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今までは、ただ荒れている海を時たま平和なところから眺めていただけだった。
そして、たまたま見かけた漂流物に対して思ったことを気まぐれに書いて見ようと思った。
ここから書くことは、現段階書いている私には公開するかもわからない文章であり、該当のブログ記事に対して思ったことを気ままに書くだけなので何かを伝えるというつもりは一切ない。自分のなかのことを整理しようと思っただけのことで、こばるさんが何を思おうと私は興味はないし、これを読めというつもりもない。
発端はそのブログであっても、おそらくは私の思ったことまとめに終始すると思われるからである。
以上のことを踏まえて読むかを決めてもらいたい。
これは自己保身という人もいるかもしれないが、私にそのつもりはない。
匿名で、なんの影響を被ることもない場所で、ただ書き散らかす文章だから一切の重みはないということを読んだ人皆に伝えるという意図の、私の責任感の表れと取ってほしい。この文章はただの電子ごみだ。
私は、このブログの題名に名前があがっている方のCFにまつわる問題を時たま眺めていた。最近の出来事などの一連も一通り見ていたつもりではある。
私には、一切法律的知識、CFの知識はないため、収支報告を求めるものに、「まあそりゃあ疑念が湧いたら事実確認をしたくなるよね」程度のことを思うことしかできない。これは、お使いに行かせた子供がお金をちょろまかしていないか確認したい、というような感覚と似ているのでCFに適用できるのかは私には判断はつかない。
私はここで、この方の問題について白黒をつけたことを書くつもりはない。あくまで、こばるさんのブログについて思ったことを書くというつもりだからだ。
このブログ記事は「CFした方がネットリンチをされている」という前提で書かれている。(題名からしてそう)
なので私がそのことについて書くということは、その前提に対して物申すということになってしまう。
そうなると、私の考えたいことと外れていくと思うのでとりあえずそこは保留にしておく。
以下、本文を引用しながら書いていく。
ヌメさんへのネットリンチに加担し続けている人たちへ。
あなたたちは愚かです。
優しさに賢さが追いついていない人、賢さに優しさが追いついていない人、その両方が見受けられます。
優しさに賢さが追いついていない人は、大局を見る能力がありません。「優しい」という自己イメージに捉われて、その表面的な振る舞いからはみ出す勇気がないだけの愚か者です。
賢さに優しさが追いついていない人は、あなたが学んできた知識を、愛情を持って世界に還元しないところを見ますと、やはり愚かだと思います。
正直言うと、私はこの「優しさ」や「賢さ」という言葉が何を指しているのかがわからないため、ここは飛ばす。
ただ、「寛容な世界づくり」という言葉から、弱者にやさしい世界をということなのだろうかということを何となく推察するに、この人々は強者に当たるのだろう。そのあとの、声を上げる、などは最近話題のトーンポリシングもろといった感じである。これ以降のところで語気語調で判断するな、といった内容のことが書いてあることだし。
トーンポリシングに関しては、議論の場は対等な人同士が様々なものを用いて議論をするという理想があるが、そこにも権力関係があるのだということを自覚しよう、といったものであると私は認識している。(何かで読んだ、何だっただろう…)
恥を知り愛を知る、は、まあちょっとよくわからない。思いやりだろうか。悔い改めるとかだろうか。
5年後、10年後に、あなたが自分自身の行いを恥じたとき、過去のあなたの行いを誰も責めてはいけません。
もちろん、今あなたがそれを行なっているならば、咎められるでしょう。法に基づき裁かれることもあるでしょう。
あなたの積極的または消極的な加害行為が、今、あなたからの加害を受けている人の心の安寧よりも、優先して認められることはありません。
これはまあ、おおむね一般的な考え方であるように思われる。罪は裁かれ償いをしたら一種チャラである。あとは良心の問題。
まずあなたは、あなたが何に依らなくても、あなた自身が当たり前に存在してよいのだということを、深く理解してください。
これはまず一番最初に、あなたの心の底の底に置いておくべきあなたの自己肯定感です。
あなたが今それを得られていないなら、とても悲しく、残念なことです。
自分自身の心を明かし、賛同でなくとも肯定されることが、あなたが世界を信頼できる根拠になるということを、ぜひ知ってほしいと思います。
自分自身の心を明かす勇気を、あなたの愛する、信頼できる人に向けてください。
その信頼が報われたとき、あなたはあなたのための自己肯定感を得られるはずです。
その経験を得たとき、その自己肯定感や誇りが、他者にとっても同じ、誰にも脅かされてはならないものだということを、想像できる人になってください。
ここはいささか唐突に思われた。なぜここで自己肯定感の話なのだろうと率直に思った。
自己肯定感がないからこそ、曰く「愚か」な行為をしているという考えであるのかと推察するが、「自分自身の心を明かし、賛同でなくとも肯定されることが、あなたが世界を信頼できる根拠になる」という点では、賛同/肯定をされた時点でその賛同/肯定されたものが、結論として善であろうと悪であろうとその内容はかまわないように受け取られる。
それとも、「愚か」なことであってもその自己肯定感が生まれたらばそれ以降回心できるはずといったようなことなのだろうか、私には少々やはり呑み込めない。
ある層に受けることを言ってしまったらその承認におぼれてしまい、そこから抜け出せないこともあるのではないか、等々考えてしまう。
まあやっぱりよくわからない。
あなたが何かを決めない限り、あなたは誰にもジャッジされることはありません。
あなたは、いつでも世情に合わせて、怒られないための「正解」を選ぶことができます。
あなたは卑怯です。安全な場所で、物事を見定めているつもりになっている自分自身のことを恥じてください。
私としてはここが一番の山場であった。ここで、こばるさんは他者に対して「対立する勇気」求めている。
私はここが一番引っかかった。
「意見を表明する勇気」ではなく、「対立する勇気」であり、「中立」、決めかねるという一つの判断を否定していると思うからだ。
以下は、浅い知識によるものだから、最初に書いたことを思い返して、あまり真に受けないで読んでもらいたい。
私は、この言葉を読んだとき、エポケーという言葉を思い出した。
エポケーは、判断停止や判断中止とも言われる。これは、懐疑的なものの見方として生まれたもので、常識などを棚上げし、事実を見るというようなことである。「これまではそうだった、だからこれからも違いない」ここに対して待ったをかけるようなものと私は習った記憶がある。思考停止とも違うということも。
判断を停止するということは、結論を下すことを中止するということで、こうだった場合にどうなるかといった想定をしてその場合の結論としてはどうなるか、と考えることをやめるわけではない。
判断停止をし、意見表明をしないということは確かに叩かれるものがないという点で「無敵」かもしれない。
しかし、むやみに敵を作るような行為は慎んだほうがよいのではないだろうか。対話が可能と思えないのならば、口をつぐむということも選択肢に入って来るのではないだろうか。そこで人は絶対に意見を言わねばならないというのは酷であると私は思う。
立場を明らかに、意見を表明できないのは、冷笑主義でもない限りそれ相応の判断停止の理由があるのではないか。
または、明らかにするほどのことではないという一種の”判断”でもあるだろう。
ここをおして判断を迫るのならそれ相応の論拠を明確に提示していく必要があるだろう。
また、全貌を知らないままに下した判断には危険性があるのではないかと言いたい。
ヨクシラという言葉があるが、ヨクシラで首を突っ込み盲目的に突っ走るというのは恐ろしいことである。むやみやたらに判断を求めたらいいというものではないと考える。
ただ、これはヨクシラで判断を下し動いている人々に対して判断を下し行動することをやめろといいたいのではなく、その判断に基づいて物事を見ることに固執しかねない、という危険性を留意しておくべきではないかという意味であり、柔軟性があるのなら、意見を表明するという言語化を通して自身の考えをまとめることができ、それを叩き台にしていろいろの人との対話をすることで自身の知見を深めることができるため、それ自体をすべて悪いとは思わない。
これはヨクシラでない人であっても同様のことがいえると思っている。固執することは恐ろしいことである。
そして、これらの話はどちらか、いずれか、なんらかの想定されるコミュニティに与するという話ではないと思う。
私は、「対立する勇気」という言い方にどうしても、二項対立ですべてを説明しようとする姿勢が見えてならない。
人々はそうそう一枚岩ではないだろう。学校のクラスの分裂ですら、賛成反対と大きく分けてみた中をのぞけば、容易にその中の分裂が見える。
「有力な参謀」という言い方も、ある組織構造を持った何かを想定しているように思える。
ここ以降は、声を上げるリスクについての説明などで、黒人の男性が黒人の若者に対し言っていた言葉を彷彿とさせるものだった。
以降に関しては特に思うところはない。しいて言うなら、「数は力」という言葉と、黒人差別を意識させること自体だろうか。(全体な気がしてきた)
「数は力」に関しては正当性があると思ってのこの書き方なのかもしれないが、それはマイノリティマジョリティの流動にしかならないのではと思ってしまう。
数は結果であることが望ましいのではと、素朴に思う。まあ、綺麗事なのはわかる。正当に数を得られるように頑張ってほしいものだ。
政治について学んでおらず、社会学に関しても知見が浅いので、これは当たらないかもしれない。(田中角栄しかでてこない程度の知識である。)
黒人差別を意識させる書き方をしてることが引っかかるのは、これは黒人差別と同じものではないからだ。
差別だって犯罪だってそう名のつくものは悪いものだ。だって、リンチで差別で犯罪だから。ネットリンチを批判することに是非は問われないだろう。
ただ、ネットリンチというレッテルを誰か他者に貼ることはどうだろうか。
私は、この悪者としてのレッテルを他者に貼ることが端的に言って怖い。
これを叩かれるのが怖いということだとは勘違いはして欲しくない。
ここでは、叩かれることは問題ではない、他者にレッテルを貼ることが問題なのだ。
その時周りなどは関係ない。私とその人との問題でしかない。間違っていた場合のことを考え、極力それをしないように努めなければならないと私は考える。気分としては推定無罪、のような感じだ。自分が責任を取れないと思うから、責任を持って私はどちらに加担することもしない。
誰かが言ってるから、そんなことで自分の行動を決めてはならない。
こばるさんのこのブログ記事は、前提がもう、ネットリンチというレッテルを誰かに貼っている。
想定されているだろう個別具体的な人々はいるのだろうが明確にはされていないから、私にはわからない。ネットリンチは無くさねばならない。
たしかに当該の方にネットリンチと(法的、公的に)されることをしている人はいるのかもしれない。
それならば、その人は然るべき罰を受けるべきだ。
私もそのネットリンチをしている人々に対してのみに当てられたものだったら特に何も言おうとは思わなかった。
しかしこの記事では、ネットリンチとこばるさんが思うものについて、ネットリンチだと断定しない人間(中立)への批判がされていた。
私はそこにとても引っかかりこんな長文乱文を迷いながら書いている。
繰り返しになるが、ネットリンチだと判断するのは、ネットリンチを批判するその個人がしなければならないと私は思う。少なくとも、公的な場で決まりきっていないなら、そうなる。
それはしかし、「どう見ても正しさの欠片もないもの」と「正しいけど程度として問題があるように思えること」など、いろいろなものがあるのではないだろうか。私刑は正しいことではない。
少なくとも私は、ネットリンチというレッテルは、どこまでいったら貼って良いものなのかの知識はない。
こばるさんはそのような発言をして批判をするのなら、せめて、明確にネットリンチがなされていると自分が思う根拠を示す必要があったのではないかと思う。
しかし、黒人差別と同等なほどに、誰がみても、正当性を持って、ネットリンチと言えるものなのだろうか。こばるさんがネットリンチだと思っているものは。
ネットリンチというレッテルを使わずに、自分が目に余ると思う行為をしてる人たちについての問題提起をするということだって、一考の余地はなかっただろうか。ネットリンチとされなくても、人道的に嗜められるべき行為などはある。
私は少なくとも、一連を見てて何に義があるかというのは、簡単に言えるものではないと思っている。
いろいろなひとがいろいろなところでいろいろのスタンスで話してるのを見かけるからだ。
そこまで注視してない私ですら様々な意見を目にするのだから、もっと様々な人がいるだろう。
私が見てる中にも、見てない中にも、ネットリンチに当たる行為があるのかもしれない。
ただ、私は誰かから困っていると言われたら、然るべき対応を、としか言えない。
手に余ることをするのは、無責任だ。
デマの流布をしないことが、一番私としては誠実な態度だと考える。
こばるさんの想定には私のような問題を外部から眺めている人間などが入ってないのかもしれない。ただ、この書き方はあまりにも広範な人を巻き込んでの批判ではないかと思う。
後半の論調的にはネットリンチに気づきつつ口をつぐんでいるサイレントマジョリティーを想定されているようにも感じられたし、基本的にこのブログ記事は、正義は我にあり、と信じて書かれているように思われる。
なので、正当な判断をしたらきっとこばるさんの側につくとこばるさんは信じているのだろう。
個人的には、正義は我にありと信じてやまない、揺らがない態度というのは、少々怖いものだと思う。
たとえ考えが変わらなく思えても、問い続けることは大事ではないだろうか。
乱文なので、また編集をすると思います。ここまで読んだ人がいたら、お疲れ様です。文意通らないとこあるかもだけど許してちょんまげです。
頓珍漢なこと書いている気もするけど、暫定的に。