遇が「印象的な絵面」であるとは述べた通りだが、そこで一度教室の場面を挟んで理想の素敵な女性像として有名なヒロインの評判が語られ、お礼を言いに行ったところで第二の遭遇が生じる。そこで描き出されるヒロインは、自分の嫌なことから逃げ出すためになりふり構わず主人公を利用し、スールになるよう強要するというものであり、主人公(ならびに読者)のヒロインに対する見方は大きく変わることになる。設定だけを見ればこれは新規性のあるヒロイン設定とは言い難い。が、筆者はこの遭遇から十分な意外性を受けており、それは河野が指摘した例と同じ効果によるものと考えている。
同じく例えば『イリヤの空、UFOの夏(以下イリヤ)』の深夜の学校のプールにおける第一の遭遇は単純なものであるが、ヒロインの手首に埋まったものに気づいたところで物理的異質さが、そして「なめてみる?」「電気の味がするよ?」において精神的異質さが明かされる。なぜそれがインパクトをもたらすかと言えば、それはヒロインの設定の奇抜さではなく、それまでの描写は彼女の異質さを感じさせるものではなかった、という一点に尽きると筆者は理解している。
溺れて必死で主人公にしがみつき、ビート板を使って恐る恐る水泳を教わり、やっと少し泳げるようになる、という一連の「普通の女の子」であることの描写こそがこの急転直下を強力無比なものにしているのであり、だからこそ「なめてみる?」の異様さが際立つのである。もしここで気まずそうに手首を隠してヒロインがうつむき押し黙るといった、つまり「普通の女の子」がしそうな行動がなされていたとすると、全くつまらない遭遇と化すことはすぐにわかることと思う。
多段階化していつつも見方が変わらない遭遇だとどうなるかの例としては『IS』が挙げられる。教室でのヒロインとの再会という第一の遭遇ののち、寮が相部屋であることが発覚するという二度目の遭遇が発生するが、出会う前後で主人公ならびに読者によるヒロインへの見方に全く変化がない。『マリみて』や『イリヤ』と比較して意外性が無く、筆者にとってはひどく印象の薄い遭遇である。
最後に見方は変わるものの一拍置いていない(つまり段階化されていない)例について触れておきたい。冒頭で触れた『俺ガイル』は最初の遭遇から間髪入れずにその「意外性のある性格」が開示されるものであり、多段階化されていない。なるほど『俺ガイル』におけるヒロインの毒舌はそれだけで魅力のあるものであり、それは単独で読者の興味を引くことができるものだとは言えるだろう(筆者も決して嫌いではない)。しかしそれは「レイアウトの仕方」ではなく「描写の仕方」による効果であり、ヒロインの毒舌がそれ単独で魅力を得られるほどのものではなかった場合、実に陳腐でつまらないものだと筆者は考える(逆に言えば描写力が優れていればなんとかなる、ということの証左でもあるだろうが)。
念のため補足しておくと、陳腐な遭遇しか用意できない作品は全て駄作である、と述べたいわけではない。例えば『狼と香辛料』は荷台にもぐりこんだ裸の美少女が狼の化身だと明かすという意外性に乏しい遭遇であるが、ではこの作品が駄作かといえば筆者はそれほど悪くない作品だと思っている。ただし、その遭遇にインパクトを受け、興味を抱くことは無かったことも確かである。ここで張った伏線をクライマックスで回収しているため最後まで読んでみればなるほどと思えるが、もし立ち読みで眺めたのであればその場で本を置いていたと思う。
「ボーイミーツガール」の関係構築では、主人公とヒロインの恋愛感情が醸成されることは必須ではない(例えば『トリニティ・ブラッド』では恋愛感情は仄めかしすら無い)。一方で両者間の信頼関係の構築は必須と言っていいと筆者は考える。また信頼と似た効果を持つものとして敬意も有効に機能する。
さて、関係構築とは主人公とヒロインの一方が他方に何かをすることによって培われるものと言っていいだろう。その内容は小説それぞれによって様々であるが、一段階抽象化してみると次のような行為に類型化が可能であると思われる。下記で全ての行為が類型化されているわけではないが、いくつかまとめた上で、それらをどう組み合わせることが効果的な演出になりうるのかを述べたい。
遭遇の類型として「秘密の漏洩」を上げたが、あれが当人の意に沿わざるものであるのに対し、「秘密の共有」は意図的に自らの秘密を相手に共有するものを指す。
「秘密の共有」は信頼の表明がなされたという暗黙の読者の認識が得られる点で効果的であり、そして「秘密」は多くの場合、プライバシーと同義である。軽度な秘密から徐々に重大な秘密の吐露へと段階を踏まえて内容は変化する。軽度な秘密の典型例は電話番号を教える、住所を教える、そこから一歩進んで自室に入れる、といったものが挙げられるが、最も多用される「秘密」は「過去」であり、昔の笑い話といった軽いものから過去のトラウマまで「過去」は幅広く使える便利な「秘密」であり、重さを任意にコントロールできるという点で優れている。
こうした秘密の共有は信頼の表明であると述べた通り、一定の信頼があった上でなされることで読者に違和感なく受け入れられるものと考える。十分な信頼がなされたと読者に理解がされていない状態でいきなり重い過去の吐露を始めるヒロインなどは、自己陶酔中のメンヘラ設定を明らかにしたいのでもない限り慎むべきだろう。
『涼宮ハルヒの憂鬱』における曜日と髪型の関連の指摘や、『俺ガイル』における主人公がヒロインに友達がいないだろうという指摘など、観察によりヒロインのなにかに主人公が「気づく」ことを指している(ヒロインが主人公のなにかに気づくことも含む)。これはヒロインが主人公の評価を改め敬意を抱くきっかけとして、また主人公がヒロインに対する評価を改め、敬意を抱くきっかけとしても効果的に機能する。
余談ながら観察力のある主人公であることを印象づけることは、特にバトルものにおいても有効に機能するように思われる。例えば『禁書』や『バカとテストと召喚獣』、『エスケヱプ・スピヰド』はいずれも勝利をつかむきっかけとして敵に対する観察と気付きを用意しており、そこから作戦を練っている。最終的に単なる力比べになり、最強能力者である主人公が必然的に勝利するという陳腐さは、しかしそうした観察と気付き、そこからの作戦の演出が事前になされていることで読者に対する一定の納得感を与えるように思われる。もちろんそうしたものがなくとも最強主人公が敵を圧倒する物語に興奮できる読者がいることは事実だが、それにウンザリする読者も相当数いることも事実である。より幅広い読者を意識するのであれば、そうした演出一つを入れておく価値は十分にあると考える。
秘密の漏洩、共有や観察による発見など、なんらかの情報が得られる行為類型の結果として、共通点、すなわち似た者同士であることが発覚することは相手に対する親近感を惹起する。これは読者にとっての共通点でも同様であり、感情移入や共感を誘う要素と言っていいだろう。
素朴な行為であるがゆえに、信頼と好意を「少しだけ」喚起する点で高い効果を持つ。例えば大きな好意が得られる「救助」は大仰なものであり、特に好意や信頼を寄せてもいない赤の他人に対してそうした行為をする人物は、十分な理由づけが無い限り胡散臭いヤツという認識を与えるだけだろう。
これに対して「親切」はそれが当人にとって大した手間でない場合に実行されるものであり、人間関係が破綻していない限りは合理的な行動として読者に受け入れられ、その結果ほんの少し信頼と好意が得られることが自然に読者に認識されることになる。『シャナ』において主人公がヒロインにコーヒーを持って行ったこと、『とらドラ!』において主人公が朝食をヒロインにも分けてやったことなどはこの好例と言えるだろう。
相手を名字で呼ぶのか、名前で呼ぶのか、といった呼称の変化は古典的ながら現在も極めて強力にその認識の変化を読者に理解させる。『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるあだ名であったり、また『デート・ア・ライブ』のようなヒロインの名前を付ける、という行為も同じ効果を持つと言えるだろう。
なお、呼称の変化は一度しか使えないものではない。ある呼称を用いたのち、それを使わなくなる、という演出はその呼称を用いるようになること以上にその変化を強調する。遭遇時においてではあるが、こうした「呼ばなくなる」ことを用いた好例としては『星界の紋章』があげられよう。
一方から他方へなんらかの依頼(命令を含む)がされ、受け入れられることを指す。このとき、その依頼は明示的なものであるとは限らない。「ボーイミーツガール」における両者間のほとんどはこれに該当するが、物語を先に進める意味合いが強く、関係構築に向けて目立った効果をもたらすものではない。
一方でこの行為類型が「期待に応える」を伴って実行された場合はまた異なった効果をもたらす。最初からヒロインが主人公に対して好意を表明していたり、信頼を寄せていることが暗黙に前提となっているような「ボーイミーツガール」は珍しいものではなく(『イリヤ』『ベン・トー サバの味噌煮290円(以下ベン・トー)』など)、また物語の途中でヒロインが全幅の信頼を主人公に対して寄せるようになるものも多い(『SAO』『ココロコネクト ヒトランダム(以下ココロコネクト)』など)。
こうした例においてヒロインから主人公へ強い信頼に基いて依頼がなされている場合、依頼の達成に失敗することが強力な効果を持つ。ヒロインから主人公へ依頼した仕事の達成に主人公が失敗し、しかしヒロインがもう一度仕事を依頼することは主人公に対する深い信頼の表明として機能する上、主人公が次こそヒロインの信頼に応えようと努力する様は概ね読者の共感と応援を得られると考えられる。
例えば『ソードアート・オンライン(以下SAO)』ではヒロインが主人公に仕事を依頼し、主人公は成功し続け、それをもってヒロインが主人公に惚れこむという構造を取る。一方で『とらドラ!』においてはヒロインが主人公に対して依頼した仕事は失敗し続けるが、ヒロインが主人公に失望することは一度としてなく、最後にヒロインから主人公に同じ仕事を改めて依頼するという構造を取る(定義を読んでいれば誤解は無いと思うが、本稿ではいずれも1巻の内容のみを対象としており、シリーズを通してどうかは検討の範囲外である)。両者を比較してみると、筆者は『とらドラ!』の方がよく出来ているという認識を持つ。
『AURA 〜魔竜院光牙最後の闘い〜(以下AURA)』で繰り返されるような単なる拒否は効果を持たないが、相手に対する尊重を以て拒否することは(一時的にはともかく)相手の不快を買うものではなく、むしろ信頼と敬意を勝ち得る効果を持つ。『マリみて』において主人公がヒロインからのスールの依頼を拒否したことは典型例と言ってよく、『のうりん』におけるデビークの手助けを(これまで助力を惜しまなかった)主人公がしない、ということもこの一形態と言っていいだろう。
この時、主人公にとってはその依頼を受けた方がメリットがあることが望ましく、そうした自分の利益を捨て、相手に嫌われる覚悟の上で拒否することはヒロインのみならず読者からの信頼も勝ち得る効果があると思われる。
単純な愛の告白のような直接的な好意の表明に限らず、嬉しそうに何かをする、微笑むといった行動によっても十分に好意の表明として読者に認識される。物語最後の場面においてヒロインないし主人公がこの行為類型を取ることが多く、ハッピーエンドとしての印象を読者に意識づけることで効果的と言えるだろう(『イリヤ』や『ALL YOU NEED IS KILL』がハッピーエンドか否かは意見の分かれるところであろうが)。
相手に伝わる形で行われるそれと、相手に伝わらない形で行われるものがあり、特に本人のいないところで信頼や好意を表明することは読者の理解と共感が得られやすいように思われる。好意の表明は繰り返し使うとむしろ好意の薄っぺらさを強調することになりかねないが、『ココロコネクト』のように相手に伝わらないところでそれがなされる段階を踏まえてから、相手に伝わる形でこれを行うことは効果を増すと思われる。
窮地に陥ったヒロインを主人公が助け出す、という行為類型は『禁書』『AURA』など非常に古典的ながら多くで用いられるものである。救助された側から救助した側に対する好意を含む感謝が読者に理解されやすい点で効果的だが、あまりにもわかりやすく、またありがちなものであるがゆえに陳腐な展開という印象を読者に与える危険性がある。
例えば『僕は友達が少ない(以下はがない)』におけるプールで絡まれたヒロイン2を主人公が助け、それによってヒロイン2が主人公に好意を抱く、という展開は筆者にとってひどく陳腐なものであった。
他方で『俺の彼女と幼なじみが修羅場過ぎる』におけるチンピラに侮辱されたヒロイン2を主人公が助ける展開や、『さくら荘のペットな彼女』におけるラブホに連れ込まれかけるヒロインを主人公が助ける展開はそれほど嫌いではない。
その違いはなにかといえば、おそらく単純にその救助行為が主人公にとってリスクの低いものか高いものか、という点と、救助の際に主人公が負傷している、すなわち自己犠牲を伴う点にあるように思われる。救助は主人公にとってリスクのあるもので、かつ、怪我を追ってまで勝ち得たものであるとき、救助された女性から主人公に対して寄せられた好意の大きさは「それだけの価値のあるもの」として裏付けられると考えられる。
その意味で、無傷でほとんどリスク無く救助したことで得られた好意はほとんど無いに等しいはずであり、にも関わらずヒロインが大きな好意を寄せる状態となり、そこにちぐはぐさと薄っぺらさを感じるように筆者には思われる。
『禁書』では記憶を喪失し、『AURA』では中二病を世間に露出し、『俺妹』では自分は変態だと言って父親へ立ち向かい、『タイムリープ』では自分の過去(未来)が変わろうが知ったことかと手紙を書く。自己犠牲は主人公がこれまで大事にしてきた何かを失ってでもヒロインを守ろうとする意思の明示としても機能し、ゆえにその対価として大きな好意と信頼が得られることに読者は納得がいくものであろう。
もう増田を始めて1年近く経つ。
有る事無い事無い事無い事無い事無い事。
実際には無かった事ばっかり。
それを他人の劣等感をくすぐる形で、倫理的にもとる書き方で書きまくった。
そんで叩かれまくった。
叩かせてやった。
ま、いわゆる釣りだ。
でも、300とか500とか、わかりきった非難で埋まるブコメを見ると、
想像力の欠片もなく、ただ叩くだけなんだよね。
何の生産性もない。
俺に友達が沢山いたら居酒屋で酔っ払ってぐだ巻いて発散するような、馬鹿らしい愚痴に付き合っちゃって。
リアルだったら絶対にスルーされるような、何の価値もない愚痴に踊らされて。
バカだねぇおい。
別にそれだけならいいんだけど、俺の釣りがホットエントリ化すると、みてらんないわけ。
お前らのちっぽけな正義感だか他人に説教したい欲だかのために、
もっと有益な情報を発信していたはずのブログ記事が1本、ホットエントリから外れる。
1本ぐらいならいいけど、俺の他にもアホらしい増田で釣ってる奴はいるし、
悪貨は良貨を駆逐する。
なぜなら誰もが良貨を好むから。
ネットは逆だ。
ネットでは誰もが悪貨を好んでいる。
リアルでスルーされる、なんの生産性もない、ヘドロみたいな増田がホットエントリ化する。
しかも叩きやすいように叩けるポイントを用意してやってるんだから、大義名分もばっちりだ。
ちっぽけな自分が、一瞬だけ正義の鉄槌を下すヒーローになれる。
それを見て俺は笑う。
こんなありえない嘘に釣られてやがるよ低能どもってね。
お互いに得しかしてない。
同じように増田で釣ってる他の奴らも、似た感情持ってるんじゃないかね。
たらこの言う嘘を嘘と見抜く力が必要とかいう話じゃねえんだよ。
ネットで嘘をつく人間が居なくならないのは、嘘をつかない人間がそれを望んでいるからだ。
だから無くならない。
絶対にな。
2chは無くならない。
今の増田が無くなっても匿名と実名が入り乱れるネット空間は無くならない。
人々が欲するからだ。
mixiに疲れて、facebookは近所付き合い程度で済ませて、そろそろtwitterも息苦しくなってきたんだろ?
無理すんなよ。
悪い事じゃねえよ。
人間、そんな、明るい部分ばっかじゃねえよ。
暗い部分は増田にでも吐き出しとけ。
そんでみんなでごっこ遊びしようや。
白けるような暴露はなしでな。
それが皆の望みなんだ。
http://news4vip.livedoor.biz/archives/52031839.html
自分も似たような女に遭遇したことがある。
見た目も振舞いも結構可愛らしいし、かなり清楚に見える女の子だった。
どういう行いをしていたか?
その1.ある女の子が、ある男のことを好きだと聞きつけたら、その男にモーションをかけて告白させ、振る
その2.適当な男をターゲッティングして、モーションをかけ続けて告白させ、振る
その2.告白されたらその一部始終を周囲に言いふらす
その3.振った男カウントを計上して周囲に自慢する
その5.浮気相手の彼女宛にわざと間違いメールを送って修羅場を演出する
たぶん今でもやっている。
今なら既婚者相手に家庭崩壊ゲームをやっているんじゃないかと思う。
人の感情が乱高下してぐちゃぐちゃになっていく様子を楽しんでいる節があった。
罪悪感は「電車の中で人にぶつかった程度」にしか感じていない。
正直、こんな人間が普遍的に存在することに恐怖を覚えて、しばらく女性不振になった。
突然、普通の女の子がこのような変貌を遂げることがあるのかと。
だが、この女は「サイコパス」という人格障害者だということに気づいたおかげで、
誰しもこうなるわけではない、とわかって安堵した。
仮面を被っていてわかりにくいが、サイコパスには極力関わらない方が良い。
あ、こいつサイコパスだ、とわかった場合、逃げられるものなら逃げたほうが良い。
運が悪かったというか、そいつが特別な人格破綻者だったということで、
普通の人とは切り離して考えると良いと思う。