はてなキーワード: KANONとは
共通していることは展開が速いということ。
シャーロットは後半の展開の速さで駄作になった。
ギアスは展開の速さで傑作になった。
コードギアスは一期から、二期までずっと展開が速い。速いからこそ、多少の矛盾よりも面白さが目立つ。
なんかギャグ回だと思ったら話の最後に急展開が始まったり。ユフィさん何いっちゃってんですか!?みたいな。
二期は駄作じゃねえか!という意見の方はまあ一期だけで考えてくれてもいい。
なぜ駄作と傑作に分かれたのか。分からん。
なんというかシャーロットは途中で醒めちゃう感じ。説明不足だし、敵の背景も薄いし、最終回までに至るカタルシスがないし、いきなり能力者を無くすとかテンション上がらないのよ。色々作っている側が考えていても出てこないし。まあ、知ろうとも思わない。なんというかクラナドとかAirとかKanon路線でいいんだよ。もっと丁寧な描写をくれ。どうでもいい日常が描写されて、視聴者もキャラクターもそれを大事に思うからこそ、後の展開に説得力なりカタルシスなり面白さがでてくるわけで。
ああ、あれだ。あれだけ妹プッシュだったんだから、ラストは妹助けるでいいよね。中盤かラスト前に妹助けることができて、他の人が大変だから助けて、最後にみんなを助けると。これだ!!妹助けた後が蛇足なんだよ。組織の仲間を助けるにしてももっと仲良くなる描写が欲しかったし、みんな助けるに至ってはまじどうでもいい。
まどかが皆助けたいってのは、ちゃんと最初から考えられてるのよ。性格含めて何故そうゆう行動に出たか分かる。でも、シャーロットは理由が薄い。説得力が無い。妹助けたいから世界はどうでもいいみたいなセカイ系のほうが良かったよ。
話が逸れすぎた。すまん。
ギアスは物語としては王道だし、足りない箇所もあるけど、飽きないし、醒めない。展開は速かったけど、
シャーロットと比べてギアスはサブキャラにもちゃんと背景があり、説明もされており、子と親の対立・支配する国と支配される国の対立・ギアスの謎・シスコンなどなど理由は色々と考えられるが、なんというかパッと見の面白さが全然違う。ギアスっていうギミックも面白さに拍車をかけていたよなあ。
なんでだろうなあ。
教えてくれ!
なんかCharlotte見てたら、1話でAngel Beats!の二の舞いになりそうな匂いがプンプンして、あー見なくてよかったという気持ちにしかなれなかった。一時期のKey作品面白いっていう評判は他の人にはともかく、少なくとも僕個人でそれが信じられたのは京アニのおかげなんだろうね。一昔前の京アニ作品もそうだし、ハガレン1期のアニメ版もそうだし、原作にはストーリーがなくてまとまりにくいものにうまく落とし所を見だしたぱにぽになんかもそうだけど、アニメのシリーズ構成や脚本ってクリエイティブなことよりうまく噛み砕いてくれることがすごいんだろうなぁ~と正直思った
僕がアバン見た時に「あ、この設定というか、この言い回し変だ」と思った作品が殊の外人気だから、試しに見てみたんだけど…やっぱり開始6分で設定の破綻を感じてる。コピーしかできない奴が受験で1位って…。それって正解がわかってるってことだろ?2位以下にならないとおかしいはずなのに
あと、マドンナ的存在って言うキャラは死ぬほど聞くんだけど、これも実在しないんだよなぁ…。例えば、GTOみたく「ドジっ子アイドルになっちゃいました」とか、コクラセみたく「いいところのお嬢様で送り迎えがつく人がいるんだ」みたいな誰がどう見ても浮いてる理由が必要なのにそれがないとか…
トドメは事故ったのを救った時に女の子が「一組のだれだれくんが助けてくれた」ってこの台詞も変なんだよなぁ…。なぜクラス言った?
いやさ、僕がノベルゲーとか小説にハマれない理由って理由付けや情報開示の順番がわざとらしくて「あームダだなぁ~」と思うものがあるから。ムダならムダ、メタならメタで突っ込んでくれればいいんだけど、それがスルーされると、嫌な意味での突っ込みどころとして頭のなかに残って嫌になるんだよなぁ
この、テストで100点とったっていう理屈がだからおかしいんだって。おおよそ正しい答えなり、途中式なりを見抜く方法を知ってなきゃ、仮に他人の答案をカンニングできたとしても、それをカンニングによって100点を取り続けたり、学年トップになることは不可能。最低でも途中式を見抜く学力はある
と、これ、ここまでAパートの話なんだけど、この矛盾にいらついて普段の僕ならここでこのアニメを切る。これが流行ってるとしたらみんな頭悪いんだろうなぁ~みたいな感想を抱きながらね。あるいは、頭が悪いかどうかではなく「きっと1クールも経れば、忘れ去られるアニメだろう」と思うか
ちなみに、僕がグダグダ言ってるアニメはAngel Beats!と同じ脚本の人(有名な人だけどあえて名前は出さないで作品名を出してる当たりご理解いただきたい)なので、「あー数年の間に増えたにわかオタクか、作家名でアニメを見てどうやってでも擁護したい人が盛り上げてんだ」が感想。この脚本家には前科がありまして、最後まで見れば面白くなる・矛盾点はあるけど我慢しようと思って多くの人が見てたら、終盤の感動的なシーンが設定の雑さゆえに矛盾してて成り立たないと言うヘマを数年前にもした人なんです…それでお察しな気が
ちなみに、Angel Beats!のどこがおかしいかについては、ドナーカードの意味もちゃんと検索してない、ドナーがどういう条件で提供されるのかも確認してないいい加減な脚本家がドナーカードにできないことをドナーカードによって達成したという嘘っぱちの設定を作ったこと。犯罪的な捏造だよ。天使ちゃんと音無くんは心臓を提供した・されたの関係と言う話になってるけど、音無くんは衰弱死・餓死みたいな状態でとてもドナーとして成立しない死に方してる。だから、転用なんかとてもできないし、それ以前に脳死じゃないドナーは使える部分が限られているから心臓を移植できないのよね…ストーリーの根幹である部分の前提に現実的な設定を使う以上調べて欲しいといいますか、詳しい描写まではいらないけど、5秒で検索したらわかるようなウソは入れないで欲しい気はします…
そこら辺のところがわかったうえでもなおAngel Beats!がいい話だと言ってるバカとアニメの話はできないと改めてはっきり言っておきたい。作中に出てきたから言うけど「こんなのが売れるなんて世も末だな」とABの時から私はそう思ってました
妹のキャラクターが年齢不詳。兄よりも歳上であるかのような言い回しが多いけど、これは伏線?それとも雑設定からくるもの?
KANONやABだけではなく、アレだけ評判がいいリトバスもですか…。しかも、作者が患っている病気で…。流石にわざとやっているのではないかと疑わしくなってきましたなぁ…。 奇跡をゴリ押しされた挙句、他人事のように「なんか泣けるような胸を打つような近さはないけど、テレビ的なわかりやすいいい話とはこういうものなのだろう」とKANONに対して思ったので、「お伽話」は言い当て妙だと思います
よりポピュラーな病気やシステムを扱えば扱うほど「間違った知識の流布」「当事者を傷つける問題」に進展しかねないところがあるため、危うい傾向だと思えました。特にドナーカードの話は免許取ってから日が浅い時期だったのでなおさら気になりました
いやさ、「だーまえ作品における病気はいい話のための演出なんだ」と言うのはわからんでもないさ。ただ、普段「うつは甘え」「サプリで治る」みたいなウソを振りまかれてる躁鬱病患者としてはああいうものってすごく怖いんですよ…。ドナーカードも免許取って人間なら近しい話だからすごく怖いし…。例えば、「うつは甘えだ!私は君を甘やかさない」と心を病ませながらも自分の仕事場で面倒を見て、厳しきして社会復帰させたらそれはいい話かもしれない。だが、それはリスクを負ってくれる人が前提で「うつは甘えだ」と厳しいところに投げ込む風潮がマスコミやだーまえ作品の影響でできたらどうさ?
大体の鍵っ子は、実は自分が感動したシーンとギャグぐらいしか案外覚えていないのかもしれない。あと人物同士の関係の考察とかはするけど、現実に基づいた設定の考察はあまりしてないのかもですね。更に言うと、多分keyの全作品に共通するかもしれないのですが、後半だけ見れば問題ないってぐらい、前半はギャグと日常(現実的ではないですが)の塊なんです。あまり伏線を積極的に張って行かないレベルでね
寓話以上世界仰天ニュース未満ぐらいの位置の何かだと思わないととても安心して見られない感じはあります。京アニ作品として矛盾やギャグが気にならない形の物ではそこまで気にならなかったのですが、近年の麻枝准自らが脚本した作品は…。例えば、Wikipedia読んでもちんぷんかんぷんで日本にはほとんど患者がいない難病「多発性硬化症」みたいなものでだーまえ演出をなさるんだったらまだ批判浴びないし、なんとなくそんな病気があるんやろう…みたいなのがあるけど、ドナーカードはポピュラーすぎるもん!ちなみに、うつ病よりも関わっている人が多いドナーカードは日本中で8000万人の人(運転免許の裏はドナーカードなので免許保有者だけでもおおよそ8000万人)が関わりがあります。
超極論を言えば、だーまえは逮捕されるべきだったとさえ思ってます。だって、ドナーに関わる人間はおおよそ8000万人。免許の裏のドナーカードだけで日本国民の3分の2。それにありもしない間違った知識を流布したり、価値観を押し付けようと言うのだから怖いと感じないほうがどうかしてる。リプライを見た限りKANONやリトバスでも同じ脚本家が同じような病気や矛盾点を調べないで、創作物に流用しているそうです。Charlotteの脚本家に限った傾向なので脚本家全体の衰えとして捉えるのはちょっとむずかしいですが…すいません。流石に極端なたとえですし、「もし、あんな調子でうつ病を扱ったら」というエクスキューズが抜けてるので、不十分なツイートになってしまいました
この話、だーまえさんの作品が人気を取るたびに僕を含めた誰かが「ざっけんなコラー」と言っても言っても騙される人が後を絶たないから繰り返ししてるけど、したところで得るものないからこのへんでやめます。僕以外に…つうよりももう鍵っ子の間で議論され尽くしているであろうテーマなのに、意外と周りで盛り上がるのな…
まぁ、うまる見て「あの秀才キャラ、悩みがないキャラがハナについてギャグだけを純粋に楽しめなくて少し苦痛」みたいなことを言って「そこ!?」的な返事が帰ってきた偏屈な人間の言うことだからなぁ…。きっと受け入れられないんだろうなぁ
江戸しぐさ→歴史的には間違ってるけど、いい話だからいいじゃない!だーまえ作品(とりわけAB)→病気や患者が利用する制度を調べてないから間違ってるけど、ふんわりといい話だからいいじゃない。が重なる。僕が感じてた怖さはそういうことか!。遠い昔の話ならそれでも被害者は少ないのですが、それをポピュラーな病気や医療制度でやってしまうため、実際の江戸しぐさより被害者が出そうで怖く、またいい話だという言い分も江戸しぐさ的な押し売りや稚拙さが絡むため、賛否が分かれる…というところでしょうか
問い合わせの内容はアニメ興味ない人にとっちゃどうでもいい話なんだけどまぁ一応説明すると
ソフトバンクの「アニメ放題」ってサービスがPCで視聴できるようになったわけよ
で、アニメ放題はdアニメストアよりも京アニに強くて「CLANNAD」や「AIR」「Kanon」「たまこマーケット」とかあるんだが、検索に引っかからないし一覧にもない
「検索まだ正常に動いてないのねお茶目さ〜ん」と思って履歴から辿ろうとしたらCLANNADとかだけ飛んでる、iPhoneには残ってる
そういう仕様なのかとも思ったけどPCとスマホで視聴可能なタイトル数が変わるとか特に書かれてない
だから「PCで視聴できないタイトルがあります」ってことを教えてあげようと思ったわけ
まずメールで問い合わせようと思ったけど「混んでるからフォーム停止してます」(は?)とかいって使えないわけ
http://www.softbank.jp/mobile/support/contact/email/
仕方ないから電話で問い合わせてやろーもん!と思って電話したんだけど
http://www.softbank.jp/mobile/support/contact/phone/general/
だってどこにも出口がないんだもん
4で探したけどこれサービス変更とか全自動で、機械としか喋れないからサービスについて聞いたりはできないわけ
で、いろいろ探してたら
こいつなら何でも答えてくれそうなわけ
でもな、アニメのサイトについて意見するために俺のTwitterアカウントで呟きたくないわけよ
リアルのフォロワーいるし良い年したオッサンだよ?アニメ見るとか周囲に公言もしてないし
サブアカウントも持ってないしそのためだけにTwitterアカウントつくるのも嫌なわけ
結局、問い合わせることを諦めてこの増田を書いてるわけ
特にタカヒロ三部作はリメイクした方が良いんじゃないかと思う。
クソゲーだったそらみずをエロい方向性で作ったOVAは大ヒットしたわけで
同じくタカヒロ作品で姉ちゃんとしようよもそれなりにヒットしてる。
原作が漫画のエロアニメはそれなりに売り上げるしシリーズ化もした。
エロゲーの方も飛田もとい比良坂先生の夜勤病棟もヒットしたじゃないか。
もうそろそろ許されてもいい頃だと思う。
テレビアニメは失敗した、じゃあ次にしなくちゃいけない事は黒歴史化して、
つよきすorこんにゃくはアニメ化してない、じゃなくてアニメ化は失敗したけど
AIRだってKanonだってリメイクして大ヒットしたじゃない。
■本文。
最終回だというのに最初からくどい話になるのだけど、インターネットなどのメディアが、世界が一体化したかのような幻想を生み出す一方で、野放図に拡大される情報社会が、心の繋がりを裁断し続けている。断片的な情報を追いかけることに躍起になるあまり、多くの価値観=ジャンルは求心力を失った。例えば、メディアミックスにしても、それぞれがジャンルという枠による秩序を持っているからこそ、混淆することに意味があったし、一体化の幻想自体が、[かつての全能感]を取り戻すための侵略に他ならない。そして、互いの領域を侵略した結果、秩序という枠組みが曖昧になったことで、インターネット上では無制限に肥大した自意識が互いに衝突を起こしている。情報という麻薬に蝕まれた中毒患者は絶えず全能感と無力感を往復しているが、目の前にある荒んだ光景は認識することができない。
そんな現代において、旧来の世界観に回帰すること=思考停止による癒しが唯一の自己防衛手段となっているケースは多い。そして、箱庭のような偽物の原風景に引きこもることで、飽くなき侵略=拡大する欲望を抑えている。自己言及的な表現を頑なに拒むのも、居場所を自壊させてしまうことへの潜在的な恐怖があるからなのだろう。そして、マッチョイズムとフェミニズムの対立から零れ落ちた層を汲み取る為に、ポルノメディアの特異点……ポルノメディアから遠く離れたポルノとして、美少女ゲームは存在している。マッチョイズムにせよ、フェミニズムにせよ、その論理は自身のセクシャリティ=現実の恋愛やセックスを前提としているが故に、現実と虚構を対比し優劣を決定する方向性で結論を出してしまう傾向が否めない。例えば、フェミニズムの功績としては、男女の恋愛関係におげる規制緩和と自由化が挙げられるが、同時にそれは恋愛における自由競争を生み出したと言えるし、当然、自由競争から弾き出された恋愛弱者も多く生み出すことになった。ちなみに、この構造は、フェミニズムをインターネットに置き換えれば、情報弱者を生み出す構造と同じになるのだが……。
美少女ゲームはポルノグラフィの枠組みから発生したものだが、その論理基盤は[男と女]というセクシャリティを巡るものではなく、[自分と他人]という基準で駆動している傾向がある。言い換えれば、自身のセクシャリティに対する意識が希薄であるが故に、全くの異物としての他者(異性)を認識することが難しく、自己の延長としての他者という方向性で純化されているのだが、同時にコミュニケーションを崇高化し過ぎるという弊害も見られる。その弊害が悪化すると[引きこもり]に繋がっていくのだけども、ユーザーの大半は普通に社会生活を送っている。理由は色々とあるだろうが、スピリチュアリズムに似た信仰システムの機能を、美少女ゲームが持っていることも挙げられると思う。
そして、セクシャリティに対する意識が希薄である=前時代的であるために、恋愛至上主義的な表現が勃興した。例えば『ToHeart』や『ONE』で描かれるセックスはあくまで婚前交渉であって、娯楽としてのセックスではない。娼婦と素人娘が厳然と分かれていて、素人娘と付き合う時は必ず結婚が前提になる時代の価値観が無意識のうちに再現されているので、『Kanon』に至っては、名雪シナリオ以外ではセックスすることを選択しなくてもトゥルーエンドに到達できる。それは、セックスは結婚後に初めて行うものと考える人々が未だそれなりの割合で存在していたということだろう。だから、美少女ゲームの一部は厳密な意味でのポルノメディアから離れつつある。風俗産業の二次元版としてのポルノではなく、結婚相談所の二次元版としてのポルノメディアなのだと考えれば分かりやすいのかも知れない。
さて、現代の物語メディアの多くが単独で成立しにくい原因の一つに、経済やテクノロジーの発達に伴い、物語の消費スピードが飛躍的に加速しているという状況がある。または、物語がパーツ単位で解体された結果、秩序を維持できなくなっていることに起因する。物語がジャンルとしての秩序を失い、単なる情報の集合体として氾濫した結果、その多くは誰もが知っている[お約束]と呼ばれるものになってしまった。そして、[物語を読む]という行為の目的が、疑似体験を介して思索することではなく、氾濫する情報を収集し続け、酩酊状態に導いて思考停止することに変質してしまった。同時に、ゲームというプラットフォームから発信される物語が、作者の意志によって導かれる連続体としての表現ではなく、ユーザー自身が演じる舞台……遊戯空間としての情報集合体へスタイルを変化させつつある。
つまり、他人の波瀾万丈な人生を追体験するのではなく、原風景としての平穏な日常を演じる媒介として機能しているケースが増えているのだ。原風景=楽園志向が悪い訳ではないのだが、美少女ゲームが遊戯空間として完成するにつれ、文化的伝統に回帰するルートとしての側面は失われつつあるように思う。
例えば、他者との関わりは、現実世界の他人や社会といった抽象的な意味で捉えられがちだが、過去から連なる歴史的蓄積という視点も存在する。おそらく『ONE』が特徴的だったのは、『ToHeart』で確立された偽物の原風景=楽園を[かつての全能感]を補完するシステムとしての機能面だけではなく、過去の価値観のレプリカと捉えた上で、同時に時間的な意味での[他者]を再現しようとしていたことだ。一見『ToHeart』の二番煎じと思われるような構造に[過去との接続]という要素を加えたことによって、ノイズと判断される危険性を孕んでいながらも、過去と現在を繋ぐ連続体=物語として作られた『ONE』が成功を収めたことで、物語に対するニーズが未だ潜在的に存在していることを証明している。
また、『Kanon』や『鈴のうたう日』では、胎内回帰的であるために閉塞へ陥りがちだった楽園志向を[共生と循環]という方向へ発展させているし、『フロレアール』『とらいあんぐるハート2』『デアボリカ』といった作品も、それぞれの方法で物語表現としての美少女ゲームの可能性を拡げている。そして、そういった作品が予想外な場所から出現する限り、筆者は美少女ゲームのユーザーであり続けると思う。
■あとがき。
本当はこれから出るゲームを取り上げて、今後の展望を書くつもりだったんですが、本業以外の分野を未来予測するのは、やっぱり難しいので、普通に連載の総括という感じになりました。
とりあえずは療養しながら、積みゲーの数々をクリアしようかと思っております。そういう訳で、今後は体調と相談しながら、不定期で登場するかも知れません。どんな形になるかは今のところ、分かりません……って、別に打ち合わせもしてないので(笑)。あと、FAKEOFFICEのホームページに、このコラムのバックナンバーを順次再録していく予定です。こちらも体調次第ですけど……まあ、そういう訳で一年とちょっとの間、どうもありがとうございました。
■本文。
朝のワイドショーで[社会的ひきこもり]を特集するようになるとは、世の中、つくづくアレなんだなあ、と思う今日このごろですが、今月のお題は『ONE』です。本当は最終回まで取っておこうと思っていたのだけど、小倉さんとデーブ・スペクターと斉藤環が同じ画面に映っているのを見たら、辛抱たまらなくなったのですよ。しかし、『二時のホント』が終わったのは、ワイドショーマニアの筆者には痛い……。
―――さて、『ONE』をプレイして強く感じたのは、母性と父性の欠損に対して、援護射撃に頼らない直球勝負を挑んでいることだろう。ただ、同じ主題を扱っていても、手慣れたテキストの『Kanon』に比べると、まだ手探りの部分が多く、比喩などにあからさまな引用も多い。だから、必ずしも褒められたものではないのだが、BGMと画面演出の組み合わせを効果的に使う[音の魔法]に頼っていない分、言霊の比重が高くなっている印象を受けた。
重要なポイントは、この作品で描かれる世界には、超えるべき父性は最初から存在しないことだろう。同時にそれは、学習することもできないということでもある。[他者]は、主に母性を巡るものとして描かれているが、主人公である浩平の母親は、カルト系の新興宗教に盲従した結果、母親であることを放棄している。そして、浩平は、他人との関係性を肉親から学習しないまま=子供のままで妹に対し、父の代わりを演じたが、妹の死により、父性の獲得=男性としての自立にも失敗してしまう。そのため、主人公は二重の意味で心理的欠損を抱えているのだ。
更に、母親が発狂し、ウロボロス的な母性を発動させてしまった際に、母親を拒否している浩平は、壊れた母性に対する嫌悪感を潜在的に抱き続けている。由起子おばさんが、一度も浩平の視界には現れないことや、長森シナリオでトゥルーエンドに辿り着くためには、長森を嫌悪し続けなければならないことの理由でもある。いわば、母性と父性の欠損を巡る内面の問題こそが、『ONE』という物語の核になっている。また、宗教によって母親が発狂し、浩平の前から姿を消すシーンは、『ONE』の前作にあたる『MOON』の主題を継承しているとも言えるだろう。
だから、この作品の基本構造は、どのシナリオもアプローチの違いこそあれ、本質的には同じだ。他者との距離感を知らないまま成長していくことに、情緒的な病による死を予感した浩平自身の本能が、自然死を避けるために、偶然を装った出会いを起こし、浩平に欠損した部分を取り戻させようとしたことが、物語の動機になっている。そして、浩平自身の本能は、ゲームの作り手であり、浩平はプレイヤー自身である。
だからこそ、浩平の鏡像となる女の子たちは、それぞれが身体的なハンディキャップや心理的外傷を持つ者ばかりが選ばれたのだろう。同情という媒介を用いなければ、出会いという動機を持つことができないほどに、浩平の病状は悪化していたし、宝探しを始めるには、同じ宝を共有できる相棒が必要だったのだ。
本能の企てに乗せられた浩平は、達成されなかった父性の確立に再度挑戦する。ところが、達成寸前に壁が現れる。それが[えいえんのせかい]という、癒しの象徴でもある異界への願望だ。もっとも、異界が具体的に描かれることはない。まあ、具体的に描いたら、山上たつひこの『鬼面帝国』か、出口王仁三郎の『霊界物語』みたいになってしまうような気もするが(笑)。
―――いや、最初から浩平は異界に取り込まれていたのだろう。つまり、浩平が抱いていた、思春期独特の中途半端な世界認識が、そのまま、異界への潜在的な願望として、妄執のように内在していた。それが、絆の発生で、完全な鏡となった女の子を介して照らし出されたのだ。つまり、中途半端に終わった目的を今度こそ達成しようという意志(現在)と、中途半端のままで反復しようとしている記憶(過去)が衝突したことで、[えいえんのせかい]という、思考停止状態に陥ったのだろう。
さて、プレイヤーとしての浩平が一度、舞台から退場することで、今度は、選ばれた女の子が自身の母性=主題を自覚することになる。そして、父性と母性が相互補完的に成立することで、浩平は再び舞台に戻ることができる。つまり、互いを鏡像=他者と認識することによって、欠損を補填した訳だ。この構造自体はありふれたものだが、ありふれたものであるがゆえに、強い言霊を生み出すことができる。そして、この作品で特筆すべきことは、美少女ゲームで描かれる世界が失われたロマンティックであり、実際にはあり得ない世界だということを巧妙に描いていることだ。
何故なら、『ONE』の登場人物たちの多くは、自分たちの生きている世界に対し、無自覚な肯定をしない。強い否定もしない。約束された楽園が既に失われてしまっているということを、登場人物自身が自覚しているように見える。プレイヤーもまた、物語を介し、その完結に立ち会うことによって、楽園が失われたことを知りながら、ゲーム内の楽園に耽溺するという、二律背反的な認識を持つことになる。
例えば、『ToHeart』が、ゲーム内ではいったん完結しながら、アニメ化(メディアミックス)にあたって物語世界を再構築した際に、約束された楽園=主題を持たない真空状態を維持すること……終わらない物語であり続けることを選択し、ユーザーの楽園願望を全面的に肯定したことで、現在でも現役の商品として、人気を保っているのに対し、『ONE』の場合は、主題を巡る部分が『Kanon』と『鈴がうたう日』という二つの作品に分岐&移行してしまったことで、作品と商品の両面で、既に幕を閉じているのだ。
この辺の違いについて、最も分かりやすいのは、やはり、長森シナリオであろう。『ToHeart』のあかりシナリオに対するメタ的な構造を持っているからなのだが、筆者も鈍いので、気づくまでに何度かキレそうになったのは余談だ(苦笑)。
もっとも、『ONE』以降、恋愛描写を重視した[泣き系]の作品が氾濫したことで、相対的に主題の空洞化と、[お約束]としての普遍化が起こっているのは否めないが、この作品自体は、非日常と日常や、万能感と無力感の間で葛藤する思春期独特の世界認識と通過儀礼を描いた作品として評価できるだろう。
更に言えば、本来は『WhiteAlbum』や『デアボリカ』のような、ユーザーの価値観を揺さぶるタイプの物語が担っていた役割を、『ONE』の成功で、思考停止による癒しを主目的とするタイプの物語でも担えることを証明したのだ。
物語とは、社会と個人を繋ぐ媒介だと思う。いつの時代も、その本質は変わらないが、物語を伝達する手段は、時代の変化と共に変わっていくものだと、筆者は考えている。美少女ゲームを媒介として、社会と繋がり、社会を学習していくという構図も存在できると思うし、一見、楽園を肯定するような表現に重層的な含みを持たせることで、現実社会との距離感を認識させる手法の確立を、本格的に模索する時期に入っているのではないだろうか?
■あと一回のお知らせと総括。
ホームページでは既に告知済みだったのですが、本コラムは次号で最終回となります。次回は連載総括という形で、これから発売される作品について触れたいと思っていますので、作品ごとの論評としては、今回が最後です。
降板の理由は、今年に入り、筆者の健康状態が悪化して、月刊ペースでの連載が難しくなってしまったからです。無理に書いて、自己模倣に陥ってしまっては意味がありませんし……。
―――そういう訳で、読者とメーカーの方々には、一年と少々、筆者の回りくどい文章に付き合っていただき、本当にありがとうございました。連載はあと一回ありますが、この場を借りて御礼申し上げます。
■イントロ。
今回の【N.C.P.】は、『へっぽこ通信』のへっぽこくん氏と二人で、1999年度のベスト5を選ぶ……という、年間総括だったりします。あと、例によって筆者の暗い文章。とほ。
おいら的に今年やったゲームって事で……(汗) 発売は去年かも……多数?
1 Kanon
2 ぱすてるチャイム
3 がんぶる
4 days innocent
1→久々にやりまくりでした~音楽と絵のタイミングがよかった。
2→コレットさんが成長しちゃうところがマイナスですが、ぶかTシャツにスパッツはよい。
3→全てが丁寧に作られた感じがよいいなり。ただパッドがないと最後つらかった。
4→一部当てはまらないけど、精神的にはみんなずーれーだから。
5→はじめて、ごんぽりーな女の子が可愛く見えた。(EDENは今年の作品なのかわからないけど……やったのは今年)
【個人的総括】
うーん、今年はKanonですかねぇ~。何はともあれ、音楽が好きかも~。当時はアレンジCD聴きまくってました。オープニングからかっちょよろしくて、ぶるぶるきました。他的には……う~ん『days~』がえろ~すゲームとしてはえろかったかなぁ。後は可愛いので選んでしまった感じ。
実際、まだ全部のゲーム終えれてないので、今やってるママトトとかがランクインしてた可能性もあるんですけど、いかんせん、おいらゲームはじめる前にねかして熟成した頃にやるから(^^; 故に、ママトトやダークロウズは、すでに来年のゲームな位置づけなり。個人的には、大作なえろーすRPGをやりたいなり~(闘神都市2みたいな)
実は、キャラ的には沙耶(ぱすてるチャイム)だったりします……へふ。
1 フロレアール
2 Kanon
3 とらいあんぐるハート2
4 くるみちゃん あ・そ・ぼ◆
5 憧れ
1→巧みに構築された論理と悲劇……と書くと『総長賭博』っぽい?(誰も分かりません)
2→バランスの悪さはあれど、印象は強烈。でも、えろげーとしてはちょっと辛いかも……(全年齢版出るけど)。
3→昔気質のラブコメ魂と意地を感じさせる作品だと思う。中毒性はメチャ高い。
5→アダルトで上品に抑えた雰囲気がナイス。女教師ゲーとしては最強かも。
【個人的総括】
今年はエロゲー界のチェ・ゲバラこと、臭作さんのようなヒーロー不在で寂し……もとい、昨年に比べると、大手・中堅メーカーに意欲作が少なく、面白みに欠けたかも。大作ばかりでなく、味のある小品がもっと増えないと、全体の層が薄くなる一方だと思う……。
あと、恋愛描写の水準は強まっているけど、全体的にえっち度が弱まっているような感じが、ちょっとあるなあ……。キャラ萌え&ストーリー重視な流れの弊害かも知れないけど、えろげーはやっぱり、エレクチオンさせてナンボ!って気はするですね(小池先生ライクな台詞)。……いや、Kanonもかなり好きですが~。
■本文。
親がとある新興宗教の狂信者だったので、生まれてからずっと、カルト的なコミューンの中で育った。ある時、その閉鎖性に気づいて、家を飛び出した。でも、辿り着いたのは、[オタク]という別のカルトだった。
それはそれとして、1999年の美少女ゲーム界で最も気になっているのは、ジャンルとしての共通言語が失われつつあるな、ということだったりする。[萌え]と[泣き]の両極がそれぞれ先鋭化し、カルト的なコミューンが形成されつつあるようにも見えるのだ。具体的に書く気すら起きないが、コミケの企業ブースやデジフェスで、毎回決まったように起こる混乱は、そのあたりの空気を微妙に表していると言えるだろう。
量的な飽和と多様化が、ユーザーの細分化をもたらしている。そのこと自体は悪くないと思うが、それがカルト的な求心力を持ってしまうことには、危惧を抱かざるを得ない。そして、[萌え]=キャラクター志向派、[泣き]=ストーリー志向派……という図式が発展していく過程で、両者がそれぞれ保守化し、一部では対立の構図も見られるようになっている……というのは、美少女ゲームというジャンル全体を考えるに、不幸な結果しかもたらさないのではないか? という気がするのだ。
早い話が、筆者が、ある陣営のゲームについて、コラムを書くだけで、別の陣営には激悪な印象を与えている……という状況が、厳然と存在していて、どうも息苦しいのだ。
さっき、「カルト的」と書いたのは、特定のイデオロギーを通してでしか、ゲームや人間関係を判断できない人が、あまりにも増えてしまったからだ。元々、美少女ゲームには、フェミニズムやマッチョイズムに属することのできなかった人々にとっての宗教という側面はあるが……。
例えば、神仏を信じられない人のために、心霊主義(スピリチュアリズム)や科学信仰があるように、それ自体はごく自然なものなんだけど、行き過ぎると単なる狂信者になってしまうのは、どちらも同じだ。筆者も、昔は狂信の極みにいたしね。
だから、このコラムも、印象批評的な文章はすっかり書けなくなってしまった。どうしても状況論的なものに終始してしまうのは、印象批評を書いた瞬間に、どちらかの陣営に与したと見なされ、筆者の友人は半分に減ってしまうからだ。これがまた、かなり実話だったりするから笑えないんだけどさ……。
別に[萌え]でも[泣き]でも、どちらでもいいのだ。出来上がったゲームが面白ければ。いや、本当に心を動かされるような良質の物語は、[萌え]と[泣き]を内包しつつ、そんなイデオロギーの枠組みすら超えてしまうはずなのだ。だいたい、イデオロギー抜きの意見を述べるのが最も難しいという状況は、冗談抜きでふざけているとしか思えない。好きなゲームを好きと言えないって、どういうことだい?
まあ、美少女ゲーム業界に限らず、どこの世界でもそうなりつつあるのは確かである。編集やライターを生業とする筆者の周辺でも、オタク系とサブカル系でお互い反目しているので、人間関係では要らぬ苦労を強いられる。全てのジャンルにおいて、そういった対立構造が必ず存在し、延々と繰り返されているメビウスの輪の中で、閉塞感だけが肥大していく……そんな悪夢が年々、増幅されているような気がする。
だから、もう嫌なのだ。オタク世界全体に漂っている、奇妙な停滞感が。何より、汲み取るべきものが見当たらないから、何も編集する気が起きないし。よって、編集者としては、秋から休業中だったりする。なんだか、自分の話ばかりで申し訳ない上に、冒頭から変なことをカミングアウトしているんだけども、今回の年間総括は、この連載を一年近く続けてきた、自分に対しての総括でもあるのです。申し訳ない……。
最後に、[萌え][泣き]……どちらにしても、[癒し]を大量消費している構造には変わりはない。問題は、[癒し]という概念が、思考の暴走を抑えるという、本来の意味を失い、思考停止の為だけに使われていることである。何も考えないために、生まれてくる全てのものを消費していくのだとしたら、これほど不毛なことはない。これはもう、「終わらない日常」どころじゃない。だいたい、始まってもいないのだから。何となく、『キッズ・リターン』のラストみたいだけども。
この状況に対して本当に必要なのは、ノイズを削ぎ落とし、完成された構造の作品ではなく、むしろ、ノイズとされてしまった要素を積極的に取り込み、想像力の領域を拡げ……ポストモダンを超えていく作品だと思う。新しい[魔法]の材料は、ノイズの中にしかないのだから。
しかし、閉塞を乗り越えた作品も時が過ぎていくにつれ、カルトに取り込まれ、更なる閉塞へ向かって保守化してしまう。そう、どんなに素晴らしい魔法も、[メディアミックス]という名の魔物による、カルト性を帯びた資本主義の洗礼によって、いつかは解けてしまうのだ……。
もっとも、商売としては、カルト化して、一定数のユーザー=信者から、大量の金を収奪するシステムにしてしまった方が、美味しいんだろうけど……その辺は、世間を騒がせている『法の華』や『ライフスペース』の事件を見ても分かる通りで……カルトの信者ほど、財布の紐が緩い人々はいないからねえ……。
それでも……いや、だからこそ、作り手とユーザーは、次々と新しい魔法……新しい物語を目指さなければならないのではないだろうか?
それは、思考停止して閉塞へと向かっていくカルトの罠から、自立していくために必要なことだ。更に言えば、進化と消費は、セットであるべきもので、乖離してしまっては、全く意味を成さないのだ。
つーか、逃げるために消費するのは、もう止めようや。キャラクターへの愛情は、グッズに注ぎ込んだ金額じゃ計れないんだぜ!(←バカ)
■総括の総括というか、感想。
毎年恒例(?)年間総括……と思ったら、周りにバランス良くえろげーをやってる人が、へっぽこさんしかいないという……いや、それ以前に、えろげーをバリバリやってる人もいない……何故~?
という訳で……へっぽこさん、今回は本当に、ありがとうございました~。
■その1。
毎回言ってるんだけど、今回こそはゲームレビューをやりたいと思って……選んだのは『夏祭』。タイトル通り、ゲーム自体は、三日間の夏祭を描いたものだから、プレイ時間は短い。たった三日間で、キャラクタを描写しきれるのか? と思っていたのだが、演出手法として、イベントごとに回想シーンを頻繁に挿入することで、要点はきちんと押さえている。ただ、毎回毎回、お約束のように回想シーンが入るので、それが少々うざったくもあるけど……。 最近のストーリー型のゲームにしては珍しく、二時間ドラマのようなスタイルで作られている。なので、このゲームは、大作型の作品ではない。ここを勘違いすると食い足りないような印象だけが残るだろう。
筆者も、まんがで最近流行している、虚構の現風景を描いたエコロジスト的な作品の流れにあると勝手に勘違いして、今回のサブタイトルをつけたのだけど、実際にプレイしてみると、特に自然描写などに重点を置いているという訳ではない。おそらく、あくまでドラマチックな演出の舞台として、この設定を選んだだけなのだろう。なので、今回のサブタイトルは嘘っぱちだ。サブタイトルは、レイアウトの都合上、原稿を書き始める前に決めてしまうので、こういうこともある。
しかし、こう書くといかにも薄っぺらなゲームのように思う人もいるかも知れないが、別にそういうゲームではないし、特筆すべき所もある。ヒロインである[橘みやの]のシナリオなのだが……気の弱い幼なじみという基本設定自体は通俗的なものだ。しかし、中盤から後半にかけて、そのスタンスが表面的なものであったことに、主人公は気づく。早い話が、三角関係から来る、すれ違いと嫉妬の地獄絵図が展開されるのだ。
ただ、『たとえばこんなラヴソング』や『週末婚』のような、サイコスリラーばりの鬼気迫る展開をする訳ではない。三角関係の当事者たちは、あくまで良識の持ち主であり、自己の欲望を優先できない弱い人たちである。この葛藤を文学的な執拗さで書くと、『WhiteAlbum』のように、美少女ゲームには異例の悲劇性を帯びるのだけど、このゲームはあくまで、テレビドラマ的な構造の作品なので、予定調和的な結末へと向かっていくし、ここで、虚構の現風景を想起させるような物語設定の仕掛けが効いてくる……少女まんが的な、感傷と情緒の感覚に訴える設定が、毒性を中和しているのだ。
とはいえ、この予定調和を少女まんが的なユートピアと捉えるのも、違うような気がする。それはむしろ、恋の熱情ではなく、愛情に起因する、穏やかな信頼によって支えられる……『とらいあんぐるハート』『とらいあんぐるハート2』で描かれるような、疑似共同体に向けられるべき評で、ボーイ・ミーツ・ガールな恋を描いた『夏祭』にそれを当てはめるには、少々違和感があるだろう。
■その2。
まあ、[少女まんが的]という言葉が何を指すのかは、かなり曖昧だし、それはむしろ、白泉男児である相方の領域だったりするのだが、結局のところ、『夏祭』は、スタンダード過ぎるのだ。それは決して悪いことではなく、むしろ美点なのだけど、価値観が多様化し、結果として、家族や友人といった単位での崩壊を招いている状況の中では、かつては正常とされていたものも、異常とされてしまう。
そして、マッチョイズムからも、フェミニズムからも取り残された人々は、[癒し]と[萌え]の過剰な摂取と、虚構の原風景への逃避を計るのだ。筆者はそういう思考には否定的だが、これはこれで、スタンダードな価値観を欲する動きなので、そういう嗜好の全てを否定する訳には行かないのだ。
『夏祭』は、目から鱗が落ちるようなゲームではない。だけども、プレイした後の安心感は、[癒し][萌え][虚構の原風景]といった要素によるものでもない。娯楽作品に不可欠なバランス感覚をちゃんと備えており、背骨が通っているのが、この安心感の正体なのだと思う。
ただ、スタンダード故に、これはどうか?という箇所もある。Hシーンだ。作画・文章共に描写力がなまじ高い分、不自然な印象が強調されてしまう……主人公のテクニックが上手すぎるのだ(笑)。変な話ではあるが、若い男女のボーイ・ミーツ・ガール的な恋を描くというテーマは、文章力の高いHシーンとは、相反してしまう所がある。早い話が、初々しい恋のドキドキ感……言ってしまえば[童貞魂]を描く作品でのセックスは、ポルノグラフィに求められる実用性とは、いまいち結びつきにくいのも事実なのだ。
だとすると、先月取り上げた『Kanon』の、意識的に回避することができてしまうHシーンの方が、作品のテーマと親和性は高いのかも知れない。肉体関係抜きでも、精神的な絆を結ぶことはできるし、トゥルーエンドも見られるというのは、美少女まんが雑誌の編集者だったくせに、Hシーンのない作品を平気で載せていた筆者にも、かなり衝撃的だった。ただ、それを認めてしまうのは、美少女ゲームの存在意義を問われてしまうということなので、簡単に納得はできないんだけどね……。
……しかし、これは「むほっ、これは嬉しい不意打ち……これに比べたら山岡さんのはカスや!」と、『美味しんぼ』の京極さん風に叫んでしまうのに近い(笑)。そして、「おいおい、お前さっきまで士郎のメシを美味そうに食っていたじゃねえかよ」と、自分に突っ込んでしまうのだが……って、話がズレた。
『夏祭』の場合、シナリオごとの構成にばらつきが激しいという難点はあるのだけども
、Hシーンの扱いは、物語にきちんとリンクしていたので、個人的には安心している。しかし、美少女ゲームにとって、セックスをどう扱うかは今後、重要な課題になるのではないかと思う。それはそれで、本末転倒な気もするが、美少女まんがではもう、その問題を語ることができなくなってしまった以上……そう、H以外の要素に市場が寛容である間に、思考を突き詰めていかなければならないのだ。市場が下り坂になれば、H以外の余計な要素は真っ先に排除されるのが、ポルノ業界の常なのだから。
■来月は1999年度の総括。
という訳で、次回は『へっぽこ通信』のへっぽこくん氏をゲストに招いて、恒例(?)の1999年度総括ですー。それにしても、この手の原稿ばっか書いているくせに、ファンサイトの類は全く知らなくて、軽い気持ちでサーフしてみたんですが、筆者の原稿など簡単に吹き飛ばすほど強力な、美少女ゲーム論が山のようにあるのね……もっと突き詰めないとな……。
余談ですが、『恋愛シミュレーションツクール』を買いました。いかんせんエンジン部分が弱く、実際にゲームを作るには、ちょっと苦しいんですが、恋愛ゲームの構造を解析するという意味では面白いソフトでした。
■その1。
発端は、とあるまんが家と喫茶店で打ち合わせている時だった。お互い、ヘビーな美少女ゲーマーだったので、自然と最近のゲームの話になったのだけど、『Kanon』の話になった途端、そのまんが家は激昂し、強硬に『Kanon』を否定したのだ。激昂の理由は後述するけど、普段は温厚なそのまんが家を激昂させた、『Kanon』というゲームはどんなゲームなんだろうか……という興味が(本人には悪いが)沸いたし、何よりも、巷では大人気のはずなのに、筆者の周辺でプレイした人が、まるでいなかったのも気になっていた。
『Kanon』というゲームが、恋愛系ゲームに興味の薄い人間にとって、敷居が高いのは確かだ。コアなファンは多いのに、その面白さはプレイしていない人には、なかなか伝わって来ない。実際、雑誌の紹介記事を読んでも、「今泉伸二のまんがより泣ける!」程度しか分からないし(すまん、古いギャグで)、何より、雑誌ごとに扱いの大きさが極端に違っていた。しかも、筆者は『MOON.』も『ONE~輝く季節へ~』もプレイしていなかったので尚更だ。
……さて、ゲームをプレイしての印象だけども、音楽を含めた演出面は素晴らしいし、シナリオも読んでいて引き込まれる力は十分にある。そういう意味では良質の作品なのかも知れない。でも、正直言って、全体にバランスが悪すぎる……というか、凡庸な部分と突出した部分の落差が激しすぎるのだ。
まず、シナリオに関して、引き込まれつつも、違和感を感じていた。何故なら、どのシナリオも不条理が剥き出しの状態で、そこにあるからだ。この物語での不条理とは、主に[祈り]と[奇蹟]にまつわる部分で、物語の根幹を成す部分なのだけど、物語を形成する要素としての世界観や、恋愛に至る過程といった場所での論理がどれもこれも飛躍し過ぎている。それは、意図的なのかも知れないが、結果、説明不足に陥っている場所が大量に存在するのはどんなものか……と思っていた。
……更に本質的な問題として、エロゲーとしては全く成立していないのだ。これについてはもう論外としか言いようがないし、ゲームとして見た場合、『Kanon』は、整合性というものが全く欠けていた。
しかし……そんな欠点がゴロゴロしているにも関わらず、筆者の評価は悪くない。悪くないどころか、個人的には極めて面白かったのだ。じゃあ、何で面白かったのか……それが最大の問題だった。
話は逸れるが、物語を構築する要素というのは、ウラジミール・プロップの「26のカード」以降、現在では分析され、かなり法則化されている。更に、近代化に伴って、スピリチュアルで曖昧だった物語要素は、更に表層的な記号へ解体され、方程式を組むように商品を作ることができるようになったし、記号の選択と方程式の組み方さえ間違えなければ、ユーザーを「泣き」や「萌え」の状態に導くのも、割と簡単にできる。実際、ほとんどのおたく向けヒット商品&作品はそういう計算の上で作られている。逆に、ヒットしない商品のヒットしない理由とは、作り手の創作性……悪く言えば、偏執的なこだわりがノイズになってしまったケースが大半だったりする。
そして、全ての事象が表層的な記号へ分解されていくこの状況が、この連載で何度も書いてきた[オブジェクト嗜好]の正体で、別の場所では[ポストモダン]と呼ばれていた状況だったのだ。
■その2。
商品として成立させるために、計算によって整合性を高めると、計算できない要素はノイズとして排除されてしまう。例えば、スピリチュアルな物語要素の代表例である[奇蹟]は、近年は「陳腐なもの」として、扱うことを避ける傾向にある。
何故なら、ロボットならいざ知らず、人の生死に関する[奇蹟]は極めて不条理で、論理的な説明が困難だからだ。確かに、『To Heart』でも、いくつかの[奇蹟]は存在したが、論理的に説明できる程度に抑え、逸脱することを防いでいた。これは、日常性の維持=普遍性を、物語世界の根幹に据えていたからだろう。
ところが、『Kanon』の場合は、[奇蹟]を、物語世界の根幹に据えてしまった。作り手が日常から逸脱してしまうことを覚悟していたかどうかは分からない。しかし、『Kanon』は表層的な設定よりも、ドラマトゥルギー的な主義主張が先に立っている作品で、キャラクターの記号性で、その綻びを強引に追補していた。それでも、原初的な物語要素……スピリチュアルな展開、に対する思い入れが強すぎて、全体のバランスが崩れることは食い止められなかった。
これではどう見ても、物語として完結させるのは困難で、ああ、このまま破綻したまま終わるのかな……と思いきや、[奇蹟]によって力づくで完結させてしまったのだ。これはとても希有なことだと思う。
だけども、同時にこの作品は、表層的にも、「泣き」や「萌え」という要素を達成して、商品としても成立している。いわば、作品が二重構造になっており、そのことが先に述べた敷居の高さの原因になっているのだろう。しかし、記号の組み合わせにも、緻密な計算や、意図的なものが、いまいち感じられないのだ。
肝心の文章そのものにしてもそうだ。シナリオの構成自体は随所で破綻しているにも関わらず、文章が独特のリズム感と情念を持っていて、物語に引き込まれてしまう。キャラクター描写やストーリー展開で、同じパターンを反復している箇所も多く、もちろん、ある程度の計算は感じさせるのだけど、全体としては緻密な計算より、感覚を優先したように見える。こういう文章を昔、読んだことがあるな……と思ったら、思い出した。平井和正の小説……それも、『幻魔大戦』や『地球樹の女神』あたりの感覚に近い。
平井和正は、自身の紡ぐ物語を「言霊が降りてくる」と表現していたが、それが結果として、[天然の美]となっていた。単純に比べるには抵抗はあるが、『Kanon』についても同じことが言えるだろう。そして、計算だけでは超えられなかった、魔術めいた部分が、このゲームの最大の魅力なのだと思った。
更に、私見ではあるが、ファンの心性も似た傾向があるように思う。これは、どちらにも共通するのだが、作り手はいざ知らず、ユーザー側が全員、[ポストモダン]という状況を肯定している訳ではない。その状況に戸惑ったり、諦観していたりする人々も存在する。そして、そんな最先端から取り残された人々の存在に思いを馳せなければ見えないものも、また存在するのだ。
本誌(カラフルピュアガール)の若い読者は、最先端の絵柄で上手いという理由だけで美少女ゲームを買うかも知れないが、そういう人には、『Kanon』が売れる理由は多分、分からないだろう。
絵描きにしてもそうだけど、[作り手]と呼ばれる人々は、常に最先端を追い続ける義務感を持っている。そういう人々が、立ち止まることを肯定してしまうような作品を否定するのは、無理もない。冒頭の出来事の原因もまた、そういうことだったし、筆者も、順調に本業だけ続けていれば=最先端を追いかけていれば、こういう視点は持たなかったろう。けれども、筆者にとっては、最先端の行き着くところは[ポストモダン]という名の絶望だったのだ……。
しかし、今回のプレイでの教訓は、[真・善・美]が最先端の中にあるとは限らない、ということだ。問題は、突き進むにしても、立ち止まるにしても、そこで何を成すか、想像力の限界を拡げることができるかどうか、なのだと思う。
■複雑な気分の総括。
真琴シナリオをプレイしていたら、ネームに詰まったかかしあさひろが遊びに来た。そして、後半の反復する連鎖コンボのような展開を見ながら「ああ、こりゃルネッサンスだな」と言った。おそらく、タイトルから何か連想して言ったのだろう。
しかし、これは面白い発言だ。エヴァ以降、完結しない物語が当たり前になり、影響を受けた若い世代は、技術至上主義のビジュアル志向に走り、物語という概念すら放棄しかねないという状況……そんな、進化による閉塞から逃れるための、前近代への回帰として考えると、『Kanon』という、無謀極まりない物語は、微妙な可能性を秘めていると思う。まあ、それは別の閉塞なのかも知れないけど……。
幼少期に見ていたアニメは聖闘士星矢とか北斗の拳とかそういう世代だ。まだアニメがどうとか考えもしない年頃だからそんな程度で次に行こう。
普通のアニメ、すなわちドラゴンボールなどは幼い頃から見ていた。僕はやはりベジータが好きだった。ドラゴンクエストアベル伝説とかも好きだった。デイジーが好きだった。当時はまだ隠れヲタではなかったが、恐竜惑星などは好きだったし、ワタルとかキャッツアイとかうる星やつらとからんまとかも見ていた。
AKIRAも小学生の頃に見た。Vガンダム、G、Wあたりも飛び飛びでは見ていた。Vガンダムに関してはマヘリアさんが好きだった。
中学の頃、僕は自分専用のテレビとビデオデッキを買ってから、本格的にガンダムにハマった。ガンダムはファースト、Z、ZZ、逆シャアぐらいを見た。このガンダムの見方ぐらいからはもうヲタの見方だった。レンタルビデオ店で1話漏らさず見ていたのだ。僕はフォウ・ムラサメが好きだった。あの精神の不安定さにハマった。
中学の段階では、僕はまったくヲタとは言えない。ただのガンダム好きなやつだ。高校でヲタ友達に出会い、全く変わってしまった。
高校時代、僕は服装にも無頓着で無印とか着ていた(私服の高校だった)。校内では本当にオタクだと思われていたらしく「アニメイトとか行ってる」と笑われていたが僕は一度としてアニメイトには行ったことなかった(いまだにない、そもそも行っても何も買う金がなかった)。
本格的にヲタになりだすのは、エヴァンゲリオンに始まり綾波レイの妄想を繰り返す頃からだ。2ndRingというアヤナミストが書いた二次創作小説を読んだりもしていた。綾波レイ以降の無機質系はいまだに心が揺さぶられる。
高校ではヲタ友達に影響されヲタ向けのアニメを見るようになる。てなもんやボイジャーズ、アキハバラ電脳組、機動戦艦ナデシコ、カウボーイビバップ、ブギーポップは笑わないなどをレンタルした。カウボーイビバップを好きな人は多かった。ナデシコも有名だったから、友人の一人は思兼をデスクトップの壁紙にしていた。
逮捕しちゃうぞ、無限のリヴァイアス、マイアミガンズ、スクライドなどは深夜アニメで見た。リヴァイアスはあの暗さと人間関係の生々しさが本当に好きだった。スクライドはチャンピオンのマンガも話題になっていた。そう、当時はメイドが流行っていて、まほろまてぃっく、鋼鉄天使くるみ、花右京メイド隊なども見た。ただこのあたりは全話見ていない。ガンダム08小隊とかも全部は見ていない。何故かパトレイバーやマクロスは全く見ていない。
ヲタの友人はカードキャプターさくらを「キャプくら」などと呼んでハマっていたが僕は見ていない。ただこの当時ネットでも「さくらタンハァハァ」とかが流行って、ネットというか2chですね、ハイ。デ・ジ・キャラットも流行っていたが見ていない。
当時パソコン、インターネットを始めた影響もあって、To-HeartやKanonなどのアニメも見た。この辺りになってくると完全にヲタだ。堀江由衣が好きでCDも買った。アークザラッドのアニメも見た。
高校を卒業してからというもの、ヲタ友達がいなくなった。僕の通っていた大学はバカ大学だったからチャラいのばかりで、ヲタバレしようものなら生きていけなかった。仲良くなった人がたまたま普通の人だったから、ヲタ友達とつるむという事もなかった。大学1年生の頃に初めて彼女ができ、その前後から僕は隠れヲタになっていた。ただ隠れているだけなので、いくつかアニメも見ていた。
攻殻機動隊スタンドアロンコンプレックスは本当に面白かった。2ndギグよりも笑い男事件が社会性を帯びていて良かった。フルメタル・パニック、藍より青しなども見た。プラネテスはマンガ編でも触れたが、アニメのほうが先だった。NHKかどこかでやっていた。音楽も良かった。舞HiMEみたいなヲタアニメも引き続き見ていた。この頃は既に深夜アニメがかなりたくさんあり、僕はその内の一部しか見ていなかった。
アクエリオンなんかは当時流行っていたけれど僕は見ていない。エウレカセブンはその不人気にも関わらず全部見ていた。最終話の一つ前のアネモネが良かった。舞乙も見た。舞乙に関してはネットラジオも聞いていた。この時の小清水亜美が好きだった。全盛時だと思う。
涼宮ハルヒの憂鬱で僕が長門萌えをしないわけがない。かなり後だが消失の映画も見た。消失に関しては既にラノベが出ていたから、映像化されるのを待てずに読んでしまった。僕の初ラノベが消失だった。その後コードギアス、グレンラガン、らき☆すた、鉄腕バーディー、恋姫†無双あたりは見ていた。グレンラガンも最終話の一つ前が感動だった。鉄腕バーディーはアニメから入ってマンガも読んだ。ガンダムにしろAKIRAにしろ攻殻にしろプラネテスもそうだが、この手の近未来系SF物が僕は本当に好きだ。
大学を卒業してからはさすがに忙しくなり、アニメを見る頻度は減っている。
サムライチャンプルーは放送当時見ていなかったが後から見た。ある意味カウボーイビバップに似ていたと思う。ラストエグザイルも後から見た。タチアナ・ヴィスラにハマった。
けいおんも後からだった。ネット(2ch)の書き込みにある「あずにゃんペロペロ」は「えるたそ~」並に意味わからなかった。僕はムギが好きだった。学園祭の回で曲が終わったのにムギが伴奏を続けてアンコールみたいな形になるシーンとか好きだった。けいおんについてはマンガの続きがあるから再度アニメ化してほしい。
東のエデンのノブレス携帯には憧れた。iPhoneでジュイスの声を使っている動画があった。
化物語は初期が好きだった。最近までやっていたのも見ているが、僕は忍野がいた化物語が好きだ。ここからはかなり最近の作品になる。とある魔術の禁書目録、学園黙示録、俺妹、イヴの時間、氷菓、織田信奈の野望、有頂天家族、攻殻機動隊アライズも見ている。当然ながら新劇エヴァも見ている。しかしなぜか、まどか☆マギカは見ていない。
実質的に僕は高校時代がヲタ全盛時だった。この頃は隠れてもいなかった。ネットの影響と深夜アニメが充実してきたことが大きかった。僕の場合、ヲタか否かを分けるのはこのアニメの項目にある。映画やマンガに関しては普通のばかりだが、アニメに関しては一般人の目も当てられないような萌えアニメも見ている。もう一つ挙げるとすればインターネットだ。
昔kanonやって泣いたクチだけど。
その後は別にエロゲにハマるわけでもなく(keyのその後2作品くらいはやった気がする)、
出会い系や風俗は未経験で、モテるというわけではないが、普通にそれなりに恋愛して結婚した。
今の趣味はスポーツで、元々細いのに筋肉がついたら最近は何か微妙にモテるようになってきた。
精神的には自分ではマッチョじゃないと思うがたぶん世間的にはマッチョ寄りだろう。
何か思い出してきた。白詰草話とかあの退廃的な感じがよかった気がする。
あと何だっけアズライトとかいう感じの名前の主人公のやつ、表現の限界に挑戦とかなんとか宣伝されてたけど
そこまでか?って思ったのを憶えてる。
それから月姫の一番最初の作品はやったな。あれは普通によかったはず。琥珀さんだっけ、あれがよかった。
当時は結構ハマったと言えるかもしれないな。今は全くやらないんだけど。
http://anond.hatelabo.jp/20140831224816
お前がいう当時がいつなのか俺には分からないが、それの始まりから何年経ったんだ?
Kanonがお前にとっての泣きゲの始まりならあれからすでに15年は経ってる。
お前はその間何をしていた。
お前のトーチャンカーチャンが泣きながら結婚してお前の出産を見届けた時期はすでに通りすぎているだろう。
それなのにお前はまだエロゲのBGMで泣けるだなんだ言ってるんだ。
お前の人生はどこにいった?
他人が作った物語の中ではなくて、現実の中で嬉し涙を流してもいい年齢じゃないのか?
お前のエロゲの探し方も泣けるで、
他人の評判を当てにして有名な作品だけ埋めていこうって浅はかさ。
ライターのネームバリューを信じて予約した作品がバグまみれだった時の悲しみをお前は知っているか?
自分の直感を信じて買った作品が、他人には説明できないような自分のツボと噛み合って、自分の人生とリンクした感動を味わえた時の喜びをお前は知っているか?
家に引き篭もって他人がレビューにつけた点数や、レビュー数を当てにして「最近はいいゲームが無いようですなー」といつまでも言ってるお前の人生、泣けるで
感動を自分の手で掴もうとしてないお前自身のあり方が、エロゲの選び方にまで滲み出てる、泣けるで
誰かが作った感動を、誰かがたっぷりとオススメしてくれて、それからようやくその感動に手を伸ばす。
そうやって他人の手垢に染まりきった心の震えでお前の人生は一杯なんだよ。
お前が今まで流した涙の何割が「(他人が名作だと言ってるゲームだし泣いておこうかな)」という薄っぺらい無意識の底から湧きでた物なんだろうな
泣けるで
お前の人生、レビューに振り回されるだけのお前の人生が泣けるで
自分自身で「隠れた泣きゲー」を発掘しに行くスピリッツを持たない、お前の人生そのものが、
まるで俺みたいで本当に泣けるで
誰もいない教室。
風になびくカーテン。
だがそれがいい(断言
BGMもクッッッッッソいい曲ばっかり。
しょっちゅう聞いてる。
ゲームの中身ばっかり話題になるけど、音がいいエロゲとしてもかなり上位にくると思う。
http://www.youtube.com/watch?v=jzd632fMxqs
らくえんは音系がすごくいい。
よくBGM代わりに聞いてる。
ゲーム自体も面白い。単なる紙芝居にとどまらない演出で飽きさせない。
堕落する準備はOK?
http://www.youtube.com/watch?v=chN7nZjm5cw
風になびく草原。
巻き上がる緑の葉。
葉のシルエットに流れるような演出。
http://www.youtube.com/watch?v=_P4B0sb9eQ8
曇天に降りしきる雪。
暖かな光を囲む面々。
篝火。
血。
死体。
それらすべてを覆い隠す、白。
荘厳ささえ感じさせる音。
どこか不気味でさえある。
不思議な魅力をたたえたエロゲらしからぬOPに一気に引き込まれた。
本編もそれを裏切らない出来。
http://www.youtube.com/watch?v=ENwrNUGYb-c
以下は一段下がるかなーって感じのやつ。
荒々しいリフから入るところでガツンとテンションをもっていかれる。
好き、というよりエロゲらしからぬOPにインパクト受けたってだけかなコレは。
歌補正。
よく動く。
尻。太もも。
歌補正。
歌補正。
太く短く生きる人生って感じ。
歌補正。
さすがにそこまでぐりぐり動くわけじゃないけど。
なんだかんだで。
1000th summer―
ってところが音と合ってるのもあって鳥肌くる。
アニメもだけど。
アニメのOPはショートバージョンになってるから歌詞が違和感ある。
痛いほどわかる。
リトバス以降はすでに評価に値しない。
keyだからという一点のみで、惰性で、なんとなく好きだと思い込んでプレイなりアニメなり見ていた。
しかし、AngelBeats!を見てから、一気にその呪縛から解放された。
AB!は本当にどうしようもないゴミ。
そんなもん話がきた時からわかってるんだからそれに合わせて書けよって話。
原作有りを無理やり脚本に変えたならわかるけど、そうじゃない。
言い訳にならない。
.
振り返ってみると、麻枝のシナリオは過去もすべて整合性がいまいち。
すべて破綻しているといってもいい。
要はあっという間に脳内の創作貯金を使い果たして、まともに書けなくなったんじゃないかと。
.
しかし、思い出補正もあるかもしれないけど、やっぱりCLANNADまでは嫌いじゃないんだよな。
音楽のせいもあると思う。
麻枝は音楽だけでいい。
その能力だけで素晴らしい。
思い出補正もあるけど。
CLANNADは長すぎたけどそれなり。
真EDの父親とともやの画像で、たぶん他の人よりも感動できなかったから個人的にいま一歩的なイメージ。
なんであれが各所で持ち上げられてるのかわからん。個人的には唐突すぎた。
智代アフターは最後の最後のいろいろぶち壊し感がひどすぎた。それまでは普通によかったけど普通すぎて印象がない。
ギャグも全然だしキャラも微妙。ストーリーもつまらん。最後らへんのきょうすけのグリリバが泣くセリフあたりもすっげー冷めた目で見てた。
あと全体的になんかクドすぎる。わふー。そっちのクドじゃねえ。
寒すぎる。ミッションスタートだ!!とか。うわあ・・・って感じ。
エンジェルビーツ?アニメからして微妙だったからゲームはまずやらない。
MOONはやってないな。
そういやONEもやってない。絵とシステムだけ変えてリメイクしてくんねーかな。
なんだろうな…kanon、AIR、ついでにCLANNADは今でも好きだって思ってるけど、そんな状態でプレイしたリトバスがまったく自分に合わなくて面白くなかった。
何が違うかってーとやっぱり年齢とプレイした状況だと思う。
AIRもkanonも中高生の鬱屈したときにプレイして、CLANNADは就活前のモラトリアム期間とかそんなときにやった。
単純に世間知らずで夢見がちで自分からそういうものを求めてたんだな。
だからもうそういうものを求めちゃいけないみたいな自制が無意識に働いたとかいやそんなことねえやっぱりリトバスは俺には合わなかったというだけだ。
とにかくそれ以降、就職してからはkey作品と向き合えなくなった。
関係ねーのかな。
受け手の問題じゃなくて作り手が変わったってのもありえるか。
うーん、リトバス以降のkeyがなんか生理的に受け付けなくなった、でもそれより前のは好きって人どんくらいいるんだろう。
涼本と久弥にはそんな感覚はない。新作目にする機会がないだけだけど。
友達からすすめられたブギーポップの歪曲王を読み、その他ブギーポップを読み、キノの旅を読み、久美沙織のドラクエノベライズを読み、果てはエロゲ貸してもらってやってしまったのがかなり大きかった。
しかも最初にやったのがAIRだったという・・・BGMがCDDA再生だったことに気づかずに音楽一切なしでやってた。それでもはまった。友人はワーズワースをやってたけど、うちのPCだとスペック足りなかった。
Kanonを絶対18歳になったらやると思ってたけど、結局高校生のときに借りてやった。
ドキドキしながら入った個人経営のPCショップで鬼畜王ランスが面白いとめっちゃすすめられたけど胡散臭くて買わなかった自分をぶん殴りたい。つーか学ランの男子高校生にエロゲーすすめんなよ店長。
高校生のときに鬼作をやったこともかなりの影響があったと思う。堀部秀郎さん神。断然ゆうり(女子高生のキャラ)が好きだった。
あとFifth。これでロリコン的嗜好がついた。いや違うか。個人的にはアイテム屋のおねーさんのほうが好みだったから。
でも遅かれ早かれロリコンにはなってたと思う。野々原幹好きだし。
母親に人妻モノのエロゲがばれたのもいい思い出。正直そっちのケはなかった。借りたからとりあえず入れただけだよ!ほんとだよ!
高校生になってからはフルメタを教えてもらって図書室で借りて読みまくった。他に阿智太郎系も読みまくった。西尾維新の一作目も高校のときに出た。読んで衝撃を受けて周りにすすめまくったけど絵で敬遠されて失敗した。
大学生になってToHeart2XRATEDを買ってはじめて新品エロゲを発売直後に買うという経験をした。どきどきしながらこんなきれいでかわいい女の子がこんなことやっちゃっていいのかよと思ってた。由真をまっさきにクリアした。おまけの大したことないシューティングを何度も何度もやってた。
大学生になってひきこもりが加速してからはエロゲばっかだった。PS3もPSPも持ってなかったから。
マブラヴ(オルタ)、ランス、ロミオ作品、クラナド、ニトロ系、瀬戸口作品・・・
あとまとめブログとかね。かなりネットに洗脳されただけの偏った内容を得意げに親に話してて超痛かった。
大学受験のころにまとめブログとか2chとか知らなくてほんとよかったなあ…
逃げるように上京してほそぼそと働きながらいまだにランス9をやっている。
ダンボールには大学生のときに積みまくったエロゲーがあるけどやる見込みがない。
このまま今度三十路を迎える。
妹は今度結婚する。
俺には何もない。
中高とずっとイジメられていて、殴り殺されたら楽になるのにとずっと考えていた。
当然友達なんて一人もいなかった。
けど、ToHeartやこみっくパーティーやToHeart2のアニメを見るために、東映KANONのアニメを見るためにとりあえず生きていた。
P/ECEに音楽を入れて電車の中で聞く時間だけが救いだった。(叩かれそうだから、ボカして書いてるけど色々察し欲しい)
そして、ToHeart2のアニメを通じてラジオという人間が生み出した最高の娯楽と出会い、少し前向きになり、
そのラジオで話されていた「同性愛」というものに興味をもち、ジェンダーについて学びたく大学進学のために勉強をはじめた。
相変わらず友達は一人もいなかったけど、教授や院生の先輩たちと仲良くなった。
最初は教授の外国語の講義で興味をもって、その教授の交通学の講義をとって、その教授のゼミに入って、
そこで交通シミュレーションのプログラムに触れたのが、僕が動いているプログラムに触れたはじめたの体験だった。
教授自身に興味をもち、交通学に興味をもち、そしてプログラムっていう仕事に繋がる楽しいことが見つかった。
論文を書いて学会に出たはいいけど、質疑応答でしどろもどろになって、ホテルで教授に慰められたのもいい思い出だ。
四回生の先輩の卒論用のプログラムを代わりに書いていたら、気づくと卒論の本文までほとんど僕が書くことになったのも
自分が四回生になったときに、ゼミの人たちのプログラムの大半に携わっていたのも、大変だけど本当に楽しかった。
大学でやっていたFortranとは全然違う.Netをはじめとするマイクロソフトの技術に触れたことで、より一層プログラムが好きになった。
特にSilverlightを使って3DアニメーションのUIを開発したときは、大学の時に学んだ数学がこんな所で役にたつのかあ、とシナプスが繋がる楽しさがあった。
プログラムだけじゃなくて、自分で企画したWebアプリのプレゼン資料の準備をするのも楽しかったし、
派遣でいった先で、Flexに触れて、暇なときにパフォーマンスチューニングをゴリゴリやって、レスポンスを10倍ぐらい早くできたときは
「自分この仕事向いてるんじゃないかな?」とか天狗になって、そのあとそのパフォチューのせいでバグが見つかって大目玉を食らったけど
それでもやっぱり、楽しかった。(本番環境にデプロイする前で本当に助かった)
RIAだけじゃなくて、WindowsFormsでガントチャートをなんのライブラリを使わずにつくる仕事も楽しかった。
D&Dの実装はメンドイし、お客からは「この線を船の形にしてや!」なんて無茶振りにこたえるのも楽しかった。
そのあと、確かSilverlightが実質終焉を迎えた頃、事件があった。
女性社員と個人的にもめたのが拗れて、裁判沙汰になり、和解金を払い解決した。
その事件のせいで、就職した会社にはいられれなくなったものの、タイミングよく独立する上司がいたたため、
その人についていって、仕事に困ることはなかった。
本当に楽しかった日々は、それ以来ツラいだけの日々になった。
なのに、今僕は中高生のツラかったあの日々よりも、ツラいと感じている。
何も理由はない、転職したけど仕事にも不満はない、友達は相変わらずいないけど、Xboxをつければフレンドのアバターが迎えてくれる。
はてなにログインすれば、お知らせのところの赤い丸数字が承認欲求を満たしてくれる。
なのに、今ただただツラい。
本や漫画を読んでも、文章がブロック単位で入ってこない、ただの一文字一文字の羅列としか思えない。
ゲームをしていてもコントローラーを持つ手がいうことを聞いてくれない。
仕事もあれだけ楽しかったプログラミングがただの穴を掘って埋める意味のない作業にしか思えない。
特に女性の声は聞くだけで発狂しそうになる、タオルを口につめないと大声をあげてしまいそうになる。
ただただ、ツラい。
足を動かすのが、トイレにいくのがツラい。
それでも、その上司のことを考えると自殺するわけにはいかないと思い頑張ってきた。
けれど、どうももう僕がいなくても、大丈夫になったと思う。
そう思えたときから、ツラい日々が「どう自殺するか?」を考える日々になった。
今請け負っている仕事が終わるのが三月末。
そろそろ退社の意思を伝えて、六月ぐらいに退社して、自殺しようと思う。
嘘です。
自殺なんてしたくない。
死にたくない、ラジオを聞きたい。
ゲームがしたい。
アニメがみたい。
本が読みたい。
プログラムがしたい。
でも、その全てが楽しくないんです。
誰か僕を見つけてください。
追記
初めに断わっておくと、自分はネガティブで自意識過剰で気持ち悪いオタク女だ。
同時に、自分はそういうものなんだろうと大半は受け入れている。
周囲に迷惑をかけなければ趣味嗜好なんて自由だと思う自分にとって、最近の児童ポルノ禁止法周辺の論調は正直不快だ。
だけれど、子どもを性的にみること自体が否定されるべきかといえばそうではないと思う。
身につけるべきは性衝動を抑圧することではなく統制すること。
方法はともかく、とっくに結論はでていることではないかと個人的には思う。
統制できない人のためのゾーニングはもちろん必要であると思うが、それ以上の法的規制は必要ない。
では、自己統制したり、身を守ることができるようになるためにポルノは必要かどうか。
他人すべてに適用できるとは思わないが、個人的な体験としては必要だった。
そんな自分にとっては二次元の男性向け作品が一番安全に見ることのできるポルノだったのである。
腐女子を否定するつもりはないが、私にとってはBLの方が理解できないものであった。
まだ男女カプのエロゲやラノベの方が受け入れやすく、BLや女性作家の描く男性に抑圧されていることへの怒りを示したかのような攻撃性の表現が受け入れられなかった。
その女性らしさが嫌いだった。
イケメン男から好かれる物語やリアルな女性はさらにダメだったので少女漫画や乙女ゲーなどにもはまれなかった。
私は自分が性的な視線でみられることは不快ではあったけれど、性的な視線でみられる自分自身のことや異性を性的な視線でみる自分自身のことは否定したくなかったのではないかと思う。
その結果、同じように性的な視点で見られている二次元の女の子をかわいがるようになった。
ハーレムものの世界は少女漫画などの女性向け作品の世界とは異なり、女の子がみんな愛されることで幸せそうで見ているこっちも幸せになった。
そうして二次元の女の子を慰撫するうちに、自分自身についても肯定的にみられるようになってきたように思う。
もちろん意識してそうしたわけではない。
それとは別に名作と言われるエロゲー、いわゆる泣きゲーにもはまった。
長森瑞佳は強いと思ったし、そういう風に人を想い続けられる人間に憧れた。
みさき先輩のシナリオは視覚障害のヒロインというだけではなく、Hシーンでそのことを扱うことが衝撃だった。
性描写をする意味は心のやりとりを描くことでもあるのだと感じさせてくれた。
見た目のかわいさやはかなさとはうらはらに麻枝准の描くヒロインはみな芯が強く、優しく、生きることに一生懸命だった。
現実の女の子とは違い、きついことも言わなければ他人に嫉妬もしない。
他の子と競争することもなければ、競争することを要求してこない。
そんな女の子になってみたいと思わせてくれた。
もちろんそんな人間にはなれはしなかった。
現実にはありえない二次元の女の子たちを男の理想のたまものだと気持ち悪がる方々もいるのはわかる。
でも現実の女にもいいところはあるのかもしれないと教えてくれたのもやっぱり二次元だった。
理想はつめこまれているとはいえ、よくも悪くも女らしいキャラクターだった。
自分の想いを隠し、友人を裏切り、罪悪感にさいなまされながらも、彼氏をつなぎとめるためになんでもする。
受動的に男を責めながらも表面的には受け入れているふりをして、自分の想いを叶えようと行動する。
二次元の女の子のようになれないけどなりたいと感じる自分をいいと思えるようにもなった。
京介が桐乃に向けたセリフ「オタクに偏見をもっているのはお前自身だろ」というのは胸にささった。
まさにその通りだと思う。偏見は想像だけではなく経験からでもあったけれど。
自分勝手でわがままで都合良く人に甘えて、それでも努力家で自分を誇る桐乃を見ていたら、
たとえそういう不快な人がいたとしても自分自身が誇れるオタクであればいいのではないかと思うようになった。
これが三次元の、例えば実写ドラマであったらそうは思えなかっただろう。
同じ趣味をもつ女友達がいたら・・・と考えたこともあるが、それはそれで自己投影して嫌悪したかもしれない。
「女が嫌いという君はとても女らしい」と何度言われたことか。
現実から切り離された安全なものであるからこそ、自分と切り離していろいろと考えることができる。
それは性的な意味でも同じ。
凌辱ものまでも含めエロかわいく描かれる女性を愛でる視点を取り入れることで、少なくとも好きな人からそう見られることはさほど嫌ではなくなった。
「理解できないもの」を「理解できるもの」にするだけで、不快さは軽減された。
我ながら矛盾していることをしているのはよくわかっている。
でも自分にとっては性的なものを二次元から取り入れる過程が自分自身を受け入れるために必要だったのだ。
いや、未だその途上にあると思う。
そんな過程を踏んでいる間にもリアルでは人付き合いをし、男性に興味のあるふりをし、彼氏もつくり、別れ、修羅場も経験した。
好きな人がいなかったわけじゃないし、女嫌いの女が好きな男嫌いな男とも何人も仲良くなった。
病んだオタク友達も何人もいたし、どうすることもできず距離をとったこともある。自殺して亡くなった子もいた。
それ以外にも私がコミュ障だったせいで迷惑をかけた人もたくさんいる。
今でも申し訳ないと思っているし、誰とも付き合わなければよかったのではないかと思うことすらある。
私がおかしいんだろうとも思う。でも、おかしくて何が悪いとも思う。
何をしててもお互い気に障るようなら人に迷惑かけないようにするには孤立するしかない。
男性なら楽だったのかと考えた時期もあったが、そんなことはなく、それはそれで同じ結果だっただろうと今ではわかる。
みんなでわいわい盛り上がっていることがうらやましい時期も通り過ぎてしまった。
私はいつしか一人でエロゲを買いに行き、薄い本を買いに行き、男性向けアニメイベントにも参加し、そこで出会えた人と交流して仲良く話ができても、それ以上仲を深めることは求めなくなった。
オタクじゃない友達がいて「別にいいんじゃない」と私を肯定してくれればそれで十分なのである。
私は私を理解してほしいと思いながら、理解してくれなくてもいいとも思っている。
それでも、自分を助けてくれ、今現在も楽しんでいるコンテンツがなくなること自体は我慢できない。
一方的に勝手なことを言われて叩かれているのはさらに納得できない。
こんなものに救われるお前がおかしいというのであれば、こんなものに救われざるを得なかった現実世界の方がおかしいと思っている。