はてなキーワード: 文化人類学者とは
セックス・ストライキ(英:sex strike)は、ストライキや非暴力的抵抗の手段の一つで、一人または複数で、ある目的を達成するためにパートナーとの性行為を拒むことである。一時的な性的禁欲という形をとる。セックス・ボイコット(英: sex boycott)ともいう。
植民地時代以前のナイジェリアでは、イボ人の女性コミュニティが、定期的に女性による労働組合の一種である「評議会」を形成した。評議会は「女神アイデミルの寵愛を受けた者で、彼女の化身」とされるアグバ・エクウェに率いられた。彼女は職杖(英語版)を携えており、公の集会や会合における最終決定権を持っていた。なかでも彼女の仕事は、男性のハラスメントや虐待を罰することで、男性の善良なふるまいを〔女性に〕保証することであった。そして男性らが最も恐れたのは評議会のストライキ行動の力だった。イボ人の文化人類学者であるアイファイ・アマディウメ(英語版)は次のように論じている。「男性に対して評議会が持ち、そして使った最強の武器は、全ての女性に大規模なストライキとデモを命じる権限だった。ひとたびストライキが命じられるや、女性は自分たちに期待されている義務と役割を果たすことを拒んだ。そこで拒絶されたのはあらゆる家事であり、性的奉仕であり、母親としての仕事であった。彼女らは乳飲み子だけを抱え、列をなして街を去ることもあった。あまりに怒ったときは、出会った男性みなに襲いかかることで知られていた」[2]。
トランスやQ:クィアがペドフィリアを含んでいることは、クィア理論の支柱となった文献をみれば明白なんだよね。
以下はクィア系文化人類学者のゲイル・ルービンGayle S. Rubinの「性を考える セクシュアリティの政治に関するラディカルな理論のための覚書」(1984)、クィア・スタディーズにおける超重要文献からの抜粋だ。ちなみにルービンはトランスの教祖ジュディス・バトラーの師である。
1950年代の共産主義者や同性愛者のように、小児性愛者は汚名を着せられているため、彼らのエロティックな指向性はおろか、市民的自由の擁護者を見つけることも難しい。その結果、警察は彼らを食い物にしてきた。地方警察、FBI、そして監視役の郵便局検査官が加わり、小児性愛者たちのコミュニティを一掃することだけを目的とした巨大な組織を作り上げた。20年かそこらで煙がある程度晴れれば、こうした男たちが野蛮で分不相応な魔女狩りの犠牲者であったことを示すのは、ずっと容易になるだろう。多くの人々がこの迫害に協力したことを恥ずかしく思うだろうが、獄中で一生を過ごした男たちのために良いことをするには遅すぎるだろう。
原文はこちら。
https://bpb-us-e2.wpmucdn.com/sites.middlebury.edu/dist/2/3378/files/2015/01/Rubin-Thinking-Sex.pdf
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/about/president/b_message2023_03.html
このテキストしか読んでおらず、聞いたり動画を見たりはしていない。この人も今回初めて知った。
今の学生、特に今東大を合格した人に対するスピーチとしては出来が良くないと思う。前の千鶴子の方が今読んでもだいぶインプレッシブで、メッセージ性も強い。
【シン・ウルトラマンのネタバレあり というかネタバレ気にせず話す】
現在公開中の『シン・ウルトラマン』を2回見てきた。あまりにも良かった。感想をどっかで書きたい。
ところで、その感想や叫びを漁る中で見かけた勘違いが「リピアくんが『野生の思考』って本を読んでる!」→「リピアくん地球人類のこと野生動物か何かと思ってる?」というもの。
別に誰がどんな感想を持とうが、或いはその人やそれに近しい観点を持ってしまった人が何をどう勘違いしていようが、それ自体は全然どうでもいいのだけれども、リピアくんとこの本の著者(レヴィ=ストロースの名前は聞いたことある人多いだろう)の名誉のためにもツッコミの言葉をネット上に残しておきたい。ついでに、この映画にこの本が登場した意味の考察をちょっぴり披露させてほしい。
1950年代までのフランスをはじめとした西欧に多かった(今でもかなり多い)哲学や思想が「西欧の文明における思考と、アジア・アフリカ・中南米の未開文明の思考とでは根本的に違う」という考え方で、主に科学技術や文化の面での進歩史観や優越感、啓蒙思想や資本主義と結びついて植民地主義や覇権主義の土台の一つになっていた。それに異を唱えたのがフランス出身の人類学者レヴィ=ストロースの『野生の思考』という書。特に文化人類学者やリベラル系の人に言わせれば「戦後の思想における最大の転換点」となっており、いわゆる人文系に広げてみても、構造主義を生み出し、更にその後のポスト構造主義などの思想にもつながる端緒となったという点ですごく重要な一冊になっている。
内容をものすっごく要約すると「『事象の切り取り方』『概念の置き方』ひいては社会秩序の維持や幸福追求に対する考え方はどの文化においても根本的な構造は変わらず、表出の仕方、あるいは社会が持つ興味の向かう先と取捨が違うに過ぎない。あらゆる文明が進歩史観的考え方を持つわけではなく、発展を望む文化もあれば安定を望む文化もあるというだけ。栽培思考(=科学によって裏付けられ、概念を用いて行われる文明的思考)と野生の思考(=記号によって行われる思考。「野蛮な思考」ではない)との間に優劣があるわけではないし、一つの文化の中で両方の思考は両立しうるし、実際個人の中ですら両立している」といったもので、その歴史的意義は「20世紀半ばの西欧にはびこっていた進歩主義、特に西欧の文化を中心とする思考、科学技術を背景に自分達を上位に置こうとする考え方への批判を行ったこと」「しかし、だからといっていわゆる”未開文明”や自然主義を礼賛するわけではないこと」「文化を『仕組み(構造)』に置き換えて分析するツールとして学問の場に登場したこと」あたり。
「文化を構造的に捉え、それぞれの要素が社会の中でどう表出しているかを研究する」という所から後に『構造主義』と呼ばれる思想を生み出したことで有名。更に言えば西欧の奢りや発展途上国(昔は「後進国」と言われてたよね)への見下しを批判する流れを生み出したという点でも評価を受けている。
ザラブにしろメフィラスにしろ、コミュニケーションの初手は「自分の科学力、技術力を地球人類に見せつける」事から始まる。その科学技術力の差を背景に、劣等感と焦りを刺激して地球人同士を争わせようとするのがザラブであり、劣等感と無力感……謂わば絶望によって人類を心理的に支配し最終的に兵器として利用しようとするのがメフィラス。それらに抗うのがウルトラマンたるリピアくん、というのが中盤の流れだった。
物語の序盤で、わざわざ観客に見せつけるようにリピアくんがこの書を読んでいた(演出しての)理由はここにある……気がしなくもない。16世紀から20世紀……あるいは紀元前から現代に至るまで、我々地球人類が奴隷、植民地、後進国、押し並べて言うなれば『未開人(文明人/強者たる自分達とは構造的に違う考え方をする者)』である他者に対する接し方は、ザラブやメフィラスをそこまで強く批判できるような立派なものではなかった。
宇宙人ゾーフィもそう。彼が裁定を行使できる者・絶対者としての力を行使したのは「『未開人』である地球人類が、未開人のまま我々『文明人』並みの危険性を持つ可能性が出てきた」からじゃん。
使用を思いとどまったのも、リピアくんもといウルトラマンの意思や感情を汲んであげたのもあるけど、基本的には、地球人類がβシステムを自力で解析・利用し、グリッチじみた手法ではあるがゼットンを無力化せしめたことで「『未開人』から『文明人』に格上げされた」だけに過ぎない。
そんなゾーフィにもリピアくんは抗う、というのが終盤のストーリー。もちろん滅ぼされる我々としてはたまったものではないけれど、じゃあ地球人類の歴史において、他人、他国人、あるいは他の生命に対してゾーフィと似たようなことをしてこなかったか、を考えると……やはり「滅ぼされるのは困るからやめてくれ」くらいしか言えない。
逆に言えば、あの外星人や地球人の中でリピアくんだけが”変”なのよ。我々が他者と相対する時、普通はザラブとはいかんまでも、マイルドなメフィラスかゾーフィくらいの扱いになるし、そうでなくとも暴力や政治で言う事を聞かせてその力を利用しようとする各国政府みたいな事をする。地球人類とリピアくんとの科学技術の差や大きさの比で考えれば、虫か何かを前にした人間、の方が理解として近いかもしれない。
しかし、リピアくんは(各国政府ひいては人類の歴史の悪辣さを知りながらも)、あのネロンガ戦のたった一度、リピアくんの足下でただ一人リピアくんだけに見えた星のような輝き、小さな他者のために命をかけられる個、そういう価値観を共有できる群体のために命を張った。そういうことをできる生命体のことを知りたくて、知り続けるために守りたくて、学んで、感じて、支えて、何度か支えられて、それでも分からなくて、その果てに見つけた『他者のために命を賭けられる自分』。虫のような他者のために、ネロンガの電撃や、ガボラの激ヤバ光線や、メフィラスのグリップビームや、1兆度の火球の前に身体を晒せる者。ザラブにもメフィラスにもゾーフィにも、あるいは普通の地球人類の日常の中にもない”変”な価値観を持つ、だからこそ『ヒーロー』、ウルトラマン。
自分が今回の『シン・ウルトラマン』に感動したのはまさにここで、「ウルトラマンとはこういうヒーローなのだ」「我々がウルトラマンをヒーローだと感じてしまうのはこういう理由なのだ」を2時間かけてぶつけられたのがあまりにも気持ちよかったからなのだ。
結論から言うと「わからない」。それはリピアくんに対してという意味でも、『シン・ウルトラマン』という作品に対してという意味でも。
というのも、リピアくん、地球人類のことをめちゃめちゃ頑張ってお勉強してて(かわいいね)、ものすごい量の本を超速で読んでるわけで、『野生の思考』だけがリピアくんの人格形成や思想信念の確立に寄与しているかと言われれば、まあもちろんそんなことはないだろうという演出はなされてる。レヴィ=ストロースの思想だってその後にやって来たグローバリズム等の思想史において批判を受けてきたわけだし。
そもそもリピアくんがザラブやメフィラス、あるいはゾーフィから地球人類を守ろうとしたのは「我々と彼らの文明は構造的に違わない」という計算、あるいは知識を基にした思想や信念からではない。「彼らの事を知りたい」という知的欲求から来る寄り添い、ゾーフィが言うところの「好き」、米津玄師が言うところの「あこがれ」という感情こそが、リピアくんの力の根本なわけで。
文化人類学の中でも大きな意味を持つ書でもあるし、作中においても先の展開を示唆しかねないアイテムでもあるけど、知らずに見ていた人なら分かる通り、別にこの書が作品全体に超大きな影響を与えているかは正直微妙かもしれない。でも、知っておくと↑のような考察も楽しめるという点では面白いよ。
・本の内容は『シン・ウルトラマン』という作品に意味を落としているかもしれないし落としてないかもしれないよ
・それはそれとして読んでおいて損はない本だよ
以上
純粋に理屈の話としては常に「何か」は交換されんだよね。常在細菌だか善玉菌だか病原体だか。微生物が移らなかったらセックスでも会食でも握手でもないんだわ。
ほんで生物としては営みとしてその病原体交換行為をするけど、する回数が少なくてかつ生き残ってる奴がいればそいつの強さの表れだから回数を抑えようとしたり、交換する病原体が洒落なんなかったりするから回避しようとしたりするわけよ。
でも病原体の交換がなかったら接触ではないんだわ。これを文化人類学者だか考古学者だか知らねえけど文系がガヤガヤ言えねえのはダメだろと思うわ。理系も言っていいけどさ、どこの職掌か知らんけどさ。
あと「する回数が少なくてかつ生き残ってる」はお前ら正確に読めよ。ヤリチンと童貞には等しく価値がないってことだぞ、両方を満たさなきゃカスよ
はい。
ミサンドリーは女性差別に対する正当な反発であって、ミソジニーとは根本的に違うものです。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC
「文化人類学者デヴィッド·D·D ギルモアは、ミソジニーが「ほとんど普遍的な現象」である反面、反男性的な社会制度を持つ伝統的な文化や組織的かつ一般的な反男性的な思想が浸透している例が世界的に見られないことから、男性に対する社会的な憎悪にミソジニーと相当するものはないと論じる[15]:10-13。 ギルモアは、アンドレア・ドウォーキンのように全ての男性を同一で絶対悪であると考える急進的な派閥が中にはいることを認めつつ、一般的にミサンドリーと称されるものは個人の男性に対する憎悪ではなく、伝統的な男性の役割やマチズモに対する憎悪を指すと理論立てた。すなわち、ミソジニーが女性の信条や行動などに関わらず、女性性に対する独立した憎悪であるのに対し、一般的にミサンドリーと称されるものは社会的な関係の中における男性の行動、態度などに対する嫌悪だとする(ドウォーキンのような急進的な立場はこれには当てはまらないとしている。」
ブレグマン(2021)『Humankind 希望の歴史』を勝間さんがブログで紹介しているが、その記事のブコメが地獄と化している。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/katsumakazuyo.hatenablog.com/entry/2021/08/12/162845
「なんとなくだが俺はこう思う」「著者はチェリーピッキングしててクソ」みたいな主張がエビデンスなしに書かれており(そもそも君たち原書読んだ?)、それらにスターが当然であるかのように集まっている。これらは理性的な議論でもなんでもなくただのエコーチェンバー現象である。やはり、ブコメという文字数制限があるメディアできちんとした議論を行うのは無理があることが分かる。
こういう学術書やそれに近いものを読むときに私が習慣としていることがある。本を読む前にプロによる書評を読め。
ここでのプロというのは、新聞でそういう書評をいっぱい書いているプロのレビュワーのことではなく、プロの学者のことである。
例えば、"Bregman Humankind book review"とかでgoogle scholarなどを調べると、文化人類学者によるこの書評がヒットする。
A Sceptical Review of Bregman’s 'Humankind: A Hopeful History'
https://www.newenglishreview.org/custpage.cfm?frm=190173&sec_id=190173
この書評によれば、「過去において狩猟採集生活で住民同士が戦争ばかりして殺し合っていたというのは基本的には嘘」というブレグマンの主張は文化人類学的には嘘っぱちである。
"As a journalist he not only knows very little anthropology but also has an irritating folksy style"(ジャーナリストのブレグマンは文化人類学についてほとんど何も知らないだけでなく、イライラするほど垢抜けない文体を用いており)、"This is reminiscent of a very bad undergraduate essay"(これはとても下手な学部生のエッセイを思い出させるような主張だ)、などとやたら攻撃的な評がなされており、それはそれで大丈夫かという気持ちにはなるが、少なくとも一人の専門家視点から見た学術的な評としては参考になる。もちろんこの書評が真理で『Humankind』は読む価値なし、とここで主張したいわけではない(私は文化人類学者ではないのでその判断はできない)。
このような視点で批判的に本を読解することは、当該分野の知的蓄積を持っていない素人には不可能である。誤った知識を盲信しないために第三者によるファクトチェックには目を通しておいた方がよい。逆に、その道の専門家が「よく書けた本である」と肯定的に評していれば、ある程度安心して読むことができる。
日本語の書籍なら「(書名) 書評」でググる。学者による書評に絞りたい時は「(書名) 書評 教授」でググったり「(書名) (著者名)」でGoogle scholarしたりするとよい。
英語の書籍(日本語に翻訳された本を読むときもこれで原著の評判を調べる)なら「(書名) (著者名)」でGoogle scholarするのがおそらく一番よい。ある程度有名な本ならプロによって書かれた書評が学術ジャーナルに載っており、それがだいたいヒットする。特にいわゆる文系の学術ジャーナルには毎号Book reviewコーナーがよくあり、そこに載っている書評は「本の主張まとめ」→「本の批判的検討」→「本の評価」というフォーマットで書かれていることが多いため大変読みやすい。ただ一つ問題があり、これらのジャーナルはほぼ有料である。研究機関に所属するか金を払うことによりこの問題は解決する。
また、twitterで「(書名)」で調べ、研究者っぽい人による短評ツイートを探して読むという方法もある。研究者のTwitterはだいたい実名かつ顔写真アイコン(ソース:私の印象)なので、それで目grepしてからプロフィールをチェックするとよい。ちなみに関心がある分野の研究者のtwitterアカウントは普段からフォローしておくとたのしい。
冒頭で「ブコメがやべえ」と批判したが、こういう風呂敷を広げまくって人類史を俯瞰したぜと主張する売れ筋本に警戒心を抱いてしまう気持ちはよく分かる。なぜなら、最近のそういう本に対しては「適当こくな」と専門家からツッコミが入ることが実際に多いから。
例えば、Humankindの書評として上に挙げたものを書いたC.R. Hallpike先生は、ハラリの『サピエンス全史』に対しても批判的な評を行なっている。
Review of Yuval Harari's Sapiens: A Brief History of Humankind.
ちなみにこのHallpike先生は、未開社会のフィールドワークを行なった経験から「最近のポップな歴史書は文化人類学的デタラメばっか書きおって」と心底お怒りらしく、全員(チョムスキー含む)まとめてぶった切る本まで書いている。Hallpike先生が過激な主張を好むことも踏まえると(参考: https://twitter.com/profdanhicks/status/1336981539893161984 )、この本に対するプロの書評が見つからないのは残念である。
C.R. Hallpike(2018). "Ship of Fools: An Anthology of Learned Nonsense About Primitive Society".
https://www.amazon.com/Ship-Fools-Anthology-Nonsense-Primitive-ebook/dp/B07HX4188K
また、このような人類歴史書スキャンダルとして最近話題になったのが、スティーブン・ピンカー(2019)『21世紀の啓蒙』における「学術的ルール違反」事件である。
ピンカーが書中で「科学史家による主張」として紹介していた言説が、脚注をたどると科学史家でなく社会心理学者によるものであったことが分かり、さらにピンカーによって引用されていた文章は実際には同じ論文内の別部分の文章を継ぎ接ぎしてピンカーにとって都合の良いように捻じ曲げられていた、という事件である。詳しくは以下のツイートを参照。
https://twitter.com/mccormick_ted/status/1419672144368308225
もちろん『21世紀の啓蒙』におけるピンカーの主張自体に対するプロからの異議申し立ても存在する。
https://www.abc.net.au/religion/the-enlightenment-of-steven-pinker/10094966
文化人類学者たちの報告によれば、現代においても、アマゾンとまではいかなくても、女性上位の社会はいくつか存在するようである。しかし、地球上の大部分の社会では、我々の社会のように、男性上位になっている。これに不満をいだく一部の女性たちが、最近、ウーマン・リブとやらいう運動をはじめて話題を呼んでいる。ウーマン・リブとはウーマン・リベレイション、つまり女性解放のことである。
だいたい女は男にくらべて脳細胞の数が少ないせいか(日本人の場合、脳の重さの平均値・男1372.9グラム、女1242.8グラム)浅はかさと愚かしさをもってその身上とし、それがまた魅力ともなっているのだが、浅はかさもここまでくれば、いささか許しがたい。
女性解放運動というのは、昔から禁酒運動と同じくらいポピュラーで、同じくらい成功率が低いものである。理由は簡単。禁酒を望む酒飲みと同じくらいの比率でしか、解放されたいと願う女性がいないからだ。
ウーマン・リブの指導者にはくやしいことだろうが、大多数の男が男らしくありたいと望むように、大多数の女は女らしくありたいと望んでいる。
ある日、男らしくない男たちが大同団結して、男らしさが、侵略と反革命を支える。男らしさの返上。男らしさの基準で男の優劣をきめる社会に怒りをたたきっける」とわめいてデモりだしたとしたらどうだろうか。あるいは、突然豚に知恵がついて、豚らしさの返上。豚らしさの基準で豚の優劣を決める社会に怒りをたたきつける」と、ブーブーいいだしたらどうだろうか。
女性に特有の思考様式は、現実を無視して議論を展開することである。
現実の第一。原始、古代社会においては、母権社会、アマゾン社会がかなり存在したにもかかわらず、いまは見る影もないということ。これが意味するものは、女性上位社会は、人間社会史において自然淘汰された不適応社会であるということ。社会の不適応性は、その社会体制維持のために、どれだけのエネルギーを必要とするかにかかっている。
歴史上、女性は抱く女から抱かれる女へなることによって自己解放をなしとげ、現に解放された存在なのである。ウーマン・リブが志向しているものは、一種の先祖帰りでしかない。それはフランスの王統派と同じくらいアナクロである。
ウーマン・リブの幻想をかたちづくっている現実無視の第二は、女性が生理的にも心理的にも、抱くよりは抱かれることに適しているのだということに目をつぶっていることにある。人間の生殖器官の構造と機能を一べつしただけで、生理的に、男性は能動的、女性は受動的にできていることがわかろう。
心理的には、女性心理学の第一人者、ヘレーネ・ドイチェが指摘するように、女性の特性はナルシシズムと受動性の二語につきている。しかし、不幸なことには、ごく一部の女性は、正常な女性心理の発達を阻害されて、抱かれることより、抱くことを望むようになる。
マリー・ボナパルトは、正常な女性は膣型であるのに対し、この種の精神的不具の女性は陰核型であるという。陰核は発生学的にいって未発達のペニスである。彼女たちは、膣という素晴しい道具を持っていることを知らずに、陰核がペニスなみでないという点に欲求不満を持ちつづける。その結果は、真のオルガスムスをついに味わえないという結果になる。
ウーマン・リブは、一夫一婦制を、女の性欲求の封じ込めと非難するが、これは彼女たちが精神的不具者であることを公表しているようなものだ。正常な女性の性心理からは、女性が自ら一夫一婦を望むものであることは、あらゆる心理学上のデータが証明している。
多淫な女、複数の男性を望む女は例外なく冷感症、不感症なのである。オルガスムス不全がニンフォマニアとウーマン・リブを生むといっても過言ではない。女性が真に解放されたいと望むなら、早くオルガスムスを味わわせてくれる男を見つけることだ。そしてそのとき、オルガスムスを味わうためには、女は抱くことより、抱かれることが必要なのだということを忘れないことだ。
●知の巨人・立花隆先生による井田真木子著「プロレス少女伝説」評
「プロレス少女」はどうでもいいことを巧みに書いた典型のような作品である。
私はプロレスというのは、品性と知性と感性が同時に低レベルにある人だけが熱中できる低劣なゲームだと思っている。そういう世界で何が起きようと、私には全く関心がない。もちろんプロレスの世界にもそれなりの人生模様がさまざまあるだろう。しかし、だからといってどうだというのか。世の大多数の人にとって、そんなことはどうでもいいことである。
俺は長年の田中芳樹ファンだけど、残念ながらその頃と今回とでは「当たり前の批判」の社会的意味が違うんだよ。認識をアップデートしてよ。
タイトルの通り増田は20年来の銀英伝ファンですが、私が銀英伝を知りネットの掲示板や個人サイトなどを見始めた当時から、ファンによる「銀英伝の女性キャラはステレオタイプ過ぎる」とか「田中芳樹は女性を描くのが下手」みたいな批判は当たり前のものとしてありました。今回炎上した冒頭のツイートもそれと同系統のものであり、作品内の女性の扱いに対する感想としては見慣れた内容で特に違和感はありませんし、個人としての違和感を述べたうえでリメイクにあたってのアップデートを希望するものであって、それ自体問題があるものとは思えません(なお、「Die Neue These」はリメイクではなく「原作の再アニメ化」なので、その点は事実誤認なされているものと思います)
うん、銀英伝のファンのあいだでは「あいつ女を描けてねーよな」みたいな評は普通のものだったよね。そういう意味で、例の社会学者氏のツイートの認識はごくありふれた銀英伝認識を示したものだといえる。それだけを切り取ってみれば特に叩かれる要素はない。
でもさ、
ことと、
twitterという、簡単に支持者を社会運動に動員できるプラットフォームで、これまでさんざんコンテンツを燃やしてきた社会学者っていう属性の人が、表現の内容を変えるべきだと口を出したら、単なる批評の域を超えて作品へのバッシングを煽動してるようにしか見えないんだわ。
ジェンダーがどうこうというのも、そういうバッシングの際によく使われる常套句だからね。
「あっ、この状況、キズナアイバッシングで見たことある!」って思っちゃうんだよね。
実際にそれらの描写を変更すべきか否かはそれぞれで判断が異なるのは当然としても、こうした意見に対して「現代にそぐわないから変えろって言いだす社会学者やべえ」などと嘲笑するのは原作者のスタンスを含めて明らかに論点を見誤っていますし、「銀英伝を燃やしに来た」などと反応するのは過剰です。挙げ句に社会学者というツイート主の職業にフォーカスしてその職業全体を否定するような言説まで行うのははっきり言って異常だと思います。
もちろん、昨今のネットの社会学バッシングはどう考えてもおかしい。一部のおかしな社会学者の存在で以て学問としての存在意義まで否定されるべきではない。
ところで、「すべての男がそうじゃない」みたいな言い訳をする男に対してノットオールメンって言ってきたのってどういう人たちでしたっけ?
文系のはしくれとしてはノットオールソシオローグスと言いたいところなんだけど、フェミニズムに同調して社会問題に口を出してきた社会学者がそれを言うことは、まあ論理的一貫性の問題を惹起するよなあ。
本件もそうですが、ポリティカル・コレクトネスを巡る議論においては「過剰なポリコレを押し付けるな!」などと主張する批判側にも個人の意見に対して過剰かつ攻撃的な言動を繰り返す「反ポリコレを旗印に個人を抑圧するネット憂国騎士団」みたいな存在も目立ってきており、まともな議論が成立しづらい状況になっているように思います。
マトモな議論が成り立ちにくい環境を作ってきた責任を反ポリコレの側「だけ」に求められても困るんですが。
ポリコレが高邁な理想としての側面しか持ち合わせていなかったのであればともかく、実際には他の表現を抑圧する棒として使われてきていたという前史があった上での反ポリコレ側の過剰反応でしょう。
つい最近起きた騒動にだけ目を向けても、ジェンダーを専門とする社会学者によってキズナアイがバッシングされ、フェミニズムを掲げる弁護士や研究者によって献血ルームが攻撃され、「ミカンはお母さんが買うもの」などと宣うフェミ学者たちがラブライブの農協コラボを焼きに来た、といった話があって、その上で今回の社会学者氏の感想への過剰反応があるわけ。
ポリコレ棒でヒステリックに殴られてきた側がちょっとでもポリコレっぽく見えるものにヒステリックに反応するのは自明の理では?
悪いけど、ポリコレ棒を振り回して暴れ回ってきたポリコレ憂国騎士団の皆様にはもうウンザリしてるんだよ。
だからといってこちらも憂国騎士団ムーブをしていいことにはならないけど、ポリコレ側の憂国騎士団ムーブのことを棚に上げて反ポリコレ側だけを憂国騎士団と言われても困惑するほかないんだよね。トリューニヒトみたいな詭弁やめろ(憤怒)
実際問題、2013年の人工知能学会表紙事件以降、表現(特にオタクコンテンツ)をネットで叩いて社会問題化し、金と名声を得るというのは、社会学者の定番になってる。最も顕著だったのが宇崎ちゃん献血ポスター騒動
いや、ネットで表現を燃やしたところで影響力とか声望とか自尊感情とかはともかく金は得られんよ(少なくとも学者の世界では)。金目当てで彼らが動いているというのは被害妄想がすぎる。そりゃ有名どころのレーベルで新書とか書けばまとまった金は入ってくるかもしれんが、彼らは現段階ではtwitterで吠えてるだけで別に一般向けに売れそうな本を書いているというわけでもないし。
この界隈Twitterさえ見なきゃ起きてない論争多くない?ほぼネットそれもTwitterでしか「社会学者」を知らなそうな人多くない?
そりゃ、多くの人には表現を燃やしに来る「社会学者」の姿しか見えてませんし……
アカデミアあるいはそれと近いところにいれば、社会学といっても色々あって、ハマータウンの野郎どもを研究する人もいれば聖なる天蓋を論じる人もいて、ジェンダーやオタク文化に関心を持っているのは一部であり、表現を燃やしに来るのはさらにその限られた少数に過ぎず、もっと言えば社会学者といっても博士課程の院生から誰もが参照すべき大御所まで「権威」に勾配があることくらい理解しているだろうし「社会学者」を十把一絡げに論じるべきじゃないっていうのは自明の理なわけだけど、燃やされた被害者からはそのごくごく一部の姿しか見えないので。
アカデミアと縁のないそのへんのオタクにとって、哲学者や数学者や工学者や物理学者や言語学者や文化人類学者なんてろくずっぽ知らないのが「普通」でしょう。普通の人は良かれ悪しかれそんな学問について詳しい知識は持ってないんだよね(漠然としたイメージは持ってるかもだけど)。だからtwitterのオタクがロクに社会学者について知らないってのもある意味当然なのよ。
そんな学問についてよく知らない一般大衆は、まあ、自分たちの表現を燃やしに来た一部の社会学者の姿を見て「社会学者」のイメージを形成しちゃうよね。
もちろん「そんな社会学者ばかりじゃない」という異議申し立てはどんどんやればいいと思うよ。「そんな男ばかりじゃない」と同程度には正当性のある反論だろうし。
『ムーラン』と『銀河英雄伝説』が同時並行で話題になってホッテントリに出まくってるのに誰も『風よ、万里を翔けよ』の話してないのおかしくない!?
KAMEI Nobutaka
@jinrui_nikki
『#コクリコ坂から』みたいな映画は、注釈なしに放送してはいけないのではないかと思います。
男子生徒たちが好き勝手議論して方針を決めていく中、なぜ女子生徒たちばかりがただ働きさせられているのだろうか。
「1960年代当時を描いたバイアスある描写です」みたいな説明を付けないといけないと思う
午後10:59 · 2020年8月21日·Twitter Web App
https://twitter.com/jinrui_nikki/status/1296809095379337217
高齢男性の理事長が、居並ぶ男子生徒たちの前を通り過ぎ、女子生徒に対してだけ肩を叩いて去っていくというのも、色濃くバイアスが出ていたシーンです。
こういう絵が、注釈もなしに流通することに、不愉快さと危惧を覚えます
午後11:12 · 2020年8月21日·Twitter Web App
https://twitter.com/jinrui_nikki/status/1296812541205602317
『風と共に去りぬ』だって、今や、注釈なしに上映することがはばかられる時代になっているでしょう。
作品を否定するつもりはありませんが、ただ流せばよいというものではない、という感覚はもっておきたい。過去を描いた作品が、同時代の私たちにもたらす影響を考えてのことです
KAMEI Nobutaka
@jinrui_nikki
文化人類学者。愛知県立大学の国際関係学科在職。「ジンルイ日記」を書いています。
Japan / Africa
まず、文化の盗用、と主張するに足る背景がある、認識している当事者や賛同する人達が、もともと結構いるのよね。
それはお辛いでしょう
「補聴器や人工内耳があれば、手話は必要ない」「手話を使うと日本語を覚えない」みたいに言われて育ってきた聞こえない人は沢山いるし、
大変でしたね
結構なことです
続き)人達がいて、過去の同じ様な人達の活動により、街中で手話を使って話すだけで奇異の目で見られることは少なくなり、
大変でしたね
ただ、手話が一般的に普及していくのと同時に、まず最初に、聞こえる人が覚えやすい手話表現が広がった、という問題があったんですよ。
それを問題と言われても
何が問題なんですか?
アニメで日本語に触れる外国人は「キサマ」とか変な二人称から覚えるし、「アラアラ」という言葉をセクシーな年上女性と結び付けています
そんなもんでしょう
それはそうでしょうけど
それを、どこまで許容するかってのは議論があって…(続
聞こえない人が使ってる手話表現こそが正統派って思ってる人から、いやー少しくらいヘンテコでも手話が広まる方が大事だよーって人まで、いろんな考え方の人がいるんですよ。
その二者って衝突してなくない?
「普及は大事」「このバージョンが正統」これ衝突してないよね?
え、お話一通り終わり?
何がどう複雑であるのか、健聴者が手話学ぶことの問題が那辺にあるのか、お話聞いてもさっぱりわからなかったのですが
どこかで示されていましたか?
まとめると
1~4は「手話はこんなに抑圧されてた歴史がある!」というお話なんですよね。
はあ。
大変でしたね。
同情します。
でもそれが
本題である「健聴者のガキが手話を学ぶことは不当である」「文化の盗用である」という主張をどう後押しするのかさっぱりわからないんです。
本当にこれだけなら、ただの未整理のモヤモヤしたお気持ちの八つ当たりに見えるのですが…
5~7は「健聴者の手話には独特のクセがある」「それをどこまで許容するか」というお話。
はあ。
そりゃ聞こえない人と違うクセが出るんだろうなってことは言われるまでもなく想像できることですが
それの何が問題なのか、なんで許容するとかしないとかいう話になるのかがわからないんです。
中国人の日本語は独特のイントネーションや助詞のクセが出ますが、「それをどこまで許容するか」なんて話しますかね?
もちろんあまりにクセが強くて意志疎通出来ないとか、凄く失礼な雰囲気になってるとかで、「ここはこう治した方が役に立つよ」ってことはあるかもしれませんが
そういう話じゃあないんですよねえ。
じゃあなんなんですか?
8~9は、何も衝突してない2つの立場が対立的に書かれてるのでこの人大丈夫かってなります。
「Aが正統」と「Bが正統」なら戦争ですが、「普及は大事」と「Aが正統」は何も衝突してない。
さらに問題を複雑にさせてると思うのは、長いあいだ手話がしいたげられてきたからか、聞こえる人の手話感におもねる判断や行動をする、聞こえない人がけっこういまして。
少なくとも解決は聞こえない人の精神変革でしか達成しないですよね
おもねるのはやめよう!おわり
この人どうも「問題は複雑」って言うのが好きみたいなんですが、書いてること見る範囲ではそんなに複雑じゃないんですよ
自分が物事を整理整頓せずに思考してるだけなんじゃないんですかね。
文化の盗用って主張は、そういった聞こえない人達に対して、手話は自分達のものだよ!!って呼びかける意味もあったりするのよね。
はあ?
聞こえない人達に、「聞こえる人へおもねる必要はないでしょう」と呼び掛けるべき話を
聞こえる人達に、「手話を使うな!文化の盗用!」と言う。それが何故なのかがわからないんです。
例えば、年配の人に多いんだけど、普段はとても魅力的な活き活きとした手話を使う聞こえない人が、
痛ましい話かもしれないけど
それって聞こえる人間が手話を勉強しようとしたことが悪いんですか?
って聞くと、えー?ただ単に初心者向けに、わかりやすく表現してくれてるだけじゃないの?って思うかもしれないけど、そうじゃないの。
手話は文化であるって主張する人の本とか読んでると、聞こえる人が使う手話のほうが正しい表現だと思っていた、ってエピソードはわりとでてくるのよ。
それ聞こえる側にどうも出来ない問題ですよね?
その問題は「聞こえない人がちゃんとしよう!自主性を持とう!」 としか言いようがないことでは。
むしろ手話教室に出席しにきた聞こえる人達は生徒として教わる側なので
「あんたたちに教えてる手話は実はあんたたち向けに文法変えてるんです」とかも、言ってあげないと困るじゃんわかんないんだから。
彼等彼女等に何かできるの?それ。
はあ、大変でしたのね
でもご説まるまる拝聴しても
結局何が「文化の盗用」なのかさっぱりわからなかったんですよ。
耳聞こえるガキが手話勉強したことの何が問題なのかも結局全然言えてないですよね?
手話界隈のTwitterをゆるく眺めてる人としては、「お、また、いつものやってるな」って感じだったけど、話題が大きくなったので、
っていうから長々読んで、結局これだぜ
→さっぱりわからない
→さっぱりわからない
アホちゃう?
主張を~
ま・と・め・ろ!
これが基本形。な。
ポエムはどうしても書きたいなら基本を済ませた余白で書け。
なんでいっちょ噛みして「自分の言葉で語ってみます」からの、長文費やしながら全く何への説明にも回答にもならないポエムなの?
それってバカじゃん?
でさあ、この人個人がどうこういうより、このタイプのバカが多すぎない?世間。
私はバカだと思った相手について、相手が何故バカなのか、どうバカなのか、
逐一当人の言葉を引きながら、ちゃあんと理屈で説明してるでしょう。
私へ異論反論したい人は「待て、ここの論理がおかしい」「ここの前提が間違いだぞ」って簡単に反論出来るんですよ。
(まあ本格的バカはそれすらできないので「こいつなんかムカチュク!」という概観的お気持ちを喚くだけで終わりですが)
おバカさん全体に言いたいのは
「自分の気持ちを上手く表現できる言葉が出てくるまでもうちょっと考えてから言葉にして、文にしようよ」
ってことなんです。
全然理屈が整理できず論理も通ってないまま」「文化の盗用」みたいな大雑把なバズワードだよりで発表するなと。
自分が整理する気ないだけなのに「問題は複雑で~」とか言って投げっぱなすなと。
口での会話なら頭の回転とか語彙力とかでその場で上手く出てこないってのはある、それは酌量しますよ
でも文で発表してるのにお気持ちそのままボヤボヤ思考そのままで論理がなんにも通ってないのは甘えだと思うんですよ。
私は表面的にはちょっと口汚いけど、それなりに礼儀正しく書いてるんですよ。
お前のその整理されてないお気持ちや全くまとまってない思考をそのまま他人様に見せるなと。
つうか、よくそんな脳内がゴミ屋敷のような状態のまま生きていけるな、気持ち悪くねえのかなってバカを見るたび思います。
oka_mailer 知らない事ばかりだった。こういう背景を理解しないで「文化の盗用」に文句つけても話にならんわな。
2020/07/31
これ全く栄養の無いスナック菓子みたいなコメントですけどこれが1位なんですよ。
誓ってもいいですけど、こんな無内容なこと書くの、別に何もわかってないし、何も理解してないし、
そもそも読んだもの咀嚼して自分なりに考えるということすらしていないんですよ?
全然脳細胞動いてないけど、なんか殊勝で感心な態度に見せるテンプレートを使ってるだけ。
そして同じぐらいのレベルの人たちが「立派な人だ!」って☆を付けてトップにするわけ。
「うーん、もんだいはふくざつなんだ!」「しんしなたいどがだいじだ!」
全員なんにも考えてない。
考えること頑張る前に、”殊勝に見える仕草"だけ身に着けたんだね。
ゾンビみたいだよね。
こう挑発しても誰一人として意気地を見せないですよ。
ponpon_qonqon おまえも反論できてないじゃん。
私は「こいつらは何を主張してるのかすら不明」と言ってんのに反論出来てるわけないじゃん。
1.一行目と二行目繋がってなくない?
2.その押し付けについて、「ガキが給食中黙って会話出来るように手話を学びましょう」って話がどう関係してくるの?
あの小学校のガキが手話でコロナ飛散を防ぐと(そこまで上達すると思えないけど)、聾者が口話法手話を押し付けられて混乱するの?
なかなかにすごいバタフライエフェクトだけどそれちゃんと検討してから発表してる?
3.あんたのその主張はかなりチョウチョが飛び回ってるけど、少なくとも一つの反論可能な主張ではある。
元のカッキー氏やさらに大元の文化人類学者氏はそういう一定の主張すらちゃんとやってなくて、何が何だか全く分からない。
「文化の盗用」というコンテンツ不明のバズワードで威嚇し、そのワードの定義は何だと聞かれると怒るという糞仕草をいい加減にしてほしい。
maruX 全く持って分かる気がないくせに、自分に分からせろ自分が分からなければお前の主張は論理的でないという良く見るやつじゃん。「ガキ」呼びといいあらゆる方向に敬意がない酷い増田。
2020/08/01
どうダメなのかこれだけ粘着長文書いて説明する人間に「分かる気がないくせに」ィ?
失礼ながら、どんな話題についてもあなたよりは真剣に分かろうとして読んでると思うよ。
maruX 2020/08/01
意味わかんね~~~~ ふわっふわ。
でもこういう「何となく殊勝な感じに見える態度」を取ることにだけは長けてる感じがすごい伝わってくるよね。
何故直接聞いたらいかんのですか?簡単に聞けるツールと環境があるのに。
聾者様に失礼だぞみたいな話?
この「なんで?」はしーらいおにんぐに当たるんですかね?
ちゃんと根拠と思考を持って発言してる人ならノータイムノー負担で答えられるようなことしか聞いてないんだけど。
これぐらいが不当な問い詰めだと感じる人は自分の脳のフローを見直した方がいいと思うんよ。
otihateten3510 なげーよ。
なげーなすまん。
それならそう書いてくれりゃいいと思うけどね。(もちろんその危惧の妥当性は検討するし怪しすぎたら突っ込むけど)
そういう風に何かをはっきり書くこともなんか避けてねえ?
rci 聾者よりも健聴者の数が圧倒的に多いから、でしょ。そのせいで、本来は聾者のものがどうしても健聴者に乗っ取られがちになるということが、この増田はなぜわからないのだろう。
2020/08/01 リスト
健聴の手話利用者が聾の手話利用者を上回るなんてまるで考えづらいねというのがまず一点。
そんでカッキーさんはあなたのようにはいってません。抑圧の歴史があるせいで聞こえない人が卑屈になってしまいがいなのが問題だといってます。(手話人口が逆転するなんて仮定は荒唐無稽なので採用しなかったのかもね)
私の故郷はとても寒い場所にあって、そこで大人になるまで暮らしていました。
事情があって町を出てから初めて、あぁ、私はここから本当に離れたかったのだなと気がつきました。
一人暮らしを始めた日は大雨警報が出ていて、ラジオからは空港で足止めになった人がインタビューを受ける声が聞こえました。
これから暮らす知らない街は嫌がらせのように道が入り組んでいて、番地の順番はひどく不規則でした。土砂降りの中、散々迷ってほうほうのていでアパートに辿り着いたとき、私は全身ずぶ濡れで、まるで服のままシャワーを浴びたかのようでした。
電気がまだ通っていなかったので部屋の中は真っ暗でした。ドアを開けると、安くて古い家特有の匂いがして、一歩進むごとに床がぎしぎし鳴りました。アパートの廊下の灯りに照らされて、自分だけの部屋に一人佇む私のシルエットが浮かぶのが見えました。
それを見た瞬間、お腹の底からわーっと力強いエネルギーのようなものが湧き上がってきました。
半径数十、いや数百キロメートル圏内には私のことを知っている人はたぶん誰もいなくて、その事実はしびれるような幸福感をもたらしてくれました。
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色々な街に住むための行動を起こしたのではなく、そのときどきで必要な行動をした結果色々な街に住むことになったのですが、
無意識のうちに移動を伴うような選択をしてきたのかもしれません。
夜の車窓から見える街の明かりのせいで心細くなるので、旅は好きではありませんが、
知らない街でそこの住人に擬態して生活するのはとても楽しいことでした。
その土地の美しい景色、独自の生活様式、特徴的な食べ物、そしてそこに住む人々について知るたびに、自分がまるで文化人類学者であるかのような気がしました。
そして、
何か嫌なことがあったり、滅多にないことでしたが人間関係にまつわるトラブルに見舞われたとき、
最悪引っ越せばいい、と思えるようになってからは、悲しい気持ちや、人への執着や、期待といったものを水に流すことができるようになりました。
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今の街に来てから、もう四年間が経ちました。
適度に都会だけれども人々にはよそよそしさがなく親しげで、食べ物も美味しくて、とてもいいところだと思います。
ですが、しばらく同じ場所に住んでいると何だか息苦しくなってきて、変化が欲しくなってきます。
本来ならばこんなに長くここにいるつもりはなかったのですが、なぜ留まり続けているかというと我ながら陳腐だなぁと少し呆れるのですが、好きな人ができたからです。
ここに来てしばらくして知り合ってすぐ好きになってしまったのですが、半ば世捨て人のような生活をしてきたので自分に自信がなく、そのため何らかの働きかけをする勇気が出ませんでした。なので、特別な関係になりたいとは考えていませんでした。
そう思っていたのですが、ちょっとしたきっかけでとても親しくなって、一年ほど前からお付き合いしています。
その人は、私と雰囲気は少し似ているのですが、
穏やかで、よく考えてからゆっくり話すタイプで、生まれてからずっとここで暮らしていて、子供の頃からの友人と今でも親しくしていて、とにかくそういった意味で全然性質が違う人です。
ずっと一緒にいたいなと思います。真偽のほどは不明ですが、その人も同じように言ってくれます。
ある日、一緒に遠出したときに、私たちの住む街を見下ろせる小高い丘のようなところに行きました。
道中で、この街が好きですかと恋人に尋ねました。彼は、好きですねと答えました。
眼下に広がる街の明かりはとても綺麗で、繋がれた手のおかげで心細くなかったのですが、
私はずっとこの街で暮らすのだろうか?本当に?
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ときどき漠然とした言い知れぬ不安に襲われるのは、私のアイデンティティが脅かされているからだと思います。
ずっと同じ場所で暮らしていくのなら、これまでのやり方、最悪引っ越せばいいという姿勢ではいられません。
それに、恋人と過ごしていると、自分の境界がわからなくなるような気持ちになるのでした。
うまく言えないのですが、
一緒にいると、彼の体から出てくる粒子の細かい不思議な粉が私の肺の奥深くまで入り込んで、頭がだんだんぼうっとしてきて、
そうしている間に二の腕やらふくらはぎやらの軟らかい場所から順番に食べられていくようなイメージが浮かびます。
最近では、自分が無意識のうちに彼のような言動や考え方をしていることがあります。
このまま放っておくと、私は恋人とこの街に徐々に侵食されて、いつか個を失ってしまうのではないかという気がしています。
でも、それも悪くないと考える自分もいます。それどころか、むしろそうしたいとすら思っているのかもしれません。最近は自分のことがよくわからなくなってきています。
だんだんぼんやりしていく頭の中で、今まで暮らしてきた街の景色や人々、初めて一人暮らしをしたときのわくわくするあの感じ、寒くていつも天気が悪い白くて小さな私の故郷のことなどを考えて、
旅をしてきたのではないはずなのに、楽しい旅だったなと、胸のところがすうすうするけれども懐かしくて暖かい気持ちになって涙がこぼれました。
祭祀・祭礼の形は、世界各地で多様な形を示す。そして、原初の祭は、一つの信仰に基づいていたと考えられる。
すなわち、豊穣への感謝・祈りであり、ジェームズ・フレイザーの『金枝篇』では、生命の死・再生を通して考察された。
そうした祭りの起源から、その地の歴史・文化を紐解くことが、文化人類学者としての私の仕事の一つだ。
世界中の祭りは樹形図のようにつながり、あるところで結びつき、あるところで消えたりする。
しかしながら、そうした系譜に属さず、あたかも以前からそこに存在していたかのように突如として実存する、そのような祭りが存在していたとしたら。
しかもそれが、長い歴史で見ればコンマ1秒にも満たない期間に、世界中で同時多発的に出現していたとしたら。
そのような悪夢とも天命とも思われる事態に、私は今直面している。
初開催は今から200年前の西暦2018年頃。内容は泥水の上にかけられた細い橋の上を自転車で渡るという、娯楽要素の強いものだ。
そのあたりの時期の情勢と照らし合わせて、少し違和感を覚えたが、まあ分からなくはない。
私はそれを持ち帰って、研究材料にしようと考えたのだが、どのような歴史書を辿ってもその祭りの起源が見当たらない。
まあ、起源不明の祭りに今まで出会わなかった訳でもない。この祭りもそれらの一例に過ぎない、とその時は考えていた。
これも良い機会か。と、私は今まで起源がわからず調査中であった祭り、それから歴史書などには載っていないが現地に行って新たに発見した祭り、などを改めてまとめていった。
一つ目はそれらの祭りがどれも2000年代の数年の間に発祥であること。
それからもう一つ。
どの祭りにも第1回大会にはダイスケミヤガワの記録があること。
これらの事実が想起させる、ある種馬鹿げた仮説はただひとつ。ダイスケミヤガワ、あるいは彼の属する組織がこれらの祭りを造ったのだ。
世界中の村々で。
突然に。
何のためにー。
ハロウィンは昔から日本の一大イベントだ。そこで生まれる経済効果はこの国だけでも数兆円と言われている。
ダイスケミヤガワも、そのような経済効果を目的として祭りを作った可能性を考えてみた。しかしながら、祭りの内容を鑑みるに、その可能性はほぼ無いに等しかった。
事実それらの祭りが何らかの経済効果を生んだという記録はない。
私は視点を変えて、ダイスケミヤガワの人物像を調査することにした。
これだけの短期間に、これだけ多くの祭りに参加しているとなれば、恐らく彼は祭りの賞金で生計を立てていたと考えるのが普通であろう。
もしくはー。
祭りを造り、それに参加することが彼の仕事であった、とでもいうのだろうか。
わたしにはダイスケミヤガワが全くの同一人物を指しているかどうか、確かめる術は残されていない。
そのため、以下ダイスケミヤガワとは、ある特定の人物もしくは組織の総称とする。
冒頭でも述べたように、祭りは、元を辿ると神々への信仰を目的としていることがほとんどである。ダイスケミヤガワは、これらの祭りに信仰の意味を込め、布教していた宣教師(達)だったのではないか。
つまるところ、ダイスケミヤガワの行くところに祭りができ、祭りのあるところに、ダイスケミヤガワがいたのだ。そうとしか説明仕様のない史実が、私の前に広がっている。
しかしともすると。