はてなキーワード: 枚挙とは
始皇帝で有名な秦に趙高という宦官がいた。中国史上まれに見る奸臣で、始皇帝の遺言を捻じ曲げ太子を自決に追い込んだ上、自らの息がかかった末子を傀儡の二世皇帝に仕立てて権力を掌握。邪魔になる有力者を尽く処刑し、人民には苛酷な労役を課した。これにより秦全土で反乱が発生、その事実が皇帝の耳に入らないよう握りつぶす趙高だったが、反乱軍が都のすぐそばまで迫るに至って隠しきれなくなった。趙高が宮中に「陛下、珍しい馬がおります」と鹿を連れてきたのはそんな折のことだった。
皇帝は「何を言う、鹿ではないか」と返したが、趙高はそれを流し「卿らはどう思うか」と群臣に問いかけた。趙高に阿って「馬」と返す者もいたが、「鹿」と返す気骨ある者もいた。「鹿」と答えた者たちは後日、趙高によって全て処刑された。これが「馬鹿」の由来(のひとつ)と言われる「指鹿為馬」である。ちなみに「指鹿為馬」も「道理に合わないとわかっていても無理やり押し通すこと」という意味の四字熟語になっている。楯突く者を全て排除した趙高は、ついに皇帝を弑逆した。
本邦の首相は時折ヒトラーになぞらえられるが、むしろ趙高が妥当だと考える。小人物が権力を握るとそれを守ることに汲々とし、「指鹿為馬」な真似をする。森友、加計、桜、検察官定年延長。枚挙にいとまがない。
趙高は三世皇帝によって殺されたが、我が国は国民の半数が「馬鹿」であるためどうやら首相の地位が揺るぐことはなさそうである。
なおこの趙高は『平家物語』において最初に名指しされている国賊である。その鐘の音が「諸行無常の響きあり」と評された祇園精舎だが、現在は歴史公園となっており、そんな響きが聞こえてくることも、もう無い。
社会人になって何年か経つが、母校の教授が記事に出ていて驚いた。
理系大学院生を就活疲れから救う 大学推薦制度を改良、1カ月半で就活完了 | 日経 xTECH(クロステック)
自分は途中から自由就活に切り替えて就職した身だが、本件に関して思うところが多くあるので書いた。
あくまで当時の話だが、制度の一番の問題点を偉そうに記事で語っていたので、あまり変わっていないのだと思う。
「良いところに就職できそうだから工学部」という高校生に向けて内情が伝わればいいと思っている。
以下長文。まとめだけ読んでも良い。
問題点に入る前に、東北大学工学部機械系の就活の特徴から話そうと思う。
学部3年生を過ぎると、落とすと即留年の実験や厳しい進級要件に追われ、研究室配属後は、平日休日の区別なく働かされる学生が結構な割合で存在する。
また、元記事の教授を始めとして、多くの教員はバイトやインターンや就活を快く思っていない。
講義やゼミを説明会や面接のために休ませて欲しいと言う申し出を認めない人も多い。
そのため、地理的な不利と相まって就活時期の動きが相当制限されるのが事実である。
ただ、そのような鍛えられた工学系大学院生の需要は高く、加えて地方ながら旧帝大の名前は一定の評価があるらしい。
実際、真面目に就活をしなくても無内定にならない程度には求人が来る。
推薦については、景気にあまり関係なく学生200人に対して毎年2倍以上の枠が安定して存在する。
動物のお医者さんという北大を舞台にした漫画に「人買い」のエピソードがあるが、学部内合同説明会はまさにあのような様相となる。
メーカー系だとCore30はもちろん、日本を代表する超大企業が揃っており、企業を選ばなければ就活には全く困らない。
例を上げると、
など、枚挙に暇がない。
ただ、業界に著しく偏りがあったり、大手子会社や中小企業も多数含まれているのも事実である。
この少子化と売り手市場において、そんな推薦に対して多少の物足りなさを覚える就活ガチ勢もいる。
大学推薦というと、研究室の学生を教授が知った企業にコネでねじ込む、といったイメージが強いと思うが、これは一昔前の話であり今は中々聞かない。
元記事にもある通り、大学推薦と言う制度自体を機械系全体で管理しており、各教授の推薦状の発行を制限しているため、基本的に抜け駆けは許されていない。
3,5で分かる通り、自由就活に比べてES選考やグループディスカッションの足切りはないが、人気の大手企業を狙う場合、ある程度頑張って学内選考および企業選考を勝ち残る必要がある。
ここまで書くと、大変さはあるかもしれないが世間一般から見ると恵まれているという意見が多数だろう。俺もそう思う。
問題点は背景で書いた以下の規定および、記事の以下の規定である。
https://tech.nikkeibp.co.jp/atcl/nxt/column/18/00138/013000472/?P=2
このような仕組みにおいて何が起こるのか?
企業「今年は採用目標を増やすので推薦枠を15人設けてくれませんか」
就職担当「一部の企業に学生が集中しすぎると他の企業が不公平になるからダメ。5人で。」
就職担当「推薦された学生が不利になる可能性があるからダメ。うちの学生を自由で取った事がわかったら来年から推薦枠なくすから。」
ト○タ、ホン○等の人気企業の推薦枠を競って学生数十人が争う。
枠からあぶれた人々は自由応募をすることを禁止されているため、泣く泣く諦める。
推薦を取り直そうと2次募集を見ても、人気企業の枠は1次募集で埋まっているため、行きたい会社が残っているとは限らない。
自由応募で別業界を狙うか、子会社や領域の違う会社で妥協することとなる。
完成車や重工等の花形業界を狙う学生は、小さい頃から車や飛行機に夢を持ち、必死で勉強してきた人揃いである。
そんな人達が、
大学に隠してでも人材を確保するぞという気概で、黙って自由応募を受け付けてくれる企業も存在する(した)。
しかし、昔からの長い付き合いがある人気企業は、大学の報復を恐れて受け付けてくれないことが多いのが現状である。
なお当時、就活担当職員(※1)に対して自由応募を認めてくれるよう必死に訴えかけたところ、非常に面倒くさそうに当時の就職担当教授につないでくれた。
ただ、件の教授は就活に時間をかけず研究に没頭することの重要性や、別の会社でもやりたいことはできるなどの一般論を説くばかりで、あまり話が通じなかったので諦めてしまった。
結局、自分は外資や推薦が来ていない業界に切り替えて自由就活を行い、最終的に複数内定を得ることとなった。
一言で言うと「学生の就職先平準化のため、大学が推薦枠を絞り学生の自由応募を禁止する」のが問題である。
これらが曖昧になり、抜け駆けや裏切りを許してしまうと、大学推薦制度に対する学生や企業の信頼がなくなり、制度が崩壊してしまうからだ
元記事のこの意見や、背景にも一定の同意はするが、学生と企業の希望を無視して推薦枠を意図的に絞っていることを言わないのはフェアでないと思う。
そもそも面接が何度もあり、落ちることがある時点で推薦制度の意義は崩壊しているのである。
進学先を就職と言う軸で考えている学生の一つの判断材料となれば幸いである。
正確には通る見込み。なにやら入居申込書に抜け漏れがあったらしく、「その確認が取れれば審査は通ります」とのことだった。どうでもいいけど、今まで書類に不備がなかったことがねえな。
正直、絶対落ちると思っていた。
家賃安めだし、賃貸と書いたけどシェアハウスだし、積極的に外国の方を受け入れているし、一般的なアパートよりは比較的ハードルは低かったのかもしれない。
しかし高くない収入。会社には属しているけど、半年契約の業務委託。非正規に雇用すらされていない。利子が膨らみ切った借金、カードや家賃の支払い滞納も枚挙にいとまなく、納税も滞っている。水ガス電気、ネット、携帯はだいたい止まっているっていう、物件のハードルの低さを補って余りある(???)私の人間レベルの低さよ。
ただわたしには、そういう核心的な部分を隠して人前に立つと、必要以上にちゃんとした人間と思われるという最高の特技がある。
私はひとつの集団でうまく人間関係を築けたことがマジでない。ただ、その場限りの人当たりはマジでいい。まともに学校生活が送れず頭も悪かったのに、神がかり的に強運だったお蔭で良い大学を出た。就職活動では当然つまずいてニートになったけど、人づてに今の会社に入ってしまった。またこの会社の、立派なこと。給料は全然高くないけど、人に言うとだいたい褒められる。半年契約の業務委託もフリーランスと言えば聞こえよく、なんとか食いつなぐために続けている一発仕事も最近では「複業(副業)」とかいうトレンドだ。かっこい~。
でも私には何かが足りてない。
皆が知ってる情報をなぜか毎回キャッチアップできてないこと。そのせいで受けなきゃいけない試験や出さなきゃいけない書類をスルーして、その後の生活がどんどんガタガタになっていくこと。
近所の丘の上で転ぶ練習をやらなきゃ足がそわそわして気が済まなくて、血が出てもやめられなかったこと(なんなんだ)。
水道が止まってコンビニにトイレを借りに行き、間に合わずに屋内で全部漏らしたりしたこと(すみません)。
人の顔が覚えられないこと。何度確認しても書類に不備が出ること。人の声を拾えないこと。お金の管理ができないこと。そうして膨らんだ借金。逃し続けたチャンス。不健康。全部が中途半端になんかすごいうんち。普通にだらしない。
少し前、借金と不健康で首が回らない中、甘い考えが頭をもたげ、助けを求めに実家に帰った(飛行機なので往復数万かかる、無理すぎた)。
我が子は今日も順調そうで鼻が高いと、心底嬉しそうな両親が私を迎えてくれた。私も嬉しいよ。だから東京での、刺激的で充実した最高の生活について話して聞かせる。私は東京で楽しく元気に暮らしています。皆さんのおかげです。本当に恵まれている。ありがとうfamily。そしてまた足場が固められていく。どんどん豪華なやぐらができる。その頑丈な足場の上に乗っかってる生ゴミ。もう一人ではとても降りられないから、誰か……
しかしこうして入居審査に通ることで、自分、社会的に人権がある、終わり切ってない、全然どん底じゃない、まだまだ頑張れる、明日も明日が来る、この先も落ちていく場所があることがよくわかりました。
うんそう、絶望なんて、そんな資格はまだない。わたしにはまだ頑張らなきゃいけない明るい未来がある。当たり前じゃないですか、大人なら皆やってることですよ。甘えるのもいい加減にして。
内覧の際、物件担当の方からの印象は、志高く愛想よく、多分だけどかなり良かったと思う。
ただここまでだ。わたしが「いい人」でいられるのは。
どうせ入居したところで人の顔色を伺うばかりでまっとうなコミュニケーションなんて取れず、ニヤニヤウロウロしながらリビングを遠巻きにして、仲間に入ろうと思って発したひと言からボロを出し、今度は自分が遠巻きにされ、それでもボウフラのように気色悪くしばらくその場にとどまった末、結局耐え切れず静かにドロップアウトすることになるでしょう。
科学というのは、明証、分析、総合、枚挙と、合理的批判からなる知識の集合体。
デカルトが提唱してから400年、科学がおおう範囲は非常に広がってきた。世の中のすべてのことが科学で解明されるかのように思えてきた。
例えば、農作物を雀が食べるから、雀を全部殺してしまえば、農作物は大量に作れるように思えた。
例えば、なにか思いついたら、すぐにそれが期間、費用、収益見込みが作成できて、投資に馴染むもののように思えてきた。
すぐに期間、費用、収益見込みが作成できて投資をうけれるはずなのに起業が起きない。なぜだ?ただ単に起業家精神が足りてないだけだ。
それ以外の物事は無駄であり、費用をとにかく削減すれば良いように思えてきた。
結局、共産主義も、新自由主義も、今までにわかっていた科学でこれからの事象も全部わかるという誤解のもとに生まれたのだろうね。
そうして、どんどん社会は衰退していった。
無論、わからないものはこれからもまだまだあるのだから、科学でないものを科学にするのに金は出していかないとならない。
後、社会科学は、偉い奴の言った物事に忖度するための学問じゃなくて、現実世界を解明するツールだぞ。合理的批判が難癖と紙一重だからなかなか難しいところはあるし、文系不要論なんて生まれるが。
どんなに馬鹿げたことでも、行政は一部の人が大声を出せば、市民の声としてそれに配慮をせねばならない。それがどんなに愚かで間違えていようともだ。
どんなに馬鹿な方針であろうとも、きちんとしたプロセスに乗っかって、民意が(例え一部の変な人たちの意見であっても)示されたらそれに引っ張られるのが民主主義だ。
どうしてこんな馬鹿なことが起きたんだ?
とみんないうけれども、その大半は、「知らない間に自分の意見をいうべきプロセスが終了していた」場合が大半。パブコメの募集期間があっさり終わってたとか、気づかない間に委員会の検討が終わってたとか、そんなんばっかりだよね。
そういうところに潜り込むおかしな人は、まじに多い。どんなに妙な意見の持ち主でも、排除できないのが民主主義だからだけど、「いつの間にそんなふざけたことになってるんだ?」という不意打ちは枚挙にいとまがない。
竹島:あの頃は人間扱いしてくれなかった。エベレストに登らされたとき、この仕事を請けたのは失敗だと思いました。
この時の『Mの活劇』の撮影について、Mのスタントである竹島秋雄はこう語ります。
竹島:監督のこだわりと言えば聞こえはいいですが、どちらかというとワガママでしょうね。たった十数秒のシーンのために、わざわざ実際に登る必要はなかった。
監督:初期の『Mの活劇』はショート作品だったので、とにかくインパクトが大事だと考えていました。
この制作スタイルはシーズンごとに落ち着き、起承転結を意識した構成になっていきます。
監督:脚本が完成しないんです。大まかなプロットは複数あって、ストックも常にあります。しかし、それを物語として構築する作業にとても時間がかかりました。
脚本家:1話ごとの放送時間が延びたのが主な原因でしょう。通常、こういう作業には複数の脚本家がチームを組んでやるのですが、元はショート作品だった『Mの活劇』では監督との二人三脚なんです。
そうして完成しても、予期せぬ障害が発生したことも珍しくありません。
監督:意図せず時事ネタになってしまった時は頭を抱えました。編集も終わってた段階だったので、かなりショックでしたね。
そう苦笑しながら、お蔵入りとなった台本と記録媒体を我々に見せてくれた。
監督:この話自体が、当時放送できなかったフィルムを探すって話だから皮肉なもんです。
そのストーリーとは、諸事情で封印された「幻のエピソード」を現スタッフたちが追い求めるというもの。
なんとかフィルムは見つかるのだが、火の不始末によって燃えてしまう。
中身を見ることなく、結局は「幻のエピソード」となってしまうという展開でしたが、このシーンが問題視されました。
監督:現実で、とあるスタジオがマジで火事になっちゃって、不謹慎だからって放送局に拒否されましたよ。
脚本家:そこまではいかずとも、周りで話題になっていることと制作中のテーマが似てしまうなんてのはよくありました。
監督:こちらとしては乗っかっているつもりはないし、そういう風に思われたくもないから時期をズラしたりしてるのに、なぜか再燃して結局はカブるという。
そうした予定外から生まれる急ピッチ制作は、作品の質にも表れます。
テーマが前のめりすぎたり、尻切れトンボなエピソードが出来ました。
監督:枚挙に暇がないけど、くどいというか説教臭いというか。主張がセリフに落とし込めていない感じが今でもする。
脚本家:特に試行錯誤していた中期は、その傾向が強い気がしますね。
他にも課題はありました。
役者たちとの連携が上手くとれず、現場では何度か不和も起きたといいます。
それが世間に認知されたのは、出演者の一人が書いた暴露本でした。
「それ面白い?」
「少なくとも眠くはならん」
皆は口々に「えー」と声を洩らす。
これを持ってきた時、既に年を越していたのが問題だった。
時計の短針は1の数字を指しており、食べるタイミングとしては完全に手遅れだ。
「別に年を越した後に食ってもいいんじゃないかって思うんだよね。“年越し蕎麦”って呼ばれてるんだからさ。年を越す前に食べるか、後に食べるかなんて、この名前だけじゃ確定しない」
そんなこと言い出したら年越し蕎麦自体、どうしても食わなきゃダメってもんじゃない。
しかし出された以上、食わないわけにもいかないので、俺たちは番組を尻目に麺をすするしかなかった。
Z君と仕事をするようになって僕は雨男という存在を信じるようになった。
雨男と言っても、本当の天候の渕上様的な意味での雨男ではなく、「彼が参加したプロジェクトにはことごとくトラブルが発生する」という意味でだ。僕が知る限りでも、いくつかの転々としたプロジェクトやチームで
などなど、枚挙に暇がない。原因をたどると必ずしも彼一人の責任とばかりは言えないものだったり不可抗力的なものだったりする。にも関わらず彼のいるところでは明らかにそういうトラブルが頻発するので雨男なのである。
でも正直言うと、僕はやっぱり原因は彼にあると内心思っている。彼はとにかく粗忽で人並み外れてミスが多い。数行のメールの中で一行目と二行目で矛盾したことを書く。指示をことごとく間違って解釈する。やらなくていいことをわざわざやってミスを作り込む。報告の内容が何度聞いても要領を得ない。そしてミスや問題を隠す。一つ一つのエピソードは笑えるものもあるし新人の可愛い女の子だったらドジっ子キャラで愛されるかもだけど、この業界で10年以上経験があってこれはどうなの。
と書くと絶対「ミスは誰にでもあるもの、チェックやレビューする体制をしっかりすべき、報告を隠さないような雰囲気を作れ」と言われるでしょう。うんわかりますよ、全くその通りだと思います、一般論としては。でもかなりのことはすでにやっていて、それでも彼の粗忽っぷりはさらにその斜め上を行っているので結果として周囲の負担がさらに大きくなっている。それがトラブルを招きこむ要因になってるとしか思えない。
彼は今は別の組織に異動したので今はうまくやっているのかよくわからない。やっぱり使えないと言われて突っ返されてこないことを祈るのみだ。
まずエンジョイ勢とは何か。ゲームを勝ち負けによらず楽しむ者くらいの雑なニュアンスしかされていないが、自分が楽しむためにゲームをやっている者だろうか? 勝っても負けてもゲームを楽しむ。間違っていないはずだ。
しかしこの解釈では基本的にはゲームをやっている者は皆エンジョイ勢になるはずだ。自分が楽しくないのにゲームをするはずがない。もしかしたら特殊な事情があってやりたくもないゲームをしてる奴もいるのかもしれないが置いておく。
対戦ゲームでよく聞くエンジョイ勢とガチ勢の確執というのはこれでは表せない。しかしここでガチ勢と表される人もエンジョイ勢と呼ばれる人も自分が楽しむためにやっていることは間違いない。では何が違うのか。私はそれを目的だと考える。
ガチ勢は『勝つこと』が目的である。勝つことがそのゲームにおいて自分の楽しいことであってゲームをすること自体が楽しいわけではない。だから勝つためには面白みがないような戦法や、強キャラなどを好んで使う。それが勝利の最短ルートだから。
この対立でのエンジョイ勢の目的は何か。『自分が楽しくなること』である。それだけだと何も悪くないように感じる。しかしここでいうエンジョイ勢、ガチ勢ではない中立の勢力の目的を明らかにすると見方が変わる。彼らの目的は『ゲームを楽しむこと』だ。
『ゲームを楽しむ』ということはそのゲームのルールに従って遊ぶということと同義である。ルールを守ってもつまらないゲームはゲーム側が悪いので置いておく。ルールといっても複雑じゃない。格闘ゲームだったら敵のHPをゼロにしろだとか、FPSだったら敵を倒せだとか。それだけである。その他は自由だ。一人用ゲームなら目的は様々だろうが、ことPvEやPvPに関しては敵に負けろ! とルールに書かれてることはない。なので基本的には勝つためにプレイすることになる。そこで知識量の差や腕前などが出てくることになり、勝敗がつく。しかし彼らは敵を倒せだとか拠点を防衛しろだとか、そのゲームの根幹を為すシンプルなルールに従い、結果的に勝ちを目指すことになる。それがゲームを楽しむということだからだ。試行錯誤によって人によってはわざと負けているように見えることもあるかもしれない。しかし本人がゲームのルールに従って勝つためにプレイしているのならば問題ないはずだ。
話を戻す。エンジョイ勢の目的である『自分が楽しくなること』はゲームの勝敗と関係ない。一人でやっているゲームならば何の問題もない。そこには一人しか人間がいないからだ。しかし対人ゲームは違う。特にチームゲームならば味方に迷惑がかかる。なぜなら目的が一致していないためだ。ガチ勢と中立層はゲームに勝つためにプレイするという点に置いて一致している。それが目的なのか結果なのかは違うものの、同じゲームにおいて勝利を目指すという点では変わりない。しかしエンジョイ勢は違う。彼らは『楽しくなること』を最優先にしているのでゲームのルールに囚われない。自分が気持ちよくなるようにプレイしつづける。気持ちよくなることが勝敗に関与していた時、それが勝つために繋がるならば問題にはならないが、負けに繋がるような行為だった場合、非難を喰らうことになる。他にはチート行為などが代表例だろう。気持ちよくなるためにルールをぶっ壊してニタニタ笑う。そんな行為が周りからどう思われるかは火を見るより明らかだが、しかしそんなとき彼らは言う。
例えるなら皆でサッカーをしている時に一人だけキックベースのルールで遊んでいるようなものだ。基本的にはボールを蹴っているが突然ボールを手で持ち敵チームに投げ放つ。ポジションを無視して走り回る。味方だったら最悪だし、敵だった場合も勝った気がしない。まさに害悪と呼べる。
対戦ゲームとは対戦が楽しいという前提があって成り立つものだ。相手が一人で遊んでいたら対戦は成り立たない。ゲーム体験自体が成り立たないので楽しさなどどこかに消えて行ってしまう。自分もそのエンジョイ勢ルールで遊べれば楽しめはする。しかしサッカーをしに来ているのに突然キックベースに変わり、それを楽しめる人は少ない。その試合を、引いてはそのゲームの対人戦自体の価値を貶めることにも繋がる。
昼前にこの記事でエンジョイ勢の批判をしたのだが、明確にタイトルをあげなかったこととガチ勢とエンジョイ勢の対立と書いたのはよくなかったと思う。例としてタイトルはleague of legend、csgoに代表されるようなチーム戦を想定する。そして実際のところ、本当に対立しているのはエンジョイ勢と真ん中のゲームを楽しんでいる層で、それはガチ勢と呼ばれる側も同じ構図であり、こちらは試行錯誤に対しての強制などにあるがそれはともかく。
この対立ではエンジョイ勢がゲームを楽しんでいる層をガチ勢に仕立て上げる。
「ゲームに何マジになってるの?w」
「人に強制すんなよ」
など。挙げれば枚挙に暇がないが、こうした発言によりガチ勢とエンジョイ勢の対立という風に変えようとする。しかし本当に対立しているのはゲームを楽しんでいる層なのだ。そしてうやむやにされてしまう。
この問題の悪いところは逃げ道が無数にあることだと思われる。例えばだが今までまじめにゲームをやっていた人間が、相手にうまいプレイをされて死ぬ。差ができてしまい、もう逆転できないと思って敵に殺されに行くようなプレイをし、次の試合に行こうとする。彼はエンジョイ勢に変化してしまった。なぜなら自分の気持ちよさを優先しているためだ。しかし本人にやめろと言っても俺はまじめにやっていると言われるとよっぽどプレイがおかしくない限り、追及が難しい。人の心を覗き見ることはできないからだ。
例以外にもゲームをやっていればわざと負けるためにやっているんじゃないかと思えるプレイヤーに必ず出くわす。これはレート帯に関係なく起こる話であり、そして彼らがエンジョイ勢かを完璧に判別する方法がないということがこれを難しく、あやふやにしている
10月の第4週、関東はまたも台風21号から変化した温帯低気圧が大雨をもたらし、千葉では河川の氾濫が起きた。
自然災害の多い日本だが、今年の秋はそれがもたらす結果が深刻だ。
ラグビーW杯でも、予選プールの2試合が台風のリスクで中止になったが、その判断は正しかったように思う。
日本が初のノックアウトラウンドに進出したことで話題になったラグビーW杯だが、その他にもこの台風による試合中止や、ティア1の伝統国でないアジア初開催など、2019年大会は歴史に残るW杯になるだろう。
その大会に、史上初の3連覇という新たな歴史が生まれるだろうか。
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対戦するのは黒衣の絶対王者ニュージーランドと、白のジャージに身を包んだイングランド。
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前大会、自国開催でありながら予選プール敗退という屈辱を味わったイングランドは、勝負師エディー・ジョーンズをHCに迎え、破竹の勢いで準決勝まで勝ち上がってきた。
前任の日本でチームにW杯で初となる3勝をもたらしたことでも有名なこの名将は、その激しい気性と独自すぎる指導アプローチで数々のエピソードを持つ。
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南アフリカ戦の最後の場面で自らのキックの指示に反しスクラムを選択した選手の判断をみて激昂し、インカムをコーチボックスの壁に叩きつけ破壊したなどというのは可愛いもので、日本代表合宿で毎朝6時からの練習を強いて吐き気がするほど走らせた上、うまく行っている練習のシーンでもいきなりブチ切れて選手の不確実性への対処を見たり、イングランド代表合宿に柔道家を招聘して代表選手の顎の骨を骨折させたり、その狂気のエピソードは枚挙にいとまがない。
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2015年大会の結果を受けて、著書がビジネスマンに大受けしたエディーだが、こんな滅茶苦茶がまかり通るのは指導相手がナショナルクラスのフィジカルエリートであり、彼自身教員免許を持った上で三度もナショナルチームのHCを歴任して指導メソッドを磨き上げたからであり、凡百の経営者が彼の真似をしたら社員の8割は辞めると思う。
ちなみにエディーの指示をサラッと無視してブチ切れさせたリーチ・マイケルは、今大会の合宿でそのエディーが考案した「石鹸水でボールをヌルヌルにしたパス練習」をやろうとして、ジェイミーにすげなく却下されている。
こっちはこっちで会社の先輩だったら、なんかちょっとめんどくさい感じだ。
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一方、3連覇を目指すオールブラックスのHCスティーブ・ハンセン。
元警官の彼が激しい感情をあらわにしたのを増田は見たことがない。
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試合前にエディーが「練習をスパイされていたのでは」という記者の質問に対して否定も肯定もせず「まあでも誰かわかんないけど撮ってる奴はいたけどね」などと言わなくていいことを言っても「私は心理戦なんかやりませんよ。エディーがとても賢い人だということは、よく知っています。そんな事をしても、何の意味もありません」と泰然自若として受け流した。
聞くところによると宇宙飛行士というのは、どんな状況にあっても感情的にならず、そのときに最適な解決方法を考えて淡々と実行しなければ務まらないものらしく、それに近いメンタリティの持ち主なのかもしれない。
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注目の準決勝第一試合は、破茶滅茶パワハラおじさんとベテラン宇宙飛行士の名将対決となった。
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HCのキャラが濃すぎて説明に字数を取られてしまったが、ここでゲームプランについて考えてみよう。
伝統の強力FWに加えて、BKの展開ラグビーでもトライが取れるイングランドだが「出来るからといってそれをするべきなのか」という問題がある。
イングランドの展開ラグビーは、どこからでもかけられる圧力を相手に晒した上で、順目順目にオーソドックスに展開したり、ディフェンスラインのわずかに広めな隙間にパワフルランナーが走り込んでこじ開ける、といったもので、シンプル強力ではあるが意外性はない。
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この展開でボールを持ち続けてしまうと、いつターンオーバーされるかがわかりづらい。
オールブラックスは世界一のアンストラクチャーラグビーのチームだ。
突然始まったような攻守交代からの混乱で彼らを上回ることのできるチームなどありはしない。
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イングランドとしては、むしろボールを計画的に渡してディフェンスで潰してエラーを誘発し、セットプレーの展開に持ち込んだ方が、数々のチームをねじ伏せてきた必殺のモール攻撃を繰り出せる。
しかし、それだってディフェンスがちょっとでも遅れれば何をされるかわからない。
オールブラックスは本職LOの長身スコット・バレッドをフランカーに起用してラインアウト対策を取り、その上フィールドでは抜け目のない黒子、モウンガが目を光らせているのだ。
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エディーはこの難解なパズルに解を見つけることができただろうか。
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この試合でも、台風被害に遭われた方への黙祷が捧げられ、両国の国歌が斉唱されたのち、オールブラックスがウォークライ、ハカを行う。
これにイングランドはその三角の陣形を包囲するかような翼型の陣形を取って受けて立つ。
いつもはシリアスで怖い表情のCTBオーウェン・ファレルが不敵な笑顔で視線を送る。
その笑顔もやっぱり怖かった。
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これが自分たちにボールが戻るセットプレーとなり、ここから大幅にブレイク、順目のパワフルな攻撃を攻めきってわずか1分30秒、イングランドは王者から先制のトライを奪った。
この攻撃でイングランドはキックを蹴らず地上戦で取り切り、これはこの後の展開を予想させるものだった。
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その後も身体をぶつけながら前進、攻撃も防御も出来のいいイングランドに対し、ディフェンスの上がりが悪いオールブラックスは切り返すこともできずに序盤一方的に攻められてしまう。
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オールブラックスは17分、18分と二度敵陣に進入してのセットプレーを得るが、これを強力ディフェンスで凌ぎきられる。
待望の切り返しの機会を得て攻撃しても、イングランドのラインを押し上げる早いタックルの前に下げられてしまい、アンストラクチャーラグビーを全くさせてもらえず、自分たちボールのラインアウトもいい形でボールが出ない。
ポゼッションはイングランドが6割、プレーエリアは半分以上オールブラックス陣内だ。
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前半最後の38分、オールブラックス得意の切り返し攻撃も不発におわり、逆にイングランドがペナルティゴールを獲得、スコアは10-0で前半を折り返した。
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ぶつ切りのゲームを挑むのではないかという増田の予想を覆し、ほとんどキックを蹴らず、横に展開しつつ地上のフィジカルバトルを制圧して前進するイングランド。
スコット・バレッドを入れてのラインアウト対策をスカした上に、そのラインアウトでも幾度も競り勝ち、エディーに言わせれば「してやったり」という展開だ。
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予想したかしないか、全くボールを渡してもらえない上、守れば押され、攻めても包囲されるかのようなディフェンスの早いチェックと激しい当たりで前進できないオールブラックス。
前3メートルのスペースがあるところでボールが欲しい、しかしそれが全くできないのだ。
前に出られないディフェンスと噛み合わない攻撃を修正できるだろうか。
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機能しなかったスコット・バレッドを外し、地上戦を制圧するためにFLサム・ケインに交代。
しかし49分、それでもイングランドの圧力の前にペナルティゴールを献上、13-0とされてしまう。
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オールブラックスは苦戦していたラインアウトをテコ入れするため、HOデイン・コールズを投入。
経験豊かなSH TJペレナラ、CTBソニービル・ウィリアムズも投入し修正を図る。
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すると、54分、相手陣深くに進入し、相手ボールのラインアウトの一瞬のミスをついたFLアーディー・サヴェアがインゴールに飛び込み、オールブラックスが待望のトライを奪った。
コンバージョンも決まって13-7。
ほとんど表情が変わらないスティーブ・ハンセンHCは注意しないとわからないくらい少しだけ頬が緩んだ。
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だが簡単に流れは変わらない。
ここで試合を戻したいイングランドがまたも力押しで前進し、60分にペナルティゴールを獲得し、16-7。
コーチボックスでは勝負を左右する時間帯に追加点を得ても、緊迫した表情のエディー・ジョーンズ。
ここから先はフィットネスが切れる可能性があるのだ、そうなれば独創的な攻撃を誇るオールブラックスに9点差などあっという間にひっくり返されてしまう。
傍らで見るアシスタントコーチにしてみれば、フィットネスが切れるも心配だが、エディーの方だっていつキレるかわからないので全く油断ができない。
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しかし噛み合わないオールブラックスは反則がかさみ、主審のナイジェル・オーウェンスさんから注意を受け、終盤に差し掛かる68分にもイングランドにペナルティゴールを与えて、19-7とされてしまう。
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トライを取るしかないオールブラックスはボールを持って前進するが、終盤になってもフィットネスの切れる気配がないイングランドの高速ディフェンスの網を全くかいくぐれない。
勝負師エディーのプランは「地上で展開してボールを渡さず押し下げて、ボールを奪われるたら前進ディフェンスで潰しまくるね、それも80分ね、Go!走る!走るね!」というものだった。
ラグビーの研究が進み、ボールを展開するだけでは突破できない現実に、キックからのアンストラクチャー攻撃という回答を見せて絶対王者に君臨したオールブラックス、それに対する解は「前に出る攻撃的防御、展開しながらの防御的攻撃、その狭間からの一撃」だった。
元から恵まれたフィジカルをさらにいじめ抜いて徹底的に鍛え上げたからこそ取れるプランだ、ラグビーの母国に渡っても、やっぱりエディーはエディーだった。
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勝負は決しても一矢報いたいオールブラックスが最後の猛攻を見せるが、80分、ボールは蹴り出され、黒衣のディフェンディングチャンピオンを封じ込めたイングランドが準々決勝、準決勝にについで、三度の一番乗りを重ねて決勝に進出を決めた。
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33%しか地域獲得率を与えることなく、オールブラックスに試合をさせなかったイングランド。
試合後のインタビューに日本語で答えるエディー・ジョーンズの顔は笑っているが目が全然笑っていない。
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「ありがとうございます、みなさん」
4年前、日本代表を率いて世紀の番狂わせを演じた勝負師、その目が見据えるのは優勝だ。
3度目のナショナルチームのHCとしての挑戦にして、ついに視線の先に収めたウェブ・エリス・カップ。
あと一勝だ、もう逃がさない。
表現の不自由展騒動がきっかけなのか、最近「アート」に関する勘違いを頻繁に耳にする。
とりあえずポリティカルなことや特定の展覧会や人物の動向は抜きに、アートに対して人々が抱いている勘違いを淡々と正してみる。
文章が読めない人向けに繰り返すが、別に「表現の不自由展」など特定の展覧会や作品の是非について語っているわけではなく、人々が抱く「アート・芸術」に対する先入観について語っている。
前史時代から近現代に至るまで、金銭や作品発表場所など、なんらかの「補助」なしで歴史に刻まれた芸術作品や芸術家はいない。
「補助」は大まかに分ければパトロン系、政府系に大別されると思う。
バッハ、ミケランジェロ、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ…今も知られる芸術家のほとんどは貴族や王族の庇護のもとにあった。特に有名なのはメディチ家。かなりの数の美術作品がメディチ家の庇護のもと、もしくは依頼で作られている。
モーツァルトのようにフリーの音楽家に転身した例もあるにはあるが、彼ですら転身後、晩年は困窮していた。それどころか、主な収入源はやはり貴族などに委嘱されて作った楽曲によるものだそうだ。
現代だと、欧米では自らの作品を売り込んでファンドを得る、ほとんどビジネスマンみたいなアーティストが多い。ビシッとしたスーツに身を包み、自らの作品に新たな価値付けをして売り込む姿は、ベンチャー起業家のそれと変わらない。
こちらは王政・封建制より後の政治体制下の芸術に対する補助。大まかに分けると、プロパガンダ芸術と、政治思想のない(あるいは薄い)経済的補助がある。
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政治思想とは一定の距離を置いた経済的補助で、一番大規模かつ有名なのはアメリカが1930〜40年代に行った「連邦美術計画」だ。ニューディール政策の一環として、政府が数千人から1万人単位でアーティストを雇い、パブリックアートの制作などをさせるというぶっ飛んだ規模の政策である。
因みに「連邦美術計画」の効果は凄まじいもので、その後巨匠と呼ばれることになるようなアーティストを多数輩出し(ポロックやベン・シャーンなど)、抽象表現主義などのアメリカ発の芸術運動がバンバン興った。
それまでヨーロッパ中心だったアートシーンは、この時代の前後を境にアメリカに移ることになった。さらに因むと、未だにアートシーンの中心はアメリカである。その市場規模は、世界のアート市場の5割弱を占め、日本円にするとおよそ3~4兆円。しかも年々拡大し続けている(参考までに、日本の美術市場は2,000億円強 / 中国は1.5兆円弱)。
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一方、プロパガンダ芸術で有名なのは、ソ連やナチスなど。政府の意向や政治思想に沿った作品を、政府が補助して制作させるというもの。作られた作品は政府の思想を広める宣伝ツールとして使われることが多い。
上述した政治思想とは一定の距離を置いた経済的補助とは違い、題材やテーマなどは厳密に決められており、メディチ家などのパトロンの元での芸術活動に少し近いかもしれない。
ただ、これらの政府の体制下で作られたプロパガンダ芸術は、今のところ芸術としてはあまり評価はされていない。
あくまで個人的な見解だが、プロパガンダ芸術はその性質上大衆向けにならざるを得なく、どうしても前時代的なものになってしまうのが要因かと思われる。 ※ グラフィックデザインなど、一部評価されている分野もある。
なお、これらの国では、現代アート・前衛芸術は「退廃芸術」として弾圧の対象となっていたことも言及しておく。弾圧されたアーティストがアメリカに渡り、祖国に残ったアーティストを横目に名声を得たという例はかなり多い。
上述のようにプロパガンダ芸術にあまり価値が見出されていない現状を考えると、一見正しい意見に思える。
だが「20世紀を代表する作品の一つ」とまで言われる、ピカソの「ゲルニカ」をはじめ、政治的なアティテュードを有する芸術作品は意外と多い。
現代であれば例えばバンクシーは思いっきり政治的な作品で知られるが、今やアートシーンにはなくてはならない存在だ。
文学・音楽・映画にだって、政治的な意味合いが強い作品はたくさんある。
「政治色をもつ作品はアートじゃない」という言説は、「ジョン・レノンの"イマジン"は政治的なメッセージがあるから音楽じゃない」と言ってるのに等しいのだ。
むしろ、現在享受されている芸術作品で、大衆向けに作られたものはあまり多くはない。
バッハ、ミケランジェロ、ボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチなどに代表されるような近代以前の巨匠たちは、先述の通り貴族や王族むけに作品を作っていた。そもそもが一般大衆向けの芸術ではない。
同時代の大衆向け芸術だと、例えば音楽では吟遊詩人が酒場で歌うリュート曲とかがあるが、現代でも聞かれているかといえばNOである。もちろん、歌舞伎やケルト音楽など、現代まで残っている大衆芸術もあるにはあるが、近代以前の大衆芸術のほとんどは淘汰されている。
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今現在大衆に受け入れられるアーティストでいえば、おばちゃんが大好きなモネは発表当時ヘタクソだの何だの批判されまくったし、今や知らない者はいないゴッホはご存知の通り作品が1枚も売れないまま精神を病んで死んだ。ストラヴィンスキーやジョン・ケージなどは、初演で暴動間際になったことだってある。
これらの例から、むしろ後世に残る作品は、同時代に生きた大衆の感覚からはかけ離れていたことが分かる。でも、モネは今や企画展の花形だし、ストラヴィンスキーはバレエ曲の定番だし、ゴッホの絵を見ては「俺の方がうまい」とか宣うおっさんは美術館の風物詩だ。どの分野に関してもそうだが、専門性が高くなればなるほど、大衆の感覚はあてにならなくなる。自分の感覚と相容れない現代美術作品を「こんなの芸術じゃない」と一蹴することは自由だが、それらの作品は100年後にはもしかしたら現代におけるモネのように広く受け入れられているかもしれないのだ。
かつて相対性理論が発表当時「完全に理解できるのは世界で数人しかいない」と言われていたのに、(専攻科にもよるが)現在では大学で習うのと似ている。これまでの価値観をひっくり返すような価値のあるものは、常人には理解できず、時間をかけて少しずつ受け入れられていくものなのだ。
この問題については、未だ現代美術に大きな影響を与えているグリーンバーグという美術評論家のおっさんが書いた「アヴァンギャルドとキッチュ」っていう論文が分かりやすい。
この論文は、日本語訳もされているし、原文はインターネットでも読めるが、大衆の感覚と芸術作品の価値の乖離について論じている。要するに、「大衆に迎合し消費される美術」と「前衛的な美術」ならば、後者の方が価値があるっていう内容だ。
80年前の論文なのだが、芸術分野では未だに影響力が大きい教科書の一つ。とても短く、すぐ読み終わるので、興味があればぜひ読んでみてほしい。
作品の題材として「裸の女性」というのは時代を問わずポピュラーだが、19世紀までは神話や聖書の出来事以外で裸体を描くことは不道徳とされた。端的にいえば、不快であり、公序良俗に反するとされた。
実際、マネによって描かれた「草上の昼食」や、裸体の売春婦を描いたとされる「オランピア」は発表当時大問題になった。「現実の女性の裸を描くなんて、淫猥である!不道徳極まりない!下品なメスゴリラを描きやがって!こんなのはアートではない!」というわけだ。
しかし、どちらの作品も今やマネの代表作。オルセー美術館に収蔵されていて、後の時代の芸術家からはオマージュの対象とされるような絵画として扱われている。
一例を取り上げただけだが、時代を問わず同じような現象は枚挙に遑がない。
簡単にいえば、写真が実用化された時に「じゃあ写真でいいじゃん」ってなった。「写真と絵画は違う」という考えに立脚し、ある時点でそれぞれ全く別の路線を歩むことにしたのだ。
で、モネみたいに空気感を描く作家や、セザンヌやピカソみたいに多視点的にものを捉えて一枚の絵に表現する作家が登場した。これらの手法は写真では(簡単には)表現できない。要は「写真じゃなくて、絵画だからこそできる表現」というものが重視されていくようになった。
そして「じゃあ絵画の価値ってどこにあるの?本質って何?」って突き詰めていった結果、「絵の具じゃね?」という話になり登場したのがポロックなどの抽象表現主義。「コンセプトじゃね?」という話になり登場したのがコンセプチュアル・アート。特に後者の現代美術への影響は色濃い。
もちろん、写真のようにリアルな作品に価値がないわけじゃなく、スーパーリアリズムのような動きもあった。ただ、20世紀以降のほとんどの芸術家は、「写真みたいにリアル」であるかどうかとは別の土俵で表現をしていることは知っておいてほしい。アーティストにとって「写真みたいリアルですごい」というのは必ずしも褒め言葉ではないのだ。
分かりやすさを第一に書いたので、表現が正確ではないところもあるし、時代的に前後したり乖離していたりもするが、だいたいこんな感じ。
文章中でも少し触れたが、アメリカや中国、欧州と比較すると日本の美術市場はかなりちっぽけだ。国内でアートがよりよく理解され、シーンが活性化することは、大きなマネーが動く「市場」を生み出すことにも繋がる。先述の「連邦美術計画」などは、政府が美術に注ぎ込んだ「補助」に対して、「年間3兆円強のマネーが動く市場」という計り知れないくらい大きい対価をもたらした。アートにはそんな力があるし、前衛を受け入れる懐を自ら作り出したからこそ、現在のアメリカの立ち位置がある。兆規模の市場から得られる税収は、控えめに言ってもバカにできないはずだ。
アートの受容と活性化は、普段アートに触れない人にも価値がある。少しでもみんなのアートに対する誤解が解けることを願ってやまない。
たとえば、私は家族を大事にしているほうだと思っているのだが、それは「家族を大事にしている自分の価値」を確認したいがためであり、やらなくても済むのならばやりたくない。
たとえば、私は数年来筋トレに励んでいるのだが、それは「歳のわりに定期的に運動して体型維持できている自分の価値」を確認したいがためであり、健康とかを考えてのことではない。
たとえば、私は車が好きでMT車に乗っているが、それは「MTなどという珍しい車を操れる自分の価値」を確認したいがためであり、それが確認できるならば別にAT車でも構わない。
他にも枚挙に暇はないが、よくよく考えるといずれの行動も「そのような自分の価値」を確認したいがためのものも結論付けざるを得ない。
おそらく、これらを完遂しても、自分の価値を確認することはできないだろう。
よしんばできたとしても短期間で次の「確認できる物事」を求め続けるのだろう。
私、7&iのアプリを使っていたのですが、PWを強制リセットされたために利用できなくなり、アプリを利用しなくなったものの一人です。
なぜ利用しなくなったのか?
本当は利用したかったんです。
ほぼ月一くらいですが、セブンイレブンでスキャンサービスを利用する際に、アプリを使っていて、自宅のスキャナが古く新しいPCに対応できなくなってからはずっと使っていました。
が。。突然のPWリセット。
ちなみにセブンペイでしたっけ?あれは利用したことがないです。登録してもいません。そもそも「それが何か?」をも把握しておらず、、、さらに、そもそも登録が必要だったのかもわかりません。
まず、なぜアプリを利用しなくなったのか?
=> 理由としてはPWの再設定方法が分からなかったからではなく、PWが再設定できなかったからです。
1、PWの再設定に生年月日まで要求された。
真面目な人は自分の生年月日を正直に入力するのかもしれません。
しかし、個人情報が流出している事件・事故は枚挙に遑がありません。私、生年月日を正直に入力はしないですw。一応年度またぎの3月吉日か4月吉日で登録していますが、いかんせん永遠の18歳である私はいつこのアカウントを作成したかを覚えていませんw。。
それに、もしかしたら、別の誕生日を設定したかもしれませんw。もしかしたら利用規約に生年月日に嘘ついたら使わせないという文言が入っていたかもしれませんが。。。それを私が読んだと思うのか?
2、UUIDが取られていて、同一UUIDには一つのアカウントしか紐づけられない。
1、でダメだったのでじゃあ新しいアカウントを登録しようと思ったのですが…登録できなかった。。。
アカウントの乗っ取り防止という意味では強固な対策の一つかと思います。スマホが中古で流通し、それで登録できないとか、そういうケースへの対応はいくらでもできるので(引き継ぎ端末でのUUIDだけを参照するなど)ユーザーが多額の課金をするようなゲームアプリでは意味がある対応かもしれませんが。。。たかだか、コンビニのアプリ、どれだけユーザーの個性が必要だったのでしょう?スキャンサービスだって、ワンタイムトークンで対応できたでしょ?無駄に個人情報を収集して、他社に売らないまでも利用しようとしていたんじゃないでしょうか?
非常に強固な作りになっているアプリだと思いますが、too muchだとも思います、
わざわざ数千万〜数億払って広告出さなくてもどちらか解除すれば済む話です。というか、どんなに広告出してもUUID取られている時点で、アカウントを適当に登録したユーザーは2度と戻っては来れないですw!!!
これで多くのユーザーがiPhoneを乗り換えて、新しいUUIDを取得すれば、ワンチャンユーザーが戻ってくるかもしれません!!ワンワン!!
嗚呼悲しきsilent minority…。
文責:U2FsdGVkX192EVuo5bhwAb6WE/b8UTlZqRs5dbhgxSQcdAIvMJZyGeia2uRpbLjhr6DU/nKBQQcRg9uOzTRhtEuPIcNWZTAYwJlBa8Z3L2xeCBDeZpPqJAnljm28c2X3
仮面ライダーに限らず、なんとか戦隊とか、ウルトラマンとかも全部観たことがなかった。
僕の場合は別に親が厳しかったとかではなく、単純に観る習慣がなかっただけの話だった。
僕もそれなりにオタクなので、人気があるのは知っていた。
でも特撮ってよく分からないし、タイトルが多いし、実写だし、あと独特の文法がある気がするし、大人になってから観るとなるとよほどのきっかけがない限り、着手するのは難しいことのように思う。
多くの人に愛されているということはおそらく面白いのは間違いないのだけれど、やはりどこかで子ども向けだし…と思っているところがあったのかもしれない。
食わず嫌い…とまでは言わないけれども、やっぱりなんとなく敬遠してしまっている節があった。
その日は突然訪れた。
いつか観ようと思ってアマゾンプライムのウォッチリストに入れていた「仮面ライダーOOO」を突然観始めた。完全になんとなくだった。
作業用BGMにでもしようと思っていた。
思っていたのだ。
ビックリした。
作業がてら観るつもりだったのが、観がてら作業をする勢いになった。
映司が、アンクが、比奈が、後藤さんが、伊達さんが、人々が成長していく様子があたたかく、嬉しかった。
キャラクターがいつのまにか大好きになっていて、最終回付近ではいい歳して泣いてしまった。
それから1年ほどの間にクウガからビルドまでのタイトルを全部観た。アマゾンズも観た。
何度も男の子の心がくすぐられ、それ以上に人間としての心がゆすられるのを感じた。
僕はこれまでヒーローに馴染みがなかったので、ヒーローって常に正しいものだと思っていた。
仮面ライダーを観た今、案外そうでもないのかもしれないと思っている。
主人公サイドにはそれなりにまっとうな感性を持った人間が多いが、別に仮面ライダーが全員が全員平和のために戦っているわけではない(これも視聴前の僕が勘違いしていたポイントだった)。
例に挙げるのはズルい気もするが龍騎なんて「永遠の命がほしい」とか「恋人を救いたい」みたいな理由で戦っている奴らもいたくらいだ。それは正義ではないかもしれないが悪でもない。
表が善なら裏が悪というわけでもないのだ。そんなに単純なものではなかった。
漠然と思ったのは「これを観てきた子どもたちはどんなふうに育ったんだろう」ということである。
もしかしたら大人になってからのほうが感じ取る要素が多いのかもしれない。それほど大切なことが織り込まれている。
男とか女とかではなく、人間として相手を慈しみ、共感し、影響しあう関係。
大切な人が大切に思ってくれる自分も大切にしなければならないと自覚すること。
そばにいてほしいと願うこと、自分の目の届かない場所でも構わないから笑っていてほしいと願うこと。
たくさんのものを失い、背負って、それでも進まなければならない使命。運命。
正しいこととは何か。人間とは何か。生きるとは何か。
子どもの頃だったら気が付かなかったこともたくさんあるだろうと思った。
現に名前は知っていても触ることすらなかったくらいだし、仮に当時の僕がこれらを観ていても今みたいには理解できなかっただろう。
でも多分それでもいいのだ。きっとそれでも面白い。
大人になっていろんなことが分かるようになって、読み込んだらさらに面白い。これが良い。
僕には子どもがいないけれども、きっとこういう作品って、大人になる前の人間が観て、その人間を育てる人間が一緒に観るものなのだと思うから、きっと子どもには子どもなりの、大人には大人なりの楽しみ方がある。
そうできるように作られている。少なくとも僕はそう思った。
現に僕だって、観ている最中何度もつらくて泣いた。クウガとか、アマゾンズとか、ドライブとか。
しかしその何倍もの回数、登場人物の愛おしさのあまり泣いた。龍騎とか、Wとか、オーズとか。枚挙にいとまがない。
かなりみっともないが、たくさんの人間の人生の欠片を受け止めてきたのだから、多少の痛みは仕方ない。
令和が始まって、ゼロワンからはみんなと一緒に観ることになる。
老若男女みんなで日曜の朝からツイッターに集まって、あのキャラ良い!とかあの展開エモい!とか言ってる空間こそが平和そのものだ。
ヒーローにあこがれ、愛する人間の一人に、僕もなろうとしている。
8歳の女の子に「ボーっと生きてんじゃねーよ」って言われる気持ちの悪い娯楽がマジで嫌いなんですよね
あれ、「本来は我々に逆らうことの許されない立場であるにもかかわらず、無知ゆえに生意気なことを言ってしまう“女の子”に叱られて、つい従ってしまう寛容な我ら」っていう立ち位置を楽しむ娯楽だろ?何重の差別だよ。
そろそろ定年過ぎた近現代で一番使えない年代が大好きな美談知ってるか?「寛容な社長エピソード」なんだけど。
戦後復興のなか、一代で大企業を築いたメーカーの社長(ホンダだったり日立だったりするが、まあそのへんだ)があるとき現場の視察に来る。スーツに革靴で工場に入ったら、掃除のおばちゃんに「コラあんた!そんな格好で来ちゃだめでしょ!」って叱られる。工場内では安全靴にヘルメット着用が絶対だからだ。
それで社長の取り巻きが「社長に向かってなんてこと」って言いかけたところで、当の社長は「おお、そうだった、すまんすまん」とアッサリおばちゃんの言うことを聞く。それを見た取り巻きが「さすが社長、常人とは器が違う」と感動するっていう美談だ。正直なにが美談なのか分からない。取り巻きが無能すぎるって事しかわかんねえよ。
話を戻すと、チコちゃんは「寛容な社長エピソード」の超劣化版だ。目下の人間に逆らわれるという娯楽を安全なところで楽しむ差別だ。
しかも、オマエは社長ですらない。ただムダに歳をくっただけの人間だ。
あんなのを作った人間が中心になって、吉本興業主導の教育産業に進出するらしい。あのコンテンツの倫理的な問題に気付きもせずに多様な学びだとよ。何だそれ?
日本のコンテンツ産業関係者の実務能力のなさって本当に凄くて、資金調達だけして結局何にも形にできなかった例は枚挙にいとまがないんだけど(暇ならCiP協議会でぐぐってみるといい、コンセプトトークだけで何も形にできない連中のバカみたいな夢の記録が出てくる)、だからクソみたいな倫理観でもコンテンツを形にできればそこで仕事が成り立っちゃうんだろうな。
https://anond.hatelabo.jp/20190718170026
この増田のトラバを読んでもブコメを読んでも、KKOがますます殴られていると思ってしまう。
それで、自分と比べてしまい不幸な気持ちになって、本当の幸せの定義に躍起になってくる。
だから、「それぞれの幸せ」を認めるために、周りの人々に強者に対するマイナスイメージを植え付けたいという強迫観念に駆られる。
でも、ふと思った。
強者にマイナスイメージを植え付けることは「それぞれの幸せ」を否定することであると。
逆に強者をリスペクトしたとしても、弱者を卑しめることには繋がらないのではないだろうかと。
それどころか、強者へのリスペクトという気持ちが、強者のみならず社会全体による弱者へのリスペクトを呼び起こすのではないだろうかと思った。
KKOによるべらぼうな金持ちへのリスペクトが、KKOへのリスペクトを生むということだ。
トラバやブコメのリスペクトを見たときの自分の気持ちを眺めてみてそう思った。
依存症から金を巻き上げたり、法の穴を掻い潜って人から大金を騙し取ったり、枚挙にいとまがない。
べらぼうに稼ぐためには搾取に手を染めなければならないかもしれないという不安に駆られてしまう。
もし搾取に手を染めているのなら、当然リスペクトの対象からは離れてしまうのだ。
KKOとして生きていると、金持ちの世界を知らないためにこのような漠然とした不安を拭い去れない。
そして、自分の活動のベクトルを高収入へと向けることに不安感を感じてしまうのだ。
KKOの中には少なからずこういった感覚を持つ者もいるのではないかと思う。
したがってKKOとしては、願わくば搾取のない世の中を実現したい。
社会貢献度と収入が限りなく綺麗な相関を描くようになってほしい。
周知のように、第一次世界大戦はセルビアの青年がオーストリア皇太子を射殺したのが発端だった。
これがかつてのテロリズムだった。
少数民族や反政府分子が、窮鼠猫を噛むの喩え通りに、支配層の要人を斃すことで、敵の民衆に自らの存在を恐怖と共に訴えること。
例は枚挙にいとまがないが、例えばジョン・F・ケネディを撃ったオズワルドは、護送中に射殺されたことで暗殺の目的は誰にもわからなくなってしまった。
その意味では、不幸にも自らの口を封じられたことで、テロリストとしてのオズワルドの目論見は歴史上最も成功した事例と言えるかもしれない。
だがケネディの暗殺は、おそらく、世界中の国家が要人警護の強化へと舵を切らせるきっかけになったのだろう。
その帰結は早くも1970年代、IRAとPLOそれぞれが独立に採用したソフトターゲット戦術となって現れる。
襲撃困難な政府要人より、警備の薄い無辜の市民を狙っても宣伝効果は同じ。しかも無防備な相手なら襲う方の訓練もそれほどいらない。
要人警備の強化が、テロリストに「コスパ」のいい方法を見つけさせてしまったとも言える。
そこから先はソフトターゲットをいかに大量に、派手に殺すかで諸勢力がシノギを削っているような状況だ。
派手にやれば、テレビもYouTubeもその映像を繰り返し流すからだ。
そしていつの間にか、大量殺人の報道がされるたびに我々は「テロだ」と反応するようになってしまった。
実行犯が何を訴えようとしているのかわからない。だけどこれは間違いなくテロだ。なぜなら人がいっぱい殺されているから。
なぜ狙われるのかって? そんなことは狙う奴らに聞いとくれ。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO47298690S9A710C1X11000/
↑の記事のはてブを見ると「うんこすることが仕事になる」とか「うんこするだけで人の役に立てる」といったコメントがあるけど、お前ら甘いぞ。
飯食ってうんこするだけで楽に金が稼げると思ったら大間違いだ。
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俺のスペック
高卒8年目、大手うんこ製造メーカーの地方工場に勤務(国内で5本の指に入るうちのどこか)
独身(彼女なし)、会社の寮に一人暮らし(光熱費込1.5万円/月)
年収580万(ボーナス4.0ヶ月)、年間休日122日、有給は年20日(仕事ができれば気兼ねなくほぼ100%取れる)
※昨年実績
勤務中はうんこさえすれば他はあれこれ言われない。俺は基本定時帰り。
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まず、排出するうんこの量・質が求められる実力主義の世界だぞ。まともなうんこを出せない奴に対する風当たりはものすごく強い。
※年功序列的な要素もあるが、影響の度合いはそれほど大きくはない
一定水準以上のうんこを出しさえすればそれ以外はほぼ自由だからデキる奴にとっては天国だけど、量が少ない・質が悪い・そもそも出ない奴にとっては地獄だぞ。
日報に「今日の排便:なし」とでも書こうものなら上司の顔がヤベーぞ。生きた心地がしない。
※一応、排便は一週間単位で管理されるので1~2日くらい出なくても全く問題はない(怒られることもない)が、プレッシャーがヤバい。
便秘気味の奴なんか一日中排便室(一応、個室の仕事部屋が与えられる)にこもってイキんでるから、痔が酷いらしい。
うんこすることが仕事ってことは、つまり食べるのも仕事ってことだ。好き放題食って出せば良いってものではない。
食事はうんこの量・質や社員の健康を考慮されたものが会社から支給されるが、不味くはないとはいえ特別上手くもない。悪く言えば「エサ」って感じだ。
俺は食事にはあまり拘りがないから普通に食えてるし何の不満もないけど、食べるのが好きな奴は結構キツそうだ。同期も何人かは食事が原因で鬱になったし、辞めた奴もいる。
もちろん、支給される食事を食べない・+αで何かを食べるのは全然OKだけど、食事が仕事の成果(= うんこ)に繋がると考えたら暴飲暴食するわけにもいかず、節制は不可避。
それが退職まで30~40年続く。
酒飲みはよく腹を下すイメージ(うんこの品質が最悪、消化されていないニラとかコーンとかが混じりがち)だから、社内での評判はあまり良くない。
※そういう意味では飲み会はほぼない文化だし、歓送迎会・忘年会でも最初の1~2杯くらい(飲まないのも全然OK)なので酒が苦手な人は向いてる仕事だと思う。
うんこの質を高めるためには生活習慣も大切だ。簡単に言うと、早寝早起きや適度な運動だな。
食事同様、100%会社に管理されているわけではないから基本的には自由だけど、やっぱり仕事の成果(= うんこ)のことを考えると半強制的にやらざるを得ない。
休日前に夜更かしする奴や、会社以外で全く運動しない奴(一応、最低限の健康管理のために体育みたいな時間がある)は仕事ができない場合が多い。
仕事の質を高めるためにはプロのアスリート並の厳しい生活が求められる、とまでは言わないけど私生活が堕落しているような奴に務まる仕事では決してないな。
・合コンで仕事の話になって「俺、うんこしてるんだよねw」って言ったら確実にドン引きされる(1次会で解散にならなかったことはない)
・親戚が集まったとき「〇〇君、いま何の仕事してるんだっけ?」「はい、うんこしてます!」というやりとりの後、急に話題が変わる。
・職場の先輩の子供が「お前の父ちゃん、うんこ製造機~笑」っていじめられている(らしい)
・会社の寮に嫌がらせ目的(?)で差出人不明の大量のトイレットペーパーが届いたことがある(さすがに笑ってしまった)
確かに給料も休みも悪くはないけど、金や休みのためにやるには犠牲になるものが大きすぎる。
新興産業だけあって世界中で覇権争いが過熱している(IT業界の5Gなどを想像すると分かりやすいかも)。
特に人口が多い国が有利なので残念ながらうんこ業界における日本の世界シェアは低いと言わざるを得ない。
ただ、うんこ製造は食に異常な拘りを見せる日本人の気質とマッチしているのか、日本産のうんこは日本以外の国より圧倒的に高品質らしい。
なので、これからの日本は品質路線にシフトしていくことが予想される(というか、実際すでにそうなりつつある)。
ということで今まで以上に食事や生活習慣に気を使わないと良い仕事ができないので、やはり「うんこするだけで金がもらえる」と思っている奴にはオススメできない仕事だな。