はてなキーワード: 斉藤環とは
年間漫画2000冊読んでいるというが仕事しながらがそれだけ読んでいるというのではアニメまでには手が回ってなさそうだから読んでる漫画には今のアニメの原作漫画と被ってるやつはあまりなさそう。
その2000冊が一般向け2000冊か成人向け2000冊かでも随分持ってる知識というか期待される人格は異なることになるよね。
デスストランジャー級の流行のゲームすらやったことすらなさそう。
自分の読んでる漫画のファンアート描いてる人で有名な人知らなさそう。その作品の同人界隈でのサークル主の力関係やごたごたも知らなさそう。
pixivとか漁ってるとタグ経由でタートルネックはともかくトレンカとか服装に関する自然に身についてくものだけどそういうのも知らなさそう。
単純にコンテンツを消化するということがメインになっちゃってそうだからスクエニお家騒動とかならともかく、ニートとフリーターと小学生と奇異太郎君の妖怪絵日記は同時期に流行ったいわばライバルというべきweb漫画だがなんで絵日記は単行本化され片や結局そこまでオワコン化したのかみたいな業界事情みたいなことの説明はできなさそう。
2000冊も読んでると右から左に情報を流していってるだけになってそうだからヤフー知恵袋にあるようなこの漫画教えてくださいみたいな漫画の特徴が書かれてる質問についてその特徴から漫画を特定するという技術は、記憶にとどまってる漫画の内容に関する知識はあまり残ってなくて案外低そう。乱読してるだけなので実用的な知識として身についてない、造詣が深まってない。
もっぱら漫画を読んでるだけぽいので岡田斗志夫(漢字こうだっけ?)とか斉藤環みたいに二次元オタク界隈の文化を全体として体系的に分析して語るみたいなスキルには疎そう(広く浅くじゃないから大局観がない。)
単行本発売のニュースのブコメの片隅でよくわからん虚空への釈明してる人がいた。
cinefuk 「犯人役」に異常に思い入れしてる人が怖すぎる。現実とフィクションの境目が曖昧で、ドラマの俳優が思い入れと違う言動したらバッシングに走るタイプの人かな
2021/09/03
https://b.hatena.ne.jp/entry/4707784779630917826/comment/cinefuk
パッと見意味不明すぎたためスルーされて☆すらついてないんだけどせっかくだから相手したい。
まずこの発言者はいわゆるポリコレ派・表現規制派・はてサ・オタクヘイトの人で「ルックバック」の修正も支持する立場の人。
そのうえでこれ何を言ってるのかって言うと
「ルックバック」の犯人像にアヤつけて修正を強いた勢力に対するネット上の反発について
「犯人役に異常に思い入れていて、彼のキャラがブレたことについて彼のファンが怒っている!彼らは現実とフィクションの境目があいまいなんだ!」
ってまとめようとしてるわけ。
言ってるcinefuk氏自身が違うのわかってて何とか言い張ろうとしてる以上は「ただのデマや歴史修正の試み」と言っていいよね。
という要素全部スルーして
「犯人役の熱心なファンが彼のキャラのブレについて俳優オタみたいな感覚でブチギレているんだ、怖い」
だもん。
繰り返すけど、cinefuk氏自身がこれはまるっきり嘘の欺瞞の歴史修正だとわかってて書いてるよね。
あ、こういうことする人なんだー。
フーンって感じ。
ていうかさ
その価値観に従って社会のいろんなものにアヤつけて「差別だぞ」というダンビラちらつかせながら修正を強いる、
それも広く言えば自由というか、あなた方の信じる理想や正義がそうなんだっていうことで受け止めらんなくもない。
でもなんで実際に修正させた後でそういう見苦しい嘘・言い訳・歴史修正を始めんの?
ポリコレ派の人が表現に規制や修正を掛けたあとでこういうこと言いだすの何度も見てるんだよね。 cinefuk氏に限らない。
圧力かけて修正飲ませたことはあなた達の思想の戦果なんじゃないの?
cinefuk氏のようなダッサくてショッボい嘘や歴史修正の試みを見ると
なんかあとから後ろ暗さを感じて必死に言い訳してるようにしか見えないんだよね。
要するにあんたらは修正や規制についてその結果を受け止める準備や覚悟もなく
ただ「これは正義だ差別反対だ燃やしたれー」「オタクが嫌がってるからやったれー」って
その後についてなーんも考えずに火をつけてるだけなの?
「ルックバック」は別に差別的なメッセージを発しようとしてる作品じゃないし
ムーブメントになるぐらいファンがたくさんついて語り合われてたし
潔癖なポリコレ基準で言っても「アウト」「差別」と断言出来るような表現はなくて
かなりグレーなところに突撃したもんね?(この人達はしょっちゅうそういうのやるんだけど)
修正が通っちゃった後で
「ポリコレ勢がぼんやりした論拠の圧力をかけて修正させた」って結果が残っちゃうのが嫌なんだね。
だからせっかくの「戦果」を誇るどころか、無理のある嘘を捏ねてまで圧力をなかったことにしようとしてる。
要するに全然考えも覚悟もなく火をつけてて、燃えた結果に対して責任取る気もないってことじゃん。
ポリコレや表現規制を旗にすることより、そういう無考えで無責任で卑怯で後からビビるようなところこそが心底だせえと思んだよ。
誰かひとりが心血注いで作り上げたもの、
そういうものにお前の正義で火をつけること自体はいいと思うんだよ。皮肉でなく。
でもその結果を考えて受け止める覚悟ぐらい固めとけよ。
お前らがクソなとこはそこに尽きる。
捕まってないだけの青葉だよお前らは。
versatile いつまでやってんの。コミックスが出て、さらに修正されてたよ
2021/09/03 リンク
その「コミックスが出て再修正されてましたよ」ってニュースのブコメ欄でcinefuk氏がゴニョゴニョ言ってるブコメの話な。
2021/09/03
妄想でもなんでもない。
cinefuk先生はけっきょく当該togetterコメ欄にも躍り込んでオタク叩きとポリコレ修正正当化に大暴れだ。
振りを頂いたしせっかくだから見ていこうね。
https://togetter.com/li/1768768#c9560571
cinefuk 🌀 @cinefuk 6時間前
軽い気持ちで別れた親友が、一生の別れになって「大学に行かせなければ良かった」と悔やむ話なので、親友が殺される"ギミック"に過剰に思い入れするのは主題から外れちゃうと思うのだよな。「異世界転生の主人公が冒頭で轢かれるトラック車種が、タイタンからエルフになった」事に執着しているように見える
ゴニョゴニョゴニョゴニョわかりにくい例えで長いけど、要は「あんな修正大したことじゃない!」という矮小化ね。はいはい。
これもさあ、自分達の信じる正義で燃やして修正させたんだから、それを矮小化する必要などなくないか?
「影響が大きかろうが小さかろうが、修正によってクオリティが落ちようが、必要な修正だったから修正させたんだ文句あっか!」って胸張ってほしいんだけど。
なんで自分たちの信念の成果に対してこんなダッサい言い訳するんだろ。
ついでに蛇足を言えば、
あの犯人像は重要なファクターの一つだと思うけどねえ。そこどうでもいいなんて言ってるファンほとんどいねえぞ。
斉藤環医師ですら「どうでもいいとこだから修正してちょ」なんて言い方はしなかった。
百歩譲ってcinefukさんの主張とそれ以外の声を相対化するとしても、作者ですらないcinefuk氏が勝手に作品の狙いを断言して自分以外のファンの読書体験に対して否定をかますのは正気ではない。
そういうのを物凄い読書好きとか大の漫画ファン藤本ファンとかが「俺の読解が一番正しい!」って意気込みでやってるならほほえましく見守るけど、
cinefukさんのは単に自分達で付けた修正の火の手とそれが招いた結果を矮小したいがために鼻水垂らして必死になってるだけなわけじゃん?
見苦しいとしか言いようがねえよ。
https://togetter.com/li/1768768#c9560694
cinefuk 🌀 @cinefuk
6時間前
親友だけが選択的に狙われた訳じゃない(たまたまその場に居ただけ)から、だから理不尽さと、後悔が際立つんだよな。『遠く離れた手が届かない場所で、親友が亡くなった事を、はじめて報道で知る』という仕掛けだから、殺人事件じゃなくても、たとえば大学施設の爆発事故でも、交通事故でも、物語の大筋に影響ないと思う。その場合に「主人公が、どう助けに行けるか」のIFを考えるのも、創作の楽しみ
何が「創作の楽しみ」か。
超矮小な視座の言い掛かりによってケチつけて歪めた挙句あとから焼け跡にビビり倒しやがってさあ。
正義ごっこの楽しみ放火の楽しみに比べりゃ創作の楽しみになんかネズミのクソほどの興味もねえクセによ。
いいかー、創作に敬意を持つ人間というのは、作品の隅々まで作者が神経張り巡らせて構成しているだろうと心得てるんだ。
だから「ここは重要じゃないからいいよね」なんて勝手に変えたりカットしたりなんて絶対にしないし出来ない。
あんたが自己正当化のために口走った「修正箇所はたいしたところじゃない」という言い種がもうあんたの正体なんぞ明らかにしてんだよ。
創作に敬意のある人間が修正を要求してるなら「正義のためにあなたの指を1cm詰めさせてもらいます」というニュアンスの言い方になる。
今後も醜悪な成り済まし続けるつもりなら良く覚えとけ。
https://togetter.com/li/1768768#c9560718
cinefuk 🌀 @cinefuk 6時間前
殺人鬼に異常に思い入れがある君たちは、殺人鬼の人生を描く二次創作(スピンオフ)に一歩踏み込んでいると思うんだよね。作者に「おれの考えるモブキャラの人生と解釈が違う」とクレームする厄介オタクって結構いるけどさ
むしろ「こういう強弁で封じ込めを図るほど自分らへ反論する人たちのことを恐れてるのは何故なのか」を考えて眺めると面白い醜態だよね。
https://togetter.com/li/1768768#c9560745
cinefuk 🌀 @cinefuk
6時間前
なんつうか、「元に戻せ」と作者に迫る読者は、ミザリー的
文句言われてるのは修正圧力をかけたcinefukさんらいつものポリコレ放火勢の皆さんだよね。
これももうcinefukさん自身明らかに自分が欺瞞を吐いてるのをわかってて、
それでも「なんとかすり替えが通って歴史修正されてくれ……!」って言う必死の祈りみたいなものを感じるよね。
でもさあ、
なんでそこまで自分達が修正させたという戦果を無かったことにしたいの?
そんな滅茶苦茶なデマ散布を図ってまで逃げ回る必要どこにある?
胸張って「俺たちが修正させました!」って言えばいいだけじゃん。なぜ言えない?
あんた達が見苦しいのはその一点なんだよ。
https://togetter.com/li/1768768#c9561576
cinefuk 🌀 @cinefuk3時間前
ちょうど今「殺人犯はバ美肉アニメのオタクでした」という報道がされているけど https://togetter.com/li/1768328 不必要な情報を付与する事によって差別のレッテルを貼られる事に危惧するのって、ダメな事なのか?報道にクレームしている @NPO_VR は「自由な表現を阻害する表現規制者」か?
とうとう哀願調に本音が出てまいりました。
ゴニョゴニョゴニョゴニョいろんな方向で変なこと言ってたけど
要するに自分達が火をつけた表現修正の正当化をしたいっていうのが目的のすべてだよね。
「オタク差別的な報道」と「自分たちのポリコレ放火」とをバーター取引で見逃してちょおおお!!!!
なんなのよこれは。
こいつもう明らかに差別に反対する人とかでもなければ、自分の正義や信念に殉ずる狂戦士とかでもないよね。
軽く下劣な気持ちでよう考えもせず火をつけたあと結果にビビりあがって、自分らでやったことの責任を問われるのが怖くて怖くて、そこを問うてくる奴は異常者だとか先回りでレッテル貼ってなんとか黙らせよう逃れようとの八面六臂の多動ぶり。
そんなに怖いならなんで火なんかつけたんや。
青葉も、あなた達も。
ていうか「大学に行かせなければよかった」なんて話じゃねーし、「軽い気持ちで別れたから~」という話でもねーし、自己保身のために必死にひん曲げてんだろうなってとこ以外でもなんかcinefukさんの読解って相当独特よね。そもそもルックバックに興味もって読んだことあるのかすら怪しい人の読解をどうこういってもしゃあないんだけどー。
その通りですね。当たり前田のなんとやら。
これは微妙。「海女絵は巨乳をポルノとして扱っているから問題だ」という見解が海女絵批判におけるコアだったとは思えない。海女絵批判の一番コアな部分は「当の海女が嫌だと言ってるからヤメロ」という部分じゃなかったっけ。その一点に絞ったほうがオタども(?)からの反論をかわしやすいからね。
そもそも、あの絵は本当に「ポルノ」なの?という疑問もあるよな。もちろん日本のマンガアニメ表現は「性」や「エロ」と深い関わりがあるよ。でもだからといってあの海女絵を「ポルノ」と容易に断定することはできないと思う。ポルノってことは斉藤環的に言えばその絵で「抜ける」ってことなんだろうけど、オタどもはあの絵で本当に抜いているのだろうかね。疑問。
■本文。
朝のワイドショーで[社会的ひきこもり]を特集するようになるとは、世の中、つくづくアレなんだなあ、と思う今日このごろですが、今月のお題は『ONE』です。本当は最終回まで取っておこうと思っていたのだけど、小倉さんとデーブ・スペクターと斉藤環が同じ画面に映っているのを見たら、辛抱たまらなくなったのですよ。しかし、『二時のホント』が終わったのは、ワイドショーマニアの筆者には痛い……。
―――さて、『ONE』をプレイして強く感じたのは、母性と父性の欠損に対して、援護射撃に頼らない直球勝負を挑んでいることだろう。ただ、同じ主題を扱っていても、手慣れたテキストの『Kanon』に比べると、まだ手探りの部分が多く、比喩などにあからさまな引用も多い。だから、必ずしも褒められたものではないのだが、BGMと画面演出の組み合わせを効果的に使う[音の魔法]に頼っていない分、言霊の比重が高くなっている印象を受けた。
重要なポイントは、この作品で描かれる世界には、超えるべき父性は最初から存在しないことだろう。同時にそれは、学習することもできないということでもある。[他者]は、主に母性を巡るものとして描かれているが、主人公である浩平の母親は、カルト系の新興宗教に盲従した結果、母親であることを放棄している。そして、浩平は、他人との関係性を肉親から学習しないまま=子供のままで妹に対し、父の代わりを演じたが、妹の死により、父性の獲得=男性としての自立にも失敗してしまう。そのため、主人公は二重の意味で心理的欠損を抱えているのだ。
更に、母親が発狂し、ウロボロス的な母性を発動させてしまった際に、母親を拒否している浩平は、壊れた母性に対する嫌悪感を潜在的に抱き続けている。由起子おばさんが、一度も浩平の視界には現れないことや、長森シナリオでトゥルーエンドに辿り着くためには、長森を嫌悪し続けなければならないことの理由でもある。いわば、母性と父性の欠損を巡る内面の問題こそが、『ONE』という物語の核になっている。また、宗教によって母親が発狂し、浩平の前から姿を消すシーンは、『ONE』の前作にあたる『MOON』の主題を継承しているとも言えるだろう。
だから、この作品の基本構造は、どのシナリオもアプローチの違いこそあれ、本質的には同じだ。他者との距離感を知らないまま成長していくことに、情緒的な病による死を予感した浩平自身の本能が、自然死を避けるために、偶然を装った出会いを起こし、浩平に欠損した部分を取り戻させようとしたことが、物語の動機になっている。そして、浩平自身の本能は、ゲームの作り手であり、浩平はプレイヤー自身である。
だからこそ、浩平の鏡像となる女の子たちは、それぞれが身体的なハンディキャップや心理的外傷を持つ者ばかりが選ばれたのだろう。同情という媒介を用いなければ、出会いという動機を持つことができないほどに、浩平の病状は悪化していたし、宝探しを始めるには、同じ宝を共有できる相棒が必要だったのだ。
本能の企てに乗せられた浩平は、達成されなかった父性の確立に再度挑戦する。ところが、達成寸前に壁が現れる。それが[えいえんのせかい]という、癒しの象徴でもある異界への願望だ。もっとも、異界が具体的に描かれることはない。まあ、具体的に描いたら、山上たつひこの『鬼面帝国』か、出口王仁三郎の『霊界物語』みたいになってしまうような気もするが(笑)。
―――いや、最初から浩平は異界に取り込まれていたのだろう。つまり、浩平が抱いていた、思春期独特の中途半端な世界認識が、そのまま、異界への潜在的な願望として、妄執のように内在していた。それが、絆の発生で、完全な鏡となった女の子を介して照らし出されたのだ。つまり、中途半端に終わった目的を今度こそ達成しようという意志(現在)と、中途半端のままで反復しようとしている記憶(過去)が衝突したことで、[えいえんのせかい]という、思考停止状態に陥ったのだろう。
さて、プレイヤーとしての浩平が一度、舞台から退場することで、今度は、選ばれた女の子が自身の母性=主題を自覚することになる。そして、父性と母性が相互補完的に成立することで、浩平は再び舞台に戻ることができる。つまり、互いを鏡像=他者と認識することによって、欠損を補填した訳だ。この構造自体はありふれたものだが、ありふれたものであるがゆえに、強い言霊を生み出すことができる。そして、この作品で特筆すべきことは、美少女ゲームで描かれる世界が失われたロマンティックであり、実際にはあり得ない世界だということを巧妙に描いていることだ。
何故なら、『ONE』の登場人物たちの多くは、自分たちの生きている世界に対し、無自覚な肯定をしない。強い否定もしない。約束された楽園が既に失われてしまっているということを、登場人物自身が自覚しているように見える。プレイヤーもまた、物語を介し、その完結に立ち会うことによって、楽園が失われたことを知りながら、ゲーム内の楽園に耽溺するという、二律背反的な認識を持つことになる。
例えば、『ToHeart』が、ゲーム内ではいったん完結しながら、アニメ化(メディアミックス)にあたって物語世界を再構築した際に、約束された楽園=主題を持たない真空状態を維持すること……終わらない物語であり続けることを選択し、ユーザーの楽園願望を全面的に肯定したことで、現在でも現役の商品として、人気を保っているのに対し、『ONE』の場合は、主題を巡る部分が『Kanon』と『鈴がうたう日』という二つの作品に分岐&移行してしまったことで、作品と商品の両面で、既に幕を閉じているのだ。
この辺の違いについて、最も分かりやすいのは、やはり、長森シナリオであろう。『ToHeart』のあかりシナリオに対するメタ的な構造を持っているからなのだが、筆者も鈍いので、気づくまでに何度かキレそうになったのは余談だ(苦笑)。
もっとも、『ONE』以降、恋愛描写を重視した[泣き系]の作品が氾濫したことで、相対的に主題の空洞化と、[お約束]としての普遍化が起こっているのは否めないが、この作品自体は、非日常と日常や、万能感と無力感の間で葛藤する思春期独特の世界認識と通過儀礼を描いた作品として評価できるだろう。
更に言えば、本来は『WhiteAlbum』や『デアボリカ』のような、ユーザーの価値観を揺さぶるタイプの物語が担っていた役割を、『ONE』の成功で、思考停止による癒しを主目的とするタイプの物語でも担えることを証明したのだ。
物語とは、社会と個人を繋ぐ媒介だと思う。いつの時代も、その本質は変わらないが、物語を伝達する手段は、時代の変化と共に変わっていくものだと、筆者は考えている。美少女ゲームを媒介として、社会と繋がり、社会を学習していくという構図も存在できると思うし、一見、楽園を肯定するような表現に重層的な含みを持たせることで、現実社会との距離感を認識させる手法の確立を、本格的に模索する時期に入っているのではないだろうか?
■あと一回のお知らせと総括。
ホームページでは既に告知済みだったのですが、本コラムは次号で最終回となります。次回は連載総括という形で、これから発売される作品について触れたいと思っていますので、作品ごとの論評としては、今回が最後です。
降板の理由は、今年に入り、筆者の健康状態が悪化して、月刊ペースでの連載が難しくなってしまったからです。無理に書いて、自己模倣に陥ってしまっては意味がありませんし……。
―――そういう訳で、読者とメーカーの方々には、一年と少々、筆者の回りくどい文章に付き合っていただき、本当にありがとうございました。連載はあと一回ありますが、この場を借りて御礼申し上げます。
人間の本性に対するどうしようもない遣る瀬無さを、
感じさせられずにはいられないのだ。
ほんとう。
経済的にも社会的にも。あとは、コミュニケーション弱者でもあった。学校の中で友達の多いか少ないかで決まる格差社会、と斉藤環氏が書いていたやつだ。
そういうありとあらゆる格差の中での弱者側だった。
弱者は社会のストレスを吸収させられている。そいつらが吐き出すのは個人のストレスじゃない。社会全体が彼らにかけている負荷に対する悲鳴だ。
カトウだけじゃないはずだ、あんなに苦しんでいるのは。
いまもたくさんの人が苦しんでる。
それってなんだか同時テロを思い出してしまう。
そしてそのストレスを、わずかな違いによって弱者たることを免れた者たちが黙殺し、あるいは弱者だけになすりつけ、ネタにして騒ぐだけで流してしまうこと。
人の痛みがわからない。
横からすまんが、その増田が言いたいのは「去勢」のことじゃないかと思うんだよなあ。
自尊心ではなく、万能感と表現した方がわかりやすかったのではないかと思う。
こちらの方が斉藤環の「社会的ひきこもり」から引用していろいろ書かれているんだけど、この部分に該当しそう。
ttp://mblog.excite.co.jp/user/eagleai/entry/detail/?id=7911760
さて、この「去勢否認の誘惑」については性差があり、女性には働きにくいそうです。
その理由についても、書かれています。
「わが国において、とくに女性に関しては、社会システム全体が「去勢」を成功させるように働くので、女性のほうが速やかに成熟しやすいのかもしれません。女性は人生の早期から、「女の子」として扱われることを通じて「あきらめ」を受容させられるのです。このため思春期においては、同年齢なら、たいがい女子のほうが大人びていますし、そうでなくても女性の打算やリアリズムには、男性は到底、太刀打ちできません。ですから教育システムにおける去勢否認の強制も、「あきらめ」を知った女性に対しては、それほど強く作用しないのです。」
NHK『爆笑問題のニッポンの教養』次回予告に『涼宮ハルヒの消失』が映っている件
http://sponta.seesaa.net/article/42468063.html
テレビや映画を観ておかしくなった人はいるけど、インターネットではまだいない、と言ったのは斉藤環だっけか。