はてなキーワード: 海風とは
これは毒親持ちのオタク女子(23)から、惣流・アスカ・ラングレー(式波・アスカ・ラングレー)に送る、一方的なラブレターである。
14歳の時に、DVDでエヴァを見た。画面の中で、私と同じ年の少女が「エヴァパイロットではない自分には価値などない」と、心から真っ赤な血を流しながら叫んでいた。その姿を見て私は泣いた。彼女の機体にかけられた虹色の光に、そしてその身を裂くような苦痛に、私も一緒に襲われていた。
それが私と惣流・アスカ・ラングレーの出会いだった。
アニメ版、旧劇場版でのアスカは母親に存在を否定されたという過去があり、自分自身の存在をエヴァパイロットであることに依存している14歳の少女だ。とても愛らしく美しい見た目をしており、自分の培ってきた能力で他者を圧倒することを厭わない高飛車なその性格と内側に抱えた闇は、一瞬で私を虜にした。
アスカが私を虜にしたのは、私の状況が彼女に酷似していたからだ。もちろん私はアスカのような美少女ではないし、大学に飛び級出来るほど頭が良かったわけでもない。しかし一応、県のトップ高校に行ける程度には勉強はできた。父というモラハラ上司に四六時中監視され自尊心を根こそぎ奪われていた私にとって、勉強はプライドの拠り所だったのだ。それだけが、私の誇りだった。
だからエヴァパイロットであることを拠り所にしているアスカの気持ちは痛い程よく分かった。そしてそれを取り上げられる苦痛も、それがなければ他者と関わることができないという辛さも、何もかも。
それ故、高校から大学にかけて私は彼女を愛した。彼女と出会う前は派手だと遠慮していた赤も、彼女の色だと思えば愛おしかった。私のような地味な女には似合わない赤の小物がいつしか部屋の中に増えていった。
ランダムのラバーリストバンドの箱を開けて、彼女の機体をモチーフにしたカラーではないものが出てきた時は心底がっかりした。
「あんたバカァ?」という嘲りを含んだ声色も、その内側に抱えているものを知る私には愛らしく響いた。
『心よ原始に戻れ』を歌うときには、いつだって彼女のことを思い浮かべていた。
彼女の高慢な態度も、その華奢な身体に内包した闇の深さも、海風に髪がなびいたときのきらめきも、心が壊れて廃墟のバスタブに横たわっていたときの姿も、頑なに心を開かないところも、最後にシンジ君に対して「気持ち悪い」と吐き捨てたところも、惣流・アスカ・ラングレーを構成するすべてを、私は愛していた。
しかし新劇場版では、アスカは母親の因縁から解き放たれていた。加地リョウジを愛することもなかった。それどころか何のきっかけもなくシンジを愛し、レイに碇親子の会食を勧めるようお膳立てしさえした。
そんな彼女は私の目にはまるで安っぽいギャルゲーの物分かりの良いサブヒロインのように映った。アスカがシンジを好きになるきっかけが埋まったエピソード(瞬間、心、重ねてとマグマダイバー)は、新劇では全てカットされていたからだ。
好きになる理由がないのにどうして?やっぱりシンジ君を上げたいだけの話なの?最近流行りの異世界転生のように?くだらない、くだらない、くだらない!
アスカの扱いの粗雑さに腹が立った。
私は新劇のアスカを愛することはできなかった。私の愛するアスカは惣流の名を冠する彼女だけだ。胸を貫くような痛みを共有できる彼女だけが、真のアスカ・ラングレー。そう、思っていた。
が、シンエヴァで彼女が救済されたことを知ったとき、素直に涙が零れた。心の底から良かったと思えた。彼女の首にはもう、DSSチョーカーはないのだ。置いて行かれたという気持ちがなかったわけではなかったが、いつか私もそうなれるのだというエールのようにも思えて、映画館で静かに泣いた。
私もいつか、父の呪縛から解き放たれ、自分自身の人生を生きることができるだろうか?
遠くから、私を嘲笑う声が聞こえる。お前は必要ないと叫んでいる。お前など産まなければよかったと、感情的に叫ぶ声が聞こえる。女の癖にと嘲る声が聞こえる。雪の日に裸足で外を歩かされた記憶も、八歳の時に殺されかけて失禁した記憶も、寄生虫と呼ばれたことも、女のお前など中流の公立高校で十分だと言われたことも、受験した大学が一つしか受からず受からなかった分の受験料をどうするのだと土下座をさせられたことも、弟が父に刺されそうになり慌てて止めたことも、十八の時に父の頭をフライパンで殴ろうとするも喧嘩慣れしていなかったせいで肩に当ててしまい殺しきれなかったことも、成人式の時に着物代を一銭も出さなかった父に私の用意した貯金額があまりに少ないと文句をつけられたことも、なかなか消えはしない。それはどうしようもなく、私の一部だ。
でもそれもやがて遠い記憶の中に埋もれ消えていく。
私が、未来を見て歩き続けるのなら。
傷つくことを恐れず、他人と関わっていこうとするのなら。
父の呪縛を一気に解いてくれる何かなんて、ありはしない世界で私は生きている。でも私はそれでいいと思う。確かにそんなものがあったらいくら金を積んだっていいけれど、ありもしないものを求めたって仕方がない。
アスカ。私がいつか父の呪縛から解き放たれたら、一緒に日比谷の無印カフェに行ってくれないか。そこでお茶をしよう。ケンスケくんの話をしよう。呪縛から解き放たれたきみと、一緒に笑いたい。
そんなことを言ったら、きっときみは「気持ち悪い」と言う。でも構わない。「気持ち悪い」と言われるのを恐れずにきみに話しかけられるようになること自体が、私が呪縛から解き放たれた証なのだから。
アスカ、いつまでもきみを愛しているよ。ケンスケくんとお幸せに。
ふと生まれ育った町の情景を夢で見て、多少思うところがあったので気持ちを書き留めようと思う。
静かな入り江から小さな漁船が海の彼方へ消えゆくような、そんな夢だった。
最近よく見かける「田舎で非知識階層に囲まれて育ったけど、地元に馴染めずなんだかんだで都会に出てきて過去やホームタウンを思い返すたびに多少絶望する」という散文的な自分語りであることを先に断っておく。
ただの個人の経験であり、エスノグラフィのようなものだと思って読んでもらえれば嬉しい。
確かに「東京の人間が想像することも出来ないような社会」が日本のどこかには必ずあって、学ばないことが規範と化して社会が再生産されているということ。
名古屋まで電車で1時間半以上、文化的な施設といえば聞いたことのない演歌歌手がたまに来る小さな市民ホールと、小さな本屋が2軒あった。
2軒の本屋は万引きの被害額が大きすぎて自分が町を出た後に潰れた(跡地はセレモニーホールという名の葬式場になった)。
1時間に一本しか電車のこない駅から伸びるメーンストリートで今でも開いている店は、年金暮らしの年寄りが趣味でやっている畳屋と宝くじ屋しか無かった。
街中でスーツ姿の人は見たことがほとんどなかったし、そもそも人が出歩いている記憶すらない。
高卒で一度も町から出たことのない母親は、漁師を相手にする場末のスナックで働いて自分を育てた。
同じ町で漁師をしていた父親はフィリピンパブで出会ったフィリピーナに入れ込んで、小学2年生くらいの頃に母親と離婚した。
それより前には「キミの父親は不倫をしているんだ」と小学校の同級生の母親から聞かされた。
相手は近所に住んでいた太ったおばさんだったので、あんなデブとなぜだろうとその時は疑問に思ったけどすぐに忘れた。
最後に父親と会ったのは、父親が家を出て半年後くらいに小遣いをやるからと呼び出された紫煙で視界の悪い雀荘だったと記憶している。
その後は行方不明で、風の噂では今はマニラに住んでいるらしい。
こんな家庭環境は、東京の自分が属するコミュニティでは聞かない。
なぜそんなことにわざわざ触れたかというと、自分の家庭は何も特別ではなく、周囲を見渡せば程度の差はあれどどこもそんなものだったから。
親が大卒の同級生なんてクラスに1割も居たかという感じだったし、自分が通った地元の中学校には200人くらい同級生が居たがそのうち大学に進んだのは20人くらい。
自分は博士まで進んだが、マスターレベルですら聞いたことがない。
あとで詳しく触れるが、そもそも勉強をするとか考えること自体を忌避するという一貫したスタイルがあらゆる局面で通底していた。
さて、シングルマザーの家庭はクラスに3割は居たし、両親が揃っていても母親・父親違いの兄弟姉妹が居るなんて話も珍しくない。
親世代の職業は漁業か水産加工、町工場、自動車修理で、小中学校教諭や公務員の子息は格の違いを醸し出すスーパーエリートの家庭扱いだったし、家も小綺麗だった。
スーパーエリート以外は、トタンの壁が海風で茶色く錆びて、汲み取り式のトイレから伸びる煙突の先がクルクル風で回っている文化住宅か、古民家カフェを思いきりボロボロにしたような都内なら廃屋だと思われるような家に住んでいた。
町工場に勤めている人たちで指が無くなったなんて話もよく聞いたし、どこそこの家が生活保護受給とかという話もよく聞いた。
クラスメートが学校を翌日休む理由が、その前に起こした暴力事件で家裁に呼び出されているからとかもよくある話だった。
そんな彼らが余暇にすることといえば、スナックかフィリピンパブ、ギャンブル、セックスくらいしか聞いた限り思いつかない。
確かに、成人した兄がいる同級生の家に遊びに行った時には、真昼間から居間で同級生の兄と派手な格好をした若い女性がセックスをしていたし、パチンコ屋には毎朝人が並んでいた。
ギャンブルはパチンコか電話で投票する競馬が主流だったが、甲子園の季節になると地元の暴力団が元締めをする高校野球賭博も流行っていた。
暴力団は偽ブランド品も売りさばいていて、軽自動車にスウェット姿だけど鞄は高級ブランド(偽物)という出で立ちの女性をよく見かけたものである。
まぁこんな感じでつらつらと思いつくまま挙げてみたが、自分の身の回りで溢れていたのは、キーワードでいえば貧困、性、暴力、ギャンブルだった。
そもそも大人たちがそんなスタイルだったので、子供達も似たような社会をフラクタル図形のように構成していた。
小学校の頃には駄菓子屋やコンビニでの万引きが横行していて、後に刑務所に入るような子供たちはその時代からすでに盗んだタバコを吸って、やっぱり盗んだバイクに乗っていた。
暴走族(ゾク)に入って大人たちを殴ったり大怪我するほどのゾク同士の喧嘩をする中学生たちが小学生のヒーローで、ゲリ便が出る時のような音を撒き散らすバイクに皆憧れていた。
そんな時に暴力的な彼らは、異質な存在を排除することが大好きで、異質とみなされた同級生は徹底的に排除された。
小学6年生のとき、教室に入ったらメガネをかけている子が素っ裸で椅子に縛り付けられて頭にバケツを被らされていた。
メガネは弱いものの象徴で、勉強や議論をするような人間は排除の対象だった。
文革かって感じ。
反対に、野球が上手いか、足が早いか、ケンカが強ければヒエラルキーの上部に君臨できる。
動物的に強弱を判別できることがそのままヒエラルキーの源となっていたし、意思の合意は感情とその時の雰囲気で決まっていた。
そして中学生になると、今度は成績が良い人が排除の対象となる。
真夏に水を飲まずに走りこんで泣きながら試合に負ける部活に打ち込むことがすべてに勝り、もしくは非行に走ることがある種の中学生らしさであるというコンセンサスを伴って正当化されていた。
授業中には廊下を自転車が走り、思い出した頃に校庭に暴走族や野良犬があらわれる。
トイレにはタバコの吸い殻が落ちているし、たまに窓ガラスは割られていた。
教師はたまに殴られたり、殴り返したり、車を壊されたりしていた。
一方で登校している生徒にとっては、校則はフーコーのパノプティコンも真っ青な規律を自動化させるもので、髪型は男子は坊主、女子は肩まで。
他にも細かい校則がたくさんあって、破れば容赦無く教員から殴られる世界だったし、皆が一緒であることを望んでいたので、逸脱すれば容赦無く告げ口されていた。
校則を破らなくても、目立てば排除の対象になりうるので、いつしか自分も誰かが見張っていると意識して、いかに溶け込むかを重視するようになっていた。
そして積極的に学んだり考えることが嘲笑の対象であったので、そこでもやはりセックスをしたことがあるかとか、バイクの知識があるかとか、そういう分かりやすい尺度でヒエラルキーが構成されていた。
授業中に教師から指名されて小難しい答えを言ったり、発音記号通りに英単語を発音しようものなら3日は真似をされてイジられるのは御多分に洩れず自分の地元も同じだった。
テスト期間は早く帰れるので皆喜んで下校後に遊ぶレベルの勉強に対する姿勢で、将来は男子は工業高校、女子は商業高校に通ってそのあとのことは何も考えないのが一般的だった。
ここまでは自分がライブで触れた15歳くらいまでの環境の話で、せいぜい15年くらい前の話だ。
はっきり言えば、そのような環境はまっぴら御免だし、そんなところで自分の子供を育てたくはない。
さて、経緯は知らないが、自分は幼稚園の頃にIQテストを受けた。
そのあとに、あなたの息子は知能指数が高いから相応の教育を受けさせてあげてくださいと園長先生から母親はコメントをもらったらしい。
大学のことすらよく知らない専門学校卒の母親だったが、自分を都内か海外の全寮制の学校に小学生のうちから預けようとした。
だが、当時の自分はこともあろうに泣き叫んで拒み、結局は地元に残ることを選んだ。
当時のことはよく覚えていて、理由は友達と離れたくなかったから。
その時に知りうる限りの世界を取り上げられることに対する極端な不安が何よりも勝っていて、母親は息子の気持ちを優しくも汲み取って折れた。
小学校に上がった時、小1か小2くらいの頃から、本を読み始めた。その頃に三島由紀夫や島崎藤村やら、古い作品から新しい作品まで縦横無尽に慣れ親しんだ。
早朝に登校して空いた時間や、ジャンケンで負けて押し付けられた図書委員の時間、図書室でひたすら本を読んだ。
そのうちに、自分が生活する社会と根本的に異なる社会、つまり学び、考えることが重要であるという社会が存在することを知った。
哲学や思想系の本はもちろんのこと、西洋美術の画集や建築の写真集に心を揺さぶられたし、マーラーのCDを初めて聞いた時の感動は死ぬまで忘れないと思う。
めちゃイケを好むふりをして、自分は加藤周一の羊の歌に感銘を受けて、とりあえず東大に行こうと中学の頃には考えていた。
そして周囲に迎合しつつも高校に進んだ。いわゆる地方の公立トップ校だった。
他にも理由はあったと思うが、中3の時には成績が良いという理由でものを隠されたり上履きにガムが入っていたこともあった。
入学から1ヶ月もしないうちに、明らかに新たな社会、社会階層に自分は組み込まれたと自覚した。
同級生の親の職業は、医者、弁護士、会計士、大企業の社員ばかりだった。
誕生日には名古屋のデパートの上層階のレストランだったり、どこぞで伊勢海老を食べるだのとそんな話もたまに聞いた(成金的な家はあまり無かったけど)。
彼らの親は旧帝国大学出身はざらにいたし、兄が東大、今はオックスフォードに留学中とかそんな話も当たり前にあった。
幼い頃からピアノやバイオリン、書道、バレエ、スイミングなんかをやっているのがマジョリティだったし、週末に美術館やコンサートホールに足を運んだという話も決してレアな話ではなかった。
彼らと出会ってとかく感動したのは、好きだった本や芸術の話を初めてリアルの人間とできたことだった。
そして何より彼らは、自身の解釈や、見解を示してくれたし、自分のくだらない議論にも向き合ってくれた。
もちろん性やギャンブル、暴力、ワンピースの話もたまにはあったが、それ自体を享受するだけでなく、思考の対象としても話題を取り上げることががあった。
高校以来、自分は学び、思考する人しか存在しないかのように振る舞う社会に身を置き続けている。
今にして思えば、もっと早く外の世界に出た方が良かったのではと素直に思う。
なぜなら、受動的に与えられたその社会が自分のすべてだったから。
母親が母親であるように、生まれ育った社会は生まれ育った社会であって、代替がきかない。
自分はたまたま、自分が立っていた社会と違う社会を知りうるきっかけを子供の頃に得たから今があるのであって、その機を逃せば一生地元に居ただろう。
なぜなら、考えることや知ることを拒むことが規範となる社会では、外の世界があるということ自体を知りようがないのだから。
自分は考えることも、こうして頭の整理をすることも好きだ。
パチンコの新台や、友達の奥さんが不倫をして旦那が相手と殴り合いの喧嘩をしたとか、そういう動物的な話題を「それ自体」をただ消費する社会に少なくとも自分は興味がない。
もちろん、そういった社会(自分が経験したような)を否定する理由はどこにもない。
ただ、自分が故郷を捨てたように、その社会に残るのは、その社会に適応しきった人々である。
有り体にいえば、将来の選択肢の存在すら意識できないのが自分の体験した社会であり、どのような選択肢があるのか獲得しようする営みそのものが封建的に否定される強い構造を伴っている。
だからこそ、自分の田舎はいつまでも同じ姿を留めることに成功しているのだと思う。
もちろん、その社会自体が恐ろしいぬるま湯であり、外には異なる社会が存在することを予期している人も稀にはいることだろう。
幼い息子を外の世界に出そうと考えた母がそうだったように、おそらくそれに気付いた時に自身を好転させるにはあまりにも遅い場合が大半であると自分は思う。
そして、自分は今更何があったとしても、地元の彼らと交流することはできないし、するつもりは一切ない。
母はもう二度と戻ってくるな、お前の居場所はもうここにはないと電話口でことあるごとに言う。
一方で、開成や筑駒から東大に進んだ都内組は何も捨てることなく、安定的に自分が望んだ社会を享受してその上に今も生活を営んでいる。
それは誰でもそうであるように、最後の最後に拠り所となり得る自らの地域的なアイデンティティをきちんと持っているということである。
自分は依拠すべき地域(地元)を自己実現と引き換えに失ったのであって、願わくば我が子には地元を与えるか、もしくは地元がなかったとしてもサバルタンとなり得ない思想的な土台を築いて欲しいものである。
【初めに】
コピーミスで一節が抜けていた。申し訳ない。【】で囲まれた部分が追記である。
【本文】
ビジネスホテルに泊まるときは大抵全裸だし、男女関係なく素っ裸で過ごしたら、さぞ気持ちがいいだろう。
そんなことを呟こうものなら、不審者扱いされるのは目に見えている。挙句の果てに、公共の場で脱ぎだして陰部を露出する不審者予備軍と誤解され、警察のお世話になるかもしれない。
だが、よく考えてほしい。ああした人たちは、自分の全裸、特に陰部を見てほしいのであって、裸になりたいのとは少し違う。それに、皆様も思うことはないだろうか。たとえば大浴場に浸かったときの安らぎ。もしもそれが露天風呂だったらなおのこと心が緩み、湯の中に嫌なことが溶けていく思いがしないだろうか。
目の前にどこまでも緑が、あるいは紅葉が広がっていたら。あるいは、絶えることのないとどろきを繰り返す海洋が広がっていたのなら。これほどまでに自由を感じつつ、大いなる存在に受け止められている安心感を覚える場所はないはずだ。何も身にまとうことなく立っていると、海風が全身をそっと撫でていき、普段どれほど重いものを身にまとってきたかを、嫌でも意識させられる。
とはいえ、男女混浴が可能な場所は国内でも限られている。ましてや、近年は混浴のマナーの低下が甚だしく、混浴を取りやめてしまう地域も多いと聞く。ある意味では仕方がないのかもしれない。混浴が誕生した時代とは、私たちの羞恥心の感覚も変わってしまった。
そういうわけで、私は混浴文化がまだ息づいている、ウィーンにまで足を運んだのである。概して、ドイツやオーストリアを含む中東欧の人々は裸体に対するタブーが弱く、混浴についても寛容なである。緯度が高いので、全身で太陽を浴びたいのだろうか。冬になると日照量不足で気分が落ち込む私としては、その気持ちはよくわかる気がした。
もっとも、私は全裸になるためだけにオーストリアに飛ぶような酔狂な人間ではない。
私は建築や美術にも関心があり、この旅行の主目的は、クリムト、シーレ、ココシュカといった人々の作品を鑑賞することであった。なので、脱衣はどちらかといえば、時間が空いたときのおまけである。
日本と同じで、月曜日には休業の美術館が多い。なので、月曜日にそうした巨大温泉施設に向かった。ウィーン中心街からおおよそ三十分ほどのオーバラー駅前の、テルメ・ウィーンと呼ばれるところである。
駅を出ると目の前に巨大な建物があり、そこからは既に硫黄の香りがしている。そうしたところは我が国の温泉とよく似ており、妙な安心感がある。片言のドイツ語で入場料を払い、タオルのレンタルを済ませ、ロッカーに向かった。
ロッカーのカギは電子式で、かざすと自動的に開閉されるというものだ。慣れるまでに時間がかかったが、すぐに便利だとわかった。荷物を持ったままガチャガチャと回すのは大変だからだ。ちなみに、このロッカールームの時点ですでに混浴で、男性女性関係なく着替えている。もちろん、慎み深い人のために個室の更衣室もあるのだが、別料金だ。
ちなみに、温泉施設ではあるがすべて全裸で過ごすわけではなく、全裸なのは奥のサウナコーナーのみである。そのために私は一応水着を持参しており、ついでに防水のバッグも持ってきた。
まずは、せっかくなので水着エリアで温泉を楽しむ。とはいえ、水着エリアは温水プール同然であり、浸かっているとあたたかいが出て風に当たるとすぐに水着が冷えてしまうといった代物である。せいぜい人肌程度であり、温まるには不足である。
これはときどき指摘されることだけれど、日本人の湯加減の好みは、ヨーロッパの人々のそれよりもかなり高いらしい。ハンガリーは温泉大国で知られているが、やはりそこも湯加減はぬるい。ただ、その程度の温度でなければ、ガイドブックで見かけるように、湯につかりながらのんびりとチェスの対局をやるわけにもいかないだろう。
他にも、子供立ち入り禁止エリアというのがあり、ムーディーな照明と共に、カップルや夫婦がぷかぷかと浮かびながら語らっているコーナーがあった。ここも温水プールでほとんど温まらない。日本の温水プールみたいに、塩素臭くないのはありがたいのだが、やはり汗をかかないと物足りなく感じてしまう。
そうしたわけで、水着エリアを堪能した後に移動しようとしたのだが、サウナエリアがどこかわからない。あちこちうろつきまわり、子供に泳ぎを教えているらしい人やスタッフと思しき人物に、「ヴォー・イスト・サウナ?」(サウナはどこですか?)などとつたないドイツ語で尋ね歩くうちに、やっとのことでたどり着いた。
なお、このゲートの先は別料金であり、鍵をタッチして入る。清算は帰りだ。そして、注意書きにはドイツ語と英語で「この先水着の着用を禁じる」と書かれている。なんとも徹底していることだ。私は軽快な電子音と共にその奥へと進んだ。
サウナコーナーは、それほど変わった印象はなかった。ただ、見かける男性が皆素っ裸なので、私も水着を脱いだ。それほどの羞恥を感じなかったのは、一つには周囲には男性しかいなかったからだろう。それに、ここでは全裸が正装なのだ。だったら、むしろ何か着ている方が恥ずかしいのではないか。そんなことを思ったのである。
サウナの入り口には温度が書かれており、四十五度、五十度、六十度、それから九十度に分かれている。ひとまず五十度のところに入ると、既に老夫婦がくつろいでいた。ここで初めて裸の女性と遭遇した。
二人は、私の存在を気にかける様子もなく、くつろいだ様子だった。私も、確かに目の前に女性がいるのだなあ、ということは考えたのだが、気にしてもしょうがなかったので、ぼんやりと天井を眺めることにした。男性で前を隠している人はほとんどいなかったので、自分もそれに倣ったのだけれど、個人的には気持ちが良かった。世間体を気にせずにリラックスした姿でいるのは、何とも言えず心地よい。
ちなみにその老夫婦のいたサウナでは、腰かけるところがチェアベッドのようになっており、仰向けにくつろげるような形になっていた。うとうとしているといつの間にか隣に座った男性が、ペーパーバックで何やら読んでいる。お風呂ではなくてサウナで読書、贅沢この上ない時間だ(もっとも、後で注意書きを見たら、サウナの中の読書禁止、と書かれていたのだが)。
しばらくして、サウナを出てシャワーを浴び、他の温度のところを回ったり、冷水プールに体を浸したりした。日本の温泉は露天風呂がメインで、サウナが複数あるところは珍しい気がするが、ここでは様々なタイプのサウナがあり、存分に楽しめた。
たとえば、スチームサウナというのがあり、ここでは猛烈な蒸気で包まれる。汗が蒸発しないのでなかなかにつらいし、持っていたタオルもすぐにびしょ濡れになってしまうのだが、熱風がきつくないので、肌には優しい気がした。眼鏡をかけていると、何が何だかわからなくなってしまうのだが。
ちなみにこの眼鏡、裸眼で転ばないように、日本でサウナ用の眼鏡をわざわざ購入したもののである。
【ところで、このサウナコーナーには、外がある。サウナなので当然素っ裸で歩くのだが、これが気持ちがいいことこの上ない。芝生の上を歩けば、まるで熱帯民族になったようで愉快だ。そして、歩いた先には小屋があるのだが、そこもまたサウナである。
そこでは、おおよそ温度は九十度で、定期的にスイッチがオンオフになる。オンになると、そこにはタオル一枚のおじさんがやってきて、香りのする水を炉に撒く。そして、巨大なタオルでサウナの人々に熱風を浴びせるのである。
それがまた非常に心地よい。異様な高温のはずで、現に乳首が痛いほどなのだが、それでも不思議と生きている実感が与えられるというか、幸福感と高揚感が感じられる。それは他の人々も同じなのだろう。おじさんのパフォーマンスが終わると、一斉に歓声と拍手がする。ロウリュウ、と呼ばれるものに近いのだろう。
そのあとも、おじさんは一人一人に熱風を送る。そのたびにあおがれた人々は嬉しそうだ。私も、「ゼア・グート。アバー・ゼア・ハイス」(とても気持ちがいいですが、とても暑いです)と、定冠詞の活用が無茶苦茶なドイツ語で応じた。すると隣のおじさんがあおがれたときに「カルト・カルト」(寒い、寒い)などというものだから、思わずその場は笑いに包まれた。
私に向かって風を送るときに、両手を合わせてお辞儀をしてくれた。たぶんタイかどこかと間違えているのだろうが、悪意よりも親しみを感じたので、こちらも会釈した。腰かけるところが熱すぎて胡坐をかいていたので、仏像か何かと勘違いしたのかもしれない。
その後、全身をほてらせながら野外にある二十五メートルほどのプールで体を冷やした。何往復か泳いでから、仰向けになって曇り空を眺めているうちに、これほどの幸せなはないだろうな、と感じられた。何のしがらみもなく、何の規制もなく、ただ存在するだけ。過度な欲望もなく、競うこともなく、誰からも干渉されない時間だけそこにあった。
それに、水着を身につけずに泳ぐと体を締め付けるものが何もなくて、全身を区別せずに流れていく水が本当に心を自由にしてくれる。それに、誰もお互いの裸をじろじろ見たり気にしたりしないのも、気持ちが良かった。あたたかな無関心というか、あるがままの姿を受け入れてもらっている感覚になるのだ。
人間の身体のどこに猥褻なところがあるのだろう、表現の規制は何のためにあるのか、などと大げさな議論が頭の中に形を取ろうとしたが、そうしたものは普段日の当たらない陰部に太陽が差す気持ちよさに溶けてしまった。
そうしたわけで、私は結局三時間以上もそこで過ごすことになった。】
さて、三時間過ごしたので、そこではいろんな人を見ることができた。もちろん、凝視したわけではないけれど、それでも混浴に来るオーストリア人にはいくつかのパターンが認められた。
その一、スポーツマンタイプ。ものすごい筋肉量で、アスリートか何かのようだ。これだけ鍛えていれば、自分の身体に恥ずかしいところなど、どこにもないと言わんばかりだ。ギリシアやローマの彫刻そっくりである。スポーツマン同士で何やら楽しげに話していることが多い。
その二、力士タイプ。非常にでっぷりとした肥満体系のおじさん。人からどう見られているかそんなに気にしていない印象。こちらも堂々と歩いており、楽しそうにしている。
その三、老夫婦。なんというか日本の混浴にもいそうな、のんびりした雰囲気。ときどき湯船の中で抱き合ったり、ほっぺたにキスしたりしている。ちなみに、注意書きには「キス以上のことはしちゃダメ!」「十六歳未満の入場禁止!」と書かれている。
その四、比較的若いカップル、あるいは若い男女。よくわからないのだけれど、「みんなで渡れば怖くない」的な感じで一緒に来たのかもしれない。
ちなみに日本人は私だけだった。それから一人だけアフリカ系の人がいた。それ以外はみんなヨーロッパ系。
で、こうして振り返ってみると、比較的若い人が多い。それでも、私はあまり気にならなかった。というのも、前も言った通りここは全裸が正装なのであり、それについてとやかく言うほうが変だ。確かに、きれいで魅力的な人もいたし、中には私の好みの人もいたのだが、雑踏ですれ違う以上の感慨はなかったし、わざわざ振り返ることもなかった。
混浴について、猥褻だとか下品だとかいう意見があるが、私はまったくそう思ない。そもそも、ここは風呂とサウナであり、いい湯だな、以外の感想はない。たぶん、混浴について批判的な人は、マナーの悪い人と一緒になってしまったのか、そもそもお風呂がそこまで好きではないか、なのではないか。人様のことだから、勝手な判断は差し控えるが。
というか、見えそうで見えない極小ビキニなんかよりも、素っ裸の方がよっぽど上品な気はする。潔いし。隠すから下品だとか猥褻だとか言われるんじゃなかろうか。みんな最初からすっぽんぽんだったら、誰も気にしないだろうし。隠せば隠すほど、そこに注意が向くし、逆説的にそこに注目してくれと言っているようなものな気がする。
それと、全然関係ないけど、女性でも腋毛もじゃもじゃの人は多いのは面白い。話には聞いていたが、実際に目にするとやはり興味深い。陰部がどうなっているかはじろじろ見なかったからわからないけれど、向こうの人は剃っているとはよく聞く。ただ、そんなことも温泉が気持ちいいのでどうでもよい。
そういうわけで、私はオーストリアの混浴を十分に楽しんできた。予想していた通り、とても気持ちが良かった。日本にも類似したサービスがあればいいのに、と思ったが、マナーを一定の水準に保つことは難しいだろう。きっと、ナンパしたりじろじろ見たりする行為が横行するに違いない。一度絶えてしまった、混浴の文化を再びメジャーにするのは、難しいだろう。
プールサイドで裸のまま横になり、夢うつつのまま時間が過ぎていく経験は非常に贅沢だった。しかし、これは今の温泉文化とは、少し違うかもしれない。
個人的には、自分がやりたいことをやったので、満足している部分はある。今後どうするかはわからない。恋人がいないときだったので、とりあえず全裸になってはみたのだが、もしも今後も恋人が見つからず、行きたい場所が思いつかなかったら、どこか別の国でヌーディストビーチに行くかもしれない。それか、趣向を変えて、全裸ハイキングか全裸マラソンかに挑戦するかもしれない。
もっとも、この混浴体験ですっかり気が済んでしまい、数年後には興味すら持たなくなっている可能性もある。それはわからない。
ただ、やりたいことをやってみて、それなりに面白かった。それで十分なのかもしれない。
最後に、脱いではいけないところで脱ぐのは絶対にやめましょう。これだけは強調しておく。
【最後に】
本記事はカクヨムにも掲載されている。私が投稿者本人であることは、カクヨムでは連載中であり、現時点でも未公開になっている部分が含まれていることが証拠になる。
【付記】
ヌードバイクみたいな、ヌーディスト活動経験者の増田は、ほかにもいらっしゃるのだろうか。あるいは、ヌーディズムに関心がある、だけでも潜在的にはどれほどいるのだろう?
【アクセス】
地下鉄U1の終点、Oberlaa駅
5일
5日目
ゆっくり眠れる保証もないので、充分な睡眠時間を取れるのは昨夜しかなかったが、やはり眠りは浅かった。
釜山で迎える2度目の朝、疲れが取れているかどうかは疑わしいが、今日は名所観光やお土産購入、食べ残した釜山グルメなど、予定を詰め込んだので、直ぐに部屋を出た。
まず目指すのは、チャガルチの朝の名物になっているという、シンチャントーストだ。
まだほとんどの店が開店前で、人もいるにはいるがほとんどは開店準備の搬入や路地の工事。
本当にやってるのだろうか。
路地をクルクル迷いながら進むと、まだ閉店してい暗い店が軒を連ねるなか、30㎡程の縦に細長い店の前でコック帽に白衣のオジさんが黙々と店先でトーストを焼いている。
釜山の朝の味、シンチャントーストの前では、そこだけ行列ができていた。
卵とハム、チーズが挟まれたトーストは、洋食なのに滋味深かった。
シンチャントーストの御主人に支払いを済ました時に、残りのウォンが心許ない事に気付いた。
南浦洞は西面と並ぶ釜山の繁華街だが、土曜の朝9:30に開いてる店はほどんどなく、人もまばらだった。
手元の3000円を両替する。
ナヨンの時は実は数えてなかったが、ここでの両替は少額なので数えやすい。空港より明らかにレートが良かった。
南浦洞から引き返し、港町、釜山の顔が最も見える場所、チャガルチ市場に向かう。
広い市場では、いけすの中にカニやエビなどがひしめき、山盛りに積まれたサザエやホンビノスなどの貝類、太刀魚などの魚、イカ、タコ、ナマコに果てはエイまで、あらゆる海産物が並べられていた。
ここで海産物を買って、2階で調理してもらえるらしく、お母さんに声をかけられるが、既にトーストを食べていたので、固辞して、市場の棟の反対側に出る。
海が目の前だった。
海風にあたりながら、あたりを眺めていると、韓国語の演歌らしきメロディーが流れてくる。そういう音楽が韓国にあるかどうか分からないが、メロディーといい、コブシの利かせ方といい、どう聴いても演歌だ。
ここでもたくさんの海産物が売られていたが、端まで抜けると食事のできる店がある。
漁師や港湾労働者、仲買人などはここで食事をとるのかも知れなかった。
歩きながら日本と韓国で意見の相違のある日本海の呼称問題について考える。
このチャガルチ市場を埋め尽くす豊富な海の幸を見ていると、韓国の人がこの海を「東海」と呼びたいのもわかる。
目前にある日々の漁場が「日本海」では、借り物で漁をしているみたいだ。
日本人として韓国人の主張の是非や正当性は一旦脇に置くが、ナショナリズムじゃなく、釜山市民の生活者の実感として「ここは自分たちの海だ」とスッキリしたいという、その気持ちは理解できる。
市場を後にし、韓国旅行に当たって一番最初に決めた観光地、山間の民家をカラフルに彩った甘川文化村に向かう。
バスに乗るてもあったが、地図上では歩いて行けない距離とも思えなかったので、その足で向かった。
実際に歩いてみると、考えが甘い事に直ぐ気付いた。
市場に程近い有名観光地なのに、歩いて向かう人が殆どいないのもさもありなん、山道が結構急なのだ。
「実際に過ごしている人を見れるのも良い」と無理やりポジティブにかんがえたが、やっと観光客で賑わう村の高台に着く頃には、脚の疲れがえらい事になっていた。
甘いカフェラテが身に染みる。
デッキではカップルがロマンチックな風景をバックに写真を撮っていた。
辺りには、たくさんの国からやってきた観光客が写真を撮っていた。
実は釜山にきて見て気付いたのだが、この街で最もよく見かける外国人は「日本人」で、それ以外の外国人の存在が薄かった。
しかし、ここでは中国か台湾、ベトナム、ヨーロッパから来た人など、多彩な国々の面々が並ぶ。
韓国の民族衣装を身につけた3人組の少女、2人は明らかに韓国人ではない。
村の坂道や階段を行ったり来たりするうちに、「ギャラリー」の文字が。
興味をそそられて階段を上ると、登り終えてまだ続く坂道の上で、学生服の少女が同じく学生服の少年の写真を撮っていた。
ギャラリーは閉まっているらしく、腕章を付けた彼ら以外に周囲に誰もいない。
プライベートも極まる時間だろうが、輝く記憶を少しだけおすそ分けさせてもらった。
さすがに歩いて降りる気力がなかったので、バスを使ったが、山道を下るバスは運転が荒い。
座れてなかったら大変だった。
チャガルチから南浦洞への道すがら、行く手から派手な太鼓と鈴の音が聞こえてくる。
デモだろうか。
韓国社会はどうやらパレードが大好きで、到着2日目にも地下を歩きながら、実体こそ見なかったが、パレードの音を聞いた。
時節柄、ちょっと緊張する。
前からやってきたのは、釜山の対岸、九州からの踊り手達だった。
彼ら自身は踊ってないので、既に演目を終わったのだろう、しばらく歩くと、今度は韓国の民族衣装に身を包んだ踊り手達が舞っていた。
音は此処からだ。
そういえば、釜山であった日本人と少しだけ会話してみると、九州からの人が多かった。
岸の両岸では、それぞれの人々が交流している。
南浦洞では、韓国旅行で2番目に決めた目的、ナッツ入りバタードーナツのシアホットクを買い求める。
生地を大量のバターで豪快に揚げ、横に挟みを入れポケット状にして、蜜とナッツを詰め込む。
形状は平たい円形だが、なぜか平たく潰した紙コップに入れて供される。
しょっぱくて甘い味は疲れた体に沁みた。
でも、どうも日本に入ってくる韓国グルメは、1個流行るとそれ一色になっちゃうんだよなー。
さて、夕方前に一旦ホテルに戻るつもりだが、その前にここのロッテマートでお土産を買う。
出発直前までなかなかイメージが湧かなかった韓国土産だが、同僚の勧め通り、インスタントラーメンにした。
ホテルに戻って、明日朝の空港に向かうタクシーの手配をして、すぐ出発。
なんとか時間的に間に合いそうだ。
ここに訪れれば、今回の韓国旅行で行きたい観光地は大方回ることができる。
地下鉄を乗りついで向かうが、どうやらエネルギー切れで気力が切れてきた。
山道を歩き回ったのに、朝から食べたのがトーストとドーナツだけじゃ足りないのも当たり前だ。
とにかく何か食べないとまずい。海雲台駅で降りると、バーガーキングに吸い寄せられるように入った。
異国の地で、何が出てくるか想像できる上に早いジャンクフードはいざとなると頼りになる。
バーガーキングのカウンターの福々しいお姉さんは、言葉が怪しい日本人にも親切だった。
ちょっと迷ったが、海雲台駅から海東龍宮寺に向かうバスに乗車。
30分ほどの乗車で龍宮寺に到着した。
龍宮寺までの参道は曲りくねった階段なのだが、辺りは台湾の九份もかくやと思わされる人出で、細くて急な階段を歩くのが怖い。
しかも疲れている所に再びの山道なので、なんとか転ばないように慎重に歩く。
距離がなかったのだけが救いで、やがて海を望む龍宮寺が姿を現した。
既に夕方だったので、だいぶ光が赤く、海の青さはちょっとくすんでいたが、それでもなかなかの絶景を写真に収めることができた。
満足したので引き返してバスを待つ。
やってきたバスに乗り込んだが、ここで思わぬ苦労をする羽目になった。
椅子に座れず立ち乗りだったが、渋滞に巻き込まれてバスがなかなか進まない。
その上、運転が荒い。
外国のバスの運転は概ねこんなものだと思ってはいるものの、いい加減ヨレてきている足腰には辛かった。
このワイルドな運転にも韓国の若者は涼しい顔をして立っている。
どういう鍛え方をしているんだ、いや、これ自身が日々のワークアウトになっているのか。
ユラユラ揺れる自分も、友達や恋人と事も無げに談笑する韓国男子も、真反対の意味で慣れというのは恐ろしいものだ。
渋滞に巻き込まれた結果、1時間強の乗車となったバスを降り、海雲台の駅から地下鉄に。
釜山最後の食事は、牛の地を羊羹状に固めたソンジが浮かぶソンジクッパだ。
「ソンジクッパ ジュセヨ」席に座る前に頼むと、やがてグツグツ煮えたソンジと牛もつ入りの赤いスープがやってきた。
ごはんを入れながら食べる。
パッと見、キワモノっぽく見えるソンジだが、動物の地を固めてスープの浮き身にするようは食習慣はアジアでは珍しいものではない。
台湾にも猪血糕や鴨血などがあるし、タイにも類似の料理があるという。
四角く赤黒いソンジは、特に強い匂いもなく、レバーっぽい羊羹という感じで口に抵抗なくいただけた。
これで韓国旅行で事前に設定したタスクは全て果たすことができた。
個人的な旅行あるあるなのだが、なぜか海外旅行では額にして3000円前後の小さな落し物をすることが多い。
今回もカメラのレンズのアクセサリーリングが所在不明になった。
別に機能に致命的な影響が出るわけではないが、無くしたいわけでもない。
こういう時、何かの引き換えになったとでも考えるようにしているが、少しだけ残念だ。
そんな彼女の地元山口の某端っこの市に先日行ってきた、ライブも観劇もないのに
それ迄は年に1ー2度東京で会っていた
ある年に体調を崩し、東京に来られない話をされたので
同じ年の私は物凄い心配したのだ
たまたま2016年の冬に某凱旋公演が九州であり、コレで福岡に行けば良い
福岡に行った事がないからオールオッケーだ!と思い3泊4日の福岡
そして2018年春、ちょうど人気の博多座公演のチケットの良番が取れ
ちょうどモーさま(萩尾望都先生)とドジさま(木原敏江先生)の素晴らしい原画展を
開催しておりそれだけで福岡まで来た甲斐がある素晴らしい展示であった
ここまで書いていて友達山口の方なのに、山口県の話出てこないと思うけどちょっと待ってね
「私は下関側からも門司港を見る、彼女が普段見ている景色を私も見る」
海無し県の私には海峡など見た事も無かった
遂に山口県に行く事になった、山口県は宇部空港と萩石見空港がある(岩国もだが)
私は羽田から宇部空港に向かった、彼女は地元からレンタカーで迎えに来てくれた
好きな作品の二つが山口県を舞台にしているのでその聖地に行く目的もあった
<ここじゃラクダ親父にくびり殺されるとおもって逃げ出すよな、母ちゃん役立たないし
お姉ちゃんが活動的じゃなかったら弟共々あの世行くわ、例えテリブル東京でも
と思ったりしていた、しかしこれは見に行かなかったら出て来なかった発想だ
それまでは「シェルター行け」「民生委員に相談」「そもそも学校何してる?」
という思いが多かった、例の
「つけびしてー」
の方の気持ちまでわかるようであった
二泊三日で到着の朝9時から最終日の11時30分まで山口県の様々な場所を巡ったが
角島の大橋も萩明倫館も下関の日和山公園もどこも良い所であった
平家茶屋はあの値段で良いのか?1・8倍は値上げしても客来るぞ
たかせの川棚本店も値上げして良い、などあくどい事を考えていた
昨年も門司港に来たが素敵な街だと思う、関東にこんな街は他にあるのかな?
門司港から最後の目的である、萩岩睦美先生の原画展の為北九州マンガミュージアムに
萩岩先生のカラーイラストはカラーインクで描かれているので退色しやすく
展示は殆ど無かったらしいのだが、40周年記念で最初で最後との事
この為だけで旅費の元は取れる素晴らしさであった
そして思ったのだ
職場の同じ部署20人中3人しか山口県に行った事がないと話しをしていたが
・おじいちゃんの実家が山口県の光市だから子供の頃は行ってたよ
Dオタからの感想として、これでキツいとか接待かよとか書いてる人はディズニーリゾート行ったことないか、詳しい人に任せてしか行ったことしかない人なんじゃないかな…
ディズニーリゾートは遊びに行くというより、旅行に行くという気持ちで行くといいよ
事前にある程度調べないで行くと、広さと地形の複雑さとかご飯の確保の出来なさとか思った数倍寒いとかで満足度下がるよ
この時期のシーのニモのアトラクションできたあたり海風直撃してマジで寒いから、防寒対策はしっかりしてね
ご飯休憩ほんと大事にしてね!
お腹減ってるとイライラするのにこの時期はご飯だけでかなり並びます!
お腹減る前に食べよう!
先に誤っておきます。楽しい話じゃないです、ごめん。楽しくないどころか、大いに気分の悪いことを書きます。読まなくても特に問題ないことしか書いてないので、読まないのも推奨。読むと決めたら注意して読んでください。
#世界一のクリスマスツリー というプロジェクトがあります。ひょっとしたら情熱大陸で知ってる人もいるかも。このプロジェクト、時間が経つに従ってイベントにストーリーが追加されてて、怒りが増していっているので、自分でも自分が当初どう感じていたかわからなくなりそう。わからなくなる前に書き留めておこうと思いたった。ただそれだけの記事です。怒りポイントは大量にあって、それぞれの人がそれぞれ怒っているので、私の場合も書いておこうと思った。読まないのも推奨。大事な事なので二回書きました。
この話題に一番最初に触れるきっかけは、神戸新聞記事の紹介だった。
港に樹齢150年の巨木でXマスツリー 神戸、全長30m(神戸新聞NEXT) - Yahoo!ニュース
https://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201710/0010612425.shtml
神戸・メリケンパークに今冬、全長約30メートルの生木のクリスマスツリーを立てる計画が進んでいることが3日、関係者への取材で分かった。珍しい植物を追い、世界中を回る「プラントハンター」の西畠清順さん(36)=川西市=が企画。世界的に有名な米ニューヨーク・ロックフェラーセンターのツリーと同規模になるという。12月の約1カ月間ライトアップし、神戸港の開港150年目を華やかに締めくくる予定だ。(上杉順子、久保田麻依子)
西畠さんが率いる植物コンサルティング会社「そら植物園」(川西市)が開港150年目の記念イベントとして主催。神戸市が後援する予定。
ツリーにする木は富山県氷見市の山中に生えている推定樹齢150年、推定重量40トンのアスナロ。約2年前に西畠さんが見つけて掘り出す準備を進め、クリスマスツリーとして立てる場所を探していた。
神戸市側との協議を経て、「阪神・淡路大震災から復旧し、開港の大きな節目も迎えた街に立てたい」と神戸港での設営を決心。震災犠牲者をしのぶ「神戸ルミナリエ」とも開催時期を重ねることにした。
木は今月中旬に根ごと掘り出し、輸送可能な状態にまで枝を圧縮した後、11月初旬に氷見を出発。トレーラーで富山県内の港に向かい、神戸港まで海路で運ぶ。同月中旬にメリケンパークに到着するという。
会場では大きな鉢に植樹し、反射材入りメッセージカードに観覧者の夢や目標を書いてもらい、飾りとして木に結ぶ。観覧無料で、ツリー周辺でマルシェや音楽イベントも開かれる。
西畠さんは「巨木を立てることは古来、鎮魂の意味があり、やるなら神戸しかない。生まれ育った兵庫から、震災の傷痕が残る東北や熊本に希望を届けたい」と意気込む。
この時点での感想は
次に目にしたときは既に非難の声を集めた記事だった。曰く「醜悪すぎる」
http://buzzap.jp/news/20171120-xmas-tree-kobe/
いろいろ読み進めると、主催者側は様々なストーリーを追加していたようだった。
「今回のプロジェクトの面白いところは、ロックフェラーセンターのツリーよりも大きなクリスマスツリーを立てようというプロジェクトと見せかけて、みんなでギネス世界記録を狙うというところ」
え!!ロックフェラーのような賑わいを作るのは実はどうでも良くて、記録を作る企画にすり替えるの?それは騙す気まんまんということ?最初からそう言えばよかったんじゃないの?それはサプライズにはならない、みんなと同じ方向を向いて進んでいないと、おかしくなる。賑わいを作ろうと頑張ってたスタッフの気持ちを、どこかに捨てることになる。最初から記録更新が目標なら、みんなでそこに向かえばいいのに、どうしてこんなことをするんだろう?
フェリシモが加工して販売するだって?畏敬の念もへったくれもない。それじゃぁ、150年の樹木という意味すら必要なくて、それだったら「単に大きな樹を用意して、みんなで楽しみました。楽しんだ記念グッズを販売します」で良かったんじゃないの?関係者ごとに違う話を吹き込んで回ってたりするのか?そもそも移植じゃなかったんだ。この先も敬っていくものとして扱うのではなくて、材木ってことね?
「輝け、いのちの樹。」だって?意味がよく分からない。全く共感できない。輝いているのは電飾でしょ?命が輝くというのはそういうことじゃない。賑わいを作り出して祝う場合だって、輝くのは私たちの命であって、クリスマスツリーじゃない。
極めつけは「ヒノキになれない落ちこぼれの木がこのプロジェクトで世界一に輝くことを目指す」ですよ。これは、なぁ、もう、ダメだ。完璧に。敬う対象としての木が、材木になるのは、100 歩譲れたとしても、この投影はダメだ。「落ちこぼれ」とか人間らしすぎる。人間が投影されてしてしまっている。これはシャレにならない。この木が弱って、材木として加工されていくという過程を、この神戸の人たちに見せようというのか。例えば自宅が燃えていくのを、なすすべもなく見ることしかできなかった人。あるいは、親や子供をがれきの下から救出できずに、なすすべもなく失った人。そういう人達が住んでいる、この神戸で。ただの材木ならまだよかった。この投影によって、樹がそういう意味を持ってしまう。過去の辛い思い出を引き出されるのは、それだけでも相当辛い。さらに、その樹が輝くことを目指す、ですよ。もう一度何が投影されているかを考えてみてください。これがどれほど傲慢で不遜な行為に映るだろうか。まさに魂に対する冒涜ですよ。これは駄目です。人の道を外れています。
それでもここまでなら、何かを盛大にこじらせた自称アート作家の事案で済んでいたかもしれない。
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201712/0010779156.shtml
ここまで命を弄んだ挙句に、それを町のシンボルたる生田神社に持っていくなどとは、さすがに許しがたい。断じてNOだ。持っていくにしても十分な手続きが必要だ。まさに鎮魂をしなければ受け入れられない。生田神社のコンセプトは命の女神なんですよ?
「ツリーを見るのが嫌な人は見なければいい」という発言、これ意味わかりますか?これまで私たちの公園だった場所ですよ?ツリーは見たくないに決まってるじゃないですか。過去の傷がえぐられるのを分かっていて、どうして見に行く気になる?そういう前提で、見に来なければいいというのは、公園を奪ったということなんです。私たちの土地を奪ったということなんです。これは明確な神戸市民に対する攻撃だと、はっきりしたんです。攻撃されて黙っているとでも思ったんですか?怒って当然でしょうが。
艦これのイベント遅まきながら甲乙乙乙甲乙丙でようやく一通りクリア。
最後は支援も飛ばして大和も入れてたけどそこまでやる必要はなかった気もする。
連合艦隊はバケツがあっという間に消えていくから怖い。結果2800にまで減少、カンストしてた鋼材も270000まで。元々少なかったボーキに至っては危うく10万切りそうになった。一度貯まると減っていくのを見るのが怖い。
レア掘りは海風風雲は攻略途中で手に入ったし、とりあえずU-511が2隻目いないといつになっても改造できないので、あとRomaもいないので毎日の任務ついでに掘るくらいの気持ちでE5掘る。
昨日さっきようやくE7丙でクリア!
E7はクソだったよ
支援きっちり出していざってとこで初手南逸れとかマジズコーって感じ
ギミックのわかりにくさと0じリセットが合わさって発狂しそうになることこの上なし
風雲もオチないし
XVも6回ずつくらい削ってCも念のため3回削ったのに乱数の引き悪すぎでカスダメしか防空にあたんないし
そもそも毎回反抗だし
つまらなすぎる
カットイン要員でゲージ破壊に出撃し始めたときから連れて行くようにした運改修済み70超え雪風は一度もカットイン出さないし
それか夜戦時に大破してるか
でもE7終わったしE7のために貯めた資源で瑞穂掘るかと思ったらE3乙で一発で出てマジびびったあああああああああああああ
複雑だけどうれしいいいいいいいいいいいいいい
海風は攻略中に出てたし、風雲はいないけどさすがに調子に乗りすぎるのもな・・・
そんなかんじい~
こっちは甲甲甲と進んだところで、E-4の丙掘りが終わらない。
瑞穂はなんと1回目の丙掘りで引けちゃったのだが、海風でこうも詰まるとは思わなかった。
もう清霜が4人ぐらい出ている。
丙掘りが嫌なら、甲なり乙なりでさっさとクリアしろよと言われそうだが、
この運ゲーからこれくしょん要素を取ったら一体何が残るというのか。
だいたい、甲の難易度が高すぎて、攻略した後に掘りまでやるのは現実的ではない。
難易度変更にしても、本来提督のレベルに応じてイベを楽しむはずのものが、
丙で掘り終わった奴から甲に進めるみたいになっているのは、もう明らかに変な方向に進みすぎているのではないか。
最近のブラゲーや、流行のグランブルーファンタジーなんかにも同じことが言えるが、
課金の額と殴る回数だけで競うゲームをやめても、結局はMMORPGライクな
「目当てのものが出るまで回数こなす」という旧時代の悪い沼にはまっている気がする。
※追記:出ました
かつてはテーマパークと住居エリアを融合し、新時代の週末の過ごし場所として一世を風靡したこの場所は、今となっては廃墟同様の商業ビルと、無人と化したマンションが建て並ぶゴーストタウンに変化していた。
まぁ別に何かをするわけでもなく、知らない人がプレイしている格闘ゲームを、横でタバコを吸いながら眺めてる。
ふと店内の端に目を向けると、知り合いの男女3人が丸テーブルを囲って飲物を飲んでいた。
その知り合いに会うのが久々で、何て声をかけていいかわからなかったけど、向こうは僕に気がついたらしく、声をかけてくれた。
僕は別にこれといって用事がなかったので、彼らと一緒に暇な時間を過ごすことにした。
見回せば見回すほど、大量の廃棄物と化した町並みが目に映る。
どこの扉も鍵が壊されていて中には容易に侵入できる。
僕らが目指す場所は、死亡事故が起きた「ビバ・スカイダイビング」というアトラクションの前だった。
廃墟寸前なはずなのに、電源は生きている。
東京電力が倒産してから、誰も電気を管理するものがいなく、ただ100%オートメーション化された発電所から電気が送られてくるだけだ。
これはここに限った話ではなく、全国的にそうなってしまった。いわゆる、電気の使い放題である。
使い放題といえば聞こえはいいかもしれないが、実際は管理するものがいないので、当然事故が起きても誰も責任は取れないし、そして施設で電気事故が起きても誰も直せないので使用不能になってしまうという諸刃の剣だった。
そんなことはどうでもよく、動力室で動力のスイッチを入れ、僕らはそのビバ・スカイダイビングというアトラクションを起動する。
運行管理者なんていないので、自分たちで何でもやりたい放題だ。
4人の内、2人がそれに乗り込み、発車していった。
もう10分ほどたっても戻ってこない。何があったのかは全くわからない。
警察をよぼうにも当然誰もいないという事実と、廃墟内に不法侵入してしまっている事実があるので通報すらできない状態。
僕と残された彼女はとりあえずこのまま動力を入れっぱなしにするのは危険だという意見で一致して、動力室でスイッチを切り、今しばらく待つことにした。
もう1時間ほどたっても何も反応が無いので、とりあえず書き置きを書いて僕らはその場所を離れることにした。
外に出ると、目の前には居住区と商業区とのちょうど境目があった。
その境目を隔てて左が商業区、右が居住区なのだが、居住区は長年海風にあたって劣化したマンションたちが立ち並ぶ。公園緑化が施されていた部分はもうすべて砂漠となっていた。
建物を出てから僕は彼女と全く会話していないことに気がついた。
彼女と初めてあったのはもう6年ぐらい前のことだ。
当時山梨に住んでいた僕はよく都内で彼女とあっては遊んでいた。
彼女はこう返事をしてきた。
『彼らが心配だから家に帰らないでこのへんで一晩明かすつもり』
そんな返事をされた僕は、さすがに女の子一人でこんな場所に置く訳にはいかないと思ったので、
「じゃあ僕も残ろう」
と返事をした。彼女は安心したのか、かすかに笑顔になったように見えた。
僕らは居住区の中でも比較的風雨を凌げそうな場所を探し出し、そこで夜を明かすことにした。
相変わらず何も変化はなし。
「なぁ、飯、どうするかぁ?」
僕はそのまま彼女を寝かせてあげることにし、僕は窓際の壁に寄りかかって眠ることにした。
数時間後、僕は月明かりのまぶしさで目が覚めた。
彼女はどうしてるかな?と寝ているであろう方向に視線を向けると、そこには彼女はいなかった。
どうしたもんか…と思い、その部屋を出てあたりを探していると、商業区のあたりに人影がみえた。
こんな時間だからこそ危ない人がいるかも知れないので、僕はそっとその人影を追って見ることにした。
その人影は商業区の中のコンビニであったのであろう場所に入っていった。
そして10分ほど経つとその人影はビニール袋いっぱいに何かを詰めて出てきた。
その影を追って歩くこと数分、たどり着いた場所は僕らがさっきまでいた居住区の部屋だった。
まさか…と思いゆっくりと部屋に近づくと、そこにいたのは彼女だった。
「ふぅ…」
彼女はきょとんとして僕の顔を見上げた。
『ごめんね。。。おなかがすいたんだけどなんかないかなーって思ってコンビニがあった場所に行って適当に物色してきたw食べる?』
「ははは…食べようかw」
僕は彼女からカロリーメイトを受け取り、彼女と背中合わせで座ってそれを食べた。
色々会話した。初めてあった日のこと、あの日から日本はだいぶ変わってしまったこと、まだお台場が栄えていたことに一緒に来たかったこと。
数時間は会話した。さっきあった時なんか全く会話しなかったのに。
話つかれた僕は夜明けまでまだ時間があることもあり、再び寝ることにした。
『あ、、、うん、ごめんね。おやすみなさい。』
そうして再び眠りに落ち、、、、たはずだが、僕は彼女に起こされた。
『ねぇ、隣で寝てくれる?』
「え?どうして?」
『隣で寝てれば、あたしがどっか行きそうでもわかるでしょ?』
「あ、、、うん、いいけど、そっちはいいの?」
『あたしはいいの、ひとりだと怖い、、、、助けてよ、、、』
月明かりに照らされながら、僕ら二人は眠りの中で夜明けを待った。
という夢を見た。
http://anond.hatelabo.jp/20100123005026
つづき
無謀な旅に出たのはそれを書きたかったからで、半月も日本中を車で旅して、それでもまだそうかと聞かれれば、僕はうんとうなずく。それでもうんはいまは少し控えめで、バックシートの同乗者との旅が楽しくなり始めている。後部座席の右側の窓は全開で、海風に髪をなびかせて真っ青な海に向けて、彼女は表情をあかるくしてシャッターを切る。バックミラー越しの横顔には昨夜の凍えきっていたおもかげはなく、蒸し暑いとさえ思う風にはしゃぎきっていた。
それだけで満足してしまう。
写真の評価をしっかり伝えたのが良かったのか、安心して撮って良いのだと思ってくれたのか。
雑誌の旅行記みたいなサイトを作りたい。そう旅の目的をはなすと彼女は僕の書いた文章を読みたいといった。彼女はしばらく読みすすめ、これは私には無理と情けない声でいった。僕は慌ててブレーキを踏み、路肩に車を止めた。振り返って言った。
「ちょ、ちょっと待って下さい。僕はもうあなたに写真を撮って貰うって決めているんです。あなたの写真がいいんです。すてきじゃないですか、なにが無理なんですか」
「でもこの旅行記、格調高いし、大人っぽいし、私こんなに知識ないし」
うつむく女の子をみて、僕はあっと思い当たる。
意気込んでひとり旅にでた僕は、だれからもそしられない旅行記にしようと、堅固な文体で書いてしまっているのだ。本人からすれば少し堅いかなぐらいであるのだが、慣れない人からみればそれはきっと要塞でも見上げているような心地になるのだ。
「あ、いえ。でもこの文章堅すぎて、こんなの読んだら息詰まってしまいます。そんなところにぱっと明るい写真がほしいんです。あなたの写真は色彩豊かで、大胆な構図で、ダイナミックで、この動きのない旅行記をきっと生き生きとさせてくれる」
僕は、思いつく限りの美点を話す。これでもプロの撮った写真を見続け、それを文章の隣にレイアウトし続けていたのだ。もしそんなプロ達に混じっていても僕はきっと彼女の写真を選ぶと思う。
「それにWebサイトなのです。雑誌ではないのですから解像度も必要ないですし、僕はフィルム・スキャンもやってましたから、若干色味が狂っても直せますし」
すこしだけ顎が上がり、僕は安堵して息をつく。
「ちょっと安心しました」
「撮れないって言われたらどうしようかと思いました」
彼女はふふと笑う。
「そんに気に入ってくれたんですね、私の写真」
それで僕は、旅行記に載せる写真を彼女に撮って貰う事に執着心が生まれ始めている事に気づく。なぜだろうと思い、色味だろか、構図だろうか、被写体の選択だろうかといろいろに理由探しをするが、きっとセンスみたいな所かもしれないと無難に着地する。美感の好きと思うところが似ているのだ。そこの波長が合うのだ、きっと。
バックミラーの中の、撮った写真をノートPCで確認する姿を見ながら思う。
(出来れば、ずっと一緒に撮ってくれないかな、三ヶ月に一回でもいいから)
まだまだ若いのだし、これから音をたててめきめきと上手い写真を撮るようになる。そうなればちょっとした写真家になるかもしれない、プロというまではいかなくても。そうなってしまってからではもう届かない。今のうちに出会えたのは幸運で、コンビを組んでいれば、有名になっても昔のよしみでほんの少しだけならつき合ってくれるかもしれない。
そんな打算さえ生まれてくる。
それぐらい僕は参っていた。
二つめのトンネルを抜けてちいさな港を右手に(カシャリ)、まばらな民家の間を抜けて海岸沿いの道を行くと、海一面に養殖場が広がる(カシャリ)。のんびりと車を走らせ地図を片手にちらちら見ると、牡蠣の養殖場との記載がある。
「すごーい」
「牡蠣だって。そういえば松島近いですし、松島といえば牡蠣ですし」
(カシャリ)
「こんなにたくさんあると迫力ありますね。あ、船が出てる」
(カシャリ、カシャリ)
はしゃいでシャッターを切る彼女の横顔はまだ無邪気で、疲弊する職場や修羅場の数々ですさんだ心にほっと暖かい場所が出来るのを感じ始める。夏の海風を全開に受けながら、真っ青なひかりを浴びているとなにかがほどけてくる。ああ、そうか僕はひとりじゃないのだ。そう思うとほっとし、なにかこれまでずっとひとりで戦ってきたような気がし、その戦いには様々な理由があったのではあるが、それさえもどうでもよいことのように、それよりもこの彼女との旅が楽しくなってきている事に気づく。
海風の中を、岬を目指して、おんぼろのスズキを走らせるのは楽しい。
バックミラーの中のちいさなカメラマンが嬉々としてシャッターを切るのを見ているのは楽しい。
こんなにも楽しいものかと、内心動揺している自分がいることに気づく。
「ふう、夢中になりすぎちゃう」
何度か息をし、そのきれいな眼がこちらを射貫く。
僕は、ええだか、ああだか、そんな曖昧なことをいい、その笑顔からあわてて視線をフロントガラスに向ける。胸がどぎまぎしていた。あまりのかわいらしさに動揺しているのに気づく。何重にも防壁を築いていたはずが、いつの間にか彼女はその内側に立っていた。
(この子、どうやって入ってきたんだろう)
いや違う、目下の問題はそこではない。彼女はちいさなカメラマンで旅行記に載せる写真を撮ってくれる。その写真はすてきで彼女との旅は楽しい。でも、そこで彼女が僕の気持ちに気づいたら? いま、落とされてしまった事に気づき、僕がくらくらになっている事を悟られたら。
彼女は車を降りるかもしれない。
極力、感づかれないようにしなければならないのか。
背筋を冷や汗が伝うのがわかる。
道は小さな港を駆け抜けてすぐに山間へそれを抜けるとまた小さな港、牡鹿半島のドライブはその繰り返しで、めまぐるしく景色が変わる。彼女はそんな移り変わりの速さに夢中で、シャッター音がいきいきと響く。手元の地図を見ると、目当ての岬である黒崎はもう目と鼻の先で、そこから大きな港を抜けてすぐだった。
「間に合いましたね。暗くなる前にたどり着けましたよ」
バックミラーを見ると夢中でシャッターを切る姿、鼻歌をうたい、表情を輝かせてカシャ、カシャと目の前の光景を切り取っていく。まるで声さえ聞こえていないようで、海風に溶け込むように髪をなびかせる、それを見るだけでも思わず頬が緩んでしまう。
軽自動車はささやかな港町を駆け抜け、半島の最南端へと向かう。
海は青く右手には、対岸に大きな島が見える。
牡鹿半島はその東西を大きな島に挟まれている。その緑が海の色に鮮やかに映える。周囲の樹々のにおいが風に混じる。八月を過ぎた平日の夕方近くの半島はひとけも車通りもなく、この光景をひとり、いやふたりじめしている心地になる。ぽんこつのエンジン音だけがこの景色の中に孤独で、秘境へいくでもなしに世界にたったふたりになった心地になる。
(しかし、いったいなんでこんなことになっているんだろう?)
わからない。
最善と思える選択肢を選んでいるうちになぜかこんなことになっている。
かわいい子が写真を撮ってくれて旅もしてくれるんだ、それでいいじゃないか。
そう、それでいいはずだった。
半島の南端で折り返して少し高いところにある駐車場のある展望台にスズキをとめる。
彼女には新しいメモリーカードとバッテリーを渡し、僕は早速彼女の写真をチェックし始める。鮮やかで躍動感のあるスナップに、僕は夢中になり、そして幸福感に包まれる。
「いいじゃん」
何枚か、おそらくサービス精神なのだろうが、旅行誌にありがちな紋切り型の構図を見つける。
(こんなことしなくていいのに)
僕はノートパソコンの電源を落とし、頭の中に渦巻くうれしさとそれをあらわした言葉が浮かび上がってくるのをあれこれと選び始める。エンジンを切り、車を降りると海の香りが風となって包み込む。ふっと息を吸い込んで、こんなにわくわくしたのは初めてじゃないかとふと思う。
(どこいっちゃったんだろう?)
僕は彼女を探した。
・女の子ひろった
http://anond.hatelabo.jp/20100116012129
・これこそ逃避
http://anond.hatelabo.jp/20100119221742
・すごい彼女
http://anond.hatelabo.jp/20100119221742
つづき。
橋を渡って半島に入ると、二車線の道はくねくねとまがってトンネルに入り、そのまま半島の東岸を縫いはじめる。右手に真っ青な海が広がり、その青のまぶしさに彼女は表情を輝かせる。
「ごめん、逆がよかったね。西側からめぐるべきだった」
助手席の彼女は首を横に振り、徐行して下さいと嬉しそうに言う。速度を落とすとシートベルトを外してシートをまたぎ、彼女は後部座席の右側の窓ガラスに両手をそえ、カーブで揺れる自分をそれで支えて、海の美しさにみいる。
「晴れてよかったですね」
「うん」
バックミラー越しにはにかんで笑う。こっちのほうがお互いが見やすいかなどと思う。
夏が過ぎ去ろうとしている半島は交通量も少なく、のどかな田舎道は岬めぐりの巡礼者たちにはおあつらえ向きに思える。都会を離れ、人混みの孤独から離れ、何か嫌なことから離れ、ただただ陽光と、波の色と、緑のあいだを抜けてくる風のことだけを思う。それはとても贅沢な旅であると僕はもう知っているのだけど、彼女はまだそれを堪能してはいなかった。
「窓あけてもいいですか、ちょっと暑いかもだけど」
「ああ、そうですね」
思いつかなかったとばかりに彼女は目の前のガラスをおろしてしまう。そのねっとりとした海風に髪をなびかせて、窓枠を両手で掴む。それでカーブで揺れるのにバランスをとって、いいなあとのどかにつぶやく。僕も窓を開けると潮のにおいが車内を舞う。嬉しくなってハンドルをとんとんと指先でたたく。
「そういえば、坂田さんって、なんで岬めぐりなんて思い立ったんですか?」
不意打ち的なふしぎそうな目がバックミラー越しに向けられる。
どぎまぎするが嘘はつけない。
視線もそらせない。彼女は仲間だし、知ってもらったほうがいい事ではある。
「あー、長いですよ? それに退屈かも」
バックミラーのなかで頷かれると、もう逃げ場はなくなった。
「東京の仕事を辞めたって、話しましたよね? その仕事、雑誌作る仕事だったんです」
へーという顔をするので、軽くため息をつく。
「立派なものじゃないんです、下請けですから。営業用語ではプリプレスって言うけど、今ならDTPかな? その会社、雑誌だけじゃなくて、会社案内とか、IR資料とか、パンフレットとかもやっていて雑誌は半分ぐらい、でも雑誌は儲かってなかったと思う」
「どんな雑誌やってたんですか?」
「カード会社の全会員に配る旅行誌。その旅行誌でだいぶ儲けていたらしくて、けっこう力を入れていた雑誌だった」
ついこの間までの事とが、彼方の事に思えてくる。
「出版関係やりたかったんです。プリプレスは誌面を作れるけれど、文章も写真も自分のではなくて加工するだけ、下請けにしては給料が出ていたから続けられたようなもので、責了前は缶詰になるし、仕事はハードで、それで」
「やめたんですね?」
得も言えない沈黙が何か責めるように続く。やりたいことを諦めたですね、おめおめと実家の安定した楽な仕事をするんですね? そんな声が聞こえてくる。言い訳する。
「カード会社が合併したんです、別の会社と。それで会員向けにやっていたサービスを見直すことになって、対象になったのが旅行誌をはじめ定期刊行物で、合理化ってやつで。先方はコスト切りたくて、会社もねばったんだけど価格が安すぎて、雑誌の仕事がほとんどなくなって、残るはIRの仕事。で、もういいかなって。この業界先がまったく見えないし、この年でこの不況で転職もどうかと思うし、親はやくざな仕事はやめて、山形の実家を継げってうるさいし。やけばちだったんです」
それで、やりたいことを諦めて現実逃避。
バックミラーを見るとふしぎそうな顔をしている。
「それでなんで、岬めぐりなんですか?」
「ああ、実は先方に提案してたんです。担当者の方が、いいアイデアないかなって言うので、多いんですそういうの、クリエイティブってあんま垣根ないから。見透かされてたんですかね、出版やりたいの。で、けっこう夢中になっていろいろ調べて」
彼女は窓枠に片肘をついて海風に吹かれながら、嬉しそうにする。
「こんなすてきですもんね」
それで救われる。
「インターネットやりたいんです。ずっと紙だったから、ネットの双方向性というか、でもネットの事は全然わからなくて、でも紙だと刷るのにお金がかかるけれど、ホームページを作るのってそんなにお金がかからないから作ってみたいと思うんです」
「どんなページなんですか?」
「旅行サイトです。雑誌みたいに。あちこちまわってそれを記事にする。それでたくさんの人が読んでその旅をしてみたくなるような、そんなサイトがいい」
彼女は考え込んで、しばらく黙る。
「じゃあ、写真は必要ですよね。もしよければ、写真を撮りましょうか? だって、こんな素敵な景色を撮らないなんてもったいないし、あなたは運転中だし、私以外撮る人いないし、これ撮りたいし」
僕の答えは明確で、不良資産になってるカメラを処理してくれるなら、嬉しい以上の言葉はなくて、後部座席のカメラ機材を教えた。彼女はわくわくと、すぐにシャッターを切る。それを見た瞬間、その同乗者がすごい才能を持っていることに気づく。嬉しそうに見せられたプレビュー画面をみて、これはすごいと、わかる。
・女の子ひろった
http://anond.hatelabo.jp/20100116012129
・これこそ逃避
http://anond.hatelabo.jp/20100119221742
・すごい彼女
http://anond.hatelabo.jp/20100123005026
・ふたつ恋した
まず簡単にステロイドを処方しないような、良いお医者さんを見つけるべきだと思う。身体の部分に応じて非ステロイド系軟膏を処方してくれて、ステロイドの効能と副作用も含めて、日常生活における細かい注意事項を教えてくれるような所。
例えば37度以上のシャワーやお風呂に入らない(熱いお湯はあがった後の肌を乾燥させ痒くする)、海風に素肌をさらさない、日焼け厳禁、固形石鹸を使用する、汚い手で肌を掻かない触らない、醤油など刺激の強いものが付いたら拭くだけではなくすぐに洗い流す。非ステロイド系軟膏はできるだけ薄く優しく丁寧に、付いてないくらいの量をのばして使う。何度も同じ箇所を塗ったり、逆の方向から塗り直したりしない(擦っているのと同じ)。ステロイドに関してはもっと薄くのばして使う。
以下自分語りなので飛ばしてもらっても可。
私はステロイドを処方されたこともあるけど、先生から副作用の説明を受けてよっぽどのことがない限り使わなかった。かれこれ15年余、非ステロイド系軟膏を中心に気長に治療を続け、首と背中と二の腕にわずかに残る程度になった。最近知り会った人にアトピーを打ち明けても信じてもらえないくらい。今でもお風呂上りには欠かさず首と背中に塗っている。より正確には彼氏に塗ってもらっている。そんなに酷くなかったんだろうと思われるかもしれないけど、本当に酷かった。首、背中、脇、腕、肘、足の付け根、膝裏、顔。症状がでる所は数年ごとに移動した。関節のあるところや、布が擦れる箇所は特に酷く、脇や足の付け根などは切れたあと爛れて膿と血と黄色く臭い汁だらけになり、瘡蓋を眺めながらなんで女に生まれたのか悔しくて悲しくて涙したこともある。人前で裸になんて一生なれないと思った。彼氏と付き合うことになったときも、言いはしないけど背中を見てゾッとするかも知れないと思ったら恐くて長らく服を脱げなかった。初めて見せて「大丈夫だよ」と言ってくれたとき、本当にほっとしたのを覚えている。
アトピーのせいで女性として受け入れてもらえないかも知れないという恐怖はとてもよく分かる。でも元増田さんをアトピーを含め愛してくれる人は必ずいる。もしそれで引いたなら、その程度の男だってことだからさっさと捨てるが吉。どうか元増田さんによき出会いのあらんことを!
訂正:37度→38度。最初はぬるくて慣れないし、冬はつらいと思うけど37度推奨です。
「地球温暖化と環境破壊との因果関係がはっきりしていない」という意見がある。しかし環境破壊は良くない、というのはみんな一致した意見だよな。そもそも環境破壊や環境保護の「環境」ってのは、「人間が住みやすい環境」を指しているのだから。極論すれば、クジラやシロクマが死のうが人間が未来まで快適に住めればいいのである。
「環境は大事だけど自分の便利な生活は失いたくない」という意見がある。正直であり当然である。しかし、便利な生活を失った見返りがあったらどうだろうか。たとえばお金。現に、ガソリン代が上がったらクルマでの遠出を控えたり回数を減らしたりしてるという。流通業界は業種業態の枠組みを超えた共同配送等も検討するという。みんなお金は大事である。
というわけで、地球と財布に優しいエコ(エコロジー/エコノミー/エネルギー)を考えてみた。