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2020-11-30

ベリーダンスマーニャふんどし

ベリーダンスとの出会い

幼いころに観た、「ドラえもん のび太ドラビアンナイト」には、ぜんまい仕掛けの舞姫が出てくる。しかし、まだ自分はそれに欲情することはなかった。パンツエッチもの認識はあったのに、しずちゃんのへそ出し衣装にも、それどころかオアシスでの全裸水浴にも何の感慨も抱かなかったのである

もう少し大きくなってからとある学習漫画で見たベリーダンスには、なぜかエッチ気持ちになった。確か、アラビアと聞いて半裸の女性が踊っている不埒妄想をしているシーンだったような気がする。性の目覚めとは不思議もので、その時に出会ったものタイミングによって、その後の性癖に多大な影響を与えてしまうし、パンツの向こうにある女性器に興味が出てきたのは、中学生以降になってからだった。

文学ベリーダンス出会ったのはオルハン・パムク2006年ノーベル文学賞作家を読んでいた時だ。結婚式などの場にベリーダンサーを呼ぶべきかどうかについて議論している個所が作中に出てきた。どうやら、ベリーダンスの持っているイメージ社会的意味が、ヨーロッパとはかなり違うのではないかと気づいたのはこの時である

イスラーム圏におけるベリーダンス

今回はかなり日英のウィキペディア記事が充実しているので、そこから抜粋しよう。

そもそもベリーダンスには二種類の社会的コンテクストがある。一つはRaqs BaladiまたはRaqs Shaabiと呼ばれる社交ダンスで、別に露出度の高くない通常のファッションで行われる。保守的地域では男女別に踊るものとされている。もう一つがパフォーマンスとしてのダンサーだが、社会的地位はまだ高くない。想像する通り、イスラームでは禁忌とされる肌の露出を行うからである

衣装はbedlahと呼ばれ、典型的なのはぴったりしたブラトップ、臀部のベルト、そしてロングスカートハーレムパンツの組み合わせでできている。ブラとベルトはビーズスパンコールクリスタルコインビーズ刺繍で飾られている。ベルトはスカートと一体のこともあれば、別々のこともある。

起源

ベリーダンス起源は諸説存在するが、地中海世界中東アフリカ関係があるという証拠が最も多く挙げられている。たとえば、紀元前5世紀のものといわれるエジプトの墓の壁画には、半裸のダンサー達が描かれており、その姿はベリーダンサーが鏡の前で行う柔軟体操姿勢に似ている。ウィキペディアにはこんなことが描かれているが、画像がないのがもどかしい紀元前14世紀のネブアメンの墓には、少女が帯だけを身に着けて裸で踊る姿が描写されているが、紀元前5世紀とは年代が合わない。紀元前13世紀のもので、トップレスのダンサーの姿を描いた陶片も出土している。

健全精神がどうたらという言葉で有名なユウェナリスや、風刺詩人のマルティアリスは、現在スペイン小アジア地方で波打つ動きやカスタネット、太ももを震わせて床に沈み込む所作のある踊りを記録している。

そして、12世紀から13世紀にかけてのペルシアの細密画の中においてもベリーダンス描写が見られ、その歴史の長さを伺わせる、とあるが、これもウィキペディアリンクを貼っていない。やれやれ

ちなみに、アンダルシア地方ロマ人の踊りと融合してできたのがフラメンコだという説がある。

エジプト

エジプトベリーダンス西洋人最初に見た様式とされる。ナポレオンエジプトに侵攻した際、ナポレオン軍は芸人音楽家としてられるガワーズィー族と遭遇した。フランス人たちは重たげな宝石髪型に飾り立てられた踊りに徐々に引き付けられた、という。

現在エジプトベリーダンスの多くはカイロで行われ、その起源ナイトクラブにある。多くのダンサーエジプト映画に出演し、エジプト様式ダンスの発展に寄与した。

プロダンスエジプト人に限られていないが、2004年当局外国人ダンサーパフォーマンをすることを禁止した。現在は解除されてはいるが、排他的雰囲気は残っているようだ。

エジプトでは、ダンサーはbedlahを着用している。また、メッシュで覆われた切り込みの入ったドレスを着ることもある。エジプトには、ダンサーが着用できるものとできないものに関する法律があり、文学作品検閲に関する法律第430号によると、ダンサー乳房や腹部を含む下半身を覆わなければならない。事実衣装については「Raqs sharqi」の項にも詳しいが、1950年代以降、エジプトではベリーダンサーが腹部を露出して公の場でパフォーマンスをすることは違法とされ、ワンピースガウンを着用することが一般的になってきている。

と、書かれているそうだが、一般的には、肌色の薄手のメッシュ生地で腹部を覆うだけで十分である、という記載もある。カイロの多くのダンサーはこの規則無視しているが、この規則はそこまで厳密に施行されておらず、腹を出してパフォーマンスをした場合は単に罰金を科されるだけであるしかし、外国人ベリーダンサー衣装を着て逮捕されるという事件が何度も起きているとのこと。

ブラとスカートを別々に着用する場合は、ベルトはほとんど使用されず、タイトでなめらかなlycra(?)のスカートに直接刺繍が施されている。腹をカバーするために、薄手のストッキングを着用しなければならない。

エジプトダンサー伝統的に素足で踊るが、最近では靴を履いてハイヒールを履くことも多い。また、抑制のきいた正確な動きでも知られている。

トルコ

子孫繁栄を祈る踊りでもあるため、中東各国では結婚式に欠かせないそうだ。なるほどパムクの小説に出てきたのもこれで説明がつく。

トルコベリーダンス衣装は肌を露わにしたものであり、ダンサーたちは腰より高い位置で留められたベルトに脚を完全に露出させるようなスリットの入ったスカートをしばしば身にまとっていた。

多くのトルコ衣装の特徴的な特徴は、V字型または三角形ベルトが含まれており、上端の周りに形を整えたり、輪郭を描いたりすることができる。また、ブラジャーベルトの両方に多くの装飾やビーズフリンジが含まれる。スカートは、しばしばエジプト対応するものよりも充実しており、lycraよりもむしろシフォンベルベットで作られている可能性が高い。

1980年代から90年代にかけては、両足をヒップまで露出させたスカートや、広く開けたブラジャーやはなはだしくはスパンコールのみなど、非常に露出度の高い衣装採用された。何があったのだろう?

今日ダンサーエジプトスタイルを想わせる、淑やかなマーメイドスタイルスカートを穿いている。ダンサーたちはハイヒールプラットフォームシューズ(厚底靴)を履く事でさらに、ターキッシュスタイルである事を強調する。ト

トルコベリーダンスオスマン帝国スルタン宮殿にあるハレムに深いルーツを持ってはいた。しかし、今日トルコベリーダンスは、エジプトシリアレバノンと言った姉妹様式よりも、ロマ民族やローマ人様式により強く影響を受けている。現に、現在トルコダンサーの多くは、ロマ民族にルーツを持つ。トルコ法律は、エジプトのようにダンサーの踊りの様式衣装制限を課さなかった。

レバノン

エジプトトルコ様式中間であると言われる。レバノンダンスは、古典的オリエンタルダンスベースにしながらも、現代的でもある。大きなステップ体幹の後方への傾き、ヒップローテーションのねじれ、大きくて忙しい腕、そして多くのシミー(体自体は動かさず、肩のみを前後に動かす所作)がある。

衣装については、腹部を見せることを禁じる規定存在しないため、bedlahスタイル一般的であるスカートエジプトのものよりも透けている傾向にあり、ダンサー身体がよく見える。ヴェールエジプトと比べて広く用いられ、ハイヒール一般的レバノンダンサーエジプトよりも衣装自由享受している。

イラン

アラビア様式によく似ており、イランではベリーダンスのことをアラブダンスと呼ぶ。

tribal style

その他の伝統的な様式がある。興味深いのは、民族的スタイルのブラに着けられたコイン中近東のものとは限らず、日本や中後のものらしいものが含まれることだ。参考、ブラトップ。乾隆通宝とあるので、18世紀のものだ。当時からそこまで交易網が広がっていたことがありありと浮かぶインド洋交易歴史もっと古いが)。

欧米におけるベリーダンス

ベリーダンスという名称も、https://en.wikipedia.org/wiki/Belly_dance#/media/File:Jean-L%C3%A9on_G%C3%A9r%C3%B4me_011.jpg:title-ジャン=レオンジェロームの絵画]の俗称に由来しているという説がある。この絵画では腹部どころか乳房をあらわにして兵士たちの前で踊っているが、この画家空想を織り込むことで有名だ。たとえば別の有名な蛇使いの絵画]

の後ろにある青い壁と床の組み合わせも、確かどっかの宮殿モスク適当に組み合わせたもので、正確さに欠けている。異国情緒あふれていて魅力的だが、今ではたぶん許されない表現だろう。実際、ベリーダンスからイメージされるものは、元来その地域のものであったものとは異なる。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a9/Jean-L%C3%A9on_G%C3%A9r%C3%B4me_-_Le_charmeur_de_serpents.jpg

普通ベリーダンス衣装としてまず想起されるものは、1930年代エジプトダンサーたちが身にまとい、他の地域へと知れ渡った衣装で、たいていビーズコインがブラの周辺に飾られたブラジャー風のトップスで、腰のベルトにもビーズコインが飾り付けられている。下半身ハーレムパンツストレートタイプスカートサーキュラー・スカートパネル飾りがあしらわれたスカートである

20世紀バーレスク映画産業がこうした幻想を広めたのだが、当のエジプトダンサーたちもまたまたビーズで全面を飾り立てた衣装を身に纏うようになった。映画でも、セクシーな悪役のイメージとも結びつき、胡散臭いものとして見られることも増えてしまった。このイメージ払拭には時間がかかった。

今でもカイロにあるナイトクラブオーナー、バディア・マサブニは西洋人旅行者の期待に添うために露出度の高いドレス採用している。身体輪郭を覆い隠し、ダンスのたびに強調されるのはスカーフやお尻に巻かれたベルトくらいであエジプト民族衣装とは異なるのである

日本ゲーム漫画アニメベリーダンス

マーニャ

https://dic.pixiv.net/a/%E8%B8%8A%E3%82%8A%E5%AD%90%E3%81%AE%E6%9C%8D]

踊り子と聞けば川端康成ではなくこっちを思い出してしまう人は多いだろう。

たぶん、日本ゲームベリーダンス的な幻想を多くの青少年に植え付けたもっとも古いものの例だ。今に至るまで踊り子といえばへそ出しであり、無数の同人誌で多くの人を悶絶させたはずである。ただ、中東ベリーダンス伝統的にはここまで脚を出さない。

ファンタジーの謎の前垂れの起源もこれだろうか?

マギ

【マギ】モルジアナさんの踊り【ぬるぬるな高画質】 - ニコニコ動画

現代漫画オリエント幻想を一番前に出しているのはこの作品だと聞いたのでリンクを張る。読書の傍ら、漫画も読もう読もうと思って全然読めていないのが悔しい。短篇ばっかり読んでいる。

ただし、書かれているのが謝肉祭とのことであり、結婚式の場ではないようだし、伝統的な衣装とは幾分異なる。

翠星のガルガンティア

https://www.nicovideo.jp/watch/sm21377022]

英語版ウィキペディアアニメの中のベリーダンスとして紹介されたのがこの作品だ。鳴子ハナハル作品については、エロ漫画ソムリエの友人から薦められて楽しく読んだ。大体、彼が進めてくれるのはストーリー重視で性欲があまり刺激されないものが多いのだが、それはさておいて、上の動画深夜アニメなだけのことはある。

しかし、衣装や腰の動きは半ばリオのカーニバルじゃなかろうか。未来舞台から文化が混交しているのかもしれないが。

イスラームと親密さ、異性に見せてもいい場所

Intimate parts in Islam - Wikipedia

で、実際イスラームにおけるへそ出しファッションってどのくらいのタブーに当たるのか?

上記記事によれば、身体のどの部分を覆うべきかについては大きな差があるようだ。主要な見方をまとめると次のようになる。

とはいえトルコのようにかなり世俗化しているところもあるし、特に教徒に対して顔を隠すべきかはかなり差があるようだ。

長くなったが、結論

実際のところ、イスラーム圏でへそ出しダンスって普及しているの? と思っていたので、意外と広まっていたのには驚いた。しかし、あれだけ広い地域に広がっている宗教なのだから戒律をどのくらい守っているかには地域差があって当然だし、都市農村では法の運用方法にも差があってもさほど驚くべきではないだろう。悪名高い女子割礼や名誉の殺人にしたところで、イスラーム本来の教えというよりはその土地部族の慣習が強化された面もあるようだ。海外に行くと善意から両手を合わせた挨拶をしてくれることがあるが、タイ人日本人を混同するような誤解を、きっと僕らもしていることだろう。

無償で絵描いてください!DMについて

絵を描くという苦労を知らない人が、絵師さんに絵を頼み、炎上してしまうという場面が多く見受けられる。今回はその事について書いていきたい。

私はどちらかと言うと絵を描くオタクだと言う事を前述しておく。私は運動が大嫌いで体育が大嫌い。だけど絵を描く事とゲームをする事は物心ついた時からずっと大好きだったという、生まれながらにしてオタクとして生きていく宿命を背負ったオタクだ。

絵を描かない人からしたら、『絵を描く人は絵を書く事が好きなのだから、気前良く絵を描いてくれれば良いじゃないか!』と思うはずだ。

私はここで、絵を描く事の本質スポーツと同じ説を提唱していきたい。

例えば運動大好きな少年がいるとしよう。子供の頃から走れば褒められ、ボールを投げれば褒められ、鬼ごっこでは負け無し。その後もスポーツ大好き少年として生きていき、中学に上がってからも勿論運動部に入部する。運動部には運動大好き少年がわんさかいるので、その中じゃ全然自分上手くないやんけ?!という状況が発生する。運動部の練習は朝早いし、つらいことばかりで楽しくないし、周りめちゃうまいし心折れそう!でもやっぱ運動楽しい!上手くなれるように頑張るぞ!となるだろう。

絵も同様なのだ

子供の頃から丸を描くだけで褒められ、家族を描けばリビングに飾られ、学校でも四六時中絵を描いている。絵描くのほんとに楽しい!その後、高校に入って文明の利器、スマートフォンを手にして、Twitterを始める。するとそこには絵の上手い人がわんさかわんさか!自分の絵を人に見せるのが途端に恥ずかしくなる。でも、やっぱ絵を描くことが好き!つらいし、しんどいけど、何百枚も模写をして手にペンダコ作りながら頑張るぞ!となる。そうして絵描き画力を身につけていく。

絵とスポーツは違うようでいて結構似ているのだ。

自分が描きたいものを描く落書きは、ラウワンのスポッチャで遊ぶようなもの。気楽だし、背負うものが何も無い。そりゃ楽しい

からしっかりお金を頂いて頼まれた絵は、プロスポーツ選手が本番の試合をする様なもの相手の期待に沿わなければいけない。勝たなければいけない。プレッシャーがかかる。

スポーツ練習のように、絵師だって模写は苦しいしつらい。(模写をすると画力がグッと向上するので、絵の練習には最適とされている。)

アニメみたいなイラストが得意な人もいれば、絵画を得意とする人もいる。

サッカーが得意な人がいれば、マラソンが得意な人もいるのだ。

絵描くのが得意な人に、「君、絵描くの得意だよね〜?私の為に可愛いイラスト描いてよ〜!無償でお願い!」と言う事は、運動が得意な人に、「君、運動得意だよね〜?私、友達箱根駅伝出た人がいること自慢したいか特に報酬とかはないけど箱根駅伝出てよ〜」と言う事と同義である。誰でも、は?お前なにいってるん?となるはずだ。箱根駅伝は言い過ぎたかもしれないけど、その様な事を言っているのだ。

絵で食べていけているようなプロイラストレーターに、「無償イラスト描いてください」

と言うのは、イチローに対して、「近所で草野球試合あるんだけど、ちょっと出てくれない?」と言っている様なものなのだ

プロを目指していない、完全趣味で絵を描いている人に対しての依頼も同様だ。流石に例え話を書くのが面倒くさくなってきたので、各自考えてみてほしい。

そして、絵描き側も、もう少し、(あ!この人は絵の事を全く知らないズブの素人なのだ。)と理解した上で、コミュ力0みたいなオタク丸出しの最悪の言い回し相手を蹴散らした挙句DMスクショしてツイートする、見せしめの様な対応をするのではなく、もう少しオブラートに包んだ言い回しで、相手にそれは無理だと言う趣旨の事を伝えられるようになると、双方の理解が進むのではないでしょうか?

(あ!この人は絵の事を全く知らないズブの素人なのだ。)と思う時、大半の方は(あ!この人は救いようの無い運動音痴なのだ。)と思われた経験があると考えられるので、自分と同じ、可哀想境遇の方がいたらどうするか、想像力を働かせて、相手気持ちを汲み取るれるようにコミュニケーション力を高めて、楽しいSNSライフを送りたい。

2020-11-26

anond:20201125103034

あなたの言っていることは概ね正しいし、当然の帰結です。

社会馬鹿ばかりで虚しいし、不幸はこの世からなくなりません。

みんなその場限りのことしか考えていないので、いつまで経っても全体の幸福度は上がらないから、くだらない娯楽で馬鹿支配するシステムが発達して、オーウェル小説のようなディストピアまでまっしぐらでしょうね。それがある意味で本当に平等世界なので。

『水が上から下に落ちるのが当たり前』という表現がありましたが、その通りでこの世界エントロピー支配されています

壊すのは簡単ですが作るのは大変ですし、継続するのはめちゃくちゃ困難でも諦めてだらけるのは秒でできます

何かを始めるにはエネルギー必要ですが、そのエネルギーも積み重ねによる貯金や、将来への希望という不確定な報酬担保にしているので、負の連鎖に陥ればもう手に入りません。

やってもどうせ意味ねえし、どうせ報酬だってたかが知れてるし、昔同じものを手に入れた時は確かにしかったけど、終わってみたら大したことねえなと思えるし、そんなもののためにまた頑張るのなんてアホくせえし…

ちなみにエントロピー割れたグラスを元に戻すことはしませんが、時折好循環が起きて何もないところからエネルギーを起こすということもあるらしいですよ。まあ負の循環の方が大きいのですぐに掻き消えてしまますが。

この世って頑張ることを前提としてるくせに、頑張って手に入るものたかが知れてて、しかも頑張んなくても存在することはできるとかいうよくわかんねえバランスなんすよ。

でもそんなの当たり前じゃないですか?

そんな当然のことに虚無を感じてるんですか?

私があなた文章を読んで思ったのは、フェアな視点が圧倒的に欠けているということです。

建設的な議論を歓迎したいのなら、まず自分思想の反対意見を全肯定してみてください。

その上で両者の思想比較検討し、デメリットメリットを把握した上で最終判断を下してみたらいかがでしょう。それが知性ある人間行為だと私は思います

社会は虚しい

テレビツイッター議論を見て、世間のくだらなさを実感しているのなら、そのくだらなさを大前提とした上で、それでも人間ゴミなのか?できることや考えられることはないのか?と思考している人たちにも目を向けるべきです。

一歩引いて世間を見ることができるのなら、世間自分という構図からも一歩引いてメタ化することもできるはずです。

そういった思考をしている人々は、漫画絵画プログラマー音楽科学数学など様々な分野にいますが、一番わかりやすいのは文学だと思います

あなた人間システマチックに見ているくせに、小さい命にも、弱い立場人間にも情を寄せていますね。

全ての人間が救われるべきだとか、

命は平等に扱われるべきだとか考えているのでしょうか?

でも周りを見れば人間は愚かで救いようがないし、現実的に真の平等を目指すと全人類思考せずにバーチャル世界家畜化するしかないのではとか考えて、虚無になっているのでしょうか?

それ単純に考え方がクソ真面目なだけじゃないですか?

もし人間平等を考えるのだとしたら、人間の不真面目な欲望尊重するべきです。

戦争楽しいし、いじめ差別気持ちがいい。浮気ダメだと分かっているけど魔がさしてやってしまうし、結婚したら幸せ保証されるかもと思いながら三人に一人は離婚している。

でも全部欲望でそういうのも人間必要です。背反理論であり、片方を全て取っ払うとか無理な話で、それも含めて人間として扱うべきでは?

それでも自分理想を追うのだとしたら、それは理屈ではなく感情的判断です。あなた理屈否定しきれないように、反対の理屈否定しきれないので結局は感情に頼るしかありません。感情的判断を下しているという意味では、あなたから見える世間の人たちと同レベルですね。

私もあなたも結局感情レベルしか判断できない豚で糞虫です。

脱線しますが、20世紀ウィリアム・フォークナーというアメリカ作家がいました。

彼は南部アメリカ架空土地舞台に、将来に絶望するしかない生まれも育ちも最悪な人間や、恵まれ人間も贔屓目なしに平等に描いてます

いいことも悪いこともフェアに、淡々現実を綴った彼は、ノーベル文学賞受賞講演でこう語ったと言います

人間は単に生き永らえるのではなく、勝利すると信じます人間が不滅なのは人間が生きとし生けるものの中で唯一疲れを知らぬ声を持っているからではなく、人間には魂が、憐れみを感じ、犠牲精神を発揮し、忍耐することのできる精神があるからなのです。詩人に、作家に課せられた義務は、こうしたことについて書くことなのです。人の心を高めることによって、人間過去の栄光であった勇気名誉希望と誇りと思いやりと憐れみ犠牲精神を人に思い出させることによって、人が耐えることの手伝いをすることが、作家に与えられた特権なのです。詩人の声は、単に人間を記録したものである必要はありません。それは人間が耐え、勝利を得るための支えの一つ、柱の一つになることができるのです。」

こんな偉大な人物人間を信じているのですから、大して考えてない行動していない我々が諦めてしまうのは早すぎると思いませんか?

私はもっと肩の力を抜いて、雑に気楽に人間を信じてみたいと思います

時間無駄とわかっているのに(追記あり

推しゲームソシャゲ化してから自分の実になる趣味を1年以上疎かにしている

ソシャゲ自体はその推しゲーム以外やっていない)

読書

お絵かき

・木工細工

同人誌公募執筆

・(最初からダラダラしていたが)資格勉強

 

更にそのソシャゲロードが長いからそのスキマ時間ユーチューブを嗜むようになってからもっとやばい

2ちゃんねるで有名なスレ漫画家して下手なナレーション付けた動画なんぞに時間を奪われまくっている

 

それらに集中力のものを奪われたのか、

読書は一ページ読むだけでギブアップ

お絵かき毎日やっても飽きなかったのに下書きで筆が止まる

木工細工をもう一度やるために良いナイフ新調したがまだダンボールから出していない

公募の締切が今月末なのにプロットも組めていない

 

1ヶ月前にそのソシャゲにハマるのはコンコルド効果のせいだと言い聞かせ、

ガチャ石貯めた状態放置することに成功したが

つい先日サ終することが決まって今までためてきた材料を消化するためにまた手を出してしまっている

サ終まであと1ヶ月

終わったとしてもユーチューブから与えられるインスタント快感から抜けられそうもない

助けてくれぇ

追記

 

増田に書いたらなんか憑き物が払われたのか、その日からソシャゲ触らなくなった!!

サ終まで付き合って再スタートしようというアドバイスが大きいと思う

惰性を受け入れる姿勢になると苦しくなくなるんだね

書き込んですぐに言及してくれた人、ありがとう

 

ようつべのくだらない動画時間泥棒だけど、それも観なくなってきた

最近気になる技術を調べることになって、

ユーチューブでその作業動画を見るようになってから劇的に見ることが減った

 

ちなみにその技術というのが学生ときにやっていた絵画

現代アートみたいなもので、新しいアイディア毎日編み出されている

何年もやっていないか浦島太郎状態

 

再燃したのは増田に書き込んだ直後に、昔描いた作品のつながりから

個展に出さないかと打診が来たか

 

偶然かもしれないけど、正の連鎖が生まれて驚いている

停滞してた時間を取り戻していきたい!

とにかく本当にありがとう

2020-11-25

のんのんびより関連。価値観のアプデ

人類創作歴史のんのんびより誕生させるためにあったんだよ。

のんのんびより のんすとっぷのライバル

のんのんびより過去シリーズ以外の

地球上のアニメアニメ以外のテレビ番組特撮映画(実写・アニメ)・オリジナルビデオ作品

ゲーム小説漫画・ボイスドラマ演劇オペラバレエ・人々の頭に浮かんでは消えていった架空作品たち・絵画のんのんびより系以外の全ての音楽nano.RIPE旭丘分校以外の歴代歌手すべてだよ

2020-11-14

昔の絵画とかの裸婦絵って絶対なんらかのセクハラとかパワハラ的なものがあったと思うんだ

そういう製作秘話って出てこないのが普通だけど

もし出てきたら作品評価が180度変わるだろうしあってもどこかの誰かが握り潰して闇に葬ってるんだろうなと思う

2020-11-13

絵は下手でもいいのか

絵は下手でもいいです、自分世界観好きな人はきっといます技術的なことは二の次でいいのです。

んなわけねーだろバーカ なーんだよそのファンア〜ト 創作 絵画 アニメ 彫刻 なに描いてあるかわかんね〜 首折れてるけど!?首折れてる人フェチですか!?キュビズム模倣ですか!?背景曲がってるけどこの世は曲がってるという意味ですか!?

つまんねー つまんねーやつって大体絵下手だしコンセプトもクソ 見てもどうしょうもねーよ どうせ見るなら上手い絵や立体または映像のほうがいいだろ なにそのへったくそ人間 風景 機械 犬コロ はいはいあーなんか現代アートいね個性的

2020-11-10

フレンチ・カンカンの穴あき見せパントップレスのショー

カンカンとの出会い

フレンチ・カンカン、というかラインダンスとの出会いは、おそらくは文明堂のCMだ。それからドレミファソネットどしたらできるの」で有名なso-netのCMだ。なぜかこのCMではおじさんの脚線美を見ることになるのだがそれはさておいて、Youtube検索すると今でも天国と地獄に合わせて踊る動画確認できる。

カンカン歴史、当時の見せパン

本題に移ろう。Can-can dressについてはウィキペディアではおおよそこのように述べている。ドレス基本的に何層にもなった大量のフリルがついていて、当時の下着の上に縫い付けられていた。脚は黒いストッキングや網タイツで覆われていた。つまりレオタード姿のソネットCMフレンチ・カンカンではないのである。足の動きの速さからしてまるで違う。

衣装ではなく、カンカンダンスのものについては、日本語版ウィキペディア英語版ウィキペディアで書いてあることが若干違う。おそらく英語から訳したときの版が違うのだろう。

両者の記述を比べてみたが、フレンチ・カンカンにおける見せパン起源はかなり曖昧らしい。足を思い切り上げてスカートの中が見えてしまう動きは、ショーの場では1820年代にアクロバット的な動きで知られるCharles Mazurierがバレエの大開脚を取り入れたことにさかのぼるようである。初期のダンサー娼婦セミプロ役者だけであったのだが、1890年代になるとムーラン・ルージュではトゥールーズロートレックの絵で知られるLa Goulue(食いしん坊さん、的な意味)やJane Avrilなどの高給を取るスターが生まれた。La Goulueのページでは当時の衣装とセットの見せパン確認できる。これらのスター生活は華やかだが晩年は不遇であることもあった。この二人もビジネスの失敗や大恐慌財産を失い、寂しく亡くなっている。

さて、カンカンは足を高く蹴り上げるので、当然スカートの中身が丸見えになる。しかも、それや当時としてはよりスキャンダラスであった。というのも、当時の下着であるpantalettesは衛生上の理由からロッチ部分が開いていたからである。要するに性器丸出しになるわけであるもっとも。そのあとにこんな記述がある。カンカンのための特別下着を用いていたという記録はないが、ムーラン・ルージュでは下着露出は禁じられていたことになっていた、と。どうもこのあたりの記録は曖昧というか[要出典]をつけたくなる箇所が多い。ウィキペディア普段自然科学記事を読むことが多いが、そこよりも曖昧記述が多い印象だ。文体もなんだか違う。

ところで、今のフレンチ・カンカンとして知られる、大人数の女性10分以上高度な振り付けを続けるスタイルは、1920年代アメリカで人気が出たスタイル逆輸入したものでそうである

実際、19世紀から20世紀初頭にかけては女性の脚部を見せるということでかなりスキャンダラスものとしてみられていた。また、陰部を覆う白い生理用(?)下着と黒いストッキング対照エロティックだとして見られていた。さらに、体を折り曲げてスカートを後ろからまくり上げ尻を見せる動作もあったという。先述のLa Goulueはこの芸で知られていたとのこと。また、前の席の客の帽子を蹴り飛ばすほど近づいて、スカートの中身を見せることもあった。もっとも、顔を思い切り蹴られる危険もあったのだが。

結論から言うと、当時のフランスに見せパンのものであったかどうかはわからないが、パンツが見えることは覚悟の上だった、ということになりそうだ。女性器が見えていたかどうかまでは根拠が怪しい。もっとも、今ほど表現自由でなかった当時のこと、そんなことを文学絵画で記録に残せたかどうかは怪しいものだ。ちなみに女性器を堂々と描いて当時の偽善的風潮に反発したクールベの「世界起源」が1868年ヌードスキャンダルを生んだ「草上の昼食」が1863年である

著名なキャバレーについて

パリはいくつも有名なキャバレーがあり、それは近現代芸術芸能に多大な影響を与えてきた。たとえば、ムーラン・ルージュ活躍した人物としてFrank SinatraやCharles Aznavourがいる。それらのすべてをここで述べるのは大変なので、地球の歩き方広告が載っていたと記憶しているものピックアップして簡単に述べる。子どもの頃、トップレス女性旅行ガイドに載っているのを見てドキドキしていたものだ。もっとも、その女性の姿はせいぜい五ミリくらいの大きさしかなかったのだけれども。

学生時代パリを訪れたときには、そこには寄らなかった。一日中美術館で過ごしてぐったりしていたし、まだ女性経験がなくて図々しくなれなかったからだ。今となってはいい思い出である

ムーラン・ルージュ

赤い風車で名高いキャバレーで、ここを舞台にした映画は数知れず。トゥールーズロートレック作品群でも有名。著名なダンサーも多く、全員を紹介するのはとても無理だし、別のキャバレーにも出演していて、キャバレー別に紹介するとややこしくなるので端折る。

ところで、ウィキペディアだけからヌードがどの程度ショーに盛り込まれていたかはわからないが、1893年舞踏会に裸の女性いたことがスキャンダルになったそうである。なんでもヌードモデルが活人画として周囲を歩き回り、裸の女性が深夜にテーブルに立っていたとのこと。一方、英国劇場のように活人画、すなわち生きた人間絵画再現する目的としてならヌード猥褻ではない、という意識もあったようである。例えば英国では劇場ヌードが現れたとき当局1930年代に裸の女性が動くことを禁じた。この禁令をかいくぐるために、モデルたちは活人画のように止まったままとなった(ストリップ記事を参照)。また、戦後日本でも「額縁ショー」と呼ばれるストリップのさきがけのようなものがあった。動かなければ猥褻ではないという謎理論がまかり通っていたのである。当時のGHQが何を意図していたのかはよくわからない。

これまたよくわからないのがゾラ1880年小説「ナナ」では、ヒロインがヴェリエテ劇場でほぼ全裸披露して観客を魅了するという場面があるのだが、実際のところどうだったのだろう? 本記事カンカンについてなので劇場ヌードについては語りつくせないので、今後の課題としておきたい。

1889年開業1915年に一度焼失するも再興し、ドイツ占領時代にも営業を続けて今に至る。

フォリー・ベルジェール

モネ絵画「フォリー・ベルジェールのバー」舞台としても知られる。また、黒人系の女性Josephine Baker活躍したキャバレーとしても知られる。バナナ型のスカート以外はほとんど身に着けていないエキゾチックな姿がオリエンタリズム流行した当時ヒットしたのだが、後にその恰好人種差別的だとされるようになり、そこからネグリチュード黒人意識の発展にも寄与した。また、彼女黒人人権活動家としても知られている。最近グーグル彼女の生涯を記念するドゥードゥルトップにした。

1869年開業1872年に今の名前になる。けばけばしい衣装で知られ、時としてヌード披露されることで知られる。

リド

映画「ファイアbyルブタン」で有名。セミヌードを含む映画公式予告がyoutubeに上がっている。身体をやわらかな特殊素材のように扱ったショーは性欲やエロスの向こう側に行ってしまっており、すごいものになっているとしか言えない。リンクを貼ったら怒られそうなので検索してください。もちろん、そこまで独特なものではなく、もっとわかりやすいショーもある。

ユニークなのはそのショーの一部をyoutubeの公式チャンネルで公開していることだろう。かなり古い白黒のものである。それと、公式ホームページ見ていたら驚いたのだけれども、リド自体には12歳以下の子どもでも入場できるそうであるヌードトップレスがないショーならOKなのか、それとも芸術ヌードならOKなのか。フランス映画年齢制限がないやつでも割と普通におっぱい出てくるし、表現規制の国ごとの温度差を示す実例であるのかもしれない。

1946年開業1920年代の人工的な砂浜をその前身とする。

クレイジーホース

ストリップティーズ」の項目によれば1960年代全裸のショーが行われた、とある

現に、創業者であるアランベルナルダン芸術性を伴った女性ヌードショーを見せるという着想に至ったそうで、要するに最初から全裸である

とはいえ、ただの全裸ではなく、巧みな照明技術により女性の裸体をキャンバスのようにとらえ、万華鏡のようなカラフルかつシャープな模様をダンサーの肌に映し出していることに特徴がある。ただ脱いだだけではないそうだ。1951年開業

余談

天国と地獄の曲を初めて聞いたのは文明堂CMと、音楽ファンタジーゆめでだ。後者CG黎明期であったせいかサイケデリック表現が多く、当時の感覚としても幾分薄気味悪いと同時に、今から振り返ってみると技術の未熟さ(失礼!)から来るアルカイック芸術のような独特の魅力があったように思われる。

ところで、この曲は地獄オルフェとしても知られている。タイトルからすると、ギリシア神話オルフェウスが死んだ妻を冥界から取り戻そうするとする話のはずだ。なのに、なんでこんな軽快な曲なのだろうと思って調べたら、ギリシア神話パロディ的なオペレッタからだそうだ。なるほど。

まとめ

今後の展望

こうしたレオタード姿のラインダンスカンカンではないと述べたが、それではこれはいからあるのか調べたい。おそらく日本国内では宝塚歌劇団関係している。また、バーレスク的なものとの関連について知りたく思う。そもそもバーレスクとは何か、僕はよくわかっていない。日本語版ウィキペディアバーレスクの記事には、乳首と陰部に前貼りを貼っただけの姿でパフォーマンスをする女性写真がある。リンクは張らないが、鍛えられたきれいな体だなあ、僕も筋トレ頑張らなきゃなあ、とは思う。しかし、欲望はそこまで感じなかった。隙がないのである

また、劇場において全裸が許容されたのはいからか、それも調べねばならない。

だが、まずはラインダンス調査に移りたく思う。

2020-11-08

女性向け風俗盗撮された人いる?

今って公衆浴場にも公衆トイレにも盗撮カメラが仕掛けられてて

ラブホテルでも絵画に小さな穴を開けてカメラを仕掛けたり

簡単盗撮できて金儲けができる時代

女性向け風俗を利用してなくても盗撮されてる女性たちがたくさんいるんだけども、女性向け風俗利用してて、盗撮されたという人はいない?

目隠しプレイなんてした日には撮られ放題なんだよな

anond:20201107222616

おい増田カップ麺オナニーって知ってるか?

カップヌードルの底に穴を開けてオナホにするんだ

もし日清社員の目の前でカップヌードルジョークグッズとして使ったらどうなる?

怒られるよな

たぶんうちの商品をそんな風に使わないでください、とか言うだろう

イメージ大事にする企業ならそれが普通

で、だ

今回のは日清公式カップヌードルでシコろうキャンペーンをするようなもんなんだ

「世の中にそういう見方がある」のと「公式がそういう見方肯定する」のには大きな差があるんだ

追記

文盲のために書いといてやるが上記の指摘は下記引用への反論

たとえば「これを機にタイツエロアイテムとして認識されるようになってしまったじゃないか! 日用品なのに!」という意見の、「これを機に」の部分とか。「これを機に」ではなく、もともとそうだったでしょ、と。

女性の着衣でエロアイテム化を免れ得ないものはない。男性の両脚の間にある妖怪レーダーは(個々人により異なる指向性を持つものの)総じて感度はたいへん優秀なので、どんなものにでも男は欲情するしタイツとて例外ではない。タイツとは厚みが異なるだけのストッキングの中には男の劣情を喚起することに機能を絞ったものすらあるわけで、今までタイツけが例外だったとする認識おかしい。セーラー服ハイヒールがそうであるように、みんな性的にまなざされていることは薄々知りつつ着用していたはずである

タイツエロさを感じる資質を備えた紳士であれば今回のキャンペーンなどなくともとっくに目覚めていたはずで、今回のキャンペーンによって「お墨付きいただきましたので性的まなざし始めます」みたいな男はおそらくいない。そんなことは内心の問題なので、まなざすやつはもうとっくにまなざしていたはずなのだアツギが種を撒いたことにはならない。

まり、今回のキャンペーンを契機にタイツに対して“新たに”注がれることになった性的まなざしは(考慮必要なほどには)増えてはおらず、強いて言えば「タイツ絵」という絵画表現の魅力に目覚めてしまう人はいたかもしれないが、そのことが今後「じろじろ見られる」「タイツ着用者の性犯罪被害が増える」などといったかたちで実社会に直接的な影響を及ぼしていくとはちょっと考えにくい。

2020-11-07

タイツキャンペーンがほどよくフェティッシュだった問題

https://anond.hatelabo.jp/20201107053636

今となってはあれを「タイツ屋のキャンペーンとして適切だった」と考えている人は少ないと思うし、元増田もセーフとは言っておらず批判するなら理論武装したほうがいいよと言っているに過ぎない。

それなのに「そんなことをしてやる義理はない」「理路など必要ない、ひとりひとりの言葉にできない不快感と向き合え」といった感じのブコメ散見されて暗澹たる気持ちだった。そういう人たちは「不快気持ちにさせて申し訳ありませんでした」という謝罪文が引き出せれば満足なのだろうか? 1件1件の炎上で都度スカッとしたいだけならそれでもいいんだろうけど、そうではないよね。

口々に好き嫌いという気分を述べているだけではただの人気投票であって、そんなもの何万票集まったところで「このキャンペーンはウケなかったな」「フェチ燃えるね」くらいの限定された結果しか導けないでしょう? 一企業の一通の謝罪文まりで発展性がない。

そうではなく、社会を変えたいならば、つまり女性社会的地位の向上とか生きづらさの解消とかを本気で目指しているならば、問題をきちんと一般化して「こうしたキャンペーン手法女性全体にとって、ひいては社会一般にとってマイナスである」というセオリー確立したほうが効果的(=説得力・影響力がある)だと思いますよ、というアドバイスなんだけど、大きなお世話なんですかね……。

説明されなきゃわからないのか」。

説得力を完全に放棄たこの手の言説をいわゆる「はてフェミ」たちが口にするのをしばしば目にしますが、自分には誠実な態度とは到底思えないんですよね。もっと女性意見を聞けと言うわりに肝心の対話は拒絶するんだから。たとえばブコメにもすごい境地に行き着いた意見あった。

なぜそんなに偉そうなの?討論するために声を上げた訳ではないのですが。

自分(たち)が上げた声は常にすべて正しくて無検討で聞き入れられるべきだという態度のほうが数万倍偉そうでしょう。せめて話し合いましょうよ。まあこれは極端な例でしたが、「お前は馬鹿なのでわかっていないようだが自分にはわかっている(説明はしないがな!)」というスタンスコメントはほかにもいくつもありました。

どんな議論でも同じだけど、たくさんの意見の中には問題の核心に迫るものから取るに足らぬくだらないものまで色々あって、種々雑多、玉石混交。その中からノイズをより分けてポイントを整理して論点明確化していくのは不可欠なプロセスだと思う。そこから全速力で逃げようとするのは「女には理屈が通じない」「論理的な話ができない」っていうジェンダーステレオタイプ自己強化してしまう結果を招きかねない思いますよ。余計なお世話かもしれませんけど。

一例だけど、様々な批判の切り口の中に「タイツエロアイテム扱いするのはけしからん」というテーマがある。この主張にも数々の派生バリエーションがあるが、その中には検討に値しないものもあると思う。

たとえば「これを機にタイツエロアイテムとして認識されるようになってしまったじゃないか! 日用品なのに!」という意見の、「これを機に」の部分とか。「これを機に」ではなく、もともとそうだったでしょ、と。

女性の着衣でエロアイテム化を免れ得ないものはない。男性の両脚の間にある妖怪レーダーは(個々人により異なる指向性を持つものの)総じて感度はたいへん優秀なので、どんなものにでも男は欲情するしタイツとて例外ではない。タイツとは厚みが異なるだけのストッキングの中には男の劣情を喚起することに機能を絞ったものすらあるわけで、今までタイツけが例外だったとする認識おかしい。セーラー服ハイヒールがそうであるように、みんな性的にまなざされていることは薄々知りつつ着用していたはずである

タイツエロさを感じる資質を備えた紳士であれば今回のキャンペーンなどなくともとっくに目覚めていたはずで、今回のキャンペーンによって「お墨付きいただきましたので性的まなざし始めます」みたいな男はおそらくいない。そんなことは内心の問題なので、まなざすやつはもうとっくにまなざしていたはずなのだアツギが種を撒いたことにはならない。

まり、今回のキャンペーンを契機にタイツに対して“新たに”注がれることになった性的まなざしは(考慮必要なほどには)増えてはおらず、強いて言えば「タイツ絵」という絵画表現の魅力に目覚めてしまう人はいたかもしれないが、そのことが今後「じろじろ見られる」「タイツ着用者の性犯罪被害が増える」などといったかたちで実社会に直接的な影響を及ぼしていくとはちょっと考えにくい。

ちょっと身も蓋もないことを書くけど、もともと男性が異性を見るとき、「審美的まなざし」と「性的まなざし」をきちんと切り分けてはいない。「素敵だなあ」と「そそる」の間はグラデージョンというか入り混じっていて、「ここから純粋、ここからスケベ」というきっぱりした線は引かれていないのだ。結果として、女性審美的な魅力を高めようとすれば多かれ少なかれ性的な魅力も勝手に高まってしまう。これは女性本人が異性の目を惹くことを意図していなくてもそうなる。オシャレとは本質的にそういうものではないだろうか?

追記

議論が深まっ太郎

anond:20201107105335

家具・寝具・PCなどを買い替える

趣味のものを買う(俺なら電子ドラムとかロードバイクとか買う)

なんかい時計とか服とか買う

絵画などを買ってみる

 

でも隠し口座から物はまずいのかな。

そうすると高級レストランか高級お取り寄せ食材とか

あとはヘリに乗るとか…?

 

なかなか難しいね

2020-11-05

anond:20201105212803

素人安直な考えだと鑑賞者自身を用いた現代アート(鏡とか影とかプロジェクションとか)は主客同時に体現してるんだろうけど、絵画だと難しそうだよね

2020-11-04

anond:20201104205629

そうだろうか?例えば人物イラスト

少年漫画系」

少女漫画系」

劇画系」

耽美系」

「硬派系」

アメコミ系」

西洋絵画系」

「ポップなイラスト系」

似顔絵系」

萌え系」

10種類にカテゴライズするとして萌え系がスタンダードであるという感じはしないが。

anond:20201104130909

中性の絵画炎上みたいなことはあるけど

パトロン後ろ盾になってて、

それを公然批判することはパトロンとの抗争を意味するよ

タイツ炎上の件で感じたイラストの力

だって人が描いたイラストだよ?

それなのに皆こんな大騒ぎしてる。

イラストの力凄い。

あの人のタイツイラストめっちゃ良かったので画集ポチッしまった。

中世?とかの絵師の人が絵画発表した時も炎上したりしたのかな。

2020-11-03

anond:20201103234103

西洋エロ絵画健全芸術として取ること自体歪んでる。

リアルタイムを正しく把握していないからだよ。

そういう意味では、今回のタイツイラストエロ絵画も同質だな。

2020-11-02

anond:20201102223552

何も知らんチンピラ無料でオマエの素ん晴らしい絵画ワールドを見せつけるからやぞ?

手塚治虫ブッダ」とおっぱい20世紀おっぱい

ラーマヤーナ」ではインドラの火とも伝えているがね

特に理由はないのだが、最近通勤時間で「ラーマーヤナ」を読んでいる。特にインド旅行する予定はないのだが、しいて言えば大学時代の友人二人がインド哲学科出身だったからかもしれない。そういえば、冒頭のムスカ台詞では長母音場所が間違っている、みたいな話にもなった。

それはさておき、「ラーマーヤナ」である英雄ラーマが囚われの妻シーターを仲間の助けで救いに行く話で、要するに古代インドスーパーマリオなわけだが、そこで出てくる美人形容が興味深い。たとえば「美しく黒ずんだ肌」という表現が出てくる。美白という美意識はやはり時代地域によっては必ずしも自明ではないのだ。

また、ほっそりした腰つきや豊かな乳房の美しさを表現する箇所もある。

「二つの乳房はそれぞれの先端がむっちりと盛り上がって魅力的で、つやのあるヤシの実のように美しく、最上宝石の装飾品をつけて輝いている」

この個所を読んで僕は首を傾げた。ここまで乳房の美しさを形容するってことは、シーターは上半身裸だったのか? 実際、インド東南アジアの神々の像では女性たちは上半身裸だ。以下はエローラの石窟の姿である

女神ガンガー

女神パールヴァティ

しかし、近現代インド叙事詩を描いた絵画では、上半身普通に覆っている。

追放されたシーター姫

シーター姫を攫ったラーヴァナが助けに来たジャータユを返り討ちにする図

それを見て思い出すのは手塚治虫の「ブッダ」だ。正直なところ、みんなおっぱい丸出しで小学生の頃はエッチすぎて読めなった記憶しかないのだけれど、それはさておいて、あれは歴史的に見て正しいのだろうか? それとも、単なる手塚治虫性的空想だったのだろうか?

頼むぞグーグル先生

そういうわけで僕は「ancient india topless」と検索した。すると、肯定的証言をするサイトが数多く引っかかった]。特に英語版ウィキペディアのtoplessの説明がわかりやすかった。

In many parts of northern India before the Muslim conquest of India, women were topless. ……(中略)……Toplessness was the norm for women among several indigenous peoples of South India until the 19th or early 20th century……(以下略

ムスリム征服以前のインドの多くの地域では、女性上半身裸であった。……(中略)……上半身裸は19世紀20世紀初頭の南インド先住民女性の間では普通のことであった……(以下略)。

そういうわけで、古代インド女性おっぱい丸出しだった。手塚治虫変態だったかもしれないが、古代インドの服飾史については、嘘をついていなかった。

また、「古代インド おっぱい」と日本語検索すると、次のようなツイートが見つかった。

https://twitter.com/tenjikukitan/status/1093099586778853378

古代インドに詳しい方が日本語情報発信をしてくださると、大変助かる。

よく、東洋舞台とした作品ブラトップ同然の格好をした女性が出てくることがあり、しばしば批判されるのだが、これは実際には上半身裸だったのを攻めておっぱいだけは隠しておこう、という配慮だったのかもしれない。

実際、いわゆる熱帯地域だけではなく、古代クレタ島でも乳房は見せていたし、それこそ以前記述したように、日本海女さんもかつては上半身裸が普通であった。

おっぱい税、巨乳税、その非人道性

ところで、英語版ウィキペディアを読んでいたら、気になる記述を見つけた。

The Breast Tax (Mulakkaram or mula-karam in Malayalam) was a tax imposed on the lower caste (Shudra) and untouchable (Dalit) Hindu women by the Kingdom of Tranvancore (in present-day Kerala state of India) if they wanted to cover their breasts in public, until 1924. ……The tax was evaluated by the tax collectors depending on the size of their breasts.

乳房税(ムラカラム)とは、現在の(南インド)ケーララ州で低カーストシュードラ)と不可触選民ダリット)に属するヒンドゥー教徒女性が、公共の場乳房を覆いたければ支払わなければならなかった税である。……税金を集める役人女性乳房の大きさによって額を決めていた。

なんとも非人道的で、正直なところ読んでいてかなりのショックを受けた。身体の大きさを申告・検査しなければならない恥ずかしさ、支払えなかった女性苦痛いかほどのものであっただろうか。個人的には野外露出系のポルノは大好きだが、これが強制されたものだとなると不快だ。裸とは恥ずかしいものではなく、人間が生まれながらにして持つ、何物にも束縛されない自由意味する気持ちのいいものであってほしい。それにこれはフィクションではない。歴史的事実だ。

これについて日本語資料が見つからいかどうか探したが、幸いにしてナショナルジオグラフィック誌の記事があった。

古代ローマにトイレ税、世界5つのヘンな税 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト

乳房税が廃止された経緯もまたショッキングである。ある女性が収税に来た役人に抗議するため、乳房を切り落として見せたことがそのきっかけだ。言葉もない。ローマ公衆便所から税を取り立てたケチで名高いウェスパシアヌス帝が単に合理的でまともに思える。

ナショナルジオグラフィック誌の姿勢、僕の姿勢

そのナショナルジオグラフィック誌だが、2018年に同誌は人種差別的であったことを公式謝罪した。国内有色人種無視していたし、外国文化過去の姿をやや好奇の念をもって眺めていた。そして、異民族過去の姿である上半身裸をピックアップしすぎた、と。

とても誠実な姿勢だと思う。確かに異文化への関心は、はじめのうちは興味本位小ネタから始まるかもしれないが、それだけで終わってしまってはもったいないし、現在の姿を誤解したままでは失礼だ。それに、欧米日本オリエント人間を過度にセクシャル表現してきた歴史があり、それを是正することはまったく正しい。

それは欺瞞だ。伝統的に上半身を見せる文化を改変するのは子どもたちに嘘を教えることになる。乳房を恥としない相手価値観や服飾文化破壊ではないか、という意見もあり、それももっともだと思う。とはいえ、今のところ乳房は隠すものデファクトグローバルスタンダードになってしまっている。歴史的正確さと表現のふさわしさと、これもまた正解のない問いである。

シーター姫のおっぱいが気になった僕もこの罪とは無縁ではない。今を生きる人々の人格と彼らの先祖文化伝統、どうすれば両方に敬意を払えるかを考える日々である。できる限り正確性に努め、通説が誤っていれば訂正をするように心がけているが、それでも異文化への関心が性的好奇心とは無縁ではないことを意識しないではいられない。

今後の研究課題

今回は古代インドではトップレス普通であったことを示した。また、乳房隠蔽キリスト教だけではなく、イスラームの影響もあることも明らかになった。

今後は、世界の中で乳房がどのような文脈を持っていたかを調べたい。例えばシチリアの聖アガタ乳房を切断され、かつては形の似ているパンや鐘の職人守護聖人であったが、いまでは乳がん守護聖人ともなっている。また、戦時中日本を含め、多くのプロパガンダでは、乳房母性記号として国土の豊かさを意味してきたし、しばしば女性を母としての役割に閉じ込める役割も担ってきた。逆に、女性自身が抗議の意味露出することもある。私の身体は私のもので、勝手意味を担わせないで欲しいという奪還の意図もあるのだろう。

加えて、世界各地ではどのような形の乳房理想とされてきたのか、その変遷もいつかはたどりたい。

実際、「ラーマーヤナ」ではほっそりした体を(乳房の重みで)曲げて、と形容されるターラーという猿の夫人がいる。今も残るインド彫刻から判断すると、古代インドには細い腰とそれに対する豊かな乳房への明確な好みがあったのではないかと推測される。また、この彫刻の特徴は東南アジアにも受け継がれている。その辺が知りたいのである

このあたりは西洋絵画からたどるのがいいかもしれないが、芸術個人自己表現となった時代以降は、画家自身の好みも反映されて難しい。

また、逆にトップレス世界の標準であった可能性についても検討したい。すなわち、ユダヤ教キリスト教イスラームの広がっていない地域の服飾史について検討し、トップレスでいることの自由がどのように失われていったかについても調査したい。

2020-10-20

数学に「意味」を求める人と絵画に「意味」を求める人は似ている。

東京都区部で車がない家庭だった

書いてたら思い出話になってトラバするような話でもなくなったからただ流す。

東京都区部で車がない家庭だった。

親共働きで、それぞれの職種地位高校上がったころに隣県で不動産買って引っ越したことを考えるに、あの増田のいう車両保有数50%を超える世帯年収レンジにいると思われるが、車を持たなかったのはカネではなく確実に両親の思想だった。

車嫌いとは違うが、自家用車=Not for meな人たちだった。

しかによくタクシーを使う家庭だった。(昔は今より道を走るタクシー車両台数も多かったが)

スキーキャンプBBQ釣りのような遊びは着替えだけ持って行ってコテージに泊まって施設のモノをレンタルするもんだと思って育った。

家にアウトドア道具があるのはよっぽどの頻度で行くご家庭なんだろうなと思っていた。

自転車小学低学年で買ってもらって練習して、乗れるようにはなったけど、日常使いする用事は結局なく、サイズアウトして買い替えず終わった。(大学生くらいの頃に10年ぶり?に自転車乗ってちゃんと転ばずに前に進んで感動した)

父母は自転車持ってなかった。食料品日用品の買い物は毎週家の前まで届く生協がメインで、徒歩数分のスーパーで一回に買う量は少ないし重たいものを買うこともなかった。たまに少し離れた所の大型スーパーバスで行っていた。

幼稚園は家のすぐそばまでバスが迎えに来て、小・中学校は徒歩5分なので子供の送り迎えに両親が自転車という発想もなかった。

習い事絵画ピアノスイミングだった。どれも鞄ひとつ持って歩いて行くかバスだった。

電車が止まるような悪天候の日に遠出した記憶がないのでそのへんはよくわからない。

大人は、最寄り駅A(徒歩5分)か別路線の最寄り駅B(徒歩30分・普段バスでたまに歩く、夜遅いお出かけ帰りやスーツケースを持って空港に行くとき家族タクシー使った)までたどり着ければあとは歩いて帰るだけだったから、大雨大雪でもヤレヤレ~って歩いて帰ってきただけだった。

成長した今、結婚して子育てしている間も車と自転車のいらない生活がしたいし、かつそれを実現する場所に住もうとする相手とがいいなーと思っている。別に親が意図した教育だったとは思わないが生育環境の影響は思いっきり受けている。

2020-10-15

anond:20201014234053

お金の量は評価単位なので単位が多くなると細かくなるだけだよ

例えば水100mlに100gの塩を溶かすと 水という国が保障してる価値基準のを全部1mlあたり1gという価値にするわけ

日本人口1億なら政府発行通貨が1億で価値基準人間としたら一人1円の評価だね

国有林とか文化財とか都市機能とか治安とかみんな含めて評価したぶん硬貨になるんだね

それで人ひとりが絵画を展示したり食事を出したりものを売ったりするために銀行の信用を得てお金を借りるのね

銀行から一人1円単位の人が30人分の資材や能力調達するために30円銀行発行紙幣通貨貸付をうけるのね 1年で50円にして返すって約束

すると人ひとりのところに一時的に30倍の価値があることになるんだね それを使って客寄せしてさらもっといっぱいを数字的に獲得する方法を準備するために

たとえば30円つかって一回に50の売り上げを伸ばす方法を考え付いたらその場で20円の差額を含めた銀行返却分を返すことができるよね

そこまでいかないにしても一回目は25を売り上げて二回目は30の予算を使い切らずに10運転資金で25稼げるとしたら15は売上がプラスになるよね

2回の生産で原価は元が取れて3回目以降の利益から4回にわけて5の利益を利息の支払いにあてたら6回目以降の営業でどれだけ売り上げを伸ばせば収益が伸びるかってことになるよね

基本的にはこの国が発行してる現価値銀行が発行してる信用価値でできていて人やモノの移動や使用という時間での変化の対外的なやり取りを仲介してるんだ

ます宿題するから明日テレビみていい?というのは立派な取引交渉で いますぐ2宿題するからあした3テレビみていい?などの数値をそれぞれに公平に価値評価したものが通過の単位ということだね

それをたくさん分割したからどうなるのかというと

お金をいっぱいすって

20宿題をいますからあしたの30テレビをみていい?ということになるだけ

すると18宿題で33テレビと交換しますかとか24テレビと交換になりますとかって選択肢がふえてくる

するといままで2宿題ではとられなかった0.1単位流動性を帯びてくるよね

でもお金単位が10倍にふえたら国土が10倍とか商品価値とか10倍になるかな

いってみれば親切に牛乳を10倍にうすめて販売してくれるのと同じ もとの濃さには単位的に10倍必要になってくるだけ

10倍の選択肢ができるので たとえば有名牛丼チェーンでたべる300円が3000円のメニューとなると 2950円で食べるちょっとしょぼい(原価はすごい低いが競合に合わせた)メニュー 材料にこだわった品質重視だが相場に無理やり合わせたお値打ち高級3120円とかでてくる

10倍とはいわないけどそれくらいの幅の同業他社が全部にできるみたいなもの 消費選択の幅が10倍にふえると一社あたりの同じ業界内の売り上げは単純に10分の1におちるよね

また10倍種類の選択肢自由度が増すとおもわれるけど 10倍の詐欺商品が入ってくる隙もできるってことだよね 原価と単価のアンバランスが発生できる余地が10倍になる

この流通を無法で放置すると大変だけどその価値に引き上げても半分以上はよい取引といわれるようになるためにあげるバリューが国の安全性とか保障だよね

公共事業とかで商業とかの基礎値をあげたり価値のものをつくったり

日本はこれがとてもいいかリスクヘッジ通貨として人気がたかい いきなり円という単位のどっちかが機能停止したり無価値ものにいきなり何億円とかしたりしない安定性が国によって守られてるから

国債っていうその国が個人みたいにその利益自分で将来国民のみんなにかなえるべき未来というのを担保に出動させるお金現金として用意するのがいっぱいやりすぎて中身がないけど安全性だけは投資がしっかりいってるから

高級ブランドが10~100分の一の価格で買えるコピーがつくられるラインに他のものがのぼってブランドさらに上にいくだけ

安ければコピーとか競合の脅威は少ないだろうとおもわれるかもしれないけど コーラとか小さなおもちゃとかキーホルダー商品とかでさえいろんなコストカットしたメインのバリューに乗っかったもの商売でつかわれてる

業務用で利用にたえうるというのは必要な期間において供給が安定している品質一定の高さがあるなど複合的な要素が必要なのだけど より短期間に少額でそれゆえに品質を削った商品も出しやすくなるね

だっていままで100円では商売を始められなかった人が1000円になると採算を10倍の単位で考えられるわけだから始めやすくなる

国民お金単位を0.1円通貨を発行しますというか量として10倍印刷しまくるかをするとこうなるよね

生活がどうかわってくるかというと 100円のパンを買うとき101円の店とか98円の日とか広告で隣町の店が94円とかそういう選択肢が101.5円とか98.2円とか94.7円になるとかいったイメージ

1000円のパンが962円だから38円もやすこれはお得2個かうと76円だし10個かいめしに隣町まで車でいこう となると実際380円もお得になる選択がでてくる

38円程度でそこまでするかといわれてもやりかねない人もいるわけで実際激安スーパーで買いだめしてる人の感覚はおなじようなもの 安くないものまで買ってたりするし

移動に対するガソリン自分時間交通事故リスク配送プロではないものによるリスク保管の期間と品質劣化と保存にかかるコストを考えたらそれは380円で十分おさまるものなのか

そんなことを考えずに380円という現金がもどってくるからその特典を受け取らなくては得をしなければ損だといって損をする可能性がいまの単位でも充分にあるのにそれが倍増することにはなる

ただ1円の単位からでさえ品質がととのっている通貨で10倍にあがっているなら問題はないしすばらしい

でも実際には日本にある資材のバリュー(政府発行通貨)とその可能性の価値銀行発行通貨)について今と同じものを10倍にすると上に書いた薄めるだけのことになっちゃ

いまの品質で最低限度がいまの10円の単位にすらとどくというクオリティ発明発見ができたときこれは0.1円単位で切り捨てられるジャパンバリューがもったいなすぎるとなったとき10倍に刷ったり価値をあげたりしたらいいとおもう

料亭がいつもすててる魚のはしっこ部分が実はめっちゃおいしいし栄養もいっぱいなのでもったいないから商品として出す となるとそれは十分お金がとれるバリューになるのでメニューにふやすべきみたいな

お金する結果にいたるっていうのはいいしそのプロセスに突入はしてほしいけど その新しく刷る枚数分のバリューって何なのかな

あたらしいものがなんにもないのに発行量を倍にするといままでの価値が半分になって価値基準が倍になるから松竹梅松竹梅上中下の6段階になるからいままでの松コースを手に入れるのにはコストが倍かかるとか同じ価格でもハズレ品質にあたる可能性が倍になるとかなだけだよね

お金を刷らざるを得ないような単位で割り当てられる日本価値ってなんだろ 工業製品品質とかデザインとか人間関係などのサブストーリーメイドインジャパンってなってたとおもうけどそれがどうでもいいものに落ちたうえに量も種類も消費も減ってお金の濃さをうすめる意味はいまのところはないとおもうのだけれども

フードロスとか外貨について追記するけど、フードロスについてみたとき弁当生産者とかは会計的には生産ライン生ごみ作ってることになるんだよね

一個500円の弁当100個出荷で20個廃棄になったら2割の空生産で原価つり上げして廃棄の料金分利益を削ってるのと意味的には同じ

2割の売り上げ増でフードロスが消滅するか8割に生産抑制をかけて利益率を上げた場合実質の通貨価値は2割ほど上がっていることになるよね

外国との交換条件でいい数字がだせるようにする約束品質とか治安交渉材料でできた為替外国商品を買える(外国お金なので外国で使えるというだけの事)

ので生産が外にあるということ お金価値外国がつくってるわけなので自国生産ゼロでも買い物ができるということでレートのいいときに買いだめしておけばお得だね

自分のところでつかえる商品券を安く買われてしまったらできるだけ高いところで交換してほしいし安く引き取りたいから所持量について交換しあってる国同士では

期待値や予定価値で上げたり下げたりしてその都度交換を激しくしてるよね 外国為替証拠金取引だね

これ交換するだけでお金がもうかる便利しすてむだけどなぜこれを銀行業務がやらないのか得するだけなのにお金もうかるのにって思うけど

外国全体や自国全体のなにかしらの事件事故ニュースで大きくそ価値が無期限に変動するリスク運用としては使えないので一般人にその金銭量について

参加してもらうことでねん出できるお金供給量を確保しているんだね

来年でる新型機種で売り上げいくらから利子をこれだけつけた予算融資してほしいというのは成り立つ賭けだけど

いっぱつきたらドカンとくるのでここはひとつガバッといっといてくださいという事業計画お金を出すのは危険すぎといことだね

危険すぎなのに自己責任で参加させるFXこわいけどその魅力に群がる日本人の圧倒的数量

その生産を前設定の10割で行えたら8割販売2割廃棄の時点から生産そのままで実質2割成長となれるね

生産無駄を減らして流通商品価値を充分に使い切ってかつ量的に増えていけば成長といえるから消費者の量としての人口大事

100生産8:2だった頃と比較して100生産100売り上げになると実質120生産と同じ意味だけど貨幣量は100の時のままで大丈夫

通貨の安定性や治安とか商品品質などについて価値価格の設定が低いところと取引につよくなる(円高:\100→\95)

いまの日本 人数が100→80に減ったし消費はそれぞれ1:1だったのは変わらないので実質規模的に80→単位自体範囲が狭まっているので1:1換算すると2割の増(逆バブル

経済は衰退していないしむしろ成長しているように見える(縮退して質量が増してる惑星みたいに)からといって円高いいね国民生活国民まかせに自由競争

してると高くて買えない商品バリューはじつは買う人が物理的に人数がいなかっただけ食品自給率供給過多に支えられていただけになり

必要のない商品が山積みで消耗品を買い渋る少ない国民が国自体を切り売りしながら老後を過ごすことに

土地とか日本のモノとか時間とか権利とかを売って外貨と交換して通貨がすっかり外国のものと入れ替わるまで消耗品を買いつなぐ

とりたい政策

お金を刷る:いまの80が800になったところで消費する手段が倍増するだけ

生産を80→100に上げる(どうやって?:つくった増2割の消費はどこへ)軍備はかならず消費されたり消耗したりする(闇)があるからいいね

③80になった20の減である人をふやす少子化対策外国人受け入れ)まず消費を増やさないと生産供給もふえないし増やしても意味ないのでまず日本人が増えることがなにより大事かと

もうなりふり構わず③のカップル推奨恋愛賛成で口数ふやそう消費が確実に増加するために雇用優遇しようというのを治安品質を維持したまま増加させないと

①も②もいままでどおりの日本って感じではいられなくなりそうな気がする


ちなみに国を耕したり高速道路をつくったりとかして国の資本を増加させるための発注を増やして雇用の面積だけ増やしてゼネコン核家族をぶちこむ政策をとると

120生産して8:2の96:24だとすると売り上げは80→96の2割増にみえるけどロスも2024に2割ふえてる 生産と廃棄に配分する数値の量がふえるのでお金を刷らないといけない

お金の量は増えるが生産量も品質も変わらず生産と廃棄の規模が増加しただけ(バブル

(地面という範囲の基礎が露骨にアップした事例など

通貨の安定性や治安とか商品品質などについて価値価格の設定が低いところと同じようになる(円安:\100→\105)

高速道路を作ってる<高速道路のある社会:働く人員だけの局所的な消耗地域がある<デスクワーク社会治安など)

必要もの必要なだけゴミは少なくしよう(バブル崩壊

2020-10-14

都会には上野美術館があるけど地方には郷土資料館しかなくて、教育格差だと言うけど

せやろか?と俺は思うんよね

たとえば北海道郷土資料館上野で展示されてる有名な絵画芸術品とは違った魅力、価値があるわけだし、比べられるもんじゃなくね?

だって大学ではフェルメールだのダ・ヴィンチだの有名な芸術研究するのと、北海道郷土資料研究するの、別に身分差とかはないわけじゃん?ダ・ヴィンチは有名だから人文学の中で格上とかないわけじゃん?

都会には上野美術館があるけど地方には郷土資料館くらいしかない、教育格差だというのは民芸とか地方史とかを差別してないか?って思うわけ

2020-10-13

anond:20201013122910

実物で見るのと、ディスプレイを介するのでは明らかに印象が変わる

美術品はとくにそうだと思う

有名な絵画画像いくらでもネットにあるが、それでも現物が見れるなら見たい。

電子書籍選択としてはありだけれど、全てそれにするのは強引すぎる。紙の本はそれだけで、電源も要らずデバイスもなく楽しめるし、ざっと内容を確認するには紙の方がやりやすい。所蔵が限られているものに関しては、一部を電子化してもいいとはおもうけれど

デバイスや、ネット回線の状況に問わず、すべての人が気軽に本に親しめる環境ってのは維持して欲しい

ライブスポーツ中継も、ネット配信してたら、要らないと言ってしまうのか?

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