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2020-06-23

ADHDリモートワーク

新型コロナウィルスの影響でウチの会社でもリモートワークを実施するようになった。

会社の同僚でおそらくADHDの症状を持つスタッフが居るのだけど、分け隔てなくリモートワークに突入した。

当人普段からケアレスミスが多かったり締め切りが守れなかったり、仕事中にフラッと職場を離れて10分以上戻ってこなかったり

何かと問題が多かったのだけど、リモートワークになったらさらに残念な面が表に出てきてしまった。

携帯電話に出ない

オンラインでの出退勤処理をしない

毎日報告が決められている業務報告書を提出しない

メールに対する返事が無い

●提出された資料ミスだらけ

自宅で仕事を行っているのかすら怪しい状況で客先からも、あの担当者ADHDさん)が電話に出ないかこちらに

連絡させて頂きましたと、前の担当者に連絡が行く始末。 そうした問題を本人に聞くと、

〇自宅で業務に当たっていました

電話には気づきませんでした

〇客先から電話が長引いて電話に出れませんでした

〇その処理はした筈です

自己弁護オンパレード上司も呆れる始末。 『リモートワークは社員を選別する』 って何かの記事を読んだけど

少なくともADHDの症状のある人は、リモートワークは向いてないかもしれんねー うまく回せる方法って無いもんかね?

2020-06-22

OSS の持続可能

ここ最近の COVID19Radar https://github.com/Covid-19Radar/Covid19Radar 上でのゴタゴタにより、開発者の @kazumihirose さんが https://twitter.com/kazumihirose/status/1274616019420471296 疲弊してしまいっているのを見て、(今回の揉め事根本的な原因はソフトウェアOSSとして公開されているのが原因ではないと思うが)いたたたまれない気持ちになったので書く。書いてみた結果ただのとりとめもないOSSへの愚痴になってしまった。

増田について

いくつかのOSSプロジェクトのメインコントリビュータとして関わっています

OSS メンテナのバーンアウト

私の周囲のソフトウェアエンジニアOSSに対して以下のような意見を述べているのをよく聞く。

かにOSS特定企業所属していないので特定企業方針運営が捻じ曲げられる心配がなく民主的で、細かい実装が気になったらソースコードを読むことが出来、顔も合わせたこともない優秀なエンジニア議論を交わし共通のゴールに向かってともに開発を進められる。OSS楽しい

しかし一方、OSSメンテナのバーンアウトが近年問題になってきている(なんとなくここ数年で目につく数がなんとなく増えてきている)気がする。

というのも、OSS運用していく上では楽しく優秀なエンジニアと開発をすすめるだけではなく、ドキュメントを読めば分かるようなことを質問してくる人、PR に対して changes required を下すと怒ってくる人、Twitter でこのライブラリは使いにくくて最悪だと罵ってくる人、こういった普通会社ならカスタマーサポートさんがワンクッション挟んでくれる人たちに対しても開発者が直接対応しなければならない。

元々楽しくて始めた/関わり始めたはずのサイドプロジェクトだったのに、いつの間にか日々やってくる頓珍漢で再現環境のないバグレポートや、Issueも立てずに突然提出される意味不明PRに対して、義務感で、就業後や土日の時間を削って、根気よくコメントを続けていると、何で貴重な自由時間をこんな訳のわからない連中のために使っているんだ?という気持ちになってくる。

実際、私の関わっていた一つのプロジェクトでは、もともと6人ほどいたアクティブコントリビュータが徐々にプロジェクトを離れていき、(私を含めて)2人はメンテナンスに疲れてしまったのでしばらく距離を置くと宣言休みを取っている(あまり精神回復したので戻れるのかは不明...)。

こういう現場を見ていると、手放しにオープンソース万歳!透明性最高!と言いながら自分自身は大してOSSに貢献してない人たちに対して苦い気持ちを覚える。

うまく回っているOSS

一方、私の関わっているもう片方のプロジェクトは非常に円滑に運用が回っていた。もうひとつプロジェクトと何が違ったかというと、そちらのプロジェクトはいくつかの企業ソフトウェアエンジニア業務時間の半分/全部をそのプロジェクトメンテナンスに費やしていたのである。(何人かのメインコントリビュータが企業から出向する(?)する形で運用している)。

issueへの一次対応などの日々のつまらないタスク業務メンテナンスしてくれているエンジニアがやってくれるおかげで、他のメンテナが対応する必要のあるissueやPRは減り、みんなが開発やバグ対応に集中できている。業務OSSに取り組んでいるエンジニアストレスはないのかと聞いたところ、多少大変ではあるけれどお金をもらいながら自分仕事オープンにできるし、仕事だと思えば多少のストレス我慢できる。とのことだった。

このプロジェクトに限らず、なんとなく長期間運用がうまくいっている大規模なOSSプロジェクトはだいたいどこかの企業支援しているような印象を受ける(Facebook とか MS とか Google とか(大企業ばっかだな...))。もちろん全てのソフトウェア企業に大してOSSに大して大金をつぎ込めというのは現実的ではないが、open collective や github sponcers なんかに企業として少しずつでも寄付してくれたら、OSSコミュニティはもう少し良くなるんじゃなかろうか。

結局何が言いたかたかというと、エンドユーザー(OSS利用者)がめちゃくちゃ増えてきた昨今、個人レベルでそれなりの規模のプロジェクトメンテナンスしていくのは最早厳しくなってきており、結局企業によるバックアップなんかがないと持続的な開発は難しいんじゃないかと思っている。

2020/06/24 23:00追記

今日になって思ったより多くの方に読んでいただいて驚いています。あまりオープンインターネットで話しにくい話題だけど皆がどう思っているのか気になっていたので嬉しい。増田ブクマされても通知は来ないんですね(そりゃそうか)。

@bouzuya

まず焦点を当てている持続可能性が見出しから思い浮かべるものより狭いんだと思う。「最悪フォークすれば持続可能」みたいなのがぼくだと最初に思い浮かぶ

https://twitter.com/bouzuya/status/1275675654135189504

かにOSSの持続可能性という少し主語の大きいタイトルにしてしまったが、この文章ソフトウェアの持続性というよりかはOSSに携わる人のバーンアウトに対する憂いをつらつらと綴っているもので、ソフトウェアの持続性という意味では他にも色々やりようがある気はする。

また、私が目にしたうまく回っているのが企業による支援を受けたプロジェクトだったので、バーンアウト対策として企業による支援について述べたが、企業による支援がなくともうまく回っているプロジェクトは世の中にはいろいろあるだろうし、今後OSS企業による支援がないとやってけないと決めつけるのは早合点ではあった。反省。(とはいえ問題意識は変わらないし、その一つの解決策が企業による支援だと思っているのも変わりない)。

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自分記事を読み直してみて、一番問題に感じているのはユーザーサポート工数なんだなと分かったが、@mathane さんがその問題への一つの解答をつぶやいていた。

(このツイートはこの記事へのコメントではないが)

@methane

雑な質問バグレポート(99%レポート者のミス)をする場所は、とにかくメンテナ以外の人が回答しやす場所でしてもらう事が重要だと思う。

Issue Trackerはメンテナ以外が質問気づきにくいし、メンテナはIssue整理したいか疲弊する。

https://twitter.com/methane/status/1275620072669638656


これは確かに。私はまだOSSコミュニティ初心者なので、こういうOSSメンテナンスする上で重要なことをどんどん知りたい。

2020-06-20

自分自分の顔との関係を振り返る

ありふれた話だけど、自分の顔が嫌いだ。

久しぶりに自分の顔が憎くてたまらない波が来たので、感情を小さくするために、自分の中の顔に対する思いの変遷をまとめてみた。

今となっては愚かすぎて笑っちゃうんだけど、小学生の時は自分のことを絶世の美少女だと思っていた。親に溺愛されて育ったのと、親戚にも地域にも小さい子が少なかったので、褒められる機会が多かったせいである。

しかも捻くれたことに、(自分美人からおしゃれなんかしなくても充分だ)と思っていて、おしゃれに目覚めて盛り上がる女子たちを小馬鹿にしていた。

その考え方はやがて女子=愚か、という結論にたどり着く。小学校高学年の頃は、男子と混ざって馬鹿下ネタを言う自分が格好いいと思っていた。そして、体つきの変化を隠すためぶかぶかの服ばかり着ていた。つまり小学生にして名誉男性思想を獲得していたのだ。我ながら最低だと思う。

しかし、中学生になって分別が出てくると、さすがに自分の顔が美しくはないことに気づき出し、その反動自分の顔も体もとことん嫌いになってしまった。

毎日マスクをつけ、夏でも長袖チェックシャツに太めジーンズで、前髪を伸ばし、制服スカート丈も靴下すれすれまで長くしていた。服屋なんて鬼門中の疑問で、滞在時間を最小にするために絶対試着をしなかったから、ジーンズの裾をいつも何重にも折り返していた。

写真はとことん写らないようにしていたため、冗談抜きで中高の写真高校卒業アルバム個人写真1枚のみである。(中学卒業アルバムは、受け取った瞬間自分写真を切り取ったせいで親と大喧嘩になり、貰った翌日にはもう捨てしまった。)

その頃の私が一番恐れていたのは、周囲の人に(あい不細工のくせにオシャレしてて、身の程知らずだな)と思われる事だった。自分の体を隠し、不細工自覚アピールすることに必死だったのだ。

ただ一つ恵まれいたことは、私の母校は穏やかな私立中高一貫女子校で、私がゼロ年代の男オタクみたいな服装だろうと、毎日毎日「私不細工から〜」というフォロー待ち感満載の発言をしようと、派手な子から地味な子までみんなフレンドリーに接してくれたことだ。(というか派手な子地味な子普通の子、みたいなヒエラルキーすらほとんど無かった。)中高時代の私が私が醜形恐怖症にならなかったのは、間違いなく同級生のおかげである

自己嫌悪と同じくらい自己愛が強い私は、共学の大学入学すると、オシャレへの拒否感との板挟みに苦しみながらも必死自分磨きをした。

詳細は省くが、努力の結果、ゼロ年代オタクから垢抜けない女子大生くらいにはアップデートできていたと思う。(ちなみに、アラサーの今までついぞ垢抜けることはできていない。)

しかし、顔だけでなく性格も悪く、社交性もほとんどないので、多少見た目が改善されても全くモテなかった。女子時代とは比べ物にならないくらいの恋愛至上主義の中で、数年にわたって誰からも好かれないということは異常事態である特に文系大学生にとって、彼氏ができたことがないといのは、ほとんど社会不適合者のお墨付きをもらったようなものだ。当たり前のことが当たり前にできず、みんなやすやすと飛び越えたハードルの前でいつまでも立ち尽くしている気分だった。

このモテなさを改善するには、性格をよくする努力をしたり、社交性を磨いたりするのが正しい道だとわかっている。しかし、他人と話したりポジティブな振る舞い(人を褒めるなど)をしたりすると、必ず不細工自分不細工な笑みを浮かべながら必死に媚びへつらっているイメージが頭をよぎっていたたまれなくなる。そして何もできなくなってしまうのだ。

大学時代を経て、顔へのコンプレックスが、容姿も含めた自分という人間全体へのコンプレックスに変わったように思う。小学校時代は明るいお調子者だった自分根暗に変わってしまったのは間違いなく顔へのコンプレックスのせいなので、顔と性格の間に負の連鎖が生まれしまったのだ。

その負の連鎖は今でも続いている。自分の行動がうまくいかないと、その事だけでなく自分全体を憎んでしまい、最も慣れ親しんだ顔への憎しみに帰結するのだ。仕事で失敗すると、トイレの鏡に映る自分の顔の醜さに絶望する。ちょっとした不幸(通販で失敗するとか)があると、何時間も鏡を見て、自分の顔のレベルいつまでも考え込む。あまり他人に顔を見られたくないので、いまだに人の目を見て話せない。それどころか、不細工調子に乗っていると思われたくないので、気持ちを奮い立たせないと自分から人に話しかけられない。

この増田を書いているのも、見知らぬ誰かに自分不細工自覚があることをアピールしたいからなのかもしれない。やっぱり自分醜形恐怖症なのかなとも思うけど、顔がいい人が醜形恐怖症になりやすいっていうのを聞くと、もう醜形恐怖症を疑うことすら調子に乗っていると思われそうで怖い。周囲の人は着々とライフステージを進めているのに、こんな思春期半ばみたいなことで悩んでいる自分の幼稚さも嫌いだ。

自分感情を小さくするために書き出したのに、結局変に興奮してしまった。でも、朝起きてこの文章を見返せば少しは冷静になるかもしれない。明日は少々自分の醜さに折り合いをつけられる気持ちになっているといいな。

2020-06-19

プリコネ引退した

プリコネ引退したのはペコキャルのカップリング不快に感じることになったのが理由だ。

今週のラジオのオープニングショートドラマを聞いて自分がペコキャルの組み合わせに辟易していることに気づき引退に至った。

アニメでも主人公コッコロ、ペコとキャルという組み合わせが強調されるように感じ3人共ヒロインのはずなのに格差のようなものを感じた。

元々美食殿の仲の良さは大好きで、それがよくわかるConnecting Happy!!やYes! Precious Harmony!も大好きな曲だったが最近のペコキャルは仲がいいというレベルを超えてしまっていると思う。

ギャルゲー攻略対象ヒロイン同士が友情範囲を超えて仲良くなっているところを無理やり見せられている気分である

もちろんペコキャルは全くもって友情範囲だと言う人もいるだろうが、自分にとっては仲のよさが度を超えているように思い気持ち悪く感じるようになってしまった。

他にもキャル役の声優立花理香に対しての不快感も引退理由の一つだ。

若月選手結婚を発表した時は祝福すると共に声優を辞めることはだけはしないでくれと思ったが今ではそんな気は微塵もない。

演技が下手なのに演じているキャラが人気(アニメでより高まった)だから生放送ラジオ自己主張が激しく不快

YouTube生放送でとりあえず小倉唯天使のように扱っておけば視聴者から好感を得られるだろうと思っているのがミエミエだったのが不快

Abemaの生放送で一人明らかにネタに走ってクレープに米を入れていたのにその後ラジオネタではなくちゃんと作ったというようなことを言っていたのが寒く不快

他のコンテンツ名前を見るのも嫌になったので、プロ野球も開幕したことだし若月選手が好成績を残し、年俸がアップして立花理香専業主婦になることを願っている。

そんなこんなで引退するに至ったのだが、引退してもずっとアヤネちゃん推しなことに変わりはない。

https://anond.hatelabo.jp/20200619115808

児童虐待於いて最も難しいプロセスは、児童本人に「自分虐待されているのだ」ということを認めさせることだと言います

虐待というのは、客観的証明が難しく、畢竟当人がどう感じるかが全てという側面がありますので、裏を返せば、思い込もうと思えばいくらでも思い込めるのです。「自分虐待などされていない」と。

「愛されていなかった訳ではない」「自分の態度が悪かったのだからある程度は仕方がない」「こんなことはよくあることだし、もっと酷い事例と比べれば大したことではない」などなど。

そうやって思い込むことで、自分精神を守ろうとするのは已む無きことです。

そう思い込めれば幸いな誤解の中で生きることも可能ですが、自分虐待されていたという事実直視するのは、猛烈な惨めさに襲われるだけで、何の救いにもならず解決もないからです。

しかし、そのような自己欺瞞は往々にして精神の失調という形で現れることがありますあなた場合フラッシュバックなどでしょうか。


あなたは、聡明なるかな、そのような己の認知に疑問を抱き、他人に己の状況を客観的説明してみせました、その解決法として「父を許す必要があるだろう」という憶測を交えて。

まりあなたには現状を変化させようという意志があるということです、他人に頼ってまで。これはポジティブなことです。

また、ところどころ自虐的ながらも己の過去客観的記述出来るようになるまでには、それなりの月日が経っているのだろうと憶測します。つまりあなた精神的にも大人であるということです。

以上を踏まえて申し上げますが、あなた必要なことは、まず父を許すことの前に、自分虐待されていたということをお認めになることなのです。

気づきしょうがあなたのお父様が幼き日のあなたにした仕打ちは、それはそれは酷いことです。

そして幼いあなたは、何も悪くありません。

あの日トイレで壁をジッと見つめて涙を目に溜めていたあなた。その子を受容してあげてください。手を差し伸べてください。「あなた(私)は何も悪くなかったんだ」と。

それが出来るのは、あなたしかいないのです。大人になって見聞を広げ、社会性を身に着け、自分のことを客観視出来るようになりつつあるあなたしか

お辛いでしょうが、それが唯一の解決策と思います

信頼できる友人、恋人などいれば、助けを求めるのも良いでしょう。カウンセリングも良いかもしれません。

あなたの頼れるものを総動員しても、どうぞ戦ってください。

それさえ出来れば、その後お父様を許そうが許すまいが、それはどうでも良いことです。

2020-06-18

10年ITをおやりになっているお客様がご自身でお気づきになっていない ITのしぐさを観察していて 偶然発見

いやぁ プロの偶然の行動をヒントにして、アイデア思いついちゃったぜ!

2020-06-17

私のADHD診断を手伝ってくれ

計画性を要する作業を行なう際に、作業を順序だてるのが困難だったことが、どのくらいの頻度でありますか。

困難ってどんなものですか。

例えば家事クエストが、洗濯食器洗い夜ご飯の支度、の3つあるとして

A.「家事の順序を考えないといけないのに、ゲームしたくて集中できなくて考えられないー」

なのか

B.「早めに干さなきゃだからまず洗濯して、洗濯機が回ってる間に食洗機にお皿をセット…あ!(発見食洗機の洗剤がない!てことはトイレットペーパーも無さそう(いつも同時期になくなる)買いに行くか…(洗濯についてはもう忘れてる)いやトイレットペーパーストックがあったような…」で気づき確認と忘れるのを繰り返し、結局洗濯物は乾かず夜ご飯はお惣菜

なのか、

C. 家事について考えることすら面倒で「早くしなくちゃ」という気分に苛まれながらつまらないスマホゲーム(本当につまらない)に1時間以上逃げる

   

これらが日替わりであるんだけどチェックつけていいの?

いや、ガチADHDの人ってもっと違う理由作業を順序立てられないんじゃないの?そもそも順序とか計画って概念がないとかそういうの。

   

あと選択肢が「全くない」「滅多にない」「時々」「頻繁にある」「非常に頻繁」の5つなんだけど、基準わからん

週に1回から時々、週に2〜3回からは頻繁、週に4回以上からは非常に頻繁、ってイメージなんだけど、合ってる?

から2X年前のネット接続環境の話。

オレは中学生の頃からLinuxを触っていたが、高校生の姉もインターネットなるもの存在気づき自分も使わせろと言い始めた。余っていたPC9801BX3があったのでそれにWindowsインストールtelnetLinuxログインさせppxpコマンドの使い方を教えた。一応使っていたようだが、今思うとよくそんな方法で使っていたものだと思う。まぁそれ以来コンピュータアレルギーになったが。

2020-06-16

ジンクス傍観者論理

ジンクス傍観者論理」は、一般にはまだ知られていないけれど、私の中で有名な格言ひとつ

ジンクスとなる事象自体は、「カツ丼」と「勝つ」を掛けるような言葉遊びなど、考えてみれば勝負に直接繋がらない非論理的なものばかりだが、

一方でそのジンクス形成される過程には、ちゃんとした「論理」がある。

そしてそれは、その勝負に直接関わることの無い「傍観者」が生み出す論理なのだ

その意味では、非論理であるはずのジンクスは、まさに論理的に形成されたものなのだ

その過程を以下で明らかにしたい。

まず、当たり前のことだが、勝負というものには、その勝負に関わる「当事者」と、

その周りに多数の「傍観者」が居ることに注意する。

スポーツではプレイヤーサポーターたち、受験では受験生とその親、といったケースがわかりやすいだろう。

そして、傍観者あくま傍観者である

勝負だんだんと近づくにつれ、傍観者当事者と同様、来るべき勝負に対してだんだん真剣になるわけだが、勝負にあたってあることに気づく。

すなわち、傍観者はいくら当事者のことを想っていても、その勝負に直接介在できないことに気づき、苦しむのだ。

まあ、端から見れば至極当たり前のことなんだが、真剣になるほど自分勝負に乗った気分になってしまうというのは、

サポーターを見ても、受験生の親を見ても、その興奮した様子を見るに十分有り得る事例だろう。

から傍観者はいつか、その当事者とのギャップに苦しむことになるのだ。

それでも、傍観者傍観者として勝負に関わろうとしてしまう。

先の例で言えば、サポータープレイヤープレイスタイルに、親は受験生の勉強方法に、あれこれ口を出してしまう。

しかし、傍観者はその勝負のことを当事者ほどよく知らない。

なので、傍観者は十分なアドバイスができず、それは大きく的外れにもなる(アドバイス罪!)。

そのため、先に挙げた傍観者の苦しみは、その勝負に直接関わるアドバイスをすることでは一切解決しない。

どう考えても、当事者の方がその知見は豊富なため、傍観者アドバイスは役立ちも感謝さえもされないからだ。

それゆえ、傍観者アドバイスはその勝負本体とは全く異なるフィールドに持ち込まれることになる。

ジンクス」というのは、まさにこの場面で発生する。

すなわち、勝負本体とは全く異なるフィールドで、勝負コミットするようなアドバイスを目指すのが、「ジンクス」の在り方なのである

そもそも勝負本体フィールドが異なる以上、そのアドバイス勝負に真に必要ものではあり得ない。

から、「カツ丼で勝つ」みたいなダジャレでっち上げたり、

「落ちる」「滑る」という言葉を避けて受験に滑らないようにする、みたいなくだらない言葉遊びに頼るしかない。

それが「ジンクス」と呼ばれているものの在り方なのだ

以上をまとめれば、「ジンクス」は、傍観者当事者に何もしてあげられない苦しみから言葉遊びなりに頼ることで生まれてきたものだと言える。

からこそ、その苦しみを解消しようとする心の働きとして、「ジンクス」というもの傍観者にとってまさに「論理的」なのである

言葉遊びに頼ることで、傍観者の苦しみは論理的に昇華されるのである

さらに、勝負当事者も「ジンクス」による恩恵を得ることができる。

それは、その迷信しかないとわかっている「ジンクス」に従っておくことで、傍観者の親切心を満足させて、

代わりに、傍観者からの余計なアドバイスプレイスタイルだの勉強方法だの)を一切聞かなくて済むからだ。

まり傍観者の余計な心配を「ジンクス」という無駄な方向に向けておくことで、当事者は肝心の勝負に雑音無く集中することができる。

それこそ、お遊びでしかない「ジンクス」が、勝負真剣に取り組まなくてはいけない当事者に好まれる本当の理由であろう。

から、その「ジンクス」の中身が非論理的かどうかの議論などは全く的外れなのだ

そんなことは当事者が一番よく知っている。

論理性など心の底からどうでもよく、傍観者の親切心に対するデコイとして発現すれば、「ジンクス」の機能として十分なのである

その点では、これまた、当事者にとっても「ジンクス」に従うことは論理的なのであり、

ジンクス」という傍観者論理は、こうしてめでたく、当事者の役立つものになれた。

傍観者を敬して遠ざける、という皮肉によって。

まあ逆に言えば、この傍観者当事者との共犯関係こそ、言葉遊びしかない「ジンクス」を今の時代ものさばらせている理由とも言えよう。

2020-06-15

TDRもツイステも好きな人がふと思ったこと。

最初

このダイアリーは【前提】【本編①】【本編②】【閑話休題】【つまりなんだってんだよ】で成り立っています

必要文章はCtrl+Fの検索を使って上をコピペして探してください。

【前提】

皆様は「TDR」をご存じだろうか。

そう、日本が誇る大型テーマパーク東京ディズニーリゾートである

その中にある「東京ディズニーランド」「東京ディズニーシー」は開園より多くのお客さんで賑わう、日本に無くてはならない施設となった。

ミッキーミニーといったメインキャラに加え、プリンセスといった等身の高いキャラクララベルといった初期作品キャラ出会えることが良い。

アトラクション豊富で、その背景であるバックストーリーも魅力の1つ。

飯が美味い、景色がすごい、作りこみがやばい

何よりキャストさんたちの「ゲストを精一杯おもてなししたい!」という気持ちがひしひしと伝わる。

一度行けば疲れ果てて帰っても「ああ、また行きたい」と思ってしまう素晴らしい施設だ。

さて、一方の黒馬こと「ツイステ」をご存じだろうか。

「ツイステットワンダーランド」という今年頭に配信されたディズニー看板を背負ったアニプレックス発のゲームだ。

TDRに行く東京民なら必ず通るあの動く歩道の傍にある大きな看板

配信からプッシュを続けた為、存在を知っているDオタ民は多いだろう。私もその1人だ。

私は正直言って、乙女ゲーに興味がない。正直カワイイ女の子ダンスしたり敵船を撃破したりといったゲームが好きだった。筆者は女性である

だが、Twitterフォロワーがやっているのを見て。「何だろう、面白いのか?」と思ってダウンロードした。

最初推しなどは居なかった。声を聴いて1時間くらい誰にするか悩んだ。

ツイステは「リズム」と「バトル」を組み合わせたゲームアイドルマスターポップンミュージックのような正確さは求められない。バトルもFGOのような難易度を求められることは無い。

だが……初期のころは正直言って「クソゲー」だった。

リズムゲームはズレまくっている。音を聞いて押すとGOODになる。バトルに関しても何も連絡がないままじゃんけんバトルだと気づくのに多少時間が掛かった。ごり押しした。

昨今は調整され、音も聞きやすくなった。最近リズムマークの速度調整に気付いた。いつからあったんだ。

魅力は何よりも個性の強いキャラである

ディズニーヴィランズを”インスパイア”されたキャラクターが複数存在する。ここら辺は公式サイトを見てもらおう。

文字通り十人十色キャラ存在し、それぞれめちゃくちゃ個性の強いキャラが居る。

更にストーリーもとても面白いと来た。

前提として、「各寮にはそれぞれ寮に入るために持ち合わせた信念が云々」といった、いわば某魔法使い映画のような世界にやってきた主人公

そこで元の世界に戻るために寮生たちと過ごしていく……という設定だ。

ネタバレになってしまうかもしれないが、キャラクターは全て文字通り「ツイステッド」、「歪む」。

自分の信じていた前提が覆されるとキャラクターは「闇落ちバーサーカー(本編での呼び名)」である「ブロット堕ち」になる。

そういった彼らの「バッドエンド」を「ハッピーエンド」に変えていく……といったストーリー

ハッキリ言おう。ストーリーはすごく面白い

ところどころ散りばめられたディズニー映画彷彿とさせるセリフ回し、本編は全てボイス付きである

デザインは有名漫画家を起用。私はリドル君を見た時に「あ、赤い……〇〇〇くんだ……」というのが最初の印象。ここら辺は多分ググればわかると思う。

ツイステの人気はやはりここにあると思う。キャラクターの良さとストーリー面白さ。

誰一人「嫌い」と呼べるキャラが居ないのはとてもいい。

また、ゲーム内容は「育成放置可」のため某ゲームの様に育成の度にいちいちコマンド入力しなくてもいいのだ。リズムゲームもある程度やれば放置で構わない。優秀。

以上が、ツイステの魅力である

長々と語ったが正直もっと語れる人物は居ると思う。

解ってるよこんなもんよぉ!って人は飛ばせばいいと思う。今更だが。


【本編①】

さて、前提としてTDRとツイステの話をした。

昨今問題視されていることがある。それはDオタとツイステ民の衝突だ。

Dオタはともかく、ツイステ民は民度が低い、など言われがちだ。言ってしまえばハマる年齢が相応のため、仕方ないと言えば仕方ない。まだ花も笑う年齢の方は多いだろう。箸が転げても笑う年齢も。

最近は「公式二次創作の事を聞きました」なんていう物があるが、古のオタクとしては「公式に……二次創作をしているなど知られれば……!!」と危機感を抱く事がある。そういう事例がたくさんあったから。

じゃあDオタはいいのかという話。Dオタ、詳細に言えば「TDRオタ」というのが正しいのだろう。

TDRに来て、各々の発見した楽しみ方を実践する、いわゆる「プロTDRマニア」というべきだろう。正直尊敬する。

ショーパレを見る人、キャラグリを楽しむ人、1人のキャラに愛を注ぐ人、景色を見る人、花々の変化を楽しむ人。様々。

こう見ると「なんだ、ただのオタクと変わらないじゃないか」と思うがその通りである

対象が「二次元」か「TDR」の差だけである

ここで話題に上げる「懸念」の前に、ひとつお話をしておこう。

皆様は「ディズニーアトモスフィア」をご存じだろうか。多分これを言った瞬間何人かは「あっ!」と思うはず。

アトモスフィアとは元々「大気」を表す単語だが、ディズニーでは「キャストによる突然のショー」の総称である

何処からともなく現れては音楽ダンス披露し、ゲストたちを楽しませる彼らの演目の1種である

基本的アトモスフィアはいつ行われるかのリストはない。が、何度か言っている人であれば何となくこの時間…といったことが解るらしい。すごい。

その中でディズニーしからぬ異質を纏ったアトモスフィアが、あったことをご存じの方は多いはず。

2015年ハロウィン場所TDS。突如現れたその名は

「ザ・ヴィランズ・ワールド」、通称「手下」である

ディズニーヴィランズの手下たちをイメージした手下たちが歌やダンス、観客に近づくと言った中々心くすぐられそうな存在である

死ぬほど画像などが転がっているので見てほしい。イケメン美女ダンスしたり悪いことしたりする魅力的な作品だ。

ちなみに筆者は2015年ごろに今は離れてしまった友人がこのアトモスのために年パスを買い、2018年には先輩が見たいと言ってなぜか2日連続ディズニー経験した。

皆が見ている間近辺で行われていたシェリー・メイのグリに並んでいた。シェリーちゃんカワイイ。一度グリしてほしい。

この手下たちは余りの人気で2018年までほぼ毎日やっていた。

大体これが行われるタワーオブテラーの前には行列や人だかりができていた。

手下を求める女子黄色悲鳴の背後ではホテルハイタワーによる呪いで恐怖の叫びが木霊している。非常にシュールな図ではある。

大人気を勝ち取った手下たちだったが、一部のDオタからは白い目で見られることとなってしまった。

気づきの方は多いだろうが、「手下目的」の人が多く来てしまった事である

「いや、たかだかアトモスでしょ?!その間他のアトラクとか行くんでしょ?」という声が上がりそうだが違う。

手下ガチ勢は朝から終了まで、ずっと手下を見ていたという声がちらほら上がる。

なんというか……すごい。そこまでの待てる熱量というのはやはりオタクライブイベントでの待ち時間と比べると大差ないのかもしれない。

1日に何人もの人だかりを見たことがある。その度に「人気だなあ」と感じていた。

エレクトリックレールウェイから見える時、ものすごい人だかりの中で頑張る手下たち。正直すごい。

ディズニー暗黙の了解として「走らない」というのはご存じだろうか。否もはや暗黙でもない。

開園直後にキャストさんが必死に「走らないで下さい!!」と叫んでいる。毎日見る光景だ。

私も一緒に来た人には「ボスケテ精神で行こう」と提案している。それは「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」に登場する文字である

ボス助けて」を略してしまったため、「ボス 決して走らず 急いで歩いてきて そして早く僕らを 助けて」と勘違いされたあの名言

この「決して焦らず 急いで 歩いてきて」というのを心に我々は歩いてディズニーを回る。

まず手下に対してこの条件が当てはまっていなかった。

席は抽選ではない。いい席で見るために誰よりも先に前に行き、席を取ることに必死になった。

こんな情景実はどこでも見るところだが、ディズニーは異質中の異質である

「席を取られた」と言って殺気立つ客が現れることとなる。本来ディズニーには無い空気が漂う。

走って席を取るのも他のゲストにとってストレスになる。走ることで他のゲストが触発されて走ることが多くなる。

まだその時はアプリFPを取ることが出来なかったため、「彼らが何処に向かっているか解らないゲスト」たちが「乗り物FPを取るために急がなきゃ」と走る。

誰も歩かなくなり、こける子供も多発する。来て早々泣く子供に親は困り果てる。悪循環がいっぱいできる。

まあ、既に終わったことではある。現に2018年を終えて手下は終了した。

このほかにマナーの悪さなどが際立ち、「ハロウィンの時期にはディズニー控える」といったDオタが増えている。

……多分以前よりこういうことは多々あったのだろうが、Dオタたちが揃って「やばい」と感じたのはこの手下が私の認識では初めてだった気がする。

なお、筆者はイケメンを見ると心がざわついてしまうので手下は見なかった。

近辺のベンチで座って先輩たちを待っていたら、目の前で帰っていく瞬間を見ただけである

ちなみに帰り際の待ち伏せも手下好きの人はやっているが、グリ目的マナーの良いDオタもやるのでここは触れないでおく。

この案件懸念が行きつく先は、「ツイステの人気にあやかって手下の復活が…あるかどうか?」である

正直、この件に対しては余り考えていなかった。どちらかというと本編②で話すことが若干懸念

だが、今このツイステブームコロナによる自粛によって開園出来ない事を踏まえると「客足が多かった手下が復活する可能性」は否めない。

そうなると再び、Dオタと手下沼の人たちによる溝が出来てしまう。

純粋ディズニーを楽しみたい人、純粋に手下を楽しみたい人。どちらも楽しみたい気持ちは一緒なのにマナーの違いで大きく出てしまう。

なんかそれは……嫌だなぁって感じ。TDRはみんなで楽しみたいですからね。

アトモスと言えば海賊もあるけどそこはとりあえず、スルーで。

閑話休題①】

描くことに疲れてきたので何か話をしよう。

ディズニーは飯が美味い。

兎に角飯が美味い。ワンコインでめちゃくちゃ美味い物が食える。

ちなみに筆者のおすすめTDS販売されている「ホットドッグ」と「ユカタンソーセージドッグである

なんと筆者はパンが嫌いである。口内の水分を取られる感覚が嫌いすぎる。

だがこの2種はパン。肉が挟んであるとはいえパンだ。

まずホットドッグこちらは400円か500円くらいで食べれる。

ホカホカのパンとそこそこあったかソーセージ。まずソーセージデカい。

パンの1.5倍の長さはある。そしてとてもジューシー。めちゃくちゃ美味い。

お好みでケチャップマスタードを掛けて食べる。腹にたまる。片手食べれる。

食べ終わった後は包み紙を見て、その店をアメフロ内で探すのがディズニーに行った時の習慣になっている。

ユカタンソーセージドッグフランスパンのような硬めの記事の間にあらびきの長ウインナーが1本入ったものである

一口食べれば肉汁がじゅわり。だが安心してほしい。肉汁は全てフランスパンが吸い取る。

まりどうなる?知らないのか。パンが美味くなる。

もう滅茶苦茶うまいビックリするほどうまい。そして早々に売り切れる印象がある。

タダの見た目も映えないパンダと思わず、買って食べてほしい。500円。

なお、筆者は1人でディズニーに行き餃子ドッグを3本食べた。

今は多分もう食べれない。

【本題②】

もう1つの懸念がある。それは「ツイステ民の侵略である

言い方がひどいが、正直Dオタにしてみれば間違ってない……と思っている。

まず、ディズニーヴィランズのモチーフという事はそのディズニーのメインストリーがある。「白雪姫」「不思議の国のアリス」「リトルマーメイド」など。

特にリトルマーメイド」「アラジン」はディズニーにもしっかりテーマエリアがある。「不思議の国のアリス」はレストランがある。

ツイステは正直グッズ展開がめちゃくちゃ早い。あと戦争。私も好きなキャラのグッズを買おうとしたらドコも鯖落ちして「今の時期珍しいな」と思うくらいだ。

鯖落ち戦争に勝ち抜いてグッズを買わねばらなず、更に転売が息づく世界だ。再販も早い。

オタクというのはグッズを置いて写真を撮ることもする。なぜか。単純に「推しとその世界」を撮影したいからだ。

ディズニーはツイステ民にとって格好の的、というかほぼそこしかない。

ありとあらゆるところでツイステを見ることになる可能性はほぼ100%に近いと思う。

ちなみに古のオタク好きな物公表することが恐ろしいと感じる傾向がある。

簡単にいうと「オタクバレ」である

日常でもオタクとバレたくない人はそのグッズを付けたりはしない、家で楽しむことが多い。と思ってる。

私の見解なのでこれが100%ではない。今でもオタクグッズを付けて外に出る古のオタクもいるだろう。すごいぞ。私にはできないぞ。

まず、ディズニーはツイステ民だけではなく一般の人も来るというのはお察しだろう。

Dオタだけの世界ではない、遠くから来た人、子供連れの人など老若男女様々だ。

正直、そんな方々に引かれないかとおずおずしている。他人の事なので自分に降りかかるわけではない。

例えるとしたら人がいっぱいいるのでその場からすぐに退散したいイデアの気分になる。なぜか自分に降りかかると思ってしまオタク。厄介である

撮影が「ダッフィー」やら「ミッキー」やらのぬいぐるみやアクスタならまだしも、どこぞのイケメン写真を撮ってるのは案外異質な光景かもしれない。

私もたぶんツイステを知らなかったら「あんスタのキャラかな?」と思うかもしれない。ちなみに筆者はあんスタでは渉推しである

いたるところでツイステキャラと写真を撮るのは、オタク特有だが周りを見れば一般人もいる。

一概に「それはマナー違反だ、やめろ!」とは言わない。し、やってもいい事だと思う。ディズニーはそういうの禁止してないし。

ツイステ民の私の心は「解る、解るよ…!」であります

ただDオタの私の心は「なんか、痛いなあ…!」と思ってしまうので許してほしい。許して……。

後はディズニーハロウィンである

ご存じDハロコスプレオッケーな世界である

家族アナ雪のコスプレをしたり、全員ピーターパンとか結構ありがち。

皆さんはご存じだろうか……Dハロの許容の深さを。

ディズニー作品ではなく、ディズニーチャンネルキャラですらOKである

悪魔バスタースターバタフライ怪奇ゾーン グラビティフォールズ、キム・ポッシブルマイロマーフィーの法則 などといったアメコミキャラオールオッケーなのだ

更に日本代表する人気作品キングダムハーツ」よりソラ、リク、カイリはOKをもらっている、マーベルNGである

ゲームに登場する他社キャラクターは認められていない」とのことなのでクラウドエアリスといったFFキャラ、そのほかオリジナルキャラシャドウNG

Dオタの私が懸念しているのはここ、ハロウィンである

看板に「ディズニー」を背負っているツイステは入る可能性が高い。

まり下手をするとどこでもツイステのキャラを嫌でも目に入れなければならない。此れにはツイステ苦手なDオタの方は憤慨すると思う。

私はコスプレは好きだ。見るのが好き。コミケとかもコスプレ目当てで行くことがある。

だがDハロ場合は別だ。ディズニー映画キャラディズニーチャンネルのキャラを見たい。小さい子がアリスの格好してるとほのぼのするが、ほぼ毎回見る。

Dハロは「ディズニー映画キャラを中心にコスプレする」人が多い。

その中にツイステが混じると「えっ、このキャラ……何のキャラ?」と思う人が多いかもしれない。

人はそれに対して言及はしないけれど、「ディズニーキャラかな…?」と思わされることは多い。

ディセンタントというディズニー映画は知っているが一般の人はほとんど知らない映画だろう。ツイステ好きの人は是非見て。キャメロン・ボイスに最高の感謝喝采を。

彼女たちを見た時に「あ、ディセンタントだ。」と思う人は少ない。

じゃあツイステだっていいじゃん!って思うだろう。書いてて私もそう思う。悪い事じゃないじゃん。そう思う。それな。

ただDハロの時にツイステを見るのは正直言ってしまって「秋葉原コスプレをして歩くオタク」のような感覚が強い。

なんだろう、イケメンからかな?ディセンタントやキム・ポッシブルといった映画アニメは「実写!」「カートゥーン!」といった色彩が強いからだろうか。

ツイステでは恐らく「イケメンコスプレ…!!」と感じるのだろう。イケメンを見ると心がドキドキする。

(恐らくツイステのコスプレOKになったとして、オンボロ寮主人公NGだと思うのでお気を付けください。あくまキャラ対象だと思うんですよ……。)

懸念してる事なのでこれが現実になるかは分からない、ならないかもしれない。むしろなってもならなくても節度ある方がコスプレしているだろうから特に問題はないと思う。

2020-06-14

NOSE レビュー 3/10

操作性 6/10

基本骨子はソウルの丸パクリなため大きく違和感を感じるところはないが、時折謎の硬直が挟まったりする

ビジュアル 4/10

独自アレンジ要素である鼻をいまいち活かしきれない。

鐘を鼻の形にしたり、ボスキャラを👺や🐘といった鼻が特徴的な動物にするなどでなんとかアピールしようとしているが、それによって逆にそうでないボスの無個性さが浮き彫りになっている。

やるなら徹底的に全てを鼻由来にするぐらいことはすべきだったのではないだろうか?

なにより主人公の装備品に鼻の要素が薄すぎるためソウルシリーズの「深淵へと近づくことで少しずつそれと一体化していく」という空気が受け継がれていないのもパロディとして片手落ちだ。

レベルデザイン 4/10

クリアする順番にある程度の自由度があるがそれでもまだまだ縛りがキツいように感じた。

なによりギミックへの誘導具合に若干の甘さがあるように思う。

ソウルシリーズでも「物凄い重要な要素なのに気づきにくいかスルーしてしまう」という部分はあるが、それらをスルーしてもメインストリーはそれなりの苦労を強いられることになりながらもクリア可能である。その絶妙な匙加減が再現できていないように見えた。

ストーリー 0/10

ソウルシリーズのような壮大で悍ましい何かを感じることはなかった。かといって、鼻が重視される世界という馬鹿馬鹿しさに対しての面白おかしさも感じなかった。

ストーリー面については0点というほかない。

ボリューム 評価対象外

頑張ったかどうかという指標としては評価対象にもなりうるが、ゲームとしての出来の良し悪しという点においては評価対象にはならない。

有料ゲームであれば値段に対してそれ相応のボリューム保証されているべきだろうが、フリーゲームはそうではない。

重要なのはゲームのコンセプトとあっているかどうかである

総評 3/10

沢山ステージ作って凄いね。頑張ったんだね。そういう評価の仕方しか出来ない。

まず単純にゲームとして面白くない。

ソウルとライクいう強力な土台があるのでゲームとして遊ぶことは出来るが、ボタンを押して攻撃を当てたり回避していて楽しいかというとそうでもない。

通常の攻防においては明らかにスキだらけな攻撃が来るのを待ち続けてから反撃するだけで、ソウルシリーズのような絶妙な読みあいが起こることもなく単調な作業の繰り返しになりがち。

ステージの敵やギミックの配置が生み出すわからん殺しの要素も大雑把で、単に敵が曲がり角に待ち受けていたり逃げ続けるといつまでも追ってきてトレインになるだけで攻略における彩りが感じられない。

ボス戦においてもそれは変わっておらず敵の攻撃の中に反撃をしやすい物とそうでない物が明確に分けられていてバランスが悪い。

なにより、間をズラす方法としてボスに何もさせず棒立ちさせるという手段を選んでいるのが最悪の一言

短くまとめると、世界観、動き、ビジュアル、それら全てにおいて魂が入っておらず、作者の自己顕示欲を満たすだけのできの悪い操り人形だらけなのが問題点である

スケールを大きくしてとりあえず完成形にたどり着いたことは作り手としては立派だが、まずは小さく完成させることを目指すべきだっただろう。

いっそ最初ボス戦まででいいから、「ダークソウルシリーズ外伝勘違いしかねないほどに思わず熱中して遊べてしまったゲーム」を目指すべきだったのではないだろうか?

30点のゲーム10時間遊ぶのと60点のゲームを5時間遊ぶことの間にある満足度の差はあまりにも大きい。

ゲームには「クリエイターが頑張りを褒めてもらうための手段」としての側面は確かにある。

しかし、多くの人が求めているのは「プレイヤー楽しい時間を過ごすための手段なのだ

多くのゲームはこの2つの要素を内包していて、時には前者の側面が強く光ることもあるにはあるが、その場合はまず、後者の要素が満たされていると多くの人に認められているものだ。

与えるより先にまず与えよ。

その気持ちの有無をフロムに見抜かれてしまったのではないだろうか?

anond:20200614193310

やってみるのは悪いことじゃないよ

やってみないと分からない気づきってのはある

ペットにまつわる愚痴命名編)

前置き

 私の中にペットに対する釈然としない気持ちがある。ここで言うペットとは通常「ペット」という言葉想像されるだろう、人間に飼われている人間でない動物(例えば犬、猫)を想定している。私のもつその気持ちがどういうものか、それを上手く表現できないからこそ「釈然としない」と書いたのだが、ともかく他人からペットにまつわるエピソードを聞き、他人ペットとの関わりを目にするとき、私の胸にしばしば芽生えるネガティブ感情がある。それらの感情を抱く理由は――無論断定できる類のものではないが――恐らく私のペットに対する考えが由来となっている。

 しかしそれらの考えは非常に表層的で熟慮されたものではない。反論を自ら思いつくものさえある。これまで折に触れてそれらを検討自分にとっての結論を出そうと試みてきたのだが、考えるのが下手なせいか、その表層を撫でまわすばかりで一向に考えは深まらなかった。

 そこで一旦曖昧なりにも考えを文章にまとめ、ウェブに公開することで有益アドバイスをもらうことを期待して、この文章を書くことにした。本来であれば理路整然と自論を展開してそれを問うのが読み手に親切だとは思うものの、上に記したように、そう出来る程まとまっていないのであくまで「愚痴」として、ぼんやりとした不快感を少しでも形にして提示することにする。

本題

 私のもつ不快感、それは前置きで記したように複数の要素が不明瞭に混合したものだ。それらは互いに相関をもつのかもしれないが一旦切り分け、今回は一つに絞る。今回問題にしたいのはペット命名についてだ。

 論の立て方の拙さで言いたいことが曇るといけないので、先に不満点を端的に述べる。不満点はペット名前に可愛らしい印象のものが多いことだ。そして不満な理由も粗略に述べておくと、そのような名前を付けることによってペット人間の満足のために愛玩されるものだという信念を強めると考えるからだ。

 そう複雑なことを述べているわけでもないので上に短く記した不満点とその理由で、私の意図するところを概ね把握することが可能だろう。ただ私が動物を愛玩のために扱うのを嫌悪する理由説明必要だと思うのでそれを少しする。

 私が嫌悪する背景にはペット動物に対する人間原罪のような意識がある。まず前提としてある種の動物生き方選択肢は狭い。例えば日本で犬が生きていくにはペットとして飼われる以外の選択肢殆どない。野犬は狂犬病対策のために保健所に捕らえられるからだ。猫の場合はもう少し緩やかで放し飼いも許されてはいるし、野良猫もある程度は許容されている。ただし避妊去勢され生物としての機能制限される。犬、猫に限らず公衆衛生人間安全のために生き方制限されている動物は色々といるだろう。

 私はこのことを考えると申し訳ない気持ちになる。無論動物と細かな意思疎通ができる訳でもないし、動物にとっては他の生き方という考え自体も恐らく無いだろうから、この申し訳なさは一種自己憐憫に過ぎないのかもしれない。しか人間による地上の征服の結果、人間従属するか人間社会の隙間で生きるしかない動物のことを考えると申し訳なくなるのだ。この申し訳なさから派生して、どうにかそれらの動物に報いることはできないかと考えるとき、改めて意思疎通がとれず、相手の願望を把握することができないことに気づき、行き詰まる。それで結局のところそれらの動物が狭められた生き方の中で幸福に過ごせるよう、ある種独善的判断して行動するほかないということになり、そしてそうする責任があると感じるのだ。

 話を戻してそれが何故可愛らしい命名をすべきでないという点と繋がるのかというと、可愛らしい名前ペットを呼ぶと、その瞬間それが幸福を祈るべき対象であることを忘れ、一つの愛玩すべき物体になってしまう気がするからだ。例えば自分が好ましいと感じる外見の人間に対し、それを「格好いい」、「綺麗」、「可愛い」といった感嘆と共に見つめるとき、その人間内面や背景を失った一つの物体となってはいないだろうか。可愛らしい名前を付けてペットの名を呼ぶことは「可愛い」と言いながらペットを呼ぶのと類似で、それはやはりペットを単なる恍惚対象にしてしまわないだろうか。そして名前を呼ぶ行為は常習的に行われるため、徐々に意識の奥底に愛玩するものだという意識が蓄積し、いつしかそれが自明ことなってしまうのではないか。こういう懸念から可愛らしい名を付けることに不快感を感じている。

余談

 ではどのような名前がいいかいくつか具体例を考えてみた。ひとまず「ゲレゲレ」、「ボロンゴ」、「$$(ドルドル)」あたりを挙げたい。これらの名前は愛らしさがなく、異質さを強く感じさせ、結局のところ人間動物が相容れない存在であることを認識させてくれる。

ジャンルにいて思ったこ

 昨今のアニメゲームはいわゆる"オタク"だけではなく、多くの人々に楽しまれるコンテンツになりました。SNS上でもその時々で流行する作品は違います。けれど「共有したい」という気持ちが大きいのか、流行っている作品ほどさらに多くの人が手を伸ばす傾向があり、いわゆる"旬ジャンル"が生まれます。そして、その旬ジャンル作品名をSNS検索にかければ、常にいろいろな人がその感想を呟いたり、二次創作を上げたりしています。私は、それらの感想二次創作への反応を見て、思ったことがあります

あなたSNS上で多くの人に拡散されているものが必ず"正解"であると思い込んではいませんか?」

あなた作品を読みながら、その内容を、メッセージ性を、"自分の頭"で理解しようとしまたか?」

 本来、なんらかの作品に触れて抱く感想はひとりひとりで細かく違います。決して全員が同じ感想を抱くことはあり得ないのです。では、作品にどう向き合えばいいのか、作品をどう受け取ればいいのか。

SNS上にある他の人の意見を参考にする」どうしてもわからない部分があったのならそれもいいでしょう。けれどその前に「作品とよく向き合い、自分の頭で理解しようとする」こと、これをしまたか

 正直言って、旬ジャンルにおいて多くの人に拡散されている感想二次創作は、本当に作品と向き合った上で書かれた(描かれた)ものなのか?と感じるものが多いです。もちろん、その作品にどのくらい熱心に情熱を捧げるかは個人自由です。私のような理解することにこだわり過ぎている人間が"オタク"と呼ばれてしまうのでしょう。けれど、その作品を、キャラクターあなたが「好きだ」と言うのなら。今一度、二次創作ネット上の感想を漁る前に「作品のもの」とよーく向き合ってみてください。

 他でもない"あなた"が作品と向き合ってそこから受け取ったメッセージ。それはあなた経験や考え方からまれた掛け替えのないものです。そしてきっと、同じように真剣作品と向き合った人の中には、貴方が受け取ったメッセージ共感してくれる人が必ずいます。そうした経験がきっともっと作品を好きにさせてくれます

 自分の考え方を持てば、他人と違ったり、多数派意見と食い違ってしまったりすることもあるでしょう。"みんな"と感想を揃える必要はありません。かと言って、自分と違う感想排除する必要もありません。共有することも楽しいですが、考え方の違いから新しい気づきを得ることもきっと楽しいです。

 どうか、今一度、自分の頭で、あなたの考え方で、作品のものと向き合ってみてください。

2020-06-13

anond:20200613003909

何で増田みたいなのって自分絶対正義と思い込めるんだ?

お前の言っていることは一方的な決めつけばかりで、何ひとつ客観的根拠がない

「なぜそれが差別だと言えるのか」については一切説明せず、「とにかく差別から疑問を抱くな」というクソみたいな主張

まあ俺は民主国家人間から、法がトランス女性女性規定するなら認めるけど

そうでない限りは「テメーらが勝手に言ってるだけ」でしかないし、お前らのやってることはローリング自分意見と違うから攻撃するという、およそ不寛容独善的な行いでしかない

あなたは、トランスジェンダーの差別問題について考えたことがありますか? 私は、常にじゃないですけど、結構長い間考えてきた問題です。

いわゆるセクシャルマイノリティと呼ばれる人達が、差別を訴えてきたことは周知の事実です。

わかりやすい例で言えば、保毛尾田保毛男事件がありました。最早あん表現は許されない世の中になっているのですよ。だから批判を浴びました。

差別問題というのは一般的には、過去から未来へと差別が解消されていくという流れです。

黒人問題など言わなくても分かる話ですし、女性問題だってそうです。或いは、ハンセン病差別されたり、障碍者差別されてきました。

日本国憲法にも、趣旨として差別してはいけないと書いてあります

差別人権問題なのです。そして人権というのは近代確立された概念です。現代社会民主主義社会であることが当然なので、人権は何より大事概念なのですよ。

バカにするような言い方で申し訳ないですけど、あなたはそんな事もわからないのでしょうか?

ネットでは、トランスジェンダーの人はトランス様、セクマイ様と呼ばれて今もなお差別が当たり前です。

増田でも、トランスジェンダーの友人が差別に耐えかねて自殺したという話も過去に上がっていました。ホントかどうか知りませんけど。

では何故、ローリングの言っていることが差別になるのか。どうして、猛批判を浴びているのか。元増田中に上げたリンク記事の中にはローリング発言への反応のほとんどが批判だったと書かれていますよね。

ローリング作のハリポタに出演していた人ですらこうです。

エマ・ワトソン、エディ・レッドメインもJ.K.ローリングの反トランスジェンダー発言を批判 | cinemacafe.net

トランスジェンダーの人、あるいはセクシャルマイノリティな人は、自分たちがそうなりたくてなったわけじゃないからなのです。

これは差別される殆ど領域についてそうなのですよ。

黒人等の人種民族、あるいは上で上げたような病気もそうです、そうなりたくてなったわけじゃない、自分自身のアイデンティなのです。

トランスジェンダーの人は、成長するに連れ、生まれた時に言われた自分性別に対して、どうしても拭えない性別違和に気づきます

例えばトランスジェンダー女性は、男として育てられ、男の服を着せられ、学校などでは男の中で過ごすうちに、どうしても自分が他の男とは一緒だとは思えなくなってくるのです。

自分おかしいと思っても、全くこの違和感が拭えることはありません。

そんな話今時なら、全く珍しい話でもなく、聞いたことあるはずです。

どんなに頑張っても、自分が男だとはどうしても思えないのです。

ですから過去病気とされていた時代でも、治療男性認識させ直すことではなく、ホルモン療法や或いは性転換手術などによって認識に一致させる方向で行われてきたくらいなのです。

から、昔から直しようがないと分かっていたことなのです。

しかし2000年代以降、そうした人達トランスと呼ぶようになり、出来る限りそのままで認めようという流れになってきたのです。

別にそのままでいいじゃないか、治す必要などない、と。そこで性自認という考え方を重視するようになってきました。その自認こそが性別であるというわけです。

ところが、一部の人は頑強にこれを認めないのです。

例えば、カナダではとある女性保護施設が、いわゆる生物学女性しか認めないと主張したために、トランスからそれは差別だとして襲撃されたりしています。その後、カナダ政府はトランス女性排除しないように命じています

今すぐ思い出せる象徴的な事例はそれくらいですけど、差別的に思われてきたことは保毛尾田保毛男が昔は容認されていたこから分かるでしょう。

まだまだ、差別解消の途上ですし、そんなに理解されているとは思いません。戸籍上の性別変更だって手術要件は消えていませんし。

からあなたのような人がいても不思議ではありませんが、頭の片隅にでも、そういう差別を言っている人がいるのだなぁくらいには理解してもらえたら幸いです。

ADHDってなんですか

私は「ADHD特性」と言われている多動やら衝動やら不注意やらをビンゴしてる人です 強弱はあるけど特性自体は全部あります

なので締切超過と遅刻忘れ物とはお友達でした ついでに人の話も聞けないし活字も読めません

結果教師からの信頼が地に落ち会う度に小言を言われるようになりました

学校以外でも締切超過で失敗し続けました

そんな自分社会で生きていける未来が見えず鬱になりました

親は引きこもりへの当たりがキツいので何も言い出せずただ保健室登校をして時々学校を休んで無理矢理登校させられてとんでもなく苦しかったです

結局言い出せて精神科行って療養期間に漕ぎ着けたものの何も楽しくなかったし自殺しかけました

自殺しかけた時にその親が「生きてるだけでいい」って言った事と療養中に自分趣味に生きがいを見いだせた事で辛うじて生きてます

でも友達受験して進学してる姿を見るようになりました あとやっぱり生きてるだけでは何にもならない気がしてきました

焦ったので私も高卒認定取って受験勉強して…と考え始めたのですがやって大学入学した所で同じ事の繰り返しをしてしま可能性を考えると鬱気が酷くなりました

でもよくよく考えると私の失敗はADHDが大きい要因である事が殆どだっためそれを治せばいいのでは?と考えました

小さい頃からADHD特性がかなり強かったから多分自分は真性のADHDなんだと思います

と考えて気づきました

私は初診の時にADHDだと自己申告してテストでもADHD判断されたのですが、貰った薬を調べてみたらADHDの薬は一つもありませんでした

ADHDの話ははぐらかされるので言えませんでした

その病院は去年くらいに「もう来なくていいよ」と言われた境に行ってないです

ADHD対応してる病院が少ないとは聞いてたけどここまでとは知らず

であれば他の病院にもないのでは?こんな田舎町に最近発見された病気を扱うところなんてないのでは?と思うと何も信じられなくなりました

何より治療もままならないような病院お金を払おうとすると親が怒ります

行動取れません

ADHD」という存在のものを疑うようになりました

物忘れが激しいのも締切守れないのも毎日遅刻するのも三日坊主なのも世間では一般なのでは?みんな努力解決しているのでは?

違うと言われ続けてるのにそう思わずはいられません

もうどうしたらいいかからなさ過ぎて毎日鬱です 助けてください

どうしたらいいんですか ADHDってなんですか

2020-06-12

僕のチンコデカかった

年寄りの古い時代の話さね。

 

当時は自宅にお風呂なんてまだ恵まれた方で、多くの人は銭湯に通っていた。僕の実家はそんなに貧乏でもなかったけど、小学六年でやっと自宅を改造してお風呂が出来たくらい。だからそれまでは銭湯通いをしていたのだけど、たまにクラス同級生と一緒になることもあった。といったって、顔見知りなだけで、友達でもないから仲良くするわけでもない。誰かいたらあいつ来てるなぁ、位の感覚

で、小学校五年生くらいの頃だったと思う。僕は成長が早くて、身長も背の順番で最後尾なくらいだったし、陰毛だって既にうっすら生えてきていた。これが恥ずかしかった。確か、修学旅行林間学校、通っていた塾の合宿などでも僕は絶対に見られないように一緒に入るお風呂はいつもタオルで隠していた。同様に成長の早かった見られたやつが他にいて、みんなからからかわれているのを知っていたし。でも、僕はバレなかった。

そんなある日、普通に一人で銭湯に行って、普通通り体を洗ったり入浴していたりしていた。まさか、そこにクラスで一番意地の悪いAがいただなんて気づきもしなかった。次の日、学校に行くと、既に噂がばらまかれていて、「あいつさぁ、チンコに毛が生えててさぁ、チンコもでかいんだぜ?」のような話が周りから聞こえてきた。くすくす指を刺されて笑われている感覚。恥ずかしくてたまらなかった。そして、昼休み放課後だったか記憶するけど、とうとう「見せろよ」といじめっ子達に囲まれしまった。

いっき抵抗したのに、羽交い締めにされて、ズボンパンツを下ろされ、僕はさらし者になった。その上、そのズボンパンツを校舎の外に投げ捨てられ、泣きながら、下半身裸のままでそれを取りにいかされたのだ。

でも、いじめられて引き下がるような性格でもなかったので、クラスに戻ってすぐにそいつらのリーダー格に飛びかかって喧嘩になった。ただ、すぐに先生を呼ばれてしまい、どっちが先に殴ったかを問われて、僕は先生に滅茶苦茶怒られた。さらし者にされたのは言わなかった。それを先生に知られるのも恥ずかしかたからだ。それから一週間ほど学校を休んだ。また同じことを言われるのが嫌だったから、逃げたんだけど、どういうわけかそのまま不登校ということにはならなかった。

結局、小学時代自分チンコからかわれたりすることはそれっきり一度もなかった。でも続きがある。

中1か中2くらいにはもう大人サイズのそれも少し大きいくらいにまでなっていた。小学時代事件コンプレックスを持っていたから、自分チンコがでかいことや既に陰毛大人レベルなことは誰にも知られたくないと思っていた。銭湯はいかなくて良くなっていたから知られるチャンスはほぼなかったのだけど、小学時代から通っていた塾の夏冬の合宿だけは違った。馬鹿なクソガキ連中がいて、僕じゃない1人の同様に成長の早かった男子ズボンパンツを脱がせて、何人かで部屋で笑っていたのである。ところがその男子はみんなと一緒に自分も笑っていて、楽しいからかノリで勃起までさせてみんなの爆笑さらっていたのだ。さらには、それを写真まで撮る始末。

僕は同室だったけど、その輪には加わらず、布団に入って寝たふりをしていたのだけど、どういうわけだか、僕のチンコがでかいことを知っているやつがいたのである。その輪の中の誰かが「あいつのと比べてみようぜ。めっちゃデカイらしいし」と言い出したのだ。そいつらの中の1人は不良寸前の悪ガキで、他の男子に嫌がる僕を布団の上に押さえつけさせ、無理やりパンツまで脱がさせられた。実は僕はその悪ガキとめちゃくちゃ仲が悪かった。何が原因かは思い出せないけど、お互いムカつく相手認識していたのは事実だ。だけど僕は、その塾では友達らしい友達はおらず、悪ガキには取り巻きがいっぱいいたのが運の尽き。小学時代のような抵抗不可能だった。そして無理やり勃起させられ、先に脱いで楽しんでいたやつと比較させられ、同様に写真まで撮られたというわけだ。

流石に余りにショックで、僕はその塾にはそれ以降通えなくなって、やめてしまった。その理由を親にも言わなかったから、相当親を悩ませてしまったと思う。

 

こんなことを辺鄙増田で書いてもほとんど読まれもしないと思うけど、世間にはペニスが大きいことが男の自慢になるような風説が流れているように思う。でもそれは少なくとも、僕にとっては全く違うものだったということを言いたかった。それ以降、高校以上になると、見られたところで誰も何も言わなくなったし、当然辱めも受けなくなったけど、たまに「いいの持ってるなぁ羨ましい」などと言われることがあって、やっぱりそれが嫌で酷い目にあったことを何度か思い出したりもしたし、他人に見られるような温浴施設などでは今でもずっとタオルで隠すようにしている。

巨乳コンプレックス漫画話題になっているみたいだけど、男だってあったんだよ、と。

2020-06-08

anond:20200608002258

それは相手狂気を見てるんじゃなくてお前が自身狂気気づきかけてるの

2020-06-07

年収を上げても別にモテないしなんならダメージが入る

最近すごい気づきを得たので是非みんなに共有させてくれ!

一般的モテる男性という条件で高年収という点はよく挙げられていると思う。

私はこれを結構素直に信じていたので、それなりに努力して20代そこそこはあるが男性の平均年収の3倍程度くらいを稼げるようになった。やったーこれで可愛い彼女とお付き合いできるぜ(ごめんちょっと盛りました本当は2倍くらいだと思う)

しかし!!よく考えたら年収の話でアピールする機会などないのだ。初対面で年収の話とかする男がいたらそれはドン引きだろう。

年収あくま結婚のような将来について考える上で考慮される点の一部に過ぎず、しかしそれはまずお付き合いができてからなのだ

お付き合いに至るまでは例えば会話していて楽しいかといった人間性の部分で興味を持ってもらう他なさそうなのだが、これは年収とはあまり関係がなさそうだ。

(確かに年収の人の方がいろいろな経験をしていたり賢かったりと話していて面白い人は多い印象はあるが、高年収の人だからといって会話していて楽しい人ばかりかというとそうではない)

仮に会話していて楽しい人間とお付き合いしているなら、その人が無職であっても結婚したいと思ってくれる人は多そうだ。しかしその逆は少なそうである

年収というパラメタが生きる段階である結婚という段階へ到達するためには前段階であるお付き合いを突破しなくてはならない。しかしこの段階への到達には年収が影響しないのである

故に年収をあげたところで特に意味はなさそうなのである

逆に年収がお付き合いに影響するということであれば、平均年収をそれなりに超えた20代モテないということはつまり年収という下駄を履いているにもかかわらず選んでいただけない商品ということになる。

これはつまり年収を帳消しにするような問題当人にあるということになる。そしてそれが何であるかを考えるのが恐ろしい!

歯磨きをした後で外出て空気吸うと冷たい空気が入ってきていい

今日気づき

pixivで2000ブクマを超えた

絵をちゃんと描くようになって5年、最新の投稿で2000以上のブクマを貰うことができた。もちろんブクマ数がイコール絵の良さというわけではないし、pixivも人が増えたため2000ブクマ程度では数字価値も無いとは思うが、5年前と比べれば格段の進歩だと思うので、備忘録もかねてこの5年の間にしたことを書いていくこととする。

描き始めた当初は右も左もわからず、高校日本史で習った秘伝口授かなんかかと色々悩みもしたし、いろいろと回り道もあった。最近では絵の上手い人が増え、しかも様々な講座や動画が容易にみられるようになったため価値はないかもしれないが、当時の僕と同様右も左もわからず喘いでいる人の参考になれば幸いです。

描き始め当初及びそれ以前

描き始めた年齢は26歳と遅い。尤も高校時代からオタクであったし、落書き程度なら頻繁にしていたため、絵を描けるようになりたいという欲求は以前から強くあった。しか高校時代にintuos4を買ったものの全く使いこなせず挫折したこと大学受験大学生活の諸々で忙殺されたこから自分で描くということを次第に諦めるようになってしまっていた。だが、その後性癖を拗らせた結果自分の趣向に合うイラストが少なすぎることに欲求不満を感じるようになり、友人がAmazonでintuos5がセール中だぞと言ってきたことをきっかけに、再度挑戦することにした。

最初にやったこ

高校時代挫折したのは、intuos4を使いこなせなかった、すなわち思うように線が引けなかったためである。なので、まずはその克服のため、板タブで線を引くことになれることにした。その際最も意識したのは、tablet driver をしっかり設定すること。多くの人にとっては当たり前のことかもしれないが、高校時代の僕はその意識が欠けていたため、ドライバが反応していないのにそのまま描こうとするなどして結果失敗したのである。なのでその轍を踏まないよう、tablet driverには気を付けるようにした。

そのうえで、とにもかくにも線を引くことに慣れるために、下手でも雑でもたくさん絵を描くことにした。絵をたくさん描くにはしかモチベーション必要である。誰にも見せず描き溜めるのも良いが、やはり公開したほうが達成感がある。そこでイラストサイトといえばpixivということで、どんどん投稿していった。この時期はいいね10とかでも評価されると嬉しかった記憶がある。コメントではなくタグで体の構造おかしさなどを指摘するような嫌味な人もいたが、反応があるというのは励みになるものだ。

ただ、そのうち自分イラストpixiv投稿するにはふさわしくないのでは、という感覚が芽生えるようになった。やはりpixivに上げるには塗りまでしっかり終わらせた、完成されたイラストが望ましい気がした(もちろん塗っていなくても素晴らしいイラストはたくさんあるが、力量も無く手間もかけていない自分のような屑がいていいのかという思い)。しか自分計画では塗りは「まだ」である。そこで次に目をつけたのがTwitterだった。twitterならごみのような落書きを上げても流れていくだけだから許される気がした。しかtwitterには tegaki.dt http://www.kannagi.net/TEGAKI/ というツールがある。tegakiはまさに落書きのためのツールであり、しか手ぶれ補正がないので線の練習にはうってつけだ。僕は毎朝起きたらtegakiをし、帰宅したら寝るまでtegakiをするようになった。

この時期は自分の絵の下手さに鈍感であり(雑だけどきちんと仕上げれば結構いけるんじゃね?という傲慢な思い)、描き散らし公開することになんの躊躇もなかった。そしてその増上慢の鼻っ面をさらにつけあがらせるようなできごとも起きた。先ほど自分が再び絵を描こうと思ったきっかけは性癖をこじらせたためと書いたが、そのようなニッチ性癖をしていると、自ずと世間は狭くなるものらしく、なんと界隈の大御所である方にフォロー&コメントしてもらえるようになったのだ。やはり憧れの人から反応されるというのは嬉しさも格別である最近も「以前から見ているけどかなり上達しましたね」「塗りもかなりきれいになった」等など言ってもらえて大変ありがたいかぎりでした。

何事につけ初めのうちは褒められてこそ伸びるものだと思う。「天才は叱って伸ばし、秀才は褒めて伸ばす」のような言葉があるが、友人がこれについて言ったことがまさしく目から鱗だった。曰く、「天才とか秀才とかではなく、初めのうちは指導してもその意味が分からないことが多いので、とにかく褒めてモチベーションを上げることが大切。そうして慣れてきたら自分でも不満点が見つかるようになるので、欠点を指摘する「叱る指導」が有用になる」。全くその通りだと思う。はじめのうちは細かい技術的な指摘をすることに何の意味も無い。自分でも描いたもの違和感を覚えるようになってから、そしてそのことに悩むようになってから欠点の指摘が意味を持つようになるのだ。なので、今思えば恥ずかしい僕の落書きたちに、いろいろと不満もあったろうに褒めてくださったことは本当に感謝しかない。そしてその恩恵に与れたのはニッチ性癖のお陰である。これこそまさに「狭き門より入れ」というやつであろうか。

中期

只管tegakiする毎日を通じて思うように線を引けるようになった(ちなみに一時期滑らないからと板タブの上に紙を置いていたことがあるが、効果のほどはよくわからない)。そこで次はちゃんとしたイラストステップを踏むことにした。多少とも書けるようになるとやはりtegakiだと物足りなくなるのだ。もはやお前は用済みだ。

ちゃんとしたイラストを描くにはちゃんとしたイラストソフトを使うべきである。僕はとりあえずSAIしました(安いから)。その後クリスタも購入したが、諸事情により最近に至るまでろくに使えなかった。SAIの良いところはとにかく動作が軽いことである。糞スペックPCしか持っていない人はこれ一択でしょう。それから線が描きやすいというメリットも良く言われるが、個人的にはあまり差がわからない。

さて、イラストを描く手順には色々とあるが、やはり一番オーソドックスなのはラフ→線画処理→塗りであろう。線画処理はラフの透明度をさげるなどしたものに線を引いていくのが一般的方法だと思う。で、僕はこの工程が一番嫌いである。ラフは描いていて楽しい。塗りも難しいけど力の見せ所な気がする。一方で線画処理は単なる作業に感じてしまう。自動彩色ツールより自動線画ツールのほうが欲しい。面倒なことはやりたくない、どうしよう。

そこで僕は、ラフの段階で線画としてある程度完成したものを描くことにした。ラフラフで無くすれば線画処理とかいう面倒な作業はいらなくなるのだ。そしてそれはtegakiに慣れていればそこまで困難ではないことだった。面倒くさい線画処理をすっ飛ばすことにより、僕はイラストを量産するようになった。そしてこの時期退職し、こどおじのフリーターになった。

現在まで

たくさん描くようになると、次第に自分の絵のダメなところが見えてくるようになった。僕の絵は①構図に迫力がない②微妙バランスおかしかったりする(し、パースがとれていない)③塗りが雑だし別デバイスで見ると変な色をしている。これらのうち③を改善するきっかけは、板タブが壊れたことにより訪れた。板タブの修理にも結構な値段がかかると分かり(新品を買った方がマシ)、いっそのこと液タブを買おうと決めた僕は、当時使っていたPCにおさらばし、新品のPCも買うことにした。上でクリスタをろくに使えなかったと書いたが、その理由は以前のPCメモリが8GBしかなかったためである。(逆に言えばSAIは8GBでも使える。)こどおじになり家のスペースが広くなったこともあり、思い切ってハイスペックデスクトップPCを買った。実は以前のPCはなぜか彩度が低く表示されており、その結果僕の描くイラスト彩度が高すぎる色彩になっていたのだが、新しいPCのおかげでそのおかしさを理解できた。そして他の方の作品もきれいに表示されるようになり、色塗りの際の参考にできるようになった。今でもまだまだ塗りは未熟だが、上手い人の塗りを研究することで多少はマシになったと思う。

で、①と②の欠点は上で述べたラフの描き方のせいだと思う。つまり最初から綺麗な線を引こうとするあまり、細部にばかり注目してしまい、全体を俯瞰できていなかったせいである。そのことに気づいたので、ラフラフで描く、とりわけ最初カラーラフを描くようにした。カラーラフラフの段階で大雑把に色を塗ったものだが、それをすることで背景も含め全体の感覚をつかめるし、構図のおかしさにも気づきやすくなるというメリットがある。そうなると線画が面倒くさいけれど、液タブに変えたことでかなりやりやすくなった。もはや板タブには戻れないというか、液タブだとtegakiもかなり楽になるんですね。板タブでシコシコ描いていた自分馬鹿みたいだ。液タブの不満点は液晶に手垢がつきまくること

そうして描く環境を整えてからブクマ1000超えは普通になり、2000も超えることができました。なので、今の段階で僕が絵を描く際に大事だと思うのは

  1. ハイスペックPCと液タブを買う
  2. 部屋を明るくして画面から離れて描く(絵全体を俯瞰するため。細部にこだわりすぎてると色々嫌気もさしてくるしね)

になります。以上

2020-06-05

ダイソーポーチで財布軽量化してみた

ほぼキャッシュレスにしたので財布を

小さくしたくなった。

肩が凝るので、荷物は極力軽くしたいし。

カード現金少々を最小限持ち歩ける

フラグメントケース探したけど

逆に薄すぎて、無くしそう。

むき出しでカードを持ち歩くのも

スルッと落ちそうだし。

まだ種類も多くなく、気に入ったデザインもなくて。

とりあえずお試しで何かないかダイソー

漁って見つけたのが

星柄のポーチ

持ち手に星のチャームがついて、中に仕訳

ポケットとマチつき。

カード5枚(スキミング防止フィルムケースつき)

お札3枚

小銭7枚

そして

車と家の鍵(防災ホイッスルつき)

色付きリップクリーム

まで余裕で収納

全部バラバラに入れてたもの

大きさは今まで使ってたミニ財布と同じ

大きさ&厚みで一つに。

これとスマホさえあれば、最低限が叶う!

読みかけの本、水筒エコバックなどは

忘れても大丈夫だし、ポーチスマホだけ

なら入れ忘れもないはず。

家族に見せたら「コ○バース?」って聞いてたか

そこまで安っぽくない?

因みに、美食探偵ドラマヒロインいちごちゃん

これと同じ財布持ってたんだけど、見間違い

かな?

一瞬だったけど、デザインが全く同じで

驚いた。

ダイソーファンなら気づきそうなのに

指摘する人居なくて悲しい。

話がそれたけど、総じてコスパが秀逸。

ダイソーすごいわ。

コロナの由来

創業者である内田鐵衛は、在学していた東京電機学校現在東京電機大学)で実験中によく見たコロナ放電の発光色と、石油コンロの研究中に暗がりで見つめたコンロの青い炎が似ていることに気づきました。これに太陽の周囲に現れるコロナイメージを重ね合わせ、石油燃焼機器象徴的に表現し、かつ覚えやすく親しみやすブランド名として「コロナ」と名付けました。

コロナ」の商標登録1935年

https://www.corona.co.jp/company/about/post-1.html



よもや90年近く経ってから、こんな風評被害さらされるとは内田鐵衛も予想していなかっただろうね。

2020-06-04

こばるさん(@sha_k_br)のブログを読んでの感想

私は、ただの通りすがりである

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今までは、ただ荒れている海を時たま平和なところから眺めていただけだった。

そして、たまたま見かけた漂流物に対して思ったことを気まぐれに書いて見ようと思った。

ここから書くことは、現段階書いている私には公開するかもわからない文章であり、該当のブログ記事に対して思ったことを気ままに書くだけなので何かを伝えるというつもりは一切ない。自分のなかのことを整理しようと思っただけのことで、こばるさんが何を思おうと私は興味はないし、これを読めというつもりもない。

発端はそのブログであっても、おそらくは私の思ったことまとめに終始すると思われるからである

以上のことを踏まえて読むかを決めてもらいたい。

これは自己保身という人もいるかもしれないが、私にそのつもりはない。

匿名で、なんの影響を被ることもない場所で、ただ書き散らかす文章から一切の重みはないということを読んだ人皆に伝えるという意図の、私の責任感の表れと取ってほしい。この文章はただの電子ごみだ。

さて、まず該当ブログurlを貼らせてもらう。

ヌメさんへのネットリンチに加担し続けている人たちへ

私は、このブログ題名名前があがっている方のCFにまつわる問題を時たま眺めていた。最近出来事などの一連も一通り見ていたつもりではある。

私には、一切法律的知識CF知識はないため、収支報告を求めるものに、「まあそりゃあ疑念が湧いたら事実確認をしたくなるよね」程度のことを思うことしかできない。これは、お使いに行かせた子供お金をちょろまかしていないか確認したい、というような感覚と似ているのでCF適用できるのかは私には判断はつかない。

私はここで、この方の問題について白黒をつけたことを書くつもりはない。あくまで、こばるさんのブログについて思ったことを書くというつもりだからだ。

このブログ記事は「CFした方がネットリンチをされている」という前提で書かれている。(題名からしてそう)

なので私がそのことについて書くということは、その前提に対して物申すということになってしまう。

そうなると、私の考えたいことと外れていくと思うのでとりあえずそこは保留にしておく。

以下、本文を引用しながら書いていく。

ヌメさんへのネットリンチに加担し続けている人たちへ。

あなたたちは愚かです。

優しさに賢さが追いついていない人、賢さに優しさが追いついていない人、その両方が見受けられます

優しさに賢さが追いついていない人は、大局を見る能力がありません。「優しい」という自己イメージに捉われて、その表面的な振る舞いからはみ出す勇気がないだけの愚か者です。

賢さに優しさが追いついていない人は、あなたが学んできた知識を、愛情を持って世界還元しないところを見ますと、やはり愚かだと思います

あなたのための寛容な世界づくりを、自ら放棄し続けているあなた方は、全く賢くありません。

声を上げる人の、精神高潔さを知りなさい。

そしてあなた自身の恥を知り、愛を知りなさい。


正直言うと、私はこの「優しさ」や「賢さ」という言葉が何を指しているのかがわからないため、ここは飛ばす。

ただ、「寛容な世界づくり」という言葉から弱者にやさしい世界をということなのだろうかということを何となく推察するに、この人々は強者に当たるのだろう。そのあとの、声を上げる、などは最近話題トーンポリシングもろといった感じである。これ以降のところで語気語調で判断するな、といった内容のことが書いてあることだし。

トーンポリシングに関しては、議論の場は対等な人同士が様々なものを用いて議論をするという理想があるが、そこにも権力関係があるのだということを自覚しよう、といったものであると私は認識している。(何かで読んだ、何だっただろう…)

恥を知り愛を知る、は、まあちょっとよくわからない。思いやりだろうか。悔い改めるとかだろうか。

あなたは愚かです。しかあなたの愚かさは許されます

5年後、10年後に、あなた自分自身の行いを恥じたとき過去あなたの行いを誰も責めてはいけません。

もちろん、今あなたがそれを行なっているならば、咎められるでしょう。法に基づき裁かれることもあるでしょう。

あなた積極的または消極的加害行為が、今、あなたからの加害を受けている人の心の安寧よりも、優先して認められることはありません。

しかし、あなたの今の幼稚さは許されます

あなたはかわいそうです。然るべき手段で裁かれた後、あなたあなた自身からも許されることを願っています


これはまあ、おおむね一般的な考え方であるように思われる。罪は裁かれ償いをしたら一種チャラである。あとは良心問題

まずあなたは、あなたが何に依らなくても、あなた自身が当たり前に存在してよいのだということを、深く理解してください。

これはまず一番最初に、あなたの心の底の底に置いておくべきあなた自己肯定感です。

あなたが今それを得られていないなら、とても悲しく、残念なことです。

自分自身の心を明かし、賛同でなくとも肯定されることが、あなた世界を信頼できる根拠になるということを、ぜひ知ってほしいと思います

自分自身の心を明かす勇気を、あなたの愛する、信頼できる人に向けてください。

その信頼が報われたときあなたあなたのための自己肯定感を得られるはずです。

その経験を得たとき、その自己肯定感や誇りが、他者にとっても同じ、誰にも脅かされてはならないものだということを、想像できる人になってください。


ここはいささか唐突に思われた。なぜここで自己肯定感の話なのだろうと率直に思った。

自己肯定感がないからこそ、曰く「愚か」な行為をしているという考えであるのかと推察するが、「自分自身の心を明かし、賛同でなくとも肯定されることが、あなた世界を信頼できる根拠になる」という点では、賛同/肯定をされた時点でその賛同/肯定されたものが、結論として善であろうと悪であろうとその内容はかまわないように受け取られる。

それとも、「愚か」なことであってもその自己肯定感が生まれたらばそれ以降回心できるはずといったようなことなのだろうか、私には少々やはり呑み込めない。

ある層に受けることを言ってしまったらその承認におぼれてしまい、そこから抜け出せないこともあるのではないか、等々考えてしまう。

まあやっぱりよくわからない。

また、「中立」の立場をとり、自分を冷静だと思っている方へ。

あなたが行動をしない限り、あなたは無敵です。

あなたが何かを決めない限り、あなたは誰にもジャッジされることはありません。

あなたは、いつでも世情に合わせて、怒られないための「正解」を選ぶことができます

あなた卑怯です。安全場所で、物事を見定めているつもりになっている自分自身のことを恥じてください。

あなた対立する勇気を持っていないのなら、あなたは有力な参謀にはなり得ません。

そのことを理解し、自身のことを省みてください。


私としてはここが一番の山場であった。ここで、こばるさんは他者に対して「対立する勇気」求めている。

私はここが一番引っかかった。

意見を表明する勇気」ではなく、「対立する勇気」であり、「中立」、決めかねるという一つの判断否定していると思うからだ。

以下は、浅い知識によるものから最初に書いたことを思い返して、あまり真に受けないで読んでもらいたい。

私は、この言葉を読んだとき、エポケーという言葉を思い出した。

エポケーは、判断停止や判断中止とも言われる。これは、懐疑的もの見方として生まれもので、常識などを棚上げし、事実を見るというようなことである。「これまではそうだった、だからこれからも違いない」ここに対して待ったをかけるようなものと私は習った記憶がある。思考停止とも違うということも。

判断を停止するということは、結論を下すことを中止するということで、こうだった場合にどうなるかといった想定をしてその場合結論としてはどうなるか、と考えることをやめるわけではない。

判断停止をし、意見表明をしないということは確かに叩かれるものがないという点で「無敵」かもしれない。

しかし、むやみに敵を作るような行為は慎んだほうがよいのではないだろうか。対話可能と思えないのならば、口をつぐむということも選択肢に入って来るのではないだろうか。そこで人は絶対意見を言わねばならないというのは酷であると私は思う。

立場を明らかに意見を表明できないのは、冷笑主義でもない限りそれ相応の判断停止の理由があるのではないか

または、明らかにするほどのことではないという一種の”判断”でもあるだろう。

ここをおして判断を迫るのならそれ相応の論拠を明確に提示していく必要があるだろう。

また、全貌を知らないままに下した判断には危険性があるのではないかと言いたい。

ヨクシラという言葉があるが、ヨクシラで首を突っ込み盲目的に突っ走るというのは恐ろしいことである。むやみやたらに判断を求めたらいいというものではないと考える。

ただ、これはヨクシラで判断を下し動いている人々に対して判断を下し行動することをやめろといいたいのではなく、その判断に基づいて物事を見ることに固執しかねない、という危険性を留意しておくべきではないかという意味であり、柔軟性があるのなら、意見を表明するという言語化を通して自身の考えをまとめることができ、それを叩き台にしていろいろの人との対話をすることで自身の知見を深めることができるため、それ自体をすべて悪いとは思わない。

これはヨクシラでない人であっても同様のことがいえると思っている。固執することは恐ろしいことである

そして、これらの話はどちらか、いずれか、なんらかの想定されるコミュニティに与するという話ではないと思う。

私は、「対立する勇気」という言い方にどうしても、二項対立ですべてを説明しようとする姿勢が見えてならない。

人々はそうそ一枚岩ではないだろう。学校クラスの分裂ですら、賛成反対と大きく分けてみた中をのぞけば、容易にその中の分裂が見える。

「有力な参謀」という言い方も、ある組織構造を持った何かを想定しているように思える。

ここ以降は、声を上げるリスクについての説明などで、黒人男性黒人若者に対し言っていた言葉彷彿とさせるものだった。

以降に関しては特に思うところはない。しいて言うなら、「数は力」という言葉と、黒人差別意識させること自体だろうか。(全体な気がしてきた)

「数は力」に関しては正当性があると思ってのこの書き方なのかもしれないが、それはマイノリティマジョリティの流動にしかならないのではと思ってしまう。

数は結果であることが望ましいのではと、素朴に思う。まあ、綺麗事なのはわかる。正当に数を得られるように頑張ってほしいものだ。

政治について学んでおらず、社会学に関しても知見が浅いので、これは当たらないかもしれない。(田中角栄しかでてこない程度の知識である。)

黒人差別意識させる書き方をしてることが引っかかるのは、これは黒人差別と同じものではないからだ。

ここからは本格的に蛇足であるが、考えたので残しておく。

ネットリンチは悪いものだ。

差別だって犯罪だってそう名のつくものは悪いものだ。だってリンチ差別犯罪からネットリンチ批判することに是非は問われないだろう。

ただ、ネットリンチというレッテルを誰か他者に貼ることはどうだろうか。

私は、この悪者としてのレッテル他者に貼ることが端的に言って怖い。

これを叩かれるのが怖いということだとは勘違いはして欲しくない。

ここでは、叩かれることは問題ではない、他者レッテルを貼ることが問題なのだ

それをするのは、覚悟必要だ。

その時周りなどは関係ない。私とその人との問題しかない。間違っていた場合のことを考え、極力それをしないように努めなければならないと私は考える。気分としては推定無罪、のような感じだ。自分責任を取れないと思うから責任を持って私はどちらに加担することもしない。

私は当事者でもその近くでもないからだ。

誰かが言ってるから、そんなことで自分の行動を決めてはならない。

大勢迎合することも好ましくない。責任に欠ける。

こばるさんのこのブログ記事は、前提がもう、ネットリンチというレッテルを誰かに貼っている。

想定されているだろう個別具体的な人々はいるのだろうが明確にはされていないから、私にはわからない。ネットリンチは無くさねばならない。

しかに当該の方にネットリンチと(法的、公的に)されることをしている人はいるのかもしれない。

それならば、その人は然るべき罰を受けるべきだ。

私もそのネットリンチをしている人々に対してのみに当てられたものだったら特に何も言おうとは思わなかった。

しかしこの記事では、ネットリンチとこばるさんが思うものについて、ネットリンチだと断定しない人間(中立)への批判がされていた。

私はそこにとても引っかかりこんな長文乱文を迷いながら書いている。

繰り返しになるが、ネットリンチだと判断するのは、ネットリンチ批判するその個人がしなければならないと私は思う。少なくとも、公的な場で決まりきっていないなら、そうなる。

それはしかし、「どう見ても正しさの欠片もないもの」と「正しいけど程度として問題があるように思えること」など、いろいろなものがあるのではないだろうか。私刑は正しいことではない。

少なくとも私は、ネットリンチというレッテルは、どこまでいったら貼って良いものなのかの知識はない。

こばるさんはそのような発言をして批判をするのなら、せめて、明確にネットリンチがなされていると自分が思う根拠を示す必要があったのではないかと思う。

このブログは、黒人差別問題彷彿とさせる。

しかし、黒人差別と同等なほどに、誰がみても、正当性を持って、ネットリンチと言えるものなのだろうか。こばるさんがネットリンチだと思っているものは。

ネットリンチというレッテルを使わずに、自分が目に余ると思う行為をしてる人たちについての問題提起をするということだって、一考の余地はなかっただろうか。ネットリンチとされなくても、人道的に嗜められるべき行為などはある。

私は少なくとも、一連を見てて何に義があるかというのは、簡単に言えるものではないと思っている。

いろいろなひとがいろいろなところでいろいろのスタンスで話してるのを見かけるからだ。

そこまで注視してない私ですら様々な意見を目にするのだからもっと様々な人がいるだろう。

私が見てる中にも、見てない中にも、ネットリンチに当たる行為があるのかもしれない。

ただ、私は誰かから困っていると言われたら、然るべき対応を、としか言えない。

手に余ることをするのは、無責任だ。

デマの流布をしないことが、一番私としては誠実な態度だと考える。

こばるさんの想定には私のような問題を外部から眺めている人間などが入ってないのかもしれない。ただ、この書き方はあまりにも広範な人を巻き込んでの批判ではないかと思う。

声を上げることそのもの正義、ではないと私は思う。

後半の論調的にはネットリンチ気づきつつ口をつぐんでいるサイレントマジョリティーを想定されているようにも感じられたし、基本的にこのブログ記事は、正義は我にあり、と信じて書かれているように思われる。

なので、正当な判断をしたらきっとこばるさんの側につくとこばるさんは信じているのだろう。

個人的には、正義は我にありと信じてやまない、揺らがない態度というのは、少々怖いものだと思う。

たとえ考えが変わらなく思えても、問い続けることは大事ではないだろうか。

乱文なので、また編集をすると思います。ここまで読んだ人がいたら、お疲れ様です。文意通らないとこあるかもだけど許してちょんまげです。

頓珍漢なこと書いている気もするけど、暫定的に。

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