はてなキーワード: 考察とは
そういう人達は大抵中国や韓国といった人達に差別意識を伴った発言している人が多かった
昔韓国が日本を支配しようとしていると書いていた人は統合失調症?なのかと思ったが事実だったわけだ、すごい
んで疑問なんだけど安倍総理の葬儀が韓国で行われてるんだけど、日本のお金がどんどんその差別した人達に流れているんだけど
キッズなのか、心がキッズな大人なのか知らんが、作品のコメント欄に突撃する人も多かった
作者がそれについて、コメント返ししたりすることもあって調子に乗ってた
(逆に展開予想とか当たったらネタバレになるコメントはやめてくれ~って声も頻繁に上がってた)
なろう以外は知らんが、ストーリーとか設定のある作品がネットに上がってリアクション(文章で)取れるようになったら自然発生的に湧くのだろう
思い返せば、小学生の頃とか、ネットとかなかったけど、ゲームや漫画について友達とわいわい喋ってた
キン肉マングレートの中の人とかも、カメハメだな~、あ~こっからテリーかって冷静に読んでた
ネタバレなし。というかネタバレになる程の新展開はそんなにないかも。
全体の感じとしてはアニメの総集編と、更に解釈を分かりやすく付け加えてくれているような、エヴァでいう簡易版まごころを君に的な印象を持った。ああ、この感じ方で監督の言いたいことは間違ってなかったんだ的な。
銀河鉄道の夜未履修だし、色々詳しいことはわからないけれど、何だか人によっては救いのない作品なのかなと。
「例え運命がすべてを奪ったとしても、一度でも愛してると言われた子供は幸せを見つけられる」
と言っているように、この物語の大まかな結論はこれに尽きると思う。
生まれに恵まれなくても、環境に恵まれなくても、レッテルを貼られた人生でも、愛し愛される事で救われる事があると。
その通りだと思う。自分も結婚してて、幼少期とかあんまり恵まれた子供じゃなかったけど、今は愛し愛されて幸せ。
でもふと、愛し愛される相手を見つけられてなかったら?もし相手が死んでしまったら?と画家を前にしているような気持ちになる事があって。この今の幸せはただただ幸運に恵まれただけのラッキーと思っている。
じゃあ乗り換えできてなかったら?また呪いのレールに乗ってしまったら?そんな事誰しもにあり得る出来事だ。
そんな時にこの物語を見たらどう思っただろう?
愛がないと幸せじゃないのか?
愛を見つけられないのは産まれと同じくらい運のなす偶然であり、不条理ではないのか?
愛し愛されない人は来世に期待ってこと?
こんな感情だと思う。
ウテナ時代から幾原監督の作品は見ているけど、どの作品にも総じて愛(自己愛、他人からの愛)が重要なキーワードになっていて、幾原監督は愛を訴える人なんだなと。
それと同時に、監督も愛も平等ではなく、世の中が不条理である事を痛感していて、あえて完全にみんながハッピーになれる訳ではない、考察の余地の残る着地が常なのかなと。
昔はこうやって、良し悪しのはっきりしない、考察しがいのある作品を好んだけれど、大人になると現実を突きつけられているようでちょっと苦しくなる。名作という点に異存はないけれど。
感じるところはあれど、見に行く甲斐ある作品でした。トリプルHの歌声を映画館で聴けただけでなんかもう感慨深かった。
そろそろ上映数が少なくなるので、気になってる方は是非に。
仕事帰り、駅のホームに降り立つと、ガタガタと騒がしく走る反対車線の電車を横目に疲れた足取りを進める。やがて正面に見えるのはホームに雑然と建てられた小さな建物。『あんスタ』とだけ書かれたシンプルな看板を一瞥すると、横開きのドアをスライドさせて中に入る。入り口横に備えられている薄汚れた食券機で「ぶっかけひいあい」の食券を購入すると、カウンター向こうにいる店主へ無言で受け渡す。
注文品が出来るまでの少しの合間、半分閉じかけた瞼で店内を見渡すと、大方いつもいるような層ばかり。一人でなにかぶつぶつと呟いているくたびれたコートを着たらびおじ、イヤホンで何かの音楽を聴きながら涙を流している流星隊Pの女子大生、高いヒールをカツカツと不機嫌そうにならすOL風のUNDEAD担。
何かを考える気力もないまま立ち尽くしていると、ドン、とカウンターに丼が置かれる。その丼を手に取って、私も無気力な有象無象の一人になることにする。
ただ木の板が壁から張り出しているだけの席へ着くと、備え付けの割り箸から無造作に一本選ぶ。たいした力も入れなかったため、割り箸は綺麗に割れなかった。
ささくれた木の棒を手に、ひいあいの攻略を始めることとする。僕の行為を気に留める誰かもいない今、わざわざ食事の挨拶をする必要もない。
箸で一つまみひいあいをすくい上げると、湯気が出ているわけでもないのに、なんとなく食べるときのくせでふうふうと息を吹きかけてしまう。そして口元へ運ぶと、ずるりと音を立てながらすすり上げる。
しょっぱい、と感じる。おいしいおいしくない以前に、味付けが濃くて判別できない。こんなもの、きっと家でゆったり家族団欒を楽しみながら口にするものではない。
ただ、座る席もないような立ち食いの店で、時間をかけずに食べるにはちょうどいい。疲れた心、疲れた体ではきっと舌も麻痺していて、繊細な味付けなんかされたところでどうせ今の僕には理解できないだろう。
僕は無心でひたすらひいあいを口に運んだ。
ーーあんさんぶるスターズを一言で表すと何? と友人から聞かれたとき、僕の脳裏によぎったのはありもしない立ち食いそば屋での記憶だった。
ありもしないという通り、実際には立ち食いそば屋なんて一度も入ったことがない。すべて妄想であるため、立ち食いそばの実情と大分食い違う点があるだろうことをご留意いただきたい。
そもそもどうして友人があんさんぶるスターズについて僕に聞いてきたかというと、僕があんスタに沼ってるからとか、推しがいるからとか、そういう類の理由ではない。
むしろその逆で、仲間内では「あんスタアンチ」で通っているためである。
僕はことあるごとに「最近のオタクが軟弱なのはあんスタのせい」と口にしている。
友人は、逆にあんスタ沼へ落ちている人と話す機会ができたから、僕のあんスタに対する意見も聞かせて欲しいという塩梅だった。
その質問に対して僕はこう答えた。
一言で表すならあんスタは立ち食いそばだ、と。
僕があんさんぶるスターズを初プレイしたのはリリース当日だった。キャラクターデザインも美麗で見目が好みのキャラもいたため、プレイ前は期待を抱いていたように思う。
けれど実際にサービスが始まり、プレイして感じた違和感。
どいつもキャラが濃い。
奇抜な口調、過剰な趣味、人間味のない受け答え。
まあでも、多キャラものを通ってきた身としてはキャラが尖るのはよくあることだよなと思う。
そのときの僕は、まあ自分向けじゃないよな、程度に収めてプレイを止めた。
ただし、皆さんご存じの通りあんさんぶるスターズの勢いはすごいもので、周囲にあんスタ好きの人は多数いたし、積極的に摂取しなくとも副流煙でストーリーが理解できる程度には定期的に何かしらの情報が流れて来ていた。
また、同居人があんさんぶるスターズのとあるカプに沼ったことで、身近に触れることにもなった(当の同居人は現在あんスタと袂を分けている)。
僕もmusicが始まった際は再びインスコしてALKALOIDにうつつを抜かしたりもした(今でもたまにカプ検索はする)。
けれど人間関係と一緒で、一緒にいる時間が長くなればなるほど嫌いな側面というのは見えてくるもので、嫌な部分が過剰に見えてくると耐えられなくなってくるものだ。
やがてただの一ジャンルから嫌悪の対象へとあんスタを昇格させた僕は、自分があんスタを受け入れられない理由を求めて考察するようになった。
実際に以前よりあんスタに触れてみて、考察してみて分かったことは、濃いのはキャラクターだけではないということだった。
ストーリーは大味で、基本的に繊細さはない。
まずそもそも、改めて考えてみるとどうしてみんなアイドルを目指しているのかが分からないしストーリー上で明かされない。さらに、アイドル活動らしいことをストーリー中でほとんどしていない。
ライブステージが始まったかと思えば、急に時空が歪んだのかと思うくらいステージ上でめちゃくちゃ喋ってる。
女性向けゲームといえばキャラクター同士の人間関係も重視されるかと思うが、その人間関係においてもカレーにケーキを乗っけたみたいな料理が提供される。
あんスタ制作人はどうもカップリングを乱立させるのが好きなようで、いたるところで男同士を絡ませて地雷持ちカプ厨の息の根を止めていく。
新しく形成された二人の関係が精巧に描かれていればまだいいものの、実験を楽しむマッドサイエンティストみたいな気分でシナリオが提供されるため、キャラクターを元あるグループと別ユニットに所属させるなど、ファンを不安にさせることに余念がない。
また、新しく激重感情が交わされる人間関係が構築される場合、基本的に他の人間関係をすべて無視した上で行われるため、一人の人間が人によって仮面を使い分けているというよりは、パラレルワールドや二重人格の様相を呈する。
つまり、あんさんぶるスターズは細かな調味料の調整によってストーリーが作られているのではなく、砂糖と唐辛子と塩を混ぜ合わせて作った味付けの濃いコンテンツ、だと僕は認識している。
けれどその大味のコンテンツが、流行しているのも事実だ。
僕視点から見るとクソみたいなコンテンツだったとしても、見る人によってその価値は変わってくる。
例えば、あんさんぶるスターズを舞台上で演出される戯曲だと解釈する。<br<br>>ストーリーが大味なのも、会話がやたら長いのも、キャラクター設定が繊細でないのも、すべて舞台上から観客に届けるための演出である。
細かな仕草で伝えても見えない観客もいるかもしれないし、細々した心理描写を入れるのは舞台には適さないため必然と会話は多くなる。俳優の藤原竜也は演技が過剰でそれがネットミーム化することもあるが、あの演技は舞台で育ったからに他ならない。
我々は舞台上の彼らのやり取りを鑑賞しているのだ、と考えれば過剰な演出もおかしくはない。
ではどうして戯曲的な大味コンテンツが流行しているかという問題になってくる。
結論から言うと、あんさんぶるスターズは今の時代に適した形態で提供されているからこそ、人の心を捉えているといえる。
今の時代、世の中にアニメやゲームをはじめとしたサブカルチャーコンテンツなんていくらでも溢れていて、一つのコンテンツに多大な時間や集中力、意識を割けないと考えている人は多い。
他にも、ストレス社会と言われる現代、ジャンルに沼っていたとしても私生活の問題で時間が取れないこともある。
そもそも立ち食いそばの味付けが濃い理由は、立ち食いそばは舌の上に食材がのっている時間が短く、一瞬でも満足感を得られるようにするためだ、と記憶している。
あんスタも同様に、味付けが濃いので舌の上にのっている時間が短くても満足感が得られる。
深く味を吟味するには向いていないが、短時間で楽しめるアトラクションではあるといえる。
あんスタは基本的に、一人のキャラクターが他のキャラクターとフラグを建てているときに、他のフラグをすべて忘失する傾向にある。
例えば、真白友也は氷鷹北斗の前にいるとき日々樹渉の存在が消えるし、逆に日々樹渉の前にいるとき氷鷹北斗の存在は消失する。瀬名泉において、月永レオと遊木真をそれぞれ相手にしているときも同様である。
逆に捉えれば、例えば特定のカップリングを追っているだけであれば、他のキャラクターとの関係性を一切履修する必要がないのだ。
その分他のコンテンツに時間をさけるし、キャラ理解を深めるために地雷カプへ突入する必要がない(公式PV爆撃で地雷を踏むことはあるが)。
あんスタくんは公式が常に二次創作してるようなものなので、よく燃える。それゆえに、ファンが二次創作するにあたって公式以上に悪目立ちすることはあまりない。
また、キャラクター性は特に味付けが濃いため、二次創作する上で多少の改変が行われても紛れて悟られづらい。
要するに、公式のキャラクターに見た目や口調が相似していれば全部そのキャラクターっぽくなる、という二次創作における最大の強みを持っている。
極論、つまりあんさんぶるスターズは今の世間に向いたコンテンツではあっても、僕向きではないという話である。
以前、僕は運営会社を同じくするエリオスライジングヒーローズに片足突っ込んでいたこともあるのだけれど、ジャンルを離れた理由は「設定が雑」「運営が信じられない」「キャラが守られていない」だった。
あまり詳細に書くと長くなるので割愛すると、つまり自分が求めている作品には、世界観がしっかりしていて噛めば噛むほど味が出るようなキャラクターやシナリオが必須であると認識している。
カップリング前提で見ているのではなく、そのキャラクターや仲間、背景を知りたいと思うしさまざまな関係性によってその「推し」が形作られていく過程を吟味したいと思う。
自分のオタク志向的に、あんスタは合っていない、と感じた。
ただ、not for meなだけなら、ここまであんスタアンチに近い発言を繰り返すこともなかった。
あんさんぶるスターズは確かに現代に適した形態でコンテンツが提供されているだろう。一瞬舌に乗っただけでアトラクションが楽しめる大味なあんスタというジャンルは、簡単に「オタクしてる」感が味わえる。
ただしそれは同時に、「味音痴」を作り上げる結果になっているのだ、と僕は主張したい。
あんスタは一大ジャンルなわけで、あんスタを通ってきた人は非常に多い。
ただしあんスタに慣れてしまった人にとって、作品やキャラクターを吟味するという行為は推しを推すために必要な行為ではない。濃い味付けに慣れきってしまって、自分から味わいに行くことはしない。味わわなくても楽しめるし、そもそもよく噛んでも良い味がしないという学習をしてしまっている。むしろ、二次創作においてはセルフで醬油やわさびを足して自分好みに都合よく改変しても、元がカレーにケーキを乗っけてるようなものなので違和感を覚えない。
周囲を観測したり、色々なジャンルを渡り歩いていると、明らかに味音痴のオタクが増えてきたと感じる。繊細な味付けが分からないため、その作品やキャラクターに対して食レポができない。二次創作しても、キャラクターの見た目や名前や特徴的な口調だけが一緒の何かになりさがってしまっている。
他ジャンルでキャラ乖離が激しい・キャラ解釈がない人の過去ジャンルを見てあんさんぶるスターズがあったとき、何とも言えない気持ちになる。
そんな周囲の状況を見ていると、僕はどうしても「すべてあんスタのせい」と言いたくなってしまうのだ。
作品の推し方、作品との接し方というのは人それぞれだと思う。こうしろと強制するつもりはない。時代の移り変わりであり、この流れを受け入れるべきなのかもしれない。
ただ、一オタクとして小言を許してもらえるのなら、たまにはその作品をあなたなりに深く味わってみてほしいと思う。
そしてその料理がなにで構成されているのか、自分なりに考察してあなたの解釈を深めて欲しい。他人と同じ解釈にならなくて良い、正解なんてない。人の数だけ解釈があり性癖がある。
大多数のオタクが味音痴にならないで欲しいと、強く願う。
この文書で何が批判されているか知りたいだけの人は、一番下の節「まとめ」までジャンプ。
清水先生の講演についてここ一週間くらい悪口をTwitterで書いてた江口先生に、それブログに纏めてよと言ったら気が乗らないと断られてしまったので
「うまい人びとは、前に書いた辞書的定義や約定的定義や明確化定義や理論的定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます」
と最新のブログで書かれているのを、清水先生の講演を題材に自分なりにスケッチしてみる。
続き、というか中間にあたるのだが「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセル・カルチャーってなんだろう」を書くかは未定。
つまり、この記事は書き起こしで言う「Part1 〜学問の自由とその濫用〜 」の検討が中心だが
最後の方で全体を対象にする前に他のPartの検討を書くべきところ、途中で力尽きている。
とはいえだいたいPart1の検討とほぼ同じものを繰り返すだけ
を先に見ていることが前提。
の説明はほぼ書かないので、分からなければブログを参照するように。
1998年 国際大学協会(IAU)声明「学問の自由、大学の自治と社会的責任」による定義です。
「学術コミュニティの構成員、すなわち、研究者、教員や学生が、倫理的規則と国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由」
人びとがその言葉をどう使っているかを国語辞典の載っているような形で説明している。
「一般的には、〜〜、というふうに考えることができる。」
「従来はそして一般的には、〜〜、というふうに理解されています。」
世間一般の用法という文脈なわけですから、当然、スライドの引用の言い換えに相当する語釈が、聴衆には予期される、
同じく 辞書的定義 が与えられようとしているものと解釈されます。
実際に与えられた定義を見てみましょう。
ある種の公の定義であるIAU声明に対する言い換えとして、清水先生による定義を読んでみると一つ気にかかるところがあります。
と非常に具体的な形になっています。
世間一般の用法として紹介される割には、議論のあり得るところで
「こういうのは多数派も少数派もない、学問の独立って話なんですが、多数派からの圧力は特に抵抗しにくいので」
というふうに説明するほうが世間の認識とあっているように思える。
とはいえ、ここまでならば、代表的な「外部からの圧力」を並べただけ、ただの例示ゆえに言い換えの範疇であり、辞書的定義のままだと受け取ることもできる。
ただ、ここで私が書きにくくて困ってしまうのが、清水先生が「具体的に」何を批判されているのかさっぱりわからないことです。詳しくは後の節でも取り扱います。
「現代の誰かが主張している「学問の自由の侵害」とは、〜〜だ」と、清水先生が定義していると読める箇所を、少し文言を修正の上、抜き出します。
見事にすべて 説得的定義 ですね。江口先生のブログで挙がっている
「中絶とは、女性を望まない負担から解放する安全な外科的処置である」
などと同じ形式となっている。
ただ、読みながら何を論じているのかわからなくなって辛くなってしまうのは、
中絶の例ならば、中絶の 辞書的定義 は共有されているという前提のもとで、 説得的定義 を用いているのに対し、
清水先生は、この文脈での「学問の自由の侵害」とは 辞書的定義 の学問の自由の侵害とは全く異なるものだと論じていることです。
(下の2節は「どう論じているのか」という細かいレトリックの解説なので
どう辛いのかについては、「批判対象の曖昧さ、具体性の欠如」でページ内検索してジャンプ。)
これらは学問の自由の侵害の定義として読むことができるものであり、
先に導入された説得的定義「社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立て」とは対義の関係にある。よって等号で結ばれることはありえない。
ゆえに、「従来から論じられてきた一般的な節(辞書的定義)」学問の自由ではない、という論証。
しかし、これはIAU声明にはなく清水先生が付け加えた箇所のはずですね。
先程はただの例示と見ればという限定をつけて辞書的定義と認めました。
逆に言えば、「そうでなかったら学問の自由でない」というふうに使うならば、もはや例示ではなく、清水先生の独自見解です。
すなわち、この時点で辞書的定義として導入された学問の自由という概念が
「学問の自由を〜と私は定義します!」という約定的定義へとすり替えられているのです。
一旦まとめると、
「よくわからないものを」「なんか悪そうに定義して(説得的定義)」、
「その悪そうな要素にぴったり当てはまらない要素を、一般的な定義の中に紛れこませる(定義のすり替え)」
学問の自由とは
「力のある人たちとか多数派にとって都合が悪い、あるいはそこにとって利益にならないというだけの理由で、 研究教育を抑圧したり不当に妨げたりすることを困難にするはずのもの」
まさに、
「うまい人びとは、前に書いた辞書的定義や約定的定義や明確化定義や理論的定義なんかを縦横に駆使して説得にかかってきます」
そのものですね。
この一節は憲法学の理論を援用しているため、少し強引ですが理論的定義を示したものとも言えるでしょう。
実際、この定義を根拠に「学問の自由の侵害」を「なんか悪そうに定義した」説得的定義に対し
これは日本国憲法で保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。
なぜかけ離れているのかというのは詳しく述べられていませんが、
要は憲法学の理論「憲法は原則としては国家権力を監督するものであり、私人間効力の議論も私人相互に大きな権力差がある場合の話である」という話でしょう。
権力差をどう捉えるか、例えば「学界から事実上キャンセルできたというのは、権力差があったといえるのではないか」というのが憲法上の論点になるわけですが、
そこを 説得的定義 から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図でクリアするわけです。
ここまでいろんな種類の定義を用いたレトリックが使われてきましたが、
正直なところ、説得的定義から導かれる「抑圧側 VS 被抑圧側における抑圧側が学問の自由を主張している」という構図を用いた時点で
直感的にはそれは学問の自由ではないでしょうという話になります。
ゆえに最も問題になるのは、そう定義されるのが具体的になんなのかです。
清水先生は「こういった言説が具体的にどう現れてきたのかご説明したい」と30分近く説明してくださっているのですが、
書き起こしを全文検索してもらえればわかるのですが「学問の自由」を直接的に濫用している例として挙げられているといえるのは、
Horowitzによる、Academic Bill of Rights (ABOR) のみです。
ほか間接的な繋がりとしては「ポリティカル・コレクトネス」「キャンセル・カルチャー」の事例が話されているのですが
これも抽象的な定義の操作に時間を割いていて、具体的な文脈はほぼない。学問の自由とどう関係するかも全くと言っていいほど書かれない。
詳しくはそれぞれをどう定義しているのか、という点を検討する必要がありますが、
これは別の記事「(2) ポリティカル・コレクトネスってなんだろう」「(3)キャンセル・カルチャーってなんだろう」に譲り、
当記事「(1) 学問の自由ってなんだろう」では、直接的な例、ABORに絞ります。
清水先生はABORを曲解して参照しているのではないか、という指摘もあるのですが、
とりあえずここは論点にせず、清水先生の解説をそのまま採用します。
ABORの主張は、
「ナチスの政治哲学の擁護であるとか、あるいは進化論の否定であるとか、 そういうものを学術的に正当な主張の一つとして教えるべき」
「ナチス肯定論文を学問の自由で擁護することはできない(マルコ・ポーロ事件)」じゃないですよ?
むしろ、何が相手だろうと自由であると肯定する、過激な自由論者ほど否定する内容です。
「大学でナチスの擁護を正当な主張の一つとして教えるべき」、自由でもなんでもないじゃないですか。
まとめると、
最終的には、そして本質的には、清水先生は「学問の自由」について議論の余地のないことしか言っていません。
じゃあなんで議論になるのか。
清水先生の立場からすれば、「学問の自由」の濫用だと当然問題視しているであろう例が
清水先生にとって非常に身近な例であるはずのそれは2例あります。
このちょうどいい2人については講演では全く触れない。
特に後者の呉座先生については質疑応答で「学問の自由」を求めている人として名前が挙がったにもかかわらず、
「ちょっとわからない」「詳しくない」「法律の専門家ではない」「裁判をはっきりきちんと見ているわけではない」「労働争議であって学問の自由ではないんじゃないかなぁ」
との返事。
「そうです。呉座さんの事例こそが私が批判した「学問の自由」の濫用です」ではなく「詳しくない」。
訴訟の原告の1人であるからには詳しくないわけはないのですが、文字通り解釈するならば
この「学問の自由」の濫用批判において、呉座先生の事例は検討すらされていない、ということになる。
またこの回答の続きとして、呉座のことを言っているわけではないという注釈付きで、「学問の自由では擁護できない」例が出されました。
せめて多少は「学問の自由」と文脈がつながるように「酷いセクハラ・パワハラを長年犯してきた超一流哲学者が大学から追放されたことを、学問の自由で擁護はできない(ジョン・サール事件)」くらいにしましょうよ。
文脈がわかるくらい解説をつける具体的な例については、当たり前を超えてもはや関係のない例しか出さない。
それでいて、批判対象に対して一般に共有されるような辞書的定義には触れないで、
何を批判しているのかも厳密には不明確なまま、説得的定義に対する抽象的な定義操作を元に議論を行う。
・MejaBersihBanget
誰もが期待する前に、この記事では、本当に有名な監督とAnime映画の狭い領域からの例のみを使用しています。
細田監督、新海監督、今監督、高畑監督。最後の例は、原恵一監督の「百日紅」であり、おそらくここにいるほとんどの人々でさえも知らないだろう。
上記に対する返信
・Warm-Enthusiasm-9534
それは残念なことです。複雑な女性キャラクターが登場するハリウッドの名作をピックアップしてみましょう。ハリウッドとAnimeの違いが最も顕著に表れるのは、パルプショーの場合です。
普通のアニメ番組でも、複雑なキャラクターライティング(すべてのキャラクターにそのキャラクターを照らし出すバックストーリーがある)をしているので、千尋や三葉は基本的に典型的なものだと思います。
ハリウッドが10年で制作するよりも、Animeでは毎シーズン10人以上の印象的な女性キャラクターが登場するのではないでしょうか。
男性が主人公の番組でも、一番か二番目に生き生きと描かれているのは女性キャラでしょう。
今年10番目に人気のある番組の3番目のキャラクターが、キャプテン・マーベルのように複雑なキャラクター性を持っていることになる。
日米両国の経験者が「日本はアメリカより性差別が少ない」と言うのを聞いたことがないのは、ちょっと不思議な感じです。
その理由のひとつは、Animeは女性のキャラクターに欠点があっても、あるいは嫌われ者であっても、それを許容する傾向が強いからです。
明らかにろくでなしのキャラクターを登場させ、ストーリーの中で、なぜそのキャラクターがろくでなしなのかを説明し、とにかく好きにさせるのである。
男性キャラクターと同じように、人間の状態を代弁してくれるんです。Animeは毎年ワンダビジョンのような番組を制作しています。(この点では、アメリカのシットコムはドラマより優れている。コミカルなキャラクターには欠点があるからだ)。
もう一つの理由は、Animeの番組には女性のキャラクターがたくさん出てくるからです。
ティーンエイジャーの男の子をターゲットにした番組が、主人公以外のすべてのキャラクターを女の子にすることが大きな理由ですが、これは、キャラクターを区別するために番組がより努力しなければならないことを意味します。
Anime界では、ある番組で、あるいはそのシーズンで、あるいは歴代で、誰が「ベストガール」なのかを議論することが、ひとつのジョークになっている。
(アメリカのテレビ番組や映画で、誰が "ベストガール "なのかを議論できるものがどれほどあるだろうか。スター・ウォーズでは誰が「ベスト・ガール」でしょうか?キャプテン・アメリカ ファースト・アベンジャーでは誰が 「ベストガール」?議論になるほどの女性の登場人物はいません。)
逆説的ですが、ハリウッドは女性キャラクターをうまく扱わなければならないと考えていて、その方法がわからず、あきらめてしまうことが違いの一因だと思います。
だから、『ワンダーウーマン』よりも先に70年代のテレビ番組が映画化されたのです。日本では、それほど関心がないだけです。
例を挙げましょう。Re:ゼロに登場するテレシアというキャラクターは、5分ほどしか登場しませんが、11番目に重要なキャラクターです。
彼女は花が好きで、剣が嫌いで、剣に執着する男と出会うという設定です。
残念なことに、彼女はその年齢で最も偉大な剣の達人なので、義務によって剣聖(国を代表する剣の達人)として奉仕することを余儀なくされています。
彼と恋に落ちた彼女は、彼が剣聖になれるよう、決闘で自分を負かす。しかし、国に怪物が現れ、夫では太刀打ちできなくなり、最後に剣を取ることになり、そこで悲劇的な死を遂げるのです。
この物語をハリウッドのエグゼクティブに聞かせたら、脳みそがクラッシュしそうです。
この物語は、女性らしさについて何を言おうとしているのか。どんなメッセージを送ろうとしているのか?Animeの文脈では、何も言おうとはしていないんです。
女性キャラクターがたくさんいるので、さまざまなキャラクター設定をするスペースがあるのです。
第1期で一番人気のある女性キャラクターはメイスで人を殴りまくりますが、この作品にある唯一のメッセージは「彼女が生き残って、もっとメイスで人を殴りまくれるようになればいいじゃないですか」ということなんです。
出典
以下の内容でGoogle検索
For the Most Complex Heroines in Animation, Look to Japan reddit
「企業内システム担当者(SEでもプログラマでもない人)が、何かあったら外注のせいにして責任を逃れられる」
って書かれてて、なるほどなあと思った。
で、これを考察すると、これって江戸時代の武士の支配をしていたメンタルそのものなんだよな。
例えば徳川家の旗を間違えて燃やしちゃったり、雑巾にしちゃったりする。
そしたら領地減らされるとか、最悪は改易(飛ばされる)とか、遠島流刑。
こういう「1%のミスを許さない」っていう精神って、徳川家康が設計したものなんだよね。
家康は将軍を引退してからも実権を握ってたのが13年くらいあって、
息子の秀忠が馬鹿真面目だったってこともあって、「ならぬものはならぬ」みたいな上意下達な文化を作ったんだと思う。
大奥とかの文化も非常にクローズドでがんじがらめで、今の日本に近い文化だよね。
それが260年以上続いた。
江戸以前の戦国時代はその逆で、「勇敢な行動の末のミスであれば武士としてあっぱれである」
みたいな文化だったんだよね。もちろん「勝手な行動は死罪」というのは軍においてはそうであったけど、
基本的にスピードと結果が全ての世界だったから、許されることも多かった。
何より信長や秀吉が好んだのは「臨機応変さ」「勇敢さ」であって、企業でいうベンチャーマインドに通じると思う。
秀吉は朝鮮出兵などで自爆してしまったけど、信長がもし織田政権を長期化させていたら、
楽市楽座とか、重商主義なところも、石高社会の当時の日本としては画期的だったからね。
まあ、家康は偉大ではあるけれども、日本人を停滞させた側面はあっただろうね。
何パーセントかは信長・秀吉のベンチャーマインドが許容される国であっても良かったと思う。
日本人の責任を取りたくない、悪い意味での臆病さが、外注という甘えを生みだして、
で、その臆病さの源泉は何かっていうと、終身雇用にあるんだよね。
アメリカみたいにスキルアップして飽和したら、数年おきにステップアップ転職する、っていう文化がないからね。
一生面倒を見てもらうわけで、ちょっとミスしたら一生居心地が悪くなってしまう。
そんな気持ちが見て取れるよね。
村八分されたくないから、村の外から工事人工を雇うってことなんだろうね。
で、話は戻るけど、多重下請けスキームにおけるエンドユーザー企業にいる、
エンジニアでもない「システム担当者」って結局なんなの?とも思う。
イメージ的には、江戸時代の城の中の座敷で座ってる人って感じ。
めっちゃ座り方が型にはまってる感じの。
「殿中まかりこしまし早漏」とか言ってそうな人(知らんけど)。
何ができるかっつーと何もできないけど、殿中まかりこしまし早漏の言い方はうまい(笑)。
座敷おっさん「うむ!節々のこといっさい任せたぞ!」みたいな。
あとは500人で済む工事を1000人で見積もらせる、金への執着、欲望の深さも大事な素養である。
ちなみに信長は二条城の改修を驚くべき短期間と完成度で仕上げたそうだが、
その時には自分も粗末な服を着て、身分の低い人工たちと身分の差なく語り合い、
トップダウンで進めたという記録が、フロイスによって残されている。
よく考えれば城が立派に早く完成すればいいわけで、
「工事の計画文書、第100版を作りまかりこしもうした」って毎日やるのが目的じゃないものな。
まかりこしもうしたやってる間に城郭を強化したり街道を整備してる。
これは現代でも同じ。最終目的がわかってるのがアメリカの強さ(=信長の強さ)なんだろうな。
だから日本がExcelポチポチやってる間に、AWSやAzureを作ってしまった。
とはいえ公正取引委員会とかIPAやデジタル庁が、問題を認識して動いているから、風向きは変わっていくかと。
https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/mag/nc/18/020800017/072600752/
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まず、アモングアスにおいてゴースティングが悪いとされている理由から書きます。
アモアスは説明するまでもなく匿名性の高い人狼系ゲームである為、ゴースティングにおいて他のプレイヤーの情報を知ってしまうと勝利に近づいてしまいます。
つまり、競技の公平性が失われ、ゴースティングしているプレイヤーにとって勝利しやすく得に、それ以外のプレイヤーにとって負けやすくなり損になるから悪とされいてます。
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うるさくてすみま船って、勝利しやすいと得になる環境でしょうか?
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うる船の、それこそ今回問題となっているなかのっち氏のうる船動画ですが、タイトルが【面白総集編】となっています。
通常アモアス動画といえば試合通して試合展開を楽しむものですが、なかのっち氏の動画を見ても試合の結果すら分からないしどこが試合の切れ目かもわかりずらい・・・。
それこそ動画の内容に勝ち負けが出ることは稀で、タイトル通り面白い場面の総集編となっています。
うる船に参加しているプレイヤーの皆様の動画は通常のアモアス動画通り一戦ごととなっていることが多いですが、勝敗がメインになることは少なく、こんなおもろいことがあったで!という内容の動画となることが多いです。
。
と、いうか、うる船って、インポスターが分かっても黙ってる場面って多いですよね。
絶叫キルとか突然歌いだしたら逃げればいいのに、逃げずに斬られるの待つよね・・・。
たけぉにきの『呪いの絵画』の時も、みんな分かってたけど最後までぉにき釣らなかったよね・・・。
以上のことから、うる船において勝敗は二の次で、面白い動画を取ることを最優先にした船だという認識です。
。
それこそ、絶叫キルなんてプロレス技仕掛ける人としかけられる人の様式美そのものです。
プロレスに詳しいわけでは無いですが、アナウンサーがこう絶叫してるのを聞いたことがあります。
「あーーーーー!これはルール違反だーーーーーーー!!!!!!これはよくありませんねーーーーーー!!!!!」
それこそヒールなんて、ルール違反するのがお仕事みたいなものです。
プロレスにルール違反があって問題無いのは(あるのか?)、勝敗よりもエンターテイメントとしておもしろいこと優先した結果、ルール違反も芸の内という事だと思います。
じゃあうる船がルール違反あっていいのか?といえばルールとして決まっていることを破るのはダメだとは思います。
がしかし、勝利して得になる為にするゴースティングが勝利して得にならないうる船においてどれほど悪いことなんだろうか?という疑問です。
。
それに対して、『高田村』をスポーツに例えると総合格闘技のような、真剣勝負を楽しむエンタメだと思っています。
それこそ高田村参加者のUPする動画は「いかに勝利したか」「いかに考察したか」であって、アモアスそのものを楽しむ動画となっています。
もちろん面白おかしい事は多々あるんですが、それはあくまでアモアスの添え物としての存在で、メインではないんですよね。
というか、真剣勝負だからこそ「メイン・シャワー・メイン・シャワー」みたいな突拍子もない事が起こり笑いになるという事が多いと思います。
真剣勝負でルール違反をしたら、それこそ「秋山ぬるぬる事件」のような事が起きたら大事件だし、無期限出場停止処分にもなるかと思います。
。
アモアス真剣勝負をする⇒良い勝負になったり思わぬ笑いが生まれたりする⇒エンタメが生まれる
〇うる船の場合
エンタメをする⇒そのツールとしてアモアスを使う⇒面白い事が起こる。
どのアモアスもエンタメではありますが、エンタメが文章のどこに来るかは違うんですよね。
それは競技特性の違いによって、その競技とエンタメ性との兼ね合いが変わり、一言でエンタメと言ったときのニュアンスによって定義が変わります。
エンタメを辞書で引けばスポーツも入るので高田村も間違いなくエンタメではあるのですが、ミネさんの言うエンタメのニュアンスは主語がエンタメか否かだと思われます。
そのあたりで誤解が生じたかなとは思いますが、言ってること自体は特段間違えてはいないんですよね。
尚、別に最後にエンタメが来るからと言って高田村の方がエンタメが薄いという論は成り立ちません。エンタメの性質が違うだけです。
しいて言うならば、高田村はアモアス無くしては成り立ちませんが、うる船はアモアス無くても成り立つ可能性があります。
マイクラでエアシップ作ってた時もアモアス並みに楽しかったですし、あのメンツで何かやればどんなゲームでもうる船になり得ます。
。
高田健志氏がツイッターでゴースティング=悪論を論じていますが、どうにも高田村=総合格闘技のルールの話ででしかないと感じています。
それに対してうる船の、しかもソシャングアスというよりエンタメ性の濃いプロレス芸にそれを当てはめるのが適切とは考え辛いかと思います。
同じアモングアスで行うゲームですが、エンタメの性質の違いでルール違反の深刻度が変わることはありえるでしょう。
それは同じリングで行う競技でもプロレスと総合格闘技が全く違うものであるように。
。
以上、なかのっち、そんなに悪くないと思う。でした。
なかのっち氏がゴースティングでえらい叩かれているけど、そんなに悪くないと思うんだが・・・。
まず、アモングアスにおいてゴースティングが悪いとされている理由から書きます。
アモアスは説明するまでもなく匿名性の高い人狼系ゲームである為、ゴースティングにおいて他のプレイヤーの情報を知ってしまうと勝利に近づいてしまいます。
つまり、競技の公平性が失われ、ゴースティングしているプレイヤーにとって勝利しやすく得に、それ以外のプレイヤーにとって負けやすくなり損になるから悪とされいてます。
『ゴースティングしているプレーヤーにとって勝利しやすく得に』
うるさくてすみま船って、勝利しやすいと得になる環境でしょうか?
うる船の、それこそ今回問題となっているなかのっち氏のうる船動画ですが、タイトルが【面白総集編】となっています。
通常アモアス動画といえば試合通して試合展開を楽しむものですが、なかのっち氏の動画を見ても試合の結果すら分からないしどこが試合の切れ目かもわかりずらい・・・。
それこそ動画の内容に勝ち負けが出ることは稀で、タイトル通り面白い場面の総集編となっています。
うる船に参加しているプレイヤーの皆様の動画は通常のアモアス動画通り一戦ごととなっていることが多いですが、勝敗がメインになることは少なく、こんなおもろいことがあったで!という内容の動画となることが多いです。
と、いうか、うる船って、インポスターが分かっても黙ってる場面って多いですよね。
絶叫キルとか突然歌いだしたら逃げればいいのに、逃げずに斬られるの待つよね・・・。
たけぉにきの『呪いの絵画』の時も、みんな分かってたけど最後までぉにき釣らなかったよね・・・。
以上のことから、うる船において勝敗は二の次で、面白い動画を取ることを最優先にした船だという認識です。
それこそ、絶叫キルなんてプロレス技仕掛ける人としかけられる人の様式美そのものです。
プロレスに詳しいわけでは無いですが、アナウンサーがこう絶叫してるのを聞いたことがあります。
「あーーーーー!これはルール違反だーーーーーーー!!!!!!これはよくありませんねーーーーーー!!!!!」
それこそヒールなんて、ルール違反するのがお仕事みたいなものです。
プロレスにルール違反があって問題無いのは(あるのか?)、勝敗よりもエンターテイメントとしておもしろいこと優先した結果、ルール違反も芸の内という事だと思います。
じゃあうる船がルール違反あっていいのか?といえばルールとして決まっていることを破るのはダメだとは思います。
がしかし、勝利して得になる為にするゴースティングが勝利して得にならないうる船においてどれほど悪いことなんだろうか?という疑問です。
それに対して、『高田村』をスポーツに例えると総合格闘技のような、真剣勝負を楽しむエンタメだと思っています。
それこそ高田村参加者のUPする動画は「いかに勝利したか」「いかに考察したか」であって、アモアスそのものを楽しむ動画となっています。
もちろん面白おかしい事は多々あるんですが、それはあくまでアモアスの添え物としての存在で、メインではないんですよね。
というか、真剣勝負だからこそ「メイン・シャワー・メイン・シャワー」みたいな突拍子もない事が起こり笑いになるという事が多いと思います。
真剣勝負でルール違反をしたら、それこそ「秋山ぬるぬる事件」のような事が起きたら大事件だし、無期限出場停止処分にもなるかと思います。
アモアス真剣勝負をする⇒良い勝負になったり思わぬ笑いが生まれたりする⇒エンタメが生まれる
〇うる船の場合
エンタメをする⇒そのツールとしてアモアスを使う⇒面白い事が起こる。
どのアモアスもエンタメではありますが、エンタメが文章のどこに来るかは違うんですよね。
それは競技特性の違いによって、その競技とエンタメ性との兼ね合いが変わり、一言でエンタメと言ったときのニュアンスによって定義が変わります。
エンタメを辞書で引けばスポーツも入るので高田村も間違いなくエンタメではあるのですが、ミネさんの言うエンタメのニュアンスは主語がエンタメか否かだと思われます。
そのあたりで誤解が生じたかなとは思いますが、言ってること自体は特段間違えてはいないんですよね。
尚、別に最後にエンタメが来るからと言って高田村の方がエンタメが薄いという論は成り立ちません。エンタメの性質が違うだけです。
しいて言うならば、高田村はアモアス無くしては成り立ちませんが、うる船はアモアス無くても成り立つ可能性があります。
マイクラでエアシップ作ってた時もアモアス並みに楽しかったですし、あのメンツで何かやればどんなゲームでもうる船になり得ます。
高田健志氏がツイッターでゴースティング=悪論を論じていますが、どうにも高田村=総合格闘技のルールの話ででしかないと感じています。
それに対してうる船の、しかもソシャングアスというよりエンタメ性の濃いプロレス芸にそれを当てはめるのが適切とは考え辛いかと思います。
同じアモングアスで行うゲームですが、エンタメの性質の違いでルール違反の深刻度が変わることはありえるでしょう。
それは同じリングで行う競技でもプロレスと総合格闘技が全く違うものであるように。
以上、なかのっち、そんなに悪くないと思う。でした。
行政手続法は、1993年に制定された当初、その対象を(1)処分(申請に対する、不利益)、(2)行政指導、(3)届出の3つに限定していた(行手法1条2項。なお「命令等を定める手続」が追加されたのは2005年改正)。この3つは限定列挙である(註1)。
対象がこのように狭く限定されたのは、比較的異論の出難いものに対象を絞り、その実現を容易にしようとした、という政策上の理由だった(註2)。むろん異論を唱えていたのは、手足を縛られたくない霞が関の官僚であり、長年与党に君臨し続けていた自民党である。
宗教法人法は、宗教法人が名称を変更する場合、「所轄庁(文化庁)の認証を受けなければならない」と規定する(宗教法人法26条1項)。認証は、(1)処分、(2)行政指導、(3)届出のいずれにも該当しない(註3)。
以上より、宗教法人の名称変更には行政手続法の適用がない。1997年に前川氏が文化庁宗務課長として決めた、統一教会の名称変更を不受理とする水際対処方針は、違法ではない。
第2次安倍政権の下村文科相下の2015年8月に、この方針が変更され名称変更申請が受理され認証された。この間、行政手続法は数次の改正を受けているが、22年8月現在も認証が対象に含まれないことに変わりはない(註4)。
むろん文化庁の対応が、堂々と胸を張れる正当なものだったかは議論の余地があるだろう。違法性と不当性は別の問題である。違法ではないとしても不当という評価はあり得る。行政手続法が対象を限定したものだったとしても、行政手続の明確性・透明性を図るという精神に反するという批判ができるかもしれない。文化庁の取り扱いは、宗教法人法の恣意的運用であるという批判ができるかもしれない。この点は次の3で考察する。
まずここまでの流れを見ておく。日本の行政は、昭和の時代、各種のグレーゾーンに漂う手法
などが公然用いられる不透明なものだった。どこが担当か明らかにせず、省庁をたらい回しにするなども問題視されていた。
平成に入ると国会は限定的ながら行政手続法を制定した。行政法学における議論の進展、それらを反映した判例法理が、一定の規範を提示する努力をしてきた。しかし、もともと行政が対象とする活動は極めて広範多岐に渡る。それぞれの分野で専門技術的知識が要求される。官僚の高い専門的見識に依存せざるを得ない部分がどうしても大きい。すべてを詳細に法律であらかじめ定めて、グレーゾーンをなくすことは不可能ともいえる。
ところが、それを口実に官僚と政治家は、行政をコントロールする詳細な法律の制定を極力回避しようとする。仕事は誰だって自由気ままにやりたいのだ。都合の悪い話には手をつけたくないのが世の常だ。省庁の業界団体や国民個人に対する影響力は、省庁の権力の大きさそのものである。当然、予算獲得にも影響する。天下りに代表される利権だってあるかもしれない。政治家は口利きで介入できる余地をできるだけ多く残したい。特に閣僚を選出でき、影響力が大きい与党政治家にとっては、政治力と集票力の源泉となる。これらがひどい場合、汚職問題まで発展することになるわけだ。
現在でも日本の行政は運用にゆだねられている部分が大きい。あげ連ね始めれば、文化庁が統一教会の名称変更不受理で行った程度の話など、あらゆる省庁から出てくるだろう。(むろんそれを放置していいと主張するわけではない)
宗教の名を借りて悪徳商法まがいの献金集めを行う集団が、その悪名を隠すために名称変更を試みる場合、端的に拒絶できる仕組みが必要だった。被害拡大を防止して国民を守るためである。あるいはそもそもそのような集団が、宗教を隠れ蓑に宗教法人としての信用・恩恵を得ていること自体がおかしい。宗教法人になることを認めるべきではない。法人化後でも剥奪するシステムを用意すべきだろう。しかし、1997年当時(そして現在も)、そのような仕組みは作られていない。国民を守る法律がなかったことが問題なのだ。作らなかったのは長年与党だった自民党の責任が最大だ。
法律がない中、文化庁はギリギリ違法とはならないラインで、不受理方針を決めた。統一教会が名称変更できなかった不利益を過大評価して、文化庁の方針を不当と断じたらどうなるか。それは統一教会による被害拡大は黙認するという考えと表裏一体である。文化庁の方針を不当とはいえないだろう。付け加えれば、統一教会の名称変更不受理によって、文化庁や前川氏個人が受ける利益は想定できない。ここに私利私欲はない。
一方、この方針を変更して統一教会の名称変更を受理した安倍政権・下村文科大臣(当時)はどうだったか想起してみるべきだ。既に自民党(清和会)と統一教会の関係は、外形的公正性が破綻している。
安倍政権下で私利私欲疑惑が持ち上がるたびに、そもそも従来の行政運用が形式的に法令に乗っ取っていない、違法だという切り返しが政権周辺から繰り返された。清和会がらみだと、通常ではお目にかかれないような擁護の弾幕が張られる。あるべき法がないための苦肉の運用がなされている時、形式論で法令通りの運用に戻しただけとうそぶき、私利私欲を満たすのが政治家の仕事ではない。国民のために必要な立法を行い、法改正をするのが政治家の仕事である。
統一教会は朝鮮半島の被害者性を根拠に、日本からお金と女性を韓国のために献上することを正当化するかの教義を掲げている。これまで霊感商法や合同結婚式で多くの日本人被害者を出してきた。政府自民党は長年にわたって、そのような団体と政治的に連携してきた。国民に注意喚起すべきところ、安倍政権下では逆にお墨付きを与えたと捉えかねない言動を強めた。
統一教会問題は、政府自民党がそのような団体と明確に手を切り、国民を守るために責任ある態度に転換できるか否かが本質である。
註1 塩野宏「行政法Ⅰ」有斐閣(第3版、2003年)p249
註2 藤田宙靖「行政法Ⅰ(総論)」青林書院(第4版、2003年)p151
註3 前川氏が「「認証」は事実を認定する行為を指し、「許可」や「認可」とは性質が異なります。」とわざわざ指摘しているのはこの意。
より正確には、認証とは、一定の行為や文書の成立・記載が正当な手続によってなされたこと(事実)を行政が確認する行為。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/308472
https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/gyoukan/kanri/tetsuzukihou/faq.html#Q01
2022.7.24 一般公開シンポジウム 「フェミ科研と学問の自由」
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI
長いため講演部Part1~Part5+質疑応答の6部に分割する。
分割の境界はスライドにある番号に従うが、副題は増田の判断である。
スライドはすべて図表のない文字ベースのものであったため、引用記法を用いて本文に組み込んだ。
講演部については、「女性スペースを守る会」が公開している文字起こしをベースに、
増田が誤字の修正や、句読点の変更、改行の追加などの編集を行った。
まず、江口聡先生による、8/9のブログ記事は必読だと考える。
加えて、講演に対する批判として書かれたものではないが、一般論として「キャンセル・カルチャー批判」的な立場で書かれたベンジャミン・クリッツァー先生の記事、
なども参考になる。これら2記事は、江口先生も講演に欠いている「ミルのタイプの言論の自由の擁護」として紹介されている。
また、あまり整理がされていないが、この講演に対するTwitter上の批判的な反応を一覧できるものとして、
他、法学の専門家による分析という点で他になく注目に値するものとして、
(あと、この書き起こしを編集している私自身も手前味噌ながら批判記事を書いている。「清水晶子先生の講演を読んで見る (1) 「学問の自由」の定義ってなんだろう」anond:20220809001101 )
anond:20220805225632 Part1 〜学問の自由とその濫用〜
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
anond:20220805230017 Part3 〜Academic Bill of RightsとProfessor Watch List〜
anond:20220805230307 Part4 〜キャンセル・カルチャー批判〜
anond:20220805230534 Part5 〜Ahmedが見立てたキャンセル・カルチャー批判のメカニズム〜
anond:20220805230705 Part6 〜質疑応答〜
https://www.youtube.com/watch?v=FP8rL7KfisI&t=2457s
40:57~48:23
清水さんは東京大学大学院総合文化研究科で教鞭を執られています。
研究関心としては非規範的な身体と性の政治、とりわけ身体の他者性、自己表象と生存の戦略、可視性を巡る問題などがあります。
最近は英語圏のフェミニズムおよびクィア理論史を改めて辿ることにも興味があるとのことです。
主な著作に、
Lying Bodies: Survival and Subversion in the Field of Vision、英語の本です、2008年、
「埋没した棘――現れないかもしれない複数性のクィア・ポリティクスのために」、2019年、
『フェミニズムってなんですか?』、2020年、などがあります。
清水晶子:
はい、ご紹介ありがとうございます、清水晶子です。もうそのまま入っていきますが、
本日は「学問の自由とキャンセル・カルチャー」というタイトルで報告をしたいと思います。
少し方向性が違うかもしれないんですが、よろしくお願いします。
学問の自由とは
「学問の自由という原則は、学術コミュニティの構成員、すなわち、研究者、教員や学生が、倫理的規則と国際的水準に関して学術コミュニティが定めた枠組みの中で、そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由と定義できる」
学問の自由というところからいきたいんですが、学問の自由とは何を指すのか。
政府なり場合によっては非常に強力な宗教だったり経済的な権力だったりというところからの圧力を受けることなく、
さらに言えば個々の研究者が、大学当局だったりとか大学の経営陣あるいは多数派の社会的通念・経済的な要請などからの
不当な干渉や抑圧を受けることなく、学問的良心と手続きとに従って真理を探究する自由、というふうに考えることができる。
例えば、1998年の国際大学協会声明「学問の自由、大学の自治と社会的責任」という文書があるんですが、これによると
「学問の自由という原則は、学術コミュニティの構成員、すなわち、研究者・教員・学生が、
倫理的規則と国際的水準に関して学術的コミュニティが定めた枠組みの中で、
そして外部からの圧力を受けることなく、学術的活動を追求する自由と定義できる」というふうにされています。
学問の自由というものの基本がここにあるというふうに考えると、フェミ科研裁判の文脈における学問の自由の主張というのは、
ある意味まさにここに相当するもの、王道の部分というふうに言うことができるというふうに思います。
「過激な性教育・ジェンダーフリー教育調査プロジェクトチーム」
残念ながら、日本でフェミニズムとかマイノリティの政治に関わる研究者にとって、
今言ったような意味での学問の自由というのは、必ずしも安定して保障されてきたものではない。
だからこそ、その必要性というのはしばしば痛感もされてきましたし、主張もされてきました。
2000年代前半のフェミニズム女性運動へのいわゆる「バックラッシュ」いうのがありまして、
ここでは与党自民党のプロジェクトチームにおいて、ジェンダーという語それ自体の使用に疑義が提示されたりしている。
2014年には、いわゆる「従軍慰安婦」問題を取り上げた広島大学の研究者の授業というのが、
先ほども産経新聞出てきましたけど、ここでも産経新聞ですが、産経新聞によって吊し上げにあって、
批判や抗議が大学に殺到し、日本科学者会議広島支部幹事会が学問の自由の侵害であるというふうにして、
産経新聞に抗議をする、声明を出すという事態になったりもする。
もちろんさらに記憶に新しいのは、2020年日本学術会議の会員任命拒否ですね。つまり当時の菅内閣総理大臣が、
日本学術会議が会員候補者として推薦した内の6名の任命を拒否した、というかしなかった件ですよね。
この任命拒否については、憲法23条の保障する学問の自由を脅かすものであるというふうにして、
2011年11月に、日弁連が「日本学術会議会員任命拒否の違法状態の是正を求める意見書」というものを総理大臣に提出をしていると。
この意味での学問の自由の重要性というのは、本日のシンポジウムのいわば前提になっているものだというふうに考えます。
差別的・抑圧的な言説に対して政治的・経済的に力のない側、社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立てを「学問の自由の侵害」とする言説
その前提をご確認いただいた上で、私の報告は少し角度を変えて、学問の自由という主張や枠組みがどう利用されているのか、
もう少し強く言うと、どう濫用されているのかでもいいかもしれないんですが、それを考えたいと思います。
今申し上げたように、従来はそして一般的には、学問の自由というのは、
国家とか、強力な宗教団体、経済団体、多数派の社会通念や経済的要請、などなどの圧力を受けることなく、
研究者の社会的通念と研究の手続きに則って真理を探究する自由を指す、というふうに理解されています。
力のある人たちとか多数派にとって都合が悪い、あるいはそこにとって利益にならないというだけの理由で、
研究教育を抑圧したり不当に妨げたりすることを困難にするはずのものです。
ところがこの学問の自由の主張が、全く逆のベクトルで利用されることがある。
すなわち差別的・抑圧的な考察や言説に対して、政治的・経済的に力のない側、社会的少数派の側からなされる批判や異議申し立てを、
これは「学問の自由の侵害」であるというふうにする言説、というのが見られるようになっている。
これは日本国憲法で保障される学問の自由からはかなりかけ離れたもので、何を言ってるんだというふうに思われるかもしれません。
けれども法的な解釈とは別のところで、こういう言説上の戦略というのが一定の効果を持ってきているのも事実です。
二面での闘い
結果として、フェミニストとして学問の自由を考えるにあたって、
私たちは一方では、フェミ科研裁判のように国家による学問の自由の明白な侵害というものと闘わなくてはいけない。
けれども同時にもう一方で、学問の自由というのが、差別的あるいは抑圧的な現状を追認し、
抑圧されてきた側からの異議申し立てを封じる目的で動員されるということに対して警戒をしなくてはならない。
学問の自由を巡っては、フェミニストには現在そういういわば両面での闘いというものが要請されている。
この現状は忘れるべきではないと思います。
実は今日、私からお伝えすべき論点はそこに尽いているので、ここで報告終わってもあんまり問題ないっていう感じなんですが、
ちょっとさすがにそれでは簡便過ぎるので、この後の時間を使って、
こういうタイプの、マイノリティの権利主張を抑圧する目的で動員される「学問の自由の侵害」という枠組み、
この言説というのが具体的にどう現れてきたのか、
これが非常に大きな論点になってきた英語圏の動きというのを中心に、簡単にまとめてご説明したいと思います。
anond:20220805225835 Part2 〜ポリティカル・コレクトネスという言説戦略〜
During my lifetime I've probably drank enough whisky to fill an Olympic size swimming pool, but whisky flavoured foods of any description should be avoided like the plague.
私は一生の間に、おそらくオリンピックサイズのプールを満たすのに十分な量のウィスキーを飲みましたが、どのような種類のウィスキー風味の食べ物もペストのように避けるべきです.
An Olympic-size swimming pool is used as a colloquial unit of volume, to make approximate comparisons to similarly sized objects or volumes. It is not a specific definition, as there is no official limit on the depth of an Olympic pool. The value has an order of magnitude of 1 megaliter (ML).[1]
オリンピック サイズのスイミング プールは、口語的な体積の単位として使用され、同様のサイズのオブジェクトまたは体積とのおおよその比較を行います。 オリンピックプールの深さには公式の制限がないため、これは特定の定義ではありません。 値は 1 メガリットル (ML) の大きさのオーダーを持っています。 [1]
エタノールの比重を約0.8g/cm3とすると、一日の許容量は40度のウィスキー約62.5mL
毎日ウィスキーだけ飲み続けたとして、1MLに達するのは、1,000,000,000(mL)÷62.5(mL/日)=16,000,000(日)。うるう年を考慮せず365で割った結果は、43,835年と225日
期間を50年以上、20,000日と仮定する。1,000,000,000(mL)÷20,000(日)=50,000(mL)。Lに直すと、一日あたり50リットル以上
ウィスキーのダブルは約60mLになる。これを一日3杯ずつ20,000日間飲んだとすると、180(mL/日)×20,000(日)=3,600,000(mL)=3,600(L)
この程度の量を計るのに適切な単位はバレルだろう
バレル - Wikipedia
アメリカでは、用途によらない標準の液量バレル (standard barrel for liquids) は31.5米液量ガロン(正確に119.240 471 196リットル)である。
ただし、税法上、ビール用のバレル (standard beer barrel) は31米液量ガロン(正確に117.347 765 304リットル)となっている。
一方、穀物や野菜などに用いられる標準乾量バレル (standard dry barrel) は、105乾量クォート(約115.6リットル)と定義されている。
イギリスでは、標準のビールバレルは36英ガロン(正確に163.659 24リットル)である。石油用のバレルを英ガロンで表すと約35ガロンとなる。
さらに、用途によっては質量によるバレルの定義が行われている(例:小麦粉=196ポンド、セメント=376ポンド)。
ワインやウイスキーなどの酒類の貯蔵に用いられる樽の種類でバレルと呼ばれるものは、容量42 - 55米ガロン(約208.2リットル)くらいまでのものが用いられる。
「私は一生の間に、おそらく樽2ダースを満たすのに十分な量のウィスキーを飲みました」と言い換えれば大ボラをつかずに済むということになる
俺はここで「私はゴミの分別が苦手です」というような話を少しでもしたか?
いっさいそういう話はしていないのだが?
どちらかというといつもいつも燃えるゴミと燃えないゴミを区別しなかったり、細かい鉄屑とかをガムテープでぐるぐる巻きにして燃えるゴミに混ぜたり、
あと個人的な趣味としていろんなジャンルのいろんな分類を細かく分けたり考察するのが楽しい人間なのだが?
俺はここで自分がゴミの分別が得意か苦手かの話なんかしていない。
俺はずっと一貫して「撮り鉄マインドを許さない」という話しかしていない。
こういう読解力ゼロの奴しかいないんだから日本の学校教育では国語教育は「行われていない」と考えるしかない。
日本語の文章を正しく読める日本人が殆どいないんだから日本はもう既に滅亡済みである。
ゴミにおける撮り鉄マインドとは、全く何の合理性もない無意味な分別ルールに偏執的にこだわる事の話をしているのだが
だいたいの日本人はみんな撮り鉄マインドだからそれの何がおかしいのかを理解できないのだろう。
だから燃えるゴミと燃えないゴミを平気で一緒くたにするくせになぜかペットボトルは燃えるゴミか燃えないゴミかとかいう心底どうでもいいことには神経質にこだわるのだ。
日本人がやることは全てこれ。
よくブラック部活のやり玉に挙がる部活といえば、文化部だと吹奏楽部が筆頭だろう。
でも論文を書く系の部活だって、いくらでもブラックになりうる。
それも大学院の研究室とかでありがちな、ピペドなどとは全く違う次元で。
そもそも初等・中等教育レベルの児童・生徒が書く論文なんて、その内容が訴える「科学する心」で読者をいかに感動させるかくらいしか、評価できるものがない。
だから研究テーマも、実験結果も考察も、全てはその手段に過ぎないわけで。
こういう事書くと特に博士持ちの奴が色々うるさく言ってきそうだけど、学部とか院とかの学生やプロの学者が書く論文とは、そもそもゲームのルールが違うんだよ。
このルールの違いを理解していてもなお異論がある先生方は、トラバにでも書いといてください。
さて、とにかくこの「科学する心」の表現は、「めちゃくちゃ頑張って、たくさんのボリュームをきちんと綺麗にまとめた感」をどう出すかがポイントになる。
これなら多少科学リテラシーのないアホでも形になるので。
そうなると、論文原稿も昔だったら万年筆手書きが鉄板だったけど、流石に今の時代はパソコンでいいとは思う。
ただその場合はページ数を稼ぎにくいのと、高品質な組版ソフトに高品質な商用フォントを揃えるのがほぼ必須になるので、多分結構なカネがかかると思う。
そしてページ数を稼ぐのに忘れてはならないのが実験データで、これは数字が連続してたくさん出てくる内容のものを、数十ページにわたってひたすら並べて印刷したものと、それをこれまた長大にグラフ化したものの両方を用意する。
これを全ての実験で行えば結構な量になるので、最終的には200~300ページの成果物を目指す。
関係者への謝辞にも、きちんと頭を悩ませる。学生らしい爽やかなイメージを稼ぐ貴重な箇所なのだから。
ポスターはレイアウトはもちろんカラーパターンにも熟慮し、フォントのサイズや種類も複数用意する。
この他にも凝ろうと思えばいくらでも凝ることができるが、大抵ここまでやると週末も出てくる必要があるし、夏休みの合宿でスパートかけるのはお約束というくらい、やることが増えまくる。
搬出の数日前は日付が変わるくらいまで作業しないと回らないと思うし。
で、ここまで読んでこれまた「姑息」などと謂れのない非難をする奴が絶対いるだろう。
一生懸命やり込んだことを、そういう一言で切って捨てるとか人でなしにも程があると思うが、そこまで言うなら他にどうやって小中高のお子様が「科学する心」を表現するのか、ぜひとも対案を伺いたい。
どうせないんだろうけど。
人生で一番好きで、何回も読み直したし、金もそれなりにかけてたつもりではいるし、胸を張って好きって人に言っておすすめもしてたと思う
どんどん人気になっていく作品、増える二次創作、たくさんの考察を見る生活が楽しかった
けど実生活で周りの人がその作品を好きになって考察言ったり、好きなキャラを貶されたり、終わりかけになったら私もずっと好きだった面されたり、界隈が燃えてるの見るの辛くて、こんなつもりで進めてたわけじゃないんだけどなとか自分の心が狭い、同担拒否じゃないけどな、なんで前から好きじゃないのにそんなこと言えるのとか毎日考えたりするのが本当に辛くて自分の本当に好きなものって他人に伝えない方がいいんだなって学んだ
ワンピースとコナン、両者とも100巻を超えたということで迎えたこの対談。なおコナンのほうが話数はちょっと多い。
ファンとしても青山剛昌がたびたびワンピースの名前を出していたこと、100巻が同じタイミングで来るのでそこで対談をしたいと言っていたこと。コナン100巻のときに尾田が青山を戦友だと祝ったことなどがあったので、かなり楽しみにしていたのだが、ついに初対面!
なんとつながる表紙!声優の祝福コメント!コラボ動画!看板!などなどお祭りムードが漂った中でサンデーの編集長は尾田に名刺を渡していつでもこっちに来いと言わんばかりの熱だ。
多分青山はこんな大事になるなんて思わずに提案したに違いない。
そんな対談では読者が初めて知る新情報も散見された。作品ファンは要チェック!なのだが本当に面白いのは二人のスタンス、そして雑誌の色がわかる部分であった。
常にアンケート順位を気にしている。そして他誌のことはライバルだと思っていたそうだ。ワンピース連載当初というと灰原哀が出てきた頃でコナンは人気爆発を始めたころ。だからコナンは敵でライバルであったので読まなかった。しかも「推理漫画が少年漫画の一位であってはならないと思ってた」などの超失礼発言が飛び出す。現場のジャンプ編集長はここで胃が焼き切れたであろう。
そんな尾田に対して青山はジャンプはサンデーの味方だったと話す。仏か?
そもそもジャンプは自分の描く漫画と共通点が無いのでライバルになりえないらしい。
元々ジャンプは漫画家が入れ替わる漫画雑誌だ。それに対してサンデーは漫画家を据え置きで漫画が変わっていく風潮がある。
このあたりが二人のスタンスを大きく分けた部分でもあり、二人がその雑誌の色にハマった部分でもあるのだろう。
そしてジャンプとサンデーの違いを青山が指摘し、尾田が解説した部分が興味深かった。
ジャンプはラブコメはラブコメ、バトルはバトルと分かれている。それに対してサンデーにその境目はない。殺人もラブコメも同じ場所で起こるのだ。
ジャンプは恋愛を挟まずヒットした作品が成功体験としてあるのだろう。尾田自身もラブを挟むと人気が落ちると思っている。
しかし青山は即答で否定する。むしろ燃え上がって応援してくれると言う。これは青山やサンデーがラブコメを挟んだ作品で成功体験があるからだ。
ジャンプ側の前編はそれが如実に現れており、尾田が「あの頃のジャンプを語ってくれ」と頼むと青山は「マガジン派だった(見てない)」と返すのだ。
ジャンプの第一線でずっと戦ってた大手企業勤めの尾田とサンデー特別顧問的立ち位置でアホほど稼ぐフリーランス青山と言った感じ(干支が一回り違うのもある)。
そんなバチバチジャンプ対談から後編サンデー対談になると、一気に空気が緩和されるのだ!こんなところにも雑誌の色が?と思ったのだが、狂犬の尾田が仏の青山に心を開いていくのだ。
・ファンレター嬉しい
・考察厨の扱い方
・周囲だけ変わっていく
・映画に関わりすぎた感がある(忙しい)
・一作品で好きなこと全部やってる
・一応終わろうとは思ってるが約束しきれない
狂犬尾田が最後には「せーので一緒に終ろう」とか言い出すほどなのだ。
正直なところ青山はいろんなジャンルの漫画家と対談する機会も多いのと超がつくマイペースなので、どこでもこんな風ではある。
しかし尾田のこの感じはなかなか見れないものだった。とくに少女漫画大好きの青山にラブコメを後押しされてしまった今後の最終章ワンピース!いたる所でカップルが生まれるかもしれないし生まれないかもしれない!
そのきっかけとなるかもしれない対談、何度も言うが必見である。
なお大量に入荷したらしい近所のサンデーがもう売り切れているので注意が必要だ。電子もあるがポストカード欲しいなら急ぐように。
>生理だって言われたら排卵日がどうこうみたいな思考は脳内を一瞬よぎる
これネットのオタク層のゲスエロ言論に影響されたから一瞬でもこう思ってしまうんだろ
普通の男に一瞬でもこう思わせるくらい、ゲスエロ言論はネットに蔓延っていて、それは若い女も見る
だから男に生理をオープンにするとゲスエロ考察されるかもと怖がる
平成初期まではこういうゲスエロ言論はニッチなエロ雑誌の中だけで行われてきたと思うが、ネットに移行されて今は多少改善されたとはいえまだ蔓延ってる
そもそも本を読んだのは20年くらい前。ダールは大好きだけど、まだその時はブラックユーモアは怖くて、短編集はあまり読めなかった。
Twitterでダールの短編の話題が出ていて、あらすじググって色々考えていたんだけど、考察が合わない。
賭けにハマる男を止めるために、奥さんが自らを犠牲にしてきたという話。男が頭がおかしくて、奥さんはストッパー。
ダールは賭け事にハマる人間の危うさ・愚かさを書いていたはずで、もう一捻りしていない?
つまり、男がただただヤバい奴と見せかけて、結局その男から全てを奪うために自分の身体を賭け続けた奥さんだって、十分に一線を超えてるというか、勝つまで止まなかったジャンキーと言えるのでは?
ダールの最後の記述は、奥さんの哀愁、今までの辛さ、負担を当然見せているんだけど、それのツールはあくまで指であって(男がそうじゃないと乗らないんだろうけど)
っていう、止めている人間が、まともに見えて実は…みたいな話なのかなと思った。
まあ、奥さんはあくまで止めているから、一般的な考察でいいんだろうけど、ダールはそれくらいしそうって思っただけです。
せっかく思いついたのでワーイということでチラ裏書いたので、皆の反応知りたかっただけ。
森博嗣がロアルドダールの切れ味は一線を画す。それは飛行機乗りだからって書いてたけど、そういう謎の記載したくなるくらい、ちょっと住む世界が違う発想だよなって思う。