はてなキーワード: ひも付きとは
注目の科学論文数、日本は過去最低の13位 1位中国、2位米国
増田は某国立大学の工学部で教鞭をとる40代の准教授である。その視点からの話であることはご承知おきたい。
こういう記事のブクマには政策が悪いとか選択と集中が悪いとか色々つくが、社会が構造的に「向いていない」という話を書きたくてここに書く。
みんな気になるだろうから、これを先に書く。
最近になってにわかに科学研究が大事ということになって色々な研究予算が付くようになった。工学部だと企業との共同研究のお話なんかももらえるので、えり好みしなければ研究費を取りやすい環境にある。
どういうことかというと、この手のお金は期限がついていたり使途が決まっていたり、いろいろと紐がついている。そして、必要なところには回せないことが大半なのだ。
例えば人件費。民間企業ではありえないことだが、国立大が人ひとりを無期雇用で雇うためには、退職までの予算を確保することが必須なのだ。国からの運営費交付金や寄付金のような、必ず退職まで支払われることが確実な予算で裏付けないと無期雇用の人を雇えない。民間企業なら、人を雇うときに予め退職までの給料を積み立てておくというようなことはせず、営業を頑張って給料を払うだけの売り上げを確保するものだと思うが、国立大ではそういうわけにはいかない。色々な企業との共同研究を締結し、外部資金を獲得して、その人の給料を確保する、仮にできなかったら身銭を切ると教授が宣言しても、そういう期限付きの契約では無期雇用の人を雇えないのだ。
秘書や事務職員ならまだしも実験機材を維持管理する技術職員とか、研究員とかもこの縛りを受けるので、必要な人を必要なだけ確保することができない。運営費交付金は人件費だけでなく建物や設備の営繕にも使われるのだから、やれ70年代80年代に建てられた校舎の改築だとか、光熱水費だとか、とにかく運営費交付金の増額が望めず物価が上昇し続ける昨今、大学にはお金が無いのだ。
ちなみに、外部資金をたくさん取ってきたからと言って自由に使えるわけでもない。大概の研究費は他の外部資金と混ぜて使ってはいけない縛りがあるので、例えば研究費A で岡山の学会へ行き、次の日から研究費Bで広島の共同研究先で実験をする、みたいな場合でも、いったん大阪の自宅へ帰って一晩滞在することで研究費を分けないといけない。実験機材も合わせて購入するということはできない。100万円の研究費をふたつつかって150万円の機材を買うことはできないのだ。これが研究費は増えてもお金が無い、という事情の内幕である。
昔からアルバイトに熱心な学生やサークル活動に精を出しすぎな学生は確かにいた。最近は就職活動に時間をかけすぎな学生が多い。夏休みはおろか授業期間中もインターンにかかりきりだし、ウェブテストの後で何度も面接をさせられ、いきおい、学生は疲弊している。日中の貴重な時間を研究室ではなく就活に費やし、奨学金や親からの仕送りでは足りない学生はアルバイトまでしているのだから、卒論や修論の質は落ちる。企業はガクチカとか聞く前に、理系の学生を研究室で研究させてあげてほしい。学部生の卒論は半年から1年しか期間が無いのに最後の数か月を除いて就活とまるかぶりだし、2年間しかない修士課程の1年は就職活動で消えている現状で、大学から研究成果が出ないと言われても、どうしようもない。
研究というのは、専門書を読み、先行研究を調べ、仮説を立て、手を動かして仮説を検証し、その結果を文書にまとめるサイクルである。これがきちんとできる学生であれば、どんな仕事に就いても立派に働ける。たぶん。
というか、企業の採用も、もっと必要な資格や能力を具体的に書いてほしい。今どきの学生は真面目なので、特定の資格を持っていると就職に有利だとわかればそれを取るようになる。大学だって国の資格などであれば学科免除などを取りに行って「就職に有利」みたいな売り文句で学生を集めやすい。どんな企業だって欲しい資格や能力は採用時点で分かっているはずなのだから、それくらい明かしてくれてもよかろう。
博士課程の大学院生、というのは研究を進めるうえで大変貴重な戦力である。なにしろある程度は自力で研究を進めてくれるし、そのレベルも論文として世に問えるものである。
ところが、である。ちょっと考えてほしいのが博士課程の魅力だ。日本の博士課程は、基本的には学費を納入して「学ばせてもらう」スタイルである。その分研究テーマの自由度は高いし専門性を高めやすい。一方で、ある程度経済的に恵まれていないと、3年間の生活をどう工面するかという問題が常に付きまとってしまう。最近は、学振の特別研究員のような昔からある登竜門的に限らず、各大学の工夫や国の政策で博士課程進学者を経済的に援助する仕組みが整い始めている。とはいえ、それらに通らなければ学費や生活費を調達せねばならないし、採否の通知は年度末か入学後なので、まったく安心できない。どれほど優秀であろうと研究に向いていようと、金がない学生は就活するしかないのだ。
さらに、就活に際しても博士課程は買ってもらえない。就活サイトを見ればわかるが、技術職採用でも研究職採用でも、博士号持ちの人の初任給は明示されない。修士課程の初任給しか書かれていない。これを見た学生は、修士号持ちと博士号持ちの初任給は同額だと理解する。聞くところによると、博士号持ちの初任給は修士号の入社三年目くらいかそれ以上らしいのだが、書かれていない情報などあてにできないので、就活する側からみると前述の理解となる。これでは、博士号を取っても何も良いことはなさそうである。
欧米ではではの出羽守だが、海の向こうでは、博士課程というのはプロジェクトから人件費を支給される研究員である。仕事の扱いだから労基法にも守られる。しかも、博士号を取れば仕事の口も増えるし給料も上がる。
ドイツなんかに行くと、博士号持ちは英語さえ話せれば仕事に就けるが、修士号まではドイツ語を話せないと仕事がない。Dr. と表札に書けるオマケはさておくにしても、それくらい社会的な扱いに差があるのだ。もちろん、給与の出どころである研究プロジェクトが終わると別のプロジェクトで雇われるまで博士課程を続けられないとか、プロジェクトの元締めである指導教員と相性が悪いと人生大惨事になるとか、いろいろなデメリットもあるが「博士課程の研究員」という仕事に就いている扱いなので、無理だと思うとみんな中途採用で企業に転職したりする。それくらい、普通の仕事の扱いであれば進学者も増えるだろうし、博士号を取っておけば食うに困らないくらいの扱いになってくれれば、みんな喜んで進学してくれるんじゃないかと思うがいかがだろうか。
大学に安定的な予算が十分ないために人を雇えないという話を最初に書いたが、そのツケをどう払っているかというと、パーマネントの教職員が頑張って回している。いや、有期雇用の教職員にやらせることもあるけど。来年度には任期切れで退職するような教員に入試問題を作らせたりされてよいものか?高校への出前講座とかアウトリーチ活動が必要だと言われたときに来年退職する先生を送り込んで誰が進学してくれるのか?定年退職した技術職員の後任は予算不足で雇えませんでした、となったときに機材の修繕を誰がやるのか?それでなくても、学生の就職や研究指導の面倒は必須である。
というわけで、大学の先生は講義以外にもやることがだくさんあるのだ。とても研究をしている場合ではない。雑務と呼ぶ人もいるが、講義や研究以外にも誰かがやらねばいけない仕事なのだから「雑」はないだろう。とはいえ、昔は若手の教員がやっていたような事柄も、若手ほど任期付きになってしまったのでシニアの教員がやらねばならなかったり、幸運にも無期雇用を勝ち取った若手に集中してきたりするので、DXで仕事の効率が2倍になっても仕事は3倍に増えるのだ。偉い先生方は偉い先生方で、改革と称して新しい企画を立てないと予算をくれなくなったので、朝令暮改もいいところのマイナーチェンジでお茶を濁したような企画書をいかに気宇壮大に書き直して追加予算をゲットするかに時間を使っている。夏休みも暇かといえばさにあらず、老いも若きも科研費などの外部資金の申請書と格闘している。倍率が10倍近くても、何とかして手に入れないと満足に研究ができないのだから仕方がない。
ちなみに、大学によって、また学部学科によって異なるが、国立大の教員が競争的資金なしに受け取れる、平たく言うと自由裁量経費みたいなものは、年10万~30万円くらいである。国際学会の参加費が10万円を超え、海外の論文誌の投稿料も10万円くらい取られるこのご時世に、である。どれほど世紀の大発見をしようとも、世に問うためには論文化して論文誌に掲載されねばならず、掲載されるためには投稿料を払わねばならないのだ。そして、その投稿料ともらえる経費がほぼ同額ということは、外部資金が無ければ研究 XOR 投稿という選択肢になってしまう。日本の論文誌であればもう少し安く、数万円で済む。ただ、そういうところに掲載されても「注目の科学論文数」にカウントされることはない。これが現状である。
それにしても、研究をして論文を書いて世に問うためには先立つものが必要で、それが外部資金が無ければ全く足りていない、という状況であるにもかかわらず、外部資金を取るためには論文を世に出さねばならないというのは何とも困ったものである。このあたりの必要経費と割り当て予算のアンバランスはどうにかならないものだろうか。
というわけで、大学の先生というのは、外部資金が無ければ研究ができないために年中予算の確保に腐心しており講義や学生指導は当然やるのだから、研究をしている暇はない。その先生を雇うお金はもちろんそれを支えるスタッフを雇う予算すら、外部資金のようなひも付き予算からは支出できないために全学的に人手不足の状況で、この傾向は悪化こそすれ当面改善する気配はない。代わって研究の主力となりえるのは博士課程の大学院生くらいだが、日本人の学生ほどこっち方面のキャリアに魅力を感じずに就職してしまう。それどころか就職活動は過去にもまして無暗と時間を食うような仕組みになってきており、研究活動でスキルアップさせようもない。これが日本社会の現状である。
まあわかる。(流石に300はアオイソメ
隙只要有机会,他就会谈论自己。
本来は実家に住めるから家賃光熱費固定資産ゼロ(親)。(わけあって近所の15万に住んでる)
車は社用兼の軽。服はほぼユニクロ、ワークマン、たまにホムセンのデザインかわいいやつ。時計とか興味ない。
財布だけはいいの(ゆっても10前後)を2年おきぐらいに買い替えるように
家賃:前述のとおり
光熱費:24万。でかいPCあるのと自宅作業多いのでエアコン。あとお風呂よく入る
保険:前払いや10年払い除いたら12万で一緒。独り身で貯金あるとちょっとでいいよね
ファッション:毎月0~5万ぐらい。たまに2万ぐらいのカバンとか買ったりの程度。
雑費:ホムセンかニトリかスーパーで適当に買っててわからん。使いすぎてることはないはず。100均品質が怪しく思えていかなくなった。
そんなに大差ない。
スイッチは転売落ち着いた頃に買った初代が現役。コントローラ(ひも付きのホリコン)こないだ買い換えた。無線は充電めんどくて。
他の用途でも性能居るから、PCはよいのを買うようにしてる。といっても5年に1回30~50万
ソフトは年に5~10万ぐらい?
安い時にとりあえず買って積む。二か月に1回、1~3万ぐらいな感じ
自炊が多く、週3~5ぐらいスーパー行ってる。毎回の会計が3000~4000ぐらいなる。
半分ぐらい酒の気がする。あとはよい食材とか値段見ずに買ったり、すべての料理を胡麻風味油かエクストラバージンオリーブ油でやってるからみたいなの
安くて3万。たまにその10倍。
性欲のために生きてるなぁ(ガルバじゃなくてそっち系でちゃんと)。
広い意味での見栄みたいなものが無いと、独り身でお金減らないのは共感する。
性欲強すぎるから、そっちであっちゅうまに浪費できてしまうけど。けど上限はなんとなく見えてる。
昼練前、いや昼から車で遠征する予定になっている、出発前の駐車場。白く粗い砂利。S津とH地が乗る車の隣りにつけた。H地は後から来たが、なぜか以前より顔が良くなっている。
会話をしないと関係性が悪いと察せられそうで、無理に会話を始めようとした。彼は「今までろくに喋ってきてないのに、なんで急に話しかけんの」と思われたような丸い目をした。私は親の手前はぶられているのを気づかれたくなかった。
駐車場は入り口から前方から右側に大きく駐車スペースが広がっていた。上から見れば、棒に括りつけるひも付きの四角い旗の絵みたいな形だ。
入り口の左には崖のような急な斜面があるが、そこに10人×3列くらい並んだ保護者、主に父兄連中が白装束で立っていた。
その様はある種壮観だった。
何かの信者のようで、一目見てうすら怖い奇妙な光景だったが、そこにいる私はそんなはずはないと心のざわつきを抑える仕様が施されているので例によってそれが発動した。あそこにいるのは父兄連中であるのは顔を見てわかるから、あの姿で大人数で立ち並んでいるのを怖がってはけいない、と。そこを疑ってはいけない、なぜなら認識がブレるから、と。
そういえば駐車場での車上荒らしが複数回起こり、見張り役を作ることになったなどと親が口にするのを聞いた。チームを運営する上(うえ、かみ)が企図した策が下達され、現場で実行されるまでの間に、生の意思や思惑がぶつかりあった結果こんな形に変形したんだろう。なんでこんな人数多いんだよ、こんないらねえだろ。見張りは今日一日やればいいわけじゃねえだろうに。ローテはどう組んだんだろ、大丈夫かな。そう思った。
女子2人が来て、ノートpc持ってるかと問われた。持ってはいるけどと答えたら、貸してくれない?」怖いので、「何に使うの?」「動物の写真みるの」何か嫌だったが引けないので、「もう少しで出るからそれまでなら」と答えた。貸す前に起きる。
運営費交付金は減ったり、ひも付きに変わってるよ。運営費交付金の復活も必要だな。
少額でも多少の実験はできる額を出すのも基礎研究の一つ。とにかく競争的資金に偏ってるのも害悪の一つ。
そもそも科学はわからないものを科学的立証により明らかにしていく課程だ。だから、一番の萌芽は本当に計画や目標になじまない。
だってわからないから計画も目標も立てようもないから。ただ、ちょっとわかれば順に科学としての目標や計画に馴染んでいき、そしてビジネスとしての目標や計画に転じていくという流れ。
取れるリスク順に下記のような流れになっており「全フェーズを」強化する必要がある。
4.ベンチャーキャピタル
増田は給料が現物支給されたら喜ぶタイプ?なら止めないが普通は恨まれると思う。
一緒に買いに行くも一見いい提案ぽいが子供にとって大人に使い道限定されないお金というのは一種の自由だし権利だよ。ひも付きのお金じゃ大人に眉ひそめられそうな物買ったり友達と買い食いしたりできないだろ?子供の頃のお年玉は額面以上の価値がある。
それでも何か物を買ってやりたいなら去年と同じ金額のお年玉与えた上でおもちゃとか本とかお菓子とかちょっとした欲しいもの一緒に買いに行ったらいい。
ただしプラス現物でも一旦レートを上げたお年玉は翌年以降レートを下げづらくなるし、他に親戚がいるなら親戚同士の腹の探り合いで勝手にレートを上げてくれるな、となるかもしれないので慎重に。
昔ある年に突然予告無くレート上げた親戚がいて翌年から横並びで他の親戚もレートを上げる、と言う事件があったので。子供心にはありがたかったが親同士はメンツや別途お返しやらで気まずい空気が醸成されてた。
あんだけ有名なスタッフ集めてもこんな箸にも棒にもかからない展開で終わらせると思ってなかったよ
てか完全に尺不足でしょ、2回も特番かけたの何だったの本当
尺で割り切れなかった点で言えば錦織監督も林さんもキャラクターをさばききれなかったんだという印象がすごくて、ミツルとココロ以外のキャラクターへの配慮がなさすぎた。
特にイクノなんだったんだよ、勝手にパートナー変えられるわ老け込んだ上に弱った身体で医者みたいなことやってるとか、流石に不幸が過ぎませんか
最後三人になった上にうちふたりがソロでフランクス乗ってるのあれなんだったんだ
でも佐倉綾音の断末魔は本当に良かった、ありがとうございます
それと新ナナがあれだけパパの操り人形だったのにもとのナナが出てきたら急に物分りよくなったのも全く得心いってないし、VIRMのポッと出感すごすぎて最後までラボスス感なさすぎて最終話に近づくにつれて盛り下がるのなかなかに奇妙だった。
ロージェノムやアンチスパイラルってすごかったんだなと改めて認識した
キャラクターがおざなりになった結果テーマもぼやっとしてて、コドモたちが新しいオトナになっていくって主題の説得力に欠けていた。
そもそもコドモたちにとってパパたちを含めたオトナが、彼らの生きる規範にならなかったことにほとんど絶望してなくておいおいお前らめっちゃ自我あるやんけってところで肩透かし食らった感が否めなかった。
それとオトナになるということが家族を作るということにひも付きすぎてて気持ち悪かった。同性パートナーとかがどんどん現実で社会容認されてる中でアルファくんが言うような存在も認めてほしかったと思う。
アルファくんたちは性別を捨てた存在だったけど、性別にとらわれずとも社会に共存するような存在として語られる必要はあったんじゃないのって思う。
ただの戦闘狂みたいな終わらせ方するのはあまりにももったいない存在だったと思う。
それかイチゴちゃんがゴローとできてなくてイクノと一緒になるパターンでもよかったと思うけど、ゴローがイケメンすぎたからもう仕方ない。
てかゴロー本当に良かったよね。
セカイ系まっしぐらのヒロに対して「俺たち仲間の気持ちはどうなるんだよ」って言い切ったところね。セカイorヒロインの選択肢でヒロインまっしぐらの主人公に対してしっぺ返しがあったのはこれまでのセカイ系へのカウンターになってたと思う。
思い出したけどこのアニメ殴るシーンがよくなった。
前述のゴローのところはまあわかるんだけど、それまでにフトシがミツル殴ったりフランクス越しにイチゴがゼロツー殴るとか。
若干ワンパターンすぎてやはり岡田麿里の喧嘩はレベルが違うなって思った。
少なからずロボットモノなのに戦闘シーンがよかった回ほとんどなかったし、監督そういうのに興味ないんだなとは思ったけど。今石洋之もっと活躍してほしかった。
いやしかし放送前めちゃくちゃ期待値あげまくってこの終わりになったのがまじで落差がきついわ
普通に見てたらこんなにがっかりしなかったんだけど、勝手にめちゃくちゃ期待してたからすげー落ち込んだんだよね
ただまあ一方でアニメにここまで期待してた自分に対してまだいけるやんけって思ってるところもあるんだけど
それにしても最終話の台詞回し全編通してダサすぎたのが決定打だった気がする
もっと推敲してきれいに書こうと思ったんだけど、別に生産的な文章になりそうにないし増田にだらだら書くだけにした。
アァー
シン・ゴジラの作戦名どっかできいたことあるけどなんだっけとおもって、でもしらべるのめんどうで放置していたら、ちょうど今読んでいる本で、その由来を確認して、もーそっから色々妄想がとまらなくなり、深読みをしたくなりまくってしまったので書きます。途中までは、あんのさんのゴジラの作戦名とかに仕込んだ神話ネタの説明。途中からはちまたにあふれるエヴァの超解読本ぐらい怪しい俺の推測。でもまあこういうの含めて盛り上がるのがあんのさくひんだよなとおもうので様式美としてひさしぶりに長文かきます。結論だけかくと、一見くそつまらない勧善懲悪にみえるのだけど、今回もちゃんとあんのさんてきひねくれた映画だったのだろうということです
まずシン・ゴジラ、構造として、わりと愚直なまでにスサノオのヤマタノオロチ退治の神話をなぞっています。誰でも気づくのが、ヤシオリ作戦はヤマタノオロチに眠らせるために飲ませる酒の名前、はしご車の名前であるアマノハバキリはスサノオが使った剣の名前ってとこです。この2つで明確にヤマタノオロチ神話をなぞっていることを示しています。
ということはゴジラはヤマタノオロチということになるわけですかね。ゴジラは原作では恐竜のミュータント、つまり龍です。龍と蛇は限りなく近く、概ね同じ存在と見なしていいと思うのでヤマタノオロチ=龍=ゴジラってことでもいいのだけど、やはり微妙に異なる。今作では幼体の姿で4つんばいの状態を見せているところからも蛇としてのゴジラというのも意識させている気がします。尻尾が長いのもその象徴かなと。後常に状況に応じて進化するのは蛇の脱皮をイメージさせる。だから今作のゴジラはより蛇であり、ヤマタノオロチに近い存在であるとは思います。
そうなると、矢口はスサノオなのか。スサノオの神話は基本構造は貴種流離譚、つまりアマテラスの弟という高貴な血筋をもつものが、本人のか何らかの欠損を理由に追放され試練を乗り越える。矢口は親が力を持った政治家であることが示唆されている。しかし本人の性格は、権威に頼らず上との衝突を辞さず、どちらかというとうとまれる存在。結果、メインストリームから外された専門家集団の責任者になるなどする。まあありがちな設定だが、違和感があるのは親が政治家である設定だ。この流れならはじめからたたき上げの能力戦いがコミュニケーション力低いオタク的性格の主人公でもよかったはずだが(実際アニメだと死ぬほどよくある)、そうしなかったのはスサノオを重ね合わせるための設定かなと思いました。
牧教授の奥さんが、放射能が原因でなくなっているというのは、ヤマタノオロチがこれまですでに八人の乙女を食らってきたという部分に重なる。放射能の象徴がゴジラでもあるからだ。そしてまたヤマタノオロチが暴れ狂うのだと、旅先で出会ったアシナズチという老人はスサノオに告げるのだ。アシナズチは牧教授なのでしょう。もう少し妄想を広げるならクシナダ姫は、日本(出雲に近い広島)の血を引き、過去親族が放射能というヤマタノオロチの被害をうけ、同時に高貴な一族の出(パターソンという名前は、貴族の血筋)であるカヨコかなと。クシナダ姫なら、今回のゴジラに殺されそうになだてるのかというと、そうでもないのがこの説の弱いとこですが、アメリカから核爆弾が落ちるときに、ぎりぎりまで日本にいる選択をしたところで、ゴジラではないが同じ放射能的存在の核爆弾の被害をうけ兼ねないという意味ではまあそういってもいいかなと。
後半になればなるほど、若干強引な結びつけにはなってますが、作戦名ひとつで、まあヤマタノオロチ退治の物語にかけているというのはある程度明らかなのだろうと思います。それはあんのさんがよくやるゲンガクテキになんとなく、物語に深みがあるようにみせかけるためにやっているのかというと、もしかしたらそうじゃないのかなとか思います。ここからは、さらにさらにこじつけになっていく部分が大きくなりますがご容赦ください。妄想です。
まず、事前説明として日本における蛇信仰について説明。蛇は、最も古い信仰だと1 外形が男根相似 2 脱皮による生命の更新 3 一撃にして敵を倒す毒の強さという特徴から世界各地で祖神として崇められていました。時代が移ると、蛇は稲にとって害獣である鼠を食べる特徴から農耕の神という属性が強まったこと、また蛇を邪とし龍を崇める信仰が流れてきたことから祖先神の側面はうすくなり農耕の神の側面がつよくなったのです。
オロチとは、そのまま蛇という意味もありますが、峰の神、山の神という意味もあり、かなり古い蛇信仰の対象といえる名前です。それがまず害をなす存在として描かれる。助けを求め最後に勝つの側のアシナズチという老人はテナズチという配偶者がいます。その足がない、手がない神という名前から彼ら自身も蛇の化身と考えられる。その娘がクシナダ姫。奇稲田の姫と書き、農耕の神を意味し蛇の神の子供であるから、彼女も蛇の神。善とみなされるのは農耕の蛇の神なのです。農耕は中央集権的定住型の社会の象徴、それより古い祖先神は、集権化される前の氏族的共同体の象徴ともいえます。この国は、かつて様々な小さい国が、自分たちの祖先神をもち、乱立し互いに牽制し互酬しあう仕組みでした。稲の神である天皇による大和の支配が確立し日本という形がつくられるようになりました。
つまり、ヤマタノオロチ退治の話は、農耕の神としての現体制の蛇神が高貴な新しい王族の血を引くものといっしょに、出雲を中心とした旧支配者としての蛇を倒す話ともよめます。
今回のゴジラを投影しているのがヤマタノオロチだとすると、それは眠っていた古い戦いの神、すなわち現体制にとっては無秩序をもたらすものなどのイメージを仮託してるのではないでしょうか。一方、総理を中心とした秩序を維持し続けようとする政府側、そこからうとまれながらも、大きな役割を果たす矢口は、当然そうした、ありとあらゆる秩序を破壊しようとする悪を許さない中央集権的社会の体制をイメージされているのでしょう。そして日本の力を政府に結集して、無秩序な純粋な力に打ち勝つ。
ただ、ヤマタノオロチ神話のように、実際に打ち勝つことはできず酒で眠らせたとここておわっているところ、本来ヤマタノオロチのしっぽからは草薙剣がでてくるはずなのに、何かまがまがしい生き物が出てきそうになっている描写、おそらくゴジラの次の進化を、におわせていて、勝負はついていないところを見ると、あんのさんの目線はどちらかというと、ゴジラ側の反体制的、封印された本能の塊のような存在に共感をし続けているようにしか思えます。
実際日本においては、かつて天皇による中央集権化画家たちの上ではなされたとはいえ、現代に至るまで強力にそれが機能したことはなく、困ったときは旧来のお互いの話し合いで解決するというやり方がずっと続いています。氏族的共同体のありかたは死せず、この国に眠り続けています。今回の映画でも、体制側の否定されつつ、賛美もされた特徴として徹底した非合理な合議制があります。そしてトップが死んでもすぐに首のすげ替えがなされる。まさに蛇的なありかた。これがゴジラを倒した最大の理由であるとすれば、あんのさんが、最終的に勝たせて賞賛したのも中央集権的な正義ではなく、日本の体制側のなかにもある蛇的、ゴジラ的な部分だったのではないでしょうか。
今回、怪獣は一匹しかでてないようにみえましたが、じつは今作も怪獣同士の戦いであったのです。ゴジラ vs 日本人。
そう考えると、最初いつものエヴァとかのひねくれた作品とちがって、今回は単なる勧善懲悪映画なのかな、つまんねーなとおもってたりしたのですが、やっぱりそうじゃないひねくれ映画だったのだろうな、いつものあんのさんだっとほっとします。
蛇足ですが(蛇だけに)人間も使徒ほひとりで、進化の形が少し違っただけの怪物であるというのはエヴァとまんまおなじな訳ですよ。そう考えるとゴジラは、アダムであり、尻尾から生み出されるのは使徒なのかも。イメージ的には貼り付けにされたリリスの下半身からにんげんがぽこぽこくっていていたのとおなじなのかも。
ゴジラって、いままでSF定番の行き過ぎた現代科学に対する警鐘としてえがかれてきたかとおもうのですが、そして今回も福島原発のイメージはわかりやすいほどかぶせているとは思うのですが(こちらでも言及されてますね http://anond.hatelabo.jp/20160805000418 )、ヤマタノオロチを持ち出してきたことによって、いままでのような科学の力への警鐘ではなく、また311の反省映画でもなくしているのではないかと。単発の事象に対する象徴的な映画なのではないとおもうのです。この国が根本的に抱え、なおかつ封印している体制側の否定をともなう無秩序への回帰願望の力強さとその恐ろしさへの警鐘、それと同時にその力は今でも脈々と体制側の中にもすでにとりこまれていてそれを有効に使うこともできるよね、というような話をみせたかったんじゃないかなとかおもいます。ゴジラは死なないよどこまでも、ってかんじで。
あーーーー、妄想がとまらない。とりあえずここまで読んでくれた人ありがとう。ヤマタノオロチの解釈に関しては、たぶん世の中的には主流ではない解釈だと思います。一般的には、川の氾濫の象徴とか、そんな感じでしょう。でもまあこういう解釈の方向性は、いろんな人が出していて(この本とか https://www.amazon.co.jp/dp/B00PS2FK8C/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1)そこ自分で味付けして解釈してみましたというかんじです。
まあ、最初にも書いたけど、こう言うのを考えるのが楽しいのがあんのさくひんだなとおもいました。
http://anond.hatelabo.jp/20160807101757
読み方は(増田も言っている通り)やや(かなり?)牽強付会くさい点もあるけど、面白い読みだとは思った。
ただ、増田の言うことが正しいとして、何で今の時代に「氏族的共同体と中央集権の争い」を描いたの?ってのが気になった。「体制側の否定をともなう無秩序への回帰願望」が発現した事件とかって最近あったっけ?ISとか?
前提として、巷で言われるように右翼礼賛、共同体万歳的な側面がこの映画にはある。ただ、共同体主義には2種類あると思っていて (1) 国家型(中央集権的) (2) 地域型(地方分権的) がある。
今回は地域型共同体主義に共感している映画だとおもっていて、結果的に国家型を否定するなぞりがあるんじゃないかと。
地域型共同体主義の人にとっては、リベラルのいうような何か理想とする社会を人工的に作るというのはぴんとこない。もっと自然な感情で、近しい人で社会をつくりあげたいとおもっている。しかし、国家というのは大きすぎてぴんとこない。そしてそこにひも付きやすい全体主義的な思考には拒否反応をしめす。そういう思想です。
これって全く特別なイデオロギーではなく、割と普通のネトウヨとかじゃないけど、左翼むかつくとおもっているネットによく人たちの自然な思想だとおもっていて、おとなしめのリベラルちっくなオタクと親和性がたかい。そしてあんのさんもそういう思想を意識的か無意識的かもっているんだろうなと思うのです。だからこういう対立を描いたと。
無秩序への回帰というのはちょっと「現体制にとって」の無秩序であり、ほおっておいても自然に生まれる家族的情愛による秩序への回帰に共感したいというメッセージかもしれないなと思います。