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はてなキーワード: ソフィア・コッポラとは

2021-06-11

anond:20210611031445

ソフィア・コッポラ監督2020年映画オン・ザ・ロック」は、「金持ちでジゴロで自分勝手だけどチャーミングな父親に、大人になっても振り回される娘」の話だった

途中までは、「やっぱりお父さんにはかなわないよね☆」「お父さんステキ☆」みたいなお父さん礼賛話なのかと思って観ていた

ところが全然違った

そういう「娘はお父さんの言うことを黙って聞いておけばよい、なぜならお父さんは何が娘にとって最良か知っているのだから」「娘がお父さんに反抗するのは、自分にとって何が最良か、自分では理解していないから」「だから、全部お父さんに任せておけば良いのだ」…的な価値観に対するアンチテーゼだった

「もう振り回すのはやめて! 私は自立した一人の人間なのよ!」という感じで、最後に娘はハッキリとノーを突きつける

すごくいい映画だった

増田気持ちはすごくわかる

お父さんの、娘の意見尊重しない態度

「娘にとって何が最良なのかはお父さんがわかっているのだから、娘はお父さんの言うことに黙って従っておけばいいんだ」という価値観

娘を一人の人間として、対等な大人同士として尊重していれば、こういうことにはならない

不快になる人がいても当然だと思う

漫画を読んで「え、普通のフィールグッドな話じゃん! 何が問題なの?」と感じる人もいると思うけど、人を抑圧する旧来的な価値観も、綺麗な絵や魅力的なストーリーという糖衣に包めばスルッと飲み込めてしまうということで 怖いね

2021-04-17

雑誌映画秘宝』の記憶(50)

町山智浩柳下毅一郎問題発言集】(No.20)

 前回の続きです。

 出典は『ファビュラス・バーカー・ボーイズ映画欠席裁判2』(2004年、洋泉社)、発言者を「町山」及び「柳下」と表記記述形式

   [ページ数]

   発言者発言内容

   【※】付随情報や私個人の感想など(適宜)

   (初出)

です。

引用ここから

[p209]

【※】今回も監督ソフィア・コッポラ、出演・スカーレット・ヨハンソンビル・マーレイロスト・イン・トランスレーション』の話題。まずは二人の「女性観」が読み取れる箇所から

 町山:ヨハンソンダンナの知り合いのハリウッド女優が出てくるじゃん。『最終絶叫計画シリーズアンナ・ファリスがキャピキャピ演じてる。

 柳下:あれはスパイク・ジョーンズの『マルコヴィッチの穴』(99年)に出たキャメロン・ディアスモデルでしょ。一人『チャリエン』みたいな女闘美アクション映画プロモーション来日してるという設定でモロバレ。

 町山:あの映画観たいなあ。アンナ・ファリスってインタビューしたことあるけど、礼儀正しいし、一生懸命質問に答えるし、ミラ・ジョヴォヴィッチと並んで性格のいい女優さんだったよ。それに比べてスカーレット・ヨハンソンは…。

 柳下性格悪そうだよね。

 町山:最悪!

(中略)

[p211]

 町山:あと、アンナ・ファリス自分ダンナ冗談言って笑ってるのをヨハンソンがブスーッと見てるんだけど、ソフィア・コッポラもああいう女なんだろうな。

 柳下:男と平気で猥談できちゃう女を軽蔑してるんだよね。キャメロン・ディアスってオリヴァー・ストーンみたいな親父にキスしてやったり、お尻振ってみせたりできちゃう女でしょ。

(中略。『ロスト・イン〜』の物語では、何も起こらないと柳下毅一郎が不満を言う。)

[p212]

【※】ここから町山智浩自分語りが始まる。

 町山:オイラにはあの何も起こらない感じがリアルだったね。オイラ取材でけっこういろんな街に行くじゃん。トロントとかオースティンとかさ、でも現地に誰も友達いないから、淋しくてさ。ビル・マーレイ気持ちがよくわかるよ。

 柳下:淋しいかカミさん電話したりして?

 町山:うん。「子供は淋しがってないか?」って聞くんだけど、「大丈夫よ」って言われちゃうの。それがまた淋しくてなあ。

 柳下:情けないなあ。僕は見知らぬ街を一人で散策するの好きですけどね。博物館とか殺人現場を訪ねたりして。トロントなんて多民族都市うまいレストランがいっぱいあるし。

 町山:一人旅を楽しめるってのは強い人間なんだろうな。オイラさびしんぼうから(笑)うまいレストランに行っても、「こんなにおいしいものも一人で食べてると淋しいなあ」とか思っちゃって。

 柳下:それは中身がないからですよ。

 町山:…そ、それはオレのこと言ってるの?

 柳下:『ロスト・イン〜』という映画のことですよ。異国の地で淋しいなあ、ってところから最後まで一歩も進んでない。

(中略。映画ラストスカーレット・ヨハンソンビル・マーレイキスする場面は脚本には無いアドリブという話。)

[p213]

 町山:たしかに本当は、ヨハンソンと何もないまま、タクシーに乗って帰るというのがリアルな終わり方だよね。映画のような出会いなんてないんだよ…。

 柳下あんた、その年で旅先のロマンスとか期待してるの?

 町山:柳下はもう恋とかしないの?

 柳下:…もしかして奥さんとの仲悪いんですか?

 町山:いや、いろいろあってもう十年以上で円熟しつつあるけど、妻への「愛」が成熟すればするほど、「恋」や「セックス」はなくなっちゃう感じなんだ。ていうか、こっちがそれを求めても、カミさんのほうがケミストリーをなくしちゃって…。

 柳下:はあ…。

 町山:だからさ、若い頃は恋愛セックスは一つだけど、この年になると「愛」「恋」セックス」の三つに分裂するね。『ロスト・イン〜』はその心理をよく描いているよ。ビル・マーレイは家庭を愛してて、妻を愛してるんだけど、淋しいんだよね。

 柳下:情けないですね。日本旅行に来たことでそれに気づくだけで、マーレイもヨハンソンも、もともと淋しいんだよ。別に日本関係ないんですよ。

引用ここまで=

(初出『映画秘宝』04年vol.53)

 以下は感想です。

【※】町山智浩が「インタビューしたことあるけど、あの女優性格が悪かった」と言う話も、単に相手女優町山智浩セクハラ発言によって気分を害されただけなんじゃないでしょうか?

【※】柳下毅一郎発言にも「男がセクハラ的な猥談をしても、それを笑って受け流すのが『いい女』の条件である」という男尊女卑意識を感じます

【※】一人旅に耐えられないか、耐えられるかの部分では、町山智浩柳下毅一郎の差が如実に顕れています

【※】この頃から町山智浩は、家庭での居場所を失くしていたように見えます。だからといって、ここまであからさまな「旅先での浮気願望」を口に出して言うのも「『大人の男』としては少々みっともない」と思うのですが、本人の中では矛盾を感じないのでしょうか。

【※】ケミストリーがどうのこうの言う割りには、町山智浩から出てくる話は性風俗の話ばかりなので、仮に百歩譲って浮気をするにしても、現地アメリカ自力女性との一対一の関係を構築することはできない/できなかったんだろうなあと推察されますマンスプレイニング気質の持ち主だと、アメリカ女性から敬遠されてしまいそうですし、センパイのために女性パートナーを献上してくれる忠実な子分も、アメリカでは作れなさそうですし。

【※】アメリカではイケないから、日本出稼ぎに来た時に…というのが、例の騒動の発端なんでしょうか。

 またも次回に続きます。ヘイル・サタン

2021-04-16

雑誌映画秘宝』の記憶(49)

町山智浩柳下毅一郎問題発言集】(No.19)

 今回の引用は「他人に害を及ぼすという意味での『問題発言』」ではないのですが、虚飾を剥ぐ意味で紹介しておきます

 出典は『ファビュラス・バーカー・ボーイズ映画欠席裁判2』(2004年洋泉社)、発言者を「町山」及び「柳下」と表記記述形式

   [ページ数]

   発言者発言内容

   【※】付随情報や私個人の感想など(適宜)

   (初出)

です。

引用ここから

[p207-208]

【※】監督ソフィア・コッポラ、出演・スカーレット・ヨハンソンビル・マーレイロスト・イン・トランスレーション』の話題

 町山:アメリカでは日本語セリフ英語字幕をいっさい使ってないんだ。

 柳下日本語のわからない主人公たちの孤独感を観客に共有させるためでしょう。

 町山:いや、これは野蛮人扱いだよ。親父コッポラの『地獄の黙示録』にも意味のある言葉をしゃべるベトナム人全然出てこなかったけど、この親娘はアジア人バカにしきってる。

 柳下ソフィア・コッポラ通訳彼女の面倒を見てやってた日本人たちは、この映画を観てどう思うんだろう?だって、ずっとあの女(引用者注:主人公)は「バカみたいな英語ね」って腹の中で笑ってたわけでしょ?

 町山:それ言ったら、主人公が二人とも最後まで一人も日本人を好きにならないってのも問題だよ。日本人カラオケに行って盛り上がるというシーンでも、ビル・マーレイスカーレット・ヨハンソンは二人でばっかり話してて、日本人と打ち解けることはない。

 柳下:だからさ、ソフィア(引用者注:コッポラ)をちやほやしてた日本人友達だと思ってたけど、向こうはサルしか思ってなかったんですよ。

(中略)

 柳下:それにインチキもあるよね。ポールが立ってて、ラップダンスがあるストリップバーが出てくるけど、あんなのアメリカ風俗であって、日本じゃないじゃん。

 町山:え、歌舞伎町にあるよ。

 柳下あんたが僕らを連れてった店でしょ(笑)。あそこはダンサーも客も外人ばっかりじゃん。

 町山:あの店のストリッパー口説いて連れ出して飲んでたら、イスラエルから来た娘で「パパはモサドなの」だって

 柳下:それ、口説いたのは✕✕✕✕✕くんで、あんたはおこぼれもらおうとしてついていっただけじゃん。

 町山:バラすなよ。で、イスラエルから、その娘も兵役経験があってさ、破壊工作班だったって言うんだよ。「建物を爆破するときは片方の柱だけ壊して自重で倒れるようにするのよ」だって

 柳下:何の話してるんだよ!『ロスト・イン〜』でしょ!

 町山:そういえば『ロスト・イン〜』の製作会社で、コッポラ親父が社長やってるアメリカン・ゾートロープって、サンフランシスコでもいちばん風俗街のド真ん中にあるんだよね。向かいストリップクラブがニ軒に、のぞき部屋一軒。ビデオBOXニ軒にファッションヘルスもあるよ。

 柳下:詳しいですね。

 町山:ヘルスはボッタくりだぜ。サンフランの他のヘルスは本番あるのに、ここは手コキのみで…。

 柳下:なんの話だ。ソフィア・コッポラの話でしょ。

引用ここまで=

(初出『映画秘宝』04年vol.53)

 以下は感想です。

【※】二人が『ロスト・イン〜』について言っていること自体には全く同意するのですが「英語能力が不足していて、現居住地アメリカ日本語字幕無しに観ている映画の内容を、町山智浩は正確に理解できていないのではないか?」とか「現地の地域コミュニティ町山智浩は融け込めておらず、現地人の友人がいないのではないか?」との疑惑を持たれるようになってしまった、現在町山智浩視点で『ロスト・イン〜』を観直したら一体どんな感想になるのかは興味深いところです。以前、パトリック・マシアス英語で会話する場面で、町山智浩英語パトリックが聴き取れない、もしくはパトリック英語を町山が聴き取れないと思しき場面もありましたが、今はどうなのでしょうか。

【※】さんざん非・都市部に暮らす非・富裕層アメリカ白人を「土人」呼ばわりして差別していた町山智浩たちが「アジア人バカにしてる」とか言っても「目くそ鼻くそ」ですね。

【※】あいも変わらず性風俗の話をし始める町山智浩は、他にアメリカでの楽しみが無い/無かったのでしょうか?

【※】今回の引用でも柳下毅一郎からは「おこぼれ目当てで後から着いて行った」とバラされているように、性風俗の話はしても「独力で女性口説いたエピソード」を出せないような町山智浩が、何故「オレは『大人恋愛論』を語れる!」と踏んだのか本当に不思議です。

 次回に続きます。ヘイル・サタン

2020-11-27

旅行気分になれる映画

あると思うんだよな

面白さとは別軸で、没入感があるのかなんなのか、とにかく見終わった後その舞台滞在してたような気分になるような映画がある

ソフィア・コッポラさんのSomewhereとかすごかった 面白いか面白くないかでいうと別に面白くはないんだけど、見終わったときガチロサンゼルスに行ったことある気分になったもんな

監督インタビューでもそういう没入感目指したみたいな話をしてたらしく、旅行映画ガチ勢っぽい

Call me by your nameも良かったな

イタリア北部の涼しげな夏!経験したことないのになんか分かるんだよな

ーー

(追記)

すごい集まってて嬉しい!

"LIFE!”、高校生とき友達と見に行った思い出がある いいよね スケボーのシーンすごかった

他の挙がってるやつも見させていただきます

以下持論

個人的にはザ・ロードムービーって感じのやつよか、現地の生活を描いてるやつの方がグッとくる

Somewhereのなにがよかったって、ホテル廊下だったり車内から見えるつまんない景色だったりが結構描かれてたことなんすよ

すごい観光地旅行したってずっと綺麗な景色が見えるわけじゃないじゃん むしろつまんないボックスシートの壁とか味気ない国道沿いの景色とかを見てる時間の方が長い

そういうところも程よく見せられた方が生々しい旅行らしさを感じられるんですよね

旅を描くなら宿で荷解きするシーンとか朝起きて寝癖を治すシーンとかを入れてほしい いや入んないだろうけど、そこをなんとか……

雄大自然が素晴らしいところに行って、覚えてるのは案外どうでもいいきったねえ公衆便所の壁の落書きだったりする そういうところあるじゃん旅行って

なんの話だ?これ

とにかく、ありがとうございました

2019-07-28

anond:20190728122910

最後netflixの”get down”というドラマにも触れておきたい。ヒップホップの創生について描いたドラマである監督は”華麗なるギャツビー”を手掛けたバズ・ラーマン。jaden smithがハウスクラブで、友達男の子キスをするシーンが話題になった。

ハウスは元々シカゴゲイディスコ”ウェアハウス”を由来とする。ヒップホップも元々、ディスコを由来としていて、初期はエレクトロなどの引用サンプリング)が多かった。故にハウスヒップホップディスコを親とした兄弟と呼ばれたりもする。

例えばSlum Villageのdj dezという人物象徴的で、ヒップホップDJでもあり、ハウスDJでもある。Andresという別名義で、moodymannというディープハウス大御所レーベルからリリースしてたりもする。

上記したキスシーンは、不寛容時代から現在へとブリッジするものとして描かれた(ようにかんじた)。少なくともラッパーが同性とぶっちゅーなんてのは、20年前にはできなかった表現である

 

Slum Village "Fall in love"

https://www.youtube.com/watch?v=s732BigTxZk

Andres "Moments In Life"

https://www.youtube.com/watch?v=nPT0Zw0z90g

Jose James "Desire (moodymann mix)”

https://www.youtube.com/watch?v=WHNZy-9u2FU

"Get Down"

https://www.youtube.com/watch?v=FYcVrWDOiao

 

 

補足。

Childish Gambinoは役者コメディアンとしても活躍しており、netflixなどで公開されている”Atlanta"はべらぼうに面白い

元嫁に尻に敷かれまくりながらも、養育費のためにがんばるサウスの男のお話

Frank Ocean "Super Rich Kids"はソフィア・コッポラの”ブリングリング”の劇中歌である。おもろい映画なので、おすすめしたい。

歌うラッパーは昔も少数いた。Outkast、Ceelo、Bone Thugs N HarmonyNelly、Nate doggなど。今のように誰でも歌ってる訳ではなかった。

SNS活用で一番最初に売れたのはSouja boyである。然しながら、今日のTypicalな成功例とはすこし趣が違っている。彼の場合は、まずダンスが先行した。

Kodie Shane "Sad"における三番目のナードな男の名前が"Napoleon"なのは、"バス男"("Napoleon Dynamite")から引用と思われる。いい映画です。勝手邦題暴力性よ。

2013-05-08

村上春樹の新刊、「田崎つくる」のAmazonレビューをみていて思うこと

amazonレビューで、多崎つくるのレビューを、ほとんど疑いもなく星5つで記載し、圧倒的な「参考にならない」の評価をくらっているしがないレビュアーです。

ちなみに、今日2013/5/8現在、335人中101人が星5つの評価を加え、星4つの高い評価をつけた人を加えると、335人中182人の半数以上の人が星4つ以上をつけているにも関わらず、現在「最も参考になったカスタマレビュー」は、ドリーなる人物の書いた「孤独サラリーマンイカ臭妄想小説」という星1つのレビューで、9825人中、9502人が「参考になった」というボタンを押しています

ちなみに星1つの評価のレビューは、323人中、51人しかないにもかかわらず、この評価は圧倒的です。

感覚的にいえば、全体における星の数の比率に、各評価の中で「最も参考になった」というというレビューが、最終的に漸近していきそうなものですが、このドリーなる人物のレビューは、ある種ゴシップ的な面白さが加わり、NAVERとかはてブあたりから迂回してやってきた方々の支援もあったのだろうと邪推しつつ、圧倒的な支持を得、10000近くの人たちに「参考になった」とフォローされているわけですが、その内容は、読めば読むほど気持ちの悪いレビューで、村上春樹とりまマーケティング悲惨さを痛感するとともに、あらためて日本人文盲具合と、教養のなさと、その教養のなさをひけらかす露悪主義をみせつけられるようでした。

はいえ。

これも、ドリーなる人物の文章が悪いのかというとそういうのではありません。こういう気持ちの悪い文章は、本来放っておかれれば、そのまま情報の闇に葬りさられるだけであり、問題なのは、こういう情報を引っ張ってきて、「うーん、これはすごい」「面白い」と言っている人々の側に、前述した無教養さの礼賛であるとか、露悪主義のようなものがあるように思うのです。

それで、私は、この駄文が、そもそも情報の闇に葬りされること請け合いなのにもかかわらず、下記の数点の視点に絞って、村上評価およびその周辺のマーケティングの問題について論じたいと考えています

1.村上春樹の今回の新作の、アマゾンレビューにおける、公平な評価の基準軸(いったい星いくつが適切なのか?)

2.「村上春樹が嫌い」というヤツは、実は「村上春樹」よりも「村上春樹ファンのことが嫌い」という事実

3.村上春樹を100万部売ろうとするマーケティングの問題(そもそもこれエンターテイメント小説じゃないんですけど)

この3点についてです。

■1.村上春樹の今回の新作の、アマゾンレビューにおける、公平な評価の基準軸(いったい星いくつが適切なのか?)

まず、結論から断じて言いますが「多崎つくる」のamazonレビューを、現在日本文学における主要作品(村上龍山田詠美阿部和重平野啓一郎川上・・・などなど)と比較して星をつけるとするならば、星は5つ以外は考えられません。これらの作家の代表作と比較しても、時代的な価値、作品の主題、文体などにおいて「劣っている」という評価をしようがないからです。

もちろん、小説物語には個人的な共感を読み手の原動力にするという性質上、どうしても「共感できない」という人がいるのは確かなことです。しかしながら、そういう個人的な側面を度外視し、「文学」というジャンルにおいて、日本という国の文化歴史的に補足、説明する資料として、たとえば、文学作品ピックアップするのだとすれば、本作は1Q84までとはいかないにしても、近年日本代表クラスしかいいようがないからです。

2013年日本という国で出版された歴史的に淘汰を免れる文学作品をあげなさいといわれて、今年、これ以上に素晴らしい「文学作品」が登場するかどうか、私は甚だ疑問です。平野啓一郎の新刊がでればその可能性があるでしょうが、少なくとも、それ以外の作家には期待できません。

abさんご?無理です。

田中慎弥もっと無理です。

そういう意味において、本作は星5つ以外の評価はありえないと私は思うのです。

しいて別の視点で評価するならば、村上春樹作品全体を相対的に評価するということもできるかもしれません。これについて言えば、私の評価は、星5つに限りなくちかいものの、もしかしたら星4つをつけるかも、くらいのところです。人によっては3つという人もいるかもしれません。それはあくまでも村上春樹作品における相対評価です。

本作は、次につながる長編小説のための助走のような小説です。伏線の回収(村上春樹本人ならば、伏線の回収ではなく、全体を微細に描き切っていないと言いそうですが)、それが十分でないことがその理由です。

しかしながら、これが作品の評価を不当に低くするかというと別問題です。短編小説というのは、その行間物語前後や背景を滲ませ、読者に共感の余地を残すものです。これは本作が、短編小説的な位置づけにあるということを示唆しているのであって、村上春樹が手を抜いているわけではないのです。星を1つ減らす理由があるとすれば、「もう少しだけ短くてもよかった」という点でしょうか。短編小説というには、少し長すぎました。

本作は、あくまでも「短編」であり(この人の場合は、もはや「短編小説」がこの長さになってしまうだけ)、あえていくつかのプロットを読者に委ねたのです。これは、文学を読む側のリテラシーの問題です。趣味(つまり好み)の問題ではなく、読む側の技術(読解力)の問題です。

というわけで、個人的な村上春樹の読者として星をつけるならば4つもあり得るかもしれませんが、文学に全方位的に公正な評価をつけるのならば、星5つ以外にはないということをご理解いただけるでしょうか。

もし、理解できないのならば、村上春樹を読む前に、夏目漱石森鴎外と谷崎と太宰と三島大江健三郎と諸々読み直すべきでしょう。

それが嫌なら、伊坂幸太郎でも読んでればいいと思います稚拙な、読解力を十分に満足させるだけの文章にはなっています

■2.「村上春樹が嫌い」というヤツは、実は「村上春樹」よりも「村上春樹ファンのことが嫌い」という事実

私は、長年村上春樹の作品を読み続けてきて、周囲にもそのことを公言しているわけですが、最近困ったことに「ハルキストの○○さんは、新作もちろん読まれたんですよね?」とか「ハルキストとして今作はどうでしたか?」などと聴かれることが多くなりました。

この「ハルキスト」なる呼称最近よく聴くんですが、これって、わりと最近たぶんノーベル文学賞に毎年エントリーされるくらいになってテレビリポーターとかがテキトーつけたんじゃないかという気がしています。一体いつくらいなんでしょうか?

私思うんですが、村上春樹の読者を「ハルキスト」と呼称してしまう人は、はっきりと断言しますが、村上春樹を読んでいないか、全く読解できていないかのどちらかです。

村上春樹小説はどの作品でも読めばすぐにわかますが、組織共同体所属することにとにかくうんざりしています辟易しているし、場合によっては嫌悪感に近いものを感じていることもある。とにかくそういう人たちとうまくやっていくことができないし、やっていく自信もない。主人公の「僕」やら「ハジメくん」やら、「ワタナベくん」は、もう、所在なし、所属なし。

まりひとくくりに呼称できない存在なのです。

村上春樹の作品が世界的に受け入れられているひとつの理由は、その「孤独」性です。その周囲にうんざりしたり、なじめなかったりするその主人公のおかれた状況に、読者が少なくない共感を感じてしまうことが、世界的に受け入れられたひとつの理由なのです。

まり、「ハルキスト」などという「ひとくくり」の呼称を付与されることに、気持ち悪さしか感じない・・・というような人たちが、どちらかといえば村上春樹本質的な読者なのです。私も同様「ハルキスト」と呼ばれるたびに、冷笑を覚えたりするので、みんなそんなもんだろうなと思っていると、ときどき本当に「ハルキスト」を自称する読者にあったりします。こういう場合は、辟易するというかなんというか、ときどき困惑嫌悪感が入り混じった感情を抱いたりするこもあります

なんなんだこの違和感

と。この感覚は、村上春樹に星1つをつけて、「いやぁ、村上春樹とか読んでるやつ信じられねーな」とかいう人の感覚に案外似たところがあるかもしれません。(まぁ、とはいえどうでもいいことなので、あえてバッシングしたいとも思わないのですが。)この際、そのほんとに読んで言ってんのかよ!という方々を「ハルキスト」と呼称しましょうか、そのハルキストなる方々と、村上春樹の作品とはまた別の問題だと考えるべきです。

こう言うと、村上春樹小説はそういう勘違いした読者、その「ハルキスト」なる存在を生み出しており、村上春樹にはその責任があると捉えることもできます

アンチ村上春樹人間は、この影響力に村上春樹への脆弱性をみつけて、論考をぶつのですが、はてさて、この点はもういちど考え直してみたいところです。読み手の読解力の欠如がもたらした読者の勘違いを、書き手である村上春樹にその責任を求めることができるのか?ということです。

小説作品は、たとえば自動車エアバッグとか、緊急時備え付けの消化器とか、避難用のはしごだとか、なんでもいいけど、使い方を誤まったら命に別状があるというようなものではありません。

芸術作品です。

作り手の意思とは別に受け手勘違いしてしまうことに、作り手はどれだけの責任が持つ必要があるというのでしょうか。

それは、最後に後述するマーケティングの問題もあります

■3.村上春樹を100万部売ろうとするマーケティングの問題(そもそもこれエンターテイメント小説じゃないんですけど!)

村上春樹を批判する多くのレビューを読む限りにおいて、圧倒的な支持をえる論調は、

「こんなヤツはいない」

恵比寿でナッツを食べるたべにバーに入ったりしない」

「そんな簡単に女とセックスするヤツはいない」

孤独をそんなに深刻ぶったりしてこいつは、何様なんだ」

かいものです。

確かに、多数派ではないかもしれませんが、いないわけではありません。ホテルのバーでお酒を飲んだりすることは、普通にあることです。言葉でどう表現するかの問題はありますが、物事を深く考えすぎて、些細な問題で心を痛めてしまうということも、現代人ならよくあるはずです。セックスなんて論じる必要もなく、敷居が下がっています

主人公の行動や言動を自分比較して、「こんなヤツいないよ」とかいうのは、主人公を類型化して自分との共通点を見つけ出す作業なのでしょうが、確かに、村上春樹の作品の主人公を無理やり類型化して、多数派か少数派かで割り振ったとしたら、間違いなく少数派でしょう。(安易にこういう構図に分類するのは正しい方法ではないのですが)

本作、主人公多崎つくるのプロフィールをざっくりと書くと。

鉄道会社勤務。年収は、700万程度。都内にマンションを所有し、ローンもない。30代後半で独身女性関係特に困ったことはない。

なんというか、条件面だけ描きだせば、裕福で恵まれていて、どこかしらいけすかないととることもできそうです。そして、実際、この点を、アンチレビュワーの方々は、突いているのですが。

前述したとおり、村上春樹小説世界的に受け入れられたひとつの要素はその「孤独性」だと言いました。

みんなの中でわきあいあいとできない。上司にうまく媚を売ったりはできないし、意味のない日常会話を成立させたりもできない。会社終わりにみんなで飲みにいったりするくらいなら、ひとりで孤独音楽を聴きながら読書をしていたい。

などという人間を描いて、そこに世界中の多くの人間共感しているのです。きわめて個人的に。

そして小説というのは、個人的な共感によってはじめて読み進めることができる形式の芸術です。

たとえば、ソフィア・コッポラ映画は、同じように「孤独」を描いていますマリアントワネットなどはその最たる例で、多崎つくるくんなどとは比較しようもないくらい恵まれている。にも関わらず、彼女は圧倒的な孤独に苛まれている。そして映画を観る者は、そのマリーの孤独共感して、胸を痛める。いや、映画小説と違うのは、マリーの孤独共感しようとしまいと、映画自体は2時間後に終わるということ。

しかしながら、小説というのは「なんだよこいつ、むかつく奴だな」というのがあったら、読み進められない。別の言い方をすれば読み進めなくてもいい。村上春樹は、この社会において孤独を感じながら生きざるを得ない、もしかしたら比率的には少ない側の面々の生き方肯定しながら、その顛末を見守るというようなプロットなのだから、読んで「むかつく」人が多いのが、当たり前といえば当たり前なのです。

もともと多くの多数の人間共感されることを、書いてる本人も視野にいれてはいない。(それを望んでいないわけではないにしても)

にもかかわらず、売る側は必死です。

それはそうです。売る側は、本の内容は関係いからです。出版不況時代です。本が売れません。黙っていても売れる時代なら、売る商品を選ぶこともできます。「こんな根暗作家が書いた本は、ひっそりと奥に並べておこう」とか。でも今は、売れる商品が限られています。小さな本屋から、大きな本屋まで、こんなにまとまって本を売ることができる機会は、年にそう何度もあるわけではないのです。

だもんで、売る側は、まったなし。「村上春樹の新刊!?長編平積みだよ、平積み!」

と、なって当然です。で、買い手は買い手で、村上春樹なんて共感できない人が数多いて、そのことを半ば自覚しているにも関わらず、「またぞろ、村上さん新刊ですか?」などとうがった態度で、1700円も払って買って帰ったりする。

本来、孤独に静かな時間を過ごしたい人(それから社会自分との繋がりを確認したい人)のために書かれた本であるにも関わらず。

帯にこんな風に書いておけばいいかもしれません。

「この作品は、日常違和感を感じることもなく、日々を謳歌している人間には読む必要のない小説です。それと孤独を描いてはいますが、自分自身の孤独が解消されれば、他人のことも社会のことも、どうでもいいという人にも不向きです。自身の孤独社会との関係において改善されることを仄かに信じている人のための作品です」

もちろん、そんなことは絶対書かれることはないのでしょうけれど。

本来静かに出版されて、求める人がそこに救済を得るという仕組みであるべき作家と読者の関係が、資本主義論理によって蹂躙されている。それだけのことにも関わらず、本来、村上春樹に対して苛立つ必要もなかった人たちまでが、駆り出されて、勝手に苛立っているのです。

嫌なら読まないということが可能なのにも関わらず。

この「作り手」と「市場」との悲劇的な関係というのが、アンチ村上春樹を作り出し続ける最大の要因という気がしてなりません。

---

随分長くなってしまいましたが、最後に結論というかなんというか。

こういうことも言えるかもしれません。

昔、三島由紀夫は、太宰治が大嫌いで、直接会いにいって「私はあなたの作品が嫌いです」と言ったそうです。

すると太宰治は返す刀でこう答えました。

「でもこうやってわざわざ来たんだから本当は好きなんでしょう?」

三島由紀夫は、なにも言い返せなかったそうです。

まり、みんな本当は、村上春樹が好き(もちろん、断固として認めたくない)なんだけど、作品の主人公同様、素直になれず、好きさゆえに星1つつけちゃって、あんなヤツ嫌だよ、いないよ。むかつくよ。とか言ってるだけっていう可能性もあります

ん?あっ、それって、実は一番村上春樹主人公的?な気がしなくもないですね。

この長文を書いている間に、少なくとも「私は、ハルキストです」とか言ってる人より、星1つつけて、村上春樹なんか嫌いだよとか言いながら、毎回出版されるたびに買っちゃってる人たちの方が、なんだかよっぽど共感できる気がしてきました。

おしまい

2007-01-31

ハチミツとクローバーにもソフィア・コッポラにも江國香織にも全く胸がきゅんとしない

というよりむしろ虫唾が走るんですが、私には乙女心が欠けているのでしょうか

特にハチミツとクローバーに対する否定的意見を見かけたことがなくて、不思議です。

 
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