はてなキーワード: 洋風とは
実際これらしいんよな。そして自然発生した「謎の間」って和室から洋室に改修した一般の家でも結構見かける。
自分父方の実家も母方も実家も、日本の伝統的な流れを汲む家屋から洋風の間取りに改修したのだけれど、そのままだと狭いので窓側の廊下を潰して部屋の一部、物置にしていた。
当時の日本人は「畳以外で寝れるか!」という思考だったので、畳はそのまま。
洋風の椅子が普及し始めていたけれど、畳に載せるとへこんで傷がつくので、重い家具は廊下の部分にしか置けない。
廊下だった空間は構造の関係上ドアにした方が安上がりなのでドアになる。部屋に入口と、他の部屋への入り口ができる謎扉ができる。
気持ち悪いので棚を置いて通れないようにする。
昔の廊下は遮熱性能がゴミでほぼ外なので、冬の間は襖を置く。結果的に夏もそのままになる。
高級と呼ばれる旅館は昔は個室では無く、一本の長い廊下に襖を置くだけの簡易宿泊所のような構造だった。
K子との出会い
私がK子と出会ったのは、まだ雪の残る3月上旬、札幌のすすきのでのことであった。
K子は、私がごくたまに寄るカフェ兼バーでウエイトレスをやっていた。
年は30歳、身長157cm。体型はややガッチリタイプに見え、いわゆる固太りに近かった。
顔はまぁまぁ整ってはいたが、頭部はアメフトのボールのように大きかった。
完璧なメイクを追求してるようで、白塗りの土台が厚く、丸い輪郭が、さらに強調されていた。
キッチリ描いた眉に、メリハリをつけたアイライン。目元周りには、そのひとのお化粧への設計意図が表れるものだがK子の場合それは、顔の大きさを、目を拡大させることでごまかそうとする意図だった。
それとK子のメークには、悪い意味でのバランス感覚という特徴も見られた。
あちらとこちらの均衡を保とうとして、薄くするのではなく、厚く盛る方にいってしまうのである。
さらにK子は勤務中はロングヘアーをタイトに縛ってるので、目元が上がって鋭角的になるのだが、これがふしだらで好色な印象を与えかねない外見になってしまうのだ。
それはせっかくのよい素材での料理を、調理でなくソースで惑わし、お門違いの高級感を添えたつもりの洋風メニューのようだった。
白人の風貌という、ないものねだりを追いかけた挙句、醜くなってしまったマイケルジャクソンのようであった。
K子は、そんな女だった。つまり、どこにでもいるひとだ。
K子はその日も普段どおり給仕をしていた。時刻は夜の9時。私のオーダーはグラスビールだった。
私のテーブルにもやってきた、そこで2人は始めて目を合わせた。
するとK子は私の顔を見るなりハッとした顔をして上背をやや引いた。私は「ああまたか」と思った。
なにが「またか」なのか。それはその時の私の顔が彼女にはイケメンに写った、ということの了解である。
断っておくがこれは自慢ではない。なぜなら、こうしたことは4年に一度、つまりオリンピック開催と同じ頻度でしか、私に訪れないからだ。「またか」と感じるのは、4年がさほど長くも感じられない私なりの時性であって、傲慢の致すところではない。
毎日のようにこういうことが起きる人を、真のイケメンというのだが、この程度のいわば「プチ・イケメン」なら今のご時世、結構いそうである。
私の顔は、それどころかまぁどちらかといえばブサメンである。口が飛び出た造作が特徴で、唇も厚い。佐藤浩市の2倍は厚い。
このせいで、顔の下部にボリュームが出てしまい、シャープには見えないモヤッとした風貌になっている。
たとえるなら、ガリガリ君のような輪郭であるし、佐藤浩市の親父の三國連太郎みたいでもある。
芋というか、類人猿、合わせればゴリライモ。私はそんな顔なのである。そしてもちろん、あなたに「そんなことないよ」といってほしい、そんなケチな性分も持ち合わせているのだ。そこがまた醜い。
ここ20年ほどで男もするようになった「化粧」とは、もともと目立たないもの(一重まぶたなど)を、まやかしの力で輝かせる補正技術だと思うが、私の口元のように、はじめから飛び出ているものを、平たく目立たせずに抑制する用法には、それはまったくといっていいほど役立たない。
しかし男の場合、三國連太郎がそうであったように、また、佐藤浩市がそうであるように、絶対的なブ男というものはいない。バナナマンの日村も最初見たときはびっくりしたが、慣れれば愛嬌がある顔である。
男は、風貌をある水準(清潔感と常識のあるファッションセンス、そして似合う髪型、できれば細身)まで満たせば、異性にアピールできてしまうのである。ここらへんが女子と違う。無愛想でもある程度はイケてしまうということだ。かくして私のような者でも、こうしたラッキータイミングが巡ってくるときがあるのである。
さて私にハッとして頂いた女子に対しては、私はだいたい挨拶をするようにしている。
ここでいう挨拶とは、店や本人の迷惑にならぬよう気を遣いながら、名刺を手渡すことだ。
できれば一言添える「もし、よろしければ、お近づきになれれば…」みたいなことだ。
ハッとする、させるというのは直感の神秘である。人間のあまたある能力のうちでも一二を争うような、めちゃめちゃものスゴい、宇宙の誕生レベルの認識だ。
人間(じんかん)にヴァイヴレーションが伝播する。あるひとがある人の存在にピン!とくれば、その相手にも同じピン!が、誤解も曲解もなく瞬時に伝わる。だれも解明できない感覚。こうした体感に対しては対象化なぞハナから諦め、人として素直にしたがい、謝辞を述べるのがスジというものであろう。
とりあえず自分を規定する第一歩として世の中には名前というものがある以上、名乗る。
「4年に一度」がいつなんどき訪れるやもしれない。そんなときのために財布に名刺を2~3枚入れておく。
こうしたなんでもない普段の心がけが、出会いを引き寄せる具体的な手段なのだ。
こうした縁で、私はK子と付き合った。世間には「よくまぁこんなサエないのと一緒になったなぁ」というのが男女問わずいるが、なんのことはない自分もその仲間入りであり、K子の方でもそう思うときがあったかもしれない。つまり、サエないのはお互い様だったのである。最初のうちは。
だがしばらくすると私にはK子の大きい顔と太い骨格が、次第にいとおしく写ってきた。
そして次に、それがかけがえのない尊さに思えてきた。
というのも付き合い始めてすぐに気づいたことだが、K子は私と最初に目が合ったホンの0.1秒の閃き、焦点で、自分の開削に成功した、まったく優れた女だったのだ。
私との邂逅によってポン!と新規開設された自我内の回路に、まったく純粋に従った。
世俗的な疑いとは、私と付き合うことのメリットデメリットやコスパを考えることや、趣味や好みが合う合わないというような話などである。
K子はそれらを考えもしなかった。だから、デートで会ってもあまり話さず、肩を寄せ合い、手を握り腕をさすり、見つめあったりするだけだった。それでどちらも了解した。ドンと存在が大きいのである。100%ピュアな肯定性の塊。
そしてそうしたK子の態度は、私の細胞のすみずみにあまねく影響を与えた。小さな自分に固執していた私を、彼女は開放してくれた。
こういう女に慣れると、小顔ブームとか、華奢な女子やスタイルに固執するのは、矮小なことと知れる。しつこいようだが慣れればあの日村ですら、ファニーフェイスである。
K子はやがてメークが薄くなっていった。コスメへの依存を減らしていった。
単なる身だしなみ以上のそれは、まやかしだと気づいたのだ。
食事や運動に、それまで以上に気を遣い、毎日しっかり生活を積み上げていくよう、意識的に自分を導いていった。
現代人はただ毎日暮らしてゆくだけで、目に見えない「不純物」が、アカのようにたまってゆく。
人はいつも意識的に「みそぎ」をしなければならない。するとみそぎなんてしなくていいんだ、そのままのあなたでいいんだと社会その他は全力で否定する。だがそれは違う。甘言に引きづられてはいけない。やつらはあなたから銭を引き出したいだけだ。
メイクはそうした「不純物」の象徴であった。それがズバッと削ぎおとされた。
人の本来的な美しさや輝き、魅力は、外から取ってきて付け足すものでない。自分の内面から湧き出させるものだ。
こんなことは実に当たり前のことだが、不純物の洪水の中にいると気づかない。
自分から「湧き出させること」が自然に出来る人は、この世にいながら永遠を手にしたも同然なのである。
理想のカップル、なるものは知らない。知らないがそれは「人それぞれ」ではない。
以上この文は、まだ見ぬあなたと、まだ顕在化してない私を想って書いた。
<了>
K子との出会い
私がK子と出会ったのは、まだ雪の残る3月上旬、札幌のすすきのでのことであった。
K子は、私がごくたまに寄るカフェ兼バーでウエイトレスをやっていた。
年は30歳、身長157cm。体型はややガッチリタイプに見え、いわゆる固太りに近かった。
顔はまぁまぁ整ってはいたが、頭部はアメフトのボールのように大きかった。
完璧なメイクを追求してるようで、白塗りの土台が厚く、丸い輪郭が、さらに強調されていた。
キッチリ描いた眉に、メリハリをつけたアイライン。目元周りには、そのひとのお化粧への設計意図が表れるものだがK子の場合それは、顔の大きさを、目を拡大させることでごまかそうとする意図だった。
それとK子のメークには、悪い意味でのバランス感覚という特徴も見られた。
あちらとこちらの均衡を保とうとして、薄くするのではなく、厚く盛る方にいってしまうのである。
さらにK子は勤務中はロングヘアーをタイトに縛ってるので、目元が上がって鋭角的になるのだが、これがふしだらで好色な印象を与えかねない外見になってしまうのだ。
それはせっかくのよい素材での料理を、調理でなくソースで惑わし、お門違いの高級感を添えたつもりの洋風メニューのようだった。
白人の風貌という、ないものねだりを追いかけた挙句、醜くなってしまったマイケルジャクソンのようであった。
K子は、そんな女だった。つまり、どこにでもいるひとだ。
K子はその日も普段どおり給仕をしていた。時刻は夜の9時。私のオーダーはグラスビールだった。
私のテーブルにもやってきた、そこで2人は始めて目を合わせた。
するとK子は私の顔を見るなりハッとした顔をして上背をやや引いた。私は「ああまたか」と思った。
なにが「またか」なのか。それはその時の私の顔が彼女にはイケメンに写った、ということの了解である。
断っておくがこれは自慢ではない。なぜなら、こうしたことは4年に一度、つまりオリンピック開催と同じ頻度でしか、私に訪れないからだ。「またか」と感じるのは、4年がさほど長くも感じられない私なりの時性であって、傲慢の致すところではない。
毎日のようにこういうことが起きる人を、真のイケメンというのだが、この程度のいわば「プチ・イケメン」なら今のご時世、結構いそうである。
私の顔は、それどころかまぁどちらかといえばブサメンである。口が飛び出た造作が特徴で、唇も厚い。佐藤浩市の2倍は厚い。
このせいで、顔の下部にボリュームが出てしまい、シャープには見えないモヤッとした風貌になっている。
たとえるなら、ガリガリ君のような輪郭であるし、佐藤浩市の親父の三國連太郎みたいでもある。
芋というか、類人猿、合わせればゴリライモ。私はそんな顔なのである。そしてもちろん、あなたに「そんなことないよ」といってほしい、そんなケチな性分も持ち合わせているのだ。そこがまた醜い。
ここ20年ほどで男もするようになった「化粧」とは、もともと目立たないもの(一重まぶたなど)を、まやかしの力で輝かせる補正技術だと思うが、私の口元のように、はじめから飛び出ているものを、平たく目立たせずに抑制する用法には、それはまったくといっていいほど役立たない。
しかし男の場合、三國連太郎がそうであったように、また、佐藤浩市がそうであるように、絶対的なブ男というものはいない。バナナマンの日村も最初見たときはびっくりしたが、慣れれば愛嬌がある顔である。
男は、風貌をある水準(清潔感と常識のあるファッションセンス、そして似合う髪型、できれば細身)まで満たせば、異性にアピールできてしまうのである。ここらへんが女子と違う。無愛想でもある程度はイケてしまうということだ。かくして私のような者でも、こうしたラッキータイミングが巡ってくるときがあるのである。
さて私にハッとして頂いた女子に対しては、私はだいたい挨拶をするようにしている。
ここでいう挨拶とは、店や本人の迷惑にならぬよう気を遣いながら、名刺を手渡すことだ。
できれば一言添える「もし、よろしければ、お近づきになれれば…」みたいなことだ。
ハッとする、させるというのは直感の神秘である。人間のあまたある能力のうちでも一二を争うような、めちゃめちゃものスゴい、宇宙の誕生レベルの認識だ。
人間(じんかん)にヴァイヴレーションが伝播する。あるひとがある人の存在にピン!とくれば、その相手にも同じピン!が、誤解も曲解もなく瞬時に伝わる。だれも解明できない感覚。こうした体感に対しては対象化なぞハナから諦め、人として素直にしたがい、謝辞を述べるのがスジというものであろう。
とりあえず自分を規定する第一歩として世の中には名前というものがある以上、名乗る。
「4年に一度」がいつなんどき訪れるやもしれない。そんなときのために財布に名刺を2~3枚入れておく。
こうしたなんでもない普段の心がけが、出会いを引き寄せる具体的な手段なのだ。
こうした縁で、私はK子と付き合った。世間には「よくまぁこんなサエないのと一緒になったなぁ」というのが男女問わずいるが、なんのことはない自分もその仲間入りであり、K子の方でもそう思うときがあったかもしれない。つまり、サエないのはお互い様だったのである。最初のうちは。
だがしばらくすると私にはK子の大きい顔と太い骨格が、次第にいとおしく写ってきた。
そして次に、それがかけがえのない尊さに思えてきた。
というのも付き合い始めてすぐに気づいたことだが、K子は私と最初に目が合ったホンの0.1秒の閃き、焦点で、自分の開削に成功した、まったく優れた女だったのだ。
私との邂逅によってポン!と新規開設された自我内の回路に、まったく純粋に従った。
世俗的な疑いとは、私と付き合うことのメリットデメリットやコスパを考えることや、趣味や好みが合う合わないというような話などである。
K子はそれらを考えもしなかった。だから、デートで会ってもあまり話さず、肩を寄せ合い、手を握り腕をさすり、見つめあったりするだけだった。それでどちらも了解した。ドンと存在が大きいのである。100%ピュアな肯定性の塊。
そしてそうしたK子の態度は、私の細胞のすみずみにあまねく影響を与えた。小さな自分に固執していた私を、彼女は開放してくれた。
こういう女に慣れると、小顔ブームとか、華奢な女子やスタイルに固執するのは、矮小なことと知れる。しつこいようだが慣れればあの日村ですら、ファニーフェイスである。
K子はやがてメークが薄くなっていった。コスメへの依存を減らしていった。
単なる身だしなみ以上のそれは、まやかしだと気づいたのだ。
食事や運動に、それまで以上に気を遣い、毎日しっかり生活を積み上げていくよう、意識的に自分を導いていった。
現代人はただ毎日暮らしてゆくだけで、目に見えない「不純物」が、アカのようにたまってゆく。
人はいつも意識的に「みそぎ」をしなければならない。するとみそぎなんてしなくていいんだ、そのままのあなたでいいんだと社会その他は全力で否定する。だがそれは違う。甘言に引きづられてはいけない。やつらはあなたから銭を引き出したいだけだ。
メイクはそうした「不純物」の象徴であった。それがズバッと削ぎおとされた。
人の本来的な美しさや輝き、魅力は、外から取ってきて付け足すものでない。自分の内面から湧き出させるものだ。
こんなことは実に当たり前のことだが、不純物の洪水の中にいると気づかない。
自分から「湧き出させること」が自然に出来る人は、この世にいながら永遠を手にしたも同然なのである。
理想のカップル、なるものは知らない。知らないがそれは「人それぞれ」ではない。
以上この文は、まだ見ぬあなたと、まだ顕在化してない私を想って書いた。
<了>
2.みじん切りにした玉ねぎも適量投入
3.いい感じの色になってきたら焼き肉のたれ投入
5.ごはん200g程度を投入
食べるラー油のおかげでニンニクのパンチとピリ辛風味で味が盛り上がる。
米、ひき肉、玉ねぎの粒が大体揃ってるのでスプーンで食いやすい。
肉に合わせて炒めれば大体いい感じの味になる。
焼き肉のたれの代わりにカレー粉入れたらキーマカレー風になる。
焼き肉のたれの代わりに中華スープの素入れたら中華風になるし。
コンソメ入れても洋風にはならん。食べるラー油が邪魔するからな。
カロリー750kcal
正直、脂質の多さには目を瞑れない。
俺の普段の食事は1日の摂取カロリーを2500で体重は微増って感じなんで
別に3食これでもカロリー上は何の問題もないのだが、タンパク質をもうちょっと増やしたいよな。
なので脂質を比較的とってもよいとされている朝食にこれ食って、
昼夜はご飯の上にサラダと低温調理したササミをのっけて醤油とマヨネーズかけたササミサラダ丼を食う。
ちなみにササミは100g55円だ。業務スーパーってすごいよな。
マヨネーズって脂質多いんじゃないの~?って言うやついるけど、バカみたいにかけなきゃいいだけの話。
理性を持て。
前作では現実とは異なる層の次元を描写する際、トーマス・マンが意識されていたが、今作はヘルダーリン(の「塔」)が大きな役割を果たしていた。
ヘルダーリンの詩には、20世紀のドイツの状況を予感させるようなイメージも散りばめられているが、この時空を超えるような塔の仕掛けに宮崎駿も惹かれたのではないだろうか(おそらく洋風趣味の大叔父が、かつて輸入したインコが、あの塔のなかで万物の知識と、妄想と、南国への郷愁と、20世紀の戦火と混じり合って、あの大行進のイメージに膨れあがっていったような気がする)。
イメージの氾濫に淫するような、今作の中盤以降の展開には、老人の虚妄の垂れ流しとして呆れる人も多いかもしれない。冒頭20分の、緊張感のみなぎる映像があまりに素晴らしいから、中弛みの印象もあるだろう。でも、あの「ヘルダーリンの塔」に、火とともに亡くなり、火とともに再生する母のエネルギッシュなイメージを重ねるところに、わたし自身は感服もした。
ちなみに、ヘルダーリンと近い世代のドイツ人に、ペスタロッチがいる。かれの考案した「恩物」は、もしかすると、あの「積み木」の発想の源かもしれない。
最近、観光地に行くと牛乳アレルギーの人でも食べられるようなメニューが増えてきている。実際には牛乳アレルギーの人のためではなく、ヴィーガン用のメニューなのだ。
何が言いたいかというと、ヴィーガン用のメニューではなく牛乳アレルギーの人用メニューがほしいのだ。
ヴィーガンの志向を否定するわけではなく、単純に牛乳とバターをふんだんに使っていないメニューであれば、それを食べたいのだ。
牛乳やバターを使わない店に行けばいい、あるいはそうではないメニューを選べばいい、という話はそうなのだが
例えば観光地や観光スポットの性質として美術館とか洋風の館などはどうしても、そういう食べ物ばかりになるのだ。
で、そういうところが用意しているのはヴィーガン用のメニューなのだ。ヴィーガン用のメニューはどんな感じかというと、これまでさんざん議論されてきたので省略するが、
ヴィーガンの志向を否定するわけではなく、牛乳アレルギーの人が入っても楽しめるメニューがあると嬉しいのだ。
ただ、ここまで書いて気になるのは自分が果たして牛乳アレルギーなのか、乳糖不耐症なのか分からないのだ
血液検査で牛乳アレルギーだ診断されているのだが、バターをふんだんに使ったと思われるクッキーを数個食べただけでお腹を壊すのは
博物館は分かるんだよな。
材質や質感について実物に触れて学べる所もあるし。
動物園は言わずもがなで匂いとかの情報を遠くに飛ばしたり正確に再現するのがまだまだ人類には出来てない。
フィギアもぐるぐる回してパンツを自分の意志で覗きに行くところまで含めての体験が必要だし。
まあどれも本で読んだほうが詳しい解説を見やすいし見比べるのが楽なのはある。
でも絵画は本で見れば良いと思うんだよね。
絵なら本にそのまま載せられるもの。
絵という表現の本質が写真で失われたり、大きさが縮められたことで大きな変化が起きるとは思わんのよね。
油絵の重ね方や画材の質感についても、詳しい本なら解説付きのアップで見せてくれたりするからなあ。
というか美術館行っても額縁に嵌め込まれたガラスのせいでビミョーにのっぺりした見え方なんよねえ。
当時飾られる予定だった空間が再現がされてたりするならまだいいんだけど、洋風の部屋に掛け軸が並んでたりするとこういう所で見てもなあとなるわけよ。
家を建てる事になり、俺は全室和室を前提に進めていた。
その方向性で予算も組んで設計士と話して~と言う段になって、いきなり嫁がキレだした。
「ベッドが置けなくなる、床に寝るのはキツい!」「オシャレじゃないい!!」
といった感じで怒り始めた。
トイレがタイルの和式・洋式併設なのも気に食わなかったらしい。(会社とか駅のトイレで併設されてるのをイメージしてくれればok)
とにかく不潔感も強いと。和式で畳敷きだと置く家具も限定されるしあり得ない、あり得ないありえな~い~~~~!!!!
別に金は俺が出すからこのまま進めても良いんだけど、いざ建てて後から愚痴愚痴嫁に言われるのもストレス。
やっと一国一城の主になれるかも、って時にもこんなトラブルが待っているんだな。
嫁選びを間違ったかもしれない……
ここからのレシピは2つの容器で1人分x2を調理していると思って読んでね。
ニンジンは火が通りやすいよう千切りにし、塩を入れた水で沸騰するまでレンチン。
小松菜はざく切りにして茎と葉を分けておく。
ニンジンの茹で汁にタマネギとカルパス、気持ち多めのコショウを入れて1分レンチン。
塩で味を整えて完成。
備考
今の時期は菜の花で作ると季節を感じられて幸せ。花穂は食感を残すために最後に加熱すると良い。
カルパスはカッスカスの出がらしになる。こればっかりはしょうがない。
ニンジンを縦に2つわりして、水で濡らしたラップにくるんで3~4分レンチン(焦げ注意)
ニンジンに火が通って柔らかくなったら叩いたり潰したりして適当に細かくする
一度取り出してスープの量になるまでお湯で割る。
酸味が好みの強さになるまで重曹を追加。入れ過ぎると変な味になるので注意。
仕上げにスパイスをかけて完成。
備考
甘みが少なくてもイケる人ならニンジンタマネギも省略OK。ぶっちゃけよく省略する。
長ネギは刻む or 輪切り
えのきは長めにカット シャキッとしたネギを食べたい人は一部取り分けておく
器にネギ・えのき・塩ひとつまみの順に入れて、完成量の水を入れて沸騰するまでレンチン
ごま油をかけて30秒レンチン。味をなじませて香りを立たせたら完成。
備考
塩を躊躇するとラーメンっぽくなくなるけれど、別にそうなっても不味いわけではない。
えのきを麺と言い張るのは無理があったけれど、別に麺じゃなくとも不味いわけでは無い
レンズ豆に3倍量の水を入れて10分レンチン。そのまま休ませておく。
葉物野菜は茎と葉を分けて一口大にカット。葉だけ塩を振ってラップして30秒レンチンしておく。
レンズ豆の余分な茹で汁を捨てて、調味料とカブ・きのこ・葉物野菜の茎を入れて5-7分レンチン。
カブに箸が通る程度まで火が通ったら、軽く絞った葉物野菜の葉とコショウ混ぜて30秒レンチン。
かき混ぜて塩で味を整えたら完成。
備考
増田は具材を見直した方がいいと思う。ここまで肉拒否する理由をしっかり明記してほしい(ヴィーガンや家族に肉のアレルギーがあるとか)
厚揚げやがんものような出汁を染み込ませて美味しく食べる物を入れるのに薄味な所とコンソメと味噌を掛け合わすでメシマズ確定
そもそも味噌汁とかおでんじゃないと普通厚揚げやがんもどきをスープに積極的に入れないと思うな。稀に入れる事はあってもレギュラーは珍しい
玉ねぎにんじん大根しめじが固定と書いてあるけど、だったら玉ねぎは抜いて白菜でいいと思う
洋風なら玉ねぎ、コーン、ニンジン、ベーコンorウィンナー、キャベツを小さく切ってコンソメとバター、塩コショウ+水orトマト缶or牛乳で味付けを整えたらおいしい基本の洋風スープができるよ
「塩コショウは子供が苦手で~」といって1個もいれないから味が整わず味がぼやっとするんだろ。子供の舌舐めるな。塩は少なめ、コショウは大人分いれろ
自我流でやろうとしないで、オレンジページやNHKの今日の料理とか料理の公式サイトでもスープレシピはたくさんあるんだからそれをその通り作るべき。決してアレンジをするな(クックパッドは味が想像できないとかいう人はやめておけ)
・旨味
・塩味
・香り
の3つだわな。
そして味に深みを出して旨味と塩味のつなぎを作るのが
・甘味
・油
・酸味
だと思ってる。
そして最後に全体をまとめるのが
基本的に旨味は2種類以上(3種類以上で旨い)を混ぜると味に広がりを感じる。鶏ガラやウィンナー、ベーコンでもだしは出るけどそれが使えないなら
シイタケとかしめじを乾燥させたやつを戻せば出汁がでる。あとは昆布出汁で昆布を沸騰させるまで煮だしたやつ。
塩は岩塩とかの方が旨味が出るな。
香りは洋風ならセロリを少量、和風なら三つ葉をとりあえず入れれば香り良くなる。その点味噌は香りも塩味もあるから万能調味料よな。
香りは逆に2種類以上を入れるとどんどん不味くなる気がする。レンコンやピーマンはえぐみと香りが好みわかれるからあんま入れない方がええやろ。
甘味は黒砂糖とかはちみつでもいいけど、玉ねぎやニンジン、セロリを炒めたやつ入れると自然な甘さになる。
油は油揚げ?だけど、ちゃんと湯がかないと油臭くなるし上級だよな。オリーブオイルたらしたりごま油、サラダ油でもいい。ヒマワリ油の方がビタミンとれる。
栄養面で言えば大豆とか入れてタンパク質補給しないと、油揚げだけだと身長とか体伸びない。
情報は一番大事じゃないかなー。子供は本能的に肉を欲するからヴィーガン食はつらいよね。
洋食と和食、統一感ないと食べなれない味に感じる。見た目も重要だけど、野菜煮込み味噌投入だと見た目あれになりそう。
ネギ散らしたらマシになるかも。
厚揚げがんも油揚げを良く入れるなら、おでんで良いのでは?という気もしてきた
なんでかというところを紐解くと、野菜スープを増田の子供が嫌う理由と通じることもあるかもしれない
・味が薄い(出汁はあっても塩が薄いという、まさに増田の野菜スープと同じ理由だと思う)
・全部同じ味(そりゃ、全部いっしょくたで煮込むからね)
結論:子供に一つの味のスープをたくさん飲ませてご飯を完結させるのは難しい
ポテサラとか、フライドポテトとか、グラタンとか、そういうクリーミーなの副菜に出してあげたら喜ぶのでは?
デンプン多めの野菜:芋・コーン・カボチャなどをミキサーで擦って、温めて、コンソメを適宜入れて、具材の野菜も柔らかくなるように入れたら好きかもね
肉NGならばドーピングとして、洋風スープなら野菜をバターで炒めるとか、中華風ならごま油で炒める、和風スープならばゴマ(ごま油ではなく)をよそう前に足すとか、ひと工夫はできる気がする
トマト缶(ダイスでもペーストでもホールでも)が手っ取り早いよ
https://www.naro.go.jp/project/results/laboratory/vegetea/2015/vegetea15_s24.html
あと、洋風和風は統一したほうがいい。味の方向性を定めやすいから。調整が楽になる!もちろんミックスしても美味しいことは美味しいけど、それは上級者向け。
肉食えない人っぽい?
これは洋風のスープとして出してるんだよね?味噌より醤油の方がまだまとまりそう。
野菜だし、上級者向けって聞くよ。出汁をコンソメに変えるとよし。和風スープ(というか味噌汁)ならだしは野菜だしじゃない、昆布だしとかほんだしの方が無難。
がつんとさせたい洋風スープなら、バターをにんにくで炒めて香り付けしてから、やさいをいためて、煮て最後の香り付けにオリーブオイルと塩、粗挽きこしょうで味整えて。
具が難易度高いのが多いな〜。
ピーマン、子供はたいてい苦手だよね…増田の子供さんはどうかわからないけど。
嫌いじゃなくてもピーマンは取り合わせが難しい。ピーマン入れるなら玉ねぎも入れてケチャップ風味にするか、もやしと生姜千切りとごま油も入れて中華風味にする。
・きのこ……舞茸は個性が強くて、洋風に使うのは上級者向けの気がする。ゴボウとはよく合うので、醤油味強めのお吸い物にするといいかも。しめじ・えのきは和洋中何でも合う。
・根菜……人参がないのはなんで?書き漏らしただけだろうか。人参、大根はわりとニュートラルな味なので、銀杏切りとか短冊にして1人あたり50〜70g入れるとまとまる。ポトフ風なら乱切りでもいいけど、少し煮込み時間がかかるよね。筍もいいダシが出るけどちょっと高い。蓮根は好き嫌いがありそう。ゴボウは舞茸とは合うけど強い味で、コショウとか辛子とか山椒と合う。イモ類は、煮崩れが好きと嫌いは別れるから、子供さんの好みに合わせて。
・葉野菜……緑が濃いのは基本的には煮過ぎちゃだめ。味のないデロデロになる。ラスト2分沸騰させて投入しよう。ほうれん草のシュウ酸エグみは少量なら気にしない。大量なら別茹であと載せで。キャベツは緑薄いけど、煮過ぎると硫黄臭がすることがある(更に煮ると消えるけど)から、10分くらいを目途に。その点白菜は優秀で、最初から入れてもOK。
・葱類……はじめから煮れば甘味に、短時間加熱なら薬味として爽快感付与。
・タンパク質……肉を入れる気ないなら大豆製品はどう?厚揚げ油揚げは和、豆腐は和中、豆乳は洋風に。
増田はあまり料理しない人だろうか?なんとなく自己流感がにじみ出てる気がする。具のチョイスとか、長く煮込めばいいのかって発想とか。野菜スープのレシピ本を買ってレシピ通りつくってみるのがいいんじゃないかなあ。食材単品で美味しい食べ方を知っておくと、スープに使う時も美味しくなる使い方のイメージができるかも。
これ、たぶん初歩の初歩というか、灯台もと暗しな要素すぎて、元増田にもレスつけてる増田達にも見落とされてるような気がするんですが、まず塩分の調整しましょう!
元増田が本当にここに書いてるレシピ通りに作っているのであれば、スープに塩分を加えていませんよね。これだとスープに含まれる塩分は、もともとの野菜と野菜系ブイヨンに入っている塩気だけです。これだと絶対に塩気が足りなくて間延びした味になります。3.5カップの水と、たとえば同重量の野菜であれば、スープの総重量は1400g。これを一般的な洋風スープの塩分濃度 0.8% に調整するには全体で 10g 以上の塩分が必要ですが、普通の野菜系ブイヨンには1包5gに1〜2gしか入ってないと思います。オーサワの中華だしの場合はやや多めで2.1gですが、2包だと4.2gでやはり足りないですね。というわけで、適正濃度に近づけるために、塩を小さじ1杯弱ぐらい加えてみてはどうでしょう。それで塩っぱすぎるようなら今度は旨味や油脂の増強が必要になる、と考えればよいと思います。たとえばトマト(グルタミン酸)を増やし、ゴマ油でコクを補う、とか。
自分は料理の骨格は塩分・油脂分・旨味成分の三角形の形のバランスにあると思っていて、その三角形の大きさは塩分濃度を軸に決めます。塩分が少なければ油脂も旨味も少なくていいですが、塩分が多いなら油脂も旨味も増強してやらないとバランスが取れません。そして塩分が0に近い状態は、他のどんな要素をいじっても単体で味わえる料理として成立しないことが多いのです。とにかく塩分は重要です。グルタミン酸とイノシン酸の相乗効果とか、油分とかは、その後です。
追記:野菜縛りのスープにイノシン酸を加えるのはなかなか難しいのですが、黒っぽく濁る見た目が嫌でなければ、焼き海苔をスープに加える、あるいは揉み海苔を散らす、というのは結構アリです。海苔は極めて貴重な植物性イノシン酸源です。うまく活用してください。