2024-10-02

東海道新幹線開業60周年

私が東海道新幹線に乗ったのは新幹線開業して30年以上経った90年代

母方の実家があるため静岡病院で産声を上げた私が、当時両親の住んでいた社宅がある神奈川へ帰るために乗ったのが恐らくファースト新幹線。勿論記憶の欠片もない。

そこから幾年経ったのか明確に記憶があるのは、まだ0系が走っていた頃。例によって静岡祖父母宅へ行かんと新横浜駅の待合室でこだまを待っている時の記憶

当時、のぞみは走り始めていたが新横浜を通過するのぞみもまだまだある時だった。

全ての列車が停車する今となっては考えられないが、かなりのスピード新幹線新横浜を通過する時は待合室に相応の轟音と振動が伝わり、幼心に恐怖心が芽生えた。

こだまがそろそろ着く時間になると、エスカレーターを上がり4番線へ向かう。篠原側の有閑な景色を見て少し経った頃に、0系ホームに滑り込んでくる。

これに乗るといよいよ静岡のおばあちゃん家に行くぞ、と気持ちが出来上がるのだった。

そんなわけでしばらく新横浜静岡の往復でしか東海道新幹線というものを知らなかったが、その見聞が一挙に広がることとなる。

ある時、静岡祖父旅行企画してくれた。寝台特急富士・はやぶさ九州へ行き、帰りは博多から500系のぞみで帰ってくるというものだ。(祖父神奈川まで来てくれた)

500系運用は決まってのぞみ静岡は停車しない。

フォルムの格好良さに憧れてはいたのに縁のない列車、と諦めていたが遂に乗れるチャンスが訪れたのだ。

空気抵抗を減らすため円形に作られた車体は2列×2列シート。高身長祖父は少し窮屈そうにしていたが、幼少の私はそんな事気にも止めず、5時間近くの乗車をただただ楽しんだ。

何せ全てが見た事ない。そして、300km/hで流れていく景色の速さ。気付けば慣れ親しんだ新横浜ホームに降り立っていた。

そこから中学修学旅行京都に行き、当時まだ試運転をしていたN700系を見たり、大学に入ってから付き合った彼女京都に行ったり。

そして現在に至る。

三十路を越えた今では、JR東海に勤めることは出来なかったもの電車マスコンハンドルを握って仕事をしている。

JR東海新卒普通に落ちた。

恨むこともないし、社会人になり親友名古屋に転勤になったからと託けて名古屋に行ったり東京での飲み会の帰りが面倒で乗ったり、と東海道新幹線に乗る機会は減るどころか増える一方だった。

飲み会帰りに気軽に使うような間柄になっても、やはり新幹線という特別感は拭うことが出来ない。東京駅の東海道新幹線ホームに上がり白い車体を見る時、心の端にいつも高揚感が芽生えていた。

車両が変わり、速度が増して静岡まで1時間を切るようになり、その距離は益々近くなっていったが、社会人になった忙しさとコロナ禍にかまけて私と祖父母距離は遠くなっていた。

そして、今年の正月祖父が亡くなった。

仕事中に訃報を伝えられ、品川から東海道新幹線に乗り込んだ。

予め認知症などの兆候があったとはいえ、やはり思うところはある。

流れる車窓を眺めながら、祖父との思い出が駆け巡る。

新幹線に乗り愛知万博家族みんなで行ったこと。

静岡ホームで、ここ空いてるよ!と並んでる列を割り込もうとした祖母を窘める祖父のこと。

社会人になった後に神奈川祖父母が来た時、帰りの切符グリーン車で取ってあげたらグリーン車なんて乗るの初めてだよ…と泣かれたこと。

祖父との思い出の節々に東海道新幹線が出てくる。

母は、修学旅行では寝台特急長崎へ行ったと言う。それはそれで羨ましいものがあるが、新幹線開業以前、長距離の旅とはおいそれと気軽に行けるものでは無かった。

現代では、仕事終わりに急に新幹線に乗っても1日とかからずに殆ど目的地へ行くことが出来る。

私と祖父が同じ時代を生きた時に、新幹線があって良かったと思う。

会いに行こう、をテーマ曲に。これから日本の大動脈として人々の出会いを支えて欲しい。

そう思って文を締めます

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