はてなキーワード: サピエンスとは
我々サピエンスの歴史には少なくとも過去数千年にわたる偉人・有名人に関する膨大な情報の蓄積があり、それは人間ひとりの創作力では質・量ともに到底太刀打ちできないレベルのネタの宝庫である。
しかも権利フリーで無料と来れば、この便利なアセットを利用しない手はないな!
おい、本当にそれでいいのか?
アマチュアならともかく、プロのクリエイターが出来合いの無料アセットを未加工で自作品に登場させるか?
「織田信長です」とか「宮本武蔵です」とか「シモヘイヘです」とか名乗るそのキャラクターたち、RPGツクールで作ったゲーム画面が安っぽいのと同じように、情報として安っぽいぞ。
「いや、名前が同じなだけの別人だし……」
たしかに歴史上の実在人物と同じ名を持つそのキャラクターは、名前以外はまるっきり別人だ。
でもそれならなぜ、新しいキャラクターとして新しい名前を与えてあげないのか?
数学者の岡潔の情緒論をたまたま動画で見たのですが、ところどころ自分と共通する結論に達しているところがあり、なるほどやっぱりなあと頭を何度か頷かせました。
は、やはり情報補完という技術の域をあまり出ない技術だと思いました。岡潔の言う情緒から発生する智よりもそれら技術は抽象度が低いのです。
とは言っても、欧米人が大好きな緻密な論理も、その発展物であるコンピュータも、情緒ないし直感も、相反するようで、内実それら二つの智は地続きで人の頭の中で常に相補相乗して何かしらの筋肉運動へと変換されていますから、これらの捉え方は政治における右翼や左翼といった不毛な論争をするための物差しのようであり、事を知るきっかけみたいなものでもあり、機会と思考の拡張以上でも以下でもない一種の流行的なら認識手法であると割り切って観察すれば何か穏やかな感じがします。
自分は高度な数学どころか高校生くらいの数学も、概念をチラホラと知るくらいで、まともな計算訓練をしたことがないですが、論理をカンストしたと自分で思ったタイミングがあります。論理をカンストするとは、「人間が人間である以上は習熟し得ない、もしくはまったく到達し得ない知の領域までの論理的な到達手法を発見した」というような意味で使っています。もちろん、現実的時間内での到達手法です。もしそうでないなら、無限の時間やエネルギーを想定しさえすれば誰でも簡単に論理をカンストできてしまいます。
その観点から観れば、今この社会の中を生きる多くの大人たちは、車輪の再発明を、時代と共にアップデートされた道具を使って、ちょっと違う色や形や量や時間の使い方でもって何度も再現しているだけのように観えます。これは継承という親から子へ引き継がれていく営みに対する喜びや自己満足の歩みであり、多くの場合その歩みの中に真なる野心などないということがうかがえます。本質的には、一人一人が自分の体と感覚とその時代にある新しい道具を使って先人の追体験をしているだけという場合がほとんどということです。そうした営みに対して尋常ではない対価が与えられるのが欧米人主導で生み出された現代社会です。
しかしこうした継承ないし営みは、ネタは出尽くしているから当然といえば当然であり、例えば元素の数が大きく変わったりしたわけでもなく、物理法則が変わったわけでもなく、人間のもつ感覚器の細胞の数や種類が誤差を超越して変化したわけでもありません。仮にそれらが変化したとしたら多くのこと、もしくは全てゼロからやり直しかもしれません。しかし、今のように先に進まないのであればいっそゼロにすれば良いのではないかとさえ思う時もあります。
中世という名の暗黒の時代を乗り越えた人類は現在、白黒の時代を生きています。この白黒の時代はいつまで続くのでしょうか。
制御を失った先には必ず痛みがあります。我々には身体中のあちこちに痛覚がありますが、この痛覚の上限を超えて与えられた刺激は周辺組織の量的な死と連続して繋がっています。我々は痛覚を頼りにこの死から免れて生き延びてきました。反面、代謝という緩やかな死は快楽でした。
現代社会はますます死の恐怖が増大してきているように思います。欲を与えられ、欲を満たす手段も与えられ、それに付随するように死への恐怖も増大したのです。過剰な欲は、死を過剰に恐ろしく禍々しいものへと変えます。情緒を失った人間とは実に愚かです。
どこか暖かい南の国のビーチでセクシーな水着を着た美女たちに囲まれてパフパフコンテストを開催したいです。一体どの美女が一番パフパフがうまいのでしょうか。
この世界観、設定、気軽さ、これはまさにメタバースです。メタバースなんて言ってますが、元々が人間一人一人の頭の中は小宇宙ですから、メタバース的な世界観の中を我々は生きています。最近だとイスラエルの歴史学者であるハラリさんのサピエンス全史で国家というフィクションへの言及があったようですが、共同幻想論は30年以上も前に日本人が提唱していました。そのルーツは海外かもしれませんが、そんなことは鶏卵問題の彼方でしょう。
いずれにしてもユビキタスをIoTと言ったり、真ん中分け(エロ分けとも言われた)がセンターパートとか言われたり、言葉の額面が時代や状況に合わせて最適化されていきます。不思議なことに呼び方が変わると人が肯定感をもって動き出すという事もあるようで、パフパフ コンテストにも早急に新しい名前が必要です。
普段そんな本読まないけど折角のGWだからユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』を読んだ。
この本を知ったのは中田敦彦のyoutubeチャンネルに投稿されてた書籍解説動画が切っ掛け。
(URL:https://m.youtube.com/watch?v=fud4-L2lnqQ)←一時間で見れるよ。面白いから見よう!
流石に書籍の内容は難しく、読了までに丸5日はかかったけれどその価値はある体験だった。結構難解かつグロテスクな内容なので余裕があるときにおすすめ。
読了後、内容の復習も兼ねて前に見た中田敦彦の書籍解説動画をもう一度視聴した。
俺はあれだけの濃密で膨大な内容を3本1時間の動画にまとめた中田の手腕に感心したし、YOUTUBE大学のファンなのでこのチャンネルやオンラインサロンを否定するつもりではないと予め記しておく。
また今回見たのが上の動画だっただけでこれからする主張は他のチャンネルの動画にも当てはまる。
その上で、解説動画を見ることは読書をすることとは別物、言ってしまえば別格の体験だと感じた。
以下その理由。
なお『サピエンス全史』読んでない人には伝わらないところが多々あると思うがご容赦を。読んでくれ。
中田敦彦の動画も話に出すから見てない人は下に行く前に見てくれると嬉しい。
それでは。
動画内で解説されていた本の内容をものすごく短くまとめると次のようになる。
20万年前に東アフリカで誕生したホモサピエンスは、認知革命で得た「想像上のものを実際にあるかのように扱う」能力を以て他人類を絶滅させ地球の覇権を握った。
その後、得た認知能力を基盤として農業革命と科学革命に至り飛躍的に文明を発展させていった。
しかし発達した文明がもたらした幸福と自由は人間以外の生物の膨大な犠牲の上に成り立っている。
また生化学や工学等の科学の進歩によって人間はいつか人間以上の存在を創り出し、地球の頂点の座を取って変わられるかもしれない。
とこのようになる。
以下は動画内では触れられていなかった内容の一部殴り書き。(再三になるが読んでない人はマジで意味分からないので注意)
・狩猟採集時代のサピエンスが世界に進出することで他生態系に与えた破滅的影響
・食糧の増加とそれに伴って増える食い扶持を満たす農業の無限地獄
・脳の記憶能力を凌駕する膨大な生産物を管理するための記憶媒体、文字。
・認知革命の虚構によって成り立った団結と秩序、そして差別とヒエラルキー。
・”貨幣”という概念のヤバさ(普遍的な転換性と信頼性及び浸透力)
・帝国の拡張と科学の発展によって人類史上初めて築かれた将来への信頼
・国家と市場経済が個人を支配する過程で奪い、与えたもの。時間、地域コミュニティ、人権、職業、想像上のコミュニティ、平和。
・神になった動物が問われる「我々は何を望みたいのか?」
軽く書き連ねるだけでもこれだけの内容が動画の中では触れられていなかった。
繰り返しになるが認知革命を軸としてサピエンス全史をまとめきったこの動画のセンスには脱帽するし、この動画を見ることで俺の中で新しい発見も生まれた。
だがしかし、これは認知革命一本だけでまとめられる程度の内容ではなく、認知革命も一つとして含めた様々な要素が複雑に積み重なった壮大な本なのだ。
”帝国”についての事前の理解がなければ、その後に続く科学×帝国×資本主義の最強コンボの強さが分からない。
狩猟採集時代のサピエンスの生態系破壊を知らなければ、環境破壊は産業革命以後だけの近代の現象と勘違いしてしまう。
中田敦彦はサピエンス全史が読まれない理由として「話が長く、脱線するから」と言っていたがその脱線は後の章への伏線であり、その長さは意味のある長さなのだ。(中田自身はそのことを百も承知だろう、とは思うけど)
膨大な内容を動画に納めようとすると、どうしても内容に影響のある圧縮をしなければならない
だからその動画を見ることは読書にはなりえない。これが理由のひとつ。
どういうことか、俺の読書を例に取る。
まず俺は本を読んでいた5日間の中で50回以上google検索をした。
話についていく上でどうしても必要だった知識もあれば、本筋に関係ないけど興味本位で調べた単語もある。
前者は誰でも分かる平易な言葉に言い換えられていた。後者についてはそもそも出てこなかった。
ヒトラーやキリスト教の話は出てきても古代シュメール人や16世紀オランダの話が動画内になかったのは我々視聴者がそれを聞いてもピンと来ないからだろう。
シュメール人やオランダのことを知らなくても本の粗筋を頭に入れることはできる。
そういった”無駄”を削ぎ落とすことはは”わかりやすさ”への親切な最適化なのだ。
だがそれは同時に新たな知識との出会いの鍵を失うことを忘れてはならない。
だから解説動画を視聴者することは読書したことにはならない。理由のふたつめ。
俺は読書の途中で考えごとに耽ること度々があった。
食糧が増えることで人口が増加したのであれば(マルサスの人口法則というらしい)、食糧含め最低限度の生活が保証されている筈の先進国の少子化は何が原因なのか。教育コストや生活レベルの上昇によって現代人の考える”食い扶持”は昔のそれより遥かに大きくなったのか?
未来は好転するという思い込みが経済の好循環を創るのであれば悲観論が多数を占める日本の今後は?
↑これは悲観論を根拠に悲観論を唱えるマトリョーシカになって面白かった。
↑これを考えて結構自分なりに納得のいく結論が出たのでここに投稿している。
等々、本に関係のあることないこと色々なところに思考が飛んだ。
読破に5日もかかったのは難しかったのもあるが、この考える作業に時間を取られたのも大きい。
先ほど挙げた上2つはググったら同じことを言ってる人がいたし、多分これも探せば既出なのだろう。
というか当たり前のことをアホがドヤ顔でエウレカ!と叫んでいるだけなのかもしれない。恥ずかしくなってきた。
でも思索自体が楽しく脳味噌を鍛えられる体験だったし、その過程で更に洗練された他人の思考に出会うことができた。
何故なら動画は自分の思考が情報を受信することで一杯になってしまうからだ。
本を圧縮した密な情報を、語り部という他人のペースで受け取らなければいけないので脳の処理がそれ以外に使えなくなる。
文字という情報媒体は自分の読む速度に合わせて情報が入るので動画よりも、脳のメモリに余裕ができるのだ。
youtubeにも一時停止機能はあるが、手間で面倒なので考え事をするためにわざわざ動画を止める人は殆どいないのではないだろうか。
第一、書籍よりも情報が少ないのでそれを土台として思考するにも限られてしまう。
話は脱線するが中田のこの動画は「生物学」+「歴史」+「科学」をまとめた本書の外から見た独自性を動画の最初で触れたところが凄いと感じた。これのお陰で内容を理解する下地ができて、話がわかりやすくなっている。
持論になるが解説動画の価値、求められている「わかりやすさ」とは本の内容をいかに単純化するか、ではない。
その本に書かれていない情報を本の中身に追加し、不足を補うことで視聴者の理解の手助けをすることにあると思う。
またyoutubeの動画が視聴者と本の架け橋となるのは素晴らしいことだ。俺自身サピエンス全史を知ったのはこの動画が切っ掛けだ。
だから中田敦彦の動画は最高だ。それは揺るがない。あっちゃんありがとう。
ただコメント欄に動画を見ただけで終わってしまう人がいて、それが俺には物凄く勿体ないことだと感じた。
今回改めて気づいたのは読書という体験の複雑さと楽しさだ。作業ではなく体験として読書にはそこへ時間を注ぐだけの価値がある。
「おすすめの世界史の本教えて」増田だが、思ったより多くの回答をもらえた。ありがとう。
興味ある人が多いのか無言ブクマも多いので、自分のためにも興味のある人のためにも、もらったコメントをまとめてみた。
ノンフィクションを具体的に挙げてる回答のみ。重複するものは載せてない。
フィクションを挙げたり、書名や著者名などの具体名は挙げず、こういう本を読むといいのではという、よいサジェスチョンをくれるトラバやコメントもあった。ありがとう。参考にさせてもらう。だが今回のリストからは省かせてもらった。
●山川出版社『新もういちど読む山川世界史』、世界史Aの教科書
●歴史好きならとりあえず読破しておきたい世界史本100(https://anond.hatelabo.jp/20211101232345)
●山川 詳説世界史図録(山川出版社)、グローバルワイド 最新世界史図表 五訂版(第一学習社)、最新世界史図説タペストリー(帝国書院)
●中世ヨーロッパ: ファクトとフィクション、現代知識チートマニュアル
●「なぜ?」がわかる世界史
●サピエンス全史
●『やんごとなき姫君たちのトイレ』TOTO出版、『コーヒーが廻り世界史が廻る』中公新書
●『クロニック世界全史』、角川世界史辞典。『知識ゼロからのローマ帝国入門』、『 図説世界の歴史』、中公新書の物語歴史シリーズ、佐藤賢一のフランス王朝史『論点・西洋史学』。
●『図解 中世の生活』(新紀元社)、『中世ヨーロッパの農村の生活』(講談社学術文庫)
●「世界史講義録」というサイト(http://timeway.vivian.jp/)
●『中世の秋』
●「世界システム論講義」(川北稔 ちくま学芸文庫)、「テクノロジーの世界経済史」(カール・B・フレイ 日経BP)
●ハプスブルク家12の物語。ハプスブルク家の女たち。「ハプスブルクの時代を歌わせてみた」(動画)
●銃・病原菌・鉄
●河出書房のふくろうの本シリーズ、講談社学術文庫の『近代文化史入門 超英文学講義』
●モンタネッリ。通史なら中公の世界の歴史の中世の巻(旧版押し)
●「文明崩壊」
●歴ログ
●<ゲーム>から始まる<読書・映画リスト>(まとめhttps://anond.hatelabo.jp/20160701063637)
●ビジュアル版 世界史物語、イタリアの歴史 (ケンブリッジ版世界各国史)、イタリア (世界の歴史と文化)
●サピエンス全史
現時点では以上まで。
人類は小規模で、ほぼ自給自足し、互いに敵対する部族で進化してきたので、好意の追跡の必要性を減らし、これまで検討してきた他の人類の富の移転制度を可能にするために、収集品を使用することは、人類の種の期間のほとんどにおいて、物々交換の規模の問題よりもはるかに重要であった。実際、収集品は互恵的利他主義の仕組みを根本的に改善し、他の種にはない方法で人間が協力することを可能にした。他の種では、記憶の信頼性が低いために互恵的利他主義は大きく制限されている。他の種には、大きな脳を持ち、自分で家を建て、道具を作って使うものもいる。しかし、互恵的利他主義の仕組みをこれほどまでに改善した種は他にない。その証拠に、この新しい開発は紀元前4万年には成熟していた。
メンガーはこの最初の貨幣を「中間商品」と呼び、本稿では収集品と呼んでいる。刃物のように他の用途にも使える道具は、収集品としても使える。しかし、富の移転を伴う制度が価値を持つようになると、収集品はその収集性のためだけに製造されるようになる。その性質とは何か。ある商品が価値ある収集品として選ばれるためには、収集品としての価値が低い製品と比較して、少なくとも次のような望ましい性質を持っていなければならない:
1. 偶発的な損失や盗難からより安全であること。歴史上ほとんどの場合、これは持ち運びが可能で隠しやすいことを意味していた。
2. 価値を偽造することが難しい。これらの重要な部分は、以下に説明する理由から、偽造できないほど高価であり、それゆえに価値があると考えられる製品である。
3. この価値は、単純な観察や測定によって、より正確に近似していた。これらの観測は、より信頼性の高い完全性を持ちながら、より低コストであっただろう。
世界中の人間は、これらの特性をよりよく満たすアイテムを集めたいという強い動機を持っている。この動機の中には、おそらく遺伝的に進化した本能が含まれている。このような物は、(特に優れた明確かつ近接した理由ではなく)集めることを純粋に楽しむために集められ、そのような楽しみは人類の文化においてほぼ普遍的である。直近の動機の1つは装飾である。アリゾナ大学の考古学者であるメアリー・C・スタイナー博士によると、"装飾は現代人の採集者の間では普遍的なものである "という。進化心理学者にとって、このように、自然淘汰という観点からの最終的な説明はつくが、快楽以外の近親的な根拠がない行動は、遺伝的に進化した快楽が行動の動機になっているという有力な候補になる。例えば、このエッセイの推論が正しければ、希少品や美術品、特に宝石を集めるという人間の本能がそうである。
(2)については、もう少し説明が必要である。コストが高いという理由で商品を生産することは、一見すると非常に無駄なことのように思える。しかし、永遠にコストのかからない商品は、有益な富の移転を可能にすることで、繰り返し価値を高めていく。取引が可能になったり、コストが低くなったりするたびに、コストはより多く回収される。最初は全くの無駄であったコストは、多くの取引で償却されていく。貴金属の貨幣価値は、この原理に基づいている。また、収集品は、希少性が高いほど、また、その希少性が偽造できないほど、価値が高くなる。また、芸術品のように、証明可能な技術や独自の人間の労働力が製品に加えられている場合にも適用される。
我々は、この3つの要素を兼ね備えた製品を発見したり、作ったりしたことはない。アートや収集品(この言葉は現代文化で使われている意味ではなく、この論文で使われている技術的な意味で)は、(2)を最適化するが、(1)や(3)は最適化しない。一般的なビーズは(1)を満たしているが、(2)や(3)は満たしていない。宝石は、最初は最も美しく、あまり一般的ではない貝殻で作られるが、最終的には多くの文化において貴金属で作られるため、3つの特性をよりよく満たすことができる。偶然ではないが、貴金属の宝飾品は鎖や指輪のような細い形をしていることが多く、無作為に選んだ場所で安価に鑑定することができた。貨幣はさらに改良されたもので、小さな標準的な重さと商標を鑑定の代わりにすることで、貴金属を使った小さな取引のコストを大幅に削減した。貨幣は、収集品の進化のほんの一歩に過ぎない。
旧石器人が作っていたモバイルアート(小さな置物など)も、この特徴によくマッチしている。実際、旧石器人が作ったものの中で、実用性がなく、(1)〜(3)の特徴を備えていないものはほとんどない。
ホモ・サピエンスには、役に立たない、あるいは少なくとも使用されていない火打石の不可解な例がたくさんある。我々はクロヴィス族の使えない火打ち石について述べた。Culiffeは、ヨーロッパの中石器時代に発見された数百個の火打ち石について述べているが、これらの火打ち石は丁寧に作られたものであるが、顕微鏡写真の分析により、切断には使われなかったことが明らかになっている。
フリントは、宝石のような特殊な目的を持った収集品に先立つ、最初の収集品である可能性が高いのである。確かに、最初の火打石のコレクターは、刃物としての実用性を求めて作られたはずだ。富の伝達手段としてのフリントの付加価値は、本稿で紹介する制度を開花させるための偶然の副次的効果であった。このような制度は、特殊な目的の収集品を製造する動機となったであろう。最初は切削工具として実際に使用する必要のないフリントであり、その後、ホモ・サピエンス・サピエンスが開発した他の様々な種類の収集品である。
新石器時代、中近東やヨーロッパの多くの地域では、一部のジュエリーが標準化され、美しさよりも標準的なサイズやアセイ性が重視されるようになった。商業地域では、このような宝石の量が伝統的な宝石の量を大きく上回ることもあった。これは宝飾品と貨幣の中間的な段階であり、収集品の一部が貨幣的な形態をとるようになったのである。紀元前700年頃、リディアンの王たちは前述のようにコインを発行し始めた。標準的な重さの貴金属は、市場で、賃金労働者が、あるいは徴税者が、ランダムに選ばれた場所でコイル状のワイヤーを切断する代わりに、商標、すなわち造幣局のブランドを信頼して「評価」することができるようになったのである。
収集品の属性が、貴金属やコイン、そしてほとんどの非現金通貨を支えてきた準備商品と共通しているのは偶然ではない。本来の貨幣は、これらの特性を、人類の先史時代のほとんど全ての時期に使用されていた収集品よりも純粋な形で実現したものである。
20世紀の新機軸は、政府による不換紙幣の発行である。(「フィアット」とは、それまでの金や銀をベースにした通貨のように、基軸商品に裏付けられていないことを意味する。) 不換紙幣は、交換手段としては一般的に優れているが、価値の保存手段としては非常に劣ることが証明されている。インフレで多くの「たくわえ」が破壊された。前述の収集品に共通する希少品やユニークなアート作品の市場が、前世紀にルネッサンスを迎えたのは偶然ではない。我々の最も進んだハイテク市場の一つであるeBayは、これらの原始的な経済性を持つ物を中心にしている。進化の過程で重要な役割を果たしていた頃に比べて、我々の富に占める収集品の割合が減ったとしても、収集品の市場はかつてないほど大きくなっている。収集品は、我々の本能的な欲求を満たすと同時に、安全な価値の貯蔵庫としての古代の役割を果たしている。
一方的なものも相互的なものも、自発的なものも強制的なものも、多くの種類の富の移転には取引コストがかかる。自発的な取引では、双方が利益を得る。真に無償の贈り物は、通常、親族の利他主義の行為である。このような取引は、何かを作るという物理的な行為と同様に、一方または両方の当事者に価値を生み出す。貢物は勝者の利益になり、損害賠償の判決は被害者の利益になるだけでなく、さらなる暴力を防ぐことができる。遺産相続は、人間が次世代の親族に財産を渡す最初の動物となった。これらの家宝は、商品の取引の担保や代金、飢えをしのぐための食料、あるいは結婚の際の花嫁代金などに使われた。このような移転を行うためのコスト(取引コスト)が十分に低いかどうかは別問題である。このような取引を初めて可能にしたのが、収集品である。
ほとんどの動物が非親族との遅延互恵的な協力関係を築けないという「囚人のジレンマ」を解決するために、収集品は我々の大きな脳と言語を増強したのである。それは、どの人が何をしたかというエラーと、その行為によって生じた価値や損害を評価する際のエラーである。一族(部族のサブセットを形成する、小さくてすぐに地元に帰れる親族グループ、または大家族)の中では、我々の大きな脳はこれらの誤差を最小限に抑えることができたので、世間の評判と強制的な制裁が、相手が将来協力したり欠陥を犯したりする能力によって提供される限定的な動機に取って代わり、遅延した互恵関係の主な執行者となったのである。ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスもホモ・サピエンス・サピエンスも、同じように脳のサイズが大きかったので、地元の一族の全員が、他の地元の一族の全員の好意を把握していた可能性が高い。小さなローカルな親族グループの中では、収集品を取引に使うことは最小限だったかもしれない。部族間では、好意の追跡と収集品の両方が使用された。部族間では、評判に代わって収集品が完全に互恵関係の執行者となったが、暴力は依然として権利の執行に大きな役割を果たしていたし、高い取引コストのためにほとんどの種類の取引ができなかった。
一般的な富の貯蔵と富の移転手段として有用であるためには、収集品は、少なくとも1つの制度に組み込まれ、発見や製造のコストが複数の取引で償却されるような閉ループのサイクルを持つ必要があった。さらに、収集品は、単なる美しい装飾品ではない。身につけられる安心感、隠したり埋めたりするためのコンパクトさ、変えられない高価さなど、一定の機能性を持っていなければならない。そして、その高価さは、現代のコレクターが収集品を鑑定するのと同じように、譲渡を受けた人が確認できるものでなければならなかった。
本稿で示した理論は、これらの文化で交換される「貴重品」にこれらの特徴があるかどうか(あるいはないかどうか)を調べ、これらの貴重品が移動するサイクルから得られる経済的利益を調べ、(現代を含む)さまざまな文化でこれらの特徴を持つ物に対する嗜好を観察することによって、検証することができる。
前例のない協力の技術により、人類は地球上で最も恐ろしい捕食者となっていた。彼らは移り変わる気候に適応したが、一方で、アメリカ、ヨーロッパ、アジアでは、狩猟や気候の変化によって、何十もの大きな群れの獲物が絶滅に追い込まれたのである。現在、地球上のほとんどの大型動物は投射物を恐れているが、これはたった1種の捕食者に適応したものである。また、狩猟よりも採集を中心とした文化も大きな恩恵を受けた。ホモ・サピエンス・サピエンスは、骨が弱くなり、脳の大きさが変わらないにもかかわらず、地球上のより多くの地域に、ネアンデルタール人の10倍以上の人口密度で住むことができた。この増加の多くは、効果的な富の移転と言語によって可能になった社会制度、すなわち貿易、結婚、相続、貢ぎ物、担保、そして復讐のサイクルを弱めるために損害を評価する能力に起因していると考えられる。
原始時代の貨幣は、我々が知っているような現代の貨幣ではなかった。現代のお金の機能の一部を担っていたが、その形は家宝や宝石などの収集品であった。これらの使用は非常に古くから行われており、収集品を探求し、収集し、作り、展示し、鑑定し、大切に保管し、売買するという欲求は人間の普遍的なものであり、ある意味では本能的なものである。このような人間の欲望の集合体を「収集本能」と呼ぶことにする。多くの古代人は、貝や歯などの原材料を探したり、収集品を製造したりすることにかなりの時間を費やしていたし、多くの現代人は、趣味としてこれらの活動にかなりの資源を費やしている。その結果、具体的な実用性とは異なる、初めての確実な価値の具現化、そして今日の貨幣の先駆けとなったのである。
交易の需要と供給が時間的にも場所的にも一致することは稀であり、現在当たり前のように行われている交易や交易に基づく経済制度のほとんどが存在し得ないほどであった。さらに、新しい家族の形成、死、犯罪、戦争の勝敗など、親族集団にとっての重大な出来事と需要と供給が3回も重なることは、もっとあり得ないことであった。後述するように、一族や個人は、これらのイベントの際にタイムリーに富を移転することで大きな利益を得ていた。このような富の移動は、消耗品や他の目的のために作られた道具よりも、より耐久性のある一般的な富の貯蔵庫の移動であれば、より無駄のないものであった。したがって、これらの制度で使用するための耐久性のある一般的な富の貯蔵に対する需要は、貿易そのものよりもさらに切実なものであった。さらに、結婚、相続、紛争解決、貢ぎ物などの制度は、部族間の交易よりも先に行われていた可能性があり、ほとんどの部族では交易よりも大きな富の移動が行われていた。このように、貿易よりもこれらの制度の方が、初期の原始的な貨幣の動機付けと育成に役立ったのである。
ほとんどの狩猟採集民の部族では、この富は、とんでもなく裕福な現代人には些細なものとしか思えないような形でもたらされていた。たとえば、木の道具、火打ち石や骨の道具や武器、紐につけられた貝殻、おそらく小屋、寒い地域では汚れた毛皮などのコレクションである。時にはそれらをすべて身につけていたこともあった。とはいえ、これらの雑多な品々は、我々にとっての不動産や株式、債券と同様に、狩猟採集民にとっての富であった。狩猟採集民にとって、生きていくためには道具や、時には防寒着も必要であった。その中には、飢えに備えたり、仲間を買ったり、戦争や敗戦の際に虐殺や飢えの代わりになるような、価値の高い収集品も多くあった。生き残るための資本を子孫に移すことができるのも、ホモ・サピエンス・サピエンスがそれまでの動物に対して持っていた利点である。さらに、熟練した部族や一族は、余った消耗品を耐久性のある財産(特に収集品)と交換することで、時折ではあるが生涯にわたって累積的に余剰の富を蓄積することができた。一時的な体力の優位性は、子孫のためのより永続的な体力の優位性に変換することができる。
考古学者からは見えない別の富の形として、役職名があった。多くの狩猟採集民の文化では、このような社会的地位は、有形の富よりも価値があった。例えば、一族のリーダー、戦争部隊のリーダー、狩猟部隊のリーダー、(近隣の一族や部族の特定の人物との)長期的な交易パートナーシップのメンバー、助産師、宗教的なヒーラーなどが挙げられる。収集品は富の象徴であるだけでなく、一族の責任ある特権的な地位の称号を表すニーモニックの役割も果たしていた。死後、秩序を維持するためには、そのような地位の継承者を迅速かつ明確に決定する必要があった。それが遅れれば悪質な争いを生むことになる。そのため、一般的な行事として、安置の宴が行われた。この宴では、故人を歓待するとともに、慣習や一族の決定権者、あるいは故人の遺言によって決定された有形・無形の財産が子孫に分配された。
マルセル・モースをはじめとする人類学者が指摘しているように、近代以前の文化では他の種類の無料贈与は非常に稀であった。一見すると無償の贈り物は、実は受け取る側に暗黙の義務を課していたのである。契約法が制定される以前は、この「贈り物」の暗黙の義務と、暗黙の義務が果たされなかった場合に続くコミュニティの不名誉や罰が、おそらく遅延交換における最も一般的な互恵の動機であり、今でも我々がお互いに行う様々な非公式の好意に共通している。相続やその他の親族利他主義は、現代人が「適切な贈与」と呼ぶもの、つまり受取人に義務を課さない贈与の唯一の形として広く行われていた。
初期の西洋の商人や宣教師は、原住民を子供のような原始人と見なし、貢ぎ物の支払いを「ギフト」、取引を「ギフト交換」と呼ぶことがあった。これは、大人の契約や納税の義務というよりも、西洋の子供たちのクリスマスや誕生日のプレゼント交換に似ているかのようである。これは、偏見によるものもあるが、当時の西洋では、義務は原住民が持っていない文字によって形式化されるのが普通だったという事実もある。そのため西洋人は、先住民が交換制度や権利、義務を表す豊富な言葉を「ギフト」と訳していたのである。17世紀にアメリカに入植したフランス人は、より多くのインディアン部族の中に薄く散らばっていたため、これらの部族に貢ぎ物をしていたことがよくあった。それを「贈与」と呼ぶことで、そのような必要性に迫られていない他のヨーロッパ人との面目を保ち、それを臆病だと感じていたのである。
モースや現代の人類学者は、残念ながらこの用語を使い続けている。未開の人間は子供のようなものだが、今では子供のように無邪気で、我々のような卑劣で冷酷な経済取引に身を投じることのない、道徳的に優れた生き物である。しかし、西洋では、特に取引に関する法律で使われる公式用語では、「贈与」とは義務を負わない譲渡のことを指す。現代の人類学者は、我々が現代的に使っている「ギフト」という言葉の中で一般的に言及している無料または非公式のギフトを全く意味していない。現代の人類学者は、現代の我々がよく使う「贈り物」という言葉の中で、自由で非公式な贈り物を指しているのではなく、むしろ、富の移転に関わる多種多様な権利と義務のシステムを指しているのである。先史時代の文化において、現代の「贈与」に似た唯一の主要な取引は、それ自体が広く認識された義務ではなく、受取人に何の義務も課されていないという点で、親や母方の親族が子供の世話をしたり、相続をしたりすることであった。(例外として、地位を相続すると、その地位の責任と特権が相続人に課せられることがあった。)
ある種の家宝の相続は、何世代にもわたって途切れることなく続くかもしれないが、それだけでは収集品の移動の閉ざされたループを形成することはできない。家宝は最終的に何かに使われて初めて価値を持つ。家宝は、しばしば一族間の結婚取引に使われ、収集品の閉ループサイクルを形成していた。
収集品によって可能になった小さな閉ループ取引ネットワークの初期の重要な例は、霊長類に比べて人間が子孫を育てるために行う投資がはるかに大きいことと、それに関連する人間の結婚制度に関するものである。一族の間で取り決められた交配と子育てのための長期的な組み合わせと、富の移転を組み合わせた結婚は、人類の普遍的なものであり、おそらく最初のホモ・サピエンス・サピエンスにまでさかのぼることができる。
親の投資は長期的で、ほとんど一回限りのものであり、繰り返し交流する時間はない。怠慢な父親や浮気をした妻との離婚は、浮気をされた側にとっては、遺伝的適性の観点から、数年分の時間を無駄にすることになるのが普通である。子供への忠誠と献身は、主に義理の家族、つまり一族によって強制された。結婚は一族間の契約であり、その中には通常、このような貞節と献身の約束に加えて、富の移転も含まれていた。
男性と女性が結婚生活にもたらす貢献度が同じであることはほとんどない。結婚相手の選択が氏族によって大きく左右され、氏族のリーダーが選ぶことのできる人口が非常に少なかった時代には、なおさらそうであった。最も一般的には、女性の方が価値があると考えられ、花婿の一族は花嫁の一族に花嫁代金を支払いた。それに比べて非常に珍しいのが、花嫁の一族が新しいカップルに支払う「持参金」である。これは主に中世ヨーロッパやインドの一夫一婦制でありながら格差の大きい社会の上流階級で行われていたもので、最終的には上流階級の娘よりも上流階級の息子の方が繁殖能力がはるかに高いことが動機となっていた。文学は主に上流階級について書かれていたので、ヨーロッパの伝統的な物語では持参金がよく登場する。これは、人類の文化圏における持参金の実際の頻度を反映したものではなく、非常に稀なものであった。
一族間の結婚は、収集品の閉ざされたサイクルを形成する可能性がある。実際、2つの氏族がパートナーを交換しても、花嫁が交互に来る傾向がある限り、閉ループを維持するのに十分である。一方の氏族が他の種類の譲渡によって収集品がより豊かになった場合、その氏族はより多くの息子をより良い花嫁と結婚させるか(一夫一婦制社会の場合)、より多くの花嫁と結婚させるか(多夫一婦制社会の場合)する。結婚だけのループでは、原始的な貨幣は、生殖資源の偏った移転の間に長い期間にわたって一族間の記憶と信頼を必要とすることを置き換える役割を果たすだけである。
相続、訴訟、貢ぎ物のように、結婚にはイベント(この場合は結婚)と需要と供給の3つの一致が必要である。譲渡可能で耐久性のある価値の蓄えがなければ、新郎の一族が新婦の一族の現在の欲求を、新郎新婦間の価値のミスマッチを埋め合わせるのに十分な大きさで、しかも政治的・恋愛的な制約を満足させることができるかどうかは、かなり微妙なところであった。一つの解決策は、新郎またはその一族から新婦の一族への継続的な奉仕の義務を課すことである。これは既知の文化の約15%で行われている。それよりもはるかに多い67%の文化では、新郎または新郎の一族が新婦の一族にかなりの額の富を支払う。この花嫁代金の一部は、結婚の祝宴のために収穫された植物や屠殺された動物など、すぐに使える消費物で支払われる。牧畜社会や農業社会では、花嫁の対価の多くは長期的な富である家畜で支払われる。残りの部分、つまり家畜を持たない文化では通常、最も価値のある部分は、最も希少で高価で耐久性のあるペンダントや指輪などの家宝で支払われる。花婿が花嫁に指輪を贈り、求婚者が乙女に他の種類の宝石を贈るという西洋の習慣は、かつては実質的な富の移転であり、他の多くの文化で一般的であった。約23%の文化(主に現代の文化)では、実質的な富の交換はない。約6%の文化では、新郎新婦の一族間で実質的な富の相互交換が行われている。花嫁の一族が新婚カップルに持参金を支払う文化は約2%しかない。
残念なことに、一部の富の移転は、相続財産の贈与のような利他主義や結婚の喜びとは程遠いものであった。貢ぎ物の場合は全く逆である。
ブルース・ウィンターハルダー(Bruce Winterhalder)は、動物間で食料が移動する方法と理由のモデルを調査している。盗みの許容、生産/嗅ぎ回る/機会主義、リスクを考慮した生存、副産物の相互主義、遅延した互恵主義、取引/現物でない交換、その他の選択モデル(血縁の利他主義を含む)。ここでは、リスクセンシティブな生存、遅延型互恵主義、貿易(現物ではない交換)に注目する。我々は、食料を収集品と交換することを遅延型互恵主義に置き換えることで、食料の共有を増やすことができると主張する。これは、変動する食料供給のリスクを軽減する一方で、バンド間の遅延型互恵関係が抱える克服できない問題を回避することで可能となる。以下では、親族間の利他主義と窃盗(許容されるか否か)をより広い文脈で扱う。
食べ物は、飢えている人にとっては、十分に食べられている人よりもはるかに価値がある。飢えている人が自分の最も貴重な価値物を交換することで命を救えるなら、その価値物を交換するために必要な数ヶ月、あるいは数年分の労働力に値するかもしれない。彼は通常、家宝の感傷的な価値よりも自分の命の価値を考えるであろう。脂肪と同じように、収集品も食糧不足に対する保険になる。地域的な食糧不足による飢餓は、少なくとも2種類の取引で食い止めることができた。
しかし、取引コストが高すぎて、バンドはお互いを信頼するどころか喧嘩をしてしまうことが多かった。自分で食べ物を見つけられない空腹のバンドは、たいてい飢えていた。しかし、取引コストを下げることができれば、バンド間の信頼の必要性を下げることができ、あるバンドにとっては1日の労働に値する食べ物でも、飢えているバンドにとっては数ヶ月の労働に値するかもしれない。
局所的ではあるが非常に価値のある取引は、上位旧石器時代に収集品が登場したことで、多くの文化で可能になったと、このエッセイは主張する。収集品は、必要ではあるが存在しない長期的な信頼関係の代わりとなった。もし、部族間、あるいは異なる部族の個人間で持続的な交流と信頼関係があり、互いに無担保の信用を得ていたならば、時間差のある物々交換が刺激されただろう。しかし、そのような高度な信頼関係があったとはとても思えない。上述した互恵的利他主義に関する理由に加え、ほとんどの狩猟採集民の部族関係がかなり敵対的であったことが観察されているという経験的な証拠からも確認できる。狩猟採集民の集団は、通常、1年のほとんどの期間は小さな集団に分かれて生活し、1年のうち数週間だけ中世ヨーロッパの市のような「集合体」に集まって生活する。バンド間の信頼関係がなかったにもかかわらず、添付の図に示されているような主食の重要な取引が、ほぼ確実にヨーロッパで、そしておそらくアメリカやアフリカの大物ハンターなど他の地域でも行われていた。
添付の図で示されているシナリオは仮定のものであるが、それが起こらなかったとしたら非常に驚くべきことである。旧石器時代のヨーロッパ人の多くは、貝のネックレスを楽しんでいたが、もっと内陸部に住んでいた人は、獲物の歯でネックレスを作っていた。また、火打ち石や斧、毛皮などの収集品も交換手段として使われていた可能性が高い。
トナカイやバイソンなどの人間の獲物は、一年のうちで移動する時期が異なる。ヨーロッパの旧石器時代の多くの遺跡から出土する遺物の90%以上、時には99%以上が単一の種によるものであるほど、部族ごとに異なる獲物に特化していた。これは、少なくとも季節的な専門性を示しており、おそらく1つの部族が1つの種に完全に特化していたことを示している。一つの部族のメンバーは、専門化した分だけ、特定の獲物種にまつわる行動や移動習慣などのパターンに精通し、それらを狩猟するための特殊な道具や技術を身につけていたことになる。最近観察された部族の中にも、特殊化した部族があることが知られている。北米インディアンの一部の部族は、バイソンやカモシカの狩猟、サケの漁にそれぞれ特化していた。ロシア北部やフィンランドの一部では、現在でもラップ族をはじめとする多くの部族が、単一種のトナカイの牧畜に特化していた。
旧石器時代にもっと大きな獲物(ウマ、オーロックス、ジャイアントエルク、バイソン、ジャイアントナマケモノ、マストドン、マンモス、シマウマ、ゾウ、カバ、キリン、ジャコウウシなど)が大きな群れをなして北米、ヨーロッパ、アフリカを歩き回っていた頃は、このような特殊化がはるかに進んでいたと思われる。人間を恐れない大型の野生動物はもはや存在しない。旧石器時代に絶滅させられたか、あるいは人間と人間の発射物を恐れるようになったのである。しかし、サピエンス・サピエンスが生きていた時代には、これらの動物の群れは豊富で、専門のハンターにとっては簡単に獲物を得ることができた。取引に基づく捕食の理論によれば、旧石器時代に大型の獲物が大規模な群れをなして北米、ヨーロッパ、アフリカを歩き回っていた頃は、専門性がはるかに高かった可能性が高い。部族間の狩猟における取引ベースの分業は、ヨーロッパの旧石器時代の考古学的証拠と一致する(確実に確認されたわけではないが)。
このように、群れを追って移動する部族は、頻繁に交流し、多くの交易の機会を得た。アメリカン・インディアンは、乾燥させたり、ペミカンを作ったりして食べ物を保存していたが、それは数ヶ月はもつものの、通常は1年はもたなかった。このような食料は、皮、武器、収集品などと一緒によく取引された。多くの場合、これらの取引は年に一度の交易遠征の際に行われた。
大規模な群れをなす動物は、1年に2回だけ領土を移動するが、その期間は1〜2ヶ月であることがほとんどである。自分たちの獲物となる動物以外のタンパク源がなければ、これらの専門部族は飢えてしまうであろう。考古学的な記録で示されている非常に高度な専門化は、交易があったからこそ実現したのである。
このように、時間的にずれた肉の交換が唯一の交易であったとしても、それだけで収集品の利用価値は十分にあると考えられる。ネックレスや火打ち石など、お金として使われるものは、取引される肉の価値がほぼ同じである限り、閉じたループの中で、ほぼ同じ量を行き来する。ここで注意してほしいのは、本稿で述べた収集品の理論が正しいとするには、単一の有益な取引が可能であるだけでは不十分だということだ。相互に有益な取引の閉ループを特定しなければならない。閉鎖的なループでは、収集品は循環し続け、そのコストを償却する。
前述したように、考古学的な遺跡から、多くの部族が1つの大きな獲物種に特化していたことがわかっている。この専門化は少なくとも季節的なものであり、広範な取引が行われていた場合はフルタイムで行われていた可能性がある。習性や移動パターン、最適な捕獲方法の専門家になることで、部族は莫大な生産的利益を得ることができた。しかし、このような利益は、単一の種に特化することは、1年の大半を食料なしで過ごすことになるため、通常は得られないものであった。部族間の分業が功を奏し、それを可能にしたのが交易だった。補完関係にある2つの部族間の交易だけで、食料の供給量はほぼ2倍になる。しかし、セレンゲティやヨーロッパの草原のような地域では、ほとんどの狩猟地域を移動する獲物は2種類ではなく、10種類にも及ぶことがあった。そのため、種に特化した部族が入手できる肉の量は、近隣の一握りの部族との間で交易を行うことで2倍以上になると考えられる。その上、余分な肉は最も必要とされる時に得られる。つまり、その部族の同種の獲物から得られる肉はすでに食べ尽くされており、食料がなければハンターは飢えてしまうのである。
このように、2つの獲物種と、同時ではないが相殺される2つの取引という単純な取引サイクルから、少なくとも4つの利益、つまり余剰の源が得られたのである。これらの利益は異なるものであるが、必ずしも独立したものではない:
1. 餓死しそうな時期に肉が手に入ること。
2. 肉の総供給量の増加:すぐに食べられる量や保存できる量を超えた余剰分を取引し、取引しなかった分は無駄になっていた。
3. さまざまな種類の肉を食べることで、肉から得られる栄養の種類が増えたこと。
食料と交換するために収集品を作ったり、保存したりすることは、悪い時期に備えての唯一の手段ではなかった。特に大きな獲物が得られない場合には、縄張り意識と採集権の取引が行われていたようである。これは、現在残っている狩猟採集文化の一部にも見られる。
アフリカ南部のクン・サン族は、他の現代の狩猟採集文化の残存者と同様に、限界のある土地に住んでいる。彼らには専門家になる機会はなく、わずかに残っているものを利用するしかない。ホモ・サピエンスは、最初にネアンデルタール人から最も豊かな土地と最高の狩猟ルートを奪い取り、ずっと後になってからネアンデルタール人を限界の土地から追い出した。しかし、生態学的に厳しいハンディキャップを負っているにもかかわらず、クン族は収集品を交易品として使用している。
他の狩猟採集民と同様に、クン族は1年の大半を分散した小さな集団で過ごし、1年のうち数週間は他の集団との集合体で過ごす。集会は、取引が行われ、同盟が結ばれ、パートナーシップが強化され、結婚が行われるという特徴を持ったフェアのようなものである。アグリゲーションの準備は、一部は実用的だが、ほとんどはコレクション的な性質を持つ取引可能なアイテムを製造することで満たされる。クン族が「hxaro」と呼ぶ交換システムでは、4万年前にアフリカで発見されたものとよく似たダチョウの殻のペンダントなど、ビーズのアクセサリーが多く取引されている。
クン族が収集品と一緒に売買する主なものは、他のバンドの領地に入り、そこで狩猟や採集を行う抽象的な権利である。これらの権利の売買は、隣人の領域で採集することで緩和できるような地域的な不足の際に、特に活発に行われる。先に述べたバンド間の食料取引と同様に、収集品を使って採集権を購入することは、スタンリー・アンブローズの言葉を借りれば、「飢餓に対する保険」となる。
解剖学上の現生人類は、意識的な思考や言語、そして計画を立てる能力を持っていたはずであるが、取引を行うためには、意識的な思考や言語、そして計画を立てることはほとんど必要なかったであろう。部族のメンバーが単一の取引以外の利益を推論する必要はなかった。このような制度を作るためには、人々が本能に従って以下のような特徴を持った収集品を作るだけで十分だっただろう。(このような制度を作るためには、人々が本能に従って、以下のような特徴を持つ収集品を手に入れることができれば十分であった。) これは、我々が研究する他の制度についても、様々な点で同様であり、意識的に設計されたというよりは、むしろ進化したものである。制度の儀式に参加している誰もが、その機能を究極の進化的機能の観点から説明することはなかっただろう。むしろ、究極の目的や起源を示す理論というよりも、行動の近親的動機付けとして機能する多種多様な神話の観点から説明していた。
食物の交易に関する直接的な証拠は失われて久しい。将来的には、ある部族の狩猟跡と別の部族の消費パターンを比較することで、今回の記事よりも直接的な証拠が見つかるかもしれないが、この作業で最も難しいのは、異なる部族や親族集団の境界を特定することである。我々の理論によれば、このような部族間の肉の移動は、大規模かつ特殊な大型狩猟が行われていた旧石器時代の世界各地で一般的に行われていたと考えられる。
今のところ、収集品自体の移動による間接的な取引の証拠が多く残っている。幸いなことに、収集品に求められる耐久性と、今日の考古学者が発見した遺物が生き残った条件との間には、良い相関関係がある。徒歩で移動していた旧石器時代の初期には、穴の開いた貝殻が500kmも離れた場所から発見された例がある。また、火打石も同様に長距離を移動していた。
残念なことに、ほとんどの時代と場所で、取引コストが高いために貿易は大きく制限されていた。一番の障壁は部族間の対立であった。部族間の主な関係は、良い日には不信感を抱き、悪い日には明らかな暴力を振るうというものであった。部族間の信頼関係を築くことができたのは、婚姻や親族の絆だけであったが、それは時折であり、範囲も限られていた。財産を保護する能力が低いため、たとえ身につけたり隠し場所に埋めたりした収集品であっても、収集品は数回の取引でコストを償却しなければならなかった。
このように、取引コストが高いために、現在我々が当たり前のように使っている市場、企業、その他の経済制度の発展が妨げられていた長い人類の先史時代において、富の移転は取引だけではなく、おそらく最も重要なものでもなかった。しかし、取引コストが高く、市場や企業などの経済制度が発達しなかった先史時代には、おそらく最も重要なものではなかったであろう。我々の偉大な経済制度の下には、富の移転を伴うはるかに古い制度がある。これらの制度はすべて、ホモ・サピエンス・サピエンスとそれ以前の動物とを区別するものである。ここでは、我々人間には当たり前で、他の動物にはない、最も基本的な富の移転の種類の一つである、次世代への富の移転について説明する。
鑑定や価値測定の問題は非常に幅広いものである。人間にとっては、好意の返礼、物々交換、貨幣、信用、雇用、市場での購入など、あらゆる交換システムに関わってくる。また、強要、課税、貢ぎ物、司法上の刑罰の設定などにおいても重要である。動物の互恵的利他主義においても重要である。例えば、サルが背中を掻くために果物を交換することを考えてみよう。相互に毛づくろいをすることで、個人では見えないし届かないダニやノミを取り除くことができる。しかし、どれだけの毛づくろいとどれだけの果物を交換すれば、お互いに「公平」だと思える、つまり離反しないお返しになるのであろうか?20分間のバックスクラッチングの価値は、果物1個分であろうか、それとも2個分であろうか?また、どのくらいの大きさの果物であろうか?
血と血を交換するという単純なケースでさえ、見かけよりも複雑なのだ。コウモリは、受け取った血の価値をどのように見積もっているのだろうか。重さ、大きさ、味、空腹を満たす能力、その他の変数で価値を見積もるのだろうか?それと同じように、「あなたが私の背中を掻いてくれたら、私があなたの背中を掻く」という単純な猿の交換でも、測定は複雑になる。
大多数の潜在的な交換において、動物にとって測定問題は難題である。顔を覚えてそれを好意に結びつけるという簡単な問題以上に、そもそも好意の価値の推定値について双方が十分な精度で合意できるかどうかが、動物の相互的利他主義の主な障壁となっているのではないだろうか。
現存する旧石器時代初期の人類の石器は、我々のような大きさの脳には複雑すぎる面がある。誰が誰のためにどのような品質の道具を作ったのか、したがって誰が誰に何を借りているのかなど、彼らに関わる好意を記録しておくことは、一族の境界線の外ではあまりにも困難であっただろう。それに加えて、おそらく残っていない多種多様な有機物や、身だしなみなどの刹那的なサービスなどがあるであろう。これらの物品のほんの一部でも譲渡され、サービスが行われた後には、我々の脳は膨れ上がっていて、誰が誰に何を借りているのかを把握することはできなかった。今日、我々はこれらのことをよく書き留めているが、旧石器人には文字がなかった。考古学的な記録が示すように、氏族や部族間での協力が実際に行われていたとすれば、問題はさらに悪化する。狩猟採集民の部族は通常、非常に敵対的で相互に不信感を抱いていたからである。
貝がお金になる、毛皮がお金になる、金がお金になるなど、お金が法定通貨法に基づいて政府が発行した硬貨や紙幣だけでなく、さまざまなものであるとすれば、そもそもお金とは何なのであろうか。また、飢餓の危機に瀕していた人類は、狩猟や採集にもっと時間を割くことができたはずなのに、なぜネックレスを作って楽しんでいたのであろうか。19世紀の経済学者、カール・メンガーは、十分な量の商品交換から自然に、そして必然的に貨幣が進化することを初めて説明した。現代の経済用語で言えば、メンガーの話と似ている。
物々交換には利害関係の一致が必要である。アリスはピーカンを栽培してリンゴを欲しがり、ボブはリンゴを栽培してピーカンを欲しがる。たまたま果樹園が近くにあり、たまたまアリスはボブを信頼していて、ピーカンの収穫時期とリンゴの収穫時期の間に待つことができたとする。これらの条件がすべて満たされていれば、物々交換はうまくいく。しかし、アリスがオレンジを栽培していた場合、ボブがピーカンだけでなくオレンジも欲しかったとしても、運が悪かったとしか言いようがない - オレンジとリンゴは同じ気候では両方ともうまく育たない。また、アリスとボブがお互いを信頼しておらず、仲介してくれる第三者を見つけられなかったり、契約を履行できなかったりした場合も、運が悪いと言わざるを得ない。
さらに複雑な事態も起こりえる。アリスとボブは、将来的にピーカンやリンゴを売るという約束を完全に明確にすることはできない。なぜなら、他の可能性として、アリスは最高のピーカンを独り占めし(ボブは最高のリンゴを独り占めし)、他の人には残りかすを与えることができるからである。2つの異なる種類の商品の質と量を比較することは、一方の商品の状態が記憶でしかない場合には、より困難になる。さらに、どちらも凶作などの出来事を予測することはできない。これらの複雑さは、アリスとボブが、分離した互恵的利他主義が本当に互恵的であったかどうかを判断する問題を大きくしている。このような複雑な問題は、最初の取引と互恵的な取引の間の時間的な間隔や不確実性が大きいほど大きくなる。
関連する問題として、エンジニアが言うように、物々交換は「スケールしない」ということがある。物々交換は、少量であればうまく機能するが、大量になるとコストがどんどん高くなり、労力に見合わないほどのコストになってしまう。取引される商品やサービスがn個ある場合、物々交換市場ではn^2個の価格が必要になる。5つの商品であれば25個の価格が必要となり、悪くはないが、500の商品であれば25万個の価格が必要となり、一人の人間が管理するには現実的ではない。貨幣を使えば、500の製品に500の価格というように、n個の価格しかない。この目的のためのお金は、交換媒体としても、単に価値の基準としても機能する。(後者の問題は、暗黙の保険「契約」とともに、競争市場が存在しなかったことから、価格が近しい交渉ではなく、長い間進化してきた慣習によって設定されることが多かった理由でもある)。)
物々交換に必要なのは、言い換えれば、供給やスキル、好み、時間、そして低い取引コストの偶然の一致である。そのコストは、取引される商品の数の増加よりもはるかに速く増加する。物々交換は、確かに全く取引をしないよりははるかに効果的であり、広く実践されてきた。しかし、お金を使った貿易に比べれば、その効果はかなり限定的である。
原始的な貨幣は、大規模な貿易ネットワークよりもずっと前から存在していた。貨幣には、もっと早くから重要な用途があった。貨幣は、信用の必要性を大幅に減少させることで、小規模な物々交換ネットワークの働きを大きく改善した。好みが同時に一致することは、長い時間の間に一致することよりもはるかに稀だった。お金があれば、アリスは今月のブルーベリーの熟度に合わせてボブのために採集し、ボブは半年後のマンモスの群れの移動に合わせてアリスのために狩りをすることができ、誰が誰に借金をしているかを把握したり、相手の記憶や誠実さを信用したりする必要はない。母親の子育てへのより大きな投資を、偽造できない貴重品の贈与で担保することができる。貨幣は、分業の問題を囚人のジレンマから単純な交換に変えてくれる。
多くの狩猟採集民が使用していた原始的な貨幣は、現代の貨幣とは全く異なる姿をしており、現代文化の中では異なる役割を果たしており、おそらく後述する小さな交易ネットワークやその他の地域的な制度に限定された機能を持っていた。私はこのような貨幣を、本来の貨幣ではなく、収集品と呼ぶことにする。人類学の文献では、このようなものを「お金」と呼んでいるが、これは政府が印刷した紙幣や硬貨よりも広い範囲で定義されているが、このエッセイで使う「collectible」よりも狭い範囲で定義されている。また、曖昧な「valuable」という言葉もあるが、これはこのエッセイの意味でのcollectiblesではないものを指すこともある。原始貨幣の名称として他の可能性がある中で、コレクティブルという言葉を選んだ理由は明らかであろう。コレクティブルは非常に特定の属性を持っていた。それらは単に象徴的なものではなかった。コレクティブルとして評価される具体的な物や属性は、文化によって異なる可能性があるが、恣意的なものではない。収集品の第一の、そして究極の進化的機能は、富を貯蔵し、移転するための媒体であった。ワンパムのようなある種の収集品は、経済的・社会的条件が貿易を促進するところでは、現代人が知っているような貨幣として非常に機能的である。私は、コイン時代以前の富の移動手段を議論する際に、「原始的な貨幣」や「原始的な貨幣」という言葉を、「収集品」と同じように使うことがある。
人々、一族、あるいは部族が自発的に貿易を行うのは、双方が何かを得ることができると信じているからである。価値についての彼らの信念は、例えばその商品やサービスについての経験を積むなどして、取引後に変わることがある。交易の時点での彼らの信念は、価値についてはある程度不正確であるものの、利益の存在については通常正しいものである。特に初期の部族間貿易では、高額商品に限られていたため、各当事者が自分の信念を正しく理解しようとする強い動機があった。そのため、貿易はほとんどの場合、双方に利益をもたらした。貿易は、何かを作るという物理的な行為と同様に、価値を生み出した。
個人、一族、部族はそれぞれ好みが異なり、これらの好みを満たす能力も異なり、これらの能力や好み、そしてそれらの結果として得られる物について持っている信念も異なるため、貿易から得られる利益は常にある。このような取引を行うためのコスト(取引コスト)が、取引を価値あるものにするのに十分低いかどうかは別問題である。我々の文明では、人類の歴史上の大半の時代よりもはるかに多くの取引が可能である。しかし、後述するように、いくつかの種類の取引は、おそらくホモ・サピエンス・サピエンスが誕生した頃まで、一部の文化にとっては取引コスト以上の価値があった。
取引コストが低いことで利益を得ることができるのは、任意のスポット取引だけではない。これが、貨幣の起源と進化を理解する鍵となる。また、家宝を担保にすることで、取引の遅延による信用リスクを回避することもできた。勝った部族が負けた部族から貢ぎ物を取ることは、勝った部族にとって大きな利益となった。勝利者の貢ぎ物を集める能力は、貿易と同じ種類の取引コスト技術の恩恵を受けていたのである。慣習や法律に反する行為に対する損害賠償を請求する原告や、結婚を斡旋する親族集団も同様である。また、親族は、タイムリーで平和的な相続による富の贈与の恩恵を受けていた。現代文化では貿易の世界から切り離されている人間の主要なライフイベントも、取引コストを下げる技術によって、貿易に劣らず、時にはそれ以上の恩恵を受けていた。これらの技術のうち、原始的な貨幣(収集品)よりも効果的で重要なものはなく、また初期のものでもなかった。
H.サピエンス・サピエンスがH.サピエンス・ネアンデルターレンシスを駆逐すると、人口爆発が起こった。紀元前4万年から3万5千年の間にヨーロッパを占領した証拠から、サピエンス・サピエンスはネアンデルターレンシスに比べて環境収容力を10倍にしたこと、つまり人口密度が10倍になったことがわかる。それだけではなく、彼らは世界初の芸術を創造する余裕があった。例えば、素晴らしい洞窟壁画、多種多様で精巧な置物、そしてもちろん貝殻、歯、卵殻を使った素晴らしいペンダントやネックレスなどである。
これらは単なる装飾品ではない。収集品や、その時代に進歩したと思われる言語によって可能になった、新しい効果的な富の移動は、新しい文化的制度を生み出し、環境収容力の増加に主導的な役割を果たしたと考えられる。
新参者であるH.サピエンス・サピエンスは、ネアンデルタール人と同じ大きさの脳、弱い骨、小さい筋肉を持っていた。狩りの道具はより洗練されていたが、紀元前35,000年の時点では基本的に同じ道具であり、2倍の効果も10倍の効果もなかったであろう。最大の違いは、収集品によってより効果的に、あるいは可能になった富の移動だったかもしれない。H.サピエンス・サピエンスは、貝殻を集めて宝石にしたり、見せびらかしたり、交換したりすることに喜びを感じていた。ネアンデルターレンシスはそうではなかった。これと同じことが、何万年も前にセレンゲティで起きていたのである。
ここでは、コレクションアイテムが、自発的な無償の相続、自発的な相互取引や結婚、法的判断や貢ぎ物などの非自発的な移転など、それぞれの種類の富の移転において、どのように取引コストを下げたかを説明する。
これらの種類の価値移転はすべて、人類の先史時代の多くの文化で行われており、おそらくホモ・サピエンス・サピエンスが誕生したときから行われていたと考えられる。このような人生の一大イベントである富の移転によって、一方または両方の当事者が得られる利益は非常に大きく、高い取引コストにもかかわらず発生した。現代の貨幣と比較して、原始的な貨幣の速度は非常に低く、平均的な個人の一生の間にほんの数回しか譲渡されないかもしれない。しかし、今日では家宝と呼ばれるような耐久性のある収集品は、何世代にもわたって持ち続けることができ、譲渡のたびに相当な価値を付加することができたし、しばしば譲渡が可能になることもあった。そのため、部族は、宝石や収集品の原料を製造したり、探索したりするという、一見すると軽薄な作業に多くの時間を費やしていた。
富の移転が重要な要素となっている制度では、次のような質問をする:
1. 事象、移転された財の供給、移転された財の需要の間には、時間的にどのような偶然の一致が必要だったか?偶然の一致があり得ないことは、富の移転にとってどれほどあり得ないことか、あるいはどれほど高い障壁になるか?
2. 富の移転は、その制度だけで収集品の閉ループを形成するのか、それとも循環サイクルを完成させるために他の富の移転制度が必要なのか。貨幣の流通の実際のフローグラフを真剣に考えることは、貨幣の出現を理解する上で非常に重要である。多種多様な取引の間で一般的に流通することは、人類の先史時代のほとんどの期間、存在しなかったし、これからも存在しないであろう。完結したループが繰り返されなければ、収集品は循環せず、価値がなくなってしまう。作る価値のある収集品は、そのコストを償却するのに十分な取引で価値を付加しなければならない。
ブレグマン(2021)『Humankind 希望の歴史』を勝間さんがブログで紹介しているが、その記事のブコメが地獄と化している。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/katsumakazuyo.hatenablog.com/entry/2021/08/12/162845
「なんとなくだが俺はこう思う」「著者はチェリーピッキングしててクソ」みたいな主張がエビデンスなしに書かれており(そもそも君たち原書読んだ?)、それらにスターが当然であるかのように集まっている。これらは理性的な議論でもなんでもなくただのエコーチェンバー現象である。やはり、ブコメという文字数制限があるメディアできちんとした議論を行うのは無理があることが分かる。
こういう学術書やそれに近いものを読むときに私が習慣としていることがある。本を読む前にプロによる書評を読め。
ここでのプロというのは、新聞でそういう書評をいっぱい書いているプロのレビュワーのことではなく、プロの学者のことである。
例えば、"Bregman Humankind book review"とかでgoogle scholarなどを調べると、文化人類学者によるこの書評がヒットする。
A Sceptical Review of Bregman’s 'Humankind: A Hopeful History'
https://www.newenglishreview.org/custpage.cfm?frm=190173&sec_id=190173
この書評によれば、「過去において狩猟採集生活で住民同士が戦争ばかりして殺し合っていたというのは基本的には嘘」というブレグマンの主張は文化人類学的には嘘っぱちである。
"As a journalist he not only knows very little anthropology but also has an irritating folksy style"(ジャーナリストのブレグマンは文化人類学についてほとんど何も知らないだけでなく、イライラするほど垢抜けない文体を用いており)、"This is reminiscent of a very bad undergraduate essay"(これはとても下手な学部生のエッセイを思い出させるような主張だ)、などとやたら攻撃的な評がなされており、それはそれで大丈夫かという気持ちにはなるが、少なくとも一人の専門家視点から見た学術的な評としては参考になる。もちろんこの書評が真理で『Humankind』は読む価値なし、とここで主張したいわけではない(私は文化人類学者ではないのでその判断はできない)。
このような視点で批判的に本を読解することは、当該分野の知的蓄積を持っていない素人には不可能である。誤った知識を盲信しないために第三者によるファクトチェックには目を通しておいた方がよい。逆に、その道の専門家が「よく書けた本である」と肯定的に評していれば、ある程度安心して読むことができる。
日本語の書籍なら「(書名) 書評」でググる。学者による書評に絞りたい時は「(書名) 書評 教授」でググったり「(書名) (著者名)」でGoogle scholarしたりするとよい。
英語の書籍(日本語に翻訳された本を読むときもこれで原著の評判を調べる)なら「(書名) (著者名)」でGoogle scholarするのがおそらく一番よい。ある程度有名な本ならプロによって書かれた書評が学術ジャーナルに載っており、それがだいたいヒットする。特にいわゆる文系の学術ジャーナルには毎号Book reviewコーナーがよくあり、そこに載っている書評は「本の主張まとめ」→「本の批判的検討」→「本の評価」というフォーマットで書かれていることが多いため大変読みやすい。ただ一つ問題があり、これらのジャーナルはほぼ有料である。研究機関に所属するか金を払うことによりこの問題は解決する。
また、twitterで「(書名)」で調べ、研究者っぽい人による短評ツイートを探して読むという方法もある。研究者のTwitterはだいたい実名かつ顔写真アイコン(ソース:私の印象)なので、それで目grepしてからプロフィールをチェックするとよい。ちなみに関心がある分野の研究者のtwitterアカウントは普段からフォローしておくとたのしい。
冒頭で「ブコメがやべえ」と批判したが、こういう風呂敷を広げまくって人類史を俯瞰したぜと主張する売れ筋本に警戒心を抱いてしまう気持ちはよく分かる。なぜなら、最近のそういう本に対しては「適当こくな」と専門家からツッコミが入ることが実際に多いから。
例えば、Humankindの書評として上に挙げたものを書いたC.R. Hallpike先生は、ハラリの『サピエンス全史』に対しても批判的な評を行なっている。
Review of Yuval Harari's Sapiens: A Brief History of Humankind.
ちなみにこのHallpike先生は、未開社会のフィールドワークを行なった経験から「最近のポップな歴史書は文化人類学的デタラメばっか書きおって」と心底お怒りらしく、全員(チョムスキー含む)まとめてぶった切る本まで書いている。Hallpike先生が過激な主張を好むことも踏まえると(参考: https://twitter.com/profdanhicks/status/1336981539893161984 )、この本に対するプロの書評が見つからないのは残念である。
C.R. Hallpike(2018). "Ship of Fools: An Anthology of Learned Nonsense About Primitive Society".
https://www.amazon.com/Ship-Fools-Anthology-Nonsense-Primitive-ebook/dp/B07HX4188K
また、このような人類歴史書スキャンダルとして最近話題になったのが、スティーブン・ピンカー(2019)『21世紀の啓蒙』における「学術的ルール違反」事件である。
ピンカーが書中で「科学史家による主張」として紹介していた言説が、脚注をたどると科学史家でなく社会心理学者によるものであったことが分かり、さらにピンカーによって引用されていた文章は実際には同じ論文内の別部分の文章を継ぎ接ぎしてピンカーにとって都合の良いように捻じ曲げられていた、という事件である。詳しくは以下のツイートを参照。
https://twitter.com/mccormick_ted/status/1419672144368308225
もちろん『21世紀の啓蒙』におけるピンカーの主張自体に対するプロからの異議申し立ても存在する。
https://www.abc.net.au/religion/the-enlightenment-of-steven-pinker/10094966
ここでいう弱者男性とは、恋愛における弱者である。経済的・肉体的弱者を指さない。
人間の不可解・非合理的な行動を理解するには、進化の過程から紐解く必要がある。
全体としての傾向の話をしている時に「私は違う」という例外を持ち出されると議論が進まない。
サルとは、ヒトを除いたサル目のことであり、生物学的にいえば、ヒトはサルの一種である。
諸兄は既に、サピエンス全史(上・下)をお読み頂いているはずなので、詳述は省くが、我々の本能は400万年前から10万年前までの間に形成されている。
法という考え方が生まれたのが4000年ほど前だが、呪術で物事を決める習わしは、2000年ほど前まで続いている。
産業革命が200年前。ホワイトカラーが単なるオフィスワーカーとなって50年ほどだ。
しかしホモ・サピエンスの本能は、10万年前から基本的に変わっていない。
男は、セックスがしたいので女に給餌した。
女は、よく給餌してくれるオスに、見返りとしてセックスを提供した。
自分で餌を確保するメスより、オスに貢がせるメスの方が生き残り、子孫を増やした。
これは、あなた方が選択したのではなく、その選択をした個体の子孫が生き残ったという話だ。
400万年の淘汰の結果、我々の本能は、そのような男女関係に最適化されている。
男は本能としてセックスがしたい。なぜなら、セックスに興味のない個体の子孫は残らないからだ。
ホモ属のメスが、より安定的に繁殖を行うのに最適と判断するオスは、基本的に屈強なオスだ。
餌の確保とは、狩猟に依らない。
自分よりも劣ったオスが集めた餌を強奪する方が、より労力がかからないからだ。
法や治安が誕生する前に、暴力的に強いオスに、性的な魅力を感じるメスの子孫が残った。
不良やヤンキーやオラオラ系ホストがモテるのは、これが遠因である。
だから女は本能的に、格下の男に性欲を感じない。生殖をしたいとは思わない。それは本能だから。
弱者男性が、性的に女性から相手にされないのは、生物学的に当たり前なのである。
選択肢は二つに一つしかない。1. 強くなるか、2. 諦める。
この第三の選択により、本来は生き残らなかったはずの、恋愛弱者男性の遺伝子も残ってしまった。(恋愛弱者女性も含む)
それが皆さんである。
現代に住む我々は、個々人の選択によって男女関係を作ったのではなく、400万年かけて現在の男女関係(本能)を作った種の末裔なのである。
エヴァ や 理解ある彼くん や 関係性萌え に乗じて 人生観 や 人間 について語りたい増田がいるようなので新しく増田を作りました。
タイトルの『人間とはなにか?それ以前に "自分" とは何か?』に入る前に、大前提としておさえて欲しいことがあるよ。
↑ 上記はおさえられている前提で話を進めるよ でないとタイトルに入れないので
スコープの大き過ぎる問いなので、ここでは、サピエンス:理解する、知っている、知恵のある とは? に限定するよ
増田の考える、"理解する" とはなんだろうか?人間以外の生物やコンピュータは理解することはないのだろうか?
増田の考える、"自分" とは何か? 自分は身体のどこにあるのか?指し示して欲しい。
ちなみにこれは既に答えが出ているので先に答え書いちゃうね。頭を指し示してもそこに "自分" は無い。
身体や環境的文脈から完全に独立した脳機能は皆無だ。もっと言えば自由意志が存在しない。
過去の "自分" と今の "自分" は組織からして物理的に違う。
人間の記憶は同じだから連続した存在(同じ存在)とするのもだいぶ無理がある。
記憶は五感を伴うものであり、身体の組織が違っていれば、思い出しても当然感じ方は違うし、
(似たような環境で育てたとしても完全に同じ個体にならない理由がまさにこれ)
そもそも記憶のインディックスを失い、正しく記憶を読み取れなくなるかもしれない
(いわゆる"忘れる")
早い話が人間は、身体も記憶も連続していない。少なくとも、連続性を保証するものは何も無い。
日本生物物理学会も “材料的には生命と非生命の物質の間に本質的な違いはありません.それでは,「生命」と「物質」の違いはどこにあるのでしょうか?“ とか言ってる。
そしてその生命現象を人類はいまだに理解が出来ておらず、生も死も非常にモヤっとしたものだ。
"未だ生を知らず、焉くんぞ死を知らん" (まだ生についてよくわかっていないのに、どうして死のことがわかろうか)みたいな?
たとえば、食肉処理場から、食用に解体された(お肉になってるので臨床的には当然死んでいる)の 豚🐖の頭部を使った実験。
[Nature]Pig experiment challenges assumptions around brain damage in people
https://www.nature.com/articles/d41586-019-01169-8
[日本語記事][Nature ダイジェスト]死んだブタの脳を体外で数時間生存させることに成功
どうしよう、日本語記事のタイトルの通り、食用に解体されお肉になった豚🐖の脳🧠が復活しちゃったよ?
> 研究チームは、BrainExに組み込んだブタの脳が6時間でどの程度回復できるかを調べた。
> その結果、保存液を注入しなかった対照群の脳の細胞は崩壊してしまったのに対し、
> BrainExに組み込んだ脳では個々の細胞や部位の構造が保存されていた。また、ニューロンや他の脳細胞が正常な代謝機能を再開したことや、
> 脳の免疫系も機能しているらしいことが分かった。さらに、BrainExに組み込んだ脳から採取した組織試料に通電したところ、
> ただし、高度な脳活動を意味する脳全体の協調的な電気的活動パターンは全く見られなかった。
> 研究チームによれば、そうした高度な機能を復活させるには、電気ショックを与えるか、もしくは、もっと長い時間にわたって脳を溶液中で保存し、
> 酸素供給がない状態で受けたあらゆる損傷から細胞を回復させることが必要だろうという。
>
> すでに、BrainExを使ってブタの脳を最大36時間生存させている。
さて明確に活動を再開してるのだけどこれは "生きる" のかな?"死んでいる"のかな?
「我思う、故に我在り(Cogito, ergo sum)」
「私は在る、私は存在する、これは確実で ある。しかしどれだけの間か。もちろん、私が思惟する間である。
なぜなら、もし私 が思惟することを完全にやめてしまえば、おそらくその瞬間に私は、存在することを まったくやめてしまうことになるであろうから」
とか言った人もいたが、実際的には "自分" という存在は気のせいだ。
だが、増田は 『自分なんて気のせいだから自分があるように振る舞うのはやめろ!!』 と他人に言われて従う?従わないでしょ?
ーーーー・・・以上で前振り終わりで、本題に入る。
1−4を踏まえて、増田にとっての "人生" とは? (人生観を語るのが好きな人が好きなワード "成長" や "大人" や "希望" や "救い" とかでもいい)
社会的なごっこ遊び (Social Pretend Play) じゃないヤツで頼むね。