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はてなキーワード: 貴種流離譚とは

2021-06-03

anond:20210603111249

そんなめんどくさい論は不要だよ。

貴種流離譚はむかーしか物語の型として存在して、ドラクエファンタジー風味にするためにそれを適用した。

以上、めでたしめでたし

2021-05-12

anond:20210512141131

貴種流離譚ってやつやろ。なんか「息子がおまえを殺す」みたいな神託を受けて息子を殺そうとするけど息子は生き延びて最後にはやっぱりその息子に自分が殺されるみたいなやつとか。

2021-02-28

anond:20210227172304

異性愛というかそこそこ長さがある物語って血統の話が多くて好きじゃない

途中で主人公自分の生まれを知ってそこから突然貴種流離譚なっちゃうからがっかりする

それに加えて最終回でどんどん男女カップル誕生するし(それまで恋愛感情を深める様子も描かれてないのに男女だからくっつけるのって子供を登場させるor想像させるためだし)続編もの主人公の子供が主人公になるし

2021-02-17

源平→源氏VS平氏という分かりやすい構図。ラスボス格の清盛に対して、一度は敗れた源氏御曹司辺境で力をつけて逆襲するというオーソドックス貴種流離譚。ただし、めぼしいキャラクターが他に義経木曽義仲くらいしかおらず、平教経とかいうよくわからん奴を義経ライバルに据えてしまうくらい平氏側の人材がいない。あとみんな似た名前で覚えづらいのも地味に難点。

南北朝→敵味方が目まぐるしく入れ替わってマジでよくわからん。大きな戦で決着がつくということもなく延々と争い続けている。勝ったら身内で争いはじめる。負けてもゴキブリのように復活する。主人公格のくせに何をしたいのかよくわからない尊氏もさりながら、「優柔不断な後醍醐」像が定着したのもグダグダ感が増している要因かもしれない。後醍醐評価路線でやればワンチャン

戦国時代群雄割拠で各地方ドラマがあり、群像劇としてさまざまな視点から物語ることができる。天下人になったと思われた信長本能寺死ぬという驚きの展開、秀吉の驚異のサクセスストーリー、そして家康権力掌握が関ヶ原という天下分け目の大戦で決まる分かりやすさ。消化試合感のある大坂の陣真田幸村のおかげで最後の盛り上がりを見せた。やっぱ戦国時代っきゃねえよ。

幕末暗殺粛清陰謀歴史が進んでいく陰湿さ。打つ手打つ手裏目幕府。ただのテロリスト集団長州。佐幕の強硬派として長州いじめていたくせにいつのまにか幕府を裏切っている薩摩奥羽越列藩同盟でもうひと盛り上がりあるかと思ったら瓦解して終わる戊辰戦争維新の最大の功労者無駄に戦いを起こして惨めに死ぬ西南戦争。全体的にグダグダで、スカッとした盛り上がりに欠ける。キャラ人気に頼る他なし。

2021-02-06

逃げ上手の若君の許嫁はなぜ不細工だったか

http://blog.livedoor.jp/kudan9-culture/archives/27926645.html

 

ネウロ暗殺教室も読んだことはないが、逃げ上手の若君を見る限り松井優征は書き割り(類型タイプ漫画家だなあという気はする。

書き割りを極端にすると例示されている嫌煙家のようなキャラクタ誕生する。こう書くと書き割りが悪いことのように聞こえるかもしれないが、それはひとつ表現手法であり上下巧拙もない、と思う。

書き割りは類型であるがゆえに読者に「つかませやすい」し、その上にキャラ固有の内面や奥行きを見せることで魅力を上乗せさせることもできる。これだけ創作物が溢れかえっている世の中で新しい作品を読者に読ませることは容易ではない。キャラに限らず世界観や設定も書き割りにすることで「摩擦係数」を減らして脱落する読者を減らそうとするのはひとつ戦略と言っていい(松井優征作品世界観や設定が書き割りだと言っているわけではない。むしろその点がユニーク作家だと思う)。

 

で、こっからが本題なのだが。

主人公の許嫁が明らかに周囲の人物に劣った外見に描かれることで悪し様に表現されていました。権力者結婚して金持ちになってやるという明け透けな逞しさに私はむしろ好感を持ちましたが、作者は違ったようです。しかし、どうせ第1話死ぬならいい人として描いておいて、主人公が見舞われた悲劇を強調してもよさそうなものですが。

これは明確な読み誤りであると思う。

1話で描かれたのは敵によって主人公日常が壊され旅立ちを余儀なくされるという貴種流離譚の第1幕だ。この日常において主人公の周りにいたのはどんな人達だろうか。普通に読んだ人なら父、兄、許嫁がぱっと浮かんだであろう(諏訪頼重キャラクタ類型でいう助言者。ゆえに日常の外から来る)。なぜか。それぞれ違うキャラクタからである

 

父…ボケてるのかな? というぐらいに愚将

兄…将としては平凡だが弟の才能を素直に評価できる優しさの持ち主

許嫁…容姿よろしくないがそのぶん見る目がある。奇貨居くべしなタイプ商家の娘だったら大成した

 

それぞれ数ページからコマしか出番がないが、これらのキャラクタがすとんと入ってくる。そしてそんな「主人公の周囲にいる色々な人が高氏の反乱によって根こそぎ殺された」とつなげることによって主人公の絶体絶命感(と諏訪頼重という一筋の光明)が強調されている。これが父、兄、許嫁が全員「いい人」程度の描かれ方だったらのぺっとして印象に残らず絶体絶命感も出なかったであろう。

この辺は鬼滅あたりと比較すると分かりやすい。

鬼滅も逃げ上手の若君同様、物語類型としては貴種流離譚であり「行って帰ってくる物語である。炭治郎にとっての日常とは家族との慎ましくも温かな暮らしに他ならず、それを失ったことで寒い雪山を往くハメになる。この場合家族は平凡で優しいことが求められる。極めて愚かな人物が混ざっていたり、逞しいタイプがいたりすると印象がそっちに引っ張られて悲惨さや悲しみが強調されない。慎ましやかな生活感もでない。

逆に北条時行が失ったのは鎌倉幕府である。その巨大さを腑落ちさせるためには色んな層の人間必要で、そのためにピックアップされたのがあの3人(父=幕府トップ、兄=家族、許嫁=重臣(の娘だが層としては重臣))ということなのだ。

ちなみに許嫁の容姿よろしくないのは他の二者との差別化もあるだろうが、明け透けに言ってしまえば生き汚さを出すためだろう。あんなに生命力が強そうなタイプがあっさりと死ぬことによって絶体絶命感が強調されている(こう書けば伝わると思って書いているが、もし分からないなら薄幸の美人という言葉を補助線にしてくれ)。

 

作品のあらゆる要素は作家胸三寸なのであり、そのようにしているのには相応の理由がある。好き嫌いを語る分には構わないだろうが正しい正しくないの観点から論じるのであれば作者に寄り添ってそれによって何を描こうとしているのかつぶさに観ることは最低限必要な態度であろう。

2020-06-04

貴種流離譚主人公が言いそうなこと

貴様だけは生かしてはおけない!!

2020-05-25

極秘出産モノが好き

小説映画漫画等での極秘出産モノが好き。

大河SFロマン系でよくある「戦火の中、疎開した(または死んだと思われていた)姫が妊娠しており、逃亡先で極秘に出産した隠し子」みたいなやつ。

主役はそのカップルで、戦禍がおさまって子が小さいうちに無事再会~HappyEnd~だとなおよい。

主人公がそのカップルの従者(侍女)で、極秘出産を助けるため一緒に逃避行するパターンもあるがそれもよい。

子のほうが主役で、大きくなってから実は出生は…と明かされるのもいいんだけど、これは貴種流離譚の一類かなーと思うので

秘された恋、許されざる恋、引き裂かれる恋ドラマ好きの一面かなと思ってたんだけど

最近は拗らせすぎて、原作時間軸のスキマに逢瀬~逃亡~極秘出産を捻じ込んでくる二次創作出会うとめちゃめちゃ嬉しい。

でも単純に二次創作妊娠モノで探すと特殊性エロになるんだよな~~ぜんぜん違うんだよな~~~~

普通小説映画で探すとなると、後半のイベントなことが多くてネタバレになるし、探しづらいなーと思ってたんだけど

二次創作場合「このキャラクターが実は女だったら…系」IFが合わさるとヒット率高いことに気づいて最近ちょっと嬉しいっていう日記

2020-04-27

anond:20200427163355

成り上がりおとぎ話と思われがちでシンデレラストーリーなる単語が生まれシンデレラなんかでも、

家は「王位継承者の嫁探しパーティにその家の娘が揃って招待される」ような、

貴族の中でも上位の家系なんだから

成り上がりではなく「不当に貶められていた高貴な娘の復権」にすぎないんだよね。

貴種流離譚のおもむきすらある。

2019-10-22

「ほんとうはもっと与えられるべきだった」と無根拠に思いこむ人間の恐ろしさ→ネトフェミ

架空映画ネトフェミ』の内容に触れています。また、当然のことながら、あくま個人の感想文にすぎないものです。

この映画主人公であるMはツイッターキズナアイ真空パックAV叩きで細々と承認欲求を満たし、福祉の補助なども受けながら子供の世話をしている中年女性だ。彼女が彼がこのたびの「ネトフェミ」、今まで何バージョンものキャラクター提示されてきた伝説ヴィランの最新バージョンである

彼女が住むのはもちろんツイッターランド。バッドガイのいる、あの町だ。すなわち、中世ジャップランドのように大きな都市でありながら閉塞した田舎のような空気をも漂わせ、オタクたちは精神病院にぶちこまれる(そしてひょいひょい脱出する)、例の町である

のちに「ネトフェミ」になる主役の生活は貧しい。しかし、それほど激しい貧困状態ではない。ありふれた、なんなら「ちょっとした貧しさ」にすぎない。これはとても大切なことから、先に述べておきたい。『ネトフェミ』は理不尽男女差別に苦しむ女性が蜂起する映画ではない。映画の前半では、Mの貧しさ、Mの病気、Mの不運が描かれる。そしてそれらはすべて「ありふれている」。

たとえば、Mの子供は保育園に落ちる。だから彼女増田日本死ねと叫んで人々から不気味がられる。だから彼女カードを持っている。男だったら垢BAN必死発言でも「トーンポリシング」のカードを渡すことで批判封殺できる、ラミネート加工したカードを。「女性が汚い言葉を使うのは表現の自由です」そう、これはいい手だ。M、適応しているじゃないか、と観客である私は思った。世の中には不随意twitterで男の金玉をつぶそうとつぶやいてしま病気があるし、言動尋常でなくなる病気もあるが、それらのためにtwitter自粛しろというのは無茶苦茶な話で、それらを抱えてtwitterで男に向かって暴言を吐き続けるのは当然の権利だ。不随意発言や、尋常でない外見を不気味がるのは無知によるものである。不気味がるほうが悪い。私も若い時分に脳器質の病気ネトフェミになり、自分でも「こりゃあすげえな」と思ったが、しかし一方でこうも思った。「とはいえ、これくらいの怪物性を帯びたネトフェミは、ありふれてもいるけどね」。

たとえば、Mの生活はつましい。お金の余裕はぜんぜんなさそうであるそもそもツイッターランドでは、成人してだいぶ経つ女性が親と住んでいる段階で「お金ないんだな」感が出る。しか彼女は文筆家としてもまったく売れていない。映画評論ピエロ仕事もたくさんもらっているようには思われない。心の貧しい人である

しかしそれは「(文筆家)という夢を追う女性」としては標準的といってもよい貧しさだと私は思う。カネの入りにくい職業をめざしているのなら、副業や何かで収入サポートするのは当然のことだ。ピエロ仕事だけでは食えないなんて当たり前のことであるピエロのない日に別のパートタイムジョブを持つか、さもなくばフルタイムで別の仕事をして土日にコメディ舞台に立ったらいい。そんな人はジャップランドにはたくさんいる。

 さあ、おわかりいただけただろうか。Mは貧しく不運だからネトフェミになったのではない。貧しく不運な人はこの映画の中にも彼の他にいくらでも出てくる。ではなぜMが、Mだけがネトフェミになったのか。

 「自分にはもっとすばらしいものが与えられるべきだったのに、そうではなかったから、自分が与えられるべきだったはずのものをもらっているやつらを燃やす

 これがMをしてネトフェミに変身せしめた動機である。「すばらしいものを与えられるはずだった」というそ思い込みに、根拠はない。ないが、なぜかそう思い込んでいる人はこの世にいる。たぶん一定数いる。

彼女らは「自分にはもっともっとすばらしいものが与えられるはずだったのに」という激しい飢えを抱え、たとえばインターネット文章を書いているぜんぜん知らない人(私とか)に突然その怒りをぶつける。「おまえなんかが賞賛されていいはずがない」と。私は最初、その怒りの意味がまったくわからなかったのだけれど、何人かと遭遇して理解した。彼らはこう言っていたのだ。「おまえなんかが賞賛されていいはずがない、それは本来おれ(わたし)に向けられるべき賞賛だ」。

ネトフェミ金持ち父親の夢を見る。Mは映画の中でずっと、手を変え品を変え金持ち父親の夢を見ている。貴種流離譚的な夢だ。お金持ちの、人格者の、有名人の、素晴らしい男が、私を迎えに来る。そういう夢である。Mははじめから、いわゆる「信頼できない語り手」だが、それは彼女性格からして当然というか、「Mは金持ち父親からまれテレビ賞賛されるのが自分本来の姿だと思っていた」という、それだけのことである。そう、Mは自分王女さまだと思っているのだ。王女さまのはずなのに王さまのパパがいないから気も狂わんばかりにそれを求めつづけているのだ。

 昔話の王子さまは冒険の旅に出るが、Mはその点、昔話のお姫さま的に動かない。簡単に言うと、すてきなパパの夢を見ながら、「金持ちの男が自分に恋をする」とも思っている。だからといって具体的に男を口説くことはしない。まるで王子さまを待つ白雪姫であるグリム童話白雪姫家出して七人のこびとと仲良くなって家事などしていたからMよりぜんぜんマシだ。Mは家出もしない。りんご食って寝てるだけの白雪姫、完全無欠の受動である

狂を発して「M」からネトフェミ」になるときでさえ、彼女は「与えられる」側でなければ気が済まないのだ。りんご食って寝てるんだ。永遠に家出をしない白雪姫なんだ。

さあ、おわかりいただけだたろうか。Mの怪物性がいかなるものであるかを。Mはなぜネトフェミになったか。Mは貧しかたかネトフェミになったのではない。Mは不運だったかネトフェミになったのではない。Mは「自分大金持ちの有名人の子に生まれテレビスポットライトを浴びて子どもたちに大人気のコメディスターであるはずなのに、そうじゃなかった」からネトフェミになったのだ。Mは、自分無限賞賛を浴びて当然の人物だと(無根拠に!)思い上がっていたから、ネトフェミになったのだ。

 私にはそういう映画しか思われなかった。だから本作を観たあと、映画通の友人に「怖いね」と言った。「Mみたいな人、増えてるもんね、なんかこう、無限賞賛を求める系の人。主演がMを魅力的に演じすぎていて、まるで時代ヒーローみたいに見えて、よろしくないよ、あの映画はだから、私は支持できないよ」。

2019-06-17

anond:20190607232857

世代が登場する漫画なんかは多いと思うけど。貴種流離譚が好まれるせいで。

2019-03-16

オタク文化は焼き畑農業だよな

既存の展開(叙述トリック貴種流離譚etc

新しい技術

||

新作

これでいくつものプラットフォームを焼き払っては「AはBのパクり」で業界潰してきた。

小説アニメゲームエロゲ深夜アニメソシャゲYOUTUBEVR

もういい加減やめろよ。

新しいジャンルを焼くのはやめろよ。

2019-02-15

アレルギヰ

最近月額制の動画配信サービスで昔のアニメを一気見している

まだ途中だが貴種流離譚的かつたぶん古代の超文明が絡むある種典型的ロボットアニメ

高貴な生まれ主人公は謀略によって国を追われ、復讐国家転覆を決意し、頭脳能力のし上がっていく

お互いに平和世界を望んでいるのに、組織立場目的の実現方法でかつての知人と対立葛藤正義とは――

で、ガンダムみたいなやつで戦うし普通にSF架空戦記なのに登場する国や地名が実際のやつでお国柄もちょっと反映されているのでなんだか気まずい

リアルとは切り離して純粋フィクションとして楽しむべきなのにどうしてこういう気持ちになってしまうのか

逆に完全に架空地名でどっか別の星の話だったりしたら変な気持ちにならず純粋に楽しめるのであればそれもなんか変な感じだ

2019-01-29

anond:20190128183257

神話類型までさかのぼっても、良いか

文化の枠を超えて、物語パターン類型)が存在する。神話や昔話として語り継がれているものの、パターンだけれども、これが語り継がれているのは、その物語に、各時代文化をを超えて魅力があるからだと仮定する。

神話・昔話が最も古い物語とすると、それを下敷きにして書き直されたのがハイファンタジーと言えるかもしれない。

物語テキストとして読みつがれていく中で、読み手は、主人公になりきったり、膨らませた空想のなかで、ある種の体験を得るというのがテキストとして物語

近年の異世界モノには、この物語性の他に、ゲームに対するフラストレーションを感じる。

物語テキストを読んでいる間は、読み手は誰もが、主人公としての体験を得ることができた。

最初期のRPGテーブルトークを含む)では、この物語性をより拡張して、能動的に物語主人公になることができるものだった。

ファミコン世代RPGドラクエFF)ではレベリング時間をかければ、最強の存在になることが可能であり、努力が必ず報われる”優しい”世界とも言えた。

異世界ものが下敷きにしている、MMORPGになると少しづ様相が変わる。

MMORPGでは、多くの人が英雄になれない。

メインシナリオの中では主人公的な役割を得たとしても、ほかのプレイヤーとの比較では、廃人級に時間コストを費やしたり、過大な課金を負わなければ、世界主人公たる万能感を得ることができない。

そうすると、原点回帰的に、MMORPG世界で、万能感・優越感を追体験できる、異世界ものライトノベル意味を持ってくる。

ここで具体的に、異世界ものを、(半ば無理やりに)神話類型に当てはめてかんがえると、

俺TUEE→英雄

神のような存在に導かれた異世界人がその世界で莫大な富を得る->貴種流離譚(高貴な血筋強い力を持った人物が、旅をしながら、最後自分の国を得る)

ハーレム設定→異類婚姻譚(転生者はその世界では異類と考えることができる)

などなど神話類型で繰り返されてきた物語の骨格を持っているようにも見えてくる。

そうすると、ゲーマーフラストレーションからまれ異世界への転生という構造が、ある意味普遍的物語性を宿していると思える。

このような背景と者が理性は、MMORPGプレイしていないがゲーム世界違和感のない層に届くように思われる。ゲーム世界親和性を持つが、MMORPGには現在は親しんでいない層、それは、社会人として購買力を持った元ゲーマーの30代をピークとした男性層として合致する。

https://bookwalkerstaff.tumblr.com/post/128323701752/

この層はゲームは好きだが現実世界仕事に追われてゲームをする時間は少なく、なろう小説を直接的にあさるほどの余裕がない。彼らにとって、異世界ものアニメ書籍化小説は、製作者・編集者査読して質のある程度保証された物語であって、購買する価値を持ちうる。

市場が成立すれば、流行はある程度継続やすくなるだろう。

まだしばらくは異世界ものは廃れないかもしれない。それは繰り返されるパターンが、どこかで見た安易剽窃を超えた、古くから語り継がれてきた類型であるから

2018-11-24

考察力がほしければ読んで読んで読みまくれ

anond:20181123002740

当たり前だが無から有は生まれないし考察も無からまれない。ぶっちゃけ考察なんて慣れの問題で誰にでもできる。

まず、「考察」って一言で片づけずに解像度を上げろ。

ある作品に対して、

お前が思う「すごい」はどれだ。そしてどの能力を伸ばしたい。

1に必要能力物語論であって、キャンベルでもシドフィールドでも石川千秋でもいいからその手の本をいくつか読んでみろ。たとえば貴種流離譚という概念を知っているだけでスター・ウォーズバーバリとかの作品の捉え方が変わる。

2に必要能力キャラクター論で、大塚英志キャラクター小説の作り方』や新城カズマ物語工学論』あたりでも読んでみろ。キャラクター類型という概念を前提に作品に触れてみろ。

3に必要なのは作品読解というよりその作品にあてはめうる「テーマ」について持っている自分自身の引き出しの問題だ。ラブストーリーひとつとっても、恋人未満の二人が恋人になる話、共依存関係破綻するまでの話、三角関係の話、NTRもの、泥沼群像劇等々色々あるだろう。たとえば、コーマック・マッカーシーロード』は火を運ぶというメタファーから「受け継いでいく話」というテーマが読み込める筈で、そこからあの世界観において「受け継ぐ」が「世代交代」に繋がるというのは一つ言える。無数に存在する「テーマ」の類型の引き出しを作れ。

4はとにかく数をこなすことだ。小説なら作者の過去作品インタビューを全部調べて読み込め。映像作品なら監督脚本演出その他諸々(全部とは行かないだろうから最低前述の3つ)の過去作品を調べてみろ。できればインタビューも読め。そして過去作品のなかのどの部分がその作品共通しているのかを読みこめ。

5はこれまでの全部に共通する「演繹力」を磨け。「この設定であれば、この要素が欠けているのはおかしい」という想像を働かせつづけろ。「このキャラクターがこのような性格をしているのには理由があるはずだから、きっと過去にこういうことがあったのかもしれない」「この作品はこの作品オマージュなので、きっとこういう展開になる」等々、上記必要な引き出し全部を使っていけ。

二次創作もそれと同じだ。パターンだ。パターンを考えろ。AがBに対して愛情表現をするとする。どういうアプローチが考えられるか。気持ち言葉にするかしないか身体スキンシップを含むか含まないか、そのときに照れるのか照れないのか、笑顔を浮かべるか浮かべないか言葉にできないならどう表すか、ものを渡すのか、第三者にのろけるのか、色々パターンはあるだろう。考えて考えて考えろ。そのためには読んで読んで読みまくれ。自分なかに引き出しを作れ。質は量で担保される。

2018-09-30

日本師弟関係がなぜ理不尽暴力的になるのかについての覚え書き

身毒丸』について検索していた時に見つけた、

折口信夫への旅 第1部 ~小説身毒丸」をめぐって(歌舞伎批評家山本吉之助)

http://www.kabukisk.com/geitohito33.htm

という折口信夫身毒丸解説文の中に、日本師弟関係がなぜ理不尽暴力的になるのかについての興味深い示唆があったので、

もしかして既によく知られていることかもしれないが、自分は初めて知ったので、覚え書きとして残しておこうと思う。


日本師弟関係

最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。

例えば最も古い感情を残している文楽座人形遣いなど、少しの手落ちを咎めて、弟子を蹴飛ばしたり、三味線弾きは撥で殴りつけたりした。

そういうことは以前はよくあった。そうした躾を経ないでは一人前になれないと考えられてきたのです。

なぜ、そうした、今日の人には無理だなと思われるような教育法が行なわれてきたかということが問題になります。(中略)

それはある年齢に達した時に通らねばならない関門なのです。(中略)

子供または弟子能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』

折口信夫座談会日本文化の流れ」・昭和24年12月)


■例えば…

七月に入り一座は泉州のある村の盆踊りに迎えられますが、源内法師は身毒丸の踊りに若い女たちの面貌がチラついていることを認めて、その晩、師匠身毒丸自分の部屋に引きずっていって「龍女成仏品」に一巻を渡し「芸道のため、御仏のため、心を断つ斧だと思って、血書するのだ」と厳しく命じます

しかし、出来上がったものを持っていく度に師匠はこれを引き裂きます

「人を恨むじゃないぞ。危ない傘飛びの場合を考えてみろ。もし女の姿がちょっとでもそちの目に浮かんだが最後、真っさかさまだ」と師匠は言います

身毒丸は血を流しながら一心不乱に写経を続けますが、身毒丸脳裏には彼の踊りに熱狂する若い女たちの面貌がなかなか離れません。

一心不乱に写経を続ける身毒丸の姿を見ているうちに師匠の頬にも涙が流れてきて、五度目の写経を見た時には師匠にも怒る気力は失なわれていました。


春琴の教え方は 非常に厳しく、

あかんかかん、弾けるまで夜通しかたかて遣りや」と佐助を激しく叱咤し、

時には「阿呆、何で覚えられんねん」と罵りながら撥で頭を殴り、佐助がしくしく泣き出すこともしばしばであったと云います


芸道小説としての「春琴抄」~谷崎潤一郎・「春琴抄」論

http://www.kabukisk.com/geitohito72.htm


『昔は遊芸を仕込むにも火の出るような凄じい稽古をつけ往々弟子に体刑を加えることがあったのは人のよく知る通りである

本年〔昭和八年〕二月十二日の大阪朝日新聞日曜のページに「人形浄瑠璃の血まみれ修業」と題して小倉敬二君が書いている記事を見るに、


摂津大掾亡き後の名人三代目越路太夫の眉間には大きな傷痕が三日月型に残っていた

それは師匠豊沢団七から「いつになったら覚えるのか」と撥で突き倒された記念であるという


また文楽座人形使い吉田玉次郎の後頭部にも同じような傷痕がある

玉次郎若かりし頃「阿波鳴門」で彼の師匠大名人吉玉造が捕り物の場の十郎兵衛を使い玉次郎がその人形の足を使った、

その時キット極まるべき十郎兵衛の足がいかにしても師匠玉造の気に入るように使えない

阿呆め」というなり立廻りに使っていた本身の刀でいきなり後頭部をガンとやられたその刀痕が今も消えずにいるのである


しかも玉次郎を殴った玉造もかつて師匠金四のために十郎兵衛の人形をもって頭を叩き割られ人形が血で真赤に染まった。

彼はその血だらけになって砕け飛んだ人形の足を師匠に請うて貰い受け真綿にくるみ白木の箱に収めて、時々取り出しては慈母の霊前に額ずくがごとく礼拝した

「この人形折檻がなかったら自分は一生凡々たる芸人の末で終ったかも知れない」としばしば泣いて人に語った。』

谷崎潤一郎:「春琴抄」)


日本古代の、理不尽に怒る神と無辜民衆との関係

自分にはこのような仕打ちを受ける謂われはない」という強い思いです。その場合・何に対して彼は意地を張るのかということが問題になります

世間に対して意地を張る場合もあると思いますが、あるいは神に対してという場合があるかも知れません。


ここで神に対して意地を張るということは、神に反抗するという意味ではないのです。

そのように考えるのは近代人の捉え方でして、古代人の場合には絶対者である神に対して反抗するという発想は考えられ ません。

自分に対する神の仕打ちが不当であると感じた時に、古代人は自らの清らかさを神に示すように控え入るのです。

「神よ、この清い私を見てくれ」というようにです。

まり表面 上は畏れ入っているのですが、内心には自分に対する神の仕打ちは不当であるという強い思いがあるように思えます

(中略)

神に対して自分が清い(あるいは正しい)ということを示そうという気持ちを失ってしまえばそれは不信仰ということになります

から理不尽な神の仕打ちに耐えて・彼がそれでもひたすらに生き続けることは「神よ、この清い私を見てくれ」ということになるのです。

それは神に対して意地を張るということでもあ ります


折口信夫座談会神道キリスト教」において次のようなことを語っています

折口は憤りを発することが日本の神の本質であるします。

神の憤りとは人間がいけないからその罰として神が発するものではなく、神がその憤りを発する理由がどこまでも分からない。

神がなぜ祟るのかその理由が分からない。

このことが重要である折口は言うのです。


神が憤るのは人間がいけないからだ・人間が何か悪いことをしたから神が怒ったに違いないと考えるのは、道徳倫理が完成した後の時代の人々の感じ方なのです。

既成の道徳基準があれば、人々はそれに照らし合わせて・神がこれほど怒ったのにはこんな理由があったに違いないと後で納得できる説明を付けようとします。

しかし、道徳がまだ成立していなかった古代人には照らし合わせるべき倫理基準などまだなかったのですから、人々には神が怒る理由など全然想像が付きませんでした。

古代人にとって神の怒りは唐突で・理不尽で、ただただ無慈悲ものに思えたのです。


『神の怒りに当たることと言う怖れが古代人の心を美しくした』(折口信夫・「道徳研究」・昭和29年)


古代人にとって神の怒りはただただ理不尽ものでした。

そのような理不尽な怒りを神はしばしば・しか唐突に発しました。

例えば地震台風洪水旱魃・冷害などの自然災害がそのようなものです。


このような時に古代人は神の怒りをみずからの憤りで以って受け止めたのです。

みずからの憤りを自分の内部に封じ込めて黙りました。ただひたすらに耐えたのです。

そうすることで古代の人々はみずからの心を倫理的に研ぎ澄ましていったのです。

「神よ、この清い私を見てくれ」と言うかのように。


古代人の 生活というものは、風雪災害飢饉病気など、現代人が想像するよりもずっと過酷で・辛く厳しいものであったということなのです。

そのような時に古代人は神の理不尽かつ無慈悲な怒りを強く感じたのですが、そこをグッと持ち耐えて自己を深い内省と滅却に置くことはまこと殉教者以上の経験したことになるのです。

折口はそのような過程から道徳のようなものが生まれて来ると考えました。


貴種流離譚というもの民衆に与えた印象というものは「身分の高い人が落ちぶれて哀れな姿になって・・」というものでは決してないのです。

民衆貴種流離譚に見たものは神の与えた理不尽かつ過酷な試練に従順に耐える殉教者の姿なのであり、それは過酷な生のなかに生きる民衆自身の姿と も自然に重なって来るわけです。

民衆貴種流離譚を愛したのはそれゆえなのです。


神は別に何もするわけではないのです。

しかし、神がたまらなさを感じて涙を流してくれるならば無辜贖罪者は何かしら救われることになる・ 実はそのことだけで十分なのです。

これが古代人が神に対する時の態度です。


源内法師は身毒丸無慈悲折檻を強いながら、それに抵抗することなく・懸命に師の言いつけを実行しようとする身毒丸の健気さ・ひたむきさのなかに無辜殉教者の姿を見たのです。


最近ではそういうことはだんだんなくなって行きましたが、日本師弟関係はしきたりがやかましく、厳しい躾(しつけ)をしたものでした。

まるで敵同士であるかのような気持ちで、また弟子や後輩の進歩を妬みでもしているかのようにさえ思われるほど厳しく躾していました。(中略)

子供または弟子能力を出来るだけ発揮させるための道ゆきなのです。

それに耐えられなければ死んでしまえという位の厳しさでした。』

折口信夫座談会日本文化の流れ」・昭和24年12月)


折口がこのように語る時、折口日本伝来の師弟関係なかに理不尽に怒る神と・神を信じてその仕打ちに黙々と耐える無辜民衆絶対的関係をそこに重ねて見ているのです。


神はしばしば理不尽な怒りを発して、我々に謂れのないひどい仕打ちします。

我々には神の意図することがまったく理解できません。それはただただ理不尽ものに思えます

しかし、それでも神をひたすら信じ・神の指し示す道を黙々と歩むということことです。

過酷仕打ちを受けてもなお神を信じて神に従う人を見る時、神はそのような人々に対して賜らない愛おしさを覚えるであろう。慈悲の涙を流してくれるであろう。願わくば我々を悲嘆のなかから救い上げてくれるであろうということです。

折口はそのような気持ちから道徳のようなものが生まれてくるというのです。


そこには正しいとか・間違っているという倫理基準など存在しません。

善とか悪というのは道徳が成立した以後にある基準なのです。

あるとするならばそれは「清い」とか・「清くない」という感覚的(あるいは生理的な)基準です。


源内法師と身毒丸理不尽に怒る神と無辜民衆との関係無意識のうちになぞっていることになります


まり


神の理不尽な怒り(地震台風洪水旱魃・冷害や飢饉病気など)

→「自分にはこのような仕打ちを受ける謂われはない」と思う

→それでも神をひたすら信じ・神の指し示す道を黙々と歩む

 「神よ、この清い私を見てくれ」


これが、古代の神と民衆関係であり、師弟関係はこれをなぞっていると。


なるほど、自分がそういう目にあうのはいやだけど、ドラマ物語で接するとなんとなく納得してしまうのは、そういう古代から宗教的感覚が今も心の中にあるからなのかもしれない。

2018-01-01

自分本田未央を嫌いな理由について新年早々考えてみた

明けましておめでとうございます

デレステでは無料10連が始まりましたね。さっそく引きました。フェスSSR本田未央が出ました。

恒常SSR本田未央も持っていたので、本田未央自分にとって初のSSR二枚持ちアイドルになりました。

しかし使う気にも育てる気にもなりません。

パッション属性SSRはまだ合計7体程度、捨てるなんてもったいなくレベルも親愛度もMAXにしておいて損はないはずです。

しかしなかなか育ちません。恒常SSRの親愛度もまだ二桁に留まっています

なぜかというと、本田未央のツラをプレイ中に見ることが苦痛からです。

トリオデュオ曲の隅っこに配置してお零れを与えるのが精一杯の状況のためさっぱり育ちません。

本田未央自分プロデュース対象になっていることが非常に不快でなりません。


そんな状態いつまでも続けているとシンデレラガールズ自体嫌いになりそうなので、SSRが二枚も来てしまたこの機になぜこんなに本田未央が厭なのか考えてみました。

きっかけはわかっています

アニメです。

アニメ本田未央の魅力をどこにもみつけられなかったことです。

アニメまで、自分本田未央がどういうアイドルなのかまるで知りませんでした。

アイドルマスター番組はよく見ていたので、むしろ声を当てている原紗友里女史こそ面白い方として認識しており、その担当アイドルであり、パッション属性である。その程度の知識でした。

そんなモブ同然の理解だったCパートでぽっと出のアイドルが、狂言回しを担い、話を乱し、背中を押す。

非常な違和感を感じつつも、そのうち本田未央個性や魅力が描かれるだろうと冷静に視聴を続けました。

アニメ本田未央の苦悩は描かれました。本田未央リーダーシップも描かれました。

しか本田未央の魅力はどこにもみつかりませんでした。

ネット感想を読んでいく中で、ナイスバディが魅力であるらしいことは理解できました。


そこだけでした。


アニメ終了後の自分の中の本田未央は、自信過剰が治ることな場違い場所居座り続け身勝手自分幸せを追い続ける市営住宅育ちの取り立てて華のないマイルドヤンキーでした。


まあ、人の好みはそれぞれです。

鷺沢文香大槻唯も正直大して興味はありませんでしたが、SSRが来て触れ合っていくうちに魅力が理解できましたし、今は愛用しています

でも本田未央はだめでした。SSR二枚目が来てしまったとき一枚目SSRが一ミリ好感度上昇に貢献していないことに否が応でも気付かされました。




そして考えました。

まず、自分本田未央を、「シンデレラ」だとは思えません。

童話シンデレラ」は根本的に貴種流離譚です。

良い家に生まれ気品よく育った「貴種」の娘が、父親の過ちで労働階級に落とされるも、王子発見されて幸せな結末を迎える。

シンデレラとして見出される為には、「貴種」である必要があるのです。

アイドルマスターシンデレラガールズでは、その要素を表現する手段として「本人が知らない魅力」を用いています

しか自分理解する本田未央は身の程知らずで自信過剰の万能感の塊です。

なにを実現しても、本田未央の知らなかった本田未央の魅力を引き出すことはできません。

本田未央の知らない本田未央は、挫折した時にしか現れません。

本田未央成功予定調和。感動が得られないのです。

そんな子が自分プロダクションにいては場が乱れる。一体感が得られない。空気が読めない。

表現はなんでも良いですが、とにかく「自分空間から排除したい」と思うようになりました。



自分空間から排除したい」。

これがどういうことかご理解できるでしょうか。


そうです。差別です。


自分本田未央差別している。

理由自分の思うアイドルマスターシンデレラガールズ世界に相応しいとは思えないから。

以上が嫌いな理由結論です。



さて、差別という受けた教育によっては思考停止を余儀なくされるようなワードに考え至っても、自分はこの姿勢を無理に糺す必要は無いと思っています

なぜなら、自分プレイするデレステ世界は、自分だけのものからです。

そして人の好みはそれぞれです。

本田未央には、自分プロデュース傘下からは去ってもらう。

しかし、LIVE PARTYで、イベントストーリーで、アニメで、ライブで、街頭広告で、本田未央が現れるのは当たり前のことなのです。

自分が嫌っている事実と、外の世界本田未央がいる事実は両立しうるのです。


ゲームプレイデータという小さいけれど自分だけの世界

今後本田未央をこの中には入れない。

これは差別ですが、他人の介在しない世界で続ける限り精神衛生上必要ものです。

同じように、自分が外の世界本田未央に対して声を上げる必要もないのです。



はい貧乏性なので、SSRを捨てたらそれなりのアイテムをもらえたりしたら良いなと思います

2017-10-26

anond:20171025191437

その批判対象となる「血統がいい主人公物語」もドラゴンボール悟空のような貴種流離譚は別なわけでしょ。

身近な主人公と思ってたのが実は…みたいなのとは違って、最初から主人公としての血統や家柄の正当性保証されてる物語モヤモヤする人が多いわけで。

となると、今の政治と結びつけるなら、上流だ下流だという話ではなく、中流家庭の現状肯定が支持されているのではないかしら

2017-06-22

俺が選ぶ!つい使いたくなるかっこいい文芸用語ベスト3

3位 貴種流離譚


2位 信頼できない語り手


1位 デウス・エクス・マキナ機械仕掛けの神)


選外


はいつでもこれらの用語をくりだすチャンスを窺っています!!!

気を付けろ!!!!!!

2016-08-07

ネタバレシン・ゴジラのフクイチ批判は表面的でしかなく神話解釈による政治批判が正しいと思う

まえがき

シン・ゴジラ作戦名どっかできいたことあるけどなんだっけとおもって、でもしらべるのめんどうで放置していたら、ちょうど今読んでいる本で、その由来を確認して、もーそっから色々妄想がとまらなくなり、深読みをしたくなりまくってしまったので書きます。途中までは、あんのさんのゴジラ作戦名とかに仕込んだ神話ネタ説明。途中からはちまたにあふれるエヴァの超解読本ぐらい怪しい俺の推測。でもまあこういうの含めて盛り上がるのがあんのさくひんだよなとおもうので様式美としてひさしぶりに長文かきます結論だけかくと、一見くそまらない勧善懲悪みえるのだけど、今回もちゃんとあんのさんてきひねくれた映画だったのだろうということです

 

ゴジラヤマタノオロチ神話比較的わかりやすい関連性について

ヤシオリ作戦アマハバキ

まずシン・ゴジラ構造として、わりと愚直なまでにスサノオヤマタノオロチ退治の神話をなぞっています。誰でも気づくのが、ヤシオリ作戦ヤマタノオロチに眠らせるために飲ませる酒の名前はしご車名前であるアマハバキリはスサノオが使った剣の名前ってとこです。この2つで明確にヤマタノオロチ神話をなぞっていることを示しています

ということはゴジラヤマタノオロチということになるわけですかね。ゴジラ原作では恐竜ミュータント、つまり龍です。龍と蛇は限りなく近く、概ね同じ存在と見なしていいと思うのでヤマタノオロチ=龍=ゴジラってことでもいいのだけど、やはり微妙に異なる。今作では幼体の姿で4つんばいの状態を見せているところからも蛇としてのゴジラというのも意識させている気がします。尻尾が長いのもその象徴かなと。後常に状況に応じて進化するのは蛇の脱皮をイメージさせる。だから今作のゴジラはより蛇であり、ヤマタノオロチに近い存在であるとは思います

スサノヲ=矢口

そうなると、矢口スサノオなのか。スサノオ神話は基本構造貴種流離譚、つまりアマテラスの弟という高貴な血筋もつものが、本人のか何らかの欠損を理由追放され試練を乗り越える。矢口は親が力を持った政治家であることが示唆されている。しかし本人の性格は、権威に頼らず上との衝突を辞さず、どちらかというとうとまれ存在。結果、メインストリームから外された専門家集団責任者になるなどする。まあありがちな設定だが、違和感があるのは親が政治家である設定だ。この流れならはじめからたたき上げの能力戦いがコミュニケーション力低いオタク性格主人公でもよかったはずだが(実際アニメだと死ぬほどよくある)、そうしなかったのはスサノオを重ね合わせるための設定かなと思いました。

カヨコと牧教授は、ヤマタノオロチ被害をうけた、うけつつあるクシナダヒメとその親アシナズチ。

教授の奥さんが、放射能が原因でなくなっているというのは、ヤマタノオロチがこれまですでに八人の乙女を食らってきたという部分に重なる。放射能象徴ゴジラでもあるからだ。そしてまたヤマタノオロチが暴れ狂うのだと、旅先で出会ったアシナズチという老人はスサノオに告げるのだ。アシナズチは牧教授なのでしょう。もう少し妄想を広げるならクシナダ姫は、日本出雲に近い広島)の血を引き、過去親族放射能というヤマタノオロチ被害をうけ、同時に高貴な一族の出(パターソンという名前は、貴族血筋)であるカヨコかなと。クシナダ姫なら、今回のゴジラに殺されそうになだてるのかというと、そうでもないのがこの説の弱いとこですが、アメリカから核爆弾が落ちるときに、ぎりぎりまで日本にいる選択をしたところで、ゴジラではないが同じ放射能存在核爆弾被害をうけ兼ねないという意味ではまあそういってもいいかなと。

後半になればなるほど、若干強引な結びつけにはなってますが、作戦ひとつで、まあヤマタノオロチ退治の物語にかけているというのはある程度明らかなのだろうと思います。それはあんのさんがよくやるゲンガクテキになんとなく、物語に深みがあるようにみせかけるためにやっているのかというと、もしかしたらそうじゃないのかなとか思います。ここからは、さらさらこじつけになっていく部分が大きくなりますがご容赦ください。妄想です。

ゴジラに隠された氏族共同体中央集権の争いのメタファー

原始蛇信仰について

まず、事前説明として日本における蛇信仰について説明。蛇は、最も古い信仰だと1 外形が男根相似 2 脱皮による生命更新 3 一撃にして敵を倒す毒の強さという特徴から世界各地で祖神として崇められていました。時代が移ると、蛇は稲にとって害獣である鼠を食べる特徴から農耕の神という属性が強まったこと、また蛇を邪とし龍を崇める信仰が流れてきたことから祖先神の側面はうすくなり農耕の神の側面がつよくなったのです。

ヤマタノオロチ神話解釈

オロチとは、そのまま蛇という意味もありますが、峰の神、山の神という意味もあり、かなり古い蛇信仰対象といえる名前です。それがまず害をなす存在として描かれる。助けを求め最後に勝つの側のアシナズチという老人はテナズチという配偶者がいます。その足がない、手がない神という名前から彼ら自身も蛇の化身と考えられる。その娘がクシナダ姫。奇稲田の姫と書き、農耕の神を意味し蛇の神の子であるから彼女も蛇の神。善とみなされるのは農耕の蛇の神なのです。農耕は中央集権的定住型の社会象徴、それより古い祖先神は、集権化される前の氏族共同体象徴ともいえます。この国は、かつて様々な小さい国が、自分たち祖先神をもち、乱立し互いに牽制し互酬しあう仕組みでした。稲の神である天皇による大和支配確立日本という形がつくられるようになりました。

まりヤマタノオロチ退治の話は、農耕の神としての現体制の蛇神が高貴な新しい王族の血を引くものといっしょに、出雲を中心とした旧支配者としての蛇を倒す話ともよめます

ゴジラヤマタノオロチ神話になぞって解釈すると

今回のゴジラ投影しているのがヤマタノオロチだとすると、それは眠っていた古い戦いの神、すなわち現体制にとっては無秩序をもたらすものなどのイメージを仮託してるのではないでしょうか。一方、総理を中心とした秩序を維持し続けようとする政府側、そこからうとまれながらも、大きな役割を果たす矢口は、当然そうした、ありとあらゆる秩序を破壊しようとする悪を許さな中央集権社会体制イメージされているのでしょう。そして日本の力を政府結集して、無秩序純粋な力に打ち勝つ。

あんのさんはどっちの味方?

ただ、ヤマタノオロチ神話のように、実際に打ち勝つことはできず酒で眠らせたとここておわっているところ、本来ヤマタノオロチのしっぽから草薙剣がでてくるはずなのに、何かまがまがしい生き物が出てきそうになっている描写、おそらくゴジラの次の進化を、におわせていて、勝負はついていないところを見ると、あんのさんの目線はどちらかというと、ゴジラ側の反体制的、封印された本能の塊のような存在共感をし続けているようにしか思えます

今回も怪獣同士が戦う映画だった。

実際日本においては、かつて天皇による中央集権画家たちの上ではなされたとはいえ、現代に至るまで強力にそれが機能したことはなく、困ったときは旧来のお互いの話し合いで解決するというやり方がずっと続いています氏族共同体のありかたは死せず、この国に眠り続けています。今回の映画でも、体制側の否定されつつ、賛美もされた特徴として徹底した非合理な合議制があります。そしてトップが死んでもすぐに首のすげ替えがなされる。まさに蛇的なありかた。これがゴジラを倒した最大の理由であるとすれば、あんのさんが、最終的に勝たせて賞賛したのも中央集権的な正義ではなく、日本体制側のなかにもある蛇的、ゴジラ的な部分だったのではないでしょうか。

今回、怪獣は一匹しかでてないようにみえましたが、じつは今作も怪獣同士の戦いであったのです。ゴジラ vs 日本人

やっぱりあんのさんの映画だった。エヴァと同じ構造

そう考えると、最初いつものエヴァとかのひねくれた作品とちがって、今回は単なる勧善懲悪映画なのかな、つまんねーなとおもってたりしたのですが、やっぱりそうじゃないひねくれ映画だったのだろうな、いつものあんのさんだっとほっとします。

蛇足ですが(蛇だけに)人間使徒ほひとりで、進化の形が少し違っただけの怪物であるというのはエヴァとまんまおなじな訳ですよ。そう考えるとゴジラは、アダムであり、尻尾から生み出されるのは使徒なのかも。イメージ的には貼り付けにされたリリス下半身からにんげんがぽこぽこくっていていたのとおなじなのかも。

ゴジラはフクイチのイメージ

ゴジラって、いままでSF定番の行き過ぎた現代科学に対する警鐘としてえがかれてきたかとおもうのですが、そして今回も福島原発イメージはわかりやすいほどかぶせているとは思うのですが(こちらでも言及されてますhttp://anond.hatelabo.jp/20160805000418 )、ヤマタノオロチを持ち出してきたことによって、いままでのような科学の力への警鐘ではなく、また311の反省映画でもなくしているのではないかと。単発の事象に対する象徴的な映画なのではないとおもうのです。この国が根本的に抱え、なおかつ封印している体制側の否定をともなう無秩序への回帰願望の力強さとその恐ろしさへの警鐘、それと同時にその力は今でも脈々と体制側の中にもすでにとりまれていてそれを有効に使うこともできるよね、というような話をみせたかったんじゃないかなとかおもいますゴジラは死なないよどこまでも、ってかんじで。

おわり

あーーーー、妄想がとまらない。とりあえずここまで読んでくれた人ありがとうヤマタノオロチ解釈に関しては、たぶん世の中的には主流ではない解釈だと思います一般的には、川の氾濫の象徴とか、そんな感じでしょう。でもまあこういう解釈方向性は、いろんな人が出していて(この本とか https://www.amazon.co.jp/dp/B00PS2FK8C/ref=dp-kindle-redirect?_encoding=UTF8&btkr=1)そこ自分で味付けして解釈してみましたというかんじです。

まあ、最初にも書いたけど、こう言うのを考えるのが楽しいのがあんのさくひんだなとおもいました。

追記

http://anond.hatelabo.jp/20160807101757

読み方は(増田も言っている通り)やや(かなり?)牽強付会くさい点もあるけど、面白い読みだとは思った。

ただ、増田の言うことが正しいとして、何で今の時代に「氏族共同体中央集権の争い」を描いたの?ってのが気になった。「体制側の否定をともなう無秩序への回帰願望」が発現した事件とかって最近あったっけ?ISとか?

ちょっと言及されたので、補足してみる。

前提として、巷で言われるように右翼礼賛、共同体万歳的な側面がこの映画にはある。ただ、共同体主義には2種類あると思っていて (1) 国家型(中央集権的) (2) 地域型(地方分権的) がある。

今回は地域共同体主義共感している映画だとおもっていて、結果的国家型を否定するなぞりがあるんじゃないかと。

地域共同体主義の人にとっては、リベラルのいうような何か理想とする社会を人工的に作るというのはぴんとこない。もっと自然感情で、近しい人で社会をつくりあげたいとおもっている。しかし、国家というのは大きすぎてぴんとこない。そしてそこにひも付きやす全体主義的な思考には拒否反応をしめす。そういう思想です。

これって全く特別イデオロギーではなく、割と普通ネトウヨとかじゃないけど、左翼むかつくとおもっているネットによく人たちの自然思想だとおもっていて、おとなしめのリベラルちっくなオタク親和性たかい。そしてあんのさんもそういう思想意識的無意識的かもっているんだろうなと思うのです。だからこういう対立を描いたと。

無秩序への回帰というのはちょっと「現体制にとって」の無秩序であり、ほおっておいても自然に生まれ家族的情愛による秩序への回帰共感したいというメッセージかもしれないなと思います

2014-12-06

http://anond.hatelabo.jp/20141205051237

最近漫画血統主義偏重しすぎてて悲しい。

最近じゃなくて、100年とか1000年とか前から流行だよ。

もう流行はいわないか。定番

貴種流離譚」ってそれを指す用語であるレベル

2014-04-22

http://anond.hatelabo.jp/20140420200750

1.主にSF好き、ファンタジー好きなので今のご時世だとどうしてもラノベ比率が多くなるが、好みに触れれば別にラノベじゃなくても読む。

2.ラノベとその他が同じか違うかを真面目に考えたことはない。まあラノベレーベルから出る本には一定の傾向みたいなものはあるとは思うけど、ラノベレーベルから出てても自分の好みと違えばつまらないし、そうでないものでも好みが合えば面白い。逆もしかり。

3.パロディ殆どを占めるというものの実例があまりぱっと出てこないが、俺の好みには合わないだろうなと思う。

4.ラノベというジャンルさらに細かく分けて語ることに特に意味を見出せない。ハードSFです、スぺオペです、貴種流離譚です、戦記ものですとか、どういう物語なのかが分かるようになっていれば俺はそれでいい。それらのタグの付いた作品ラノベの枠の外にあるか中にあるかは興味ない。

とここまで書いて思ったが俺はラノベファンじゃないな、、、

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