はてなキーワード: 感情とは
ひっかかりニーチェ最新回「友達3人でスノボ行く約束して現地に行ったら友達の友達が8人居て、自分は彼等と交われずにずっとアウェーだった」というお題
ひでえ話だ
これに対し高比良くるまが「34歳という年齢で『告知なしで知らない奴等を連れてくる様なヤバい奴』と友人関係を結んでいる自分のヤバさに気付いた方が良い」と言ってて笑った
ほんとな
相手がどうとかいうよりも「こんな扱いしてくる奴と付き合ってるってどうなんだ。人を見る目がなさ過ぎるだろ」と思うわな
まあ「え?どういうつもり?」って思わない大人も結構居るんだろうけど。なんなら「知らない人に合わせて楽しめない自分が駄目なんだ」まであるかもね
自分だったら「やりに来てるな」って思うね。ネガティブだから。普通に「嫌がらせだよね」って思う
嫌がらせする様な奴とホイホイ遊びに来てしまった己の馬鹿さ加減に臍を噛むし
そして何なら途中で「急用出来ちゃったから帰るわ」つって消えるね
愛想笑いしながら知らない面白くもない奴らとつるむ意味が無い。10分かそこらのことなら我慢出来るけど、数時間とか無理
空気扱いされるなら居る必要無いしね。かと言って無理して構って欲しいわけでもないしね
(承認欲求が強いとか思われたら心外だ。誰だって自分がスポイルされてる様な状況を楽しめるわけないよな
人間観察宜しく、そういった状況を超越的立場から俯瞰するのが楽しいとかいう変わった人でもない限り)
そもそも人に興味がないのに知らない人なんか通りすがりの人と同じだよ。一緒に遊ぶとか無理
こういう意見に対して「人生つまらないだろ」とか言ってくる奴も「無告知で知らない人連れてくる無神経な奴」と同じだからな。自覚しとけよ
もういっこ。今回の話の中で「恋リア」について語られていたのだが
永野が「そんなもんを見てる奴らばかりの世の中で、よくも俺に説法を垂れたよな」って言ってて笑った
わかる
世間は自分が思っている以上に「恋愛脳の奴らばかりである」ことに驚きを隠せない
びっくりするくらい、恋だの愛だの結婚だの不倫だのにうつつを抜かしている
だが、ソレ以上の年齢って「人生」や「自分」に対して向き合う時期なんじゃないっすか
(勿論思春期だって激しく自分に向き合っているが、それは「己の礎を形成する時期」という感覚であり、人生の1/4弱過ぎたら違うステージで物事を考えるもんじゃないですか)
よくわかりもしない誰かを盲目的に崇拝する暇なんぞあるのか?
ましてや結婚とかした後に「仕事してて家庭もあって子供も居て」なんてことになったらもう、それだけで手一杯じゃあないんですか
つーか、幼い頃から20代まで経験してきて「まだまだ足りないぜ」っていうのはどういう?
他に考えることは無いのかい?
謎過ぎる
面白い人間になりたいという思いは多くの人が抱えるものだが、君の場合は少し方向性がズレてしまっているようだ。以下にいくつかのアドバイスを提供する。
観客を見極める
ユーモアは相手によって受け取り方が変わる。同僚や新卒のようにまだコミュニケーションの土台が築かれていない相手に対しては、突然の奇抜な話やホラーギャグは驚かせてしまうかもしれない。相手がどういうユーモアを楽しむのかを見極めることが重要だ。
大げさなジョークや風変わりな話題よりも、まずはシンプルで誰にでも伝わるような笑いを目指すといい。日常のちょっとした出来事や自身の失敗談など、共感を得やすい話題から始めてみよう。
冗談を言うタイミングやその場の雰囲気が重要だ。たとえば、送別会は感謝や別れを惜しむ場なので、あまりにも突飛な発言は相手の感情とすれ違い、逆に不快感を与える可能性がある。聞き手の心情に寄り添う必要がある。
相手の反応を観察する
ギャグや冗談を言った後の相手の反応をよく観察することも大切だ。相手が困惑したり、不安そうであれば、それは何か誤解が生じている印だ。素直に「冗談だよ」と伝え、相手を安心させることも必要だ。
バランスを取る
ユーモアを追い求めるあまり、他者との通常のコミュニケーションまでギャグ調にすると、真剣な場面でも信頼を失う恐れがある。普通の会話での安定感も併せ持つことで、あなたが信頼できるユーモアのある人物として認識されるだろう。
秋の風情を感じて、周りの人に感心されるような上品な表現を使うには、季語や文学的な言い回しを取り入れると効果的です。以下にいくつかの例を挙げます:
「もみじの赤が一段と鮮やかで、まるで自然が描く絵画のようです。」
夕暮れ
「秋の夕暮れは、一日の終わりに穏やかな詩情を添えてくれます。」
「日が短くなるにつれ、夕焼けの色がいっそう深くなりましたね。」
秋の風
「そよぐ秋風に金木犀の香りが混じり、季節の移ろいを感じます。」
「秋の夜長、虫の音に耳を傾けていると、故郷の景色が胸に浮かびます。」
「静かな秋の気配に、心の奥深くが優しく揺さぶられる気がします。」
移ろい
「この葉が落ちる様子に、時の儚さと美しさを感じざるを得ません。」
「移りゆく季節の中で、ふと立ち止まる時間が大切だと思います。」
「『秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる』ですね。」
「まるで松尾芭蕉の『寂しさや岩にしみ入る蝉の声』が聞こえてきそうです。」
「月が優しく微笑んでいるようで、秋の夜がいっそう幻想的に感じます。」
兵庫県民、陰謀論に踊らされたあほだとかウジ虫とかナチとか言われても、他県民(一部は同県もいると思うけど)も内情というか兵庫県民の鬱屈は判らないと思うし思想的な観点が大きいじゃん。
先の評価は未来でしかわからないから兵庫県民としては新知事に頑張ってもらうしかない、県民としては支持していくしかないじゃん。
それがさぁ、例の社長の承認欲求?顕示欲?立花何某さんは彼女については動画で「何が悪い」って言ってたけど、
いや、人間的な感情は否定はしないけど県民としてはあの行動は「何やってくれとんねん」しかないよ。
実際、この人を叩きすぎてアンチに加担するようになったら、或いは自決でもされて知事の瑕疵になったらあかんって気持ちもあるし、
静観するしかないってわかってても、やっぱこっちとしては知事とか投票した県民の頑張りに砂かけされてやるせないって思っちゃうよ。
繰り上げ当選とか再選挙とか思ったら今までがほーんともったいないし最低の気分。繰り上げ当選とかマジでやだやだ勘弁してくれ。
彼女、損得勘定で動いてるならまだマシだけどどうかな~。まだなんかあるか?
誰かがもう兵庫県の事は放っておいてくれって言ってたけど、私もそう思う。でも無理だろうな~。
兵庫県民がさいとうさんを選んだ時点で困難な道を選んだって事と同じだと思うし、
折田さんの件がなかったとしても遅かれ早かれ大なり小なり事件は起こってたんだと思うわ…思う事にする。
自制を欠いて憤るさいとう推しも覚悟が足りなかったんだよ。たぶん。
それとは別に私は右でも左でもないつもりだけど極左の方々が兵庫県民をあほとかウジとかナチとかさんざこき下ろしてるって事は逆に選択を誇ってもいいのかも?
とかも思ったりする。気分良くはないけど。極右ぽい保守の人にも関わりたくないから現状も結構、居心地悪いけど。
どうなるんだろうね~兵庫。
「ずっと独り身だったらシェアハウスしようと言ったのに周りは結婚して独り身なのは私だけ」というのが話題になる度に"結婚した側"を裏切り者として激しく批判する人いるけど、それは自分都合で考えすぎでは…と思ってしまう。他人には他人の人生があり、自分と孤独を分かち合い続ける舞台装置ではない— 飴ヌくん (@rolie_candy) November 24, 2024
もちろん感情が追いつかなくて「置いて行かれた」と他責的な気持ちになるのは理解できる。私が言いたいのは、ずっと相手に悪感情を抱き続けてしまうタイプの人のことです。自分の人生と他人の人生は道を違えることがあり、考え方も刻一刻と変わるもので、口約束は永遠ではないとどこかで気づかないと。— 飴ヌくん (@rolie_candy) November 24, 2024
その上で、相手の得た幸せを我が事のように祝福してあげるのまでは難しくても事実として受け入れるくらいはしなければ、いつかあなたは本当に孤独な人になってしまうのでは…と思う。結婚だけじゃなく、友だちの得た幸せを自分都合で腐すようになったら…そんなのもう友だちじゃないよ…— 飴ヌくん (@rolie_candy) November 24, 2024
と、タイムラインに回ってきた漫画の感想から出たさまざまなつぶやきを見て思う。こういう話題において、恋多い私はいつも"裏切る側"だから、自分に都合よくこういう考えを抱いているのかもしれないですけどね。でも、他人の幸せを恨むの、多分本人の精神衛生にもよくないだろ— 飴ヌくん (@rolie_candy) November 24, 2024
あくまで私はだけど、その一瞬その一瞬は本気だから「ずっと独り身だったらルームシェアしようね」と話したとしたらその時は本気で話した夢だと思います。マジで「私だけが本気で、他のみんなにとってはその場限りの話だったんだ」と相手だけが嘘だったみたいな思考しない方が…いい…心にも…— 飴ヌくん (@rolie_candy) November 24, 2024
これ?
※一部表現をゆるくしていますが、センシティブな内容が含まれます。
最後ずるずると付き合ってしまったのは、愛情なんかじゃなくて性欲なんじゃないかと思った。
別れた理由も、性欲に包んだ恋愛感情で素敵な彼女の若い時間を奪いたくなかったというのが大きい。
もちろん私は優しい人間でなく、悪者になりたくないだけである。
だが私は元彼女(以下元カノ)が初めての相手で、過去に遊んだことも浮気したこともない。
だから元カノへの感情が性欲だったのか、プラトニックなやつだったのか、それとも両方だったのか自信がなかった。
だから風俗に行くことにした。以前友人から聞いた情報だと本番ができるのはソープだけらしい。
ソープはお店にお金を払うとお風呂場で客と嬢が恋に落ちるという、神話もびっくりの世界らしい。
別れて翌日、思いきってお店と嬢をネットで探して、電話で予約した。
16:10から行けますと言われ、爪切りや髪のセットをして会場に向かった。
トムとジュエリーでよくあるハート型の心臓が飛びててくる演出は、どうやら人間工学に基づいているらしい。
緊張しながら、いざ来店。
人はペルソナをつければ何もにもなれると、どこかの誰かが言っていた。
キョドらず、さもコンビニに入るかのようにお店に入った。
入口で元気で明るいお兄さんに出迎えられながら、50分18000円の料金を払った。
注意点を聞いた後に待合室に入ると、そこには歴戦の猛者を感じさせるようなおじさまたちが座って待っていた。
一人だけ浮く22歳異常独身男性。
これは紛れもない自由恋愛だ。
他のおじさまがハグして向かっていくのをチラチラ見ながら、指名した嬢が来るのを待った。
しばらくして、自分の番号が呼ばれた。
インターネットの大海に揉まれながら見つけたのは、高校生の頃クラスの中で真ん中くらいの可愛さの女の子だった。
どこから仕入れた知識か忘れたが、写メ日記をちゃんと書いているとホスピタリティがあって良いらしいという情報も参考に写メ日記を見た。
お客さんとの話は一切無しで、本当にただの日記、というよりX(旧Twitter)みたいな短文だった。
………
閑話休題。
とはいえ、普通にかわいい。マッチングアプリだったらデートしたくてやり取りするくらいにかわいい。
どうして来たんですか?的なことを聞かれながら、昨日別れちゃって、、と伝えつつ会場に向かう。
戦いの場所は、簡単なベッド+ガラス張りのお風呂とシャワーといった間取りである。
言い忘れたがここは学園系ソープランドのはずだ。どこに学園があるんだ。
私もその場に紛れ込めるようにシャツで来た甲斐があるというものだ。
いざ部屋に入ると飲み物をクーラーボックスから出して渡してくれて、お茶を飲みながらお話した。
独身男性にはこれだけでも胸が熱くなる。疑似恋愛だともちろん分かっている。
詳しいことはプライバシーにも関わるので控える。
このお店の50分コースはお風呂でなくシャワーとのことだった。
「じゃあ脱いで!」
恋人同士だと脱ぐまではかなりの前戯だ。短針が1回転することもザラにある。
しかしこの場はそうでない。
洗体までは迂闊に手を出してはいけないような気がした。
ここまで私は緊張しっぱなしで、初対面の相手で大きくなれるかという男の課題にも悩まされていた。
Cちゃんが全部脱いだ頃には、緊張も寒さも不安も忘れて、自然に大きくなった。
ずっと憧れだったシンデレラなバストも初めて拝めて、さすがに緊張なんて壁はぶっ壊れる。
これは顧客が本当に必要だったものだ。そう思った。スクラム開発にも取り入れたい。
椅子に座って体を洗ってもらった。
雑談をしながら、Cちゃんが作った泡で体の正面と棒を洗ってもらった。
そしてうがい薬で口を消毒。
私がタオルで体を拭いている間、Cちゃんは自分で体を洗っていた。
普通の恋愛しかしたことない身として、ちゃんと洗い返したい気持ちがめちゃくちゃ湧いた。
だが郷に入っては郷に従えだ。安易な親切心ほど迷惑なものはない。
下手に手を出すぐらいなら、全部プロに身を任せたほうが良い。
Cちゃんも洗い終わった。
「服着たほうがいい?」
そう聞かれたので、せっかくなら着ててほしいと伝えた。
心の中で法螺貝がなる。戦闘開始の合図だ。
Cちゃんに攻めたいか攻められたいか聞かれて、攻めたいと答えた。
1人の相手と何度いたして経験を重ねても、同じことが他の人にもそのまま使えるほど、世界は甘くない。
たどたどしくも、なんとかバックハグ的なことをしながら、上を触った。
後々聞いたら上は感じない人らしい。少しくらい相手を満足させられると思った自分が甘かった。
ちゃんと事前に聞いておけ。
それから2人で横になって、下も触った。
知識では分かっていたが実際触ってみて、女性によって形が全然違うことを知った。
Cちゃんは小柄な体型ながらも太ももはしっかりしていて、そこが素晴らしいと伝えたりした。
そんな中で男がせめてできるのは女性を褒めることだ。
Cちゃんの下を触りながら、Cちゃんも手で俺の棒を上下させてくれた。
めちゃくちゃうまい。
痛くないギリギリが分かってる上に、しっかり強いグリップ感で早い。
あやうく世界が終わるところだったが、日々のトレーニングの甲斐もあって、耐えた。
しかし出そうと思えば出せるくらいに、よかった。
しばらくするとCちゃんは自然な手付きで棒にゴムを装着してくれた。
後で振り返るに、これは時間ないよの合図だったのかもしれない。
元カノの時はもっと時間をかけて前戯していたという傲慢な気持ちが邪魔をしてしまった。
もちろんそんなことに当時の私は気づく訳もない。
さて、その頃の当時の私は、下を舐めたくなってCちゃんに伝えて、下を舐めさせてもらえることになっていた。
舐められるより舐めるのが好きだと伝えると意外だと驚かれた。驚かれたことに驚いた。
Cちゃんの下はびっくりするくらい無臭で驚いた。まだ水道水の方が深い味わいがある。
これがプロの力なのかと思った。
研究室の超純水を飲むのが体に悪いように、多少の濁りがあったほうが良いと知った。
さて、下を舐めながら大きなミスに気づく。
舐めている間は会話ができない。
本当に無音だった。
相手にも気持ちよくなってもらいたいと、気持ち良いところを二択とかで触りながら聞きつつ進め、無音も避けた。
そう分かっていながら、誠実な男でありたいという欲望が隠せない。
「ピピ」
そうこうしてるうちに、アラームが鳴り響いた。
……
これは何分前のアラームなのだろうか。我が家の愛用キッチンタイマーなら残り10分の音だ。
こういう場所のタイマーは特殊な改造がされているのかもしれない。
……どちらにしても時間がないらしい。
事前に潤滑ゼリーなど入れてくれているのかもしれないが、近場にあった潤滑剤を使わずに難なくあっさり入った。
元カノと初めてをするときに、死ぬほど行為のコツの動画を漁っていたので、ここで入れてからすぐ動かしてはいけないと分かっていた。
しっかり締め付けられた。
しばらくして動かしていいか聞きつつ、動かした。
………
…………
さて、ここでふとももを思い出してほしい。
むちっとした太ももは正義だと私達人類は義務教育で教わってきた。
しかしいざ上下に動かすと、この太ももの領地に苛まれ、奥まで進まない。
いわば権利関係の複雑な土地を買収するかのような難しさである。
自分でも何を言っているのか分からないが、要するにあまり動かした感覚がないということだ。達するには刺激が弱すぎる。
「ピピピ」
聞いている間に、またアラームが耳をかすめた。
Cちゃんいわく残り5分らしい。
少し長めのカップラメーンが出来上がるまでの時間に、どうやらこの自由恋愛は破局するらしい。
さすがに焦る。
(断じてCちゃんの接客が悪いとかではなく、私が前戯したい時間を長く取ってしまっただけです。)
Cちゃんに「かわいい人に出したいから頑張ります」と伝え、棒に全神経を集中させた。
元カノと2人で頑張って何ヶ月もかけて解消してきた過去がある。
もう同じ思いはしたくない。
残り4分。
これでだめだったら、男としてどうなんだ。
これまでの人生の22年間はなんだったのか。人類はなぜ生まれたのだろうか。
こんな素敵な人がいるのに出さないというは、流石に失礼なのではないだろうか。
すべての神経を棒に寄せ集め、フィニッシュ。
正直、めっちゃ出た。
Cちゃんはなれた手付きでゴムをティッシュにくるんでもらった。
動かしている間、Cちゃんはあまり気持ち良さそうでなかったのが心残りだ。
でも下手に演技されるより、自分の力不足を感じさせてもらえるほうがありがたいと思った。
女性一人ひとりで違う快楽のポイントを、小手先のテクニックでどうにかしようとは思わない。
もっとコミュニケーション上手にとって、相手も喜ばせてあげたいと、純粋に思った。
その後またシャワーで洗ってもらって、終わった。
お互い褒め合う時間だった。
もっと感謝を伝えたかった。Cちゃんの行動の数々には尊敬しかなかった。
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まず、命題「元カノと付き合っていたのは100%性欲である」は偽であった。
後述するが好きじゃない相手との行為と元カノとの行為は別物だった。
例えて言えばインスタントコーヒーとドリップコーヒーくらい違う。
言語学者ソシュールによれば、言語の意味や単語は固定された絶対的なものではなく、差異によって構成されるらしい。
有名な話だが、ピダハンと呼ばれる少数民族には時間の概念がない。
これは彼らが熱帯という環境的な要因によりそうなったと言われている。
今日私は、恋愛感情の無い行為を行うことで、恋愛感情のある行為とのそれを別物として捉えられるようになった。
私個人の感想だが、明確に性的な行為と愛情表現としての行為は違うと感じた。
そういった意味で、元カノへの好きはプラトニックな好きもちゃんとあったんだと安心した。
そして良かった点。
ひとりあそびとはやはり違う。
本物の人間とのコミュニケーションができた。偽りであってもいい。罠でもいいんだ。
そして一番大きかったのは、異性に対する恐怖を取り除けたこと。
元カノとはかなり時間をかけて親密になったためもはや異性として話しにくいはなかった。
一方で元カノ以外の異性と話すのは相変わらず苦手だった。
今回場所は場所だが「可愛い女の子と出会って50分で最後までできたという経験」は紛れもない事実となった。
デカルトもこれを認めざるを得ない。
経験という裏打ちは何よりすごい。
このおかげで、今後異性と話す時にきちんと普通に話せそうだ。
もちろん周囲の女性と性的な関係を結ぼうなんて安易なことは考えていない。
しかしいつかチャンスが来たときに、物怖じせずに乗っかれる準備ができた気がした。
そして今回、恋愛感情がなくても、自分はその場で出会った相手と最後まで行為できることが示せた。
私は彼女と別れてから、両者合意の上で誰も傷つかなければ性的のみの関係もありだと考えるようになった。
半年前の私は、創作にすら純愛以外は認めない熱心な純愛至上主義だった。
しかし社会人になって数ヶ月、都会に来て様々な価値観の同期を見て、浄穢を知った。
性的関係だけに割り切ったパートナーに憧れを持つようになった。
真面目じゃなくても最低限の倫理感だけは持っているらしい。
だから別れた後に、性的関係だけのパートナーがほしいという感情が強く湧いてきた。
だから恋愛感情なんて無くても、ただの性欲でも最後までできると証明させてもらえたのは、すごく自信に繋がった。
さて、微妙だったのは、やはり恋人とする行為とソープは違うということ。
私はやっぱり本物が好きだ。
時間を気にせずいちゃいちゃしあう時間とか、服のままで触り合う時間とか、たくさんチューしながらつながる時間とか、そういうのが好きだった。
なにより大きな気づきは、普段の生活やデートも含めて超巨大な前戯になっていたことだ。
正直、余計分からなくなった。
また風俗に行こうとも思わない。
https://anond.hatelabo.jp/20241123194830
上記の増田のブクマで「そんなにミュートしてたらエコーチェンバーになるのでは」みたいな論調が散見されるんだが、
こういう人ってそもそも「はてブを見ている」という時点でエコーチェンバーに陥ってる自覚ないのかな。
何もミュートせず満遍なくはてブを見たところでエコーチェンバーには陥ってるんだよ。
はてブなんて根本的に偏ったメディアなんだから、観測すればするほど自分も偏っていく負のループだろ。
「キラキラ」に対する批判や反感があるのは分かるし、自己顕示欲とか自己プロデュースの大切さも否定はしない。
ただ、それを「女性差別」に結びつけるのは、なんか違うんじゃないかと思う。
「スイーツ(笑)」とか「インスタ蝿」みたいな表現が、女性を揶揄する意図を持ってるケースがあるのは事実かもしれない。
でも、「キラキラ」している人への批判は、女性だけに向けられるものじゃない。
男性でも、目立ちたがりっぽい行動をしていると「イキってる」とか「ナルシスト」って言われる。
「キラキラ」を嫌う感情自体、性別とは関係ない普遍的なものなんじゃないか?
それに、「キラキラへの批判=女性差別」と結びつける考え方は、むしろ女性を特別扱いするようにも思える。
性別関係なく、「自己アピールが強すぎる人は嫌われやすい」ってだけの話じゃないのか?
「キラキラ」が嫌われる背景には、性別というよりも、「過剰なアピールに対する反感」や「見る人に疎外感を与える」といった要素であって、
・リング?
・おもろかった
夫と出かけてる時は川の字で「家族」の見本のように
スローモーションで映されるの、おもろすぎでしょ
・「お母さん」に認められたいを搾取され続けるの怖すぎる
特にドアを引きで撮るとことか
壁紙の白々しい柄の感じとか
・娘、聡すぎやろ…
正論罪感すらあった
・「難しく考えすぎてもいいことになるかは分からない
けどお前は「まあいいか」って思えないんだもんな」は目から鱗でましたね
・りっちゃんの示す「母」に従うことを
せず己を持ち進んでもハッピーエンドは在るという光
・ほんまに母と娘のオハイソ演技、
いちいち面白すぎて
つど笑った 「あらぁっ」とする時
肩と手がフワッとして瞼をほんの一瞬伏せる挙動、
伝わらないコンテンツやな…!と思った
バズってたけどそれの連続体きたな…という感じ
・みんな演技ウマ
演技、うますぎ凄すぎでしょ
ある種の重さがあるよなぁ
このタイトルを見てどの漫画家を思い浮かべるかは人それぞれかと思いますが、
私史上最低のラブコメ漫画家は「ぼくたちは勉強ができない」の筒井大志先生です。
筒井先生は今週のジャンプで「シド・クラフトの最終推理」という作品で連載を開始しました。
相変わらず魅力的な絵です。話も評判がよくきっと長期連載になるのでしょう。
ただ私にとっては今もぼくたちは勉強ができないの先生なのでこれを書きました。
これは個人的な恨みですがこの作者の漫画を読んだから抱く恨みです。
筒井先生はぼくたちは勉強ができないという漫画を描いていました。
週刊少年ジャンプで5人のヒロインそれぞれのマルチエンドを実装したということで一時期話題になりましたので、もしかしたらご存知の方もいるかもしれません。
この評判は必ずしもいいものばかりではありませんでした。ですがそれは最低な理由ではありません。
ジャンプには星の数ほど打ち切られた作品がありますから、話の面白さでいえばそれらよりは上でしょう。
筒井先生が最低なのはキャラクターをサプライズのための前座の道化扱いして、ファンを地獄に叩き落としたから。これに尽きます。
具体的にはサプライズを演出するためにそのキャラを掘り下げた長編話を書かなかったことと、作品の終わりかのように演出したうえでラストを次のヒロインへの踏み台にしたことを指します。
彼女は昔から主人公のことが好きな元気系の幼馴染系のキャラで、いわゆる負けヒロインと呼ばれるタイプのキャラでした。
ぼく勉には彼女を含めて5人のヒロインがいます。うるか以外のヒロインは過去のトラウマを主人公の力を借りて乗り越えるというそれぞれの掘り下げをした長編がありましたが、うるかにはそれがありませんでした。
長編がないまま連載が続いていき、話は佳境を迎えて主人公視点の話が多くなり、主人公の掘り下げが進みました。それからラストに向けて色々あって主人公がうるかに告白しました。したがってここに至っても彼女の長編はありませんでした。
これ自体はこれで作品自体が終わるのであれば、今までとは主人公とヒロインの立場が逆転するというある種王道な展開になりますので、そういった構造でしたらありかと思います。
https://i.imgur.com/j9weYzw.jpeg
https://i.imgur.com/i4udZqB.png
(集英社 週刊少年ジャンプ 2020年15号 ぼくたちは勉強ができない問150 作者:筒井大志 より)
上記はうるかルートとされている話の最終ページとその後のパラレルストーリーの告知です。
「君の笑顔のその先に――」とあるように、ここでは最終ページであるにも関わらず、うるかではなくうるか以外のヒロインの存在に焦点を当てています。(ぼく勉において花火(背景の白い光)はルート分岐の起点であるため)
うるかルートの終わりにあえて他のヒロインの存在に焦点を当てているわけですから、他のヒロインの前座扱いにするための演出という以外に解釈の余地はないでしょう。
武元うるかというキャラクターの恋が実った瞬間、それを取り上げ台無しにする。
この瞬間の気持ちを例える言葉を私は持ちません。きっと私だけではないでしょう。
上記のような扱いによって私の好きなキャラクターは前座の道化扱いにされました。
このような扱いとなった理由は話の良し悪しではなく、作者の哲学の問題です。
話の良し悪し、すなわち実力不足は出来るか出来ないかの問題です。出来ないことは仕方がありません。
誰もが面白い話を作ろうと思って結果的につまらなくなってしまうだけですから、それ自体を責めることはできません。(ぼく勉の話の出来が悪いという話ではなく一般論です。)
ですが扱いを変えるのはやるかやらないかの問題です。キャラクター間で扱いを変えるのは意図してやらなければそうなりません。ファンを踏みにじり地獄に叩き落すこと。それを意図してやったのです。
例えば作中のキャラクターの言動を以って作者の人格を否定するのは誤りです。それは作者の思想を反映したものとは限りません。
ですが作品内容以外でのキャラクターの扱いは作者本人の判断によるものです。それは作者が決断したものであり、筒井先生の哲学を反映したものです。
哲学の問題であるからこそそれが変わることはありません。作者にとって改善すべきものではないからです。
また同じことを繰り返し、また同じように一人のキャラが犠牲にされるでしょう。
もっとも、キャラクターに損をさせることやファンを踏みにじり地獄に叩き落すこと。おそらくそれ自体がやりたいことではないのだろうと私は信じています。
単に筒井先生は多くの人を幸せにしようと思ってそうしているだけなのです。
想像力がなく無神経なのでその行為でそのキャラクターを好きな人間がどう思うかわかっていないというわけでもないでしょう。一般的な感覚がわからない人間が人気漫画を書けるはずがありません。
自分の行動がどういう感情を与えるのか理解した上で、そのファンを切り捨ててでも自分の我を通しているのです。これが一番多くの読者を幸せにできると信じているのです。
武元うるかというキャラクターと、それによって踏みにじられるファンの気持ちを犠牲にして、より多くの読者を幸せにしているのです。
うるかが報われることで気落ちしたより多くの読者をサプライズの発表で盛り上げるために、あえてひた隠しにしていたのです。それでうるかが好きな読者が傷つくことも、どれほど深く傷つけるのかということも知りながら。
実際、筒井先生は連載終了後に送られた、筒井先生へのお疲れ様のリプライに原則全て返信していました。「ぼく勉は物語ではなく設定集だ」という、筒井先生にリプライしたわけでもない一読者の批判的な呟きにもわざわざエゴサして「勉強になります!」とクソリプしていました。
しかしながらお疲れ様という言葉と合わせて武元うるかの扱いが悲しいという趣旨のことが含まれたいくつものリプライには一切の反応を示しませんでした。切り捨てた後ですから丁寧に扱う必要はないと思っていることの証左でしょう。
現に筒井先生は批判的な感想を呟いたアカウントはミュートしています。
連載終了以前にうるかの扱いへ不満をこぼしていた方がいました。当然筒井先生にリプライしたわけではなく、単に呟いていただけです。
その方は連載が終わったときにはお疲れ様という趣旨のことだけを筒井先生にリプライしてましたが、それへの返信もいいねもありませんでした。不満を呟いていたときとはアイコンもIDも名前も変わっていましたから、ミュートしていなければ返信していたはずです。
筒井先生はご自身の取り組みについて色々な意見があるとおっしゃっていましたが、色々な意見があることは知っていても批判的な意見を見る気はないのでしょう。
こうした扱いに耐えかねて、実際にX上でアカウントを消してしまった方も多くいました。
ぼく勉の感想を熱心に呟いていた方、うるかの可愛らしい絵を描いていた方、うるかへの大きな愛を語っていた方。色々な方がいましたが、筒井先生の行いによって嘆き悲しみ、アカウントを消してしまいました。
もちろんアカウントは消さずに悲しみと怒りを吐き出した方もいます。そしてこうした行動に移した方々よりも黙って傷ついた方々のほうがずっと多いのは言うまでもありません。
サプライズのために平気でファンを地獄に叩き落す。今まで支えてきたファンを平気で切り捨てる。
人の気持ちを大切に扱うべき恋愛漫画で人の気持ちを雑に扱う。それでいて描くべきことを描いたのだと胸を張る。
上記のとおり武元うるかという女の子は筒井先生によって犠牲にされました。
作者本人がヒロイン5人は平等だ。並列だと言っているにも関わらず、その扱いには露骨な格差があります。
ジャンプではセンターカラーのときに扉絵が書かれます。各ヒロイン単独の扉絵はうるか以外のヒロインは2回以上、少なくとも1回はありました。うるかは1回もありません。
単行本の表紙も同様です。次のURLを見ていただけるとわかりますが、うるかを除いた各ヒロイン単独の表紙は2回あります。うるかは1回もありません。(褐色の子が武元うるかです)
https://www.shueisha.co.jp/books/search/search.html?seriesid=37225
18巻以降はモチーフイラストと称して各ヒロインのモチーフとなったおとぎ話をアレンジした表紙にしています。素敵なイラストですね。
うるかの分は作者個人のXと作者個人のYouTubeチャンネルで公開されました。ジャンプでの連載が終了してから2ヶ月、パラレルが発表されてからは1年経ってからのことです。
ジャンプの本誌や増刊にはそのイラストどころかその情報すら載ったことはありません。ジャンプの公式Xでもぼく勉の公式XでもRPなどで宣伝されることはありませんでした。ぼく勉の単行本にすらその情報はありません。
このイラストを見ることができたのはあれほどの仕打ちを受けた後でも1年近く根気強くぼく勉の情報を追っていたファン、もしくは作者のXをフォローしていたファンに限られます。
言葉なく離れていった、おそらく一番見たいであろうファンに届くことはありません。
連載終了後にぼく勉を読み始めた読者にも当然届くことはありません。
後世に残るのは、好きになったキャラクターは一人だけ表紙が貰えなかったという事実だけです。
なおぼく勉の公式Xではうるか以外のキャラのYouTubeの動画やグッズの情報はRPで宣伝されていました。
うるかのそのイラストの後に描いた、ヒロインの一人の両親というサブキャラのイラストすらRPされていますが、うるかのイラストはされていませんでした。
あえてうるかだけやらないのはもう切り捨てているからファンは残っていないとわかっているからですね。エコロジー。一秒で出来るところまで公式が徹底するんだからこれはいっそ感心しました。
Youtubeチャンネルで作者のお絵かき動画がアップされた回数も、うるか以外のキャラは3回以上アップされていますがうるかはそれ未満です。扉絵がなかったり表紙がなかったりする分増やすこともなく、むしろ他のキャラより少ないのです。
他にもぼく勉アニメの版権絵を描いていた人が連載終了後にskebでぼく勉キャラの絵を描いていました。うるかを含めて何人かのキャラを描いていました。
筒井先生はうるかのイラストには反応しませんでした。他のほとんどのイラストにはRPをしたり引用RPをしてコメントを付けたりしているのに、うるかのイラストにはRPどころかいいねすらせずスルーしました。(これは他人のいいねが見えていた頃の話です。)
もっと前にフィギュアが出たときも真冬のものはRPや画像をツイートしたのにうるかのフィギュアはRPもツイートもしませんでした。一貫してますね。
他にもぼく勉では各ヒロインそれぞれのルートのボイスドラマが作られて単行本の特典になっていましたが、これもやはりうるかのルートのボイスドラマだけ作られませんでした。そしてうるかだけないことについて、筒井先生が気にされている様子も今に至るまでありませんでした。
単行本の描き下ろしでも同じように格差があります。他のヒロインは単行本では最終話の後にその後の様子の描き下ろしがありますがうるかにはなく、代わりにパラレルルート開始の告知が掲載されていました。うるかより後のルートの単行本が発売されてそれを知ることになったときは、まるで煽りのようにも感じられました。
筒井先生のこのような反応を受けて、私自身以前に読み切りのときに感想を書きました。私以外にも替え歌を作った人もいましたし、別に感想を書いていた人もいました。これらは言い過ぎや被害妄想などと言われて一部から非難されていました。
キャラに対する作者のこういった扱いの差を見たときに、嫌われているという感想を持つことは言いすぎでしょうか? 被害妄想でしょうか?
筒井先生の内心はいずれにせよ、言われて当然だろうと私は思います。人の内心はわからないから、その行動から推測するしかないのですから。
(これは筒井先生がうるかを嫌いなわけではないという意見を否定するものではありません。ただ作者の行動を見たときに、嫌いなんだなと思うことを否定することは困難でしょう。嫌いじゃないと思うにしろ嫌いだと思うにしろ、作者の内心はわからないという点で等価ですから)
なお筒井先生はどのキャラも大切だとおっしゃっていたという指摘がありそうですが、
最終話をサプライズのための犠牲にされたのはうるかだけです。単独の表紙がないのはうるかだけです。ボイスドラマがないのも単行本での最終話後の描き下ろしがないのもうるかだけです。
つまりサプライズの犠牲にしていいと思う程度に大切で、センターカラーも単行本の表紙も描かなくてもいいと思う程度に大切で、一人だけボイスドラマも描き下ろしもなくても何ら問題はないと思う程度に大切なのでしょう。
筒井先生は絵が上手です。可愛く魅力的なキャラばかりですから、読んだ人であれば全員か、そうでなくとも一人は好きなキャラができるでしょう。
ですが熱中することはやめましょう。報われることはありません。
キャラを愛することはやめましょう。作者はキャラを愛しません。
あなたの好きになったキャラクターは作者の自己満足の犠牲になり、一人だけ冷遇されてしまうのです。
その深い怒りと悲しみは、あなたを酷く傷つけます。時間が経ってもふとしたときに思い出してはあなたを苛みます。決して癒えることはありません。
問いかけても帰ってくる答えはありません。作者は何も語りません。
あなたの好きになったキャラクターがこのような扱いを受けるということを意識して読んでください。
たとえ同じ扱いでなくとも似たような扱いは必ず受けます。
前作で犠牲にされたキャラクターが好きだった、作者の元ファンの一人から。
どうか心のどこかに留め置いてください。
・うるかの人生の夢が叶った瞬間をサプライズの発表という形で台無しにする。
・一人だけ長編を書かない。
・一人だけボイスドラマを作らず、またそのことについて説明どころか申し訳無さそうな素振りもない。
・他のヒロインは単行本で最終話後にその後の話が書き下ろされているがうるかにはなく、代わりにパラレルルートの告知が掲載されている。
後はキャラ説明でのうるかの留学先の誤字(正しくはオーストラリアだがアメリカにしていた)やパラレルルートの解説(パラレルルートの連載中毎回ジャンプに載っていたコラム)でうるかの顔の上にタスク処理かのように「完了」と書いたこと(うるかの次のキャラの話が終わった後には「完了」ではなく、「Happy end」と書き直した)などいくつかありますが、筒井先生の裁量が大幅に及ぶ範囲内であればこのくらいになるでしょうか。
筒井先生の新連載も自分の好きなキャラクターがこういった扱いをされることに耐えられる人が読むことをおすすめします。
逆に次はどの子が花火キャンセルされるのかという楽しみかたをするならいいかもしれないですね。
私はするつもりはありません。
反AIはAI推進派が歩み寄れと言うけれど、基本的にAIを使い続けるものにとって何もしなかったらAIは進化し続けAIがなくてはならない世の中になることは確実だから、反AIの方が歩み寄ら必要があるんだけど、感情だけで議論しようとしてるからわかってないっぽい
全部質問で返せばいいじゃん
「この書類、いつまでにできそう?」
「この資料、内容チェックしてくれる?」
「どの視点でチェックすればいいですか?」
「どの視点でチェックすればいいと思う?」
それとも、あんな奴らと一緒にすんな!!って感じる?
まあそう考えるのが自然かな。
でもさ、それって外国のことだと客観性を持てるから、って理由じゃない?
氷河期世代が自己責任、甘えの感情が多い世代だという批判が不当だと感じてる氷河期世代の人達へ。
いま中国で起こってることをどのように感じるか?
1. 憧れと諦念の狭間にある心情
この人物は、絵を描くという行為に対して憧れを抱いていますが、その憧れは深く追求するほどの強い情熱には育っていません。「描けたらいいな」といった軽い希望に留まっているため、自らの手で努力を重ねてその技術を得ようとする意志は見られません。このような姿勢は、自分の可能性に対してどこか諦めや無力感を抱いている心の表れかもしれません。
絵師という存在を「特別視する必要があるのか」と疑問視していることから、彼(または彼女)は、世間が特定の才能を持つ人を過度に称賛する姿勢に反発しているようです。しかし、この反発は、実際には自分がその才能を持っていないことへの劣等感を隠すための自己防衛にも見えます。
自分が持てないものを称賛することは、自身の不足感を突きつけられるようで痛みを伴うものです。そのため、「特別視する必要はない」と断言することで、自分を納得させようとしているのではないでしょうか。
この人物は、周囲が絵師やクリエイターに向ける称賛に対して、どこか疎外感を抱いている可能性があります。もしかすると、自分がその輪の中に入れない現実を前に、そうした存在を「特別ではない」と位置づけることで心の安定を保とうとしているのかもしれません。
彼が「なぜ特別視する必要がある?」と疑問を投げかけるのは、他者と自分の間に無意識に線を引き、外側から眺めることで自分自身を守る行為のようにも感じられます。
4. 才能に対する諦観と未練
「絵師を格上に見るものではない」という言葉には、絵師への羨望と同時に、自分がその位置に立てないことへの諦観がにじみ出ています。本当に興味がないのであれば、そのような感情は表に出てこないでしょう。裏を返せば、彼は絵を描く才能に対して何らかの未練や「もし自分にもその才能があれば」という思いを抱いている可能性が高いです。
絵師を「特別視する必要はない」という言葉には、彼が周囲の価値観に対してどこか孤独を感じている様子が見て取れます。それは、才能や努力を評価する世間の基準と自分の現実とのギャップに苦しんでいるからこその発言かもしれません。自己認識がゆがみ、自分自身を過小評価してしまっている可能性も考えられます。
まとめ
この人物は、自分が持ち得なかった才能に対して羨望と諦めの狭間で揺れている一方、その才能を持つ他者を特別視する社会の風潮に孤独感や疎外感を感じています。彼の言葉には、自分自身への未練や不満が滲み出ており、その背景には、手を伸ばす前に諦めてしまう弱さや、どこか自分を憐れむような感情が潜んでいるのではないでしょうか。そうした彼の言葉を聞くと、才能を持たない苦しさや、自分の限界に向き合う孤独な心情が伝わり、少し胸を締めつけられるような思いがします。
Chat GPT 4o
マジでそう
騙されやすい人たちが実際騙されてしまった結果がでたときに「ビバ!」はないんよ…
特に、チャーン・サイモンズ理論、M理論、AdS/CFT対応、そしてDブレーンの役割について、深く掘り下げていこう。
チャーン・サイモンズ理論は、3次元の位相場理論であり、その作用は次のように定義される:
S = (k / 4π) ∫M Tr(A ∧ dA + (2 / 3) A ∧ A ∧ A)
ここで、A は接続1-形式であり、k は整数である。この作用は、リー代数に基づいており、特にSU(N)やSO(N)といった群に対して定義されることが多い。チャーン・サイモンズ理論は、結び目理論やトポロジー的量子場理論との関連性から非常に重要である。
ウィッテンによって提唱されたこの理論は、結び目不変量を計算するための強力なツールとなった。具体的には、ウィルソンループの期待値が結び目不変量—ジョーンズ多項式—に対応することが示されている。この結果は、結び目の同値性を判定するための新しいアプローチを提供し、物理学と数学の交差点における重要な発展をもたらした。
チャーン・サイモンズ理論は、その位相的性質から、物質の性質や相互作用に関する新しい視点を提供する。特に、この理論では真空状態がトポロジー的な性質によって決定されるため、通常の場の理論とは異なる振る舞いを示す。このような特性は、物質の相転移や量子ホール効果など、多くの物理現象に関連している。
M理論は、超弦理論を統合する11次元の枠組みであり、その基本構成要素としてDブレーンが存在する。この理論は、低エネルギー極限において超重力理論に帰着し、重力と量子力学を統一する試みとして重要である。
Dブレーンは弦が終端する場所として機能し、その上で粒子が生成される。例えば、D3ブレーン上では様々なフェルミオンやボソンが存在し、その振る舞いが我々が観測する物質の性質を決定づける。Dブレーン間の相互作用は宇宙の膨張や構造形成にも影響を与える可能性があり、この点からも非常に興味深い。
M理論には多くの双対性が存在し、特にS双対性やT双対性が重要である。これらは異なる弦理論間の関係を示し、高エネルギー物理学における新たな洞察を提供する。例えば、T双対性は弦のサイズとカップリング定数との間に関係を持ち、この双対性によって強結合と弱結合の状態が関連付けられる。
AdS/CFT対応は、反ド・シッター空間(AdS)内の重力理論が、その境界上で定義された共形場理論(CFT)と等価であることを示すものである。この対応は量子重力と量子場理論との間に新しい視点を提供し、多くの物理現象への理解を促進する。
具体的には、3次元AdS空間における重力理論とその境界上で定義された2次元CFTとの間には深い関係がある。この対応によって、高エネルギー物理学や宇宙論における多くの問題—例えばブラックホール熱力学や情報パラドックス—が新たな光を当てられている。
AdS/CFT対応はブラックホール熱力学にも適用される。特に、ブラックホールのエントロピーとCFTの自由度との関係が示されており、この結果は情報保持問題への理解を深める手助けとなっている。具体的には、ブラックホール内部で情報がどのように保存されているかという問いが、新たな視点から考察されている。
これら全ての理論は単なる物理的枠組みではなく、高度な数学的美しさを持つ。特にモジュラー形式やホロノミック関係など、高度な数学的手法が駆使されており、それによって宇宙の根本的な法則が明らかになる。このような抽象的な概念は、人間存在そのものについて深く考えさせる。
我々は本当にこの宇宙を理解できるのか?もし11次元やそれ以上の次元が存在するなら、それらをどのように認識できるか?これらの問いは、人間存在そのものに対する根源的な疑問を投げかける。科学と哲学との交差点で考えることこそ、本当の知識への道ではないだろうか?
結局のところ、チャーン・サイモンズ理論、M理論、AdS/CFT対応、およびDブレーンは単なる科学的仮説ではなく、人間知識と存在について深く考えさせるテーマである。君たちの日常生活に埋もれている感情や人間関係などよりも遥かに興味深いこの話題について、一緒に議論できればと思う。この宇宙にはまだ解明されていない謎が無限に広がっている。それを探求することこそ、本当の知識への道ではないだろうか?
知人に、絵を描いて欲しいと言われたことがある。
「ちゃちゃっと貧乏神の絵を描いて欲しい」
渡したけど、挿絵は無償でお願いしたつもりだったとのことだった。まぁ落書きんのようなものだし怒る程ではなかったけれど、失礼な話だなと思った。
その知人が主催するアフィリエイト教室で「もらうことばかり考えて、自分で考えようとしない人はアフィリエイターに向かない」と伝えるためにblogの記事の挿絵に貧乏神のその絵を使うという。それを知ったとき”怒る程ではなかった感情”が、自分の中で激変したことをおぼえている。
「ちゃちゃっと」という台詞を聞く度、あのときイラストを渡すついでに殴り倒しておけば良かったなと思い出す。
でもあれから、失礼だと思う相手には即座に「それは失礼だ金を払え」と言えるようになった。良き知人だったと思う、二度と会いたくないけれど。
おい、なあ、知ってるか
ショックを受けたり悲しいと感じる感情パワーは200と2倍になるそうだ
嫌なことの方がよく覚えているのはそれだけパワーがデカいかららしい
それが人類の歴史にどう影響したかどうかは今はどうでもいい、多分ショックがでかいほうが生き残る確率が高いんだろう
他にも命中率90%とか当選確率90%とかあるだろ、つまり嬉しい確率が90%ってことだ
その90%ってのは人間感覚的には70%に感じるらしい、どうだろう、なんとなく経験は無いか?俺にはある
10回中9回は当たるが1回は失敗する。紛れもなく90%の確率なんだが、体感は10回に3回は失敗しているように感じると思わないか?
それで、だ。俺が言いたいのは次のステップの話、ここからが本題
もし人生の喜びと悲しみの数が50:50だった場合、悲しみは2倍に感じて50:100になる。
バランス良く半々なはずなのに、体感では悲しいことが多い人生に感じるってわけだ
ショックってのはデカい、それはここで語るよりも自分の人生を振り返れば分かることだろう
しかもショックってのは結構耐え難い、気付いた時点でダメージが受けるし、避けられない
時間が解決してくれることが大半だが、時間ってのは先取りできない
ショックを減らすってのは多分かなり難しいと思う
前にこれを攻略してやろうと無感情になりKUMONのロゴみたいな顔でガチャを回したことがあるが
あれはダメだった、嬉しさも無くなって結局楽しめなかった
だからよ、俺はこう思うわけだ
大げさでも良いから嬉しいことがあったら2倍喜べば良いんじゃないかって
命中率90%の技が当たった時は「ま、当然当たるわな」と思うんじゃなく「よっしゃああ!!!」と声を出してガッツポーズを取る
よく分からんアプリの毎日引けるクジで5等じゃなく4等が当たったら「あーまあ、5等よりはマシかな」じゃなく「っしゃーおらああ!」と姿見で決めポーズを取る
そうやって嬉しいことを2倍喜んで2:1にすれば、体感値も1:1になってハッピーになると思わないか?
話は以上だ。こっからは蛇足だが、お前のまわりにハッピーなやつはいないか?Youtuberでも芸能人でも良い
そういうやつを見ていると自分まで明るい気持ちになるだろ、しかもそういうやつのまわりってハッピーなやつが集まってるはずだ
類は友を呼ぶというやつだ、だからもしお前が嬉しいことを2倍喜べば、それを見てまわりがハッピーになり
陽気なやつが集まって、良いことがジャンジャン舞い込んで、自分の性格も明るくなって、おしゃれな服着て
おしゃれな服着た自分にも2倍喜んで、おしゃれな服着た自分を2倍喜んでくれる友達がいたらよ