はてなキーワード: 考察とは
2022-07-25
匿名掲示板、要は2ch5chの話をする。ニュース板ではなく、漫画やアニメ、ドラマ、映画などの趣味関連の板の話だ。
今も全くないとは言わないが、昔は女だとバレたらそれだけで酷く罵られるので性別は隠していた女性が多かった、ってのは最近になって語られるようになったと思う。
昔はネットは男ばっかで良かったよな!って話にいや女もいたけど性別出さなかっただけや、っていうアレ。
結論から書くと、最近の傾向としては昔より環境が良くなった気がしている。
最近になっても匿名掲示板では女は相変わらず「私」とは書かないし(男は昔から今に至るまでのびのびと何一つ気にすることなく『俺』という一人称を使って性別を明らかにし書き込んでいる)、女と見なしたレスには「女は恋愛にしか興味ないし頭悪いから話を理解できない」「どうせ男同士の妄想してるんだろ!」等と嘲ってくる奴もいるが、昔よりは減ったように思う。
昔はそれ以外に、アニメやドラマ、映画板のスレでは別にエロティックな内容ではない作品のスレでも「○○(キャラや女優の名前)を性的にどうこうしたい」というレスが露骨な単語を使ってしょっちゅう書き込まれていた。エロというよりもはやグロであった。男同士でエログロ話を共有する俺たちキャッキャッ、みたいな。どうせここには女いないんだろ、あるいは女は出ていけ、という空気感があった。
こちらも今もあるとはいえ、露骨なものは昔よりはかなり減ったように思う。
単に規制対象になっただけかもしれない。露骨なエログロな欲望を開陳して共有してはしゃいでいた連中が書かなくなったとは思えんし。
しかし何にせよかなり減った気がする。
おかげで作品の話を楽しく出来て助かっている。
エログロレスでキャッキャも楽しいのかもしれないが、場所を弁えて、性別関係なく同好の士と感想読んだり書き込んだり、話の考察出来た方が楽しい、と考える人が増えたのなら嬉しい。
匿名掲示板、要は2ch5chの話をする。ニュース板ではなく、漫画やアニメ、ドラマ、映画などの趣味関連の板の話だ。
今も全くないとは言わないが、昔は女だとバレたらそれだけで酷く罵られるので性別は隠していた女性が多かった、ってのは最近になって語られるようになったと思う。
昔はネットは男ばっかで良かったよな!って話にいや女もいたけど性別出さなかっただけや、っていうアレ。
結論から書くと、最近の傾向としては昔より環境が良くなった気がしている。
最近になっても匿名掲示板では女は相変わらず「私」とは書かないし(男は昔から今に至るまでのびのびと何一つ気にすることなく『俺』という一人称を使って性別を明らかにし書き込んでいる)、女と見なしたレスには「女は恋愛にしか興味ないし頭悪いから話を理解できない」「どうせ男同士の妄想してるんだろ!」等と嘲ってくる奴もいるが、昔よりは減ったように思う。
昔はそれ以外に、アニメやドラマ、映画板のスレでは別にエロティックな内容ではない作品のスレでも「○○(キャラや女優の名前)を性的にどうこうしたい」というレスが露骨な単語を使ってしょっちゅう書き込まれていた。エロというよりもはやグロであった。男同士でエログロ話を共有する俺たちキャッキャッ、みたいな。どうせここには女いないんだろ、あるいは女は出ていけ、という空気感があった。
こちらも今もあるとはいえ、露骨なものは昔よりはかなり減ったように思う。
単に規制対象になっただけかもしれない。露骨なエログロな欲望を開陳して共有してはしゃいでいた連中が書かなくなったとは思えんし。
しかし何にせよかなり減った気がする。
おかげで作品の話を楽しく出来て助かっている。
エログロレスでキャッキャも楽しいのかもしれないが、場所を弁えて、性別関係なく同好の士と感想読んだり書き込んだり、話の考察出来た方が楽しい、と考える人が増えたのなら嬉しい。
https://kazugoto.hatenablog.com/entry/2022/07/09/235906
https://bokukoui.exblog.jp/32726091/
ここら辺のブログを読んで思った。まぁ小難しい文章なので今も続き読んでるけど。あんまりまとまってない文章書くことになるけどごめんなさい。
墨東氏は《コンテンツは、鑑賞や批評の対象というよりも、「みんなで盛り上がる」手段と化してしまったのではないでしょうか。すると小難しい批評は嫌われ、定型フレーズをネットの「みんな」で叫ぶことで一時の快を貪る、そういう人が増えたのです》と述べますが、”オタク”界隈の「批評」なるものを、商業誌や商業媒体、ならびに同人誌で批判的に取り扱ってきた私としては、果たしてそんな「批評」が社会に何をもたらしましたか、結局は内輪だけで言葉を消費しただけではないのですか、と言いたいです。内輪だけで消費される「批評」に価値があるなど、笑止千万としか言い様がありません。
うぉぉ。言ってしまった。内輪話し合ってるだけのそれっぽい論評が社会の何に役の立つのかと言ってしまった。
っていうのも気になるけど、一番は「小難しい論評が嫌われ、定型フレーズを・・・」の文。
まあこれは、「オタク」が一般化した結果、かつてはオタクをバカにしていた「みんなと月9ドラマの話題で盛り上がる『一般人』」(もちろんオタクも彼らをバカにしている)と、「オタク」が同じ存在になったということともいえるのです。
つーか当の墨東先生も言ってるし。やっぱそうだよね。陽キャが「昨日のドラマ見た!?」って盛り上がってるのと一緒だよね。俺らが「昨日の鬼滅見た!?」って言ってるのと一緒。墨東先生は「同じ存在になった」と表現しているけど、27の俺にとっては物心ついた時からこうだったと思うけど。
一般人を馬鹿にしているっていうのも、あっちがバカにしてきたからアニメだって面白いんだぞ、少なくともお前らが見てるドラマぐらいには内容あるし!みたいな感じで、高尚な論評だとか云々は関係ないかな…
正直、小難しい論評だとか無理だと思うよ。だってやべぇやつに思われちゃうもん。じつは伏線として漫画の一コマにこんなのが…!みたいな考察
https://note.com/iovis_takahasius/n/n5d806216d51c
ここにある通り鬼滅は自助・共助を推奨している!みたいな政治的な方面に進んじゃったらもう大変。悪いけどやべぇやつまっしぐら。
友達とドラマの話してて「自民党政権が…」っていいだしたら「え、どうしたの?」って心配されちゃうよ。
こういうのを見てると、オタクっていうのはもう彼らにお返しして、俺たちは娯楽としてアニメを見るのが好きな一般人として生きたほうがいい気がするなぁ。
これから加齢によって生じるオタク趣味…娯楽の消費に関する食指の動かなさから感じた人生の正しいライフステージと、筆者自身が抱えている発達障害との関係性、そして現代の世の中について乱文をしたためていく。
ご覧の通り、主語が大きくやや誇張しているような表現を多く含むが、個人的にかなり深刻な問題なのでわざとオーバーに書いている。ご容赦願いたい。
また、とにかく書きたいことを書いたため本文中の出典に関しては省略している。必要があればタイミングを見て追加するかもしれない。
まずはじめに、私はそろそろアラサーに差し掛かりそうな20代半ばの年代だ。
新卒時にちょうどコロナ禍が始まり、業界に対する打撃で案件が来ずロクな仕事を与えられないまま転職、人間関係の不和でひと月経たずに退職し、しばらくして職業訓練で茶を濁しながら10ヶ月ほどの無職期間を経て、今年4月に障害者枠で総務として勤務を始めた。一応今現在まで仕事はなんとか続いているが、障害者枠なので周りが残業していても基本定時で帰してもらえるし、電話応対もない。
そう、私自身が発達障害者だ。ASD(自閉スペクトラム症)で診断され、精神障害者保健福祉手帳3級を取得している。
ひたすらコミュニケーションが苦手で、変化に適応できなくて、その時関心を持ったものにしか興味が持てず、短期記憶が著しく弱く、どうでもいい長期記憶が異常に強く、反復脳死作業しかできることがなく、言葉や文字そのままでしか解釈できず、自分の世界で全てを判断するような性質がある。そして自分が慣れているもの以外の刺激に対して非常に弱い。
そしてプライベートではイラストや漫画、アニメ、ゲーム、動画など、所謂オタク趣味を謳歌している。毎クールごとに気になったアニメをチェックだけし、流行っているソシャゲや動画配信には手を出し、好きなジャンルの二次創作を逐一チェックし、商業同人問わず漫画を購読し、絵に描いたようなオタクライフを満喫しているわけではない。
実際のところはこんな感じだ。
・その割にツイ廃だと思われたくなくて反応は控えめ
・据え置きゲームも中盤あたりで詰み、最後までクリアできたためしがない
・絵は月一で描くという自分ルールを設けたが、毎回月末になって慌てて描いている
・新しい漫画やアニメ、ソシャゲは刺激されて疲れるのが嫌でWikipediaと公式サイトの文を読んで満足
・4つある自ジャンル(いずれも旬ではない)の情報だけはしっかり追っている。ただしコンテンツそのものよりも運営や民度のことばかり気にしてる
・音楽に対するフットワークは軽いと思っていたが、最近のTikTok文化には全くついていけない。ノリも苦手
・そもそも新しいジャンルにハマる元気がない。ずっと広く追わなきゃならないVtuberは全般的に苦手。
・頭の中では常に一次創作の設定のことを考えていて、そのための資料集めのために生きている。なお創作の本編には手を付けられてない
・特に時間がないわけではないが、とにかく疲れてTL巡回以外何もできない
・盛り上がっているオタクを見ると羨ましい
・そのくせに現実(仕事、結婚、育児、介護など)としっかり向き合っている周囲の人を見ると不安になって焦る
趣味を楽しみたい欲望だけ募らせて「疲れた」を理由に何もせず、同時に現実を見て生きている人たちにも劣等感を抱くという、オタクにも一般人にもなれないモンスターと化してしまった。
これは自分でもまずいと思うが、どうにも意識してコントロールできることでもないようだ。
このように気力不足で何もできず劣等感だけ募らせている私が、普段何ならできているのかを列挙する。
・盛り上がっているオタクの観察
・一応惰性で見ているアニメの実況
・オタクや推し絵師やリアル知人の生存確認(唐突にいろんな人物が頭に浮かび大抵更新が止まっててショックを受ける。発達障害あるあるだと思う)
・自ジャンルのアフィブログの愚痴記事のコメント欄や5ちゃんねるの愚痴スレをひたすら監視(界隈やコンテンツの問題点も踏まえて正しく把握するため)
・Twitterのトレンドから社会問題に関する考察(という名の悲観的な被害妄想)
・数年前の一番楽しかった頃に描いた絵や当時やり取りしていた旧友(今はほとんど疎遠)とのメッセージを見返して心を痛める
・自分の脳内にある情報だけで一次創作の世界観の設定を練りまくる。どう頑張っても中学生の黒歴史ノートレベルのクオリティにしかならない
一通り書いてみたが、本当に精神衛生上良くないものばかりなことに気付かされる。ただ、脳汁が出てやめられないのだ。
こんなことをしている暇があるのなら勉強するなり作品鑑賞をするなりすればいいのに、前述の通り興味関心が向かなかったり趣味にかまけることに罪悪感があったりで何もしない癖にTwitterや5ちゃんやアフィのコメ欄やまとめブログばかり見て心を傷つけている。こうやっていつも言い訳しかしない。
私がこうなったのも、世の中の流れや身の回りの人間の変化も少なからず影響している。
これがかなり大きい。一応私も社会人3年生で、周りの友人もバリバリ働いている。
当時一緒にオタクして楽しんでた友人たちもだ。彼ら彼女らは私以上に見る影もなく、家を会社を往復するだけの虚無な人生(本人談)を歩んでいるそうだ。時間を犠牲に金だけを生み出し、その半分ほどを税金や必要経費で持ってかれているので貯金も満足にできないらしい。
問題なのは仕事に対して楽しんでいるわけでもなく、常に辞めたい辛いなど愚痴を吐きながらなんとか繋ぎ止めている状態なのである。転職を勧めても、もう一度就職活動する方が苦痛だから今のままでいいという派が圧倒的だった。
なんなら社会に出た途端SNSから手を引き、音信不通になった人もたくさんいる。久しぶりに話せたかと思えば、仕事以外は何もできてないとのことである。
会社の手となり足となる人生以外の選択肢を潰したのだろう。きっとそれは正しいことだ。
正直、私から見れば友人らは圧倒的につまらない人間になった。いや、社会がそういう人間を望んでいるのかもしれない。
自分の好きなことのために生きているオタクこそ、社会にとっては癌なのだ。強い自我は社会の歯車を回すにあたっては邪魔なだけだ。
つまり社会に出れば社畜化することの方が求められていて、あたかもそれが正しいことのように錯覚している。
そして、こういう人生の話と切り離せないのが結婚出産だが、私の身の回りに既婚者は2,3人ほどしか確認できていない。みんなとっとと結婚して親を安心させるのかなと思えば社畜街道まっしぐらな方向性を選んだ人の方が多かったようだ。
その既婚者たちも、子どもができれば家庭優先になるのは当たり前である。趣味を謳歌する余裕などない。
ただ、それが正しいのだ。いつまでも好きなことをしてるクソガキであろうとする私が間違っている。そういう人たちを見ると、なおさらそう思う。
たまに話もするが、仲良く絡んでたときとは価値観が打って変わってしまった。いや、私が変わらなすぎるのかもしれない。
私はこのように、世の中に求められている使命をしっかり果たしている人たちの足元にも及ばないのが悔しくて仕方ない。人間不信も相まって生まれてこの方恋愛したことないのに、どこで挽回できようか。
だからオタクみたいなことを続けるのに抵抗が生じてしまうのだ。
身の回りのオタク友人だけじゃない。ネットにいる二次創作絵師やフォロワーも例外ではない。
2020年あたりを境に、Twitterの更新が止まったりアカウントを削除したり、動いてはいるものの低浮上になったりしている作家やフォロワーがたくさん増えてきた。
それは、コロナ前の同人誌即売会で購入した作者の現在を調べて初めて判明する事実だったりする。こういうことを慢性的にやってしまう。
何が何であれ、別れというものには耐えられない。いや、慣れてないだけなのかもしれない。
なんせ一方的に観察してるだけなので、少しでも顔を見せないと生存そのものが心配になってしまう。
理由について推測する。
コロナ禍では巣ごもりが奨励されており、創作は流行るだろうと思っていたが現実は真逆だった。本の印刷という明確な納期がなくなったことによりモチベーションが著しく減退したサークルが多く確認されている。今回控えているC100もサークル数は前回比で減っており、同人需要すら落ちているようだ。
「オンライン推奨なんだからWebオンリーとかコミッションとかが主流になったのでは?」とツッコまれそうだが、私が言いたいのは”ネットに顔すら出さなくなったクリエイターが爆増している”ということである。これは正直巣ごもり関係なく、何らかのタイミングで起きていると思われる。何故コロナのタイミングで、とは思うが人手不足の穴埋めをさせられたり、単純に業務量が上記を逸していたりするのだろう。基本的に観測できる範囲には真面目な人ばかりだ。
私が新卒で入社した会社はコロナで仕事がなくなった業種だが、逆に多忙を極めている業種もある。オタクの本業とは一体何なのか…もし医者やSEといった仕事が主流なら、私はまた(人生スペックに対する)嫉妬に狂ってしまう。みんなちゃんと仕事しているし、会社に殺されてこき使われてるのだ。
そもそも想像力が乏しいので、人間はみんな四六時中SNSを見ていて当たり前だと思っているフシがある。全員がそうとは限らないだろうが。
私みたいに、常にネットから得た知識でこれから起こることに対して悲観的な妄想をしたり、目の前のことをかなぐり捨てて現実逃避しているわけがないのだ。
ネットのオタクからも「現実をちゃんと生きているのに」という劣等感は強く感じる。普通に中の人は人間なのだから。社会を回して当然だ
だが、ここまで仕事に忙殺させてもなお終わらない無茶なタスク振りや、いくら働いてもまともに暮らせない賃金体系にも問題があるのではないのか?
こうなると社会そのものへの愚痴になるのでこのあたりで留めておく。
ここまでつらつらと書いてきたが、私自身も趣味に対して食指が動かなくなったわりにオタク気質だけは残ったままになっている。”キモオタ”から”オタ”を取った”キモ”状態だ。
現にアニメ・マンガ・ゲームとかに触れずとも、Twitterの逐一巡回やアフィなどの監視を惰性でやって時間を浪費している奴をまともと呼ぶわけがないだろう。
何故楽しかったあの頃より熱が冷め、エアプマンになったのか分析していこうと思う。
まぁこれに尽きる。正式に言うと「ネガポジ問わず刺激によって疲れる」のが嫌になった。フィジカルもあるが、メンタルの話だ。
人が一度に受けられる刺激には限度があると思う。これを超えると心身に悪影響を及ぼしかねない。そしてその容量は年齢に反比例している。
仕事は当然神経をすり減らして責任を持って取り組まなければならない。その時点で一日に受けられる刺激量はとっくに超えている。そんな状態じゃコンテンツを摂取することで何らかの感情をかき乱すなんて疲れるだけだというようになり、いつしか避けるようになる。
長い文章が読めなくなるのもこれだ。重く激しい展開を忌み嫌うのもこれだ。
私はアニメやゲームを実況することが生きがいだ。初見の感想を記録し、未来の自分の役に立てたいという気持ちが強い。
ただ、半ばそれが義務や使命と化していて正直かなり疲れている。ASDは自分のタスクを輪に組み込んでしまえば永久的に続けられる性質があるが、それは「何も考えずにできること」限定であり、実況や考察など自分の言葉を紡ぐ行為はかなり消耗する。この文章だって3時間かけて執筆している。
作品に触れているのだから、何らかの感想を残さねばという自分自身に課した強迫観念のようなものが私には存在する。
そんなことを思いながらも、基本的に自分の頭のデータベースに情報を一気に突っ込めなくなり、処理もできなくなっていってる。
旬コンテンツに触れないと置いていかれる観念もこれだ。名前を出してしまうと、「100日後に死ぬワニ」や「モルカー」や「タコピーの原罪」などが一斉に流行りだすと、未履修の人間はツイッターランドにおける非国民であるような気持ちになる。
Twitterのトレンドが特定のコンテンツで一色になっているのも、同調圧力を感じて疲れてしまう。追えてないことに残念な気持ちになるが、追う元気もない。
そんな感じで、うっすらとした気質だけ抜けられないまま、置いていかれないように上澄みだけ啜っているのが今である。
何度も述べている通りである。大人になるとは、社会を回すために責任を持って使命を遂行することである。
その使命を放棄し、自分の好きなことばかりに現を抜かすなど、人間としてあってはならない。そんなことが許されるのは大学生までだ。
人間には、生物として繁殖しなくてはいけない義務がある。日本国憲法においては、教育・労働・納税の義務がある。
つまり、仕事や育児から逃げるのは罪なのだ。その逃げとは、趣味のことである。
普通の人間は社会に出れば「個人」をやめ、「社員」なり「役職」なり、はたまた「親」なりの肩書を持つ。名前なんて呼ばれなくなるだろう。必要なくなるだろう。
オタクは「個人」のままできるが、それは大人になった瞬間捨てなければならない。肩書にふさわしい義務を果たさなくてはならない。
私は、20代も後半に差し掛かるというのにこれらの義務を果たせる予兆がまるでない。仕事も、同年代と比べると誰でもできるようなことしかしてないしはっきり言ってぬるい。
結婚だって、恋愛を嫌がっているのだから当然できるわけがない。人間との共存に本気で虫酸が走る。
そんな奴が適齢期になっても責務から逃げ、いつまでもガキ臭いことをする道理が見当たらない。その結果、打開策が見えず将来を憂いているだけで何もできない生き物になってしまった。
何度も言うが、逃げとは責任の放棄であり罪だ、そしてその逃避こそが趣味なのだ。
こんな経験はないだろうか。「作品よりもスタッフや運営に注目するようになった」と。
コンテンツにゴリゴリに入り込んで感情移入するのは、幼い子のやり方だ。夢女子がそれとも言われるが、傍から見れば虚構と現実の区別がついてないように見える。
それをいい歳こいた大人がやれば、立派な精神異常者だ。作品の世界に入り込むなど、これこそ先程から罪だと言っている現実逃避にほかならないだろう。
そして、ある程度読解力が育ってくれば作中のモチーフや描写、張られた伏線などから「考察」というものをするようになる。この段階でやっと観客になれるのだ。その考察も、ガキの魂胆で行えばただの妄想に成り下がるが。
では、そのようなコンテンツの見方に慣れると作品をどのように見るようになるのか?
答えは「構造批判」である。作品の評価をファンの民度やスタッフの質、運営の対応などで行うようになる。特にお金の話と絡めたがる。
作品同士を「このジャンル、ファンがクソガキしかいない」「なろうテンプレだなこれは」「お涙頂戴ねはいはい」「運営のおっさんはこれが儲かると思ってんだなぁ」と比較や批判するようになる。Twitter民にも心当たりはあるだろう。
こういう考えはコンテンツ研究する立場においては大いにアリだが、普通に楽しむにあたってはノイズになりかねない。なんなら「構造批判」するために作品に触れる(たまに触れてすらいない)ようになり、叩くのが目的になる。
そうすれば、何を見ても昔のような楽しさは感じられないだろう。
現代は情報化社会だ。誰もがクリエイターになれるし、どんなものもスマホひとつで手軽に大量消費できる。
そうなれば必然的にコンテンツで溢れかえる。取捨選択が難しくなる。
これらの流れをくんで、最近ではAIが閲覧傾向を読んで勝手にレコメンドしてくれる。口を開ければ合うものを放り込まれる。そしてなんとなく偏っている。
ただ、なるべく偏らせないで色々見たい人は、とりあえず全部手にとって味見する。その絶対数は一生に捌ききれないほど多い。
既知かもしれないけどふと思いついちまったんだ‥という話。
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大穴の深さと呪いの関係は人間の消化器官を模してないか?っていう。
もちろん大穴のギミックがすべてそれを模しているわけではないし、消化状況の細かさと各層の呪いが厳密に対応してるわけじゃないから精々が一つのモチーフというだけかもしれんが。
5層のなきがらの海を胃および胃液だとするなら、肉はそこで消化される=そこより下に潜った人間が形を保って戻ることはできない。
なきがらの海に潜る前ならまだ食道の範囲だから肉は消化されない=原型を保ったままで戻ることができる。
呪いの性質(5層の呪いは人の持つ感覚を奪う)といい、人間を取り込む=捕食することに特化しているのでは。
この考えで行くならなれ果て村のあたりは十二指腸。ここは膵臓が接続された膵液の分泌箇所であり、膵液は胃に続いて栄養素を分解し吸収しやすい形へ変換する。
まず初めに、これは自分への戒めを込めた文章です。文章でまとめることで気持ちを落ち着けようと試みています。
私は二次創作の文字書きです。今までは支部で細々と書きたいものを書いていましたが、とあるジャンルに嵌まってからはその作品の二次創作者さんとの交流や推しCPについて語りたいと思い、専用のツイ垢も作りました。
話が進む度に皆で盛り上がって、フォ口ワーさんと考察や感想を交わしたり、推しCPについての妄想を膨らませたり、作品を読んだり読んでもらったりと、垢を作って良かったなと思っています。
尊敬している、大好きな文字書きさんとも相互になれました。その方、Aさんは私と同じCPを書いている文字書きさんで、推しへの解釈や小説の内容、描写がとても素敵な方です。最初は私が一方的にフォ口ーしていたのですが、有り難いことに縁あってフォ口バいただき、相互の関係になれた時は本当に驚きました。
Aさんの作品を私が読んで感想を送ることはもちろん、Aさんも私の作品を読んで感想を書いてくれて、好きとも言ってもらえて、すごく嬉しくて幸せです。
感想は誰からのだって、どれだけの文字数だって嬉しいです。世の中にはたくさんの素晴らしい創作者さんがいるのでそれぞれの作品に触れられて、私自身も自分の作品を書いて投稿したら反応をもらえて、とても楽しい日々を送っているのです。十分幸せです。
それなのに、私はAさんに対して、他の方以上の期待や執着を持つようになってしまいました。
Aさんに作品を見てもらいたい。呟きに対して反応が欲しい。それだけではなく、Aさんが他の方の作品や呟きに反応していると嫉妬するようになりました。
一体どういう立場からの思考なんだと思います。自分で自分に呆れています。他人、しかも、ただネット上で知り合った人相手に、執着するのも期待しすぎるのも止めるべきだと思いました。
ネットを開かないようにしてみたり、Aさんとよくやり取りをしている方をミュ一トしてみたり、Aさんをミュ一トしてみたり、他の方と交流したり、ただ作品に没頭することで気を紛らわせたり、色々やりました。それなのに、どうしてもAさんのことが気になってしまって、私にとってAさんとAさんの作品が特別であるように、Aさんにとって私と私の作品が特別であってほしいと思ってしまっているのです。
先日、Aさんと他の方とのやり取りが見えて、その方と仲良くしたいんだろうなという雰囲気を感じ取り(実際はどうか分かりませんが)、嫉妬で荒れ狂ってしまいました。本当にどうしようもないです。
こんなこと、Aさんにも、他の方にも知られたくありません。AさんにはAさんのコミュニティがあって、嗜好があるんです。
現状Aさんから嫌われているわけではないと思うので、お互いに創作し感想を送りあう今の関係がベストなはずなんです。それだけで十分幸せなことです。そう言い聞かせ、どうにかこの感情が収まらないかと思いましたが、どうにもなりませんでした。私はこれからもAさんの動向で喜んだり嫉妬したりするのでしょう。
今こうして文章にして自分の醜さを可視化できるようになったことで、多少は自分の心情が落ち着くと信じています。抑止力が働くと信じてネットの海にも放流します。時間が経過することで、更に落ち着いていってくれることを願っています。
誰かが○○したら良いと言うなら、たぶん従ってしまう。
そして、上記の「誰か」に「占い」という言葉を当てはめてみよう。
すなわち、自分の行動選択に価値を見出だしていないから、占いに従って行動してみてもいいかなと思ってしまう。
どうでもいい選択ばかりだから、占いの提示する「ラッキー」な行動に心動かされる、というわけだ。
ちなみに、占いで「ラッキー」とされる行動をしたところで、得られる「ラッキー」なんて微細、もしくは皆無でしょ、
そんなんで、よく占いなんて信じられるなと思う人も居るかもしれない。
しかし、これについても、次のように考えてみよう。
すなわち、占いに従わなかったことで得られる利益も無いわけだから、占いに従うことはノーリスクだ、と。
リスクが無いのであれば、「ラッキー」な要素がほぼ皆無だとしたって従ってみても良くなる。
無料で引けるくじが手元にあれば、ハズレを引く確率が高いとしたって、リスクは無いのだから、引きに行きたくなるでしょう。
占いに従って行動したくなる気持ちとは、まさにそういうことなのだ。
手軽なノーリスクさと、「ラッキー」のもたらす期待感が原因なのだ。
また、個人的には、占いに従って行動するその様子は「ポイ活」に似ているとも思う。
「ポイ活」では、カードを出すなど、日常の些末な行動をわずかに変容させることで、ごく微妙な「ポイント」が得られる。
そして、占いでは、その「ポイント」が「ラッキー」と呼称されていると考えれば、
占いに従って行動するのも、まさに、運勢に対する「ポイ活」なのだ。
つまり、ポイントカードの代わりに、ラッキーアイテムを持ち歩いているという感じであるわけだ。
すなわち、占いというアドバイスに従って生活すれば、自分の人生にあるリスク(アンラッキー)を回避できるかもしれない。
その点では、占いはポイントカードどころか、保険にさえ似ている。
保険というのは、保険加入者の得られる期待値が非加入者のそれを上回ることはない。
そうだとしても、保険で人生の不安をハンドリングできているという安心感には変えることができないので、みんな加入する。
占いに従うことで安心を得る。そして、その「保険金」は自分の行動の自由度だけだ。
友人、いい奴。
どれくらい頭が悪いかというと、詐欺や押し売りに複数回あっている。
お人好しの馬鹿は詐欺師の格好の標的なのだとそいつを見ていて実感した。
そこに付け込まれたのか、職場でも口八丁で理不尽な仕事を振られてパンクしているらしい。
友人、読解力がない。
だからなのか、オタクなのに考察どころか物語のあらすじすら理解できない。
映画もアニメも「映像がすごい」と「難しくてわからない」しか感想が出てこない。
言葉を知らないので会話が困難。
こちらの言っていることも伝わらない。
友人はへらへら笑って適当に頷いているが、これは俺の話が下手なんだろう。
友人、俺はもうお前とはやっていけない。
俺はお前と同じ言語を話せない。
付き合いばかりが長くなって、もう縁を切るには遅すぎた。
友人。
ちょっとでいい。来世は頭良くなってくれ。
頼む。
https://anond.hatelabo.jp/20220713203406
ただ輪るピングドラムは完全ネタバレしていくともう少しいろんな事象を混ぜている。
視聴者層が若かったのではないか。今年開かれた原画イベントに行くと当時十代後半だった層が殆どだったので…多分見終わってから調べた層が殆どではないかと。
しかし2021年になってしまい、新規視聴者が増えても、時代背景からの作品理解がどんどん難しくなっていて、当時のブログや考察もなかなかたどり着きにくいなと感じている。
一応ピンドラ考察代表例としてだされている「ピンドラがモチーフにしたもの」についていくつか触れておくので、全くわからなかった人はこのあたりをヒントにしたらいいと思う。
■95というモチーフ
1995年のことだ。バブルは崩壊したが残り香がある時期。世間は2022年のように混沌としている。当時の混沌から勢力を拡大したのがオウムとする意見が主流だ。
モデルの事件として地下鉄サリン事件、は勿論なのだが、この年にはその前に「阪神淡路大震災」が起こっている。
村上春樹の「かえるくん、東京を救う」が劇中に出てくるが、これは短編集「地震のあとで」に収録されているその震災の話だ。
同じく村上春樹の「アンダーグラウンド」というサリン事件被害者インタビューの本がある。
この2冊は作品構造とも密接に関わっているので、考察するには要チェックだ。
作中で出てくるキーワードだ。
これは神戸児童連続殺傷事件(1997年)の犯人が出した犯行声明に書かれていたキーワードだ。
この件に関しては同監督作品の「ユリ熊嵐」の方が直球で投げていたかも。
■カレー
98年に起きた和歌山毒物カレー事件について思わせるシーンがいくつかある。
アニメ冒頭から語られる話であり、ピンドラを考察するならまずこれを読めというものでもある。
登場人物の名前から、関係性、台詞などアニメの構成自体のベースにあるものだ。
ただもう一つ踏み込むと、宮沢賢治が宗教観で父親と対立していたこと、岩手に「ユートピア」を作ろうとしていたこと、病弱な妹を溺愛していたことなど、彼の人生も重なる部分があるので調べてみてほしい。「自己犠牲」についても同じくだ。
聖書などを匂わせる描写もあるが、それも宮沢賢治の独特な宗教ルーツから連想したと思われる。
幾原監督の根本的な怒りの部分がここにある思われる。1964年生まれの監督なので、そのあたりを踏まえてみるともっと考察が生まれるはずだ。むしろその世代に語ってほしいとさえ思う。
■南極物語
銀河鉄道の夜と並行してこのストーリーが組み込まれている。こちらも登場人物に名前に注目してみてほしい。
■リンゴの受け渡し
この辺は有名な考察なのだが今から視聴する人がこの考察にたどり着けるか心配なので、一応触れておく。検索したら出てきます。最終回後にどうぞ。
まあまだ考察は山ほどある作品だが、このあたりを検索していけば他の考察も目にするだろう。youtubeとかにもあがってたりするので。
本作の見方で個人的におすすめなのは「分からなければ一旦ネット上で溢れている考察を鵜呑みにして見直すこと」で、その上で「それは違うんじゃないかなー」ってなっていくから…
やっぱ「生存戦略ー!ハイレグ!」で釣られて気軽に見れる作品ではないなという印象はずっとあります。導入すげー軽いんだけどな。怖いんだよなそこが。愛の話で片付けちゃうと宗教っぽいよね。総括すると愛の話なんだけどね。
あと総集編の新録パートがまたどう転ぶのか難しくて、そのへんも考察を待っている。この記事見るのはこのアニメのファンだろうから「それは違うよ」という意見ならどうぞ語ってほしい。議論こそピンドラだ。
もし、10代を過ごす時、カルトに汚染された家族以外の別の家族に父や母としての役割を演じてもらうことができれば、こんな歪み方はしなかったのでは?
つまり私が言いたいのは、1人の人間に1人ずつの父と母という遺伝子的な繋がりばかりに固執した家族観の冗長性の低さこそが問題の本質だった可能性について考察すべきであるということだ。
今、多くの人の目がカルトにばかり向けられているが、その要因の一つに「そもそも父・母・子・兄弟(+祖父母)のみで形成される家族構成自体を疑う前提がない」ことが見受けられる。
実際カルトはさっさと滅ぼしてしまうべきだし、カルトかどうかとは無関係に21世紀の政治と宗教の繋がりが12世紀のようなレベルであってはいけないと私も思っている。
だが、それとはまた別箇の問題として「そもそも、父と母の両者、もしくは片方だけでも狂った時点で崩壊する日本的家庭の脆弱さを改善できないだろうか?」という議論は積極的にするべきように思う。
今回の事件にかぎらず、多くの劇的な事件の裏に崩壊した家庭環境があり、その原因はカルト・パチンコ・精神疾患と多種多様にわたっている。
その時々において私たちはそれらを個別に批判する(精神疾患に対してさえも積極的に批判するのはどうかと思うが実際批判は行われている)わけだが、そもそも1人の人間の狂気だけで壊れる日本的家庭というモノの作りの弱さについては議論しそこねているように見受けられる。
この機会にそこを議論してはどうだろうか?
あまり一度に1人の人間がアレコレ言い過ぎると議論の血の巡りが悪くなるので、私はひとまず問題提議をしたことで自分の分の役割・発言力のようなものは使い切ったと判断して一度「見」に回ることにする。