はてなキーワード: 睡眠導入剤とは
小学生の頃よく吐いてしまい、親に迎えに来てもらうことなんて当たり前で、点滴を打った回数も覚えきれないほどだった。
中学生の頃に過敏性腸症候群で何時も無自覚にオナラをしてしまい、クラスメイトに遠巻きにされた。ファブリーズをかけられたこともある。
緊張するとお腹が痛くなり、運動神経がない(バレーのレシーブもできないレベルで)から体育が憂鬱で緊張するものになって、結果お腹が痛くなる。見学になったり保健室で休んだり。体育の先生には嫌われていたと思う。
3年生になると受験のストレスで体調を崩してしまった。自律神経がおかしくなった。3学期にはほぼ毎日早退。過呼吸をよく起こし、授業も受けられず先生には心配された。数少ない友達にも焦りから辛辣にあたってしまい、遊びに誘われることもなくなった。
受験は倍率2倍の高校に入学でき、さて新生活だと意気込んでいたけれど、膨大な課題につき寝るのは12時、7時からの朝学ための5時起き、満員電車のストレスのコンボで5月に意識を失ってしまった。救急車で運ばれ、一体何が原因なのかと色々質問されたが結局はなにもわからなかった。親に心療内科に連れて行ってもらったけど、何もわからず。その1年はただ眠って過ごした。次の年になったら復学できるように祈ることしかできなかった。
結果から言うと、復学はできなかった。それどころか体調はもっと悪化した。体がそわそわと落ち着かず、ずっと吐いていたし、海にいけと何度も何度も幻聴が聞こえた。行ったけど何もなかったが。
そして1番最悪だったのは夜中に外に出ることだった。記憶にはないけれど、親によると雨の日の深夜2時に大きな通りの1歩手前でぼうと立っていたらしい。もしかしたら車に轢かれていたのかもしれないと思うと今でもぞっとする。
これはさすがにおかしいと心療内科の先生に相談、即日保護入院が決まった。一応と頭のレントゲンを撮って、肉体的な病気ではないと診断される。
最初はずっとトイレで吐いて、歩き回らないと足が死んでしまいそうで、心臓が嫌に跳ねていた。落ち着きがなく、貰えないとは分かっていたけれど(一日2回4時間あけての薬だから)ナースステーションで何度も薬を強請った。
あとご飯が美味しくない。高齢者が多いから納得ではあるのだが、若い私はもっと洋食を出して欲しかった。しかも量が多くて食べ切れない。残したら食べた方がいいよと言われ、口に詰め込んだがすぐにトイレで吐いてしまった。
夜寝る頃になると相部屋の人がボソボソと呟き出す。お母さんごめんなさい、とか、なんでそんなことせないかんと、とか、あんたらが悪いから私はこうなったんだ、とか恨みつらみを一通り呟いて泣いていた。私は眠れなかった。
そんな生活にようやく慣れたのたとき仲良くなったのは自傷癖のある人(今後Aさんとする)と二重人格の人(今後Bさんとする)。どちらもいい人なんだけどBさんは被害妄想が酷く卑屈だった。
お見舞いに来た私の父(初対面)に突然「生きててごめんなさい」って言ったぐらい卑屈。3人で話している時に「私その話苦手なんでやめてくれませんか」とか言ってくるしAさんと話してたところ入ってきて「私の悪口ですよねすみません」って言って勘弁してくれって思った。「私年下の子を見ると嫌悪を感じるんですよね」私もその時精神的に不安定だったからしんどくて。私も年上の方と話すの苦手です、ぐらいしか言えなかった。とある日、ふいに裏人格が現れた。どうやら主人格のお兄さんらしい。暇すぎて何往復もしていた短い廊下で呼び止められ「こいつお前の社交性があって素直な性格嫌いだから」って言われてそうなんだ…とちょっとだけ傷ついた。
1ヶ月経ったころ、人数の関係で病室移動。アルコール依存症かつ躁鬱病の人、統合失調症の人、夫に自殺をきっかけに鬱になってしまった人と相部屋になった。色々身の上話をし合って、色んな人がいるんだなあと思った。
「今日は眠れなかった」は挨拶みたいなもので、決して不健康アピールではないのだと知った。
いきなり叫び始めて八つ当たりし始めたおばあさん、食後お腹痛くなったらしくて看護師さんに「ご飯に毒を盛りましたよね」とか言ってる人などもいた。
私はパーキンソンの症状が出て体の震えが止まらなくて常に視線が上を向いて口から泡が出そうになった。夜になっても眠れない時に看護師さんに言ったら「我慢出来るならしてほしい。皆そうだから」って言われた。あいにく土日を挟んでいたので、その2日間はその状態が続いた。出勤してきた主治医に症状が辛いから何とかしてくれと頼んだら「えっ、なんで」との反応。パーキンソンの薬はちゃんと出すように言ってあるとのこと。「あー、薬が切れてるみたいですね…ナースセンターにっと言っときますね」っていう明らかに病院側の過失だった。
特に謝られることもなく薬は出された。飲んだら治ったから、まぁ、よしとしよう。
入院して3ヶ月目、高校はどうするかのはなしに。さすがにこれ以上留年するのは…と思い通信制高校を探し始めた。
退院間近になると外泊や外出で外からの刺激を受けて大丈夫かどうかのテストをした。そこで何も無ければOK。私はポケモンの映画を見に行った。
退院してからはなるべく刺激を受けないように、テレビや動画を見ないようにと忠告された。眠たくて眠たくて、昼も夜もひたすらに寝ていた。
すると指で広げないと目が開かないという状況に。眼科に行ったけど、ドライアイの薬しか貰えなかった。
通信制高校は登校が楽そうなところを選んだ。暫くはゆったりとそこに通っていた。しかし今年の2月、悪夢をよく見るようになった。人を殺す、人が死ぬ、自分が殺される、など。しかもどれもがリアルで起きた時に感覚が残っていた。首が痛かったり、虫が肌を這いずる感覚があったり。
小学4年生からの記憶がなくなっていたのだ。朝起きると難しい漢字が読めない。上手く計算もできない。けれど記憶をなくしたのは3週間程度だった。よかった。
記憶が戻った今も精神年齢は10歳な気がする。その頃から家族に、それこそ子供のように甘えるようになった。
それからはまた家でのんびりしたり登校したりしてゆったりと暮らしていた。開かない目のことが気がかりだったが。
しばらくすると6月になって、また幻聴が聞こえ始めた。今度はひたすらにしねしねしねと耳元で囁かれるような幻聴。
鬱が酷くなる。
それからは高い建物を見るとあそこから落ちたら死ぬかな、風呂に入ってるとここで寝たら溺れるのかな、睡眠導入剤をたくさん飲んだら眠るように息絶えるのかなとずっと死ぬパターンを妄想していた。
そこで現れたのはヒョウモントカゲモドキ。
ペットショップで一目惚れをした。元々爬虫類が大好きな私にとってその子はとても魅力的に感じた。親と相談して買ってもらい、毎日かごを眺めるようになった。すると生活が一変する。ヒョウモンに餌をあげるために、と義務感が湧いていたのか、今まで夜型だった生活から夜8時に寝て朝4時に起きるようになったのだ。毎日3食、十分な睡眠時間の確保など健康的な生活を送ることが出来た。
そうなると気になってくるのはやはり目が開かないこと。神経内科はどうだろうかと主治医に言われ、紹介状を書いてもらい行ってみた。結果は特に異常なし。それを主治医に報告すると、もしかしたら薬が悪いのかもしれない、とのこと。あまり主流じゃない副作用だから確信は持てないけれど、これ(薬の名前は忘れた)減らしますねと薬を出された。それから体調が悪くなった。吐いて寝込んで精神的に不安定になって泣き出して。1週間後に予約を入れたのでふらふらとしながらも病院へ。目は開かない、具合は悪い、最悪な状況だった。次の薬で良くならなかったら入院してもらいますね、と薬の量を増やして服用している。
それで今日に至るのだが、目は開くようになった。吐き気もない。ただ睡眠時間が狂ってるだけ。
これは入院しなくていいのだろうか。そう思う午前1時。
つらい。
この後の文章はちゃんとした文章になっていなくてきっと見るに堪えないと思う。
自分にはもう考える能力もない。頭が痛い。つらい。死にたい。死ねない。
この冬という寒さには毎度鬱をリセットされている気がする。
どんなによくなっても、自分には生きることを許されていないんじゃないかな。
無職だが実家があり、親は優しくおんぶに抱っこ。時折バイトをして過ごしている。
そして冬になればバイトを辞め、鬱を悪化させては自分と親の貯金を食い潰して春を待っている。
例えば今窓を開けて飛び降りれば打ち所が悪ければ死ねるかもしれない。
でも出来ないんだ。
でも生きていると日々「親の金を食い潰しているな」と感じる。
引きこもって誰にも会わなければいいのかもしれないけれど自分は外が大好きで、でも一人じゃ起き上がるのもつらいから介護してもらっている。
働くことを思うと苦しい。
正社員にはもう戻れないだろう。
フリーターとして生きていくんだ。
実家があって良かったね、恵まれているね。親が許してくれるから、親が援助してくれるから。
ああ死にたい。
自分は自立したい。
なのになんで今無職なんだ。
なんで今泣きながら文章を打ってるんだ。
死にたい。
睡眠導入剤を多く飲めばまかり間違って中毒になってぽっくり逝けないだろうか?
でも頭はきちんと処方通りの量だけを手に取って飲み込む。
なにもできない、なににもなれない、自分は昔の稼ぎで買ったパソコンで、ちっぽけな承認欲求を満たすために色んな創作をしている。
でもさ、「すごいね」とか言われると「死にたい」って思うんだよ。
本当に自分は好きじゃないのに、承認欲求を満たされたくて作ってごめんなさい。
でも、好きなんだよ。作ることも、承認されることも。
死にたい。
この日本でこんなバカみたいなこと考えて鬱こじらせてる自分でも、復帰できるのかな。
これをここまで読んでくれた誰かへ。
自分はこれを書いたことでまた明日から「寛解に向けて努力する人間」の顔ができます。
寛解なんて、出来ないのにね。
5日目
ほんとにひと玉でよかと?
「リラックスできる」と「グッスリ眠れる」の間にはまだ少し超えなければいけない壁がある様で、4泊目の夜の睡眠は途切れ途切れだった。
携行している睡眠導入剤を使えばよく眠れるのだろうが、あまり連用はしたくない。
7時頃には完全に目が覚めてしまったので、洗濯をすることにした。
旅行では日を重ねるごとに使用済みの下着や2回袖を通す服などが増えてくるし、なんとなく薄汚れてくる気がするので、気軽に洗濯ができるのは本当に有難い。
うっかり肌着も全て洗濯機に突っ込んでしまったが、素肌にシャツでも問題ないだろう、本来シャツとはそう着るように作られているものだ。
一先ず最寄り駅前のモスバーガーで朝食をとった後、宿に戻って身支度を整える。
朝のワイドショーによると、今日の福岡は時よりにわか雨が降るらしい。
折り畳み傘を持って宿を出た。
宿から天神の駅を経由し、博多まで歩くことにすると、行きすがら美術館を発見した。
常設展は200円なので入ってみることにした。
タイの芸術家、キエン・イムスィリ作「音楽のリズム」など、普段触れることの少ない東・東南アジアの近現代美術は興味深い。
広島も瀬戸内の海洋交通の要衝ではあったのだが、福岡の場合は港が東シナ海に面しており、南に降れば上海・台湾・フィリピン、西を見れば壱岐対馬を挟んで韓国が目と鼻の先。
そういえば博多の街では他の国の人より有意に多くの韓国人をよく見る。
美術館を出て博多の駅に着き、太宰府までの経路をチェックする。
行きすがら途中下車して、名物の博多うどんで腹ごしらえをする事にした。
竹下の駅を下車してやや歩くと、博多うどんの名店と紹介される「春月庵」が見えてきた。
河川敷脇の道路沿いに建つ店舗は外から見るとポツンとしているが、中に入ると30席ほどありそうな店内は満席に近い状態、みな賑やかにうどんを啜っていた。
と、「うどんのお代わりは自由です。ひと玉でよろしいですか?」と店員さんが念を押してくる。
いや、おむすびも食うんで、ひと玉で充分ですよ。
やがてそのおむすびに続いて、顔どころか頭蓋骨が丸ごと隠れそうな大椀に浮かんだ浮かんだうどんがやって来た。
食べてみた博多うどんは、麺の食感に特徴があり、程よいコシと柔らかな食感。強いコシと弾力が信条の讃岐うどんとは別モノだ。
ゴボ天も肉厚に切られているのに柔らかい。
優しい美味しさで、讃岐うどんばかり溢れる東京にもこのうどんがあれば良いのにと思える味だった。
と、啜っていると、さっきとは別の店員さんが勘定伝票をめくって
「ご注文揃いました?うどんはひと玉で大丈夫ですか?」と再び念を押してくる。
でも聞いてくる理由はすぐ分かった。
耳を疑うような注文内容が何度も聞こえてくるのだ。
そう言えば広島ではスリムな人が多かったが、博多の街ではふくよかな人やがっしりした人をよく見みた。
福岡の人は本当によく食う。
こんだけ食えば、そりゃ大きくもなる筈だよ。
3日目
移動疲れで早めにベッドに入ったものの、宿の狭さか旅行の緊張か暫く寝付けず、結局睡眠導入剤の手助けを借りる事になった。
あまり頼りきりになるのも怖いが、こう言う時には強い味方だ。
7:00
窓の外は雨の気配もない。
今日は歩き回るつもりだったので好都合だ。
先ずはさっぱりと目を覚まそうと入った大浴場は、どうにも洗い場の水捌けが悪く、足元がバシャバシャだったが、いちいち細かいことを気にしていても仕方ない。
向かうは厳島神社だ。
JR山陰本線で向かう宮島口、車窓の外では緑と褐色、橙が調和を作る斜面にマンションや戸建てが張り付いている。
これから向かう厳島神社、英語で神社は shrine 、祀られる神は deity と言うらしい。god ではない。
日本人の自分からすると、神社の神様は、いわゆる唯一神と違い、「人間に無限の愛を注ぐ父なる存在」ではなく、「自然や世界の運行を司る人間より上位の存在」であって、「世界の運行の都合によっては人命も薙ぎ倒していく、敬うべきだが恐るべき存在」だ。
その恩寵も脅威も本質的には世界のためであって、人を主眼に置いたものではない。
そういった神性をエンタメとして表した代表作が「ゴジラ」である様に思う。
自然は容赦がないし、脅威は過ぎてもまた必ずやってくる。
広島は近年土砂災害に見舞われたが、斜面に建っている民家を見ていると「これは確かに自然が荒ぶればひとたまりも無い」と思う。
広島駅前には河が流れ、遠くを望めば山が見える。車窓の外では紅葉が彩る高台や斜面の中に家が建つ。
この街に住む人は、自然の恩寵と脅威に無関心ではいられないだろう。
桟橋を出てすぐなのに、デッキの淵には瀬戸内の水面に起立する大鳥居をファインダーに収めようとする観光客で鈴なりだ。
もちろん自分も鳥居は撮りたいが、「見えてきてからでいいかなー」と言う感じ。焦ってヘリに長時間陣取れば他の観光客の邪魔になってしまう。
腰掛けていたベンチ、隣を見ればスカーフを巻いた外国人の女性がいた。
その先に少し覗いてきた大鳥居。
教えようと指差す。
「・ー・ー・?」
「How long?」
「あー、about 5minutes.」
「5minutes.」
「そう。」
休みに入ってから基礎英会話の勉強を始めたものの、1日せいぜい2時間で2週間では大きな変化はない。
でも気にせず続ける。
「Where come from?」
「Malaysia.」
「Are you?」
と彼女は下方向を指差す。
「No, Tokyo.」
「Enjoy Tokyo :) 」
お互い片言にも程があるが、単語をぶつ切りにした様なコミニュケーションでも意外と伝わるし、海外ではコミニュケーション出来ることだけで嬉しいものだ。
昨年からの海外旅行で一番役立つ学びは、このコミニュケーションへの意志と気楽さかもしれない。
マレーシアから来たご婦人に5分と答えたが、実際には10分ほど後にフェリーは宮島に到着した。
まあ規模感に大きな違いはないし、誤差の範囲だろう。
洋上、フェリーの展望デッキからも撮れた朱の大鳥居だが、岸からのほうが近かった。
島の其処彼処でノタノタ歩く鹿と共にスマホのファインダーに収める。
きちんとしたカメラは携行しているし、それでも撮るのだが、こういったレイドバックな瞬間はスマホで撮るのが丁度いい様に思う。
水面に建つ大鳥居が有名な厳島神社だが、実際に訪れてみると鳥居だけでなく本殿がまた美しかった。
宿願成就を祈るため訪れた訳ではないが、せっかくなので参拝する。
祈りの詳細を明かすべきでないと思うので割愛するが、本殿では少し綺麗事とも思える様な事柄を祈った。
なんとなく、自分独りの事について祈るのが違う気がしたからだった。
まあでも改めて考えれば、金でも何でも、自らに起こる事柄に人と関わりなく起こる事はあまり無いし、誰かの幸福を祈ったとして、その実現は己の幸福でもある。
全ては人との関わりの問題でもあると言えるし、全ては己の為とも言えた。
幸福とは己の内にあるのか、人との間にあるのか。
2日目
心療内科で処方された(があまり使っていなかった)睡眠導入剤を飲んだおかげか、バスの中では途切れ途切れながらも眠ることができた。
9:20
バスは広島に到着し、降り立った広島駅南口は、快晴とは言わないまでも快適な天気と気温だった。
この旅行記を書いた後、チェックイン予定のホテルにひとまず荷物を預ける事にする。
東京ではあまりみる事の無くなった路面電車だが、旅行者としては行き先が一目瞭然なのでバスより利用しやすい。
搬送力も魅力的だ。
今更東京で導入する事は難しいだろうが、吉祥寺あたりにあったら便利そうな気がする。
ちょうどお昼の時間帯なので、腹ごしらえをしよう。
目当てのみっちゃん総本店は、観光ブログで紹介される様な有名店だが、地元の人達で満杯だった。
しばらくして運ばれてきたのは大皿にドンと盛り付けられたお好み焼き。
広島は街の風情もそうだが、食も気取りや出し惜しみのない、何というか質実剛健さを感じる。
横をみるとスーツの兄ちゃんがお好み焼きをおかずに白米を食べていた。
すごいエネルギーだ。
まあ、美味いけどね。
食事の前に気づいていたのだが、広島中心街からは平和記念公園が目と鼻の先だ。
観光名所巡りは本来3日目以降の予定だったが、時間もあったので予定を前倒して訪れる事にする。
旅程を組んだ時に全く意図していなかったのだが、韓国のボーイズパフォーマンスグループ、BTSが過去に原爆をモチーフにしたファッションを着て情報発信した事が問題になっており、タイムリーな場所をこの目でみる事になった。
地下歩道を歩き、地上に出ると、川岸、青空をバックに原爆ドームが建っている。
周囲にはそこかしこで地元のガイドさんがここで起きた事を学生や外国人たちに説明する姿が見られた。
自分は韓国を敵視する政治性向を持たないし、BTSを擁護する立場でもないのだが、この問題を考える時、「果たして戦うべきは何なのだろう」と考える。
韓国人の立場からすれば、植民地支配からの解放を喜ぶのは当然で、誇るべきことでもあると思う。
が「自分達の解放を喜び、苦難を超えたことを誇る」事と「相対した相手が死んだのを喜ぶ」事はイコールでは無い。
関連する事としても結ばれる事実であっても、それを言い訳にして他者の気持ちを踏みにじる自らの足を無視する事は、とても褒められない。
今回で例えれば、原爆という象徴的な事実を語る時に、自分の方向だけを見て口を開くのは危険を孕む。
その意図が無かったとしても、喜び自らを誇る時に、他者の痛みに目を向けず語る事は「無神経」で「傲慢」だ。
BTSが悪いと言う話ではなく、同様の問題は、日本の側にもある。
自らを誇りたいと思った時、その自らの中にこそが敵がいる。
こういった傲慢さへの誘惑こそが戦うべき相手では無いだろうか。
今日はちょっと個人的なことを書こうと思う。まぁいつも個人的なことだけど。
目的は書き出すことでの整理。それに付随して派生するかもしれないけれど、今は控えておく。
付き合っていた彼氏(まぁ今も続いているのだが)がいたが、大学が私立だったので親孝行のためと、やっぱり地元が住みやすくて好きだったので、めでたく遠距離恋愛となった。
この彼(けいし君といいます)は、同い年で同じ学年だったのだが、1年休学留学をしていたので、卒業は1年遅れ。まだ学生。
まぁそんな感じで地元の企業で営業として働いていたのだが、半年で辞めた。
辞めた理由はいろいろあるような気がするし、全部書くと長くなるのでやめておくが、一番大きな原因は
「生きることが面倒になったから」。
大学3年くらいからこんなことを考えるようになっていって、ついにそれが爆発した感じ。
この時私は本当に死のうと思っていた。
鬱だったのかと言われればそんな感じといえばわかりやすいかもしれないが、精神科の先生には鬱なんて診断もらわなかった。
(時期はずれているが二人の先生に診てもらった。一人目は「また死にたくなったら来てください」と言われた。二人目の先生には安定剤と睡眠導入剤を処方してもらった。)
やりたいこともわからないし、何を指針に、何に向かって生きていけばよいのかわからないし、生きる意味なんてわからないし、生きるのってとても煩わしくて面倒だな、と思った。
けいしには話をしていた。彼はもちろん私を助けようとアドバイスをくれたが、当時の私には何の救いにもならなかった。今になってみれば、彼のアドバイスが間違っていなかったことはわかるのだが、生きることに面倒になってしまった私は、自分の現状から抜け出す意味も、そんな気力さえもなかった。
多分、彼はそこをわかってくれていなかったのかもしれない。聞いてないからわからないけれど。
そんな感じだったのだが、まぁいろいろあってまだ生きている。残念ながら自殺未遂もしていない。
単に逃げたかっただけなのかもしれない。
親とか、兄弟とか、彼とか、友達とか、会社とか、そういった社会のつながりから。
こうしてまたそういうつながりに戻ってきているのだが、時々逃げ出したくなる。
とりあえず話を先に進めよう。
そして職を失った(自発的に辞めたんだから、失った、てのは変な感じもするが)私は、少しだけニートになった。
お金はないけど時間はある中で、自分と向き合って、何に興味を持って生きていけるのかを探る期間にしようと思った。
私には、趣味らしい趣味も、好きなこともなかった。得意なこともないし、自分には何の価値もないと思っていた。あ、これは今も変わらないか。
何もない自分が、どうやって価値を生み出してお金を得て生きていけばいいのかわからない。
世の中の人間なんて、自分に価値がないなんて思っている人はたくさんいるはずなのに(だから「あなたには価値がある」って声高に叫んでいる人が人気を集める)、みんな何がしかお金を得る手段を持って生きていけてる。そうなるにはどうしたらいいのか、どうして誰も教えてくれなかったんだ。
そんな中で、私の中で価値があって、人生の指針になってくれる人が一人だけいた。彼だった。
アルバイトを始め、ニートからフリーターとなった私は、もうひとつジュニアスイミングスクールのコーチとしても働き始めた。こちらもアルバイト。泳ぐことは昔から好きだった。子供はそんなに好きじゃなかったけど、かわいかった。1年ほど勤め、やっと慣れてきて、もっと勉強せにゃあ、と思っていた時だった。
もともと2人で、結婚の前に同棲したいよねという話はしていた。
でも、時期が悪かった。話を持ちかけられたのは夏だった。せめて年度末までスイミングスクールのコーチとして働きたかった。
そしたら彼が言った。
「今すぐ来てくれなければ、別れる」
普通に考えたらありえない。これがもし私の友達の話だったら、私は間違いなくそんな彼氏殴ったれ、と言うだろう。
しかも彼はまだ大学生だったのだ。卒論を期限内に書き上げられず、ゼミの出席日数が足りず、卒業できずにいた。休学しながら自分でバイトをして学費を貯めて大学に通っていた。
そんな生活を続けていくうちに、大学を卒業する意味がわからなくなってきたと言っていた。
彼のことが好きなのか問われると、正直今はよくわからない。
私は好きじゃない人ともセックスはできる。生理的に受け付けない人とか除いたら、そりゃずっと一緒にいたら愛とか情とか湧くんじゃないの?
今の彼が例外かと言われたらよくわかんなくなってきた。
そんな奴だったが、私の人生においては一番大切にしてきた人だった。私の羅針盤だった。彼がもし死んでしまったら、私も間違いなく後を追って死んだだろう。
…私は彼に流されすぎなのだ。仕方がないことではあるけれど。
私は彼を完璧な人間だと思っていた。(あほちゃうか、と思うだろう。私もそう思う)
彼の考えを聞くと、一見理論立っているように見えるのですぐに納得してしまう。私の悪いところだ。
お互いの両親に挨拶をした。彼の両親は自己責任でどうぞ、と言ってくれた。私の両親(特に父親)には反対された。でもその反対を押し切って、同棲を始めた。
アルバイトは両方辞めた。
私が前職の営業を辞めてすぐ就職しなかったのは、前述した通りやりたいことを探したいから、ということと、もうひとつ理由があった。
自信がなかった。
正社員という立場で、アルバイトより責任ある立場で、仕事を続けていく自信がなかった。壁にぶちあたったら、また「死にたい」と逃げるのではないかと思った。逃げない自信がなかった。
でも、状況は変わった。これからは家賃も食費も水道代も電気代も全部払っていかなくてはならない。
人は働かないと生きていけない。自給自足も不可能ではないが、現在のシステムは自分ができることでお金を稼いで、そのお金で誰かが代わりに作ってくれた野菜を買うというものになっている。賢い生き方だと思う。でも、その働くというハードルは、おそろしく高い。
いや、私が高くしているというものもちろんある。バイトでもお金は稼げるし、私がしたくないと切り捨てている仕事もたくさんある。
だけども、やっぱり高い。
転職では即戦力が求められ、半年の営業経験と責任感がなくて楽だと思いながらやってきたアルバイト経験だけでは、何が即戦力になるというのだ?
まだ、見いだせていない。
やりたいこと?3年近く探してもまだ見つからないんですが。
本気で探してないだけかもしれない。でも本気で探す理由がわからない。
死亡動機なら答えられるのに。
けいしに流されて生きてきた人生だな、と振り返って思う。
流されてきた、というか、私の判断材料に常にいるな、こいつ、と。
そう思ったので聞いてみたのだ、彼に。
そしたら、いない、って返ってきた。
そういう考えをしていた時期もあったけれど、そうすると、ちゃんとした仕事に就いて、養っていけるという状況を作らないといけない。それじゃダメだと。丸くなってると。
前に二人で言ったよね、お互い自立して、それぞれが見てきた世界を共有しあえたらいいよね、って。
お互いなにがしかの武器を持てたら、二人で協力した時、お互いの欠点をカバーしあえて最強だよね、って。
そう、言われた。
正直、私はショックだった。
私はけいしがちゃんと大学を卒業してちゃんと就職して、私を養えなくてもちゃんと収入を得て、そして結婚して、子供ができてお金が必要になってもちゃんと暮らしていける。そんな未来を思い描いていた。
だってもう25だ。そろそろ子供産んでおきたいのが正直なところだ。まだ全然子供を育てられるような人間じゃない。そんな人間できていない。育児ストレスで自分の子供に暴力振るう自信だってある。(そんな自信はいらない)
だけど、そろそろ、そういう時期だって思ってた。
同棲始めたし、同棲を長期間するつもりもないし、いずれ近々籍も入れるだろう、と。二人で同じ未来を思い描いて、お互いがお互いの人生に責任を持ち合いながら生きていくのだろう、と。
そろそろ、ちゃんとしてくれるのだろう、と。
その反面、けいしの言うこともすごくよくわかるのだ。
お互い自立して、自分の人生の責任は自分で持つ。だけれども、パートナーとして、一緒にいる。助け合う。お互いの見てきた世界を共有しあう。人生2倍。
なんてキラキラしていて、楽しそうなの、と。
どちらを選ぶかは、私たち二人次第だ。
ただ、もし後者を選ぶなら、レールから外れて生きていくことをきちんと自覚しなければならない。
(まぁ正直すでに外れている二人だが、まだ修正はきく位置にはいるだろうと思っている)
転職アドバイザーの人からは、これ以上非正規を続けたら、正規になるのはとても難しいだろう、と言われた。
その道を突っ走るのか。
けいしの将来だって保障されたものじゃない。向こうが稼いできてくれると思ってはならない。
いつか後悔するかもしれないが、やりたいことやりたいだけやって死ねる。
そもそも私はこの道を選んでどうしようもなくなって死ぬしかなくなってもいいのだ。だっていつ死んでも一緒なのだから。
年上の人にこういう話をしたら、みんなレールに乗るように、って言ってくる。
私より長く生きているから、視野も広いだろうし、知識もあるだろう。”知り合いにこういう道を選んで失敗した人がいるから、私にはそうなってほしくない”とアドバイスしてくれてるのかもしれない。
でも、自由に生きている人も少数ながらいる。多分その繋がりで、ホームレスの若い男の人が結婚した、なんて話も聞いた。
こういった少数派の人たちは言う。普通の大人に意見を求めるな。普通になるようにアドバイスしてくるはずだ、と。なりたいものがあるなら、それにもうなってる人にアドバイスを求めよ、と。それは確かにそうだよな、と思う。
でも、それが自分が心から求めているものならば、叶えられるんじゃないのかな、とも思っている。
とりあえず、けいしと話をしなければならない。
お互いにお互いの人生を、と考えている彼は、自分の思いを聞かないと話してくれないし、わざわざ私の相談にも乗ってくれないのだ。
私は本当にこいつに一生付いて行ってもよいのだろうか。
11月。そろそろ年の終わりすら見えてきた。それなのに、ぜんぜん着地点が見つからない。今年も頑張ったなって思える達成感は無いし、そもそもやる気が出てこない。
今日は初めて電車に乗る足が止まった。まぁこれは乗っても授業に遅刻すると分かってたからだと思う。
でも、いつか見た誰かの日記に書かれた事を思い出して、「疲れてるのかなあ」って思った。
頭のモヤモヤは書き出せば良くなる、みたいなエントリを見続けてきたから日記を書いてみたけど、いまいち実感はない。
ただ自分が書いた文章だけに注目していると、他の事を考えないでいいな、と思ったくらい。
文を眺めててタイトルを思い出した。最近いい気持ちでベッドに入る事があんまり無くて、力が抜けるように寝ることが多い。
それでも寝るのは嫌いじゃないんだけど、なんでか毎日1時過ぎに寝てしまうのが近頃の悩み。
自分は6時間睡眠では持たない、と幾度となく自身に言い聞かせてきたけど、それでも、1時に寝て6時起きになってしまう。
疲れが取れてないような気がして、お昼過ぎに居眠りしてしまう。ほぼ毎日だ。
昼の居眠りを防ごうとしても意思だけじゃ全然勝てなくて、結果として出遅れることになってしまう事が多い。昼飯後に猛烈に眠くなるので昼はたくさん食べる気がしなくなった。
自分で書いてて「プリントアウト案件」だなんてブコメしそうだ、なんて思った。
でもたかが睡眠不足で病院には行かないし、そもそもベッドに入ったら寝れるんだから睡眠薬とかも飲む必要はないはずだ。
じゃあ、なんで早くベッドに入れないんだろう…そもそも帰るのが8時過ぎだから、風呂と晩飯だけで10時前になるが…。
数分掛けて昨日のよるを思い出してみたら、なんもしてなかった。風呂上がりに薬を塗って、そのまま椅子でボーッとしてただけだった。
寒くなったから寝間着に着替えて、爪とか切ったか…くらい。これだけなのに、寝たのは1時…この時間を削れば早く寝れるんだろうけど、それを考えてみたら、やっぱり憂鬱な気分になった。
とはいえ環境を変えねば今の状況も変えられない…というのも理解していて、その気持ちと今日まで戦ってきた。
でも正直もうお手上げ。帰宅してから時間に縛られるのは嫌だけど、十分な睡眠は取りたい。なんだこれ、どうしたら解決するんだ…ため息が出る。
文を眺めていたら憎きアンケート増田みたいな文章になってきたから仕切り直すと、この日記はモヤモヤを書き出すだけだから誰かに解決策を求めている訳ではないし、ダジャレを書くのも自由。
だいたい吐き出せたのでオーバーウォッチして寝るよ。いつも休日にしか出来ないけど、今日は全部ほっぽってやるよ。それで、満足したら、寝るよ。
日記見て思ったけど、やっぱり毎日遊んで、満足してから寝るほうが楽しそうだなって思ったからね。
文末安定してなさそうだし推敲もする気力がないから、読み辛かったらごめんね。
電車に揺られながら、トラバやブコメを眺めてた。いくつか共感してくれる人もいて、みんな抱えてる問題なんだな、なんて思ったりした。
昨日は10時過ぎまで遊んで寝たらずいぶん楽になった。
ひとつ、誤解があったかもしれないからそこだけ書くことにした。朝は、6時に自然と起きてしまうのではなく、目覚まし時計で仕方なく起きてる。電車に間に合わなくなるから、仕方なく起きてる。休日は昼まで寝ているし、寝れる体力はまだある、と思いたい。3ヶ月前から目覚まし時計を2個使ってるんだけど、それでもこの前遅刻したから、もうなんというか…やっぱりお手上げな事には変わりないのかも。
心療内科とか、睡眠薬はとてもハードルが高いんだけど、睡眠導入剤とかは気になったので調べてみる事にしたよ。
毎週処方してもらう薬があるから、それと合わせて問題無い薬があるか、探してみる。
睡眠関係で病院に行くのは、寝ても寝付けないとか、十分な睡眠時間をとっても眠たくなる、みたいな症状の人かと思ってたから、そんな理由で病院に行ってもいいのか、なんて思ったよ。たんに寝る時間を早めることさえ出来れば解決するんだろうから…って感じでね。
睡眠時間を早める方法については、もうちょっと模索してみる事にするよ。
筋トレとか、玉ねぎ食べるとか、風呂入ってそのまま寝るとか、いろいろあるみたいだけど、どれも気力が追いつかないから、ゆっくり試してみるよ。
いい面
・部屋が汚い事を汚いと認識できるようになった
実際に掃除するまではいたらないが、気力があるときはちょっと片付けるようになった。
・脳みそが静か
薬飲んでいないときは、常に思考があっちこっち飛んでいるタイプなのだが、その飛び方が穏やかになる。結果的に疲れにくくなった。
・パニックになりづらくなった
他人に怒られているときなどに、俯瞰して見れるようになったというか、自分のことなのに他人事感が強くなった。
・慢性鼻炎の改善
一日中鼻が詰まってるのがなくなった
悪い面
・勃たない
モノにいく血液が減ったのか通常時も小さくなった。無理矢理勃たせることも可能だが、硬さが足りない。
・睡眠困難
睡眠の中途覚醒が前からあったのが、さらに酷くなった。睡眠導入剤は必需品。
・食欲不振
よく副作用として言われる、吐き気は全くないのだが、メシは食えなくなった。
・便秘
元々、便通はかなりいい方なのだが、細切れにウサギの糞みたいなのしか出なくなってツライ。
・頭痛
某大手SIerの半研究開発職/半SEみたいなポジションで仕事していた者です。
一応昨年度の新卒で入ってますが、業界は初めてではなく大学時代も細々ベンチャーで開発職したり、フリーでSEしてました。
今の会社に入社すると同時に結婚して、今は妻と2人暮らしです。
ただ妻はいわゆるボーダーで、パニック障害持ちでうつ病と少々厄介でした。
そんな感じの背景のある人間です。
ある日、酷い頭痛と発熱、全身の極端な倦怠感、強い動悸に襲われました。数日経っても改善せず病院に行きましたが病理的な原因は不明です(やや数字には出ていたのですがそもそも数日間食欲もなく水分もろくに取っていなかったので…)。
その後もあれよあれよと言う間に色々な検査を受けて最後は精神科で掲題の診断に。
実は精神的な問題には心当たりがありません。会社も決してブラックではなく、もちろん妻のことは大変でしたがそれでもなんとか。強いて言えば妻は働ける状態ではなかったので、お金の面がじわじわと不安になってきた程度です。
それでも、事実として身体に症状が現れ、夜は眠れず、朝起きれば意味もなく(良い歳して)泣いて…。
あと自殺念慮というやつが私には今ひとつ分かっていなかったのですが分かったかもしれません。死にたいと思っているつもりはないのですが、自分が電車に飛び込む映像、首を吊る映像、ベランダから飛び降りる映像…こういったものが繰り返し頭をよぎる(あるいは脳内再生していた)状態でした。
うつ病の妻を持っていたので、この手のことには詳しいつもりでいたのです。しかし、自分のこととなると意外と分からないものなのでしょうか。
自分も今でこそ、そんな風に客観的に書ける余裕がありますがその当日は「休職だけは勘弁だ」とか「死んでもいつも通りの生活する」などと騒いでいたそうで…(笑)
※夕方は比較的調子が良いのと、セパゾンを飲んでるのが効いているのかなぁ…今は落ち着いて書けますね。
ごめんなさい、結論がまだでした。
休職1ヶ月を申し渡されました。
これが本題です。
3割が復帰、3割がさらに延長、3割が今の仕事、生活からドロップアウトといった感じらしいです。
私は復帰の3割に入れることを願い、行動しようと思います。
適応障害と診断され、1ヶ月の休職になった会社員が本当に1ヶ月で復活するアーカイブとなれば良いかもしれない。あるいは、その難しさに挫折して違う道や、時間をかけた戦いに戦術変更するアーカイブとなっても良いかもしれない。
いずれにせよ、予想外の病に抗う匿名ブロガーの不定期な日記をここに残していくことにします。
薬物的方針は主治医とも色々相談した上で…眠れないときにアルコールで寝てしまうよりは…ということに。
SSRIやSNRIは相性問題も難しいですし、急性期の抑うつには難しいので一旦は無しで合意しました。
具体的には会いたい人で、その上で会ってくれるという人には積極的に会って行くことにしました。あと大学時代の研究室に少し、お世話になって勉強も。
今回の日記はそういった前置きの話で置いておきましょうか。
ちなみに次の日記には、大学時代お世話になった全然畑違いの先生に会いに行く話だと思います。
今回のはここまで。
Day 4-5
4日目・5日目 Cảm ơn bạn! I had a great days. LOVE, Ho chi ming City.
明日の早朝便でホーチミンを去るため、今夜は空港で明かす事となり、しっかり眠っておきたかったのだが、明け方に少し微睡んだだけで余り眠れなかった。
旅の緊張と自律神経の不調の前では、睡眠導入剤の一錠では頼りなかった様だ。
変な所で居眠りをして置き引きやひったくりにでもあったら事なので、少し動き方を組み立てる必要がある。
今日と明日、一番でしなければならない事は、言うまでもなく「健康や財産を損う事なく、無事に帰りの便に乗る事」だ。
既に損なってしまっている自律神経に関しては仕方がない、せめて悪化しない様に易しい日程を組もう。
おそらくこの旅の栄養面で一番お世話になった、ホテル ニューワールド サイゴンでの朝食を終え、サークルKにお茶や水の買い出しに向かう。
そうだ、必ず通るエレベーター前の、あの暗紫色のアオザイを着たエレベーターパーソン。
毎日入れ替わるのに、全員美しい。
1Fから Ground floor 行きに乗換えを案内してくれたのは、目がクリッとした愛嬌のある美人。
「Oh..., What a thing, you were beautiful agein today !」
ちょっとウケた。
「Do you want to go the ground floor?」
「Yeah, have a nice day.」
サークルKでお茶と水を物色していると、お土産にうってつけのモノを発見した。
インスタントコーヒー。コーヒーこそホーチミンの象徴だ、この旅行でも何杯飲んだか分からない。
昨夜眠れなかったのもコーヒーの飲み過ぎかも知れない。
アイス用とホット用、それぞれをカゴに押し込んで、ついでにクーラーに並んでいた「恋しいミルクティー ダーリンすごく会いたくて」とハート満載のラベルに書かれたボトルも押し込んだ。
日本語ではあるが、あまりにスイートでストレート過ぎるワードセンスとカラーリング。日本法人のローカル商品や香港製の可能性もあるが、直感的に台湾製だと思った。あの人達は歌って踊って食って恋する人達だ。
店を出て裏のラベルを見たら、やはり台北市に本社を構える食品会社のモノだった。
ホテルに戻りシャワーを浴びた後、恋するミルクティーをデスクの端に置いてタスクを整理する。
忘れ物のチェックやチップの様な、何時ものチェックアウト時タスクにプラスして、荷物の預かりと、チェックアウト後のラウンジでの休憩を交渉できれば良いだろう。
味もやはりスイートだった。
残金の計算など幾つかのタスクをこなした後、この旅行記を書いていると、チェックアウト時刻が速足で近づいて来る。急がないと。
今度こそ調味料を正しく全て入れてお湯を注ぐ。
程なく出来上がったカップ麺は、当然初日の無味とはえらい違いで、あっさりしているが食欲のない時にも食べられそうな上品な味わいだった。
やる事が多いので、食べながら荷物を整理し、休憩交渉のメモを書く。
11:50
残りのスープをかっ込んで、ついでにメモパッドにも感謝を描き込んで、チップと共にベッドに置いて部屋を出た。
「Cảm ơn bạn! I had a great days. LOVE, Ho chi ming City.」
台湾人に当てられた訳ではないが、メモパッドにはハートが踊った。
ホテル ニューワールド サイゴンのフロントパーソンは、荷物の預かりも、22:00までのラウンジでの休憩も快く応じてくれた。
さすが貨幣価値の概算で1泊6〜7万円ほどのクラスのホテルだ。
日本人スタッフに電話を繋ぎ、意味の取り違えが無いか確認する程の丁寧さ。
このホテルに泊まれた日々は、嘘や大袈裟でなくGreat days だった。
Day 3
3日目 4,000年に一度
寝る前に飲んだ睡眠導入剤が効いたのか、夜中に一度目が覚めたものの、計8時間ほど眠る事ができた。
自律神経の回復に大事なのは睡眠なので、まとまった量眠れたのは喜ばしい。
5:45からの2度寝の最中に見た夢で、自分は刃物が絡むような人間関係のトラブルに巻き込まれそうになった後、道路が波のように捲れ上がって崩れ落ちる大災害を間一髪で逃れて、その様を遠い目で振り返る後日・会社のビルの前で、髪型の悩みを訴えてくる女性を褒めちぎって赤面させた挙句、恥ずかしさで昏倒させていた。
全身をピンと伸ばしたまま、後ろ向きに倒れた彼女が道路に激突しない様に抱きとめて、気分を落ち着けるために、彼女の真っ赤になってしまったうなじをさすっていると、仕事に厳しい事で定評のある女性同僚が「おい!」と咎めてくる。
場面が変わって、その後のオフィスでも自分は女性を褒めていた。
春の香港で、夢の出演者が習近平と麻生太郎だったのと比べれば、ややテーマが卑近になった印象がある。
願わくば刃傷沙汰や崩落事故はスキップして、女性を褒めちぎる件だけ現実のものとなって欲しい。
7:59、ホーチミン。
窓の外の通りではもうスクーターが行き交い、そこかしこでクラクションが鳴っていた。
予報によると、今日も雨は降らないらしい。
今回の旅程には自律神経の調子以外にもちょっとだけ不安要素がある。
前にも書いたが、2日後の帰国便は6:25発。
当日にホテルをチェックアウトしては到底間に合わないので、前日にチェックアウトして、タンソンニャット国際空港で夜を明かす事になるのだ。
そうなると日中歩き通しも辛いので、何処かで休めれば一番よく、H.I.Sの支店でそれが可能かどうか確かめたかった。
電話で事足りるのかも知れないが、日本人と顔を合わせて確かめたい。
朝食後の散歩ついでに行ってみよう。
軽く支度を整え、ベッドにチップを置く。
ベトナムではチップの習慣は一般的では無いらしいし、これだけ格式の高いホテルでホテルパーソンが悪さを働くとも考えづらいが、充分な額のチップがあれば不意に襲ってくる邪念の抑止効果にもなるかも知れない。
適正な額は分からないが、昨夜食べたバインミーが25,000ドン、と考えると昨日置いた5,000ドンでは軽食にも足りないぞ。安すぎだ。
一仕事片付いたらバインミーを食べられる額、25,000ドンを置いて部屋を出た。
ホテルの目の前にある公園で、制服を着た少年の一群が、順番に手にマーカーを持って走り、おそらくは地面に置き、次の少年がまた走ってそれを回収するという運動をやっていた。
少年達の歓声が、快晴の朝の公園の風景をより活き活きとしたものにしていた。
H.I.Sの日本人女性スタッフはちょっと素っ気ない感じで、満面の笑み少し期待していた自分の甘さにガッカリした。
接客業者が客に対して笑顔で接するのは日本独特の事で、ベトナム人にそういった過剰サービスは期待していなかったが、日本人に素っ気なくされると少し驚く。
異国に長く住めば、日本人でもサービスは異国風になるのだろうか。
ラウンジにいたベトナム人女性スタッフの方が物腰は柔らかかった。
まあとにかく、明日、ここで休憩できるのは間違いない。
ちょっとだけ一息ついて、目と鼻の先にあるフレンチ・コロニアル様式の建物に向かった。
歩いて5分もないところにある美しい建物は2つ。
ここはレートの良い両替所として事前にチェックしていたが、入ってみると内装のレトロな美しさに圧倒された。天井のアーチの下には扇風機が緩やかに回り、さらにその下に並ぶカウンターでは人々がガラス越しに職員と話している。郵便か、預金か、両替か。
アーチの突き当たりに掲げられた、ホー・チミンの絵画がその様を見守っている。
スマホで何枚か撮ったが、出来ればちゃんとしたカメラでも撮りたい。
可能ならまた来よう。
と、外に出ようとして、館内の土産物屋が目に留まり、のぞいて見ると帽子が売られている。
黒いハットをレジに持って行った。
「80,000 don.」
「non , non. That,s 800,000 don. This is 80,000 don.」
お金が流通する郵便局で派手な間違いをしてしまった。ドンマイ。
ベトナム人はこういう際にも誤魔化しはしないらしい。
と、広場脇の木陰に、白いドレスを着た少女が大人に手を引かれて、何かの記念撮影の準備をしていた。
「Excuse me , Mr, I want teke she photograph.」
後から考えれば文法がメチャクチャだが、自分の為だとゼスチャーで伝え、
「She is beautiful.」と言うと、カメラマンは笑顔で
「No probleme.」
マリア様に続いて、木陰で微笑む小さなレディーを写真に収めることができた。
ここで旅の目的の一つ、練乳たっぷりのベトナムコーヒーが飲めそうだ。
カウンターで指差し注文をすると、ややあって陶器のカップに注がれたベトナムコーヒーがサーブされた。
カフェの奥に陣取って口にする。
柔らかで濃い苦味に、底に溜まった練乳がほのかに香る。美味い。
旅の目的に充分耐えうる味だ。
ふと思いついて、ベトナムでMV撮影したガールズグループの新曲をDLした。
強い日差しの中を歩いてなんとなく思い出し、この瞬間にぴったりだと思ったからだ。
日本で聴いた時は「ちょっと古いテイストだなぁ」と思っていたが、自称「4,000年に一度の美少女」が唄う希望や自由に溢れる歌詞と、明るいメロディーに涙が溢れてきた。
自律神経をやっていて心がある面で脆くなっているのは間違いない。
でも涙を流せばストレスも流れ落ちると言う。
泣けるのはきっと良いことだ。
この瞬間を楽しもう。きっと今しかできないことがある。
校門にたむろする白い制服。
カオタン テクニカルカレッジでもそうだったのだが、校門前にはスクーターが引っ切り無しにやってきて、学生が乗り降りしている。
ちょうど昼時だ、近くに食事を取りに行くのかも知れない。
女学校を通り過ぎてしばらくすると、正面から長い黒髪の少女が駆けてきて、すれ違った。
二十代後半で乳がんが見つかった。
乳腺症のひどい胸をしていて、二次性徴が見られるころからずっと胸が痛かった。
二十代半ばをすぎたころから何となく胸全体が柔らかくなった気がしていたけれど、
よく触ると固い部分があるからやっぱり自分の胸はこういう胸なんだと思った。
巨乳にあこがれて、理想はEカップだったけれど、長い間Cカップだった。
がんが見つかる2,3年前に下着屋さんで測ってもらったらDカップになっていた。
Dカップも小さくはない部類だなとのんきに考えてはいたけれど、
しこりが大きくなってきているのは薄々感づいていた。
自然と乳がんの話になり、乳がんは肉まんの中に梅干しのタネが入っているみたいな触り心地らしいよ、と、年上の同期が言った。
肉まんの中に梅干しのタネ入ってるのなんか触ったことないですよね~、と、呑気なフリをしていつもの通りおちゃらけて私は返事した。
実は私の胸にもしこりがあるんですよ~、触ってみます?と、いつも通りの雰囲気で、しかし内心焦って続けた。
胸のしこりは、想像の中にある肉まんの中の梅干しのタネに触り心地がそっくりだった。
彼女たちは触らず、微笑みながら言った。
帰国して約一か月、土曜日にトイレでぼんやりしながら、そういえば、と思い出した。
何となく人気らしい病院を選んだ。院長が講演活動なんかもやっているらしい。
電話がつながったものの、案の定、初めての患者は一か月くらい診てもらえないと応答した女性は言う。
「しこりがあるようなら、うちじゃなくても良いんで、一刻も早く診てもらってください」
あまりにも真剣な声だった。電話で問い合わせただけの相手に言うにはあまりにも真剣だった。
予約がとれなければ面倒だからやめとこう、そう考えていた私に次の病院へ電話をかけさせるには十分すぎる熱量だった。
仕方なく次の病院に連絡をしたら、その日のうちに検査ができた。
マンモグラフィーは痛いものだと健診で受けたことある友人から聞いていた。
それにしても痛すぎるのではないか。
それまでの人生、私は自分が痛みに強いのだと思って生きてきた。根拠があるわけではないのだけれど。
しこりのある胸を挟まれた時、あまりの痛みに体が震えて、冷や汗が出た。
検査技師のお姉さんに肩を抱かれて、一旦休憩しようかとベッドに座らされたときにパニックになりそうだった。
こんなに痛い検査が侵襲性のない検査とされているのがおかしい、どうかしている、
痛みを我慢できなくて恥ずかしい、情けない、あまり働かない脳みそを使ってぼんやり考えた。
しこりの少ない胸を検査された時も痛かった。だけども反対側より随分と楽に思えた。
自分の名前を呼ばれて診察室に入った時に、お医者さんからかけられた第一声は「大丈夫?」だった。
大丈夫ではなかった。血の気が引くとはこういうことをいうのかとしみじみと考えた。
そういう知識は持っていた。普通の会社員として働いてはいるけれど、学校で習った。
エコーでお医者さんが見せてくれたしこりは、もこもこしたクリームパンのような形をしていた。
お医者さんは、難しい顔をしている。モデルのように美しい女医さんだ。
良性の腫瘍の表面はつるりとして、悪性の腫瘍はデコボコしている。
そういうことも学校で習った。
これがもしも何ともなければ、がん保険に入ろう。
だから大丈夫だ、言い聞かせるように胸の中で何度もつぶやいた。
医師の友人に連絡をとった。
友人はマンモグラフィー読影の講習を受けたばかりだから何でも聞いてくれといつになく自信にあふれていて、
エコーがこうで、というと、段々と友人の返信に元気がなくなってきた。
当時、転勤になったばかりで、それまでとは全く別の職種にコンバートされていた。
それまでは暇で仕方なかったのだけれど、打って変わって忙しく
新しい職場は単身赴任のおっさんばかりで、慣れない環境に日々翻弄されるばかりだった。
登録していない番号に胸騒ぎがする。折り返すと病院に繋がり、すぐにお医者さんへと代わった。
電話で細胞診の結果を言うことはできない。でも詳細に検査がしたいので予約時間を変更してほしい。
結果を言うことができないも何も、それは告知のようなものではないのか。
人生を揺るがすほどの言葉を、私は残業中に、会社の非常階段で受け取った。
診察室で細胞診の結果を見た。
あまり詳しくはないけれど、学校で見たことのあるような悪い顔をした細胞が並んでいた。
バコラ生検といって、皮膚を切って漫画のような太い針をした注射器のようなもので組織を吸い上げる。
局所麻酔を打つ。痛みがありますよ、なんてお医者さんは言ったけれど、マンモグラフィーの方がよっぽど痛い。
検査をしてくれた個人病院ではなく、大学病院へそのまま紹介状が書かれた。
色々な説明を受けた。
詳細な検査なしにはわからないけれども推定されるステージ、予後、タイプによる治療方法の違いや色々。
がんのサイズは3cmあったので、ステージⅡ以上は確定だと、悲しい顔で告げられた。
「先生、すぐ治りますか」お医者さんにバカみたいな質問をした。
「うん、すぐに元気になるからね」お医者さんは、今思えばとんでもない嘘つきだった。
大学病院での検査の結果、私はホルモンレセプター陽性、HER2タンパク陽性だった。
簡単にいうと、乳がんの治療薬に対して感受性が良いから治療しやすいタイプだ。予後も非常に良い。
その時は、結果に対して良いことだと感じた。
しかしそれが不幸なこととだと後々思い知る。
術前に二種類の抗がん剤をし、術後に放射線治療とホルモン療法をする。
卵巣の保護とがんの発育を防止するために女性ホルモンを止める注射を打ち
手術は、温存できそうであれば乳房は温存、シリコンは30年で入れ替える必要があるからおすすめはされなかったので
術中にすべてが終わる、同時再建となる。
私の乳がんは治療効果が出やすい。出やすいということは、可能な限りの治療法をすべてやってしまうということだ。
予後が良いことと、元気に余生を送ることは違う。
若いから体力がある、回復が早い、とあまり知識のない周りは言う。
元々同い年の友人と比較しても筋肉痛になりやすく新陳代謝の良かった私に副作用はてきめんに出た。
2,3回の抗がん剤でがんは柔らかくなり、一種類目の抗がん剤を終えるころには触れることさえできなくなった。
それでも、標準治療という、乳がんに決められた治療は命に関わる副作用でもない限り続けられる。
味覚障害にならなかったことで体重はどんどん増えていってしまった。
病気のストレスでどんどん食べる。抗がん剤の副作用の吐き気がおさまれば、
副作用止めのステロイドのせいで食欲がとどまることを知らない。
乳がんです、と職場に言えば早期と言った覚えもないのに早期のがんの扱いをされる。
実際に早期の分類ではあるものの、どうせ早期なんだろ、と軽くみられるのは納得いかない。
咳が止まらない風邪のおっさんが、俺もガンかな、と独り言を言う。
病人扱いはしない、と言われたけれど、仕事は当たり前に1人分用意されていて
懇願しないと手伝ってもらえない。
確定診断の前、がんかもしれないと連絡したらいつもお前は私たちを驚かせてばかりだとなじられた。
そのあとに、あんたが落ち込んでると思って、と電話をかけてきた母に優しさは感じたけれど
最終的にはがんは自業自得だと罵られて終わった。
突然健康と容姿を奪われてしまって、なおかつ職場と家族の理解が伴わない、そうなると当然頭がおかしくなる。
手術はうまくいった。乳首も残せた。傷跡も自分ではそれほどは気にならない。
少しずつ萎縮しているようで、元々がん抜きにしても健側の乳房より大分おおきめだった乳房がかなり小さ目になっている。
それでも医療機関で新しいスタッフに出会うたびにきれいだと褒められる。
術後4年とそろそろ半年がくるが今はがんのためには何もしていない。
時期的にはそろそろ寛解といっていい。
手術痕はきれいなものの、剥がれた背中の筋肉や、弄り回されて傷ついた神経は軽い疲れや天候不順で大いに痛む。
この手術がうまくいっていないようで周辺のスジがひどく痛むし、こうしてキーボードを打っていても
薬指や小指のあたりに力が入らない。
抗がん剤で傷ついた手の表面の神経はいまだに感覚が怪しく、ざらざらした布を撫でると奇妙な不快感を覚える。
足も不意に菜箸でつつかれるような痛みを覚えるときがある。
私は元々婦人科系のホルモン疾患があって、ピルを飲まなければ日常生活を送ることすら困難だった。
しかし、ホルモンがエサになるタイプのがんだから使用することができない。
ホルモンの乱れ、心身に蓄積したダメージ、見た目が元気そのものだからこそ理解されないタイプの不調を抱えている。
こんな体調だし、あまり弱みを他人に見せることが好きではないから彼氏はいない。
太ってしまったものの、髪の毛は生えてきているし、我ながら顔は普通レベルには整っている方だと思う。
だけれど、結婚して、子供を産んで、ということは私には夢物語だ。
人生で一番色恋にうつつを抜かさなければならない5年間私はひたすらに体調が悪くて自分の世話さえままならない。
がんが連れてきた不調によっては死に至ってしまうかもしれない。
幾度も孤独な夜を越え、みじめさと苦しさと痛みに、毛のない頭を抱えてもだえ苦しんだ。
粘膜が弱って、鼻が蛇口になったのかと思うほどの量の鼻血が出たこともあった。
ホルモン療法を始めてすぐはひどい鬱状態に陥り、首を吊りたい欲求を抑えることに必死になった。
それと比べれば瞬間最大風速は今の方がぬるい。
でも、終わりもないし先が見えない。
次にがんができたら、そう、一度でもがんを体験したことのある人間なら頻度はともかく頭に浮かぶだろう考え。
できれば死にたい。
何もなくて、安心を得る人もいる、見つけて、切って、はいおしまい。で済む人もいる。
でもそうでもない人もたくさんいることだろう。
そもそも私は乳がん検診適用の35才より若くに自分で病院にかかったから
がんサバイバーがエネルギッシュな姿をさらすことは勇気を与えるかもしれない
でもサバイバーがエネルギッシュにならなければいけないという無言のプレッシャーがある。
現に、私の母は新聞で見た乳がん患者はこんなに元気なのに、あんたはいつまで病人気取りなんだと叱責してきた。
元気がない人にも声を上げさせてほしい。
下手にがんが見つかるとこういう辛い思いをして、死ねずに生きる羽目になる。
だからそれでも生にしがみつきたい人だけが検診をする覚悟を持てと。
やさぐれて、どうしようもなくて、地の底を這いずり回って泥水すするような気持ちで毎日を送る羽目になるぞ。
末期で見つかっていれば、大事な人にありがとうと、嫌いな人へ呪詛を伝えて心軽く天国だか地獄へ行けていただろうに。
病気になる前よりずっとずっと性格が悪くなってしまって悲しい。
長い長い、そろそろ自分を乳がん患者と呼ぶのにためらってしまう三十路女の独り言。
たくさんの方に愚痴に付き合っていただけたことに、少し気分がすっきりしました。長くてすみません。
Amazonの欲しいものリスト!?公開したら物をいただけるの!?さもしい私は飛びつきそうになりましたが、三十路レディなので澄ました顔で見ない振りができます。
お肉食べたい!不眠改善のために良い寝具欲しい!楽して痩せるダイエット器具!
…物欲は止まることを知りませんが、あなたの周りの少し元気がない人に美味しいご飯やおやつをごちそうしてあげて下さい。
回り回っていつか私がご相伴に預かることになるかもしれません。
◆母のこと◆
クソ!母親が!!うちひしがれている娘に!!!そんなことを言うだなんて!!!と、当時発狂しそうに悲しんだんですけど、母も恐かったんでしょう。
恐がりなんです、恐がってる自分を受け入れられなくて、私に当たることしか出来なかったんだと思います。
今も、私が一刻も早く普通に戻れることを期待しています。私の体調が悪いこと、気持ちの落ち込みがあること、すべてを気の持ちようで片付けようとしています。
私は、母の中では病人であってはならないのです。あって欲しくないのです。
だからと言って、娘に言って良いことと悪いことの区別がついていない理由にはなりませんが。
母は、母なりに私に愛情を持っていることだけは誤解されたくなくて追記しました。
内弁慶で臆病なおばさんなんです。
ちなみに、近親者で乳がんは父方の祖母(60代発症)だけで、姉も、おばや従姉妹、その他男性、他に誰も乳がん患者はおりません。
◆職場について◆
国家資格は取得しているものの、勤めている会社ではその資格を使ったお仕事はしていません。
ですので、デリカシーのないおっさんらもあんまり医療知識がないです。
とは言え、どう考えても非情な対応をされたことは間違いありません。
もっと貶してください。
叩いて下さい。
あの頃耐えて笑っていた私が報われます。
今は優しい人達の多い職場に転勤しています。仕事にも人にも恵まれています。
泥水をすすりすぎて、濾過した雨水うめぇ!水道水最高!って言っている状態なのかもしれません。
分子標的薬で心不全症状がガンガン(乳がんだけに)出ていた最中に引越しを伴う辞令を出した会社には多少わだかまりはあるものの、結果オーライで職場環境は確実に改善されています。
それでも体が辛いものは辛い。
そうなんです、八つ当たりなんです。
わかっているんです。
気軽に乳がん検診に行こう、それで簡単な処置で助かる命がある、それは尊いことなんです。
ファッション感覚でピンクリボン、ウェーイ!としている女子が妬ましいんです。
ウェーイしている女子がいるからこそ気軽に検診が出来る、それが本来の目的なんでしょう。
ただ、若年性乳がんって、乳がん全体のほんの数%なんです。貧乏くじ引いてしまった感が否めないんです。
元々ちょいちょいツイてなかった私が、こんな所でもツイてなかったかー、と。
妬ましく思っても許して下さい。
エネルギッシュに闘病体験を語って、良い感じの活動をしている先輩サバイバーを見て、そうはなれない(なりたい訳でもないけれど)不定愁訴がしんどいんです。
残っている後遺症のようなものも障害レベルではなくて、1個1個は誰しもが抱えている何らかの不調なのかもしれません。
不調の数が多すぎて、歯車がガタガタで、支える気力も尽き果てた状態が今の私です
ぶっ飛ばさせて、レッドリボン軍だか、クリボーだか、びっくらぽんだかのアイツを。匿名のこの場でくらい。面と向かっては、きっと吐き出せないので。
優しい言葉をありがとう、長い愚痴に付き合ってくれてありがとう。
嵐のような感情の発露は鍵付きのTwitterだけで行っていました。
初めて書き散らしたこの場で、思いもよらずたくさんの方に見ていただけて、嬉しく思います。
大好きなアーティストに懇願して(服の上から)触って貰ったことあるので、本体の私は乳のせいで地獄のクソ煮込みをわんこそばで注ぎ込まれている割に、乳だけは世界で1番幸せ者かもしれません。
Day 2
自律神経をやっていようと、そうでなかろうと、旅行で眠れないのはいつもの事だが、処方された睡眠導入剤を飲んでも5時間足らずしか眠れないとなると、この体質は筋金入りだ。
自然に目が覚めたのは6:45。
二度寝を決め込もうとしても、ちょっとウトウトするだけで、眠気は「こんにちは」してくれそうもないので、あきらめて起きることにした。
眠気はどうあっても俺に「おはよう」と言いたいらしい。
睡眠不足とホテルパーソンへのコミニュケーションのハードルを前に少し逡巡したが、おそらく一番ストレスが少ない形で美味いものが食える可能性が高い、ホテルの朝食をとることにした。
朝食会場に向かう途中、外を見ると、強い日差しの向こうで噴水が上がっていて、これぞ南国の午前という感じだ。
シャンデリアの下がる大広間でコーヒーをサーブされて、料理を物色するというのは朝から優雅なものだ。
ホーチミンはフランス植民地時代からアメリカ傀儡政権の時代まで首都を置かれた地で、パン食の文化がある。
果たしてビュッフェにもバゲットやチーズ、レバーパテがあり、これは行くしかない。
他にも当然アジアスタイルの炊き込みご飯やカレー、ライスヌードル、揚げ春巻きもあって、洋越折中といった雰囲気だ。
どれも美味いが、カレー(多分)が出色だ。
さっぱりして、辛すぎないマイルドな味わいだが、スパイスの香りが口の中に拡がって抜ける。
席の背後をチラッと見ると、「Sweet TOFU」の文字と壺。
「TOFU?」とホテルパーソンに声をかけられて、首を横に振ったが、やはり気になる。
結局サーブしてもらうことにした。
甘い豆腐。予想通り豆花だった。
しかし、台湾のそれと違って暖かく、ココナッツフレーバーと生姜蜜がかかっている。
美味い。
これだけ食って自律神経失調症も無いもんだと言われそう。
大変満足した。
あの日差しを浴びたい。ポーチに気休めの安定剤を詰め込んで、食後の散歩に出ることにした。
行く当てのない散歩だけど、とりあえずベンタイン市場を経由してサイゴン川を目指そう。
よく見ると現地の人だけでなく、観光客と思しき欧米人の対応力も凄い。
「バイクを見切って躱す」のはこの街では必須スキルなので、嫌でも身につくらしい。
昨日と違う事と言えば、バイクのライダーのオッチャンに頻りに声をかけられる事。
迂闊に乗ったら多分ヤバイやつ。
「Ser , Go work.」笑顔で固辞して先を急ぐ。というフリでプラプラ歩く。
ホテルの目の前の公園で談笑していた少年たちに許可を貰って一枚。
リーダーか、英語ができるかする少年に何か話しかけられたが、意味はわからない。
でも敵意はないのは伝わったようだ。
しばらく歩くとベンタイン市場に到着した。
体育館の様な大型のアーケードの下に、色取り取りの生地や雑貨、飲食店。
夕食はここにしようかな?
自律神経が働いた悪さなのか、旅行の緊張なのか、食べ物の匂いがまだ辛い。
ここでも頻りに声を掛けられるが「ハハハ」と笑いながら素通り。
10:00。
日本以外のアジアは大体が外食文化で、例えば台湾などでは学生は校門前に陣取る屋台で朝食や昼食を買って教室で食うらしい。
多分ベトナムも同じなんだろう。
周りを見れば、学校の向かいに軒を並べる露店で固まって食を取っている学生も多い。
ドン!
飲料水を買おうとしてファミマに入ると、そこでも学生が食事を摂っている。
それにしても男子ばっかりだ。
青い揃いの制服のせいか、男子学生達は一様に小綺麗で、教育程度も高そうな印象を受ける。
一旦学校前を離れて、日本で言うところの伊勢丹、いやもっと格上の三越のような存在の百貨店、サイゴンセンターを物色した後、1時間程で戻ると、男子達はまだ周囲の露店で食ってる。
こいつら引っ切り無しに食ってるな、なんだったら今が本番かも知れない。
暑さもキツくなってきた、先を急ごう。取り敢えず川が見たい。
学校前を離れる時に、校舎の壁に学校名のエンブレムを見つけた。
ARIZONA STATE UNIVERSITY
なぜアリゾナ州立大学がホーチミンにあるのかは分からなかった。
相変わらずの躱しゲーを繰り返しながら辿り着いたサイゴン川は、隅田川よりもっと広く、澱んでいた。
薄々勘付いていたのだが、自分はまあまあな晴れ男であり、観光やここぞと言うときに雨に当たられる事は少ない。
10月初頭のホーチミンはまだ雨期のはずだが、それでさえもこの有様だ。
自律神経の不調も憂鬱な気分も、事、天気に関しては影響しないらしい。
願わくばその運をもうちょっと別の事にも回して欲しいくらいだ。
雨のホーチミンで、お茶でも飲みながら茫然とするというビジョンはひとまず実現せず、現実には炎天下の橋の上でこの旅行記を書いている。
何はともあれ、この時間でやりたい事はやった。
ホテルに戻ってシャワーを浴びてから、気になって例の学校について調べると、やはりというか、アリゾナ州立大学ではなく、カオタン テクニカルカレッジというらしく、機械や電子に関する工業高校らしかった。
そりゃ道理で男ばっかりな訳だ。
学校の程度はわからないものの、自作で車を作るイベントがあったり、インテルと提携して人材開発を行なっているらしかったり、そこそこ優秀な雰囲気を感じる。
ここは工業化・近代化真っ最中のベトナムだ、生徒といえば荒っぽい男の子達ばかりと相場が決まっている日本の工業高校と同じ感覚では考えられないのかも知れない。
多分、アリゾナ州立大学ともなんらかの提携を結んでいるのだろう。