はてなキーワード: 加地とは
医療関係の、しかも国を挙げての非常事態に関する内容において、飛ばし記事にはしっかり訂正の断りを入れてほしいものです。
現記事→
https://news.yahoo.co.jp/articles/edd30c6822606bf8869572c6ddb5906922e957c1
新型コロナウイルス感染症への対応で厚生労働省は2日、感染者の多い地域では原則、入院対象者を重症患者や特に重症化リスクの高い人に絞り込み、入院しない人を原則自宅療養とすることを可能とする方針を公表した。
無理やり修正したためにタイトルが「入院患者以外は原則自宅」と進次郎構文になっていますが、それはいいとして。
元記事→
政府は2日、新型コロナウイルスの医療提供体制に関する関係閣僚会議を開き、病床の確保に向けた方針をとりまとめた。
重症者については入院のための病床を確保するが、中等症や軽症者に関しては自宅療養を基本とする内容で、感染者増による医療提供体制の逼迫(ひっぱく)に備える。
日経や時事でも、
「重症患者やリスクの高い方は確実に入院できるように病床を確保する。それ以外の方は、症状が悪くなればすぐに入院できる体制を整備する」
とされています。
ちなみにそもそも「中等症」自体が入院が必要とされる段階の症状なので、これを全て自宅療養と述べたのだとすれば、大問題ですね。
新型コロナウイルス感染症(COVID-19)診療の手引きの重症度分類等について
https://www.mhlw.go.jp/content/12404000/000672044.pdf
重症度分類 臨床症候 診療のポイント 軽症 ・SpO2≧96% • 軽症患者のうち、リスク因子※1のある患者は入院が必要
急速な病状進行に備えた診療・巡回が必要中等症Ⅰ ・93%<SpO2<96%
・息切れ、肺炎所見・入院の上で慎重な観察が必要
1日3回のバイタルチェック(呼吸数、脈拍数、酸素飽和度)、症状を訴えない低酸素血症を見逃さない
重症化早期発見のための一般血液、生化学、尿検査等の実施
・抗ウイルス薬の投与を考慮中等症Ⅱ ・SpO2≦93%
・呼吸不全あり【中等症Ⅰの患者への対応に加えて】
・酸素投与が必要、動脈血液ガス分析検査で呼吸不全の病態を評価
・ステロイドや適応外薬のトシリズマブ投与も検討
・敗血症や多臓器不全の併発※2に留意が必要
肺炎の進行状況を確認のため、血液ガス検査や画像検査の必要性を判断し、実施する必要
SpO2が保てなくなった場合は人工呼吸への移行を考慮し、実施重症 ・重症肺炎 【さらに】
・ICUにおいて、人工呼吸器管理が必要
・ECMOや血液浄化療法、血栓症対策を実施
問題は「重症患者やリスクの高い方『以外』」の方が、どこまでを指すのかですが、
中等症Ⅰでも「リスクの高い方」に分類するなら、従前と変わりないように思えますし、
楊井氏のコメントにもあるように、そもそも中等症に係る入院基準はあいまいで、自治体任せだったとの指摘もあります。
自宅療養者にパルスオキシメーターが配布されたという情報もあったので、
「中等症も自宅療養」はデマだとしても、軽症と中等症Ⅰの基準を調整して、医療逼迫を乗り切ろうということなのでしょう。
「1年もあったのに何してたんだ!」と怒っても、仕方ありません。
医療従事者は1年では増やせないので、しっかり行動制限しましょうとしか。
いずれにしても今更ながら、毎日新聞の医療関係の記事についてはまず眉に唾付けて受け止めるべきだと、改めて確認した次第です。
これは毒親持ちのオタク女子(23)から、惣流・アスカ・ラングレー(式波・アスカ・ラングレー)に送る、一方的なラブレターである。
14歳の時に、DVDでエヴァを見た。画面の中で、私と同じ年の少女が「エヴァパイロットではない自分には価値などない」と、心から真っ赤な血を流しながら叫んでいた。その姿を見て私は泣いた。彼女の機体にかけられた虹色の光に、そしてその身を裂くような苦痛に、私も一緒に襲われていた。
それが私と惣流・アスカ・ラングレーの出会いだった。
アニメ版、旧劇場版でのアスカは母親に存在を否定されたという過去があり、自分自身の存在をエヴァパイロットであることに依存している14歳の少女だ。とても愛らしく美しい見た目をしており、自分の培ってきた能力で他者を圧倒することを厭わない高飛車なその性格と内側に抱えた闇は、一瞬で私を虜にした。
アスカが私を虜にしたのは、私の状況が彼女に酷似していたからだ。もちろん私はアスカのような美少女ではないし、大学に飛び級出来るほど頭が良かったわけでもない。しかし一応、県のトップ高校に行ける程度には勉強はできた。父というモラハラ上司に四六時中監視され自尊心を根こそぎ奪われていた私にとって、勉強はプライドの拠り所だったのだ。それだけが、私の誇りだった。
だからエヴァパイロットであることを拠り所にしているアスカの気持ちは痛い程よく分かった。そしてそれを取り上げられる苦痛も、それがなければ他者と関わることができないという辛さも、何もかも。
それ故、高校から大学にかけて私は彼女を愛した。彼女と出会う前は派手だと遠慮していた赤も、彼女の色だと思えば愛おしかった。私のような地味な女には似合わない赤の小物がいつしか部屋の中に増えていった。
ランダムのラバーリストバンドの箱を開けて、彼女の機体をモチーフにしたカラーではないものが出てきた時は心底がっかりした。
「あんたバカァ?」という嘲りを含んだ声色も、その内側に抱えているものを知る私には愛らしく響いた。
『心よ原始に戻れ』を歌うときには、いつだって彼女のことを思い浮かべていた。
彼女の高慢な態度も、その華奢な身体に内包した闇の深さも、海風に髪がなびいたときのきらめきも、心が壊れて廃墟のバスタブに横たわっていたときの姿も、頑なに心を開かないところも、最後にシンジ君に対して「気持ち悪い」と吐き捨てたところも、惣流・アスカ・ラングレーを構成するすべてを、私は愛していた。
しかし新劇場版では、アスカは母親の因縁から解き放たれていた。加地リョウジを愛することもなかった。それどころか何のきっかけもなくシンジを愛し、レイに碇親子の会食を勧めるようお膳立てしさえした。
そんな彼女は私の目にはまるで安っぽいギャルゲーの物分かりの良いサブヒロインのように映った。アスカがシンジを好きになるきっかけが埋まったエピソード(瞬間、心、重ねてとマグマダイバー)は、新劇では全てカットされていたからだ。
好きになる理由がないのにどうして?やっぱりシンジ君を上げたいだけの話なの?最近流行りの異世界転生のように?くだらない、くだらない、くだらない!
アスカの扱いの粗雑さに腹が立った。
私は新劇のアスカを愛することはできなかった。私の愛するアスカは惣流の名を冠する彼女だけだ。胸を貫くような痛みを共有できる彼女だけが、真のアスカ・ラングレー。そう、思っていた。
が、シンエヴァで彼女が救済されたことを知ったとき、素直に涙が零れた。心の底から良かったと思えた。彼女の首にはもう、DSSチョーカーはないのだ。置いて行かれたという気持ちがなかったわけではなかったが、いつか私もそうなれるのだというエールのようにも思えて、映画館で静かに泣いた。
私もいつか、父の呪縛から解き放たれ、自分自身の人生を生きることができるだろうか?
遠くから、私を嘲笑う声が聞こえる。お前は必要ないと叫んでいる。お前など産まなければよかったと、感情的に叫ぶ声が聞こえる。女の癖にと嘲る声が聞こえる。雪の日に裸足で外を歩かされた記憶も、八歳の時に殺されかけて失禁した記憶も、寄生虫と呼ばれたことも、女のお前など中流の公立高校で十分だと言われたことも、受験した大学が一つしか受からず受からなかった分の受験料をどうするのだと土下座をさせられたことも、弟が父に刺されそうになり慌てて止めたことも、十八の時に父の頭をフライパンで殴ろうとするも喧嘩慣れしていなかったせいで肩に当ててしまい殺しきれなかったことも、成人式の時に着物代を一銭も出さなかった父に私の用意した貯金額があまりに少ないと文句をつけられたことも、なかなか消えはしない。それはどうしようもなく、私の一部だ。
でもそれもやがて遠い記憶の中に埋もれ消えていく。
私が、未来を見て歩き続けるのなら。
傷つくことを恐れず、他人と関わっていこうとするのなら。
父の呪縛を一気に解いてくれる何かなんて、ありはしない世界で私は生きている。でも私はそれでいいと思う。確かにそんなものがあったらいくら金を積んだっていいけれど、ありもしないものを求めたって仕方がない。
アスカ。私がいつか父の呪縛から解き放たれたら、一緒に日比谷の無印カフェに行ってくれないか。そこでお茶をしよう。ケンスケくんの話をしよう。呪縛から解き放たれたきみと、一緒に笑いたい。
そんなことを言ったら、きっときみは「気持ち悪い」と言う。でも構わない。「気持ち悪い」と言われるのを恐れずにきみに話しかけられるようになること自体が、私が呪縛から解き放たれた証なのだから。
アスカ、いつまでもきみを愛しているよ。ケンスケくんとお幸せに。
桜咲き始めてるかしらってもう私の所は満開間近って感じでマジか!って感じよ。
よくよく考えてみたら
よく考えなくてもだけど
桜の木のソメイヨシノってほぼ全部が遺伝子が一緒のクローンでって話しは有名なんだけど、
うかうかお花見もしてられないわよね。
ホラーよね。
ホームセンターとかで売ってる
収穫が一斉に出来る!って仕組みらしいのよ。
劣性遺伝子が働いて、
一発目に育てたよりも大抵はポンコツな収穫しか出来ないヘボまった野菜になる確率が高いらしくって、
そう言えば植えて育てていたお野菜も代を重ねる毎に
いろいろとそう言う家庭菜園の本を読みまくりまくりすてぃーしていると、
へーって感じよね。
そう思いながら愛でる桜も恐怖であるし
なんか手塚治虫さんの火の鳥のなんかの話しにも通じる感じもしないこともないわよね?
だからこの時期になると遺伝子は一緒だけどやたらピンク色の強い桜の根元には、
桜の花をよりピンク色に仕上げて咲かせるらしいわよ。
桜を見回っていくんだけど、
よその人から見たら、
刑事さんがお花見とは暢気なものね!って言われるのがこの時期辛いらしいわよ。
だからそれに伴ってまた、
大抵の白いお皿を集める人たちの半数以上は刑事さんでもあるとともに
それ以外の半分は松たか子さんになるって
そう考えると恐ろしくない?
私はそのパン祭りのシールの置いてあるパン屋さんが近くにないから
そのことをすっかり忘れていたけど、
桜が咲く頃になると
すっかり思い出すのよ。
ああまた桜咲く季節あんパンが爆売れ!シール集め放題なんだーって
よその桜よりピンクみの強い桜があれば要注意なのよね。
ソレはまるで、
お店で1つ1つ作られることなくなって
そう思うでしょ?
ほんとまるで火の鳥の話しと一緒だわ。
私も桜が散る前に
私ならテイクアウトした揚げたてから揚げとレモン酎ハイにしようかしら?
なぜなら、
さてそろそろ捜査に戻ることにするわね!
うふふ。
微糖でもいいけどそれはイサオだわ。
甘かったら加糖だってことね。
春らしいことみんなもしてみてね!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
わかるか?何でお前が「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」を否定しているか、俺が教えてやる。お前は単に嫉妬してるだけ、ルサンチマンを抱いているだけだ。否定の対象をシン・エヴァに向けてるが、それはお前の人生が満たされていないことの裏返しなんだよ。
※以下、シン・エヴァのネタバレを含むからよ、観てない人は閉じてくれていい。
何でお前がシン・エヴァに否定的か、それはお前の潜在意識、深層心理にある。
戦闘シーンがどうのこうの、展開がどうのこうの、難癖付けて講釈を垂れてるが、その嫌悪感や納得できないという感情の端緒は、ラストシーンにある。
端緒なんだけどラストシーンなんだよ。
すなわち旧劇の人類補完計画後の世界の変わりに提示された、別の理想の世界だからだ。
どうだった?旧劇と違ってたよな。
人類補完計画は行われず、宇部興産に就職したシンジが、マリとイチャイチャしてたよな。
この世界のシンジは、お前に持ってないもの、全て持ってるだろ?
いい仕事といい女、どちらもお前は持ってない。
よくありそうな現実。
だけどお前にとっては現実ではなく、むしろ実現が非常に難しい、フィクションに近い世界。
いい仕事にもありつけず、安月給をちまちま貯め、たまに風俗に行って憂さを晴らす日々。
「シン・エヴァで氷河期世代は救われない」https://anond.hatelabo.jp/20210309164507 と誰かが言ったが、その通りよ。
誰もが皆、シンジのようにいい仕事とパートナーを得られるとは限らない。
現実はシンジが作った新世紀と全く違うほど、残酷な日々だということを。
ラストシーンの新世紀の映像に、お前のような輩は、写ってたか?
安物のB〇arのダウンジャケットを着て、一人とぼとぼホームを歩くオッサンは写っていたか?
秋葉原で買ったアニメ絵がプリントされた紙袋を両手に、汗臭いネルシャツ着たデブは写っていたか?
競馬新聞とワンカップ片手に短波ラジオ聴いてるオッサンはいたか?
不摂生もしくは貧乏で、歯が抜けても直さず、活舌の悪いオッサンはいたか?
頭からフケが落ち、スーツの肩の部分に粉ふいてるオッサンはいたか?
写ってないよな?俺は観なかったぞ。
だからお前の人生は「新世紀には存在しないものとして扱われた」「写す価値のないものとして省略された」ということだ。
だけどお前の人生は続く。
提示された新世紀とは全く違う、いい仕事もいい女もいない、無為で、非生産的で感動が希薄な日々。
こんなことなら…もう…そうだよな。
人生を悲観したことだって、一度や二度ではなく、たぶん人並みよりも多いだろうよ。
人と人との境目がなくなり、単一の生命体になることは、格差がなくなるということ。
愛する対象とも一つになれる。
そういうシーン、旧劇にあったよな。
誰からも愛されないキモくて金のないオッサンでも、人類補完計画後の世界では、愛する人と一つになることができる。
だけどシン・エヴァでネオン・ジェネシスされた人と人の境目がある世界においては、キモくて金のないオッサンは、ただただ孤独な日々を死ぬまで続けて、風呂場で汁になって腐乱死体で発見されるのが関の山だ。
エヴァのクオリティとかではなく、本当は、お前の内面や日常の問題なんだよ。
作品批判で悦に浸り、閲覧数を稼いで、ちっぽけな自尊心を満たした。
それでいいのか?これ読んで目が覚めたか?
シンジは言ったよな。
お前はやってみたのか?
今までの人生で、何かをやってみるという生産的な営み、行動力のある実践、大してやってきてないはずだ。
その帰結が、今の、キモくて金のない残酷なオッサンの日常なんだよ。
自己責任論を言ってるわけではないぞ。
生まれ育った環境の違いや社会の状況も、成功の可否に影響することだってあるよな。
だけど、自分の人生を棚に上げ、あーだーこーだと作品批判、カッコ悪いだろうが。
何でもいいから、お前が生きていたという人生の爪痕、人や社会に迷惑をかけること以外で。
中間走者として自分がいる。
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秋葉原での無差別殺傷事件で逮捕された青年の両親が自宅前で報道陣に取り囲まれ、会見をした。父親が「謝っても償いきれない」などと謝罪の言葉を述べている途中、母親は急にひざから崩れ落ち、頭をうなだれ、土下座するような形でそのまま動けなくなった。
両親に法的な責任はないが、こういう子どもを育てた道義的責任はある、というのが、日本人の常識的な感覚であろう。
かつて神戸で中学生が小学生を殺し、その首を校門の前に晒す、という異常な事件が起きた。これに関して、儒教研究家の加地伸行・大阪大学名誉教授は、こう書いている。
・・・もし私が加害者の中学生の父であったならば、自裁(自殺)をする可能性がある。私は日本人であるから、親は親、子は子、別の独立した人格であるというような、欧米人流の個人主義的行動をとることはとてもできない。それに、自裁する前に、罪を犯した子を自らの手で処置する可能性さえある。[1,p6]
殺人を犯した我が子を手にかけた後で自殺する親がいても、日本人の感覚からは、同情こそすれ、「狂気の沙汰」とは見なさない。
加地氏は、これを「親と子の血のつながりに対する運命的一体感」と呼び、「欧米流個人主義の立場からは絶対に生まれない感覚や意識」だとする。
こんな所からも、日本人の家族観が現代においても欧米とはまったく異なるという事が窺われるのである。
日本と欧米との家族観の違いは、我々の日常生活でも随所に姿を現す。
たとえば、最近では日本でもキリスト教式の結婚式が広まってきているが、神の前で互いに相手を伴侶とする宣誓をするのは良いとしても、さらに契約書にサインまでするというのは、どうにも違和感がある。日本人の普通の感覚では、「契約」とは他人行儀のビジネス行為であって、それが家族の中で行われるというのは、どうしてもなじめない。
欧米のキリスト教的な家族観では、家族とは男女の個人間の契約を基盤としている。そして神の前での契約こそが、神聖なものなのだ。
また欧米の家庭では、子どもが生まれて大学生にでもなれば、もう親とは別の独立した「個人」となる。ある小説で親が成人した子どもに「これからは友人としてつきあっていこう」などと語るシーンが出てきて、こういうセリフは日本人では思いつかないな、と感じたことがある。
当然、子どもの方にも、年老いた親の面倒を見なければならない、などという義務感は薄い。子や孫との家族的関係を持ち得ないアメリカの老人たちはいかにも淋しげである。
実はヨーロッパにおいても、ギリシア時代やローマ時代など、キリスト教が栄える前は、人々は家毎に祖先の神霊を祀り、それが家族の基盤をなしていたのである。それは古代の日本も同じであり、現代日本人の家族観はその伝統を色濃く受け継いだものである。
古代の多くの民族は、亡くなった祖先の霊は、子孫が祭祀してくれれば、いつでもこの世に戻って来られるものと信じた。日本語で言えば、「草葉の陰」で子孫を見守ってくれるのである。
「死んだらどうなるのか」というのは、常に人間を不安にする疑問であるが、死んでも自分の魂は存在を続け、子孫とともにある、というのは、生死の安心を与えてくれる信仰であった。
また残された子孫にとっても、自分を愛し、育ててくれた祖父母や両親が、死後も見守ってくれる、というのは、その死の悲しみを和らげてくれる物語であった。
先祖祭祀というのは、先祖をキリスト教的な唯一絶対神として祀る、ということではなく、先祖の霊とともに生きている、という生活感覚なのである。それがわが国においては古神道となり、中国においては儒教に発展した。
キリスト教では、死者の魂は最後の審判を受けて、魂は天国か地獄に行く。仏教では、魂は輪廻転生を続け、解脱をしない限り、次は蛇や虫として生まれ変わる恐れがある。
よくキリスト教や仏教を「高等宗教」とし、先祖祭祀などは未開の宗教であるかのように言うが、死後の魂がどうなるか、ということについては、それぞれが違う「物語」を持つ、というだけのことであって、どちらが高等かなどと比較できるものではない。
魂が輪廻転生を続け、解脱をすれば浄土に行ってしまう、とする古代インド仏教が、先祖祭祀を信ずる中国や日本に入ってきた時、その死生観の違いが文化的衝突を引き起こした。
インド人にとって見れば、魂は他の人間か動物に生まれ変わるか、浄土に行ってしまうので、肉体はその乗り物に過ぎない。だから焼いて、その灰はインダス河にでも流してしまう。これが本当の火葬である。
日本で火葬というのは、遺体を焼却した後に骨を拾い、墓に収める。これは本来の意味の火葬ではなく、土葬の変形なのである。古代中国では、人間の精神を支配するものを「魂」と呼び、肉体を支配するものを「魄(はく)」と呼んだ。人間が死ねば、「魂」は天に上るが、「魄」は地下に行く。「魄」を地下で大切に守るのがお墓である。
これと同様の感覚を日本人も持っており、遺骨には死者の「魄」を感じる。戦後、アジアや太平洋の島々にまで戦死者の遺骨収集に行くのも、骨を故郷の地に埋めなければ、死者の魄を供養できないと考えるからだ。
これについて興味深い話がある。昭和45(1970)年日航機よど号をハイジャックして北朝鮮に逃亡したグループのリーダー田宮高麿が平成7(1995)年に亡くなり、「祖国の地に骨を埋めたい」という気持ちから、田宮の遺骨は北朝鮮にいる妻子と日本の家族とに分けられ、新潟県内の家族の墓に埋葬されることになったという。
共産主義者は無神論者のはずだが、異国で死期が近づくと「祖国の地に骨を埋めたい」と願うのは、心の底には日本人の死生観が根づいている証左である。
輪廻転生を信ずるインド仏教が中国に入ってきた時、遺体は焼いて川に流してしまう、という生死観は、先祖祭祀を信ずる中国人にはとうてい受け入れられるものではなかった。
そこで中国における仏教は、魄を納める墓や、先祖の魂を呼び戻して依り憑かせるための位牌を取り入れた。
わが国に中国から仏教が入ってきた時には、このように先祖祭祀を取り入れて換骨奪胎したものになっていたので、比較的抵抗は少なかった。
それでも日本にも仏教の輪廻転生をそのまま信ずる人はいた。鎌倉時代初期の親鸞である。親鸞は阿弥陀仏の衆生を救おうという本願にすがって、浄土に行けば輪廻転生の苦しみから脱却できると説いた。となれば葬儀も墓も先祖供養も不要になる。
しかし、親鸞の弟子たちはその教えに背いて、葬儀・墓・先祖供養を続けた。その後裔たる現代の浄土真宗本願寺派も、墓を作り、葬儀や先祖供養を行っている。
今日の日本では、大方の人々が仏教に求めているのは、墓・葬儀、先祖供養である。そもそもの輪廻転生からの解脱を仏教に求める人々は例外的であろう。これほどに先祖祭祀は日本人の心の奥底に根付いているのである。
仏壇も、墓や葬儀と同様、仏教本来のものではない。中国においては、一族の長の家に宗廟(そうびょう)という別の建物を建て、そこで先祖祭祀を行った。これが後に、祀堂(しどう)や祀壇(しだん)となり、それを仏教が取り入れた。
日本では、これが部屋になって「仏間」となり、さらにはそこに置かれた仏壇が、一般の部屋に置かれるようになった。各家に仏壇を置くという習慣は、中国や朝鮮にもない、日本独特のものであるそうだ。[1,p191]
仏壇には、灯明と線香と位牌がおいてある。灯明は先祖の霊が降りてくる場所を間違えないよう、明るくするためのものである。線香に火をつけると、その香煙に乗って、霊が降りてきて、位牌に依りつく。
そこで子孫たる我々は、降りてきてくださった祖霊に対して「ご先祖さま。おはようございます。今日も一日よろしくお願い申し上げます」などと挨拶をするのである。
今日、自分たち家族が生きていられるのも、亡くなったご先祖様のお陰であり、そのご先祖様の恩に応えて、自分も家族のため、子孫のために今日も頑張ろうと、心を新たにする。これが先祖祭祀に基づく生き方だろう。
核家族化が進んで、仏壇のない家も少なくない。しかし、仏壇のある祖父母の家に里帰りした時などは、幼い子どもとともに、仏壇に線香を上げると良い。幼い子どもは遊びのように喜んで仏壇に向かう。自分がここにあるのも、ご先祖様のお陰だということを教える何よりの機会である。
もう一つ、インド仏教が中国や日本の先祖祭祀と衝突した点は、出家を説いた点である。「出家」とは文字通り、家を出て、財産への執着や家族への愛着を振り切って、個人の解脱を求めることである。
しかし息子に出家されたら、その家は断絶し、先祖の霊を祀る子孫がいなくなってしまう。個人的な解脱のために、先祖の霊をさまよわせ、子孫の未来を奪うのは、先祖祭祀の立場からは、とんでもない「不孝」と考えられたのである。
そこで中国や日本においては、「在家」すなわち家族の実生活の中で仏教を奉ずることが理想とされた。聖徳太子は在家の長者・維摩が教えを説いた「維摩経」、および、同じく在家の女性信者である勝鬘(しょうまん)夫人が仏道を説いた説いた「勝鬘経」をとりあげて注釈書を書かれた。
前述の親鸞は、聖徳太子を「和国の教主」と仰いでおり、その在家主義を受け継いで、結婚し、子をもうけている。今日でも日本の多くの仏教僧は、結婚し、家庭生活を営んでいる。
オウム真理教はインド仏教を受け継いで、出家して修行を積めば、輪廻の苦しみを脱して解脱できると説いた。それを信じて家族を捨てて教団に入った子どもたちを、親が返せと叫ぶ。これも「出家」と「在家」の衝突の一例である。
「在家」とは、家族の一員として生きていくことであるから、まことに不自由なものである。「出家」のように好きな所に行って、好きなだけ座禅を組む、などという気ままは許されない。
しかし、その不自由な家族の中で、我々は生まれ、育てられて、大人としての生活を送る能力を身につけていく。まず家族の中に生まれて、育てて貰わなければ、大人として自由な生活を送る事も、そもそも不可能なのである。
さらに成長の過程で自分を育ててくれた親への感謝や、その恩返しとして今度は自分の子どもを立派な人間に育てる義務を学ぶ。このような事が人格の基盤を構成するわけで、感謝や義務の心のない人間は、自由を与えられても、自分の利益しか考えない利己主義者になってしまう。
西欧に発展した近代個人主義においては、ひたすらに個人の自由と権利の拡大を図ってきた。しかし、キリスト教社会においては、神に対する畏れがあり、それが野放図な利己主義に転化する抑止力となってきた。
わが国においても西洋的な自由と権利の主張を鵜呑みにして、家族制度を「個人の自由を抑圧する封建的制度」などと罪悪視する思潮がある。
しかし、わが国においては家族制度が、利己主義への抑止力となってきたのであり、それを破壊することは、利己心の抑制を持たない人間に野放図の自由を与えることになる。都会の雑踏で無差別殺人を行う青年とは、その極端な姿ではないのか。
こうした事件を防ぐべく、子どもたちに単に「生命を大切にしよう」とだけ教えるのでは、「なぜか」が伝わらない。
それがわが国の家族観に従えば、「生命を大切にしよう。生命とは何代ものご先祖様から君たちに伝えられ、そして君たちから何代もの子孫に受け継いでいくべきものなのだから」と教えることができるのである。
先祖供養とか仏壇、お墓参りなどは、すでに形骸化した「葬式仏教」の遺産であると考えがちであるが、それらは我が先人たちが産み出してきた工夫なのである。そこには先祖から子孫へと連綿とした生命のリレーの中で人間を捉える伝統的な家族観が生きている。
その家族観の深い思想を知らずに、単に古くさいの一言で片付けながら、新しい家族観を産み出すこともできずに、社会的混乱を招いているのが、現代の日本人ではないだろうか。
これではご先祖様も草場の陰で嘆いていよう。
(文責:伊勢雅臣)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4569603084/japanontheg01-22%22
http://anond.hatelabo.jp/20090311015518
ことし40歳になる有名人
「今年30歳の有名人」と違って、もう既に若者扱いされることもなく立派な中年。芸人なら中堅、スポーツ選手は半分以上は引退して指導者になってたり、芸能人になったり、政界に転出してたりする。
90年代の日本の音楽シーンの中心だった人たちもこの世代。ミスチル、LUNASEA、ラルク、コーネリアス、渡瀬マキ、大黒摩季、槇原敬之。福山雅治と加勢大周と東幹久って同い年なんだね。ジャンル的に同じでも、出てきた時期が微妙に違うからそう思わなかった。
あとこの年齢だと、既に他界している人もいる。年を取るってそういうことなんだね。
素人の予想など当たるべくもないことは分かっているのですが、こうして予想しておくと1年の終わりに答え合わせをする楽しみが待っているので予想するのです。
優勝は浦和。根拠は特に無く、強いて言えば2007年の鹿島のようなことが起こるんじゃないかなという程度。オリヴェイラ1年目で鹿島が優勝するなんて思った人は殆どいなかっただろうけど優勝しちゃいましたからね。もともと普通にやりさえすれば優勝する戦力はあるだけに、監督が代わればガラッと変わりそう。ACLが無いのもプラス要素。
G大阪は今年も積極補強。戦力的にはやっぱりナンバー1かなという気はします。しかしあれだけ派手に補強しておきながら加地の控えを獲らないってのはイマイチ理解できない。何か理由があるのかしら。
鹿島は毎年の事ながら出入りの少ないオフ。中後の穴は大して問題無いと思う。しかし戦力的な上積みはそれほど無いので、ACLとの掛け持ちはやっぱり負担になりそう。注目の大迫は10試合くらい出場できれば上出来かなと。
清水は中盤から前はリーグ屈指の陣容だと思う。でもDFの層の薄さが気がかり。センターバックは1枚獲っておいた方が良かった気がする。若い選手が多いので波に乗れれば面白そうですが、去年と同じ展開になるような予感もひしひしと。だが一番の不安要素はパルさん。
川崎は関塚さんの復帰が微妙。もう一段ステップアップしないとタイトルは取れないと思うんですが、そこで関塚回帰ってのは正解なのかどうか。まあ谷口を上手く使いこなせるのは関塚さんだけなのかもしれない。
横浜Mは中盤から後ろは超豪華。計算できるストライカーさえ獲っていれば優勝争いできるはずなんですが、レンタルバックのハーフナーとルーキーの渡辺に期待し過ぎるのも酷かと。逆に言えばこの辺がブレイクしたらもっと上に来そうですね。あとコーキチはワケ分からな過ぎて面白いのでもっと色々しゃべって欲しい。
大分は主力の流出も無く、補強も最低限。去年ほどの旋風は起こさないと思いますが、安定した成績は残しそう。長期離脱の深谷の穴は藤田と坪内でおそらく問題なし。前の方では今年はやってくれるはずの家長とユース出身2年目の清武に期待。そして前俊に夢を託したいが今年も裏切られるんだろう…。
名古屋はレギュラークラスだけならかなり強いと思いますが、選手層が心許ない感じ。ACLもあるしシーズン通して戦うのは辛そう。巻とか津田あたりのブレイクに期待か。ダヴィはめんこい。それとマギヌンがいない時にどうするかは今年も課題。でもダヴィはめんこい。大事なことなので(ry
FC東京はそこはかとなく地雷臭を感じる。攻撃重視の戦術→守備に綻びが出てなかなか勝てない→そのうち点まで取れなくなるという定番の悪夢スパイラルにハマるとやばそう。逆に言えば、序盤戦を上手く乗り切れば昨年の名古屋以上の旋風もあり得る。かなりギャンブル性の高いチーム。
広島はもっとギャンブル性の高いチーム。J2降格の原因となった守備崩壊は昨年のJ2最少失点というデータを見る限り解消されたのか…というところですが、実際のところ攻め込まれること自体が少ないことと槙野の個人的成長でカバーしただけという感も。どちらもJ1で1シーズン通用するかどうかは未知数です。それでも何だかんだ中位には潜り込みそう。多分寿人が何とかする。
京都は地味にえげつない補強をしてるんですが、肝心のカトQさんの手腕が未だに良く分かりません。あの人は名将なの?迷将なの?まあどっちにしても多分ディエゴが何とかする。
柏は「上手くいっていた監督が代わると低迷」というお約束のパターンに嵌りそう。アルセウの怪我もかなり痛手だと思います。やはりアレックスを手放すべきではなかったのでは…。それでも多分フランサが何とかする。
神戸も同じジンクスに嵌りそうですね。しかもこちらはブラジル人監督なだけに余計に怖いです。レアンドロはともかく大久保の穴は容易に埋まらないと思うので結構厳しいんじゃないかと思います。
山形は圧倒的な降格候補のようですが、意外と残留するんじゃないかと思っています。結構面白い補強をしてますし、小林監督は曲者です。ブラジル人選手が期待通り働いてくれれば、2006年の甲府くらいにはやるんじゃないかと思います。
千葉はストライカーを補強すべきだったと思います。今年も攻撃面で苦労しそう。そろそろ巻がぶっ倒れるぞ。今年も心臓に悪い一年になりそうだ。
新潟は今年結構危ない気がするのですが、大島と三門の獲得は大きいと思います。この2人がフィットしてくれれば残留は何とかなるんじゃないかと思いますが、フィットしなかったら…ええと…。あとは鈴木順一ことブルーノ・カスタニェイラに密かに期待。その前に田中アトムたんか。
大宮は監督自身にそこはかとなく地雷臭がします。それ以上にレアンドロ様(神、いわゆるゴッド)の放出が失策かと。大宮の残留力の源は間違いなくレアンドロ様(神、いわゆるゴッド)。レアンドロ様(神、いわゆるゴッド)なら何とかしてくれたのに。
磐田は、正直に言ってあまりポジティブな要素が思い浮かばないです…。思い切って改革すべきだと思うんですが新監督はヤンツーさん。それでいいんでしょうか…。
開幕が待ちきれない。
俺今週死ぬわ。
成人式があるんだよ。もちろん今週中に。
俺さ、小学生の頃に好きだった子がいんの。中学卒業してから会ってない子。成人式って、その子と再会できる、たぶん最後の機会だから。今までぼんやりとしか見てこなかった周りや自分だけど。今回ばっかりは、ちゃんと見たいと思ってる。
その子がどうなってんのか。
まだ自分が、本当に、本当に、その子のことが好きなのか。
その二つを確認した後に、自分がどうなるのか。
この結果次第で、俺の人生変わると思うんだよ。
小学校の時に、その子に告白した。ふられた。でも諦められなかった。だってその子、めちゃくちゃかわいいんだぜ? 絶対ほかの男になんか取られたくなかった。
俺さ。
ちょうどその頃ってクラスの流行りで性知識がつき始めた時だったから(そういうの、あるだろ?)、「あの子のおっぱいが別の奴になんかくわえられたくない」「俺以外の人間とセックスするのなんか死んでも認めない」とか思ってた。当時の友達が「あいつ(俺の好きなその子)にすれ違う時おっぱい当たったww 『ぽよん』ってしたww すげぇwww」ボコった。
「好きな人が処女かどうか」ってのは、今は気にしてない。処女だから好きになったわけじゃないし、他の男とセックスした経験も、今のその人を構成する要素だと思うから。エロゲに置き換えてもいい。長門が谷口あたりに犯されたとしてさ、「汚れちゃったわたしなんて、イヤだよね……」とか言ったとする。
さて、男としてはどっちが上でしょう。PIAキャロの3でもそんな話があったよーな。あのマネージャーさんの口上叩き込みたい。「長門、汚いっておまえ、風呂入ってないの?」「じゃあいいじゃん。人間3ヶ月で新陳代謝的には全く別の人間になるらしいぞ」「だからおまえは汚くなんかない」自分で書いててキモいですね、わかります。閑話休題。
俺さ、その子のこと。
その子ん家ってパン屋なのな。で、売れ残ったパンとか、俺にだけ持ってきてくれたことがあったんだよ。しかも、俺ん家まで、親に車出してもらってまでだぜ? 大量のパンを目の前にしてポカンとしてる俺に、車を運転してきたその子の母親が、ニコニコして言うの。「増田君のこと、晩ご飯の時とか、うちでよく話すのよ」その横で好きな子、顔真っ赤にしてんの。 「増田君がパン好きだから持って行ってあげよう、って聞かなくて」うわぁ、みたいな。そん時の嬉しさまだ覚えてるわ。電話とかもその子の方から毎晩のようにしてきた。大体「明日の時間割わかんないんだけど」から始まる。「早く教えろクソ増田」とか言ってくるんだよ。修学旅行は一緒の班になろうって言ってきた。席替えはとなりに座りたがってくれた。いつも気が付けば一緒だった。横にはその子がいた。
だから、わけわかんなかった。意味がわからなかった。なんでダメだったのか。告白は成功すると思ってた。信じ切ってた。好きだよっていった。しばらくその子は黙ってた。たまらなくなって「イエスかノーで答えて」っていったら、小さかったけど、はっきりした声で、「ノー」って言ったのが耳に届いた。
なんで。
その子とは中学校も同じだったけど、話せなかった。たまに二言三言言葉を交わすことはあったけど。そういう時は普通に話せた。しょうもないこと話して笑うんだよ。でもそれが逆に辛いんだよ。めちゃめちゃ辛いんだよ。ハハハとか笑いながら(なんでこんなに普通に話してるんだろう)って思うと、中学生くらいのオトコノコには耐えられないものがあった。
俺さ、その子のこと、まだ。
高校に入った。オタだった。中学から萌芽はあったけど、高校は授業中にライトノベル読んでる感じ。一般人からはオタクと囁かれ、オタクからはあんなのヲタとは呼べないと蔑まれ、そういうもので、わたしはあった。
けどバレー部だった。「遊べる」感じの先輩同輩後輩もそろってたし、この頃気付いたけどそんなに容姿がひどくはなかったらしい。体育の授業中にタイイクカイケイなところが見えたりすると、アドレスを聞きにくる子、他の子に聞いてメールしてくる子、はっきり言って言い寄ってくる子もぽつりぽつりといた。遠征先でいきなり声かけられたこともあるし、遠恋してる部活の同輩、その遠恋相手が試合を友達とかと見に来ることがあって、試合終わった後にそういう友達からのアプローチ! なんだこの子……とってもかわいいお……三回あるモテ期ってヤツですね、わかります。
でも、結局、高校時代、ひとりも付き合うことはなかった。なんでかっていうと。
大学に来て、童貞ってことに突然焦ったこともあった。というかあれは性欲だな。オナ禁とかしてた時期だ。雄なヨクボーに突き動かされて、色んな女の子に近付いた。かわいい子、おっぱいの大きな子。簡単そうな子。
今も俺は大学にいる。自分でもわりかし本気で「あ、この子と付き合ったら楽しそう」「こんな子と一緒にいられたら幸せだろうな」って思える子が今二人いる。どっちもすごくいい子。天然ぽくておっとりした優しい子。聡明で明るくてハキハキしてるすごいかわいい子。攻略対象が二人。それなんてエロゲ。
でも、どっちにも、今いる場所から、踏み込めない。一歩も近付けない。なんでかっていうと。
俺さ、その子のこと、まだ、忘れられないんだよ。
その子のことが頭から離れない。前に進めないんだよ。
書いててわかってきた。今泣きながら書いてる。俺、あの子のこと振り切ろうとしてんのか。馬鹿じゃないの俺。生きたかったのに。奈緒子と加地の代わりに、火村と優子にもできなかったこと、その子と一緒に生きたかったのに。
きっと失望したいんだ。成人式で、その子のこと見て、いや、違うかも。できれば夜に二人で抜け出して8年ぐるぐる体の中で行き場を失ってたことを吐き出すために聞きたいのかもしれない。「なんであの時俺のことふったの」って。帰ってくる答えはくだらないかもしれない。でもそれで断ち切れる気もする。前に進めるかもしれない。
だけど、そう思いながらも、どこかでやっぱりその子と歩きたいとも思ってる。せっくすできたらいいな♪ とか思ってる。そのこでどうていそつぎょうしたいよとか思ってる。
どうなるかはわからない。まだわからない。少なくとも、今週中に、俺は一度死ぬ。陳腐な言い方だけど、確かに今までの俺は死ぬんだと思う。
「その子」にとらわれてた俺は死ぬ。その「俺」が俺のどのぐらいを占めてるのかはわからないけど。そもそもその子が成人式に来るのかさえわからない。でも会えなかったら諦められると思う。運命とか信じてやる。今だけはてめぇを信じてやる。あの子に会わせろ。一目見るだけでも諦めが付くかもしれない。
俺は前に進みたいんだよ。どんな形になったとしても。
2009/02/28 追記