はてなキーワード: 絵画とは
幼いころに観た、「ドラえもん のび太のドラビアンナイト」には、ぜんまい仕掛けの舞姫が出てくる。しかし、まだ自分はそれに欲情することはなかった。パンツがエッチなものと認識はあったのに、しずちゃんのへそ出し衣装にも、それどころかオアシスでの全裸水浴にも何の感慨も抱かなかったのである。
もう少し大きくなってから、とある学習漫画で見たベリーダンスには、なぜかエッチな気持ちになった。確か、アラビアと聞いて半裸の女性が踊っている不埒な妄想をしているシーンだったような気がする。性の目覚めとは不思議なもので、その時に出会ったものとタイミングによって、その後の性癖に多大な影響を与えてしまうし、パンツの向こうにある女性器に興味が出てきたのは、中学生以降になってからだった。
文学でベリーダンスに出会ったのはオルハン・パムク、2006年のノーベル文学賞作家を読んでいた時だ。結婚式などの場にベリーダンサーを呼ぶべきかどうかについて議論している個所が作中に出てきた。どうやら、ベリーダンスの持っているイメージや社会的な意味が、ヨーロッパとはかなり違うのではないかと気づいたのはこの時である。
今回はかなり日英のウィキペディアの記事が充実しているので、そこから抜粋しよう。
そもそもベリーダンスには二種類の社会的コンテクストがある。一つはRaqs BaladiまたはRaqs Shaabiと呼ばれる社交ダンスで、別に露出度の高くない通常のファッションで行われる。保守的な地域では男女別に踊るものとされている。もう一つがパフォーマンスとしてのダンサーだが、社会的地位はまだ高くない。想像する通り、イスラームでは禁忌とされる肌の露出を行うからである。
衣装はbedlahと呼ばれ、典型的なのはぴったりしたブラトップ、臀部のベルト、そしてロングスカートかハーレムパンツの組み合わせでできている。ブラとベルトはビーズやスパンコール、クリスタルやコイン、ビーズや刺繍で飾られている。ベルトはスカートと一体のこともあれば、別々のこともある。
ベリーダンスの起源は諸説存在するが、地中海世界、中東、アフリカと関係があるという証拠が最も多く挙げられている。たとえば、紀元前5世紀のものといわれるエジプトの墓の壁画には、半裸のダンサー達が描かれており、その姿はベリーダンサーが鏡の前で行う柔軟体操の姿勢に似ている。ウィキペディアにはこんなことが描かれているが、画像がないのがもどかしい。紀元前14世紀のネブアメンの墓には、少女が帯だけを身に着けて裸で踊る姿が描写されているが、紀元前5世紀とは年代が合わない。紀元前13世紀のもので、トップレスのダンサーの姿を描いた陶片も出土している。
健全な精神がどうたらという言葉で有名なユウェナリスや、風刺詩人のマルティアリスは、現在のスペインや小アジア地方で波打つ動きやカスタネット、太ももを震わせて床に沈み込む所作のある踊りを記録している。
そして、12世紀から13世紀にかけてのペルシアの細密画の中においてもベリーダンスの描写が見られ、その歴史の長さを伺わせる、とあるが、これもウィキペディアはリンクを貼っていない。やれやれ。
ちなみに、アンダルシア地方でロマ人の踊りと融合してできたのがフラメンコだという説がある。
エジプトのベリーダンスは西洋人が最初に見た様式とされる。ナポレオンがエジプトに侵攻した際、ナポレオン軍は芸人や音楽家としてられるガワーズィー族と遭遇した。フランス人たちは重たげな宝石と髪型に飾り立てられた踊りに徐々に引き付けられた、という。
現在のエジプトのベリーダンスの多くはカイロで行われ、その起源はナイトクラブにある。多くのダンサーはエジプトの映画に出演し、エジプト様式のダンスの発展に寄与した。
プロのダンスはエジプト人に限られていないが、2004年に当局は外国人のダンサーがパフォーマンをすることを禁止した。現在は解除されてはいるが、排他的な雰囲気は残っているようだ。
エジプトでは、ダンサーはbedlahを着用している。また、メッシュで覆われた切り込みの入ったドレスを着ることもある。エジプトには、ダンサーが着用できるものとできないものに関する法律があり、文学作品の検閲に関する法律第430号によると、ダンサーは乳房や腹部を含む下半身を覆わなければならない。事実、衣装については「Raqs sharqi」の項にも詳しいが、1950年代以降、エジプトではベリーダンサーが腹部を露出して公の場でパフォーマンスをすることは違法とされ、ワンピースガウンを着用することが一般的になってきている。
と、書かれているそうだが、一般的には、肌色の薄手のメッシュ生地で腹部を覆うだけで十分である、という記載もある。カイロの多くのダンサーはこの規則を無視しているが、この規則はそこまで厳密に施行されておらず、腹を出してパフォーマンスをした場合は単に罰金を科されるだけである。しかし、外国人のベリーダンサーが衣装を着て逮捕されるという事件が何度も起きているとのこと。
ブラとスカートを別々に着用する場合は、ベルトはほとんど使用されず、タイトでなめらかなlycra(?)のスカートに直接刺繍が施されている。腹をカバーするために、薄手のストッキングを着用しなければならない。
エジプトのダンサーは伝統的に素足で踊るが、最近では靴を履いてハイヒールを履くことも多い。また、抑制のきいた正確な動きでも知られている。
子孫繁栄を祈る踊りでもあるため、中東各国では結婚式に欠かせないそうだ。なるほどパムクの小説に出てきたのもこれで説明がつく。
トルコのベリーダンスの衣装は肌を露わにしたものであり、ダンサーたちは腰より高い位置で留められたベルトに脚を完全に露出させるようなスリットの入ったスカートをしばしば身にまとっていた。
多くのトルコの衣装の特徴的な特徴は、V字型または三角形のベルトが含まれており、上端の周りに形を整えたり、輪郭を描いたりすることができる。また、ブラジャーとベルトの両方に多くの装飾やビーズのフリンジが含まれる。スカートは、しばしばエジプトの対応するものよりも充実しており、lycraよりもむしろシフォンやベルベットで作られている可能性が高い。
1980年代から90年代にかけては、両足をヒップまで露出させたスカートや、広く開けたブラジャーやはなはだしくはスパンコールのみなど、非常に露出度の高い衣装が採用された。何があったのだろう?
今日のダンサーはエジプト・スタイルを想わせる、淑やかなマーメイドスタイルのスカートを穿いている。ダンサーたちはハイヒールとプラットフォーム・シューズ(厚底靴)を履く事でさらに、ターキッシュ・スタイルである事を強調する。ト
トルコのベリーダンスはオスマン帝国のスルタンの宮殿にあるハレムに深いルーツを持ってはいた。しかし、今日のトルコのベリーダンスは、エジプトやシリア、レバノンと言った姉妹様式よりも、ロマ民族やローマ人の様式により強く影響を受けている。現に、現在のトルコのダンサーの多くは、ロマ民族にルーツを持つ。トルコの法律は、エジプトのようにダンサーの踊りの様式や衣装に制限を課さなかった。
エジプトとトルコの様式の中間であると言われる。レバノンダンスは、古典的なオリエンタルダンスをベースにしながらも、現代的でもある。大きなステップ、体幹の後方への傾き、ヒップローテーションのねじれ、大きくて忙しい腕、そして多くのシミー(体自体は動かさず、肩のみを前後に動かす所作)がある。
衣装については、腹部を見せることを禁じる規定は存在しないため、bedlahスタイルが一般的である。スカートはエジプトのものよりも透けている傾向にあり、ダンサーの身体がよく見える。ヴェールはエジプトと比べて広く用いられ、ハイヒールも一般的。レバノンのダンサーはエジプトよりも衣装の自由を享受している。
アラビアの様式によく似ており、イランではベリーダンスのことをアラブのダンスと呼ぶ。
その他の伝統的な様式がある。興味深いのは、民族的なスタイルのブラに着けられたコインは中近東のものとは限らず、日本や中後のものらしいものが含まれることだ。参考、ブラトップ。乾隆通宝とあるので、18世紀のものだ。当時からそこまで交易網が広がっていたことがありありと浮かぶ(インド洋交易の歴史はもっと古いが)。
ベリーダンスという名称も、https://en.wikipedia.org/wiki/Belly_dance#/media/File:Jean-L%C3%A9on_G%C3%A9r%C3%B4me_011.jpg:title-ジャン=レオン・ジェロームの絵画]の俗称に由来しているという説がある。この絵画では腹部どころか乳房をあらわにして兵士たちの前で踊っているが、この画家は空想を織り込むことで有名だ。たとえば別の有名な蛇使いの絵画]
の後ろにある青い壁と床の組み合わせも、確かどっかの宮殿とモスクを適当に組み合わせたもので、正確さに欠けている。異国情緒あふれていて魅力的だが、今ではたぶん許されない表現だろう。実際、ベリーダンスからイメージされるものは、元来その地域のものであったものとは異なる。
普通、ベリーダンスの衣装としてまず想起されるものは、1930年代のエジプト・ダンサーたちが身にまとい、他の地域へと知れ渡った衣装で、たいていビーズかコインがブラの周辺に飾られたブラジャー風のトップスで、腰のベルトにもビーズかコインが飾り付けられている。下半身はハーレムパンツ、ストレートタイプのスカート、サーキュラー・スカート、パネル飾りがあしらわれたスカートである。
20世紀のバーレスクや映画産業がこうした幻想を広めたのだが、当のエジプト人ダンサーたちもまたまたビーズで全面を飾り立てた衣装を身に纏うようになった。映画でも、セクシーな悪役のイメージとも結びつき、胡散臭いものとして見られることも増えてしまった。このイメージの払拭には時間がかかった。
今でもカイロにあるナイトクラブのオーナー、バディア・マサブニは西洋人旅行者の期待に添うために露出度の高いドレスを採用している。身体の輪郭を覆い隠し、ダンスのたびに強調されるのはスカーフやお尻に巻かれたベルトくらいであるエジプトの民族衣装とは異なるのである。
https://dic.pixiv.net/a/%E8%B8%8A%E3%82%8A%E5%AD%90%E3%81%AE%E6%9C%8D]
踊り子と聞けば川端康成ではなくこっちを思い出してしまう人は多いだろう。
たぶん、日本のゲームでベリーダンス的な幻想を多くの青少年に植え付けたもっとも古いものの例だ。今に至るまで踊り子といえばへそ出しであり、無数の同人誌で多くの人を悶絶させたはずである。ただ、中東のベリーダンスは伝統的にはここまで脚を出さない。
【マギ】モルジアナさんの踊り【ぬるぬるな高画質】 - ニコニコ動画
現代の漫画でオリエント幻想を一番前に出しているのはこの作品だと聞いたのでリンクを張る。読書の傍ら、漫画も読もう読もうと思って全然読めていないのが悔しい。短篇ばっかり読んでいる。
ただし、書かれているのが謝肉祭とのことであり、結婚式の場ではないようだし、伝統的な衣装とは幾分異なる。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm21377022]
英語版のウィキペディアでアニメの中のベリーダンスとして紹介されたのがこの作品だ。鳴子ハナハルの作品については、エロ漫画ソムリエの友人から薦められて楽しく読んだ。大体、彼が進めてくれるのはストーリー重視で性欲があまり刺激されないものが多いのだが、それはさておいて、上の動画は深夜アニメなだけのことはある。
しかし、衣装や腰の動きは半ばリオのカーニバルじゃなかろうか。未来が舞台だから文化が混交しているのかもしれないが。
Intimate parts in Islam - Wikipedia
で、実際イスラームにおけるへそ出しファッションってどのくらいのタブーに当たるのか?
上記記事によれば、身体のどの部分を覆うべきかについては大きな差があるようだ。主要な見方をまとめると次のようになる。
とはいえ、トルコのようにかなり世俗化しているところもあるし、特に異教徒に対して顔を隠すべきかはかなり差があるようだ。
実際のところ、イスラーム圏でへそ出しダンスって普及しているの? と思っていたので、意外と広まっていたのには驚いた。しかし、あれだけ広い地域に広がっている宗教なのだから、戒律をどのくらい守っているかには地域差があって当然だし、都市と農村では法の運用方法にも差があってもさほど驚くべきではないだろう。悪名高い女子割礼や名誉の殺人にしたところで、イスラーム本来の教えというよりはその土地の部族の慣習が強化された面もあるようだ。海外に行くと善意から両手を合わせた挨拶をしてくれることがあるが、タイ人と日本人を混同するような誤解を、きっと僕らもしていることだろう。
絵を描くという苦労を知らない人が、絵師さんに絵を頼み、炎上してしまうという場面が多く見受けられる。今回はその事について書いていきたい。
私はどちらかと言うと絵を描くオタクだと言う事を前述しておく。私は運動が大嫌いで体育が大嫌い。だけど絵を描く事とゲームをする事は物心ついた時からずっと大好きだったという、生まれながらにしてオタクとして生きていく宿命を背負ったオタクだ。
絵を描かない人からしたら、『絵を描く人は絵を書く事が好きなのだから、気前良く絵を描いてくれれば良いじゃないか!』と思うはずだ。
私はここで、絵を描く事の本質はスポーツと同じ説を提唱していきたい。
例えば運動大好きな少年がいるとしよう。子供の頃から走れば褒められ、ボールを投げれば褒められ、鬼ごっこでは負け無し。その後もスポーツ大好き少年として生きていき、中学に上がってからも勿論運動部に入部する。運動部には運動大好き少年がわんさかいるので、その中じゃ全然自分上手くないやんけ?!という状況が発生する。運動部の練習は朝早いし、つらいことばかりで楽しくないし、周りめちゃうまいし心折れそう!でもやっぱ運動楽しい!上手くなれるように頑張るぞ!となるだろう。
絵も同様なのだ。
子供の頃から丸を描くだけで褒められ、家族を描けばリビングに飾られ、学校でも四六時中絵を描いている。絵描くのほんとに楽しい!その後、高校に入って文明の利器、スマートフォンを手にして、Twitterを始める。するとそこには絵の上手い人がわんさかわんさか!自分の絵を人に見せるのが途端に恥ずかしくなる。でも、やっぱ絵を描くことが好き!つらいし、しんどいけど、何百枚も模写をして手にペンダコ作りながら頑張るぞ!となる。そうして絵描きは画力を身につけていく。
自分が描きたいものを描く落書きは、ラウワンのスポッチャで遊ぶようなもの。気楽だし、背負うものが何も無い。そりゃ楽しい。
人からしっかりお金を頂いて頼まれた絵は、プロのスポーツ選手が本番の試合をする様なもの。相手の期待に沿わなければいけない。勝たなければいけない。プレッシャーがかかる。
スポーツの練習のように、絵師だって模写は苦しいしつらい。(模写をすると画力がグッと向上するので、絵の練習には最適とされている。)
アニメみたいなイラストが得意な人もいれば、絵画を得意とする人もいる。
絵描くのが得意な人に、「君、絵描くの得意だよね〜?私の為に可愛いイラスト描いてよ〜!無償でお願い!」と言う事は、運動が得意な人に、「君、運動得意だよね〜?私、友達に箱根駅伝出た人がいること自慢したいから特に報酬とかはないけど箱根駅伝出てよ〜」と言う事と同義である。誰でも、は?お前なにいってるん?となるはずだ。箱根駅伝は言い過ぎたかもしれないけど、その様な事を言っているのだ。
絵で食べていけているようなプロのイラストレーターに、「無償でイラスト描いてください」
と言うのは、イチローに対して、「近所で草野球の試合あるんだけど、ちょっと出てくれない?」と言っている様なものなのだ。
プロを目指していない、完全趣味で絵を描いている人に対しての依頼も同様だ。流石に例え話を書くのが面倒くさくなってきたので、各自考えてみてほしい。
そして、絵描き側も、もう少し、(あ!この人は絵の事を全く知らないズブの素人なのだ。)と理解した上で、コミュ力0みたいなオタク丸出しの最悪の言い回しで相手を蹴散らした挙句、DMをスクショしてツイートする、見せしめの様な対応をするのではなく、もう少しオブラートに包んだ言い回しで、相手にそれは無理だと言う趣旨の事を伝えられるようになると、双方の理解が進むのではないでしょうか?
(あ!この人は絵の事を全く知らないズブの素人なのだ。)と思う時、大半の方は(あ!この人は救いようの無い運動音痴なのだ。)と思われた経験があると考えられるので、自分と同じ、可哀想な境遇の方がいたらどうするか、想像力を働かせて、相手の気持ちを汲み取るれるようにコミュニケーション力を高めて、楽しいSNSライフを送りたい。
社会は馬鹿ばかりで虚しいし、不幸はこの世からなくなりません。
みんなその場限りのことしか考えていないので、いつまで経っても全体の幸福度は上がらないから、くだらない娯楽で馬鹿を支配するシステムが発達して、オーウェルの小説のようなディストピアまでまっしぐらでしょうね。それがある意味で本当に平等な世界なので。
『水が上から下に落ちるのが当たり前』という表現がありましたが、その通りでこの世界はエントロピーに支配されています。
壊すのは簡単ですが作るのは大変ですし、継続するのはめちゃくちゃ困難でも諦めてだらけるのは秒でできます。
何かを始めるにはエネルギーが必要ですが、そのエネルギーも積み重ねによる貯金や、将来への希望という不確定な報酬を担保にしているので、負の連鎖に陥ればもう手に入りません。
やってもどうせ意味ねえし、どうせ報酬だってたかが知れてるし、昔同じものを手に入れた時は確かに嬉しかったけど、終わってみたら大したことねえなと思えるし、そんなもののためにまた頑張るのなんてアホくせえし…
ちなみにエントロピーは割れたグラスを元に戻すことはしませんが、時折好循環が起きて何もないところからエネルギーを起こすということもあるらしいですよ。まあ負の循環の方が大きいのですぐに掻き消えてしまいますが。
この世って頑張ることを前提としてるくせに、頑張って手に入るものたかが知れてて、しかも頑張んなくても存在することはできるとかいうよくわかんねえバランスなんすよ。
でもそんなの当たり前じゃないですか?
そんな当然のことに虚無を感じてるんですか?
私があなたの文章を読んで思ったのは、フェアな視点が圧倒的に欠けているということです。
建設的な議論を歓迎したいのなら、まず自分の思想の反対意見を全肯定してみてください。
その上で両者の思想を比較検討し、デメリット、メリットを把握した上で最終判断を下してみたらいかがでしょう。それが知性ある人間の行為だと私は思います。
社会は虚しい
→テレビやツイッターの議論を見て、世間のくだらなさを実感しているのなら、そのくだらなさを大前提とした上で、それでも人間はゴミなのか?できることや考えられることはないのか?と思考している人たちにも目を向けるべきです。
一歩引いて世間を見ることができるのなら、世間と自分という構図からも一歩引いてメタ化することもできるはずです。
そういった思考をしている人々は、漫画、絵画、プログラマー、音楽、科学や数学など様々な分野にいますが、一番わかりやすいのは文学だと思います。
あなたは人間をシステマチックに見ているくせに、小さい命にも、弱い立場の人間にも情を寄せていますね。
全ての人間が救われるべきだとか、
命は平等に扱われるべきだとか考えているのでしょうか?
でも周りを見れば人間は愚かで救いようがないし、現実的に真の平等を目指すと全人類思考せずにバーチャル世界で家畜化するしかないのではとか考えて、虚無になっているのでしょうか?
それ単純に考え方がクソ真面目なだけじゃないですか?
もし人間の平等を考えるのだとしたら、人間の不真面目な欲望も尊重するべきです。
戦争は楽しいし、いじめや差別は気持ちがいい。浮気はダメだと分かっているけど魔がさしてやってしまうし、結婚したら幸せが保証されるかもと思いながら三人に一人は離婚している。
でも全部欲望でそういうのも人間に必要です。背反理論であり、片方を全て取っ払うとか無理な話で、それも含めて人間として扱うべきでは?
それでも自分の理想を追うのだとしたら、それは理屈ではなく感情的な判断です。あなたの理屈を否定しきれないように、反対の理屈も否定しきれないので結局は感情に頼るしかありません。感情的な判断を下しているという意味では、あなたから見える世間の人たちと同レベルですね。
私もあなたも結局感情のレベルでしか判断できない豚で糞虫です。
脱線しますが、20世紀にウィリアム・フォークナーというアメリカの作家がいました。
彼は南部アメリカの架空の土地を舞台に、将来に絶望するしかない生まれも育ちも最悪な人間や、恵まれた人間も贔屓目なしに平等に描いてます。
いいことも悪いこともフェアに、淡々と現実を綴った彼は、ノーベル文学賞受賞講演でこう語ったと言います。
「人間は単に生き永らえるのではなく、勝利すると信じます。人間が不滅なのは、人間が生きとし生けるものの中で唯一疲れを知らぬ声を持っているからではなく、人間には魂が、憐れみを感じ、犠牲的精神を発揮し、忍耐することのできる精神があるからなのです。詩人に、作家に課せられた義務は、こうしたことについて書くことなのです。人の心を高めることによって、人間の過去の栄光であった勇気と名誉と希望と誇りと思いやりと憐れみと犠牲的精神を人に思い出させることによって、人が耐えることの手伝いをすることが、作家に与えられた特権なのです。詩人の声は、単に人間を記録したものである必要はありません。それは人間が耐え、勝利を得るための支えの一つ、柱の一つになることができるのです。」
こんな偉大な人物が人間を信じているのですから、大して考えてない行動していない我々が諦めてしまうのは早すぎると思いませんか?
推しゲームがソシャゲ化してから自分の実になる趣味を1年以上疎かにしている
・読書
・お絵かき
・木工細工
更にそのソシャゲ、ロードが長いからそのスキマ時間にユーチューブを嗜むようになってからもっとやばい
2ちゃんねるで有名なスレを漫画家して下手なナレーション付けた動画なんぞに時間を奪われまくっている
木工細工をもう一度やるために良いナイフ新調したがまだダンボールから出していない
1ヶ月前にそのソシャゲにハマるのはコンコルド効果のせいだと言い聞かせ、
つい先日サ終することが決まって今までためてきた材料を消化するためにまた手を出してしまっている
サ終まであと1ヶ月
終わったとしてもユーチューブから与えられるインスタント快感から抜けられそうもない
助けてくれぇ
増田に書いたらなんか憑き物が払われたのか、その日からソシャゲ触らなくなった!!
サ終まで付き合って再スタートしようというアドバイスが大きいと思う
惰性を受け入れる姿勢になると苦しくなくなるんだね
ようつべのくだらない動画時間泥棒だけど、それも観なくなってきた
ユーチューブでその作業動画を見るようになってから劇的に見ることが減った
現代アートみたいなもので、新しいアイディアが毎日編み出されている
再燃したのは増田に書き込んだ直後に、昔描いた作品のつながりから
停滞してた時間を取り戻していきたい!
とにかく本当にありがとう
絵画とかも怖綺麗だったりするよね
フレンチ・カンカン、というかラインダンスとの出会いは、おそらくは文明堂のCMだ。それから「ドレミファソネットどしたらできるの」で有名なso-netのCMだ。なぜかこのCMではおじさんの脚線美を見ることになるのだがそれはさておいて、Youtubeで検索すると今でも天国と地獄に合わせて踊る動画を確認できる。
本題に移ろう。Can-can dressについてはウィキペディアではおおよそこのように述べている。ドレスは基本的に何層にもなった大量のフリルがついていて、当時の下着の上に縫い付けられていた。脚は黒いストッキングや網タイツで覆われていた。つまり、レオタード姿のソネットのCMはフレンチ・カンカンではないのである。足の動きの速さからしてまるで違う。
衣装ではなく、カンカンダンスそのものについては、日本語版のウィキペディアと英語版のウィキペディアで書いてあることが若干違う。おそらく英語から訳したときの版が違うのだろう。
両者の記述を比べてみたが、フレンチ・カンカンにおける見せパンの起源はかなり曖昧らしい。足を思い切り上げてスカートの中が見えてしまう動きは、ショーの場では1820年代にアクロバット的な動きで知られるCharles Mazurierがバレエの大開脚を取り入れたことにさかのぼるようである。初期のダンサーは娼婦やセミプロの役者だけであったのだが、1890年代になるとムーラン・ルージュではトゥールーズ・ロートレックの絵で知られるLa Goulue(食いしん坊さん、的な意味)やJane Avrilなどの高給を取るスターが生まれた。La Goulueのページでは当時の衣装とセットの見せパンが確認できる。これらのスターの生活は華やかだが晩年は不遇であることもあった。この二人もビジネスの失敗や大恐慌で財産を失い、寂しく亡くなっている。
さて、カンカンは足を高く蹴り上げるので、当然スカートの中身が丸見えになる。しかも、それや当時としてはよりスキャンダラスであった。というのも、当時の下着であるpantalettesは衛生上の理由からクロッチ部分が開いていたからである。要するに性器が丸出しになるわけである。もっとも。そのあとにこんな記述がある。カンカンのための特別な下着を用いていたという記録はないが、ムーラン・ルージュでは下着の露出は禁じられていたことになっていた、と。どうもこのあたりの記録は曖昧というか[要出典]をつけたくなる箇所が多い。ウィキペディアは普段は自然科学の記事を読むことが多いが、そこよりも曖昧な記述が多い印象だ。文体もなんだか違う。
ところで、今のフレンチ・カンカンとして知られる、大人数の女性が10分以上高度な振り付けを続けるスタイルは、1920年代にアメリカで人気が出たスタイルを逆輸入したものでそうである。
実際、19世紀末からに20世紀初頭にかけては女性の脚部を見せるということでかなりスキャンダラスなものとしてみられていた。また、陰部を覆う白い生理用(?)下着と黒いストッキングの対照もエロティックだとして見られていた。さらに、体を折り曲げてスカートを後ろからまくり上げ尻を見せる動作もあったという。先述のLa Goulueはこの芸で知られていたとのこと。また、前の席の客の帽子を蹴り飛ばすほど近づいて、スカートの中身を見せることもあった。もっとも、顔を思い切り蹴られる危険もあったのだが。
結論から言うと、当時のフランスに見せパンそのものであったかどうかはわからないが、パンツが見えることは覚悟の上だった、ということになりそうだ。女性器が見えていたかどうかまでは根拠が怪しい。もっとも、今ほど表現が自由でなかった当時のこと、そんなことを文学や絵画で記録に残せたかどうかは怪しいものだ。ちなみに女性器を堂々と描いて当時の偽善的風潮に反発したクールベの「世界の起源」が1868年、ヌードでスキャンダルを生んだ「草上の昼食」が1863年である。
パリにはいくつも有名なキャバレーがあり、それは近現代の芸術や芸能に多大な影響を与えてきた。たとえば、ムーラン・ルージュで活躍した人物としてFrank SinatraやCharles Aznavourがいる。それらのすべてをここで述べるのは大変なので、地球の歩き方に広告が載っていたと記憶しているものをピックアップして簡単に述べる。子どもの頃、トップレスの女性が旅行ガイドに載っているのを見てドキドキしていたものだ。もっとも、その女性の姿はせいぜい五ミリくらいの大きさしかなかったのだけれども。
学生時代にパリを訪れたときには、そこには寄らなかった。一日中美術館で過ごしてぐったりしていたし、まだ女性経験がなくて図々しくなれなかったからだ。今となってはいい思い出である。
赤い風車で名高いキャバレーで、ここを舞台にした映画は数知れず。トゥールーズ・ロートレックの作品群でも有名。著名なダンサーも多く、全員を紹介するのはとても無理だし、別のキャバレーにも出演していて、キャバレー別に紹介するとややこしくなるので端折る。
ところで、ウィキペディアだけからはヌードがどの程度ショーに盛り込まれていたかはわからないが、1893年の舞踏会に裸の女性がいたことがスキャンダルになったそうである。なんでもヌードモデルが活人画として周囲を歩き回り、裸の女性が深夜にテーブルに立っていたとのこと。一方、英国の劇場のように活人画、すなわち生きた人間で絵画を再現する目的としてならヌードは猥褻ではない、という意識もあったようである。例えば英国では劇場にヌードが現れたとき、当局が1930年代に裸の女性が動くことを禁じた。この禁令をかいくぐるために、モデルたちは活人画のように止まったままとなった(ストリップの記事を参照)。また、戦後日本でも「額縁ショー」と呼ばれるストリップのさきがけのようなものがあった。動かなければ猥褻ではないという謎理論がまかり通っていたのである。当時のGHQが何を意図していたのかはよくわからない。
これまたよくわからないのがゾラの1880年の小説「ナナ」では、ヒロインがヴェリエテ劇場でほぼ全裸を披露して観客を魅了するという場面があるのだが、実際のところどうだったのだろう? 本記事はカンカンについてなので劇場のヌードについては語りつくせないので、今後の課題としておきたい。
1889年開業、1915年に一度焼失するも再興し、ドイツ占領時代にも営業を続けて今に至る。
モネの絵画、「フォリー・ベルジェールのバー」の舞台としても知られる。また、黒人系の女性Josephine Bakerが活躍したキャバレーとしても知られる。バナナ型のスカート以外はほとんど身に着けていないエキゾチックな姿がオリエンタリズムの流行した当時ヒットしたのだが、後にその恰好が人種差別的だとされるようになり、そこからネグリチュード、黒人意識の発展にも寄与した。また、彼女は黒人の人権活動家としても知られている。最近、グーグルが彼女の生涯を記念するドゥードゥルをトップにした。
1869年に開業、1872年に今の名前になる。けばけばしい衣装で知られ、時としてヌードも披露されることで知られる。
映画「ファイアbyルブタン」で有名。セミヌードを含む映画の公式予告がyoutubeに上がっている。身体をやわらかな特殊素材のように扱ったショーは性欲やエロスの向こう側に行ってしまっており、すごいものになっているとしか言えない。リンクを貼ったら怒られそうなので検索してください。もちろん、そこまで独特なものではなく、もっとわかりやすいショーもある。
ユニークなのはそのショーの一部をyoutubeの公式チャンネルで公開していることだろう。かなり古い白黒のものまである。それと、公式ホームページ見ていたら驚いたのだけれども、リド自体には12歳以下の子どもでも入場できるそうである。ヌードやトップレスがないショーならOKなのか、それとも芸術のヌードならOKなのか。フランス映画、年齢制限がないやつでも割と普通におっぱい出てくるし、表現規制の国ごとの温度差を示す実例であるのかもしれない。
1946年開業。1920年代の人工的な砂浜をその前身とする。
「ストリップティーズ」の項目によれば1960年代に全裸のショーが行われた、とある。
現に、創業者であるアラン・ベルナルダンは芸術性を伴った女性のヌードショーを見せるという着想に至ったそうで、要するに最初から全裸である。
とはいえ、ただの全裸ではなく、巧みな照明技術により女性の裸体をキャンバスのようにとらえ、万華鏡のようなカラフルかつシャープな模様をダンサーの肌に映し出していることに特徴がある。ただ脱いだだけではないそうだ。1951年開業。
天国と地獄の曲を初めて聞いたのは文明堂のCMと、音楽ファンタジーゆめでだ。後者はCGの黎明期であったせいかサイケデリックな表現が多く、当時の感覚としても幾分薄気味悪いと同時に、今から振り返ってみると技術の未熟さ(失礼!)から来るアルカイック芸術のような独特の魅力があったように思われる。
ところで、この曲は地獄のオルフェとしても知られている。タイトルからすると、ギリシア神話のオルフェウスが死んだ妻を冥界から取り戻そうするとする話のはずだ。なのに、なんでこんな軽快な曲なのだろうと思って調べたら、ギリシア神話のパロディ的なオペレッタだからだそうだ。なるほど。
こうしたレオタード姿のラインダンスはカンカンではないと述べたが、それではこれはいつからあるのか調べたい。おそらく日本国内では宝塚歌劇団と関係している。また、バーレスク的なものとの関連について知りたく思う。そもそもバーレスクとは何か、僕はよくわかっていない。日本語版のウィキペディアのバーレスクの記事には、乳首と陰部に前貼りを貼っただけの姿でパフォーマンスをする女性の写真がある。リンクは張らないが、鍛えられたきれいな体だなあ、僕も筋トレ頑張らなきゃなあ、とは思う。しかし、欲望はそこまで感じなかった。隙がないのである。
女性向け風俗を利用してなくても盗撮されてる女性たちがたくさんいるんだけども、女性向け風俗利用してて、盗撮されたという人はいない?
目隠しプレイなんてした日には撮られ放題なんだよな
もし日清の社員の目の前でカップヌードルをジョークグッズとして使ったらどうなる?
怒られるよな
たぶんうちの商品をそんな風に使わないでください、とか言うだろう
で、だ
今回のは日清が公式にカップヌードルでシコろうキャンペーンをするようなもんなんだ
「世の中にそういう見方がある」のと「公式がそういう見方を肯定する」のには大きな差があるんだ
たとえば「これを機にタイツがエロアイテムとして認識されるようになってしまったじゃないか! 日用品なのに!」という意見の、「これを機に」の部分とか。「これを機に」ではなく、もともとそうだったでしょ、と。
女性の着衣でエロアイテム化を免れ得ないものはない。男性の両脚の間にある妖怪レーダーは(個々人により異なる指向性を持つものの)総じて感度はたいへん優秀なので、どんなものにでも男は欲情するしタイツとて例外ではない。タイツとは厚みが異なるだけのストッキングの中には男の劣情を喚起することに機能を絞ったものすらあるわけで、今までタイツだけが例外だったとする認識はおかしい。セーラー服やハイヒールがそうであるように、みんな性的にまなざされていることは薄々知りつつ着用していたはずである。
タイツにエロさを感じる資質を備えた紳士であれば今回のキャンペーンなどなくともとっくに目覚めていたはずで、今回のキャンペーンによって「お墨付きをいただきましたので性的にまなざし始めます」みたいな男はおそらくいない。そんなことは内心の問題なので、まなざすやつはもうとっくにまなざしていたはずなのだ。アツギが種を撒いたことにはならない。
つまり、今回のキャンペーンを契機にタイツに対して“新たに”注がれることになった性的まなざしは(考慮が必要なほどには)増えてはおらず、強いて言えば「タイツ絵」という絵画表現の魅力に目覚めてしまう人はいたかもしれないが、そのことが今後「じろじろ見られる」「タイツ着用者の性犯罪被害が増える」などといったかたちで実社会に直接的な影響を及ぼしていくとはちょっと考えにくい。
https://anond.hatelabo.jp/20201107053636
今となってはあれを「タイツ屋のキャンペーンとして適切だった」と考えている人は少ないと思うし、元増田もセーフとは言っておらず批判するなら理論武装したほうがいいよと言っているに過ぎない。
それなのに「そんなことをしてやる義理はない」「理路など必要ない、ひとりひとりの言葉にできない不快感と向き合え」といった感じのブコメが散見されて暗澹たる気持ちだった。そういう人たちは「不快な気持ちにさせて申し訳ありませんでした」という謝罪文が引き出せれば満足なのだろうか? 1件1件の炎上で都度スカッとしたいだけならそれでもいいんだろうけど、そうではないよね。
口々に好き嫌いという気分を述べているだけではただの人気投票であって、そんなもの何万票集まったところで「このキャンペーンはウケなかったな」「フェチは燃えるね」くらいの限定された結果しか導けないでしょう? 一企業の一通の謝罪文止まりで発展性がない。
そうではなく、社会を変えたいならば、つまり女性の社会的地位の向上とか生きづらさの解消とかを本気で目指しているならば、問題をきちんと一般化して「こうしたキャンペーン手法は女性全体にとって、ひいては社会一般にとってマイナスである」というセオリーを確立したほうが効果的(=説得力・影響力がある)だと思いますよ、というアドバイスなんだけど、大きなお世話なんですかね……。
説得力を完全に放棄したこの手の言説をいわゆる「はてフェミ」たちが口にするのをしばしば目にしますが、自分には誠実な態度とは到底思えないんですよね。もっと女性の意見を聞けと言うわりに肝心の対話は拒絶するんだから。たとえばブコメにもすごい境地に行き着いた意見あった。
なぜそんなに偉そうなの?討論するために声を上げた訳ではないのですが。
自分(たち)が上げた声は常にすべて正しくて無検討で聞き入れられるべきだという態度のほうが数万倍偉そうでしょう。せめて話し合いましょうよ。まあこれは極端な例でしたが、「お前は馬鹿なのでわかっていないようだが自分にはわかっている(説明はしないがな!)」というスタンスのコメントはほかにもいくつもありました。
どんな議論でも同じだけど、たくさんの意見の中には問題の核心に迫るものから取るに足らぬくだらないものまで色々あって、種々雑多、玉石混交。その中からノイズをより分けてポイントを整理して論点を明確化していくのは不可欠なプロセスだと思う。そこから全速力で逃げようとするのは「女には理屈が通じない」「論理的な話ができない」っていうジェンダーステレオタイプを自己強化してしまう結果を招きかねない思いますよ。余計なお世話かもしれませんけど。
一例だけど、様々な批判の切り口の中に「タイツをエロアイテム扱いするのはけしからん」というテーマがある。この主張にも数々の派生バリエーションがあるが、その中には検討に値しないものもあると思う。
たとえば「これを機にタイツがエロアイテムとして認識されるようになってしまったじゃないか! 日用品なのに!」という意見の、「これを機に」の部分とか。「これを機に」ではなく、もともとそうだったでしょ、と。
女性の着衣でエロアイテム化を免れ得ないものはない。男性の両脚の間にある妖怪レーダーは(個々人により異なる指向性を持つものの)総じて感度はたいへん優秀なので、どんなものにでも男は欲情するしタイツとて例外ではない。タイツとは厚みが異なるだけのストッキングの中には男の劣情を喚起することに機能を絞ったものすらあるわけで、今までタイツだけが例外だったとする認識はおかしい。セーラー服やハイヒールがそうであるように、みんな性的にまなざされていることは薄々知りつつ着用していたはずである。
タイツにエロさを感じる資質を備えた紳士であれば今回のキャンペーンなどなくともとっくに目覚めていたはずで、今回のキャンペーンによって「お墨付きをいただきましたので性的にまなざし始めます」みたいな男はおそらくいない。そんなことは内心の問題なので、まなざすやつはもうとっくにまなざしていたはずなのだ。アツギが種を撒いたことにはならない。
つまり、今回のキャンペーンを契機にタイツに対して“新たに”注がれることになった性的まなざしは(考慮が必要なほどには)増えてはおらず、強いて言えば「タイツ絵」という絵画表現の魅力に目覚めてしまう人はいたかもしれないが、そのことが今後「じろじろ見られる」「タイツ着用者の性犯罪被害が増える」などといったかたちで実社会に直接的な影響を及ぼしていくとはちょっと考えにくい。
ちょっと身も蓋もないことを書くけど、もともと男性が異性を見るとき、「審美的まなざし」と「性的まなざし」をきちんと切り分けてはいない。「素敵だなあ」と「そそる」の間はグラデージョンというか入り混じっていて、「ここから純粋、ここからスケベ」というきっぱりした線は引かれていないのだ。結果として、女性が審美的な魅力を高めようとすれば多かれ少なかれ性的な魅力も勝手に高まってしまう。これは女性本人が異性の目を惹くことを意図していなくてもそうなる。オシャレとは本質的にそういうものではないだろうか?
議論が深まっ太郎
特に理由はないのだが、最近の通勤時間で「ラーマーヤナ」を読んでいる。特にインドに旅行する予定はないのだが、しいて言えば大学時代の友人二人がインド哲学科出身だったからかもしれない。そういえば、冒頭のムスカの台詞では長母音の場所が間違っている、みたいな話にもなった。
それはさておき、「ラーマーヤナ」である。英雄ラーマが囚われの妻シーターを仲間の助けで救いに行く話で、要するに古代インドのスーパーマリオなわけだが、そこで出てくる美人の形容が興味深い。たとえば「美しく黒ずんだ肌」という表現が出てくる。美白という美意識はやはり時代や地域によっては必ずしも自明ではないのだ。
また、ほっそりした腰つきや豊かな乳房の美しさを表現する箇所もある。
「二つの乳房はそれぞれの先端がむっちりと盛り上がって魅力的で、つやのあるヤシの実のように美しく、最上の宝石の装飾品をつけて輝いている」
この個所を読んで僕は首を傾げた。ここまで乳房の美しさを形容するってことは、シーターは上半身裸だったのか? 実際、インドや東南アジアの神々の像では女性たちは上半身裸だ。以下はエローラの石窟の姿である。
しかし、近現代のインドの叙事詩を描いた絵画では、上半身を普通に覆っている。
シーター姫を攫ったラーヴァナが助けに来たジャータユを返り討ちにする図
それを見て思い出すのは手塚治虫の「ブッダ」だ。正直なところ、みんなおっぱい丸出しで小学生の頃はエッチすぎて読めなった記憶しかないのだけれど、それはさておいて、あれは歴史的に見て正しいのだろうか? それとも、単なる手塚治虫の性的空想だったのだろうか?
そういうわけで僕は「ancient india topless」と検索した。すると、肯定的な証言をするサイトが数多く引っかかった]。特に、英語版ウィキペディアのtoplessの説明がわかりやすかった。
In many parts of northern India before the Muslim conquest of India, women were topless. ……(中略)……Toplessness was the norm for women among several indigenous peoples of South India until the 19th or early 20th century……(以下略)
ムスリム征服以前のインドの多くの地域では、女性は上半身裸であった。……(中略)……上半身裸は19世紀や20世紀初頭の南インドの先住民の女性の間では普通のことであった……(以下略)。
そういうわけで、古代インドの女性はおっぱい丸出しだった。手塚治虫は変態だったかもしれないが、古代のインドの服飾史については、嘘をついていなかった。
また、「古代インド おっぱい」と日本語で検索すると、次のようなツイートが見つかった。
https://twitter.com/tenjikukitan/status/1093099586778853378
古代インドに詳しい方が日本語で情報発信をしてくださると、大変助かる。
よく、東洋を舞台とした作品でブラトップ同然の格好をした女性が出てくることがあり、しばしば批判されるのだが、これは実際には上半身裸だったのを攻めておっぱいだけは隠しておこう、という配慮だったのかもしれない。
実際、いわゆる熱帯地域だけではなく、古代のクレタ島でも乳房は見せていたし、それこそ以前記述したように、日本の海女さんもかつては上半身裸が普通であった。
ところで、英語版のウィキペディアを読んでいたら、気になる記述を見つけた。
The Breast Tax (Mulakkaram or mula-karam in Malayalam) was a tax imposed on the lower caste (Shudra) and untouchable (Dalit) Hindu women by the Kingdom of Tranvancore (in present-day Kerala state of India) if they wanted to cover their breasts in public, until 1924. ……The tax was evaluated by the tax collectors depending on the size of their breasts.
乳房税(ムラカラム)とは、現在の(南インド)ケーララ州で低カースト(シュードラ)と不可触選民(ダリット)に属するヒンドゥー教徒の女性が、公共の場で乳房を覆いたければ支払わなければならなかった税である。……税金を集める役人が女性の乳房の大きさによって額を決めていた。
なんとも非人道的で、正直なところ読んでいてかなりのショックを受けた。身体の大きさを申告・検査しなければならない恥ずかしさ、支払えなかった女性の苦痛、いかほどのものであっただろうか。個人的には野外露出系のポルノは大好きだが、これが強制されたものだとなると不快だ。裸とは恥ずかしいものではなく、人間が生まれながらにして持つ、何物にも束縛されない自由を意味する気持ちのいいものであってほしい。それにこれはフィクションではない。歴史的事実だ。
これについて日本語の資料が見つからないかどうか探したが、幸いにしてナショナルジオグラフィック誌の記事があった。
古代ローマにトイレ税、世界5つのヘンな税 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
乳房税が廃止された経緯もまたショッキングである。ある女性が収税に来た役人に抗議するため、乳房を切り落として見せたことがそのきっかけだ。言葉もない。ローマの公衆便所から税を取り立てたケチで名高いウェスパシアヌス帝が単に合理的でまともに思える。
そのナショナルジオグラフィック誌だが、2018年に同誌は人種差別的であったことを公式に謝罪した。国内の有色人種を無視していたし、外国の文化も過去の姿をやや好奇の念をもって眺めていた。そして、異民族の過去の姿である上半身裸をピックアップしすぎた、と。
とても誠実な姿勢だと思う。確かに異文化への関心は、はじめのうちは興味本位や小ネタから始まるかもしれないが、それだけで終わってしまってはもったいないし、現在の姿を誤解したままでは失礼だ。それに、欧米や日本がオリエントの人間を過度にセクシャルに表現してきた歴史があり、それを是正することはまったく正しい。
それは欺瞞だ。伝統的に上半身を見せる文化を改変するのは子どもたちに嘘を教えることになる。乳房を恥としない相手の価値観や服飾文化の破壊ではないか、という意見もあり、それももっともだと思う。とはいえ、今のところ乳房は隠すものがデファクトなグローバルスタンダードになってしまっている。歴史的正確さと表現のふさわしさと、これもまた正解のない問いである。
シーター姫のおっぱいが気になった僕もこの罪とは無縁ではない。今を生きる人々の人格と彼らの先祖の文化や伝統、どうすれば両方に敬意を払えるかを考える日々である。できる限り正確性に努め、通説が誤っていれば訂正をするように心がけているが、それでも異文化への関心が性的な好奇心とは無縁ではないことを意識しないではいられない。
今回は古代インドではトップレスが普通であったことを示した。また、乳房の隠蔽はキリスト教だけではなく、イスラームの影響もあることも明らかになった。
今後は、世界の中で乳房がどのような文脈を持っていたかを調べたい。例えばシチリアの聖アガタも乳房を切断され、かつては形の似ているパンや鐘の職人の守護聖人であったが、いまでは乳がんの守護聖人ともなっている。また、戦時中の日本を含め、多くのプロパガンダでは、乳房は母性の記号として国土の豊かさを意味してきたし、しばしば女性を母としての役割に閉じ込める役割も担ってきた。逆に、女性自身が抗議の意味で露出することもある。私の身体は私のもので、勝手に意味を担わせないで欲しいという奪還の意図もあるのだろう。
加えて、世界各地ではどのような形の乳房が理想とされてきたのか、その変遷もいつかはたどりたい。
実際、「ラーマーヤナ」ではほっそりした体を(乳房の重みで)曲げて、と形容されるターラーという猿の夫人がいる。今も残るインドの彫刻から判断すると、古代インドには細い腰とそれに対する豊かな乳房への明確な好みがあったのではないかと推測される。また、この彫刻の特徴は東南アジアにも受け継がれている。その辺が知りたいのである。
このあたりは西洋の絵画史からたどるのがいいかもしれないが、芸術が個人の自己表現となった時代以降は、画家自身の好みも反映されて難しい。
また、逆にトップレスが世界の標準であった可能性についても検討したい。すなわち、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの広がっていない地域の服飾史について検討し、トップレスでいることの自由がどのように失われていったかについても調査したい。
書いてたら思い出話になってトラバするような話でもなくなったからただ流す。
東京都区部で車がない家庭だった。
両親共働きで、それぞれの職種と地位、高校上がったころに隣県で不動産買って引っ越したことを考えるに、あの増田のいう車両保有数50%を超える世帯年収のレンジにいると思われるが、車を持たなかったのはカネではなく確実に両親の思想だった。
車嫌いとは違うが、自家用車=Not for meな人たちだった。
たしかによくタクシーを使う家庭だった。(昔は今より道を走るタクシーの車両台数も多かったが)
スキーやキャンプ・BBQ、釣りのような遊びは着替えだけ持って行ってコテージに泊まって施設のモノをレンタルするもんだと思って育った。
家にアウトドア道具があるのはよっぽどの頻度で行くご家庭なんだろうなと思っていた。
自転車は小学低学年で買ってもらって練習して、乗れるようにはなったけど、日常使いする用事は結局なく、サイズアウトして買い替えず終わった。(大学生くらいの頃に10年ぶり?に自転車乗ってちゃんと転ばずに前に進んで感動した)
父母は自転車持ってなかった。食料品・日用品の買い物は毎週家の前まで届く生協がメインで、徒歩数分のスーパーで一回に買う量は少ないし重たいものを買うこともなかった。たまに少し離れた所の大型スーパーにバスで行っていた。
幼稚園は家のすぐそばまでバスが迎えに来て、小・中学校は徒歩5分なので子供の送り迎えに両親が自転車という発想もなかった。
習い事は絵画とピアノ、スイミングだった。どれも鞄ひとつ持って歩いて行くかバスだった。
電車が止まるような悪天候の日に遠出した記憶がないのでそのへんはよくわからない。
大人は、最寄り駅A(徒歩5分)か別路線の最寄り駅B(徒歩30分・普段はバスでたまに歩く、夜遅いお出かけ帰りやスーツケースを持って空港に行くときは家族でタクシー使った)までたどり着ければあとは歩いて帰るだけだったから、大雨大雪でもヤレヤレ~って歩いて帰ってきただけだった。
成長した今、結婚して子育てしている間も車と自転車のいらない生活がしたいし、かつそれを実現する場所に住もうとする相手とがいいなーと思っている。別に親が意図した教育だったとは思わないが生育環境の影響は思いっきり受けている。
お金の量は評価の単位なので単位が多くなると細かくなるだけだよ
例えば水100mlに100gの塩を溶かすと 水という国が保障してる価値基準のを全部1mlあたり1gという価値にするわけ
日本の人口1億なら政府発行通貨が1億で価値基準を人間としたら一人1円の評価だね
国有林とか文化財とか都市機能とか治安とかみんな含めて評価したぶん硬貨になるんだね
それで人ひとりが絵画を展示したり食事を出したりものを売ったりするために銀行の信用を得てお金を借りるのね
銀行から一人1円単位の人が30人分の資材や能力を調達するために30円の銀行発行紙幣の通貨貸付をうけるのね 1年で50円にして返すって約束で
すると人ひとりのところに一時的に30倍の価値があることになるんだね それを使って客寄せしてさらにもっといっぱいを数字的に獲得する方法を準備するために
たとえば30円つかって一回に50の売り上げを伸ばす方法を考え付いたらその場で20円の差額を含めた銀行返却分を返すことができるよね
そこまでいかないにしても一回目は25を売り上げて二回目は30の予算を使い切らずに10の運転資金で25稼げるとしたら15は売上がプラスになるよね
2回の生産で原価は元が取れて3回目以降の利益から4回にわけて5の利益を利息の支払いにあてたら6回目以降の営業でどれだけ売り上げを伸ばせば収益が伸びるかってことになるよね
基本的にはこの国が発行してる現価値と銀行が発行してる信用価値でできていて人やモノの移動や使用という時間での変化の対外的なやり取りを仲介してるんだ
いますぐ宿題するから明日テレビみていい?というのは立派な取引交渉で いますぐ2宿題するからあした3テレビみていい?などの数値をそれぞれに公平に価値を評価したものが通過の単位ということだね
それをたくさん分割したからどうなるのかというと
お金をいっぱいすって
20宿題をいまするからあしたの30テレビをみていい?ということになるだけ
すると18宿題で33テレビと交換しますかとか24テレビと交換になりますとかって選択肢がふえてくる
するといままで2宿題ではとられなかった0.1単位が流動性を帯びてくるよね
でもお金の単位が10倍にふえたら国土が10倍とか商品価値とか10倍になるかな
いってみれば親切に牛乳を10倍にうすめて販売してくれるのと同じ もとの濃さには単位的に10倍必要になってくるだけ
10倍の選択肢ができるので たとえば有名牛丼チェーンでたべる300円が3000円のメニューとなると 2950円で食べるちょっとしょぼい(原価はすごい低いが競合に合わせた)メニュー 材料にこだわった品質重視だが相場に無理やり合わせたお値打ち高級3120円とかでてくる
10倍とはいわないけどそれくらいの幅の同業他社が全部にできるみたいなもの 消費選択の幅が10倍にふえると一社あたりの同じ業界内の売り上げは単純に10分の1におちるよね
また10倍種類の選択肢で自由度が増すとおもわれるけど 10倍の詐欺商品が入ってくる隙もできるってことだよね 原価と単価のアンバランスが発生できる余地が10倍になる
この流通を無法で放置すると大変だけどその価値に引き上げても半分以上はよい取引といわれるようになるためにあげるバリューが国の安全性とか保障だよね
公共事業とかで商業とかの基礎値をあげたり価値そのものをつくったり
日本はこれがとてもいいからリスクヘッジ通貨として人気がたかい いきなり円という単位のどっちかが機能停止したり無価値なものにいきなり何億円とかしたりしない安定性が国によって守られてるから
国債っていうその国が個人みたいにその利益を自分で将来国民のみんなにかなえるべき未来というのを担保に出動させるお金を現金として用意するのがいっぱいやりすぎて中身がないけど安全性だけは投資がしっかりいってるから
高級ブランドが10~100分の一の価格で買えるコピーがつくられるラインに他のものがのぼってブランドはさらに上にいくだけ
安ければコピーとか競合の脅威は少ないだろうとおもわれるかもしれないけど コーラとか小さなおもちゃとかキーホルダー商品とかでさえいろんなコストをカットしたメインのバリューに乗っかったものは商売でつかわれてる
業務用で利用にたえうるというのは必要な期間において供給が安定している品質に一定の高さがあるなど複合的な要素が必要なのだけど より短期間に少額でそれゆえに品質を削った商品も出しやすくなるね
だっていままで100円では商売を始められなかった人が1000円になると採算を10倍の単位で考えられるわけだから始めやすくなる
国民のお金の単位を0.1円通貨を発行しますというか量として10倍印刷しまくるかをするとこうなるよね
生活がどうかわってくるかというと 100円のパンを買うとき101円の店とか98円の日とか広告で隣町の店が94円とかそういう選択肢が101.5円とか98.2円とか94.7円になるとかいったイメージ
1000円のパンが962円だから38円もやすこれはお得2個かうと76円だし10個かいだめしに隣町まで車でいこう となると実際380円もお得になる選択がでてくる
38円程度でそこまでするかといわれてもやりかねない人もいるわけで実際激安スーパーで買いだめしてる人の感覚はおなじようなもの 安くないものまで買ってたりするし
移動に対するガソリン代自分の時間交通事故のリスクや配送がプロではないものによるリスク保管の期間と品質劣化と保存にかかるコストを考えたらそれは380円で十分おさまるものなのか
そんなことを考えずに380円という現金がもどってくるからその特典を受け取らなくては得をしなければ損だといって損をする可能性がいまの単位でも充分にあるのにそれが倍増することにはなる
ただ1円の単位からでさえ品質がととのっている通貨で10倍にあがっているなら問題はないしすばらしい
でも実際には日本にある資材のバリュー(政府発行通貨)とその可能性の価値(銀行発行通貨)について今と同じものを10倍にすると上に書いた薄めるだけのことになっちゃう
いまの品質で最低限度がいまの10円の単位にすらとどくというクオリティや発明発見ができたときこれは0.1円単位で切り捨てられるジャパンのバリューがもったいなすぎるとなったとき10倍に刷ったり価値をあげたりしたらいいとおもう
料亭がいつもすててる魚のはしっこ部分が実はめっちゃおいしいし栄養もいっぱいなのでもったいないから商品として出す となるとそれは十分お金がとれるバリューになるのでメニューにふやすべきみたいな
お金する結果にいたるっていうのはいいしそのプロセスに突入はしてほしいけど その新しく刷る枚数分のバリューって何なのかな
あたらしいものがなんにもないのに発行量を倍にするといままでの価値が半分になって価値の基準が倍になるから松竹梅が松竹梅上中下の6段階になるからいままでの松コースを手に入れるのにはコストが倍かかるとか同じ価格でもハズレ品質にあたる可能性が倍になるとかなだけだよね
お金を刷らざるを得ないような単位で割り当てられる日本の価値ってなんだろ 工業製品の品質とかデザインとか人間関係などのサブストーリーがメイドインジャパンってなってたとおもうけどそれがどうでもいいものに落ちたうえに量も種類も消費も減ってお金の濃さをうすめる意味はいまのところはないとおもうのだけれども
フードロスとか外貨について追記するけど、フードロスについてみたときお弁当生産者とかは会計的には生産ラインで生ごみ作ってることになるんだよね
一個500円の弁当100個出荷で20個廃棄になったら2割の空生産で原価つり上げして廃棄の料金分利益を削ってるのと意味的には同じ
2割の売り上げ増でフードロスが消滅するか8割に生産抑制をかけて利益率を上げた場合実質の通貨価値は2割ほど上がっていることになるよね
外国との交換条件でいい数字がだせるようにする約束や品質とか治安の交渉材料でできた為替で外国の商品を買える(外国のお金なので外国で使えるというだけの事)
ので生産が外にあるということ お金の価値を外国がつくってるわけなので自国の生産がゼロでも買い物ができるということでレートのいいときに買いだめしておけばお得だね
自分のところでつかえる商品券を安く買われてしまったらできるだけ高いところで交換してほしいし安く引き取りたいから所持量について交換しあってる国同士では
期待値や予定価値で上げたり下げたりしてその都度交換を激しくしてるよね 外国為替証拠金取引だね
これ交換するだけでお金がもうかる便利しすてむだけどなぜこれを銀行業務がやらないのか得するだけなのにお金もうかるのにって思うけど
外国全体や自国全体のなにかしらの事件事故やニュースで大きくその価値が無期限に変動するリスクを運用としては使えないので一般人にその金銭量について
参加してもらうことでねん出できるお金の供給量を確保しているんだね
来年でる新型機種で売り上げいくらだから利子をこれだけつけた予算を融資してほしいというのは成り立つ賭けだけど
いっぱつきたらドカンとくるのでここはひとつガバッといっといてくださいという事業計画にお金を出すのは危険すぎといことだね
危険すぎなのに自己責任で参加させるFXこわいけどその魅力に群がる日本人の圧倒的数量
その生産を前設定の10割で行えたら8割販売2割廃棄の時点から生産量そのままで実質2割成長となれるね
生産の無駄を減らして流通上商品価値を充分に使い切ってかつ量的に増えていけば成長といえるから消費者の量としての人口も大事
100生産8:2だった頃と比較して100生産100売り上げになると実質120生産と同じ意味だけど貨幣量は100の時のままで大丈夫
↓
通貨の安定性や治安とか商品の品質などについて価値価格の設定が低いところと取引につよくなる(円高:\100→\95)
↓
いまの日本 人数が100→80に減ったし消費はそれぞれ1:1だったのは変わらないので実質規模的に80→単位自体の範囲が狭まっているので1:1換算すると2割の増(逆バブル
↓
経済は衰退していないしむしろ成長しているように見える(縮退して質量が増してる惑星みたいに)からといって円高いいね国民の生活は国民まかせに自由競争
↓
してると高くて買えない商品のバリューはじつは買う人が物理的に人数がいなかっただけ食品の自給率は供給過多に支えられていただけになり
↓
必要のない商品が山積みで消耗品を買い渋る少ない国民が国自体を切り売りしながら老後を過ごすことに
(土地とか日本のモノとか時間とか権利とかを売って外貨と交換して通貨がすっかり外国のものと入れ替わるまで消耗品を買いつなぐ
↓
とりたい政策
①お金を刷る:いまの80が800になったところで消費する手段が倍増するだけ
②生産を80→100に上げる(どうやって?:つくった増2割の消費はどこへ)軍備はかならず消費されたり消耗したりする(闇)があるからいいね
③80になった20の減である人をふやす(少子化対策:外国人受け入れ)まず消費を増やさないと生産も供給もふえないし増やしても意味ないのでまず日本人が増えることがなにより大事かと
もうなりふり構わず③のカップル推奨恋愛賛成で口数ふやそう消費が確実に増加するために雇用を優遇しようというのを治安と品質を維持したまま増加させないと
①も②もいままでどおりの日本って感じではいられなくなりそうな気がする
ちなみに国を耕したり高速道路をつくったりとかして国の資本を増加させるための発注を増やして雇用の面積だけ増やしてゼネコンに核家族をぶちこむ政策をとると
120生産して8:2の96:24だとすると売り上げは80→96の2割増にみえるけどロスも20→24に2割ふえてる 生産と廃棄に配分する数値の量がふえるのでお金を刷らないといけない
↓
お金の量は増えるが生産量も品質も変わらず生産と廃棄の規模が増加しただけ(バブル
↓
通貨の安定性や治安とか商品の品質などについて価値価格の設定が低いところと同じようになる(円安:\100→\105)
(高速道路を作ってる<高速道路のある社会:働く人員だけの局所的な消耗地域がある<デスクワーク社会の治安など)
↓