はてなキーワード: 恵比寿とは
はてブにあったネタに触発されて、自分のツイッターにメモしたので、増田で共有しておこう。
★昔西武新宿線沿線に住んでた頃、新幹線乗る場合は東西線大手町から地下道歩いて八重洲口に行ってた。
★まず「乗り換えが楽な駅」の把握が重要。銀座線と丸ノ内線の赤坂見附駅とか。
飯田橋なんかは、乗り換えに数分掛かる。自分は飯田橋乗り換えは極力避ける
★あと、なるだけ大江戸線は避ける。
線路が曲がりくねって時間が掛かる上、地下深く走っているから、ホームへたどり着くのが大変
★新宿から東の方へ行く場合、大江戸線利用する方が路線図上は近く見える場合でも、
都営新宿線は線路が真っ直ぐで速いし、運が良ければ急行が拾える
★中央線快速(新宿~東京)は一見速そうに見えるが、路線はS字を描いているから、実は大して速くない。
新宿から東京駅近辺に行く場合は、場所にもよるが、新宿線から神保町乗り換え三田線大手町(日比谷)が速い場所がある
★あまり知られていない乗り換え楽な駅もある。
猪瀬知事がバカの壁を取り払ったおかげで、新宿線と半蔵門線の九段下乗り換えがかなり楽になった。
★第二最寄り駅の把握も重要。
「ミッドタウンは六本木」という思い込みがあるが、実は千代田線乃木坂も案外近い。
★駅の大きさの把握も大事。
例えば池袋から新宿へ行く場合、小田急ハルクとかへ行くなら山手線が速いし、
高島屋タイムズスクエアに行くなら埼京線が速い。それくらい新宿駅は大きい
例えば保土ヶ谷から神谷町虎ノ門界隈へ行く場合、たまたまやって来た電車が横須賀線なら、
たまたまやって来た電車が湘南新宿ラインなら、恵比寿乗り換え日比谷線で神谷町へ行くべし。
ごめん。でも事実だし。
それはお前がそー思いたいだけだろ。そもそも俺は自分が文化人とか言ってないし、別に思ってもないし。
どーでもいいよ、その括り。
ごめん、俺のフレンチとか行ったことないよ。さすが田舎成金、流行りものには敏感だね。
世田谷住みなんだけど、じいちゃんの代から通ってる鮨屋、うなぎ屋に行くのが幸せかな。
やっと自分のお金でいけるようになったんだ。だから余計に幸せかも。
ちなみに、美味い鮨は銀座じゃなく世田谷だから。そういうの田舎成金は知らないんだろうな。
どんなバブル脳なんだよ。銀座、六本木で豪遊することに価値を見出せないのでどーでもいい。
銀座のクラブとか、知り合いにつれてってもらったことあるけど、豪遊はしてないしな。
東京人からすると、不便だし、近くに会社がない限り行かないわ。
時計に興味ないのよ。
あんた田舎成金だから、フランク・ミューラーとかに騙されちゃうんだろ?
教養は知らん。本読んでついてればいいな、という程度。
東京に住んでるのが当たり前すぎて、誇りも何もない。
文学や美術といったハイカルチャーや、自由が丘や恵比寿のような町、西荻窪の骨董、(少し古いが)谷中・根津・千駄木のような。
下北沢を見下したり、部屋にあるものの無印率を高めたりしても、自分の中にある芋臭さは抜けてくれない。
こういうこじらせかたをしたのは、オタクから逃れたかったからだ。
別に、今だってアニメは見るしゲームもする。ガジェットも好きだ。
逃れたかったのは、オタクというカテゴリにいる頭のおかしい人間だ。
ねちっこく破綻した人格、キッチュなものを至高と信じて他を知ろうとしない態度から逃れたかった。
群れるオタクの中にいるヤンキー的集団から可能な限り離れたかった。
http://anond.hatelabo.jp/20140416203932
元増田を読んでふと思い立って。
ちなみに現在は東京に出てきて10年がたち年収は1000万近く(超えてはいない)になり結婚、子供も出来たので川崎近郊に一軒家を買っています。
当時は会社が恵比寿にあり、業種柄デスマになりがちのためとにかく近いところ、と言う点で最初は大崎に住みました。
大崎はご存じの方もいらっしゃいますが山手線の外側は少し歩けば閑静な住宅街です。
駅から徒歩5分のボロアパート(築45年)でしたがなんと家賃は6畳一間で7万円。強気すぎる。
室温と外気温がおなじになるというスキマだらけの部屋です。選択した理由はただ一つ、風呂トイレが別という点だけ。
押し入れの壁は紙で出来ています。突っ張り棒で穴が空きました。
お風呂はカチャカチャ回すタイプの物(知ってる人いる?)トイレがかろうじて洋式でしたが座るとひざがあたりドアが閉まりません。
ドアからはすきま風がビュービュー吹いてくるので目張りをしました。
夕方になるとどこかからかお経が聞こえ、網戸もないのでスズメバチが部屋に入り大パニック。
ですが大崎駅前には安い小さなスーパーがあり(ゲートシティ側のライフ・ダイエーではない)かなり助かりました。
ゲートシティの落ち着いた雰囲気や、目黒側、御殿山近辺の雰囲気の良い町並みは心をいやしてくれます。
当時購入したママチャリで戸越近郊や平和島の業務スーパーなど安いスーパーを探し、週末に朝昼晩と作りおきをして置くという生活でした。ママチャリ万歳。
貧乏でしたが都心へのアクセスが良すぎるので毎週末、新宿・渋谷に飲みに行き、友達がたくさん出来た時代です。
貯金は出来ませんでしたが。
2年ほど大崎に住み、より会社に近いところで一駅近づいて五反田でしかも山手線の内側、高級住宅街と呼ばれる池田山近くに住みました。
ここでは築35年の鉄骨マンションです(鉄筋にあらず)。
駅から徒歩8分、坂を上り桜田通りをあがったところですかね。ビジネス街と遊楽街と高級住宅街がせめぎ合う一角に安いマンションがありました。
なお、まだ給料は変わっていません。すこし、ボーナスが出たのでそれを敷金礼金にぶっ込みました。
でも相場よりは安く、6畳二間の2DKでした。少しは人間らしいかな。
同じく家賃で収入が結構消えます。ベランダ菜園で無限ネギを栽培したり、酒のつまみ用に枝豆やプチトマト、二十日大根などを栽培し、塩で食べるという生活を続けていましたが、ママチャリも大活躍し、例によって土日は安いスーパーを探し、たまに品川シーサイドのイオンで暇をつぶし、体を動かすために大崎や戸越の小学校の市民プールで安く泳ぐ、という生活です。
五反田近辺はビジネス街の様に見えますが、探すときれいな公園があったり、安いスーパーや安い居酒屋、目黒川沿いの桜の名所もあり、風俗もあり・・・
なかなか楽しめる街です。
いつかは池田山の豪邸に住みたいと思いながらも楽しめました。
そしてママチャリが1台あれば、東京都内はかなり楽しめます。電車賃ももったいないので渋谷くらいまではママチャリでした。30分もあればつきます。
終電が無くなっても自転車で帰れます。ロードバイクなどの購入も考えましたが、盗難や撤去されることも心配ですし、
安いスーパーに遠出し、多量に荷物を購入することを考慮するとやはりママチャリ最強です。
休みの日は自分でいれた麦茶を冷やして1リットル持って都内をママチャリサイクリングです。
元増田の銀座近辺、八丁堀や神田近辺も自転車で回ると色々な発見があって楽しいです、ママチャリでのんびり都内の名所巡りです。
無駄に名所はお店に詳しくなるのでお金が無くても話のネタは尽きません。
そのためだけに月1回だけ贅沢しておいしい店で安く食べます。迷惑な客だったでしょう。
その後は順当に給料も上がり、年収700万を超えたところでクルマを購入。
なお、五反田近辺は駐車場代が5万円を超えるという、クルマのローンより高い駐車場代の相場でしたが、そのマンションは特殊な事情で2万円で駐車場が借りれたので、安いクルマながらもいろんな所にドライブに行けるようになり、見聞もより広がり楽しいアーバンライフを過ごせましたとさ。
めでたし。
まぁ、何が言いたかったかというと給料安くても都心に住むと刺激的な毎日を過ごせつつ、いろんな楽しみ方もあり、お金をかけずとも楽しむ方法はいくらでもあるので都心おすすめです。
http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20140327/p1
マイルドヤンキーっていうのはつまるところ、(少なくともこの文章を目にする程度にオタクな人からすれば)一体どこにいるのか分からないエグザイルとか浜崎あゆみのリスナーとかそういう層だろ。すごくたくさんいるらしいけど、自分の周りにはいないサイレントマジョリティのことで。
ただそういう連中は意外と金もってるやつもいるし、ヤンキーの意味に貧困を含めるのはまるで妥当でないよね。極論的にいえば、ホリエモンだってその感性とか存在感とかだいぶヤンキーだしね(だからそのスタイルの後継者として与沢とか情報商材成り上がり系のITヤンキーがいるわけで)。
ところが、まあここにきてオタク、ヤンキーというクラスタの存在ははっきりしたんだけど、もうひとつ早急に分析されるべきクラスタはブルータスとかその辺が規定している「お洒落ワナビー」、簡単にいえば「丁寧な生活」をしてる連中だと思うんだよね。中途半端にオーガニックなもん食って、中途半端に反原発して、中途半端に中目黒とか恵比寿に住んで中途半端なビンテージ家具とか買う連中。instagram系てか、ビームスはいやだけどジャーナルスタンダードはあり、みたいな疑似「丁寧生活」層。そこは自わりと最後までメタ分析されづらいクラスタだと思うんだけど、なんと呼ばれるんだろうね。
で、実質の18歳〜40歳くらいを割合で分けるとヤンキー5割、オタク3割、ジャーナルスタンダード2割てのが日本の実際じゃないかと思う。
明治~現代の各時代の古地図が見れるサイトを見つけて、古地図&道路フェチとしましては、むさぼるように見入ってしまいましたとさ。
で、主要道路がこれまでどんな変遷をたどってきたのか、知ることができた内容をメモ代わりに。
【おもな放射道路編】
【おもな環状道路編】
【その他、概況】
22歳の時に一部上場の自動車部品メーカーに入社し、首都圏で働いている。
「俺」に東京を案内してもらいたいと言って、土曜から今までこっちに来ていたからだ。
日光の温泉旅館に泊まりで出かけて。まあただ泊まっただけなんだけど。
絶対口説けると思って、新幹線の改札前で別れ際に付き合いたいと言った結果が
「そういう対象に見られない」
返事を聞いた瞬間に湧き上がってきたのが、「残念」というよりも、「またか」という感情。
「ドキドキしない」「優しすぎる」「いい人すぎる」「お兄ちゃんみたい」
残業代や住宅補助、出張手当なんかを入れた年収は額面で500万を少し超える。
初対面の人にアメフト部とか柔道部出身とか聞かれるようなガッチリ目の体型で、
野太い声をしているので、外見は非常に男らしいと思う。
学生時代にはフリーペーパーにファッションスナップが載ったこともあるので、
それなりにおしゃれなんだろうとも思う。
18の時に一人暮らしを始めてからというもの、最低でも月に1度は女の子とサシで遊んでいる。
初詣に花見に、ドライブにハイキング。海にプールに冬山でボード。
カフェにバーにイタリアンにフレンチに。スポーツ観戦に花火大会。映画にコンサート。
やることをやるのをのぞいて、おおよそカップルがするような遊びまでは一通り経験できてんだよ。
それなのに、誰とも一線を越えられない。
お断りの理由から察するに、フェロモンが出てないとしか言い様が無い。どうしようもない。
ブザマすぎる。惨め過ぎる。もうどうすりゃいいのコレ。
‐ 2020年12月、トーキョー ‐
より便利により早くより安価に物が動き人が動くことが可能になったものの、
今はすっかり人々の生活に定着したタブレット端末によりAamazonのサイトで
いわば職人道具と化していた)
パートナーとは恵比寿か代官山に食事に行こうかとも提案したが、
お気に入りのイタリアンレストラン「アリエッティア」がなくなったこともあり
家でテレビでも見ながら食事をして過ごそうということになっていた。
24日のクリスマスイブは贔屓にしているコメディアンのバラエティ番組が放送されるので
外に食事をするより家でのんびりするほうが私は気に入っている。
40歳になっても動画サイトで二次元のヒロインとクリスマスを過ごす、
という内容のタグを漁る習慣は抜けないでいる。
クリスマスのシーズンに聴く音楽は大抵iTuneストアで購入する。
ビートルズの【ラスト・クリスマス】、ジョンレノンの【イマジン】
ドリームズカムトゥルーの【WINTER SONG】、山下達郎の【クリスマス・イブ】は
毎年欠かさず聴くようにしている。
今年はそのプレイリストに流行りのアイドルソングか今季で一番お気に入りの
アニメソングを入れようかと思っている。
大学時代からの熱心な趣味(と言って差し支えないだろう)であるアニメ鑑賞は
この歳になっていても続いている。むしろその病的な情熱はより強くなったと言っていい。
1週間地上波の番組を全て録画することができるHDDレコーダ**(ソニー製)には
パートナーが呆れるのも無理はない。
週末はたいてい道場に行くか図書館に行くことを日課にしている。
気が向けば隣町のラーメン屋までドライブに行ったり、都心まで足を伸ばして
外出するのが億劫な場合はネットワークゲーム(すでに7年もやっている)
に興じて一日を過ごすこともある。
本は主に日本文学やミステリー、SF、技術書、ビジネス書、自己啓発書などを中心に
読んでいる。東野圭吾が未だに現役なのには驚きを禁じ得ない。
自分で創作した小説まがいのものをWEBにアップすることもたまにあるが本格的な長編を
完成させたことは一度もない。いつかしっかりとした長編SF小説を買いてみたいがそれは
まだずっと先のことのようだ。その夢が叶うのはあるいは老後かもしれない。
ライブなどもたまにいく。
ロックフェスの数もだいぶ少なくなってきたが
それでもライジングサンフェス、ロックインジャパンフェス、サマーソニック、
フジロック・フェスティバルなどの主要なフェスには根強い音楽ファンが毎年何万人も
参加している。初音ミクなどのVOCALOIDのDJもだいぶ定着してきたようで
アニメ色がより強くなったのは2000年代では考えられないことだ。
相変わらず邦楽ロックが中心にミュージックステーションとかに出演するようなアーティストを
好んで聴いている。ジャズやクラシックにも挑戦したいと思っているが
若いころに比べるとだいぶ腹も出てきたのでなるべく運動はしようと考えている。
年に1度はするようにしている。
なんでも手を出してすぐに飽きる癖はなかなか抜けないようだ。
月に一度は料理をする。
(ちなみにオニオンフライを下品にならない程度に散らすのが美味しさのコツだ)
酒は相変わらずビールを中心に飲んでいるが
バーボン、日本酒、焼酎、ウィスキー、ワインなども好んで飲むようになった。
たまに燻製を作ったりすることもある。
行きつけのバーも随分増えてきた。
新宿のゴールデン街や池袋のショットバー、中野の立ち飲み屋などに
行くのが週末のささやかな楽しみだ。
焼き鳥屋や蕎麦屋で晩酌するのが好きだが家庭的なイタリアンレストランだったり
本格的なソーセージを食べさせてくれるドイツ料理、泡盛が飲める沖縄料理、
銀座では映画を見たり、老舗のスイーツを買いにいったりするのが好きだ。
みんなそれなりに年をとり良くも悪くも変化していった。
インターネットの高速通信網は日本中に貼り巡り(それは私に生物の毛細血管を連想させる)、
かつて”スマホ”と呼ばれるものを肉体に移植するのが普通になったが、
脳の情報をデジタル情報に置き換えて肉体を必要としなくなる時代が到来するのはまだ先のようだ。
人類がテクノロジィに踊らされているという状況はいつの時代も変わることはない。
願わくばテクノロジィが戦争の為でなく人類の平和のために使われることを
ひどく薄いインスタントコーヒーとともに。
2020年東京オリンピックが決定した9月8日早朝。その日、我々日本人は否が応でも7年後の日本を想像せざるを得なかったわけだが、日本の未来を予感させる出来事は同日夜の恵比寿リキッドルームでも起きていた。
今回のライブは、ceroとして久しぶりのワンマンライブだった。タイコクラブに始まりライジングサンに至るまで、全国津々浦々と様々な夏フェスに出演してきた彼らは、一回りも二回りも成長した姿を見せてくれた。ボーカルの高城は自ら今回のライブを「文化祭」と形容したが、オープニングアクトの表現(Hyogen)や、サポートメンバーの面々と力を合わせて作り上げられたステージには文化祭のごとく熱いエネルギーが集約されていたと言えるだろう。
満員のリキッドルームで観客たちが開演を待ちわびる中、開幕したステージに現れた高城。ZAZEN BOYSよろしく「死ぬほど練習をして、マツリスタジオで練習をぶちあげてきたので」と観客から笑いをとる。そして、告知されていなかったオープニングアクトである表現を紹介するとさっと身を引き、表現の演奏が始まる。
アコーディオン、バイオリン(一曲目のみ)、アコースティックギター、ウッドベースの4人組からなる表現はceroと関わりの深いバンドだ。ギターの古川は高城と高校の頃からの知人であり、その後もceroと表現で互いに切磋琢磨してきた仲だ。お互い尊敬しあえるバンドとして成長を遂げた両者が集い、久しぶりの対バンとして出演する彼らを見て高城は舞台袖で涙を流していたそうだ。
さて、表現の演奏はというと、全員がコーラスを務めているのが特徴的だ。セリフのような歌詞をメンバー全員が声を張って歌いあげる様はまるでミュージカルのようである。スキャットやハミングを多用し、途中ポエトリーリーディングのようなシーンも挟まれることによって、声の持つ魔力を改めて感じさせられた。もちろん楽器の演奏も素晴らしく、アンプラグドな楽器のアンサンブルによるオーガニックなサウンドは、その名に恥じぬオリジナルな「表現」となっていた。ceroがコンテンポラリーでエキゾチックなロックオーケストラであるのと同様に、彼らもまた名前通りに素晴らしいバンドであった。
ceroを見に来た観客も大満足のオープニングアクトであったが、ceroの開演までは20分ほどの転換があった。幕の裏から聞こえてくる様々な曲の断片は、これから始まる演奏への期待を高めるには十分だった。
いざ幕が上がり、「セロセロセーロ」と叫び続ける入場曲と入れ替わりで始まった一曲目は“水平線のバラード”。ステージには点滅する6本の蛍光灯を背景に、メンバーが立っており、イントロはスタジオ版にないトランペットから始まった。しっとりとした雰囲気で始まったステージだが、ノルウェイの森風のイントロから入り軽快なラップが冴える二曲目“ワールドレコード”でフロアのテンションは急激に引き上げられる。続く三曲目“マウンテンマウンテン”の4つ打ち部分では後ろの方までほぼ全員が音に身を委ね踊っていた。
盛り上がった後一息つくかのように挟まれたMCで、高城はceroと表現の辿ってきた道を振り返る。そして「世界で唯一表現の全員とデュオを組んだことがある人」と名乗る荒内を「音楽ビッチ」呼ばわりするなどしてステージが暖かな笑いに包まれたところで次の演奏へ。
いつの間にかステージから消えて戻ってきた高城。傘を片手にレインコートを羽織った高城が歌うのは“21世紀の日照りの都に雨が降る”だ。続く“エキゾチックペンギンナイト”では「パーパパパー」と全員が高らかに叫び、フロアをより一層祝祭的空間へと引き込む。少し落ち着いて始まった“クラウドナイン”も結局はcero特有の「祭」感へと収束していくのだった。
二度目のMCはサポートメンバーの紹介から始まる。今までになく多くのサポートメンバーを迎えた今回は、ceroのメンバー3人+サポート5人の8人編成だ。トランペットやスティール・パンをこなすマルチプレイヤーMC sirafuのみならず、サックスやタンバリンを担当したあだち麗三郎、表現での演奏とは変わってパーカッションの古川麦、ドラムの光永渉、ベースの厚海義朗という5人のサポートメンバーがそれぞれ紹介される。
ひと通りメンバー紹介が終わると、スタジオ版に比べて遅く重厚な“大洪水時代”のイントロが始まる。この曲から始まったVIDEO TAPE MUSICによるVJは、フェイザーのかけられたノイズギターと相まって、我々を水中へと誘う。そして、ノイズの海の中へと一筋の光が射すかのように響き渡るのは、高城によるフルートの音色だ。最後には全員がしゃがみ、背景であったスクリーンが前景化される。水中の映像、そして流水音のSEと水の映像しか受け取ることの出来ない状況はまさに大洪水時代といったところか。そして、海つながりで次に演奏されたのは“船上パーティー”。VJには男女の横顔が交互に映り、高城は一人二役でセリフを言い合う。スタジオ版でも印象的な「ちょっと待った!」のセリフの後はじれったいほどのタメにより、聴衆をより一層演奏へと引き付ける。そうして引き付けられた我々観客が次に耳にするのは新曲、“我が名はスカラベ”。メルヘンチックな歌詞とVJは、初めて聞く我々も十分楽しめるものであり、聴衆はみなceroのニューリリースへの待ち遠しさを煽られたに違いない。
新曲披露後のMCでは、大洪水時代から加わったVIDEO TAPE MUSICの紹介。そして最近高城のハマっている「文化祭」というキーワードに関連してTwitterにおける高校生のつぶやきや、ceroのメンバーそれぞれの思い出などと話が弾む。
再びメンバー紹介から入った曲は“Contemporary Tokyo Cruise”。本ワンマンライブの表題曲とでもいうべきこの曲ではミラーボールがきらめき、最も「祭」感のある曲だったかもしれない。そして音は途切れることなく、思わせぶりな長い間奏から始まったのは“マイ・ロスト・シティ”。2ndアルバムの表題曲でもあるこの曲では「ダンスをとめるな」という歌詞、その通り踊り続ける客、ダンスをする人々を映すVJが一体となっていた。
短めのMCを挟んだ後、演奏されたのはまたもや新曲、“yellow mangus”。ムーディーなサックスから始まり展開されるのはceroお得意のディスコビート。そしてこれまた長めの間奏からはじまるのは“わたしのすがた”。途中挟まれる8ビートの部分では赤い照明が似合うほど激しい展開で、普段とは違った一面を見せてくれた。
最後の曲の前には今後の活動を仄めかすようなMCを挟み、演奏されたのは“さん!”。観客と共に「いち!に!さん!」と高らかに叫んだ高城は29歳の文化祭、最後の盛り上がりを演出した。
しかし、我々の文化祭はまだ終わらない。アンコールを期待する拍手に応えて登場したのは高城と橋本。残りのメンバーも続々と登場し、最後の最後に演奏されたのは“大停電の夜に”。ゆったりとしたメロディーはまるで蛍の光のように、我々を切なくも満たされた気分へと導き、文化祭は幕を閉じた。
実は、最後のMCにおいてなんとも頼もしい言葉があった。高城は、表現やVIDEO TAPEMUSICのような仲間たちを見ている中で「日本の音楽がこれからまたちょっと変わっていくんじゃないかな」という実感を述べた後に、「俺達が変えるぞみたいな気概を感じている」と宣言したのだ。変わりゆく東京の風景、そして変わりゆく日本の音楽シーン。7年後、東京オリンピック開催を前に我々はこの日をどのように思い出すだろうか。29歳の文化祭には「ここから何かが変わっていきそう」な予感、そして希望に満ちあふれていた。あの晩、もしかしたら我々は時代の目撃者となったのかもしれない。
〜 http://janesuisjapanese.blogspot.jp/2013/08/vol14.html を読んで感じたこと。
父は木挽町で生まれ泰明小学校、銀座中、塾高から慶應大学に行った。
だが、父は木挽町が好きなようで本籍はいまでも木挽町だし、僕も生まれた時から初詣は家族揃って鉄砲洲に行っている。
また、父と仲の良い小学校の同級生はいまでも銀座で店を構えてる連中が多く、父は今でもスーツは銀座の同級生に仕立ててもらっているようだし散髪も同じくである。
目白駅から祖父の家まで行く目白通りは、いまでも好きな道の1つである。
母から地元での話はあまり聞いたことがなく、言うのは学校の近所の話だったり、就職してから出来た友人の話の方がよく聞く。
僕はと言えば生まれたのは小石川で、その後、馬喰町、恵比寿、一番町、南青山、東麻布と都内を転々としている。
転々としているのは父の気まぐれだと思う。同じ町に住んだのは一番長くて7年程度だった。
また小学校から大学まで私立なので同級生も皆、住んでいる所がバラバラだった。
家が近所の奴もいたが、多くは電車で数十分で、遠い奴は葉山とか佐倉、三島などもいた。
住んでる所が一緒、ではなく学校や習い事、塾が一緒という点でのつながりしかない。
たしかに、今でも出身校の近くを通る時、弁当屋の親父は元気かなとか、
授業抜け出して行った定食屋はどうなったとか考えるし、
南青山のみゆき通りに外国のブティッグが増えたなあと、変化したことに感慨があるし、
軍艦パジャマは相変わらず下品だなと、逆に変わっていないことに安心感みたいなものはある。
でも、それぞれに取り立てて愛着がある訳でもなく、それに昔から転々としていたから、
いつの間にかよく通っていた店や建物が、久々に行ったら無くなっているというのも当たり前のことだ。
また、ある種の観光地の近くに住んでたこともあり、田舎者に囲まれて育ったこともあり田舎者に対して特段の思いも無い。
そもそも田舎者とは要は東京者に対するヨソ者という感覚だけれど、僕には地元が無いのだから田舎者という概念を持ち得ない。
東京は本当に巨大で、とてつもないマチの集合体だと思う。
よく地方の人が「マチに遊びに行く」という意味での「マチ」が東京には無数にある。
白金台の裏の方のお屋敷ばかりのあの空気、後楽園の雑多な仲にも昭和的なにおいがある空気、一番町は空気がキリっとしているし、麻布は昔からの重みを感じる。
マチの空気はそうそう変わらない。(表参道の同潤会を壊したのは駄目だと思うが)
東京とひとくくりにするから、毒を浴びるんだと思う。地方出身者にレイプされた気になるんだ。
30年前 レストランEGREGORO?(注1)で魚マスク働き始める
15年前 アイ、カスカベの元に
心・能井初対面
舞踏会開催(注7)
9年前 心・能井、知り合いに
8年前 ≪ブルーナイト≫
8年前? 十字目、本格的に活動開始
6年前 DEATH茸事件 atマステマ→煙視点では十字目ボス(壊)退場
4年前 ≪ブルーナイト≫(注9)
1~2年前 栗鼠失踪(注10)
1年前 中山さん、魔夜中で体中の血を抜かれてコーラ注がれる(注11)
注5:シンはホールの病院を去る際、ニカイドウの餃子弁当を食い逃げしている。従って、遅くとも10年前にはニカイドウはホールに移住している
注6:備考。中央デパート建設中→廃物湖埋立後?だとすると、廃物湖が埋め立てられたのは13~10年前ということになる
注7:鳥太参加
注8:煙の身の回りの世話係。ニカイドウが煙のパートナーにされた際、潜入取材記者に利用され逃亡
注9:鳥太は監禁され不参加
注10:家賃は二年分先払い。「アパートを借りる→ザガン魔法学校に入学」という流れなので、栗鼠の在学期間は1年足らずか
注11:その前の魔夜中では豚の願いが叶い、大量のハンバーガーが与えられている。従って、少なくとも2回前の魔夜中までには十字目幹部はベリスへの移住を完了させている
注12:川尻の悪魔試験開始時の年齢から逆算。川尻が悪魔試験に必要とした年数によって増減するが、ニカイドウは10代である可能性が非常に高い。
みんなの中でわきあいあいとできない。上司にうまく媚を売ったりはできないし、意味のない日常会話を成立させたりもできない。会社終わりにみんなで飲みにいったりするくらいなら、ひとりで孤独に音楽を聴きながら読書をしていたい。
まさにこういう生活を(「~していたい」ではなく実際に)している・送っている人間が多崎つくるを読むと
「こんなヤツはいない」
「恵比寿でナッツを食べるためにバーに入ったりしない」
「孤独をそんなに深刻ぶったりしてこいつは、何様なんだ」
ということになるんじゃないでしょうか。あとどっちかっつーと「そんな簡単にこんなキモイ奴とセックスする女はいない」が正しいような気がする。
で、それが「リアリティを欠いた『妄想小説』」という評価に帰着する、と。
というのはとてもいいキャッチフレーズだけれども、買って読んでから「こんなんで救われるかボケ!騙されたー!」的な感想を抱く読者の数を減らすことは出来ないかなあと思いましたまる。
amazonのレビューで、多崎つくるのレビューを、ほとんど疑いもなく星5つで記載し、圧倒的な「参考にならない」の評価をくらっているしがないレビュアーです。
ちなみに、今日2013/5/8現在、335人中101人が星5つの評価を加え、星4つの高い評価をつけた人を加えると、335人中182人の半数以上の人が星4つ以上をつけているにも関わらず、現在「最も参考になったカスタマレビュー」は、ドリーなる人物の書いた「孤独なサラリーマンのイカ臭い妄想小説」という星1つのレビューで、9825人中、9502人が「参考になった」というボタンを押しています。
ちなみに星1つの評価のレビューは、323人中、51人しかないにもかかわらず、この評価は圧倒的です。
感覚的にいえば、全体における星の数の比率に、各評価の中で「最も参考になった」というというレビューが、最終的に漸近していきそうなものですが、このドリーなる人物のレビューは、ある種ゴシップ的な面白さが加わり、NAVERとかはてブあたりから迂回してやってきた方々の支援もあったのだろうと邪推しつつ、圧倒的な支持を得、10000近くの人たちに「参考になった」とフォローされているわけですが、その内容は、読めば読むほど気持ちの悪いレビューで、村上春樹をとりまくマーケティングの悲惨さを痛感するとともに、あらためて日本人の文盲具合と、教養のなさと、その教養のなさをひけらかす露悪主義をみせつけられるようでした。
とはいえ。
これも、ドリーなる人物の文章が悪いのかというとそういうのではありません。こういう気持ちの悪い文章は、本来放っておかれれば、そのまま情報の闇に葬りさられるだけであり、問題なのは、こういう情報を引っ張ってきて、「うーん、これはすごい」「面白い」と言っている人々の側に、前述した無教養さの礼賛であるとか、露悪主義のようなものがあるように思うのです。
それで、私は、この駄文が、そもそも情報の闇に葬りされること請け合いなのにもかかわらず、下記の数点の視点に絞って、村上評価およびその周辺のマーケティングの問題について論じたいと考えています。
1.村上春樹の今回の新作の、アマゾンレビューにおける、公平な評価の基準軸(いったい星いくつが適切なのか?)
2.「村上春樹が嫌い」というヤツは、実は「村上春樹」よりも「村上春樹ファンのことが嫌い」という事実
3.村上春樹を100万部売ろうとするマーケティングの問題(そもそもこれエンターテイメント小説じゃないんですけど)
この3点についてです。
■1.村上春樹の今回の新作の、アマゾンレビューにおける、公平な評価の基準軸(いったい星いくつが適切なのか?)
まず、結論から断じて言いますが「多崎つくる」のamazonのレビューを、現在の日本文学における主要作品(村上龍、山田詠美、阿部和重、平野啓一郎、川上・・・などなど)と比較して星をつけるとするならば、星は5つ以外は考えられません。これらの作家の代表作と比較しても、時代的な価値、作品の主題、文体などにおいて「劣っている」という評価をしようがないからです。
もちろん、小説や物語には個人的な共感を読み手の原動力にするという性質上、どうしても「共感できない」という人がいるのは確かなことです。しかしながら、そういう個人的な側面を度外視し、「文学」というジャンルにおいて、日本という国の文化を歴史的に補足、説明する資料として、たとえば、文学作品をピックアップするのだとすれば、本作は1Q84までとはいかないにしても、近年の日本代表クラスとしかいいようがないからです。
2013年、日本という国で出版された歴史的に淘汰を免れる文学作品をあげなさいといわれて、今年、これ以上に素晴らしい「文学作品」が登場するかどうか、私は甚だ疑問です。平野啓一郎の新刊がでればその可能性があるでしょうが、少なくとも、それ以外の作家には期待できません。
abさんご?無理です。
そういう意味において、本作は星5つ以外の評価はありえないと私は思うのです。
しいて別の視点で評価するならば、村上春樹作品全体を相対的に評価するということもできるかもしれません。これについて言えば、私の評価は、星5つに限りなくちかいものの、もしかしたら星4つをつけるかも、くらいのところです。人によっては3つという人もいるかもしれません。それはあくまでも村上春樹作品における相対評価です。
本作は、次につながる長編小説のための助走のような小説です。伏線の回収(村上春樹本人ならば、伏線の回収ではなく、全体を微細に描き切っていないと言いそうですが)、それが十分でないことがその理由です。
しかしながら、これが作品の評価を不当に低くするかというと別問題です。短編小説というのは、その行間に物語の前後や背景を滲ませ、読者に共感の余地を残すものです。これは本作が、短編小説的な位置づけにあるということを示唆しているのであって、村上春樹が手を抜いているわけではないのです。星を1つ減らす理由があるとすれば、「もう少しだけ短くてもよかった」という点でしょうか。短編小説というには、少し長すぎました。
本作は、あくまでも「短編」であり(この人の場合は、もはや「短編小説」がこの長さになってしまうだけ)、あえていくつかのプロットを読者に委ねたのです。これは、文学を読む側のリテラシーの問題です。趣味(つまり好み)の問題ではなく、読む側の技術(読解力)の問題です。
というわけで、個人的な村上春樹の読者として星をつけるならば4つもあり得るかもしれませんが、文学に全方位的に公正な評価をつけるのならば、星5つ以外にはないということをご理解いただけるでしょうか。
もし、理解できないのならば、村上春樹を読む前に、夏目漱石と森鴎外と谷崎と太宰と三島と大江健三郎と諸々読み直すべきでしょう。
それが嫌なら、伊坂幸太郎でも読んでればいいと思います。稚拙な、読解力を十分に満足させるだけの文章にはなっています。
■2.「村上春樹が嫌い」というヤツは、実は「村上春樹」よりも「村上春樹ファンのことが嫌い」という事実
私は、長年村上春樹の作品を読み続けてきて、周囲にもそのことを公言しているわけですが、最近困ったことに「ハルキストの○○さんは、新作もちろん読まれたんですよね?」とか「ハルキストとして今作はどうでしたか?」などと聴かれることが多くなりました。
この「ハルキスト」なる呼称、最近よく聴くんですが、これって、わりと最近たぶんノーベル文学賞に毎年エントリーされるくらいになってテレビのリポーターとかがテキトーつけたんじゃないかという気がしています。一体いつくらいなんでしょうか?
私思うんですが、村上春樹の読者を「ハルキスト」と呼称してしまう人は、はっきりと断言しますが、村上春樹を読んでいないか、全く読解できていないかのどちらかです。
村上春樹の小説はどの作品でも読めばすぐにわかりますが、組織や共同体に所属することにとにかくうんざりしています。辟易しているし、場合によっては嫌悪感に近いものを感じていることもある。とにかくそういう人たちとうまくやっていくことができないし、やっていく自信もない。主人公の「僕」やら「ハジメくん」やら、「ワタナベくん」は、もう、所在なし、所属なし。
村上春樹の作品が世界的に受け入れられているひとつの理由は、その「孤独」性です。その周囲にうんざりしたり、なじめなかったりするその主人公のおかれた状況に、読者が少なくない共感を感じてしまうことが、世界的に受け入れられたひとつの理由なのです。
つまり、「ハルキスト」などという「ひとくくり」の呼称を付与されることに、気持ち悪さしか感じない・・・というような人たちが、どちらかといえば村上春樹の本質的な読者なのです。私も同様「ハルキスト」と呼ばれるたびに、冷笑を覚えたりするので、みんなそんなもんだろうなと思っていると、ときどき本当に「ハルキスト」を自称する読者にあったりします。こういう場合は、辟易するというかなんというか、ときどき困惑と嫌悪感が入り混じった感情を抱いたりするこもあります。
なんなんだこの違和感。
と。この感覚は、村上春樹に星1つをつけて、「いやぁ、村上春樹とか読んでるやつ信じられねーな」とかいう人の感覚に案外似たところがあるかもしれません。(まぁ、とはいえどうでもいいことなので、あえてバッシングしたいとも思わないのですが。)この際、そのほんとに読んで言ってんのかよ!という方々を「ハルキスト」と呼称しましょうか、そのハルキストなる方々と、村上春樹の作品とはまた別の問題だと考えるべきです。
こう言うと、村上春樹の小説はそういう勘違いした読者、その「ハルキスト」なる存在を生み出しており、村上春樹にはその責任があると捉えることもできます。
アンチ村上春樹の人間は、この影響力に村上春樹への脆弱性をみつけて、論考をぶつのですが、はてさて、この点はもういちど考え直してみたいところです。読み手の読解力の欠如がもたらした読者の勘違いを、書き手である村上春樹にその責任を求めることができるのか?ということです。
小説作品は、たとえば自動車のエアバッグとか、緊急時備え付けの消化器とか、避難用のはしごだとか、なんでもいいけど、使い方を誤まったら命に別状があるというようなものではありません。
芸術作品です。
作り手の意思とは別に、受け手が勘違いしてしまうことに、作り手はどれだけの責任が持つ必要があるというのでしょうか。
■3.村上春樹を100万部売ろうとするマーケティングの問題(そもそもこれエンターテイメント小説じゃないんですけど!)
村上春樹を批判する多くのレビューを読む限りにおいて、圧倒的な支持をえる論調は、
「こんなヤツはいない」
「恵比寿でナッツを食べるたべにバーに入ったりしない」
「孤独をそんなに深刻ぶったりしてこいつは、何様なんだ」
確かに、多数派ではないかもしれませんが、いないわけではありません。ホテルのバーでお酒を飲んだりすることは、普通にあることです。言葉でどう表現するかの問題はありますが、物事を深く考えすぎて、些細な問題で心を痛めてしまうということも、現代人ならよくあるはずです。セックスなんて論じる必要もなく、敷居が下がっています。
主人公の行動や言動を自分と比較して、「こんなヤツいないよ」とかいうのは、主人公を類型化して自分との共通点を見つけ出す作業なのでしょうが、確かに、村上春樹の作品の主人公を無理やり類型化して、多数派か少数派かで割り振ったとしたら、間違いなく少数派でしょう。(安易にこういう構図に分類するのは正しい方法ではないのですが)
鉄道会社勤務。年収は、700万程度。都内にマンションを所有し、ローンもない。30代後半で独身。女性関係は特に困ったことはない。
なんというか、条件面だけ描きだせば、裕福で恵まれていて、どこかしらいけすかないととることもできそうです。そして、実際、この点を、アンチレビュワーの方々は、突いているのですが。
前述したとおり、村上春樹の小説が世界的に受け入れられたひとつの要素はその「孤独性」だと言いました。
みんなの中でわきあいあいとできない。上司にうまく媚を売ったりはできないし、意味のない日常会話を成立させたりもできない。会社終わりにみんなで飲みにいったりするくらいなら、ひとりで孤独に音楽を聴きながら読書をしていたい。
などという人間を描いて、そこに世界中の多くの人間が共感しているのです。きわめて個人的に。
そして小説というのは、個人的な共感によってはじめて読み進めることができる形式の芸術です。
たとえば、ソフィア・コッポラの映画は、同じように「孤独」を描いています。マリーアントワネットなどはその最たる例で、多崎つくるくんなどとは比較しようもないくらい恵まれている。にも関わらず、彼女は圧倒的な孤独に苛まれている。そして映画を観る者は、そのマリーの孤独に共感して、胸を痛める。いや、映画が小説と違うのは、マリーの孤独に共感しようとしまいと、映画自体は2時間後に終わるということ。
しかしながら、小説というのは「なんだよこいつ、むかつく奴だな」というのがあったら、読み進められない。別の言い方をすれば読み進めなくてもいい。村上春樹は、この社会において孤独を感じながら生きざるを得ない、もしかしたら比率的には少ない側の面々の生き方肯定しながら、その顛末を見守るというようなプロットなのだから、読んで「むかつく」人が多いのが、当たり前といえば当たり前なのです。
もともと多くの多数の人間に共感されることを、書いてる本人も視野にいれてはいない。(それを望んでいないわけではないにしても)
にもかかわらず、売る側は必死です。
それはそうです。売る側は、本の内容は関係ないからです。出版不況の時代です。本が売れません。黙っていても売れる時代なら、売る商品を選ぶこともできます。「こんな根暗な作家が書いた本は、ひっそりと奥に並べておこう」とか。でも今は、売れる商品が限られています。小さな本屋から、大きな本屋まで、こんなにまとまって本を売ることができる機会は、年にそう何度もあるわけではないのです。
だもんで、売る側は、まったなし。「村上春樹の新刊!?長編?平積みだよ、平積み!」
と、なって当然です。で、買い手は買い手で、村上春樹なんて共感できない人が数多いて、そのことを半ば自覚しているにも関わらず、「またぞろ、村上さん新刊ですか?」などとうがった態度で、1700円も払って買って帰ったりする。
本来、孤独に静かな時間を過ごしたい人(それから社会と自分との繋がりを確認したい人)のために書かれた本であるにも関わらず。
帯にこんな風に書いておけばいいかもしれません。
「この作品は、日常に違和感を感じることもなく、日々を謳歌している人間には読む必要のない小説です。それと孤独を描いてはいますが、自分自身の孤独が解消されれば、他人のことも社会のことも、どうでもいいという人にも不向きです。自身の孤独が社会との関係において改善されることを仄かに信じている人のための作品です」
もちろん、そんなことは絶対書かれることはないのでしょうけれど。
本来静かに出版されて、求める人がそこに救済を得るという仕組みであるべき作家と読者の関係が、資本主義の論理によって蹂躙されている。それだけのことにも関わらず、本来、村上春樹に対して苛立つ必要もなかった人たちまでが、駆り出されて、勝手に苛立っているのです。
嫌なら読まないということが可能なのにも関わらず。
この「作り手」と「市場」との悲劇的な関係というのが、アンチ村上春樹を作り出し続ける最大の要因という気がしてなりません。
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随分長くなってしまいましたが、最後に結論というかなんというか。
こういうことも言えるかもしれません。
昔、三島由紀夫は、太宰治が大嫌いで、直接会いにいって「私はあなたの作品が嫌いです」と言ったそうです。
すると太宰治は返す刀でこう答えました。
「でもこうやってわざわざ来たんだから本当は好きなんでしょう?」
三島由紀夫は、なにも言い返せなかったそうです。
つまり、みんな本当は、村上春樹が好き(もちろん、断固として認めたくない)なんだけど、作品の主人公同様、素直になれず、好きさゆえに星1つつけちゃって、あんなヤツ嫌だよ、いないよ。むかつくよ。とか言ってるだけっていう可能性もあります。
ん?あっ、それって、実は一番村上春樹の主人公的?な気がしなくもないですね。
この長文を書いている間に、少なくとも「私は、ハルキストです」とか言ってる人より、星1つつけて、村上春樹なんか嫌いだよとか言いながら、毎回出版されるたびに買っちゃってる人たちの方が、なんだかよっぽど共感できる気がしてきました。
ライブやクラブに行くと、いつも不思議に思うことがある。フロアにいるにも関らず棒立ちの客がいることだ。ライブではほとんどいないが、フロア外の階段やラウンジでお喋りに夢中な人、しまいには寝ている人も結構多い。何しに来てるんだろうと思ってはいけない。音楽の聴き方は人それぞれだからだ。踊りたくなる人もいれば、座って聴きたい人もいる。私もどちらかと言えば座って聴きたい派だ。立ちっぱなしの勤務後のライブ見学は年齢的にも辛いのだ。膝などガクガクである。そのため、野外フェスでの寝聴きは至高である。ドラムの音でビクッと起きるのが堪らない。
では、なぜライブやクラブに行くのか?考えられる目的は、アーティストの生演奏やDJの選曲が目的の人がほとんどだろう。あとはナンパ・お酒などのコニュニケーション目的。自称音楽通のステータス(地獄のミサワ的な人)もあるかな。私が思う1番の目的は「普段聴けないような音量で音楽が聴けること」ではないかと考える。お洒落なカフェでのアコースティックライブや、コードレスヘッドフォンを着用するサイレントディスコなどは除外するとする。
しかしながら、現代の都会の住宅環境では「爆音」は手軽に楽しめない。一歩間違えれば、小さな音でも騒音であるからだ。当然ながら、ジャイアンの歌やしずかちゃんのバイオリンも騒音である。そもそも音楽は嗜好品であるから、本人にとって不快な音というものは騒音でしかない。「爆音」どころかイヤホンの音漏れで、電車内にて殺し合いが始まるくらいだ。音楽の力というのは恐ろしいものである。
次に、「爆音」の定義だが、通常の話し声が60dB程度であるのに対して、クラブやディスコは100~110dB程度とのこと。これは、ヘリコプターの近く・自動車のクラクションの直前と同量である。耳鳴りなどの聴覚障害が発生してしまうくらいの音量だ。一般的には60dBで騒音なのだ。「爆音」で音楽を聴くことは自虐的行為である。トラ柄大好きヤンキー風なワゴン車の窓明け爆音も恥ずかしいことこの上ない。よって、音楽好きはM体質が多いと思われる。反論は認めない。
なぜ「爆音」を求めるのか。私はカラオケと一緒で、ストレスの発散のためだと考える。耳鳴りがするくらいの高音と、パンツ(下着ではない)がビリビリ震え内臓にも響いてくる低音。身長より背の高いスピーカーの前は私にとっての定位置であり、理想郷(パラダイス)である。もちろん低音房としてはウーハーも欠かせない。新木場のagehaでは踊り台と間違えて上ってしまう人がいるくらい大きい。私はリアルタイムで経験していないが、有名な「ジュリアナとーきょー」である。そして、すぐに黒人セキュリティーに引き摺り下ろされる。黒人怖い。なんであんなにデカイのかと。
よって、以下の式が成り立つ。『「爆音」が好き=自虐的=内向的=1人が好き』。でも、現状は『クラブ・ライブハウス=オールナイト辛い=人多い不快=不良怖い・ドラック怖い・黒人怖い』である。これは敷居を高くしている理由でもあるだろう。
私にはパーティーはいらない。爆音さえがあればいいのだ。吉祥寺バウスシアターでは爆音映画祭というのも開催されている。既に第5回である。恵比寿リキッドルームでも開催された。近年の音楽フェスの多さとリンクするように、時代は「爆音」を求めているのだ。
書いててアホくさくなったので終了。
「恵比寿行ってさー」「うんうんデートー?」「そうそう日曜日ー」「へーいいなー」「ま、その日遅刻したんだけどねー」「えー、それでー?」「でも彼氏許してくれたんだよねー」「ちょー良い人じゃんー」...
発言それ自体にはほとんど意味は無い(というかあえて意味のあることはほとんど言わない合いの手、意味があるとそっちに話がそれる可能性があるのでなるだけ控える)これが口下手タイプだと「」内が空白とか「へー」一辺倒みたいなことだったりする。これは意識して試してみたらわかるけど本当に重要。これもあったらおしゃべりにリズムが付くし、逆になかったら話す気をなくす。
そこまで頑張ってそんな内容の無い会話をしてどうするの…
・質問をしない
これは超絶タブー。ちなみに自分はこれを認めるとおしゃべりをしたい意思がないとみなして必要なら自分が頑張って喋るか、もしくはその場を離れる。
会話はキャッチボールなのだと思うと、これは球を投げ返さないことにほぼ等しい。相手側はまた新しい球を用意しなくてはいけないし、それが続いたら疲れてやる気をなくしてしまう。(もちろん本当に話したくない時には有効、というのはまた別の話)
いやそれほんとに君と話をしたくないだけの人と違うか…。
ふと人と色々話しながら思ったことを書く。自分は人と色々と話すのが好きだし、よく人から話すのが上手いですねとほめられるタイプで、
そうは言っても
君個人を好きじゃない人とか
単におしゃべりが好きじゃない人とか
いろんな人がおると思うで。
クラブ文化の発展を望むクラブ旧世代が色眼鏡なく見ておくべきクラブ新世代の3つの人、箱、パーティについて書いてみる。
それだけならば大した話題にもならない。まあ、誰かの垂れ込みでもあったんだろう?くらいだ。
だが、今回はフロアにいた150人がしょっ引かれたという規模や、その様子が刻一刻とツイートされたという生々しさで、ツイッターやブログの一部の界隈(本当に小さな界隈だ。世間的にはそれがあってもなくてもほとんど何の影響もない規模の)でそれなりに騒がれ、議論もあった。もう鎮火してしまって誰も話題にしなくなった頃合いなんだが、その小さな界隈にそれなりに長く身を置くジジイとして、思ったことを吐き出して置くのもいいかなということでちょっと書く。
ちなみに、150人は尿検査などされたものの何も出なかったということは付記しておく。
池袋のクラブハウスに警察が大規模ながさアイレ、参加者たち怒り露わ - livedoorニュース
http://news.livedoor.com/article/detail/6274877/
:自己紹介的な話
そもそも俺はリキッドがまだ新宿にあった頃に元気だった世代で、家が近いこともあってマニアックラブには1回目から行ったし、Codeもオープンから閉店まで見送った。ちょっとだけパーティもさせてもらった。六本木は苦手でイエロー以外近づかなかった。だから派手なやつはあんまり分からない。
今は小箱で仲間とダラダラとパーティやるくらいだけど、それなりに楽しくやってる。馬場の家から気軽に行ける範囲ならそれなりに色々行ったりもしてる。
あるのかもしれないし、ないなかもしれない。まあ、たぶんある。というか、あった。
そんで、過去に1度でもあったってことはマスコミや世間のクラブに興味ない人たちにとっちゃ、それは"ある"と同義だ。
だから、"クラブとクスリの話"はこれを読んでるあんたやあんたの周りがどうなのかというのに関係なく"あるもんだ"というのを前提に考えなきゃいけない。だって、本当にあるのかもしれないだろ?疑ってかかって、池袋のように実際には無いならそれは御の字だ。ともかく外野の目線と揃えなければいけない。
それに、あれだけ酒飲んで音出してハイになってればクスリじゃなくても真面目なご両親は娘や息子をクラブになんか行かせたくない。クスリは無くてもアル中あるし、ナンパも痴漢もあるし、潰してハメられたとか当たり前にある(あった)んだから。行かせたくないところに悪イメージがあるってマスコミが言ってくれれば、普段はテレビなんかバカにしてるお父さんもみのもんたに言いなりのお母さんみたく、マスコミに柔順になる。
ここ、よく分かってない人が多い。
クラブはクスリ臭いから叩かれる訳じゃない。それは結果的に貼られたレッテルでしかなくて、そもそも"クラブはイメージが悪い"くて、"普通の人は近くづき難い"のだ。
では、何でそんなイメージ悪いのかって言うと、それはあんたらのせいだ。
恵比寿や代官山のオシャレなカフェやバーにはだいたいDJセットが置いてあって、モテそうな曲がかかってるからDJやDJをやる店そのものがイメージ悪い訳じゃない。(まあ、暗くて汚くておしゃれじゃない店は違うのかもしれん)
クラブ住人が嫌いなEXILE()やディーバ()はテレビでは人気者だ。今を謳歌してる韓流は2NE1なんてモロにブラックだし、そのパクリ元になってるアメリカのブラックやダンスミュージックは日本のオシャレ()な人たちの大好物だ。チャラいパーティ御用達のキラキラハウスはスイーツ()達にも御用達だ。ダンス習わせる親は多い。何でもかんでもPOPになる日本で、ダンスミュージックのイメージが悪いなんてことはあり得ない。
そう、単に"客のイメージ"が悪いのだ。
こんな簡単なことなのに、箱もオーガナイザーもそのことは言わない。言えない。お客様だからだ。だから、クスリの話題や、ガサ入れの話題があるとマスコミは何たら!と唾を吐いて話題を逸らす。
だが、そんなことしてても先が無いのは分かってきた。大阪やこの間の池袋の様子をみると、警察は本気なんだなということは分かる。客を庇って一緒に死んでる場合じゃない。今こそ箱とオーガナイザーはホントの事を言うべきだ。
クラブが叩かれるのはクスリではなくて、酔い潰れて、喧嘩して、ナンパして、朝ファミレスやコンビニ前で寝てる奴のせいだと。
:じゃあ具体的にどうするんだよ!?という話
クラブはその中身をもっと一般に晒すべきだろう。箱やオーガナイザーはガサに入られる前に、全部見せてしまえば良いのだ。そうしたら不本意な身体検査や尿検査で客に恥ずかしい思いをさせることもない。警察と協力してクラブハウスで横行していると言われるクスリや犯罪などの摘発に総力をあげるべきだ。そして、イメージの悪い客をクラブから追い出すべきだ。
大丈夫。心配することはない。なぜならば、"クラブにはそういう犯罪目的ではなくて、もっと純粋に音楽や交流を求めてやってきてるお客さんしかいない!"のだから。
それを一般に向けて証明してやるだけだ。その過程で、実はけしからん箱やオーガナイザーや客が混じっていたんなら全力で叩き潰してやればいいじゃないか。
:具体論
まあ、そうはいっても古くからの村社会で成り立ってるクラブ界隈でそんな過激なことはできようもない。だから、俺はクラブ新世代に期待するしかないと思っている。クラブ旧世代に変なしがらみがない奴らが、自分らが盛り上がっていく為に、古い連中を踏み台にしてくれたらいい。
そう思う中で、最近これはと思ったものを人、箱、パーティでそれぞれ1つずつ挙げておく。
どれもクラブ旧世代は色眼鏡で見て叩きたくなるものだが、そうしないほうがいいんじゃないかと、俺は思う。
::taku takahashi( @takudj )
m-floのtakuのtakuだが、インタビューズでのマネな応対を見ててこの人は実は凄いなと思った。で、その中でもこのインタビューが気に入った。Twitterでもよく流れてたので見たことある人は多いかもしれない。
関西のクラブに摘発が入りますゴタゴタが起きましたが、真相を教えてください。クラブスタッフの死を隠蔽してるという説もありますが、これを公にしないとタクさんが目指す日本におけるクラブ文化、あるいはクラブと隣り合わせのタクさん達を信用できません。 お忙しいところ恐縮ですがどうぞお願いします。
http://m.theinterviews.jp/takudj/2933735
"まずはやるべき事はドラッグと暴力を完全に切り離すことだと思います。
例えば、
もっと真剣に入り口で持ち物検査(武器になりうる物、ドラッグ)の強化。
人が怪我した時にすぐ対応(怪我の処置や急性アルコール中毒の処置ができるようにする事)
というか、お酒がでるどの施設でもこれくらいやらないといけないと僕は思います。"
まさにその通りだろう。こういうことをハッキリ言っていて、且つメディアとコネがあってきちんと外向きに発信できている人はなかなか居ないんではないだろうか。少なくともm-floはメジャー側なのでマスコミの方面で語ることが出来る。けど、ジブラザパパにはできない。
一方で面白いのはこういうことを言っちゃってるところだ。
http://www.tweetdeck.com/twitter/takudj/~OwTLS
"勝手にブート作っちゃう主義です〜!(笑)RT @MichelleSorry: 市販品主義です~!RT @takudj: 日本のDJって自分が作ったJPOPのリミックスを、なんで現場でかけないのだろうか?ほとんどかけてるの聴いたことない。海外のDJはポップスから頼まれたリミックスを自分でよくかけてるよね。"
ブートはどんどん作ってプレイしてしまえ派なのだ。これは推測なんだが、それでもし権利者から問い合わせがあった時に、逃げも隠れもしない覚悟があるんだろう。言われても金はあるってのもあるのかもしれないが…
後ろめたさを持ってないというのは隠れるつもりがないということだ。そういう姿勢は評価すべきだと考える。
それから、takuが最近始めたblockfmはかなり面白い試みだと思う。
::MOGRA
秋葉原にあるオープンからは3年ほどの新しい箱。秋葉原とはいえ、ほぼ御徒町という不利な立地にも関わらず、ギーク層にターゲットを絞った運営で連日連夜の大入りを叩き出しているらしい。最近のクラブではなかなか聞かない景気の良い話だ。
ギーク向けだけかと思えば、時々デジタリズムなんかの大物がやってきたりして何か面白いことやる箱というイメージ。俺もマイク・ヴァン・ダイクが来るというので懐かしさ混じりに1度だけ行ったのだが、中はオタク臭さは皆無だった。
面白いのはこの箱は"ナンパ禁止"だというのだ。宇田川なんかじゃ考えられないルールだろう。
ギーク層はクラブの客としては新参で、元々はクラブに対してあまり良くないイメージを持っていた側ではないかと思うのだが、秋葉原という立地でそういう層を新規で来店してもらう為に作られたルールだと推測するのだが、これは何も秋葉原に限ったことではないのではないだろうか。ほとんど固定客がいないような箱やパーティは大いに参考にすべきだろう。クラブ新世代の成功者は成功しているなりに、きちんと新たな顧客発掘をして、彼らに合わせた運営をしているのだ。
このルールが素晴らしいのはイメージの悪い客を店から追い出すことだ。結局、イメージの悪いクラブには新しい人は入ってこないし、入ってきたとしてもそういう連中はやっぱりイメージが悪いのだ。
だいたい毎夜パーティの様子を中継していて、これだけ店内が映ってしまっては悪いことはしようもないよねと思わせる。
::Re:animation
ここ最近で一番衝撃を受けた出来事と言っても問題がないくらい衝撃的なパーティだった。事件と言っても良い。このご時世に歌舞伎町の街中の広場で屋外レイヴを敢行している連中がいる。しかも、ダンスミュージックとアニメソングを折衷したイベントだという。ギーク寄りな話が続くが、その辺がクラブ新世代と旧世代の違いなのかもしれない。そういえばtakuもギークに寛容だし。
たまたまTwitterで誰かが呟いているのを見かけて、Ustreamで見たのだが、俺のよく知っているコマ劇前がまるで異世界のようだった。新宿に10年以上住んでいても、こんな光景は想像もできなかった。しかも、地方自治体や地元の商店街が協賛や後援についているのが分かった。どんな魔法を使ったのかは知らないが、これが許可された理由も何となくだが想像できる。新宿によく来る人は知っていると思うが、歌舞伎町はここ数年は死の町といえるくらいに活気がない。韓流ブームで盛り上がる隣の大久保とは大違いだ。言葉は悪いが、そういう所に付け入ることで実現したイベントだろう。
もう1つこのパーティを賞賛できるのは客のマナーの良さだ。とにかく統制が取れていて感動的ですらある。端的なのは終了後の客掃けで、Ustreamにも残っているけれど、客が去った後の床にゴミが何も残っていない。土地柄、ホームレスが食い散らかしていたり、違法のポン引きが闊歩してるものだから、マナーの良さが引き立っていた。メタモや渚なんかと大違いだ。
http://www.ustream.tv/recorded/20503466
実は、後日、近くの飲み屋の店主から別のDJイベントがおなじ場所であると教えられて、これは行かねば!と足を運んだ。
こっちは普通にテクノのイベントだったんだが、客層の違いに驚いた。完全に酔っ払って瓶は割る、路上の通行人に絡む、近くの店の入口でたむろする、トリのDJの途中で中断になった。おそらく、どこかからクレームが入ったんだろう。
パーティを責めたい訳ではない。Re:animationよりずっとメジャーなDJを揃えていたし、最新の流れも追っていたし、何より好みの音だった(正直アニメは分からない)。ハードさもRe:animationの方が上だったと記憶している。責めたいのはやはり客だ。中断にしても違和感を覚えただろうに、特に何事も感じなかった様にダラダラと解散していた。結構若そうな主催の残念に挨拶していた顔だけが印象的だった。
同じことがあった時にtakuやMOGRAの客やRe:animationの客ならどんなリアクションをしただろうと思ってしまった。
実は、テクノの客というのはレゲエやダブやトランスやサイケなんかの客よりずっとマナーがいいと思っていたし、俺自身もそうだと思っていたので、この中断は個人的に凄くショックだった。酒でハメを外してる様子を見ながらも、俺自身も中断されることはないだろうと高をくくっていたのだ。だが、そう甘くは無かった。これが外野から見たクラブの客への評価なのだ。
何しろこの場所は通行人も多いし、周りは飲食店ばかりだし、逃げたり隠れたりしようがない。警察もしょっちゅう巡回してるからクスリの売買なんてできようはずもない。そう、クスリは関係ないのだ。そこで見事やりきった連中と中断を余儀なくされた連中がいることはきちんと認識しておかなければならないだろう。
衆目に晒されるということは、それだけで価値がある。
:まとめ
MOGRAやRe:animationのお客さんたちでオールドなクラブに興味がある人は是非とも都内の箱にも足を運んで欲しいと思う。これは上から言うのではなくて、お願いだ。こうしたクラブ新世代の"移民"なくしてクラブの客は更生し得ない。そして、クラブ新世代はこうしたクラブ旧世代を目の当たりにして、TwitterやFacebookで盛大にdisって欲しい。いや~酷いもんだったと。クラブユーザーは一枚岩ではないことを外にも明かすべきだ。つまり、イメージの悪いクラブの客と、決してそうではないクラブの客がいると。それを言えるのは、クラブ新世代だけだ。いつまでも警察やマスコミや世のお父さんお母さんにファックというしか知らないアホではダメなのだ。
さて、ではそんなクラブ旧世代の俺たちが今後のクラブの未来の為に何ができるかだ。
最も安全確実なのは、俺達旧世代は安易に新世代に近づかないことだと考える。聖域を汚さないことだ。そして願わくば、新世代の箱オーナーやオーガナイザーは欲を出して旧世代を取り込もうとしないべきだと、老婆心ながら申しておきたい。
MOGRAやRe:animationの運営スタイルはとてもストイックだ。注意書きが多くて、客もそれをちゃんと守っている。パーティの内容が非常に快楽的なのでわかりづらいが、旧世代のそれはパーティの内容は無駄にストイック(そうに見える)反面、お客が快楽的に自分勝手に振る舞うことを許容していると言えばわかっていただけるだろうか。彼らは自分たちに合う客をきちんと選別しているのだ。これは所謂"出禁"とは意味が違う。そういう客を近づけすらしていない。そのスタイルを貫いて欲しい。客欲しさにダメな客を追い出せない旧世代の箱やオーガナイザーと同じ轍を踏んではいけない。
スカしているのに責められたら逃げるのではなく、taku takahashiのように正面からブートを作って、机上に乗ったら真摯に対応すべきだ。逃げ腰では何も変わらない。
では、旧世代もその流れに乗りたいのならば、新世代のスタイルに合わせるしかない。もちろん、もともと合わせる必要がなく、ああいった場所のほうがむしろ心地よく感じる人もいる(もしかしたらその方が多いのかもしれない)。だが、ここも一歩踏みとどまって、自分のスタイルが本当にイメージが悪いクラブの客ではないのか、考えて見るべきだろう。REVOで俺はそれを痛感した。
それが嫌だ、堅苦しいじゃないかという人に対しては、きっと外側にいる人はそうすることが都合が悪いのだと推測せざるを得ない。事実は関係ない。せせこましい自由と引き替えにこれまで通り粛々とバッシングを受け入れるならばそれもまた良しだ。但し、それならばバッシングに対してガタガタ言わないことだ。
http://anond.hatelabo.jp/20091018173611
まず、それからの俺について簡単に。
2010年。この年は記念するべき1年となった。
・同期で2番目の早さで昇進した。日本人の部下が出来た。新人研修の講師を担当するまでになった。
・気付けば若手のリーダー格的ポジションを手に入れていた。海外出張前には、部署の仲間達が送別の飲み会を開いてくれるようになった。
・昔なら行く機会の無かったような場所で遊ぶようになった。六本木、恵比寿、赤坂。
・車を買った。車を買ってから、行動の範囲がさらに広がった。車内でFMを聞く機会が多くなり、最近の曲や洋楽に詳しくなった。以前なら縁がなかったであろう夏フェスにも行った。
冴えない理系男だったおれは、いつの間にか社会人版リア充とでも言うべき存在に進化していた。
が、全てが順調に行く訳もなく。
今年も新人研修の講師をすることになった俺は、研修が終わると新人達をつれて飲みに行っていた。
新人の中にはもちろん女の子もいたわけだが、俺の同期の間で、俺がその子を狙っているという噂が流れていた。
さらに、新人達の間では、俺が狙っていた本命の彼女を遊んで捨てた過去があるという噂が流れていた。
昔の俺なら、たいした噂にはならなかっただろうが、今の俺は好奇の目で見られる目立つ存在になっていた。
これらの話は、完全にでたらめなのだが、尾ひれがついて、既婚者の社長秘書にも手を出しているとか、
もう笑うしかないレベルにまで増幅されていた。人事の耳にも噂が入り、一時は社会的に死ぬ覚悟さえした。
後で聞いた話だと、俺と仲の悪い同期が、嫉妬に駆られたのか、俺をつぶそうといろいろ画策して、あること無いことを言い回っていたという。
そして、悲しみと絶望と怒りの入り交じった、どす黒い衝動とでも言うべき感情が俺の中でわき上がってきた。
どうせ、変な噂をばらまかれるんだったら、本当に派手に女遊びをしてやろうか・・・
まず、こつこつと貯めてきた財形を全て取り崩して結構な額の軍資金を用意した。
そして、ゴールデンウィークに有給をつなげて3週間の休みを取った。
普段の仕事ぶりが評価されていたのと、噂のせいで俺が参っていることを知っていた事もあって、上司はすんなり認めてくれた。
地元に帰省した俺は、使えるコネを使いまくって片っ端から女に声をかけまくった。
いまだに独身の女友達、男友達の姉妹、友人の元カノ、昔バイトしていた店のアルバイトの子。
学生や、安月給の連中には真似出来そうもない、財力に物を言わせた「遊び」を提案すると、大抵の子が、驚くほど簡単についてきた。
休暇が終わり、首都圏に帰った今でも、都心に来たらまた遊んでやるよと言うと、彼女たちは、喜んで上京してくる。
変わろうと決意してから5年。どす黒い衝動に駆られて2ヶ月。女に不自由しない環境を俺は手に入れた。
だが、日曜の夜に一人になって冷静に考えると、とんでもない状態であることに気づく。
最近の俺の振る舞いは明らかに狂気に満ちているし、倫理的に正しい事をしているとは思えない。
そして、今の社内での俺の立場はかなり微妙な物になってしまった。
とりあえず、自分の名誉は回復させないとまずいのだが、実際に女遊びをしているため、
俺を陥れたクソ野郎はつぶさないと気が済まないが、状況的にすぐには手が出せない。
いっそのこと、全て忘れてこのまま堕ちていくのも悪くないかなと思ったりもする。
結局の所、どんなにあがこうが、恐ろしい運命が降りかかってくるのは避けられそうにもない。
これが不純な動機に駆られてあがき続けた経験値稼ぎ男の末路だ。
さあ、思う存分嗤ってくれ。
まだ11月なんだけど、もう今年は何もないってことで。
「Iちゃんにとって今年は、(人間関係において)激動の年だったんじゃない?」と先日、年上の女友達に言われた。
「えっ、そーかね」とわたしは、その大袈裟な表現にすこし笑いながら、彼女と別れた後でよくよく考えてみたのだった。
その後で会った別の女友達には「意外と派手に遊んでるねー。何か信じられないよ」と呆れられた。
親戚の叔母ちゃんに諭される感じで、説教めいたことも言われた。
しかし、わたしの行動なんて、まだ可愛い方だと思う。
今年の幕開けは、就活だった。
恋愛とは無縁の生活。
うん、好きな人は暫くいなくて干物的な生活を送っていたのだった。
就活とバイトと歌舞伎町入り浸りライフとダークな文化体験を並行して行っていた。
「就活で出会いあった?」と今現在就活中の子に聞かれて「あったよー。隣に可愛い子が座ってたら話し掛ければいいじゃん?」などと答えたりしているわたしである。
出会いは確かにあったね。
新年度が始まり、色んな場所でいくらか出会いがあった。
再会したのもあった。
それでも今年1番実感したのは「出会いがあれば、別れがある」ということ。
「もういいや」と思うと、次に新しい出会いがぽんと生じている。
そういうのを繰り返してきた感じである。
不思議なことだが、本当にそうだった。
今年はわたしにしては珍しく、色んな男の子と関わった1年だった。
社会人の男の人とも結構知り合った。
1年というより12月までの半年間、と言った方が正しいかも知れない。
消えていった相手もいたが、関係が持続している相手もいる。
色んな人と遊べる状態って身軽でいいな、と思う。
いいとこしかつまんでない。
綺麗な部分しか見てない。
楽だ。
しかし、安定を望む自分もいる。
1人の人とじっくり向き合うことは、笑い以外の様々な顔をして生きていくことだから、人は成長すると思うし。
これからどうなるんだろう。
なるようにしかならんよな、こーいうことは特に。
わたしは1人引っ越し作業しながら、年越し(悲)
先週はやたら男の子と遊びまくった週で、それとは対照的に今週はおとなしくして、女の子と遊ぶくらいしか予定がない。
“クリスマスイブも明日もバイト♪4年間いつもクリスマスはバイト♪ワーキングガール♪”
きっとというか、確実にこんな感じ。
あまり慌てないことにしている。
そして1人の人に集中しないことにしている。
後で「どうしてわたしはあの人に、あれほどまで固執していたのだろうか。わたし阿呆だ」といつも思う。
新たに気になる人が出来ると、終わった恋愛についてそういう感想を持つ。
そういうものだから、人をまた新たに好きになっても、いちいち考え込まないことにした。
期待もしないし、妄想もしない。
それは裏切られるだけだ。
独りよがりな計画も立てない。
その場その場で、臨機応変に対応する。
流れに身を任せてみる。
そうした方が思いもよらない良いことになることが多い、と身をもって実感した。
「恵比寿のあのシャンデリアを見たカポゥは結ばれる」という都市伝説があるんだってさ、と、女友達に教えられた。
「Nさんとー?」と笑った。
あ、でも知ってたらNさんとは行ってないよね。
Nさんはあまりイケていないけれど誠実で純朴そうなサラリーマン。
この前、女友達と語ったこと。
みんなどう思うだろうか?
男の子と映画とかごはんの話になったとき「この前●●に行って…」と話し始めるのだが、その際誰と行ったかは言わないが「それ男だろ?」的なニュアンスを匂わせることがあるよね、って。
実際、男と行っているので真実なんだけど。
そうされると、若干嫌な気持ちになる人もいるらしい。
逆の立場で考えてみたら「あ、嫌だ」と分かった。
なのに、どうしてわたしもその行動をしてしまうのか。
「あなた以外にも遊ぶ人はいるの。あなたのこと気になるけど、あなただけに集中しているわけじゃない。だから『おまえ重い』と感じないでほしいな」という意味をわたしは込めているんだ、と思った。
見栄?
単純にそれだけで片付かず、重いヤツと思わないでほしい的なアピールなのよね。
分かって下さい。
けど、いざ「この前ここ来たんだよね」と言われると「んー誰だろ?女だったら嫌だな」って、全くもって自分勝手な感情を持ってしまう。
ガキなわたし…。
来年からはそういうのを余裕持って、そわそわせずに「へぇ。いいとこじゃん」と口先だけでなく、心から言えるようになりたい。
社会人になるしね。
大学時代からの友人がいる。
彼はドイツ人で、浮世絵の研究をしているうちに日本に留学したくなり、留学した日本の風土が気に入って永住したくなり、ドイツ語の翻訳の仕事をしながら日本人の奥さんまで貰ったというそれはもう筋金入りの日本好きだ。日本語も堪能で、電話口ではネイティブの日本人にも彼がドイツ人だとわからないほど上手い。
物腰も穏やかで、友人や奥さん相手にすら丁寧語で話すというまさにジャーマンジェントルメン。
彼が怒ったり、声を荒立てているところを見た人間は誰もいない、というくらいの温厚で優しいドイツ人なわけなのだ。
まあそんな彼とこの間、恵比寿のガーデンプレイスにエビスビール祭りに一緒に行った。
彼は日本のビールだけはあまり好きではない、と悲しそうに言っているのだが「まだエビスビールは飲めるほうだ」とも言ってくれている。
秋口の夕焼け空の下、久闊を叙しながら(この言い回しは彼に教えてもらった)ビールで乾杯したら楽しかろう、と思ったのだ。
彼と彼の奥さんと、黄昏のいい雰囲気の空の下、ビアガーデンで乾杯しようと屋台の兄ちゃんにビールを頼み、我々のテーブルに届けてもらったとき、それは起こった。
その屋台の兄ちゃんは、客へのお愛想なのか、こんな事を言ったのだ。
「ウチが一番泡の量少ないんですよ!」
要するに、ビールの実質的な量では並み居る屋台の中でも一番多いのだ、と言いたかったのだろう。
「それは違うでしょう!」
誰が言っているのか判らなかった。
その声の発された元は友人だった。
彼は一瞬、しまったという表情を見せながら、こう続けた。
「…泡も含めて、ビールなのです」
彼はびっくりしている屋台の兄ちゃんに謝罪しつつ、こう言った。
「ごめんなさい。大声を出してしまって。どうか、ちゃんとした泡の分量のビールを持ってきて頂けますか?その分の料金はキチンとお支払いします」