「ジンクスは傍観者の論理」は、一般にはまだ知られていないけれど、私の中で有名な格言のひとつ。
ジンクスとなる事象自体は、「カツ丼」と「勝つ」を掛けるような言葉遊びなど、考えてみれば勝負に直接繋がらない非論理的なものばかりだが、
一方でそのジンクスが形成される過程には、ちゃんとした「論理」がある。
そしてそれは、その勝負に直接関わることの無い「傍観者」が生み出す論理なのだ。
その意味では、非論理的であるはずのジンクスは、まさに論理的に形成されたものなのだ。
まず、当たり前のことだが、勝負というものには、その勝負に関わる「当事者」と、
その周りに多数の「傍観者」が居ることに注意する。
スポーツではプレイヤーとサポーターたち、受験では受験生とその親、といったケースがわかりやすいだろう。
勝負がだんだんと近づくにつれ、傍観者は当事者と同様、来るべき勝負に対してだんだんと真剣になるわけだが、勝負にあたってあることに気づく。
すなわち、傍観者はいくら当事者のことを想っていても、その勝負に直接介在できないことに気づき、苦しむのだ。
まあ、端から見れば至極当たり前のことなんだが、真剣になるほど自分も勝負に乗った気分になってしまうというのは、
サポーターを見ても、受験生の親を見ても、その興奮した様子を見るに十分有り得る事例だろう。
だから、傍観者はいつか、その当事者とのギャップに苦しむことになるのだ。
先の例で言えば、サポーターはプレイヤーのプレイスタイルに、親は受験生の勉強方法に、あれこれ口を出してしまう。
なので、傍観者は十分なアドバイスができず、それは大きく的外れにもなる(アドバイス罪!)。
そのため、先に挙げた傍観者の苦しみは、その勝負に直接関わるアドバイスをすることでは一切解決しない。
どう考えても、当事者の方がその知見は豊富なため、傍観者のアドバイスは役立ちも感謝さえもされないからだ。
それゆえ、傍観者のアドバイスはその勝負本体とは全く異なるフィールドに持ち込まれることになる。
「ジンクス」というのは、まさにこの場面で発生する。
すなわち、勝負本体とは全く異なるフィールドで、勝負にコミットするようなアドバイスを目指すのが、「ジンクス」の在り方なのである。
そもそも、勝負本体とフィールドが異なる以上、そのアドバイスは勝負に真に必要なものではあり得ない。
「落ちる」「滑る」という言葉を避けて受験に滑らないようにする、みたいなくだらない言葉遊びに頼るしかない。
以上をまとめれば、「ジンクス」は、傍観者が当事者に何もしてあげられない苦しみから、言葉遊びなりに頼ることで生まれてきたものだと言える。
だからこそ、その苦しみを解消しようとする心の働きとして、「ジンクス」というものは傍観者にとってまさに「論理的」なのである。
言葉遊びに頼ることで、傍観者の苦しみは論理的に昇華されるのである。
さらに、勝負の当事者も「ジンクス」による恩恵を得ることができる。
それは、その迷信でしかないとわかっている「ジンクス」に従っておくことで、傍観者の親切心を満足させて、
代わりに、傍観者からの余計なアドバイス(プレイスタイルだの勉強方法だの)を一切聞かなくて済むからだ。
つまり、傍観者の余計な心配を「ジンクス」という無駄な方向に向けておくことで、当事者は肝心の勝負に雑音無く集中することができる。
それこそ、お遊びでしかない「ジンクス」が、勝負に真剣に取り組まなくてはいけない当事者に好まれる本当の理由であろう。
だから、その「ジンクス」の中身が非論理的かどうかの議論などは全く的外れなのだ。
そんなことは当事者が一番よく知っている。
非論理性など心の底からどうでもよく、傍観者の親切心に対するデコイとして発現すれば、「ジンクス」の機能として十分なのである。
その点では、これまた、当事者にとっても「ジンクス」に従うことは論理的なのであり、
「ジンクス」という傍観者の論理は、こうしてめでたく、当事者の役立つものになれた。
まあ逆に言えば、この傍観者と当事者との共犯関係こそ、言葉遊びでしかない「ジンクス」を今の時代にものさばらせている理由とも言えよう。
私の中では有名 が気になって二行目以降読む気が起きない
他人のアドバイス聞きたくないからゲン担ぎに乗っかっておくわ!とか ゲン担ぎ聞いといたらうざいアドバイス聞かなくてよくなってラッキー! みたいな人見たことない