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はてなキーワード: 公衆電話とは

2019-02-17

明日使えるトリビアを教えておくれ。

みたいなもので。ガセビアはいらない。

2019-02-11

anond:20190211094013

旦那さんが出先から「これから帰るよ」のカエルコールか、

最寄駅に着いてから

「今着いたよ!お迎えお願い!」って公衆電話からかけてたな

2019-01-28

勉強したい。ご飯食べたい。 歯医者にいきたい。生きたい。死にたい

子供の頃、あたしは虐待をうけてた。

毎日ボコボコに殴られて

大人に助けを求めても誰も手を差し伸べてくれなかった。

怖くて痛くて死にたかった。

近所の親戚のおじさんの財布からお金を盗んで

船のチケットを買って

スーパーが一軒しかない小さなさな離島から逃げた。

本土についた私は港の公衆電話からテレクラ電話をかけた

体操服姿とスリッパを履いた当時中学1年生の私に65歳のお爺ちゃんが服と靴を買ってくれた。

そのお爺さんが初めての相手だった。

5時間も犯された後、もう一度電話をかけた

25歳の若い男だった。

小遣いを渡すと嘘をつかれてやり逃げされ財布も盗まれた。500円しかはいってなかったけど。

お腹が空きすぎてたかスーパー食パン万引きをした。

ごめんなさいごめんなさいと言いながら食べた。

それからの私は1ヶ月2,3回ぐらいテレクラ売春をした。

1回2万円を貰って、お風呂に入らせてもらって、セックスする。

普段は移動を繰り返しながら公園野宿した。

売春で得たお金は着替えの服や下着をかったり、食事電車賃に使った。

そうして3年間すごし、たどり着いた明石という街でひとりの男性出会った。

彼は私が家出をしている事を知って家にとめてくれた

家出をしてはじめて屋根のある場所であったかい布団をかぶってゆっくり眠れた。

彼はずっとここにいてもいいよといってくれた

だけど

一週間後、大家さんが家賃を滞納しているから払ってくれといってきた

25万円だった

家を追い出される

やっと見つけた居場所を追い出される

私はまた売春をした

1日に6人。5日間。

何人かやり逃げもされたし、お金を盗む人もいた。

やっと作った家賃を支払ったあとは

電気もガスもとめられて、また支払いに追われた

電気とガスの支払いをしたら、また次の月の家賃

あたしは売春するしかなかった

家出をしている未成年

どこもバイトで雇ってくれない

毎日毎日毎日売春をした

そんな日々が8年間続いた。

あたしは20歳になった。

やっと大人になれた。

初めて自分名義で家を借りれた

やっと一人で生活ができる

しかった。

普通バイト、できるようになった。

私ね、中学もまともにいってないか

最低賃金しか働けない

どんなに頑張っても手取り12

お酒タバコもやらないし服もかわな

お金がないから遊びにもいけないし友達は一人もいない

貯金も全くない

それなのに子宮頸がんになって入院した

癌で子宮を摘出した

体調が悪くて動けないことが何度かあって

休みがちになって収入ほとんどなくなった

また風俗バイトいかなきゃなの?

ももう39歳。売れないよね。

死にたい

風俗は本当にいやだ。

死にたい

勉強がしたいな。

高校卒業したいし大学もいきたかった

でも今一番したいのは英語勉強かな

英語勉強ってどうやってしたらいいの?

話せるようになりたい

海外旅行もいってみたかった

どうしたらいいんだろう

毎日毎日生活費のために働いて、バイト掛け持ちしてるのに、本を買うお金もなくて勉強する時間も作れない

体が疲れてるのに睡眠時間4時間とるのが精一杯

そうしないと頭痛が酷くて働けない日の穴埋めができないか

はあ

お母さん。助けてほしい。

不思議だね。

あんなに怖くてひどい母親でも

こういう時は助けを求めるんだね

絶対に助けてくれないどころか

連絡したらお金をせびられるって想像できるのに

お母さん助けてって泣いてしま

2019-01-13

携帯電話歴史

年代別に普及の度合いを数値化して

グラフ化すると重宝する人はいるだろうから誰かやってください

なにげにiPhoneになってから10年というのは長いよね

でもiPhone3Gのころはまだガラケー隆盛だったか

ケータイが普及したのが2000年代から10年なくてスマホがそろそろ10年といった感覚

それ以前はさっぱり

ポケベル公衆電話PHSの感じはさっぱり

(ものごころついてない)

こういうの図解で説明してもらえるとまとめスレの「便利図解」には取り上げられるような気は

あー、こち亀モバイル親子の遍歴とかあったよね

デスクトップモニタバッテリーを組んでランドセルみたいに背負っていくのからノートになっていまやスマホ1台だろうし

2019-01-10

真面目に通学し始めるまでの話

うっかり進学校的なアレに入学してしまったのがすべての間違いだった。弟が壊滅的に勉強が苦手なのでまだマシと思えていたのもある。

高1の1学期末、数学試験で3点を取った。勉強へのやる気が消えた。

それからというもの全く勉強せず、高校2年に上がってから半年ほどは、オトナに話すとそれはまあ叱られそうな生活を送ってきた。




1学期は、これでもかと言うほど学校をサボった。3日行って1日サボる。そんな生活を3週間続けると、担任に呼び出され進級に響くから体調不良その他の理由がない限りはなるべく来なさいとお達しがあった。

その時1年間で何日休むと進級できないのか、と行った旨の数字を聞き、私は即座に脳内でそれを3で割った。

月に3回は休んでも進級に響かないという結果だったため、5月中旬からはしばらく毎月3回休むことにした。



親には学校を休むことを言っていなかった。

部屋の窓の鍵を開け、わざと遅刻する時間に家を出、親に遅刻連絡を入れてもらう。こうなると私の勝ちだ。

学校遅刻連絡を入れた生徒が欠席しても電話を掛けてこないことは、数年前酷い生理痛遅刻連絡を入れ、結局体調が優れず休んだ経験からすでにわかっていた。

両親が仕事に行って家を出たであろう時間帰宅し、自転車を親戚が住んでいる近所のアパート駐輪場にこっそり置く。

部屋の窓から家に入って靴箱に靴をしまい、哲学書を読み、父親本棚から経営指南書を拝借して読み、日本史教科書を開いては眺め、日本史問題集を解いては資料集を開く。

数学の成績は中学一年のころから壊滅的だったので、時折チャート式問題集を開いて何問か解いて、分からないのでうんざりして本棚泉鏡花全集に手を伸ばしたりしていた。

夕方普通に学校に行って帰っても親が帰るのは私の帰宅後だったこともあり、アパート駐輪場から自転車を回収し何事もなかったかのように帰宅する。

完璧計画であった。

自転車で通っていても、ふと、学校ではないどこかに行きたくなることがあった。

駅の公衆電話から腹痛が酷く自転車を押して向かっている、遅刻するかもしれないという旨の電話を入れる。

事務員さんが頷き、電話を切ると、制服ジャケットの裏ポケットに入れたスマートフォンを取り出してマップアプリを開いてはあれこれ考える。

空港に行って飛び立ってゆく飛行機を見て、展望所のすぐ近くのテーブル数学問題集を開いて空を眺めつつ問題と格闘した日もあった。

海に行って、靴下を鞄にしまい、ひとしきり波と戯れたあと小さなハンカチ必死に足を拭いた日もあった。

小学生の頃親しかった友人と秘密基地を作って遊んだ山に登ると、ため池が作られていて秘密基地があった場所には行けず、立入禁止看板の前で住んでいる市内を一望しながら体操座りで弁当を食べた日もあった。

毎日が最高に楽しかった。学校の友人らとカラオケに行ったり自撮りをしたり、恋の話をしたりアイドルの話をしたりなんて小指の先にも満たないしょうもないものに思えた。

それこそ高1の夏休み、ふと思い立って某中国四国連絡橋を単身歩いて渡り海を挟んだ隣県に行った時と同じくらい楽しかった(ちなみに高1夏、私は自県まで残り3kmを残してポカリスエット4本が底をつき海の上で死にかけた)。

月に3回のこの楽しみが、わたしを生かしてくれているように思えた。それこそ「行きたくなくなったら学校休もう」って決めた日以前の検索履歴には「首 吊り方 苦しくない」だとか「飛び降り 何階以上」とかい言葉散見されていたので。


しかし、この自分的にはなんとも素敵で素晴らしい日々のことを友人に話すと、それはもう極度の批判を浴びた。こんなに楽しいのに。

友人は勉強ばかりして、親の期待に応えることばかり考えてコドモゴコロだとか冒険心だとかを忘れてしまったのではないかと訝しんだ。

じぶんの楽しい思い出が否定されるのは嫌だったので、それ以降だれにもこの日々のことは言わなかった。



夏休みになると、大学受験を見据えて塾に入ることを親に勧められた。

県下ではまあそこそこの、毎年何名か東大合格者も輩出しているような学校に通っているからか、周囲がわたしを置いて受験モードに入るのがやたらと早かった。

大学受験と言われても、それまで進路なんて考えたこともなかった。彼氏いないし。コイビトと同じところに行きたいとかいあるある進路選択方法も、選択肢が存在しないのだから選びようがなかったのだ。

最終的に塾には通うことにした。初回体験授業の講師イケメンで、軽い気持ちで授業後アンケートにまた受けたいと書いてしまったのがいけなかった。布団の中で後悔して、今年の夏は一人でどこまで行こうかと考え気をそらしていた。

しかし、何回か通ううちに気が変わった。友人皆が大手塾に通う中、私はマンツーマン型の小ぢんまりとした場所だったので、周りに私を知る者はほとんどいなかったのが救いだった。

塾で分からないところは基礎の基礎だと薄々感づいていようが分からないとごね、分かったらこれでもかと喜ぶ(時々声がでかくてブースの外に聞こえると窘められた)。


夏も過ぎ二学期中間試験も終えた10月ごろ、仲良くなった塾講師に、件の日々の話をしてみることにした。この人はやたらと毒舌だが顔はいいので、何を言われても許せる自信があった。顔はいいので。

講義講義の間の休み時間の間に雑談のノリで喋った。学校サボって空港とか海とか行ったことあるんよね、マジでしかった。ホンマはアカンけど。

塾講師の反応は予想と違っていた。返ってきた言葉は「絶対勉強ばっかしとったよりええと思うで〜」「アホやなとは思うけどええとも思う なんも考えてなさそうで」という完全に私をアホとみなした上での肯定だった。


よく分からないがムチャクチャに嬉しかった。それはもうムチャクチャに嬉しかった。この人にはアホな所を堂々と、それこそ正弦定理余弦定理から2次方程式の解の公式までこれでもかと意味わからん何これと聞きまくっていたので、アホ呼ばわりされることがなぜか誇らしかった。

小学校中学校の頃は何もせずとも常に成績はトップだった。高校でも文系科目がまあそこそこできたおかげで順位は真ん中より少し下、成績を上げなさいとは言われるが面と向かってお前アホやなと言われる機会はこれまでの人生一度もなかった。いや影では言われてたかもしれないが。


「やろ〜!? いや自分でもやばいなとは思うけどなんか楽しかったんよね…冒険しとるみたいで…」と返すと、授業開始のチャイムが鳴った。


私は学校を休むのをやめた。

受験勉強、がんばります

2018-12-30

そのうち公衆電話は不潔だから

猫が近づけないように対策しろとか撤去しろとか言われるようになるのかな

http://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/1303262

2018-12-20

anond:20181220135115

連絡は公衆電話から会社電話にする。

資料作製も文書作成オフィスにて、模造紙やOHP用紙にまとめたりしてた。

表計算とかも、自分ノート数字を書いて、そろばん計算してたんだよ。

今の時代からは考えられないほど牧歌的のんびりしていた社会がそこにあったんだよ。

2018-12-06

ソフトバンク通信障害「商談がつぶれてしまう」

携帯電話が使えないなら公衆電話をつかえばいいじゃない

なにが商談がつぶれてしまうだよ、そんなに大切ならつぶさな努力しろ

NTT新卒で落ちました

NTT退職エントリ流行っているようなのでそもそも入れなかった人の話でも書きます

といっても1X年前の話です。

増田はどんなひとか

1980年台前半生まれ

リーマンショック直前の超売り手市場新卒4月初頭というゴールデンタイムNTT系列何社も受けて全滅したアホ。

趣味プログラミング。ICPFCとか参加したり小さいツールを書いたりしてた。

大学の専攻は数学日本ではやたら偏差値の高いらしいT大学に現役で入ってそのまま修士卒。

どこを受けたのか

NTT株、NTTD、NTTS、NTTH、NTTCなど。略称がどこを指すかは適当に考えてね。

部落ちてます4月はこのせいでお祈りされまくり、結局決まったのはNTT以外で夏ごろで。

なぜNTTに応募したのか

電話がとても好きだった。高校ぐらいのときモデムから高速リダイヤルをかけるアプリとか、

公衆電話の番号を探すツールとかを書いていた。PHS携帯が普及しだしたこから

そもそも仕様があまり手に入らなかったので興味を持てなくなった。113はよくお世話になった。

就活ときそのへんのことを思い出したのと、プログラミングが好きだったのでNTTなら

なにかできるんじゃないだろうかと思いたくさん受けた。

なぜNTTをそんなに落ちたのか

当時はプログラマというもの地位ものすごく低い時代だったと思う。

そんな時代に「プログラミングやりたいです。ICPFCとかめっちゃ楽しいです。」という割に

基本情報すらとっておらず、コミュ力も非常に低い上に専攻が純粋数学とか落ちて然るべき。

更にNTTがどういう人材を欲しているのかという企業研究もろくにしていなかったため、

自分御社にどういう貢献ができるのかを説明できず、ただやりたいことだけを喋っていたた。

また純粋数学研究内容の説明がしにくいというのはわかりきった話だったので、それは対策するべきだった。

面接でどんなこと聞かれたのか

NTT

3分研究内容を話すというプレゼンSPIがよかったらしく1次面接免除という連絡をいただき

喜んで2次面接に望んだところ純粋数学研究発表で、「この研究社会的意義はなにか?」という質問をされ無事死亡。

NTTD

書類審査で通過できず。

NTTS

社名にソフトウェアなんてついてるぐらいだからプログラミングガッツリできるんだろうと思い、

CPU命令セットの素晴らしさとその効率的エミュレータ実装について熱く話す。

面接官の「そんなことにしか興味ないんですか?」という返事は今でも覚えている。

NTTH

グループディスカッションで落ちる。コミュ力とか見られてたきがするが審査員は見てただけなので詳細は不明

NTTC

面接前に社員雑談する謎の時間があり、「T大の人、ぜひ来てほしいんですけどNTTDとかNTT株に

取られちゃって蹴られてしまうんですよね…」という話を聞く。その時点でDには落ちていたので苦笑いして面接へ。

当時盛り上がっていたNGN関係の話で面接官と盛り上がるも俺が考える最強の通信スタック実装法を

熱く語ってしまドン引きされる。

結局どこにいったのか

NTT系列はだめだったので結局某SIer就職年収は300万弱から5年ぐらい在籍しても500万弱ぐらいだった。

最初は流石に年収低すぎということで某Rエージェント転職活動をするもリーマンショック真っ最中

在籍も1年とかだったため「君なにしにきたの?」オーラがすごかった。その時点での転職は失敗。

SIerによくある通り仕事コードというものほとんど書かず、ExcelWordがメインであった。

ただ仕事自体は暇だったので、合間にひたすらProject Eulerをやっていた。

今は何してるのか

今はお仕事が変わり、AI関係ソフトウェアエンジニアみたいなお仕事をしている。

相変わらず面接ではコード書きたいですとかAtCoderとかの競技プログラミングの話しかしていないのだけど、

10年前に比べると反応がとてもよくなったと感じる。年収都内に何の不自由もなく暮らせるぐらいまでは

もらえるようになった。プログラマ地位は相当向上しているのではないだろうか。

個人的にはAtCoderTopCoderで黄~青ぐらいのプログラマ社会的地位10年で年収400万から1000万ぐらいまで上がった感じがある。

結局NTTにいったほうがよかったのか

退職エントリ読んでみると、NTT株は行ってみたかたかも。

ブコメへの回答

anond:20181206084718

今は1000万!と言いたいところですが、うまい棒5万本分ほど足りません。一本行けるように今後も精進します。

ただ今都内ソフトウェアエンジニアバブルといってもよく、かなり年収水準が上がっている気がします。

ですので多少は夢を持ってもよいのかなと。

回答追記

anond:20181206104025

キリの人も入社時は優秀だったんだと思います。あともし採用されるポテンシャルがあったとしても

ちゃん業界研究しないのはだめかと。いろいろな意味で私はだめでしたね。

id:ueno_neco

1990年代はまだ固定電話の古い交換器や緑・ピンク電話などが残ってた時代で、電話面白い挙動

NIFTY-SERVEフォーラム等で盛り上がっていた時代でした。そのため当時は同じような人が結構いました。

id:sny22015

うけてません。NTTの社風に合わないと全滅する可能性もあった(そして実際そうなった)ということで、

ある意味リスク管理ができていなかったとも言えます

id:shinobue679fbea

最近NTTDのOSS関係へのコミットは凄まじいですね。あの部隊尊敬しています

あのへんのコミッタ方たちはどういうルート採用されたんでしょうね?

id:ockeghem

大学時代XSSバイナリ解析に興味があったはずなのですが、就活ではその道は選びませんでした。

忘れていたというのもあるのですが、その数年前に日本セキュリティ系の団体ちょっともめてしまった

というのがあるのかもしれません。日本セキュリティ業界ちょっと前までアングラっぽい雰囲気

漂っていました(世界的にそうだっただけな感じもします)が、そんな方たちも某FF○Iとか某NAとか

ホワイトハッカー側で大きく活躍されてるようで、もしセキュリティ業界に身をおいていたら

そういう変化も楽しめたのかなぁとは思います

あ、徳丸さんのブログはいつも楽しく拝見させていただいています

id:Lumin

あの某NAのLuminさんでしょうか。当時はとても落ち込みましたが、今では楽しくやれているので

人間万事塞翁が馬というところかなと思います

2018-12-05

東京入国管理局に勤めている者ですが・・・

昨今、入国管理局収容者に対して虐待を働いているというようなことが言われますがそれは間違いです

我々は法令に則りしっかりと仕事をしています

メディアの誇張やデマを真に受けてあたか収容者へ恒常的に虐待が繰り返されているという誤認はやめて欲しいです

また、当然収容者への人権配慮しています

以下がその内容です

収容施設について(収容施設処遇

収容令書又は退去強制令書により入国者収容所地方入管局の収容場に収容されている外国人(以下「被収容者」といいます。)は,保安上支障がない範囲内において,できる限りの自由が与えられ,その属する国の風俗習慣,生活様式尊重されています

これから入国者収容所の一例をもって被収容者の処遇を紹介します。

施設構造及び設備

収容施設構造及び設備は,通風,採光を十分に配慮しており,冷暖房が完備されています

開放処遇

収容者は,定められた時間内,居室以外の収容エリア内で自由に入浴,洗濯運動等ができるほか,多目的ホールに設置された公衆電話で外部の者と話すこともできます

健康管理

1 診療

医師及び看護師が常駐し,被収容者の診療に当たっており,必要に応じて外部の病院に通院,入院させる等被収容者の健康管理に万全の対策が講じられています

また,被収容者の心情安定を図るため,臨床心理士によるカウンセリング実施しています

2 運動

悪天候以外,屋外での運動可能です。また,各収容エリア内の多目的ホールには,卓球台等が設置され軽運動談話などができるようになっています

給食

栄養士による栄養バランスのとれた献立により調理され,特に収容者が属する国の食習慣,宗教上の戒律等に留意した特別食や病人等に配慮したものとなっています

また,自費によるカップ麺菓子類等の購入が可能です。

面会

収容者の国籍国等の領事官,被収容者の訴訟代理人,又は弁護人である弁護士や,それ以外の面会者でも所長等が立会いの必要がないと認める場合は,入国警備官の立会いを行っていません。

2018-11-28

固定電話新規申し込み方法

ホームページの予約申込フォーム、または局番なしの「116」からお申し込みいただけます

お申し込み

※は必須入力項目です。

契約者※

ご利用場所住所※

ご連絡先電話番号

から気になってたんだけど、電話を持ってない人が初めて加入電話を手に入れるのって大変なんだよな

引っ越してすぐの頃、116へ電話するにも電話がなく、公衆電話から申し込んだのを思い出した(最近公衆電話も見ないよねぇ)

ネットから申し込めるようになったようだけど、連絡先電話番号必須という鶏卵問題

まぁ今は先に携帯電話契約する時代

2018-11-25

ぼくが自殺を決行した話をする

今だからあんまり気負わずに言えるけど、当時は人生に対して切実な思いを持っていた。もちろん自殺には失敗したから今生きている。

当時、ぼくは20歳ニート生活をしており、よくわからないまま何の目的意識もないまま、とにかくこの先の人生絶望しながら生きてきていた。

ぼくはそのとき大学中退してそれなりの年月が経過していた。大学に行ったのも特に目的は無かった。働きたくないし勉強もしたくなかったが、親が金を出してくれるということで、自分人生に対して責任というものがなく、ただ言われるがままに進学をしていた。受験勉強は全くせず高校時代は家で勉強したことはなかったが、学校の授業を高校1年生から2年生まではしっかり受けていたこともあって、受験成功し、ランクは落としたが大学に進学した。それでもそこそこの国立大学には進学したので、ぼくは同級生ほとんどを見下していたように思う。

大学に入ったときは「遊びまくれる」という意識があって、いままでの家庭内での抑圧が弾けるかのようにぼくは遊び回った。当時隆盛していたモバゲーやらGREEやらでメンヘラ漁りをしたり、ネトゲにハマったりPCゲームにハマったり映画を見たり、一般的パラサイト大学生として過ごしていた。大学ははじめのころは新鮮でおもしろいと思って通っていたが、慣れてくると結局勉強をしなければいけないことに気づきだんだん卒業後の現実が見え始め、やる気がなくなった。勉強をしてなんになると思い始めて学校に行く頻度が落ちた。卒業して働くということに絶望を感じていた。就活というもの意味がわからなかった。

「少なくとも残り38年、あるいはそれ以上、奴隷として働かなければいけない」という絶望感があった。ぼくはそこまでして生きたいと思っていなかった。好んで死にたいわけではなかったが、人生目的が本当に何もなかった。ただ言われるがまま、子ども学校に行くもんだという指令のもとに生きていた。こうした呪縛から解き放たれて自由を得た代わりに、選択肢が何もないように感じていた。「働いて、生きて、それでその後は?」「何十年も生きて、それでその後は?」「生きていれば楽しいこともあるだろう。それでその後は?」「たとえば何かしら名声を得るとして、それでその結果何が得られるのか?」という風に感じていた。すべての物事人生最後にどう意義深くなるのかを考えていた。こういう考え方は、防衛機制の知性化というらしい。

ひとまず2年生に進級した。必修単位だけはなんとか落とさなかったが、そのほかの単位ものすごく落としていた。状況は何も変わっておらず、相変わらず特におもしろいとは感じないながらも、まだおもしろさが比較的マシなゲームや女遊びに没頭していた。しか現実逃避に過ぎないと考えてぼくは自殺を考え始めた。「死」が選択肢に入ってくると、おもしろいほど転がり落ちるのが早い。ただの堕落した大学から、終わり始めていった。

ふつう人間は、何か行動を選択するときに「死ぬ」という考えは浮かばない。「おなかすいたかコンビニに行こうかな。めんどくさいな。まぁ食わなきゃ死ぬしいいか」というふうにはならない。どんな選択でも死ぬことが関わってくる。死神に呪われているがごとく。「窓が汚れてるなぁ。窓ガラスに首を突っ込んだら死ぬだろうか」「料理はめんどくさいな。包丁を刺すのは痛いだろうなあ」と、だんだん普通の行動を取れなくなる。完全に何かしらの病気なのだが、金がないし「この状況が薬で改善されるとは思わない」と思っていた。

当たり前だが大学には行かなくなった。大学をやめてバイトだけやろうと考えた。当たり前だがうまくいくはずもない。そもそも働きたくないのだから、すぐにバイトにも行かなくなった。身分学生なだけの人間に成り下がった。ぼくは大学も行かず、バイトで貯まっていた20万円を使って、「起きる→ゲームする→眠くなると寝る→腹が減ったとき、朝や昼なら近くのスーパーに行き、夜なら近くのコンビニへ行く」という生活をしていた。ゴミは出たらそのまま放置し、いよいよ虫が出てきたときゴミ捨てをするという、現実逃避以外の何物でもない生活をしていた。

何度も「餓死しようかな」と考えて飯を抜いては「限界。無理」と考えてがっつり食べたりしていた。「3日食べない」「たくさん食う」「2日食べない」「たくさん食う」の繰り返しをしていた。この食べるという行為けが幸福だった。コンビニの同じような弁当ばかり食べていたが、ただただ「うまい」と感じていた。脱水症状手前の状態から飲むポカリは格別だった。体全体が食物を欲している中で食べるハンバーグは絶品だった。ある種中毒になっていたのだと思う。

そうした生活によって金が尽きる前に、母親が迎えに来た。ぼくが携帯電話の電源を切っていたので心配になって見に来たということだった。ぼくは「失敗した」と思うと同時にそれを拒絶した。「現実がやってきた」というふうに感じていた。未来への思考をしないようにしていたところに現実を考えなければいけないトリガーが出た。死を保留することがもうできなくなったと考えて、ぼくはすぐさま死ぬことを考えた。急いで財布だけ掴んで家を飛び出し、ネカフェに3日ほど滞在したあと、富士山樹海で首を吊るのがいいんじゃないかということで、なけなしの金をはたいてぼくは中央線に乗り込み、最後の晩餐として、いくらかの酒やお菓子食べ物ビニール紐と睡眠導入剤を買い込んで、残金がほぼないような状態で、河口湖駅へついた。そこからバス民宿方面へ向かった。民宿の予約はしていない。

ついたのは夜だった。ぼくは民宿の前の道路から少し離れたところで樹海に入った。樹海は街とは比べ物にならないほど暗く、岩は月あかりのせいか血のように光っていた。懐中電灯などというものは持ってきていない。飛び出したおかげか携帯電話も持ってきていなかったので、でたらめに移動した。引き返すつもりもなかったので、財布の中に入っていたお札や小銭を取り出して、破いて樹海の中にばらまいた。そうして移動した。怖くはあったが「動物に襲われたくない」という怖さだった。死にたいが痛いのは嫌だったからだ。樹海は暗すぎて木に紐を結びつけることができなかったので、一夜を明かさざるを得なかった。当時は雪が降る時期で、異常に寒くまともに眠れなかった。「寝たら凍死できればいいのに」「寝たら死んでいますように」と考えていて、必死で寝ようとしては起きてという繰り返して、朝を迎えた。何時だったのかは全くわからない。薄明かりで木に紐をくくりつけられるぐらいになった。

ビニール紐というのは何度も巻き付けて首に巻くとものすごく痛い。そもそも数秒耐えることもできない。睡眠導入剤や酒など飲んだが何の効果もない。意識はかなり明瞭で「死ぬ」という恐怖心と戦わなければいけなかった。「死ぬ。これから死ぬ。なぜ死ぬのか。そもそも死ぬ必要があるのか。これで本当に死ねるのか。考え直した方がいいのではないか。死ななくてもいい方法があるのではないか」と考えた。痛いし寒いし死のうという決意も薄いしで、結局ぼくは死ぬことを諦めた。

朝を迎えた樹海景色が綺麗だった。樹海の中にある道を探すと、あっけなく道が見つかった。その道をまっすぐ進むとすぐ道路にたどりついた。全然道路から離れていなかったらしい。

道路に出て、ぼくは適当に歩き始めた。明らかに変なところを歩いているのに誰も話しかけることはない。それはそれでよかった。変に話しかけられても困るだけだった。道路をまっすぐ進むと甲府方面看板が出てさらにまっすぐ進むと、幸運なことにお店があって、横に公衆電話があった。あとで調べると12kmほど歩いていたらしい。何のためらいもなく110番をする。「自殺に失敗したんですけど」といって、ぼくはいろいろあって実家に帰ることになった。おまわりさんには「いろいろ人生つらいこともあるけど死ぬのはダメだよ」みたいなことを言われてぼくはひととおり泣いていた。ただ、そんな言葉で心変わりするぐらいならここまで悩んでいない。泣いて「ちゃんとした方がいい」と思ったのはほんの数瞬だった。

実家に戻ってまず思ったことは「状況が何ひとつとして良くなっていない」という絶望感がただそこにあるだけだった。死の保留が再びできて安堵していただけだった。当時の家庭環境もよくなかった。父母の仲はぼくが家を出たあとでいっそう最悪になったらしく、父は仕事に没頭しており、そもそも母と情報共有できていなかったので、ぼくが樹海に行ったことを知らないようだった。今も知らないだろう。ぼくも積極的に言うこともなかった。「自殺を図った」という言葉の上っ面では、他者にそこに至った経緯など伝わるはずもなく、その理由理解され難かった。

ぼくはそのまま自堕落生活を送った。

堕落生活で、ぼくはひたすらネット動画を見ていた。「動画を見る・起きる・夜目覚めて冷蔵庫にあるものを漁って食う・眠くなったら寝る」というクズ生活を送っていた。その一般的クズニート状態のまま1年がたって、当時の「死ぬことの怖さ」みたいな思いが風化して、ぼくは再び死ぬことに決めた。「親に迷惑をかけている」とは思っていなかった。「今まで虐待みたいなことを散々してきて育ったのだから当然の報いだろう」と思っていた。申し訳無さではなくて、この先どうすればいいのかを延々と考えていた。未来がない。「奴隷か・死ぬか」という二分的な思考の中で揺れ動いていた。いま思えば思考があまりに先鋭化しすぎているが、周りの環境がそう簡単に変わるわけでもない。むしろぼくの存在によって周りの環境がぼくの闇に引きずり込まれるように悪化し始めた。

死ねなかったのは、前回のプランが悪かったのだ」「そもそもプランをたてる暇がなかったのだ」と考えるようになっていた。「そもそもビニール紐で死ねるわけがないではないか」などと思って事前調査することにした。実際にはビニール紐ではダメで、ロープが良いのである死ぬというのは勇気というか、一大決心がいるものであるが、準備ができていないと死ぬことはできない。感情的であればあるほどめちゃくちゃなことができるが、めちゃくちゃゆえに準備不足で失敗することもある。ぼくの場合死にたい!!」という一撃の思いではなくて、ずっと心にためていた漫然とした「このまま生きていたくない」という学習無力感だったので、痛い思いもしたくなかった。

着々と準備を進めてぼくはやっぱり首吊りをすることにした。何度も首吊り選択している理由がわからいかもしれないが、首吊りリーズナブル苦痛が少ないという合理性からだ。ただし実際には苦痛は他の死に方と比べて少ないというだけで、ものすごくあることもあるし、一般的生き方での「痛い」と比べるべきものではない。基本的にはほぼすべての死に方について、死ぬほど痛い。幸運にも苦痛なく死ぬことができる人もいるはずだけど、最悪の場合永遠に苦痛を味わいながら生きることになる。

ともかく、ぼくはロープを買い、痛くないようにハンカチなども買って準備を万全にした。睡眠導入剤や酒も以前と同じく買った。

夜、ぼくは家を飛び出して近くの山に向かった。田舎だったので山には困らなかった。白昼堂々山に入って通報されたらたまったものではない。夜に行動するのは基本だった。

樹海ときと同じように外で寝た。犬の鳴き声が聞こえて不安を煽られたが、地元ということもあったのかそれはそこまで気にならなかった。今回は夏で、じゃっかんの肌寒さしかなかった。準備は万全で、今回は変に目が覚めることはなく、いったいどういう神経をしているのか、熟睡できた。

明け方ロープを準備した。ネットで調べてきたとおりにハングマンノットという結び方で、枝に結んだ。ぼくは最後の晩餐だとして、買い込んできたご飯を食べた。睡眠導入剤をすべて飲んで水やお茶を飲み、酒を飲みまくり最後ファミリーマートで買ったエクレアを食べた。食べ終わると猛烈な不安が込み上げてきた。「死ぬのか」という感情が心をとにかく揺さぶった。

ぼくは木に登った。木に登って、太い枝に立ち、丸く結んだロープ首にかけ「ジャンプすれば死ぬ」というところまで準備した。猛烈な恐怖が体を襲った。ぶるぶる震える。ジャンプする。ジャンプしさえすれば死ねる。足はとにかくすくむ。今でも怖いと思う。思い出すだけで恐怖心が現れる。

それで、どうやったかよくわからないけど、ぼくは自殺を決行した。枝からジャンプした。

しばらくするとぼくは暗闇の中にいた。そこにはものすごい多幸感があった。眠りから覚める以上の幸せがあった。何かの扉が見えて、眼の前には光があった。あとで「この世に生まれてくる」とはああいうことかというように表現できるたぐいのものだった。ぼくは目を覚ました。ぼくは何をしているんだろう。ここはどういう世界なんだろうか。不可思議感覚だった。

次の瞬間、全身に激痛が走る。人生で生きてきた中で最も痛い激痛だった。ぼくは理解した。死のうとしていたのだった。ぼくは痛さで発狂していた。ぼくは痛いのをなんとかしたいという一心で、自動的ロープから必死に首を脱出させようと試みた。痛い。とにかく脱出しなければ。痛い。ロープから首を。痛いの嫌だ。ロープに手でぶら下がれば首は締まらない。痛さが軽減した。

ぼくはロープから首を出してそのまま枝から落ちた。体がドスッと地面に落ちたがそんなことはどうでもよく、首が熱を持っていた。喉がひたすら痛かった。それどころか頭まで痛かった。どれくらいそこにいたかからなかったが、ぼくは死ねないことに深い辛さを感じていた。鋭い痛みと「死ぬことはできないのだ」という選択肢がなくなったことでぼくはずっと泣いていた。

この経験以来、ぼくは「あのとき実はすでに死んでいて、今も実は死んでいるんじゃないか」という感覚がある。いつかあるとき、今生きていることは夢だということで目が覚めて、あの飛び込んだときに戻るのではないかという感覚がわけもしれずある。当時の体験2chの関連スレにそっと書いていたが、あまりまれることもなくひっそりとスレの中に埋もれていった。基本的にみんな他人には興味が無いのだ。

どのくらいそうしていたか覚えてないが、ぼくは家に帰った。太陽はもう高くあがっていた。どのくらいぼくは首を吊っていたのか全く判然としない。数秒だったのか数時間だったのかわからない。現実的におそらく長くても十分も経っていなかったのではないかと思うが。家につくと母はぼくの首の痣にびっくりしていた。とにかくぼくは生きる選択肢を選んだ。痣は1ヶ月ほど消えなかった。

その後お寺に連れて行かれてカウンセリングを受けた。なぜお寺なのかは理解できなかったが、言われるがままについていった。自分でもカウンセリング必要だと感じていたからだ。話を聞いてて思ったのは「ありきたりな話の集合のくそくらえ」ということで、ぼくが考えていたのは「こいつは使い物にならねえ」ということと、今後の指針だった。幸いにもカウンセラーの口がそこまで達者ではなかったので、ぼくが宗教にハマることはなかった。精神的にだいぶ弱ってはいたが、ぼくが欲していたのは「現実的に機能する今後の指針」であって、よくわからんスピリチュアル的なものではなかった。ましてや自殺決行後の人に、死のうか悩んでいる人向けのカウンセリングをしたところで何の効果もないだろうと、ことここに至ってもまだ人を見下していた。逆にぼくではなく、母がスピリチュアルに頼るような人種になっていた。

自分正当化するようだが、母も別に聖人君子ではない。こうなるまでぼくは小さい頃、虐待とともに生きてきた。第三者から見ればただぼくが悪魔のように見えて、切り捨てたい汚物のようだと思うだろうが。ぼくは今になってようやく、母も祖母祖父からめちゃくちゃな教育を受け、育児嫁姑問題や父との不仲、父のめちゃくちゃさ等でストレスがたまっていたということを理解して客観的に見ることができるようになった。いわゆる毒親というやつだろう。今は遠く離れて住んでいるため、適切な距離を保てていると思う。

まぁそれは置いておき、死ぬという選択肢が消えたことで、ぼくは図書館にいって本をただ読んだり、ぐだぐだと生きていた。結局保留する癖は死ぬ目に遭っても治っておらず、相変わらず親同士は喧嘩が絶えない状態だった。ぼくはとにかくグダグダとしていた。前よりは安穏としているものの、結果的にそんなに状況が好転していないのだった。

そこで東日本大震災が起こった。ずっとテレビを見ていて思ったのは「いとも簡単に人がたくさん死ぬ」ということだった。

ぼくがずっと考えていたことは自然にとってはありふれたことで、一生懸命自分人生を生きてきた一人の人間が、人生を無理矢理終了させられ、大して深い意味もなく死んでいくという「人間ゴミのように死んでいく」光景が新鮮だった。可哀想などと思う人間気持ちを持つ余裕はまだ無かった。失礼な話だが、人が一人死ぬのを見るたび希望が湧きあがってきた。震災はぼくの死生観に強い影響を及ぼした。「人間が生きる意味などない」というのをかなりポジティブに感じた。

「そんなに簡単意味もなく死ぬなら深く考えるのはバカバカしい」と考えた。文字通り死ぬほど悩んだ結果、ありふれた結論に達するという虚無感に、絶望ではなくて乾いた笑いが出た。「死ぬことについて死ぬほど深く考えた結果、死ぬほど深く考えるのはバカ」という結論に達した人はそうそういないだろう。つまり思考停止なのだが、死に関しては思考停止するのが「生きる上で正しい」のだった。

よくよく考えれば奴隷にならない道もあるはずだと思って、ぼくは震災から数週間経つと、金もないのに家を飛び出して都会に出た。都会に出たあとは、世間知らずと社会不適合者が混ざった状態で、その後もまぁ紆余曲折あったのだが、今は生活好転し、ふつう人間のようにして日々を暮らしている。

いま、ぼくは当時を懐かしい思い出として、あるいはいささかの教訓を含む昔話として扱うことができるようになった。

そして、こうした日々に何の意味価値もないことをはっきりと知覚しながらも、さりとて刹那的にもならず、二律背反的だが、人生意味価値があると思いながら、未来を考えて前向きに生きることができるようになったと思う。ニーチェのいうところの超人というやつらしいけど、そんな上等なものではない。現代では一般的なありふれた考え方だと思う。

まぁ、自殺の決行がなんだとかって話だけど、何かの参考程度に受け止めてもらえれば嬉しいと思っています

追記

長すぎて最後の方の行が弾かれたのでこちらに書きました。

https://anond.hatelabo.jp/20181126040934

2018-10-31

anond:20181031193440

まー、死ねば、は言いすぎだけど

今までのクリエイティブが単純に淘汰されます、ってことだよな。

おれはクリエイティブが何のことなかいまいちわかってないけど。

何かしら対策を打って変化していくべきでしょ。

携帯が出てきたとき

携帯日本公衆電話を殺すよ、って言われても

ああ、そうですか、って感じだし。

技術クリエイティブ(?)を同列に語るな、とか言われそうだけど

変化しないものは滅びるわけですよ。

2018-10-26

anond:20181026173815

何処使ってるの??

公衆電話携帯電話とか持ってないでしょ、あなた

2018-10-13

味方をすれば粛清される

私は今、元勤務先と争っている。

社名や労働争議の内容を含め詳しい状況は言えないけど。

私のことを心配してくれる同僚がいて、会社は今こういう動きをしていると教えてくれた。

でも何がどうバレたのかは分からない。

同僚は社長直々に内線電話を貰い「増田の味方をするようなら解雇だ」と脅されたようだった。

「私を助けるつもりで、今後は関わらないでほしい。連絡もしてこないで」

そう公衆電話から泣きながら訴えてきた。

私は「はい、分かりました」としか答える事ができなった。

個人労働争議他人人生を狂わせるかもしれない。

良かれと思って、ちょっと味方をしただけで粛清される。

何もできない自分が情けない。

同僚を巻き込んでしまった自分が悔しい。

こんなブラック企業マジで滅びたらいいのに。

2018-10-03

全ては手に入れられなかったけれど

僕はQUEENファンなのだが、I WANT IT ALLという曲が好きだった。この曲の、特にブライアンメイのソロの部分~Not a man for compromise and where’s and why’s and living lies~「妥協したり、場所理由のために生きたり、偽りの人生を生きるような男じゃない。だからこそ全てを賭けて何もかも手に入れてやる」・・・そういう歌に、当時15歳の僕はひどく感銘を受けた。何度もこの歌を繰り返し聞き、辞書の側面にこの歌詞を書き込んだ。そして人生に夢も希望目的意識も無い偏差値45の私立高校生だった僕は、人生目標として独学による早稲田大学合格を打ち立て、何を思ったか高校中退してしまった。校風が合わないこともあったが、自分を追い込み、それこそ全てを賭けるに相応しいと思ったのだ。しかし高い意識目標とは裏腹に自堕落受験生活。元々要領が悪く遅々として進まない独学に焦りを感じ、代ゼミ社会科目の単科でリズムをなんとか維持するも、現役は全落ちし、一浪の果てに偏差値50の私大法学部しか引っ掛かからなかった。しかし、(方法方向が間違っていても)それなりに努力していた僕の姿を見ていた父の言葉は優しかった。「もう1年やってみるか?」泣きながら自宅の窓から外を眺めていた僕はその優しい言葉にとても惹かれたが、自分学歴面のハンデや就職時年齢を考慮して、今後受験を続けては人生へのリスクが高すぎると判断し、コンプロマイズ(妥協)の道を選ぶことになる。偏差値50の私大へ進むよ、と答えた時、僕のI WANT IT ALLは終わり、僕の心は死んでしまった。

早稲田だろうと滑り止めだろうと、どの大学に入ったとしても、大学へ入った時点で偏差値呪縛やしがらみから解き放たれて大学生活を充実させるべきなのは間違いない。今では心からそう思うし、妥協して腐っている新入生には、偏差値呪縛から解放されて人生を楽しんで欲しい。しかし僕にはそれが出来なかった。話しかけてくれる数少ない人達好意を踏みにじり、常に孤独を選んだ。そして心が1度死んでしまうと、頭が何かを理解しようとすることを拒否してしまうのだ。高い教科書を何冊も買い読もうとしても、講義いくら受けても、言葉言葉の間に繋がりが見いだせず、混乱しか引き起こされなかった。次第に大学へは通わなくなり、1日のほとんどを自室から出ずに過ごすようになる。1度も大学へ行かないまま2年前期が終わったとき、僕は「ヨシ、もう死のう。友人もいない、勉強もできない、頭も死んでいるし、どうせ妥協した人生だ。僕の負けだ。もう死のう。」と思い立ち、同じ旨の遺書を書き置きし、身辺整理してから実家を出た。家族迷惑がかからないどこか遠くで自殺しようと、ひたすら電車を乗り継いだ。電車が止まれ路地公園で凍えながらうずくまり、朝になるとまたひたすら電車であてもなく遠くへと揺られた。九州へたどり着き死に場所を探していたときの事だ。ある駅のマクドナルドで座っていると、隣に明らかに知的障害のある若い男とその父が座った。その父は、食事をしている我が息子に愛しそうにカメラを向け、楽しそうに、笑顔写真を撮り出したのだ。その親子の姿に私は衝撃を受けてしまった。なんという父親の愛だろう。もし僕に障害のある息子が産まれたら、この父親の様に心の底から息子を愛せるだろうか。そこにあるのはただひたすらな無条件の愛だった。自分の両親顔が浮かび、次の瞬間僕の目からは涙が止めどなく流れ、いてもたってもいられずすぐに席を離れた。泣きながら公衆電話を探し、実家架電した。「今から帰るよ。ごめん。」と。自宅へ帰ると泥のように眠った後、今後のことについて話した時も父は優しく「もう大学は辞めるのか」と尋ねてきた。僕はもう迷わずこのまま通う事を選んだ。大成功けが人生では無い。あの親子のおかげでそれを本当の意味理解し、心の再生は近づいていた。大学では相変わらず孤独だったが、それからは全ての講義に欠席せず、聴講したのを録音して更に講義録を作り、試験対策も死に物狂いでやった結果、本当にスレスレで4年で卒業できた。留年が無く卒論必須ではない法学部からこそだったと思う。しか就職活動は完全に捨ててバイトサークル等もせず、卒業だけを目指していたので、卒業して無職になってからは、今後の人生方向性は定まらず、これにも困りきってしまった。なにしろ受験大学勉強だけしか知らず、その他は中学生時間が止まっているのでやりたいこと、人生目標なんてものは無い。呂律は回らない、言葉は詰まる、人生経験は何一つ無い。そのため就職活動は困難を極めた。臆病で説明会面接で行った会社インターホンを押せずに帰ったりもした。結局数社説明会を受けたりボロボロ面接をしただけでやめてしまい、困った事になったなと思いつつも1年ほどダイソーの釣具で海釣りばかりしていた。けれど何か人生軌道修正をする糸口が欲しいと思い、就職活動の練習のために一般教養科目だけで受験できる公務員試験受験した。これがトントン拍子に進んでしま採用されることになり、現在はもう5年が経とうとしている。面接相手が、実際の職場で会うことはまず無い公務員試験だと、堂々と話すことができたのだ。それに法学部出身故の法律素養が意外と仕事や昇進で役に立ち、年齢的には結構早く昇進もさせてもらっている。何がどこで繋がり役に立つかは、なかなかわからない。確かに僕の人生妥協の先にある人生だが、これは妥協や敗北ではなく、小規模な成功と換言できるのではなだろうか。大大大勝利だけに囚われて孤独で苦しい人生から抜け出せなくなるより、戦略的人生スライドさせていくことも、ひとつ人生としてはありなのではないかと思った。

2018-09-18

とっさのときに行動できない話

芸能人飲酒運転ひき逃げ事件動画が出回っていて、横断歩道通行中に突っ込んでくる車の映像に衝撃を受けている人が多い。事件悪質性みたいな観点とは別に、眼の前で車にはねられた人がいるのに、他の通行人が駆け寄りもせず、見知らぬふりをして立ち去る様を避難する声も少なからずあるようだ。

人は、とっさのときに行動できないものである

そういうことを身をもって体験した昔の出来事を思い出したので、書き残しておく。

から20年以上前自分高校生だったときの話である

通学のため、朝、バス停バスを待っていたら、目の前を自転車に乗った(おそらく)女子高生が通り過ぎていった。自分はそのとき文庫本参考書のようなものを読んでいたのだと思う。自転車が通り過ぎた後、耳に「ガシャン」という倒れる音が飛び込んできた。

見ると、自転車が倒れて、女子高生も倒れている。そのときバス停には自分と後輩のふたり(両方とも男)しかいない。後輩と顔を見合わせた後、あわてて駆け寄ると、血は出ていないが、呼びかけても返事がない。

バス停には自分しかおらず、その道は人通りもないので、誰か他の人が来ることもない。

道路を渡った反対側にガソリンスタンドがあったので、後輩にそこに行って公衆電話を借りて救急車を呼ぶように伝えた。

慌てて道路を渡る後輩。

と、ここで困ったことに気がついた。

彼女スカートが思いっきりめくれているのである。まじまじと見たわけではないので詳細は覚えていないが、白い下着が目に入った。

人通りがない、とはいえ、眼の前の通りは、車通りがそこそこある。なにより、もうすぐ乗る予定のバスがやってくるわけで、それには自分高校の生徒がたくさん乗っているはずである

このままだと、彼女が多くの学生下着を晒されてしまうわけで。

おとなになった今なら、さっとスカートを戻すなり、もっているハンカチで隠すなりができるのだろうけど、そのときは半分パニックになっていて、スカートを戻しているとき彼女が目を覚まして、めくっていると思われたらどうしようとか、そういうしょーもないことが頭を巡ってたりした。

結局、後輩がガソリンスタンドでお店の人に事情説明しているうちに、彼女が目を覚まして、再び自転車に乗って行ってしまった。

2018-09-17

anond:20180917214138

これは個人体験で、他の女性たちがどうだったかからないんだけど、それでも私にとっては確かに衝撃を受けた体験だったから書き残しておく。

私がエロ表現に初めて触れたのは、十歳にならない頃、電車の中。向かいの席の男性が読んでいたスポーツ新聞こちら側にヌード女性が写っていた。多分ビデオの紹介とかだったのだろう「喘ぐナントカ…」みたいなコピーがついていた。体育の着替えが男女同室だったくらいの歳で、性的衝動存在を知らなかったから、そのヌードを見てただ驚いた。女性の裸が新聞に載って眺められる需要存在することを初めて知った。

意識して周りを見渡すと、それらしい気配は各所にあった。大磯ロングビーチ広告公衆電話ボックスに貼られた女子学生写真電話番号週刊誌中吊り広告に太字で書かれた「ついに脱いだ!」という踊り文句女性の外見、特に裸は世間から求められていて、しかもそれはあまり上品欲求をもとにした明るいものではなさそうだということに気がついた。(ちなみに当時は女性の幼さを強調したイラストはそう無かったように思う。覚えているのは「幼妻」という単語の衝撃くらい。セーラームーン月野うさぎちゃんが13歳とは思えないほど大人びたスタイルで描かれていた。変身シーンで一度ヌード風になる意味が分から何となく恐ろしかった。)

時を同じくして、電車の中で痴漢にあうようになった。隣に座って太ももを摺り上げてくる人、ぐいぐい押しよってくる人、自慰の様子を見せつけてくる人、色んなバリエーションがあった。特に自慰を見せつける人は印象に残っていて、膝の上で週刊誌を開き読んでいる風を装いながら、その下で性器を触っていた。時折目の前に座る私に視線を寄越すので、何だか危険な感じがして動けなかった。当時男性自慰をするなんて知識は全くなく、隣に座る友達と「前のお兄さん何してると思う?」と小声で話し合えるくらい、その行為はただの変な出来事だった。他の痴漢も同じくらいセクシャル意味はまるで理解できず、ただなぜ自分の体を触られているのかが意味不明で混乱した。

そんな鈍感な私も、身体もやがて第二次性徴を迎え、初潮経験し、乳房が形になり始め、何よりアンダーヘアが薄く生え始めた。このとき一気に、大人お姉さんたちとそこに注がれる視線他人事ではなく、このあと私が受けるものであることを自覚した。振り返れば、太ももを撫でたあの人も、「セックスって知ってるか」と話しかけてきたあの人も、変な行為に目が釘付けの私をチラ見してきたあの人も、私をヌードお姉さんたちと同じように扱っていたのだと思い至った。私は一方的に慰みものになっていた。

それからしばらくは成長するのが嫌で仕方なかった。胸の膨らみを憎み、下の毛をカミソリで全部剃った。修学旅行ではこの成長を周囲に悟られたくなくて大浴場には入らなかった。成長が進んでしまったら、女性性的な部分を世間差し出し、あの水着お姉さんたちのように他者評価されながら生きていくしかないのだと絶望した。

やがて中学生となり男性に恋をして、女性であること・女性身体を持っていることへの嫌悪感は減った。男性がそれに魅力を感じること、またそれを上手く見せることで好意を引き寄せることができると学習たから受け入れられるようになったのだと思う。自分の体と社会の折り合いをつけるようになったのだ。その学習効果は、スカートを短くすることや、石鹸香り香水をつけること、唇をツヤツヤにして”キスしたくなる”状態に保つことなかに現れた。(当時、セブンティーンプチセブンはそういう指南に溢れていた。)

このあとは割愛。私は一般的な異性交体験を重ね、特にセクシャリティに関するトラウマを持つこともなく、平均的な年齢で好きな人と性体験をし、恋に悩んだり、遊んだりしながら結婚して母になった。

もしあの頃の自分に声をかけてあげられるとしたら、女性男性性的魅力を記号のように表現したり消費したりする文化の一段奥には、相手個人を切実に求める個人間の原始的な愛のやり取りがあることを先に教えてあげたい。それは人間(というか生き物)として自然欲望であり、それを感じる相手とだけでいいから、お互いに性的魅力を伝えあえる関係になることが大切なんだと安心させてあげたい。

幼い頃は健康で丈夫な自分の体をただそれだけで好きで信頼していたのに、チラチラと差し込んでくる性的ものたちに気を取られ、私はその信頼を疑ってしまった。スカートは膝上20センチじゃないと、ブラは2センチ厚のパッドが入っていないと、髪はセミロングを揺らしていないと、女子学生らしくないと毎日夢中で取り組んでいた。その呪いタイムマシンで解きに行きたいよ。

2018-08-08

うそろそろ、公衆電話を知らない世代

20代後半なんだけど、塾とかで公衆電話を良く利用していた。

でも、今の20歳はもう、公衆電話を使ったことが無いし、使い方も知らないんじゃないかと思う。

うーん、ジェネレーションギャップ

anond:20180808164208

昔は、公衆電話が街のいたるところにあったのね。

お店からお客への連絡はできないけど、客からお店への電話はどこでもできた。

ソープの店情報はもっぱら、雑誌新聞広告欄がおもだった。

店を介さず連絡なんてあり得なかった。

2018-06-15

公衆電話を見つけているか

ポスト場所を知っているか

電車の色を覚えているか

同僚の下の名前が分かるか?

信号の色の順番は?

虹の七色は?

から会社までの途中駅は?

帰り道にコンビニはいくつある?種類は?

今日何人と話した?

今日いくら使った?

明日の楽しみは?

いくつ答えられた?

明日の楽しみは?

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