はてなキーワード: シンクロとは
自分は初代の『競技としてのポケモンバトル』が中心の世界観が好きで、のちのシリーズの『伝説のポケモンを通して主人公が世界の運命を救う』みたいなストーリーにイマイチ乗り切れなかったんだけど、今作は『競技としてのポケモンバトル』に比重をおいて描かれていてとても良かった。
あと今作はゼルダBotWの影響を結構受けてるのかも知れない。『はい』か『いいえ』しか言わないこの手のRPGの主人公はプレーヤーの分身に徹しないといけないから、感情を主軸にしたストーリーを描けない。だからゼルダBotWでは主人公の代わりにゼルダ姫が自分のおかれた境遇に苦悩し、挫折を乗り越えながら成長していった。今作のポケモンもそういう作りになっている。
主人公の周辺で話が進むのは『世界を救う』の要素にも現れていて、「大事件が発生!」→「こういうのは大人達が解決するから、君たち子供は自分のやるべき事をやろうね」という感じで物語の核心部分が割と主人公不在で進んだりする。今までの主人公は『甲子園球児 兼 世界を救う勇者』だったが、今作は『甲子園球児』の要素にかなりフォーカスを絞っている。
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悪役「でも本当にこれで良かったのだろうか...」
↓
悪役「うーん...このままではやがて石油は枯渇してしまう。少しでも資源を節約する為にオリンピックは中止しよう」
正義「枯渇はずいぶん先の話だよね。それに今季のオリンピックはもうやるしか無いでしょ。国民も納得しないよ?」
悪役「中止だ中止!」
正義「分かった分かった。今季のオリンピックが終わってからゆっくり考えるからさー」
↓
悪役「お前らが持続可能性について真面目に考えないから原子力発電所を作ってやったぞ!これで石油の枯渇について悩まずに済むなw」
正義「え?」
正義「まじかよ...」
悪役「私にはもう手に負えない。お前らで何とかしてくれ」
↓
ラスボス倒す
↓
正義「一時はどうなるかと思ったけど、何はともあれオリンピックが無事に開催できて良かったね。これからますますスポーツを盛り上げていくぞ!」
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【bot、暴走中!】「Slackは福利厚生」と言い切る、ドワンゴ流・Slackの超活用術とは
https://seleck.cc/1063
上記の記事で取り上げられているように、ドワンゴのslack文化はおそらく社外にいる人間が予想するより遥かにフリーダムである。
そしてその自由さが何をもたらしたかといえば、一部雑談チャンネルの2ch化だ。
その中で最も参加人数の多い雑談チャンネルは、なぜかは知らないが入社時に予めjoinされた状態であてがわれる。
全社的なお知らせをbotが拾って流してたりもするので、一見全員参加の情報共有チャンネルなのかなと思うのだが、そこで話されていることは9割型業務とは無関係な話である。
まあそれでもほのぼのとした世間話が行われてるだけなら無害なのだが、時折Publicという意味を理解できないクレイジーな連中が登場して場が荒れる。
ということもあってかこの雑談チャンネルから真っ当な大人は抜けるようになってきた。
結局、ルールのないネットのコミュニケーションは同じ末路を辿る。
現職エントリ - 毎日わんわん
https://mi111.hatenablog.com/entry/2019/11/01/013545
この現職ブログがslackに対する無理解について叩かれているが、slackを業務連絡チャットとしてのみ利用している部署にとって、自分の業務外のチャンネルで目につくのはそういうところである。
そういう雑談に常駐してるのはほぼ同じメンツのエンジニアなので、彼らがいつ仕事してるのかと感じてしまうのは無理はない。
むしろこのブログ主は、開発現場を振り回しがちな番組制作者が多い中では、開発側に常に敬意を持って接している貴重な人だと思っている。
さて件の退職ブログであるが、あれが各論には同意できる部分があるのにも関わらず、一部の現職から強い反感を買っているのはこの投稿主の人となりにある。
この投稿主はmtgにしろslackにしろ、とにかく意見の異なる他人を罵倒することで有名だった。
あの記事では一切そういう面を出していないので同情が集まっているようだが、彼のtwitterの過去ログを辿ればその断片は垣間見れると思う。
あたかもニコニコの不遇と自分の境遇をシンクロさせてヒロイックに語ってはいるが、彼の場合は他の退職ブログと同列に受け取れないもやりがある。
むしろドワンゴというゆるゆるな環境の中でこれまで許されてきた振る舞いが、体制が変わって許されなくなっただけなのではないか(それでも一般的な会社に比べれば十分ゆるいが)。
今回の記事も含めてドワンゴは大企業病になったと評されることがあるようだが、個人的にはむしろ事業規模に応じてちゃんと大企業になれなかった会社だと思っている。
川上はそういうことに興味がなかった。それでも金のあるうちはなんとかなってしまったのだ。
夏野になって良くも悪くもドワンゴは普通の会社になりつつある。
それがニコニコにとって終わりに見えるのならば、そもそも終わる宿命だったのだろう。
○ご飯
朝食:サンドイッチ。昼食:天丼?。夕食:白菜、人参の和風スープ。フライドポテト(スーパーで買った)
○調子
むきゅーはややー。
仕事は、隣の若い子が遊戯王プレイヤーらしいので、最近の環境の話を聞いてた。
いや、だって昨日もう金曜日の朝までの仕事しちゃってたので見直しとかフォントとか罫線を整えるみたいな弱い仕事しかなくて暇だったんだもん……
コマスター終了がもう目の前なので、頑張って長文を書きました。プレイしてない人にとはっては何が何やらだと思いますが、長いことプレイしてきたゲームに自分の中でケリをつけるために書きます。
僕はやっぱり「悪タイプ」が好きなので、そのポケモンたちをピックアップして紹介します。
・ニャース(アローラのすがた)、ペルシアン(アローラのすがた)
未実装。原種はニャースの方のみ実装、ペルシアンはどちらも未実装。
何かのイベントでの配布。
MP1ながら、対戦した相手を確定で毒にする特性に加え、金、白、紫と三つの色の技を持っているため、Rの配布にしてはそれなりに戦える。
が、インフレにインフレを重ねてきたコマスターにおいては威力100超えの金技もいるため、そこらへんにはなすすべがない上に、MP1では流石に流石に。
唯一の生きる道でありそうな、毒バラマキは使い所が難しく、専用デッキを組むほどではなかったと思う。
メガフシギバナやゲンガーなど毒を飛び越えると有利になるポケモンは何匹かいたものの、メガフシギバナは相手が毒状態でなくとも飛び越えれば除外できることから風船やカプ・コケコとのシナジーが優先されて、このポケモンを採用することはなかった。
今少し調べたら、同じ毒を戦闘だけでバラまけるドラミドロがMP2な上に流星群で遠隔気絶も狙えてこっちの方が強そうだな。
特徴は、火傷限定の状態異常回復および防御。それとベンチ移動の紫技。
コマスター末期に登場したEXギャラドスが、ベンチ移動の紫技、高火力白技、高火力白技を生かす一時除外の特性に加えてすり抜けまで持ってる末期らしい効果もりもりポケモンだったので、こちらのサブプランというか、状態異常回復のための要因の印象。
また、コイキングが行動保証(戦闘で気絶しても場にとどまれる)付きの進化ギミックの特性を持っているため、火力や星を増しやすかった。
進化元はこのEXギャラドス以外にも、RギャラドスとR色違いギャラドスがおり、こちらはこちらでこのような行動保証をもったポケモンが珍しかったのと、配布だったこともあり割と見かけた。
RとR色違いは、MP3に加えて、どくどくの紫技持ちで青技もそこそこ広く、特性のシンクロで状態異常写しもできてと、実装当時は便利なオーソリティー的なポジションで僕も割と使っていた。(デュエル数200越えてた)
どうしても戦闘に運が絡む都合上、MP3で移動範囲が広く、青や紫で耐えられるポケモンの方が使い勝手がよかった(時期もあった)
UXは、UXイーブイが状況に応じて進化を使い分ける特性を持っていたためそのパーツの一種としての役割が強かった、と思う。
UXのブイズたちは、特定のタイプをすり抜けかつ特定条件でMP4になる特性を持っていたため、相手のデッキを見てから後出しする戦術を使うことがあった。このブラッキは、エスパーゴーストという、一線級の暁ネクロズマやセレビィをすり抜けられたため他より使い勝手がよかった、のかもしれない。
Zゲージ減らしの紫技ももっているため、無理に進化系として使わなくても価値があった、かもしれない。
いや、このUXブラッキーはコマスターのサービス終了が告知されてからの実装だったので、正直あんまりプレイしてないから環境の話とかはよくわからないのだ!
進化前のイーブイもR、R色違い、UXと実装されている。先に書いたとおり、UX版は進化先を使い分ける特性を持っていた。
金技が普及する前は、かなり強くガンガン攻められる気持ちのいいポケモンだった。
範囲の広い金技の普及に伴い姿を消していったものの、MP3の紫ベンチ移動技持ちという位置付けはわりと希少で、時たま環境に刺さることも、あったようななかったようななかったような気がする。
かくいう僕は、圧迫デッキを握ることが多かったため、すり抜けMP3以外のMP3として稀に採用してた。
ちなみにいつかのバランス調整で金技を獲得したりもしてたのを今の今まで忘れてた。こんな調整あったなあ。
・ニューラ
連続スピン白技、ゴール狙いが強い入れ替え紫技と、場のマニューラの分バフを受ける特性、と割と盛られているポケモン。
マニュマニュマニュイベデッキという、あのデオキシスに蹂躙される前の、コマスターでフェアデッキが戦えていた最後の時代を彷彿とさせる。
かに思えるがこれは捏造記憶で、確かアッパー調整の結果こうなっているのであって、この頃にはマニュマニュマニュイベはデオキシスに蹂躙され尽くしそれどころかそのデオキシスすらもメタからは遠のいたような時期だったはず。
そのため、特に話題には登らず、むしろ「マニューラの方をアッパー調整しろや!」と怒り心頭だった気すらしてきた。
コマスター運営は、既存コマのアッパー調整が下手というか、なんかこう渋々「やれって言われたからやりましたわ!」みたいな投げやりな調整が多く、工数の使い所さんがここでよいのか? と不安になることがよくあった。
・デルビル
特性でバトルするだけで相手と自分に火傷を確定でまけるのと、MP3が魅力のポケモン。
先のアローラベトベターと違い、火傷は相手の技を一つ潰してミスにするのと、火傷の相手をすり抜けるバフをまけるプレートとが合間って「火傷デッキ」の中核を担っていたこともある。
特に、火傷相手にはめっぽう強い特性を持つウインディとの相性は抜群で、ミスの広さという致命的な難点はあったものの環境上位にいた時期もあった。
後年も、確定やけどで相手の技を潰せるのが評価され、攻撃を通せば除外できるピグティニデッキに入れられたりするのを見たことがある程度には、この確定やけどは魅力があったポケモンだと思う。
・ヘルガー
金、紫、白、(あとミス)がバランス良く配置されていてかつ、火傷状態のポケモンの数に応じて炎タイプにバフをまける特性でゴール付近でサポートをする役目で、デルビルとヘルガーは進化でなく両方とも刺すケースが多かった。
「火傷デッキ」は、切り込み役で場を荒らすデルビルと、後ろでバフをまくヘルガー、そして荒れた場を蹂躙するウインディというわかりやすく役割分担がされていて、僕も使っていて楽しいデッキだった。
基本的な部分はあまり変わっておらず、ダメージやバフの量が増えるタイプの純粋に強化されるメガ進化。
火傷状態の応じたバフとメガ進化固有の悪炎へのバフが合間って強いのだが、バフを全て共有できる同じ悪炎のガオガエンは特に相性がよくないのがすこし残念だったり。
後述のメガバンギラスが青技メタという特色を持っているため、こちらのメガ進化前のバンギラスにもその点を期待してしまうが、どうにもそうはいかなかった。(そもそもメガバンギがうまくいってないからちかたないね)
Rは、白技オンリーのシンプルなポケモン。かなり初期に引いたので嬉しくて使ってた時期があるがMP1の使いづらさのためすぐ抜いてしまった。
アッパー調整後は、進化前提な割に、進化してしまうとサナギラスの青技殺しの特性がなくなってしまう上にメガバンギラスの微妙さと合間ってなんとも使いに食った。
EXは、挑発と広く高い白技で相手の紫や青に頑張って白を通すポケモン。
しかし、サービスス終了告知後の実装だったこともあり、挑発によって紫技殺しとしてはそれなりの性能を持っているような気がしなくもないが、コマスターサービス終了告知後の環境は紫技を持っているポケモンもいるが、どれもバランスのいい配置が多く、このポケモンのような一色に特化したメタポケモンは使いづらかった。(あと、紫は青に通らないんだから、青メタの役目は持たせられないのなんだかなあ)
当時猛威を振るっていた青技主体の「UBデッキ」に対抗するための特性と技を持つ「青技キラー」
ただ、どうもこの効果は的外れで、UBに対してはむしろ進化前の進化前のサナギラスの方が使い易いという本末転倒感で、あまり見かけることはなかった。
かくいう僕も、実装当日に引いて意気揚々とランクマッチに持って行ったが、とくに活躍することはなかった。
・ポチエナ
「このポケモンの隣に自分のポケモンがいたら、このポケモンとその場所を入れ替える」という青技が特徴。
う、うん? これ当時もよく意味がわかってなかったけど、今改めて読んでも「そ、それで?」としか言いようがない効果だ。
・グラエナ
今こうして整理してて気づいたけど、なんで悪タイプに氷を付与するポケモンが多いんだろうね。
マニュマニュマニュが環境を取ってたころの名残なのだろうか。いやでも、あれ別に氷デッキではなかったからなあ。
・タネボー
大爆発により紫で相手と自分の両方を倒せて、白の連続スピン技もそこそこの広さで、かつミスがなくて、とコモンにしては破格の性能、これでMP3で進化系がそこそこだったら割と真面目にヘラクロスデッキに入った、は大げさか。
ただ、このゲーム別にコモンとしてはそれなりの性能なのを生かす場が特にないので、特にない、特にないのだ。
一応、レアリティ制限ルールもあるにはあったのだけど、アンコモンのチルットを並べるだけでデッキが成立するのが悪い。
・コノハナ
いちゃもんという、もう一度スピンして、その際に相手は同じ技を出せない効果の紫技が唯一のテキストのシンプルなポケモン。
びっくりするぐらい特徴がないが、今こうして読むとこのイチャモンという技、連続スピンで同じ技を出すことに特化してるヘラクロスデッキをメタれ…… ゲッコウガは金か、解散。
ゴールブロックという強プレートを内蔵した強ポケモン、嘘です。
ゴールブロック自体は確かに強プレートなのだが、それを内蔵しても他の性能が弱かったら特に使い道はない。
僕が一番好きなポケモンなので、何度か模索したことがあるのだけど、せめて青技と紫技主体だったら使う使わないは別としてオンリーワンなポジションになれたとは思うのだけどなあ、白技と紫技(しかもただの移動技)じゃあさすがにさすがにだ。
・ヤミラミ
いるだけでデバフをまく特性と、紫と金(とミス)だけの配置と、ゴーストの嗜みのすり抜けと、なんとも異質なポケモン。
コマスターはこういう役割がわかりやすく、かつその役割が多いポケモンは重宝され、デッキのあと一枚どうしよう? の時によくさしていた。
紫は状態異常のため、ルナアーラメタとして着目されたこともある。
ルナアーラは紫2が最高でかつ、状態異常にかかるとデバフを付与する特性が失われて、紫技の範囲も広いため、ヤミラミは割と安定して殴れたのだ。(ルナアーラの白とヤミラミの金がかぶるとだけど)
後年、メガ進化の追加でも着目されるなど、EXとUXだけが環境を支配して長くなったコマスターの中で、割と長いことRなのに居座ってた珍しいポケモン。
バトルで気絶せずかつ状態異常とマーカーを跳ね返す特性と、相手のプレートを食べちゃう特殊な紫技が特徴。
特にこのプレートを食べてメガ進化を強制終了させる効果は、メガ進化ターンを延長する特性持ちのメガミュウツーなんかには特に有効だった。
・キバニア
同名が近くにいると白が金になる特性が特徴。
典型的な何も書くことがないコモンだなあ、金になったからなんだだし。
Rは、どくどくと氷の二種類の状態異常白技と、状態異常を気絶させる紫技と、状態異常がいるとMP3になる特性が特徴。
どくどくはともかく、氷は強い状態異常なので、割と便利そうに見えたが、白技の状態異常付与はバトルに負けないといけないのが難しく、使いづらかった。
ほら、ここでも状態異常の氷が出てくるでしょ、なんで悪に氷なんだろうね。
EXは、バトルするだけでクラッカーマークを撒けるのが最大の特徴。
クラッカーマーカーは、主に虫や鋼のポケモンが面倒な手順を踏んで初めて付与でき、付与した上でさらに攻撃を通すと特殊な効果が発動する割合面倒臭いマーカーだった。
しかし、このサメハダーはその面倒な手順を一切抜きでたただ対戦するだけで撒ける上に、後述のメガ進化ではそのクラッカーマーカー付きを除外する強力な効果を持ってて自己完結している点も高評価だった。
手順を踏まないと強くない効果の手順を省略できるんだから、そりゃまあ強いだろって話で、シンプルにコマスター運営の投げやりさを感じさせられるデザイナーズデッキだった。
すり抜けバフの付与と、クラッカーマーカー付きを除外する金技が特徴。
特にこのクラッカーマーカー付きの除外が金技なのがえらく、高火力金はかなり通しやすい(青以外にまけない)のに、進化前で自分でマーカーも撒けるのと合間って、自己完結っぷりがやばかった。
・ノクタス
特定条件でMP3になる特性と、広い連続スピン系白技と、金技が特徴。
とはいえ、くさタイプはラランテスでバフが盛れること、進化前のサボネアも実装されていてこちらも同じく連続スピン系でダメージが狙え進化もできるのが合間って、草デッキが流行ってたいたころに数回見かけたことがある。
ちなみに、サボネアの方はチェインという凸の概念が実装されたときに、(更新されなかった)メインストーリー部分でドロップが狙えたため、そこで最大まで凸る苦行が有名。
僕はしませんでした、いや、あれして結局どこでどう使うのかよくわからなかったんだよね。
攻撃をされたときにバトルせずに後ろに下がる特性に加えて、気絶紫技と金技に高火力白技(当時)と割と高い水準でまとまってるUC。
特定のタイプが強化される「ジムバトル」みたいな名前のイベントでは、このシザリガーが割と活躍したこともあり、
このゲームにおけるMP1、MP2、MP3の格差をひしひしと感じさせられたことがある。
・アブソル
ただ、特徴らしい特徴がそれだけで、序盤に実装された割にはあまり印象に残っていない。
EXは、白の剣の舞がリスピン系のため、金か青かというわかりやすい役割のポケモン。
ヤミラミの時も書いたが、役割がわかりやすいポケモンはコマスターでは使いやすく、金が欲しいときは使うこともあった。
とはいえ、ただ金技が欲しいだけならミュウなどのライバルも多くいるため、剣の舞からの高火力金に期待したいが、そうなると途端に安定しなくなるなんとも悩ましい位置付けだった。
とはいえ、後述のメガ進化はメガ進化でわかりやすいため、僕はそれなりに使った。
続く
「スガキヤのソフトクリームは増税で値上がりしても160円。ミニなら110円。この値段でこのクオリティのソフトクリームは東海地方の学生たちの青春を支えているといっても過言ではないでしょう」
東京への出張の帰り道、名古屋に向かう新幹線の中。自由席で三人がけの通路側を確保し、ようやく終わった出張の疲れを癒すため寝入ろうとしたとき、隣の二人組の会話が耳に入ってしまった。話の入りは聞いていなかったが、スガキヤという馴染みのある単語が耳についたのだろう。俺は住まいは三重だが、大学も職場も名古屋であるため所謂ナゴヤメシには思い入れがあった。確かにこのヒゲの中年男性の言う通り、スガキヤのソフトクリームは学生時代よく食べた。
「そうは言ってもラーメン屋でしょ? さすがにソフトクリームだけを注文するわけにもいかないから、学生にラーメンの値段は重いんじゃないですか?」
「なにもわかっていないな」
声に出してしまっていた、と誤解するほど中年男性とシンクロしてしまった。
「スガキヤのラーメンはオーソドックスなメニューで330円。卵を落としても380円と非常にリーズナブルなんだ。それに加えて、スガキヤはイオンなどのモールに出店していることが多く、ソフトクリームだけなんて頼み方も全然アリだ」
より補足するなら、大学やパチンコ屋にも出店している。かくいう俺の通っている大学にもスガキヤのコーナーがあった。
「ふーん」
「おいおい、随分冷めた目だな」
「いやだって、330円のラーメンと言われても。僕が通ってるリストランテなら水ですよ」
「そのキャラなんか懐かしいな」
「そうですか? この前のグラタンときとかもこういう話をしたと思いますけど」
「そ、そうだったな……」
「ラーメンはいいですから、その名古屋アイストライアングルの一つ目がスガキヤのソフトクリームということですね」
名古屋アイストライアングル? 全く聞いたことのない言葉だ。名古屋に有名なアイスなんて他にあっただろうか。
「うむ。110円〜160円というソフトクリームの値段帯としては低層ながらも味量ともに中々のクオリティだ。ちなみに、このミニとレギュラーの差は店員の目分量らしいから、新人バイトが多い4月や5月はミニを注文してもレギュラーの量でくることがままあるらしい、が俺はまだ当たったことはない」
この男詳しいな。俺は一度、ミニなのにレギュラーサイズどころか、明らかにふざけた量のソフトクリームを出されたこともある。
「次だ」
中年男性が手で若い男のツッコミを制し、続きを語り出した。そうだ名古屋アイストライアングルのあと二角だ。
そうか、それがあったか。アイスという枠で考えたことがなかった。
「あー、甘味部の皆さんに奢ったっていう」
「そうだな。なのでここでは紹介を省略しよう」
む。残念だ。俺なら、あえて「おかげ庵の抹茶シロノワール」あたりを勧めたいところだ。おかげ庵は、どこにでもあるコメダと違って、なんと愛知県に7店舗しかない希少な店舗だけに、この中年男性も知らないことだろう。特に杁ケ池のあたりにある店舗はよく通ったものだ。
「そして名古屋アイストライアングルを形成する最後の一角が……」
ごくり、と唾を飲み込んだ瞬間、携帯電話が鳴り出した。
「おっと。お兄さんすいませんね」
そう言いながら二人は電話をしてもよいデッキへ移動し始めた。いやそれより、アイストライアングルの最後はいったい……
「お兄さんすいません煩かったですよね」
喋りかけられてしまった。よほど気になる顔をしてしまったのだろうか。
「い、いえ……」
名古屋アイストライアングル、いったいどの店のなんのアイスだったのだろうか。どうもあの中年男性の物言いからして、大須や栄にある女学生向けのフォトジェニックなアイスクリームではなさそうだ。ううむ気になる。
あの店だろうか、こちらだろうか、いやでも、しかし…… 早く知りたい。そう考えを巡らせていると、いつのまにか新幹線は静岡の辺りを走っていた。名古屋はまだ遠く、あの二人組は戻ってくる気配がない。
そんなことに思いを馳せていたら、新幹線の車内販売がやってきた。少しきを落ち受けるために、コーヒーでも飲むか。
「はい、ホットでよろしかったでしょうか」
無言でうなづく。
「ご一緒にアイスクリームはいかがでしょうか? コーヒーとご一緒ですと、60円お得になります」
ずっとアイスのことを考えていただけに渡りに船だ。ここでアイスクリームを頼まない手はないな。
「こちら大変硬くなっておりますので、少ししてからお召し上がりください」
そういって、席の前のテーブルを倒し、コーヒーとアイスクリームを置いてくれた。しまった、よく考えたらあの二人が帰ってきたときに少し気まずいな。まあ、良いか。今はとにかくアイスが食べたい。コーヒーを飲みながら、アイスが程良い硬さになるのを待つ。それにしても、こうしてアイスクリームが手元にあるからこそ思うのだが、名古屋アイストライアングルとはいったいなんなんだろうか。アイスを食べながら、アイスのことを考える、典型的なデブの発想だな、と自分で面白くなってしまった。
名古屋アイストライアングルの、スガキヤとコメダは名古屋に戻ってからいくらでも食べられるが、最後の一角の正体を見極めないと、いくらアイスを食べてもモヤモヤしていまいそうだ。
いったい……
目の前のアイスクリームは、まだ硬かった。
というか此処にたどり着くまでに1時間かかった UIとはなんぞや
さて遅まきながら天気の子を見に行って感情が高ぶったので吐き出す場所を
探し、増田にぶちまけることにした
なぜなら
君の名は。のヒットから天気の子はデートムービー化してしまい男同士でいくのに
抵抗があり結果、ヒトリでいくことになり近くに聞いてくれる人がいないためだ
一方的に排泄物をまき散らすには増田ほど優れたコンテンツはない
新海作品の十八番である映像美と音楽のシンクロはもちろん、見せ所とそうでないところで
緩急をつけて物語に入り込ませるテクニックは前作より磨きがかかっている
またところどころで笑わせてきたり監督の癖(へき)がでているところも新海ファンには堪らないだろう
いい加減大人になれよと諭す小栗旬が藤原さんに聞こえてしまう不思議
何だかRADWIMPSの音楽もIllionがテクノサウンドでダンスミュージックにしてしまえば虹になりそう
「オッス!おらレントン・サーストンいっちょ探してみっか」と7つに分かれたエウレカを探す旅にでる
幻の51話をこの映画観終わったら見れるんではないかと思わすそんな映画
・・・かと思いきやラストでその印象は覆る(ここからはネタバレあり)
そのときエウレカは吹き飛び私の頭の中は秒速5センチメートルのアカリで埋め尽くされる
ここで説明すると私は高校のとき秒速を見て途轍もなく衝撃をうけた私の人生観を変えるほどに
それから歳を経るたびに秒速をみて新たな気づきを得るのが好きな秒速厨である
その秒速厨には大丈夫といえばアカリがタカキと別れるときに「タカキ君はこの先も大丈夫だと思うきっと」と言うシーンだ
別れた電車の中でお互い両想いでありながら好きと言う環境に立たされない子供としての無力感と
この想いをずっと未来まで忘れないという子供っぽい決意をこの大丈夫に乗せてタカキは成長していく
しかし現実は非情で半ば強迫観念めいた未来像と摩耗して擦り切れた想いがタカキを孤立させるのだ
くそ!やってくれたな
天気の子これはアカリの大丈夫になれなかったタカキの裏トゥルーエンドやったんや!
瀧の前前前作がタカキである君の名は。は表トゥルーエンドでこっちは裏ルートやったんや
世界よりもヒナを選んだ帆高の君の大丈夫になるていうんが正解やったんや
なんでアカリはあんなこと言うんやと思ってたけどあれは優しさでもあり、期待やったんや
うぉおおおーーー
そんなんほれてまうやんお互い大事にしてるのわかるやん
なんなん?新海誠はアラサーの童貞心をこじらせにかかってるん?
「君も幸せになりなよ」て長澤ボイスでいって諭して
「W杯のチケット取ったで、見に行こうやー、って言われて行ったら、なでしこジャパン。騙された気せえへん?」というセリフには、自らの中に眠っていた差別心に気付かされる人も少なくないだろうし、
これはなでしこジャパンが女性だから差別されてるんじゃなくて、
男子サッカーと比べたら女子サッカーはマイナースポーツでファンも少ないから、でしょ。
逆に女子がメジャーで男子がマイナーなスポーツ(シンクロとか?あと羽生選手が出てくる前のフィギュアもそういう扱いだった)なら
「チケット取ったと言われて行ったら男子だった、騙された」も成立するだろうし。
ラーメンといい、「女性差別に対して皮肉ってる」と言うにはネタがおかしいし
そもそも本当にAマッソ本人はそんな事思ってるの?
「それを選んだのお前でしょ」
「あなたが選んだじゃん」
なにやら水掛け論感。
会話が硬直し始めたと思ったら次の瞬間
"You chose that"
"No you chose that, right?!"
うーんなんだったんだろう。
また出たらまだ会話してる。
「もうやめよ!おわり!」
日英組み合わさった
僕が帰ろうと歩くと同時に二人も歩き出す。何だこのシンクロ感。
聞こえてくる会話
「じゃあ戻る?」
「いーよそうすれば?俺は見ないで待ってるから(?)」
最後に聞こえた会話が
「いいよ待ってるから、その後今後の話しよう」
「◎☓△※」(聞いてなかった)
"I don't care"
"I care!!!!"
そして彼らはどっかいった
ゲームのクリア直前で世界が崩壊することを皆は口々に批判していたけど、俺にとってのDQはいつだってこうだった。
https://www.youtube.com/watch?v=gQf_QTsvXCU *例のBGM
そのどれもでラストダンジョンの半ば、ラスボスを倒すためにレベルを上げている最中にデータが吹き飛んだせいでクリア出来ていない。
それでもと、繰り返し遊ぶが何度やってもラスボスよりも前でデータは消えていく。
段々とプレイは効率化され、繰り返されるリセットにより感情移入は失われ、世界は断片的で無味乾燥としたものへと姿を変える。
やがてそれらはただの義務的な作業となり、キャラクターはただのデータに過ぎなくなる。
俺にとってのドラクエだ。
ただ一つの違いは、俺には奇跡が起こらず、世界は壊れたままで閉じていった事だ。
俺の中で、3つの世界は今も救われないまま胸のしこりとして残り続けている。
それらを救いに行こうと旅立つ気力はもうどこにもない。
俺にとってあの世界はもう、フラグ管理された0と1の羅列でしかなくなっている。
胸のうちから没入感を湧き上がらせる度に裏切られる旅路は、いつしか俺にドラクエに対する無気力を学習させていった。
今ではあれらの世界は俺に苦痛だけを残した忌むべき場所となっている。
俺はドラクエが大嫌いだ。
ドラクエが大嫌いなアイツこそが俺だったんだ。
ならば壊す側の俺にとってはアイツこそが二人称で呼ぶべき何者か、「ユー」だ。
あの映画が「ユー」の物語であるのならば、俺にとってはたしかにアレは「ユア・ストーリー」だった。
俺の物語でもあったし、俺と対立する誰かの物語であり、その中で結局主人公だったのはあの映画において正義として描かれたのもその何者かの方だ。
その虚しさは、俺が何度も消えゆくデータの中で、世界を救えないことに対して感じた申し訳無さを確かに思い出させてくれた。
正しく「ユア・ストーリー」だった。
みなさんの住んでいる地区にもおそらく存在する消防団という組織。
多くの人は、災害時の活動や消防団内の不祥事を報じたニュースをときどき目にするくらいでほとんど知識がないと思います。
自分も現役の団員ですが、実際に活動してみていろいろと感じるところがあります。
今後も災害時に地域のために働く存在として必要なのは間違いないと思います。
様々な理由があると思いますが、思いつくものをいくつか挙げてみます。
消防団活動でメインとなる方は大体25~45歳位でしょうか。仕事や子育てで大変忙しい世代です。とても地域の活動に協力できる時間的余裕がないという方もいると思います。
火災時の対応に加え、台風・大雨時の水防活動、地域の防災訓練への協力、タイトルにもあります操法大会への参加等、年間何十回も参加するのは大きな負担です。
上下関係が厳しく、酒飲み・タバコ・風俗等、いかがわしいイメージで消防団を敬遠される方が多いと思います。(※いろいろな団があると思いますが、クリーンな消防団も増えていくと思います。私もそういった昔のおっさんみたいなダサいことはやりたくありません。)
昔は順番で必ず入らなければいけない、入らなければ村八分に近い状況になってしまうような地域の圧力が存在していました。しかし現在は、昔からあった地区は別として、新興住宅街などにはそのようなものはありません。
まとめると 仕事や家庭で忙しい時期の男性が、負担の大きい活動を、酒飲み等で拘束されながらやらなければいけない。絶対に入りたくないという気持ち理解できます。
消防団のなり手不足を解消するために、行政もいくつか取り組みを行っています。
地元の飲食店に協力してもらい、消防団が飲食したときに割引を受けられるサービスなどを作りましたが効果はないでしょう。私もまったく利用していません。
これは行政がなり手不足問題への対応として消防団員へのサポートを一応やっていますよというアピールでしかないと思います。なかなか手をつけにくいとは思いますが、ぜひ以下の負担軽減策を断行してほしく思います。
youtubeにも多くの動画が上がっていますので、ぜひ一度見てください。
・ホースの展張 管鎗との結合
・管鎗の扱い方 放水のノズル操作、放水時の態勢
など、火災時に役に立つ技術を身に付けることもできるかもしれません。
しかし規律と呼ばれる動作や団員の動きをシンクロさせるなど、実戦でまったく役に立たない動作の練習に多くの時間が費やされています。※なかなかイメージが湧かないと思いますので、ぜひ動画を見てみてください。ロボットみたいな不自然な動きじゃないですか?
うちの部も、集合するときに白線ぴったりに並ぶとか、ポンプ車のドアの開け閉めをシンクロさせるとか、一つ一つの動作に決められた規律を入れるとか、そういった不毛な練習をやっています。
確かに消防の技術を習得できる面もありますが、それは部内で先輩から後輩へ教えて行けば済むのであって、こんなバカみたいことに大切な時間を使わなければいけないのが本当に馬鹿らしいです。
今後も行政は毒にも薬にもならない対応を続けるでしょうが、最後は団員の負担軽減として操法大会は廃止されると思います。
廃止してすぐに団員が確保できるとは思いません。でもせっかく地域のために頑張りたいと手を挙げてくれた人がつまらないことで苦労しないように、できるだけの負担軽減はしてほしいと思います。
18歳で初めて受診して、大きな病院まで行って色々検査して紆余曲折あり、
今は30歳。
大人になってから生理システムを経験して約2年。思ったことを書いてみる。
・月に一度の頻度は多すぎる
本物の生理とは少し違うとは言え、出血している間は動くのが辛いほど下腹部が痛い。
お手洗いに行くたびに真っ赤に染まるトイレ。初めて見た時はドン引きした。
出血多量で死ぬんじゃないか?というくらい日常でこんなに血を見る機会なんてない。
出血中が5日続くとして約30日中1/6は辛い思いをする日ということである。
今までの人生でが30日全部元気な日だったのに。
年に1回くらいならなんとか我慢できるくらいか……え、これを毎月あと十数年続けるの?
・あからさまに体調が期間ごとに変わる
出血を起こすようになる前は体調が定期的に変化していくなんてことは一切なかった。
それが、出血一週間前位から絶対に体が辛くなっていくようになった。
だるい。腰が痛い。肩が重い。むくみが酷い。些細なことで悲しくなる。苛立ちを感じる。
3日前くらいからは猛烈な食欲。食べても食べても足りない。
食べると太る。制御できないくらいお腹が空く。でも運動できる体調ではない。
これらの体調不良は気のせいなんかでは決してない。
だって、出血が始まると今までのことが嘘みたいに全て治るのだ。
朝起きると辛かった気持ちが晴れやかで体が軽い。昨日食べていた食事量では多すぎる。
出血前の辛さが5日続くとして合わせると月の1/3は体調が悪い。
また体調不良アピールいい加減にしろと思われても全くおかしくない頻度だ。
通院も薬の調整も検査も定期的にしているがこれ以上は軽くならないとのこと。
何も起きないことがデフォルトの私にとっては毎月が大パニックだ。
・血のことを考え続けなければ動けない
生理用品は万能ではない。ただ下着に取り付けるだけでは簡単に血が漏れる。
時間によって使い分け、こまめにお手洗いに行き、血が目立つ服は避け、
貧血にならないよう食事に気を使って、仰向けで寝ないように、洗濯に手間をかけて、そしてお金がかかる。
瞬間吸収?つけてないみたい?嘘だろ。お気に入りのソファーとスカートを返してくれ。
シンクロフィットと後ろ側に線の入った生理用ショーツに出会った時は神の存在を感じた。
未だに正解は見つけられていない。
何も治療をしなければ楽で済んだのかもしれない。
しかし、女性ホルモンが少ないことに伴う身体の不具合がそれを許してくれなかった。
初めて一生自分の力で生理を起こすことも妊娠することも不可能だと分かった時、夢は叶うなんて嘘なんだなと思った。
人と比べてそれよりは幸せだよなんて言葉はちっとも馴染んでこない。
検査結果を待つまでの間は自分は本当は男だったのかもしれないと頭の中はいっぱいで、親は泣いて謝っていた。
誰かを好きになってはいけないんだ自分は生物としての価値がないんだからと本気で考えた。
それでも好きになってしまった人、私を好きと言ってくれた人にすべてを打ち明けるのは心底怖かった。
即断でそれでも良いと言ってくれた夫もいつかやっぱり子供が欲しかったと言うかもしれない。
私は子どもを産まなくても幸せになれるという言葉を頭に受け入れるまで10年かかった。
昔は会得していて、鑑賞前に完璧にモードを合わせられたんだけど出来なくなった。マッドマックスを見る時はモヒカンになっていたし、12人の怒れる男たちを見る時には社会派だった。
今は違う。ユージュアル・サスペクツを受動的に見てしまうから最後のどんでん返しに特に感動もしないし、シャークネードを見ながら話の荒唐無稽差にため息をつく。
どうやればまた出来るようになるんだろう。
ポスターやタイトルロゴから得る印象に合わせて心の中にあるチャンネルを捻ってモードを調整し、それから鑑賞していく中でオシロスコープを操作するようにゆっくりと作品へシンクロしていけばいいはずなんだが……出来なくなった。
やり方が分からない。
映画を見に行こうとしてから一覧を見て観たい映画がないから諦めたりが多くなった。昔の自分は、アベンジャーズがやっていたら自分をアベンジャーズに合わせて楽しめたのに。
誰か教えてくれないだろうか。
一般的な作劇として、不愉快なイベントは、単体だと「単に不愉快なだけ」で終わるので、作品のテーマ性として発展させ、そこに意味を持たせるわけです。...
あまり関心を持ったことのないポイントなので、勉強になります。僭越ながら、グロテスクさが感じられうる示唆的なシーンが、人物の行動の結果などに繋がって作品としてのテーマになるまで昇華されていなかったとしても、芸術的な意味はありうるのでは、と考えています。例示していただいたアイデアのように正面からこれをテーマに据えてしまうと、作品自体の目的が”説教”になってしまうので避けたが、示唆したいことは確かにあった、という可能性です。別の方の増田を引用します。
動物園から人と動物の関係についてあくまで人は管理者であって友達ではないという指摘があった。人の都合で檻に閉じ込めている現実から目を背けるべきではないとのこと。学習や研究、人の活動によって個体数が減らされてしまった種の保存など、人が人のために他の種を管理しているのだから、あまり、動物と人が対等に取り扱うことは教育上望ましくない。2期では是非そういった視点も踏まえ、動物同士がフレンズでありヒトは違うという体でお願いしたい。
動物園から制作陣への要求… もちろん、そのような体で書かれた冗談でしょうが、こういう視点は制作側にあったのかもしれません。
それを仰るなら、けもフレ1の黒いセルリアンとの戦闘でも多くのフレンズは野生解放していないです。ところで「野生解放を言わない」ということには、けもフレ2制作陣の明確な狙いがあると思います。けもフレ2では他にも「ちほー」や「フレンズ」といったタームがほとんど言われません。推測ですが、これは一般受けを狙うために途中から入ったりぼーっと観てる視聴者やキッズが引っかからないように配慮したものだと思われます。逆に明確に説明するようになったものもあります。キャラクターの性格です。「私、体が丈夫なだけじゃなくて記憶力もいいので」「私は用心深いから」… などなど、けもフレ2ではキャラクターが自分の性格を自己申告します。作劇技術的な難度という点ではこのような表現はおそらくレベルが低く、エレガントでもないのでしょう。しかしそれが直ちに作品として悪い、ということにはならないでしょう。解りやすいというメリットは確実にあります。あざといくらいハッキリ言うので、おそらくここを起点に自分でも動物の性質を調べてほしい、という願いも込められているのかもしれません。
ケムリクサに置いて、内面と世界がシンクロする際は、ケムリクサというギミックを使っており、SFとしての筋は通っていると考えています。ここでいうリアリティラインは高めです。
そうでしょうか。最終話の赤い木との戦いで、りんの本体の葉から水がなくなって戻ろうというときに、ミドリの核の枝と桃ちゃんを継承しました。枝を肘につけてパワーアップして復帰しますが、しかしミドリの枝にケムリクサを修復する機能があったのでしょうか。ミドリの葉は状態を治す・保つ事ができます。わかばの腹に空いた穴や、りんの欠けた手足を補ったことはありますが、ケムリクサそのものを治したことはないです。もしケムリクサをも治せるなら、赤い木に指して倒せるのと矛盾してしまうと思います。かといって桃ちゃんで自分を分裂させたという可能性もありません。桃ちゃんは、(姉妹では)りなだけが使える葉だからです。また同じく最終戦で、りんは、りりの最後の記憶を取り戻しますが、あのとき記憶のケムリクサが突然発動したのはなぜでしょう。直前に二回わかばが開いていますが、二度ともロック解除が必要でそれは、りくにさえできない、わかばだけが可能な手続きだったはずです。りんは最終戦終了後キャッチした、わかばとともに船のそこに落ちますが、そこで突然ミドリの光の柱が伸びて二人の怪我を修復します。でもミドリは葉も枝も戦闘で使い切ったのでは。リアリティラインが低い… 内面の高まりがなし崩しに外面に出てしまう。お話を頂いて頭に浮かんだのはむしろこのシーンでした。ケムリクサを万能の舞台装置、あらゆる話の粗を吸収するスポンジと捉えるなら、けもフレ2のセルリウム&サンドスターをスポンジにすれば全て解決では。
悪意のあるキャラがいない、という点では「優しい世界」を継承しているでしょう。りんがわかばを警戒するのは自然なことですし、それ以外は全員が素直で、また世界破壊の原因も優しさに起因し、わかりやすい「悪役」はいない
「優しい世界」の解釈が俺らふたりの間で異なっているように思います。けもフレ1で、カバは新参のかばんちゃんに「パークの掟」を諭しつつも、去りゆく二人に何度も声をかけて心配しているさまを示す。ツチノコは地下迷路で口の悪い闖入者を疎んじつつも、(諦めた体で)二人に協力して出口を探すわけです。最後には絶滅していなかったヒトへの安心の気持ちを口にする。サーバルはかばんちゃんを、「かばんちゃんは…したかったんだよね?」のように道中何度もフォローを入れる。このような誰かを深いレベルで思いやる描写があちこちにあり、一方で人物間の衝突はあっても形骸化した、表面的なものでしかなかった。全面的に留保の余地なく安心できる世界観がけもフレ1の「優しい世界」としてみんなに愛された、そう考えています。しかしケムリクサではもう最初から、わかばは異物扱い、いつでも落とせる、落としてやろうのような脅迫的な発言が毎回あるわけです。もちろんおっしゃる通りそこには合理性があるんですが、しかし、りくさん、あなたは最後散り際にまで「こんなやつのどこがいいんだ」的なdisりをくれる必要はあったのか、あれ実はあなたも好きだったんで吹っ切るために強がったんですよね、などと視聴者の俺は解釈していますが、しかし「優しい世界」では全然ないでしょうということは主張しておきます(でもりつ姉はオアシス)。
設定や伏線において、けもフレ2に不備があるように思えるのは錯覚で、実態は作品の狙いと得意な表現の範囲の違い「へーきへーきフレンズで得意なこと違うから」、で済むレベルなのではと考えているのです。むしろ楽しむことを妨げる、エゴイズムという意味での悪意は、視聴者の俺らの側にあるのではないでしょうか。拝読した記事には総論としては同意で、いわゆる「ハンロンの剃刀」は強力なのですが、作品を論評するときに必要な環境、安心して自分の意見を言える状況、とは現状はかなり食い違っているように思います。この空気の中での分析は、かなり注意深く精査しなければ容易に流されて最悪のケースでは誰かの筆を折らせる結果になりかねない、そう思って眉に唾をつけ考察しています。
例えば一期のメインキャラが、十数人として、それが全員、根が素直で優しいとするなら、「根が素直で優しいキャラを十数体、キャラを立てて描き分ける」ことになるわけで、えらいことです。もちろん、素直なやつばっかりじゃないですが、それにしても想像すると怖くなりませんか。
ううむ、言われると、けもフレ1のサーバル・コツメカワウソ・プレーリードッグはみんな似てはいるものの、ごくごく微妙にキャラが違っており、おそらくセリフに落としても区別がついてしまうでしょうね。制作陣の構成についても明るくないですが、この功績は吉崎観音さんの成果?
当初イエイヌはヒトであれば誰でも良いということを言っていました。結果的には「別れた大切な人を待ち続ける」ことになるのですが、ヒトであればよいと思っているという設定は、不憫さを誘うためものだった思います。イルカ・アシカについても芸の報酬をねだるのは(三人も引いていたし)どこかグロテスクさを感じました。ホテルのぬいぐるみが売り切れる描写は、リョコウバトが孤独になっていくさまを強調したものでしょう。確かにドラマとして悲劇・罪悪感が押し出されているわけではないですが、全編に渡ってそういう表現がある点で、そこには何らかの狙いがあるように感じます。深く考えていないということはないと思います。
このへんは、主観的な話にならざるを得ませんが、個人的にはイルカ・アシカのエピソードに、自覚的なグロテスクさは感じませんでした。リョコウバトのエピソードは絶滅悲劇を意識してるのは確かですが、そこがどこにも繋がっていません。
一般的な作劇として、不愉快なイベントは、単体だと「単に不愉快なだけ」で終わるので、作品のテーマ性として発展させ、そこに意味を持たせるわけです。キュルルが人類の罪深さを知って、それを贖罪しようとするとか、あるいは、キュルルの態度のほうが正しく、かばんさん的な人とフレンズを区別しない態度が偽善であることが示される、とかですね。
けもフレ2では、そういうテーマ性は見当たりませんでした。やろうとしてまとめきれなかった可能性もありますが、個人的には、そこまで深く考えていなかったようにも思えます。「シリアスなエピソードを置くことで、作品に深みがでる」くらいのノリで置いて、それ以上は考えていないように思えたのです。
あれが野生解放なら、筋は通りますね。野生解放といえよ、とか、他のフレンズは野生解放しないのか、とかは、内面世界の問題ではなく、脚本の不備の問題ですから。
しかしそうすると、けもフレ2は全体としてはリアリティラインは低くはなかった、ということになりませんか。けもフレ1の紙飛行機や石橋の下に落としたりは納得感が高かったのはわかりますが、けもフレ2での内面世界の漏出は最終盤で起こったということでしょう。
リアリティラインの高低に関わらず、作劇のセオリーとして、クライマックスでは、内面と世界が強くシンクロします。
主人公の絶望と、強大なセルリアンの登場、友情パワーの高まりと、主人公の復活、セルリアンの撃退、などです。
この時、けもフレ1は、内面と世界を繋ぐ筋、理屈を、うまく作っていました。
けもフレ2は、そのへんがあまり機能しておらず、内面の高まりが、なし崩しに外面に出てしまったと考えます。
これは、脚本の不備と捉えることもできますが、けもフレ2単体で見た場合、そこまで気にならない。ただ、けもフレ1と比べると、目立ってしまう、というわけです。
最初に、「ただ、けもフレ2は、全体的に伏線の回収がうまくいってないので、意図的にリアリティラインを低めに保とうとしたというよりは、設定について深く考えてなかったり、伏線を消化しきれなかったりして、そうなってしまってると考えられる」と書いた感じです。
ところで、ケムリクサにおいてもリアリティラインは低くなっていったと考えています。ケムリクサは”優しい世界”でもないです。視聴者は同監督ということで同様のものを期待したはずですが、ギャップが大きく評価を下げたという感じはありません。もちろん悪意を見出している人もいません。
ケムリクサに置いて、内面と世界がシンクロする際は、ケムリクサというギミックを使っており、SFとしての筋は通っていると考えています。ここでいうリアリティラインは高めです。また生存が厳しいという意味では優しくないですが、悪意のあるキャラがいない、という点では「優しい世界」を継承しているでしょう。りんがわかばを警戒するのは自然なことですし、それ以外は全員が素直で、また世界破壊の原因も優しさに起因し、わかりやすい「悪役」はいないわけです。
人間、創作には色々な気持ちを込めるので、「あいつに負けたくない」「あいつの作品が、ここがダメなのを暴いてやる!」といった対抗心を作品に入れ込む場合はあると思います。そういうのは悪意と呼べなくはないでしょう。そうした悪意を高いレベルで昇華して、優れた作品になることはいくらでもあります。逆に言うと「悪意を持って作られた創作」と言われるものは、悪意が前に出すぎてて、作品として楽しみづらいものなわけです。普通、そういうのは商業では、否定されます。なので、おっしゃるとおり、「商業的メリット以前に、悪意を想定する」のは常軌を逸した話であると思います。
ただ商業メリットの話をしていくと、けもフレ2に関して「それ商業的に悪手じゃないの?」と考えられる部分は、作劇に限らず色々あるわけなので、それを正当化する理由として悪意を置くのは、あながち否定できない。なので、そうした悪意なしでも、けもフレ2という作品が生まれることは説明できる、という記事を書いたつもりです。その上で、もちろん、みんなちょっと落ち着いたらとは私も思います。
そういえばtogetterで吉崎さんの出したプロットから、たつき監督が「トゲ」を抜いた、というエピソードが紹介されていました。俺は結果をみて、なるほど! と思ったのですが、ああいうことを狙ってやっていくのは唯の視聴者が思う以上に難しいのでしょう。
難しいと思います。単に優しくするだけでなく、優しくした上で、キャラを立てないといけないわけです。
例えば一期のメインキャラが、十数人として、それが全員、根が素直で優しいとするなら、「根が素直で優しいキャラを十数体、キャラを立てて描き分ける」ことになるわけで、えらいことです。もちろん、素直なやつばっかりじゃないですが、それにしても想像すると怖くなりませんか。
けものフレンズ2について1への「悪意」があると良く言われる。あるいは悪意ではなくとも、「1の優しさと相互認証に対して、孤独と自己肯定の物語を描こうとした(筆者要約)」(http://blog.livedoor.jp/fukukan2009/archives/52306934.html)といった意見がある。
確かに、そう受け取れる描写はあるのだが、その多くは、1と2の思想基盤の違いから来てるのではないかと思うのだ。
けもフレ1のジャパリパークは、人間がいなくなって長らく経つ世界で、動物たちが気ままに暮らしている世界である。「ヒト」というのもフレンズの一種であり、対等の存在として描かれる。
一方の、けもフレ2では、人間と動物の違い、人間が動物の上に立つモチーフが強調される。拍手とご褒美を要求するイルカしかり、イエイヌしかり。ここに居心地の悪さを感じるのは当たり前の話であり、「悪意」を見いだす人も多い。
これはしかし、けもフレ2が、けもフレ1を否定しているというよりかは、アプリ版等の大本のコンセプトに近い。今からなら漫画版が一番手に入りやすいだろうか。そのコンセプトは、昔風の「動物園」であり「飼育員と動物」「飼い主とペット」の友情物語である。飼い主とペットに上下関係はあるが、お互いそれに満足しており、飼い主は責任持って、ペットの世話を世話をし、ペットは飼い主を喜ばせ、芸をする。それはそれで、一つの関係だろう。
なぜ、それが、けもフレ1で変わったか。理由はいくつか考えられる。
大きな理由は、舞台が「人間がいなくなってる世界」だからだろう。人間の世話に答えて動物が人間を好きなのは良いとして、人間がいなくなってる世界で、それでも一方的に人間を崇める動物というのは、まぁ、あまり気分のいいものではない。
もう一つ。現代的な動物園は、見世物的な展示、ショーは避け、動物になるべく野生に近い生活をさせ、ありのままの生態を見せる方向へ進んでいる。フィクション上の動物園がどういうものであっても良いと思うが、現実の動物園とコラボ、協力する作品において、旧時代的な動物園を肯定したくない、というのもあっただろう。
けもフレ1は、サファリパークだったり、行動展示だったりする現代風の動物園、アプリ版、けもフレ2は、旧来の見世物的な展示をする動物園と言った具合だろう(参考:http://kemono-friendsch.com/archives/77528)。
けもフレ2は、おそらくは、アプリ版の「飼育員と動物」関係に基づいて話を作ろうとしたのだと思う。が、けもフレ1の続編という形も取ったため、前述の矛盾点が噴き出してしまっている。アプリ版の路線を復活させるならさせるで、どうすれば良いかを練るべきであった(それが許されない環境は多々ある)。
「人間がいないのに、人間を崇める動物」は、気持ち悪い。そこを敢えて描くなら、その悲劇性や罪悪感も描くべきだが、特にそれはない。多分これは「悪意」ではなく、「深く考えていなかった」ことだろう。
同様に「人間と対等な知的生物」としてのフレンズを描いた続編で、「人間に芸を披露して喜ぶフレンズ」を出すのは、えぐい。これも「悪意」ではなく以下略。
気持ちよいお話のセオリーの一つとして、内面世界と外部のシンクロというものがある。
主人公が悩んで心が暗い時は、夜だったり、雨が降ったりして、世界も暗くなる。
主人公が悩みを克服すると、夜が明けたり、空が晴れたりして、バトルで勝利したりする。
リアリティラインが低い作品の場合、深い理由がなく、そのまま内面が世界に反映する。
魔王が復活する時は、黒雲が渦巻いて雷が鳴ったりする。悩みを克服した主人公は、勢いで超パワーアップしたりする。
現実レベルが高い作品の場合、そうはいかないので、偶然で説明できる範囲のささやかなことであったり、なんらかの理由、必然性があったりする。
主人公が悩んでる時に、雨が降ってるのは、「たまたま」「偶然」の範囲であり、悩みが吹っ切れて、主人公がバトルで勝つ時は、「悩みのせいで今まで気づかなかったけど、あいつにはこんな弱点が」という閃きがあったりする。
けもフレ2では、カタカケフウチョウ、カンザシフウチョウが、内面の声を代弁しまくる。キュルルの「思い入れ」が、絵を通したり、通さなかったりして、直接、セルリアンに反映するらしい。これらの深い理由、解説等はない。
ホテルでは絶滅動物のリョコウバトのぬいぐるみが売り切れてたりする。「たまたまリョコウバトだけ売り切れだった」なら「作中現実としては偶然」で済むが、「レッサーパンダとオオアルマジロとリョコウバトが少なく、ハブはいっぱいある」までやると偶然では説明できなくなる。が、これも理由は特に語られない。
ここからわかるのは、けもフレ2は、リアリティラインが低めの、「ふわっとしたファンタジー・童話的な世界」であるということだ。
一方、けもフレ1は、作品内論理の整合性は、SF的に取っている部分が大きかった。ラッキービーストが人の声にだけ反応する、ジャパリカフェに、太陽電池がある等、SF的なガジェットがあり、崩壊世界の日常がどう維持されてるかが目配りされている。もちろん、作中で全部の設定を説明するわけにはいかないにせよ、目につく範囲での、あからさまな矛盾は減らし、それによって、「かばんちゃんの正体」と言った謎に緊張感が残った。
けもフレ2単体で見た場合、リアリティライン低めの作品だと受け止められるのだが、リアリティラインが高めの1を見たあとに2を見ると、アラや問題が多く見えてくる。
ただ、けもフレ2は、全体的に伏線の回収がうまくいってないので、意図的にリアリティラインを低めに保とうとしたというよりは、設定について深く考えてなかったり、伏線を消化しきれなかったりして、そうなってしまってると考えられる。ここもまた「悪意」ではなく以下略。
イエイヌの報われなさっぷり、ビーストがホテルの下敷きになったことを誰も気にしてない等は、悪意として描くなら、もっと強調のさせ方、後への繋げ方があるはずなわけで、ストーリーとして処理しきれなかったと考えたほうがよさそうだ。
・かばんさんに何があったかはわからない、偉い人が作るだろうと
・かばんさんの経緯は知らないが、再会の喜びを描いた
サーバルがなぜ、記憶をなくしたっぽいのかも、かばんさんとの間に何があったのかも、監督自体知らされてないのなら、「それっぽい」シーンでお茶を濁すくらいしかできないだろう。
もちろん設定がないだけなら、他にやりようがあったかもだが、こういう状況だと設定がないまま、あーしろこーしろと言われた可能性が強い。ご愁傷様である。
自分が見た範囲では「けもフレ2」に見いだされる悪意は、1,2のコンセプトの差(およびそれに対する無策)、脚本・演出技術の未熟、現場のしがらみ、などで説明がつくものであった。
最近、アニメの評価になるたびにクソアニメの代名詞みたいにARC-Vが出されることを看過できない。
確かに欠点はあるが、いいところ・評価すべきところもたくさんある。それを書く。
「新シリーズでは新召喚法が出てきて、エクストラデッキを使う召喚はそれ一択になる」っていうのが通例になりつつあった(5D'sは例外あるが)中で、それを世界観の設定に組み込んだのは長寿アニメならでは。ユートがダリベ出した時は「今年は何か違う…!」って思ったよ。まあいろんな意味で違ったわけだが。
このARC-Vの構想自体は前から練られてたんだと思う。確かZEXALの決闘庵のあたりでシンクロモンスターが出ない理由について監督が「世界観に関わるのでお答えできません」とか言ってたんだよ。
これだけの長寿アニメで、商売のために召喚法を切り替えてたのを、「シリーズまたぎの伏線」に落とし込んだのは、後付けかもしれんとは言え本当にすごいと思う。
ゲストばっかり話題になるけど、ARC-Vキャラもみんなキャラ立ってた。
黒咲・素良・権現坂・沢渡・デニス…あたりはともかく、もっとみんなに活躍させてあげて欲しかった気はする。
ゲストキャラも目立たせようとすると、明らかにキャラが飽和してるんだよ。
ミッチーとか明らかにネタキャラなのに結構実力者として描かれてるところが好きだった。
月影は一番好き。ニンジャマジ有能。実際強い。
LDS三人組は既存テーマ使いとして魅力的だったし、勝鬨くんは早めに闇落ちさせてストーカーキャラとかにして定期的に出すとか、タイラー姉妹なんかもっとストーリーで見たかった人多いでしょ。
いろいろ言われてるのはわかるよ。でも新しい取り組みだったし、そこは評価しようぜ。な?
ちらっと出してさ、視聴者からは「もっと出して!」って言わせるくらいがちょうどいいんだよ。
シンクロ次元を去る時に、空を見上げる遊星の後ろ姿がちらっと映る、みたいなさ。
前にも書いたけどARC-Vのキャラだけで十分魅力あるキャラはたくさん作れたと思う。
下手に出して新しいストーリーに無理やり絡ませたらさ、そりゃキャラもぶれる。
最初にジャックが遊矢に「ひとりよがり」って言ったときは「よく言った!」って思ったけど、後々の展開がね…。
ジャックどうした?おかしくなったのか?いやジャックは元からおかしいな。いやそうじゃないわ。
柚子がピンチの時の次回予告で明日香が出てきた時は本当にワクワクした。なお
微妙だなあとは思ってたけど、これ最終回で沢渡とのデュエルで流れたらめっちゃ興奮するんだろうなあとか思ってた1クール目。
ユーゴ登場シーンは軽い騒ぎだったなあ。期待に胸が膨らんだよ。
一番好き。
シンクロ次元回の初回のナレーションからのイントロのワクワク感は忘れない。
ランサーズにニンジャいて「!?!?!?」ってなったのもいい思い出。
沢渡はかなり良い活躍して、遊矢とユーゴは戦うんだろうなあって思った。
曲は神です。人気あるよね。わかる。好き。
曲は(ry
良いデュエルもあっただろ?それを思い出させてやる。
ARC-Vで初めて「おっ」て思ったデュエル。時代遅れのXセイバーだったとはいえ、アニメにあるまじきガチ展開をする刃と、新テーマで迎え撃つ権現坂。「コロコロキャラみたい」とか言われつつも「俺は本当に強いぜ」って言ってガトムズ並べてくる刃かっけえ。
最後は引き分けに持ち込んでその後は不思議な師弟関係に繋がったりと、文句なしのデュエル。
黒咲のRRは見てても楽しいし(なんだかんだでランクアップ楽しいよね)、素良の文句無しのクズっぷりも◎。
ガチのかっこよさとネタが混ざり合った黒咲こそ天然物のデュエリスト。
前半戦の素良との決戦って感じ。
素良を笑顔にさせたいと思いつつもオッドアイズリベリオンを出してしまうという自分の葛藤…でもないか。
これは引き分けの有効な使い方だと思ってる。素良との和解は後々、ハッキリ決着をつけて…となればよかった。
なんだかんだで盛り上がりはすごかったデュエル。
スピードロイドの展開と、クリアウィングの効果をうまく使うユーゴのデュエルは実際面白い。
そんないいデュエルじゃねえって?まあそこは月影好きだから許してくれ。
デュエル内容自体はそこまででも無いんだけどAカード取り放題とかいう無双を見せたニンジャを評価したい。
最後は「本当は勝ってた」風に負けたけど…それならニンジャの勝利は別の機会にちゃんと見せて欲しかった。
このころは「シンジは改心していって、シンクロ次元での簡易な遊星的ポジションなんじゃ?」とか思ってました。なお
遊矢が「模倣じゃなく、ペンデュラム召喚がオレのデュエルなんだ」って気づいた(おせえよ)
ジャックが良い意味で笑顔を見せてたり、このデュエル自体は個人的には評価高い。
基本的にモンスターデザインは毎シリーズ全部無条件に好きなのでノーコメント。
セルゲイのDホイール合体とか、明らかに視聴者に「お前らこれやっときゃ喜ぶんだろ?」っていうのが透けちゃうとしらけると思います。
シナリオ作る人はバクマンの「シリアスな笑い」を読んできて欲しい。
ワクワクを思い出すんだ!
皮肉屋だった。いつも他人の悪口を言ってお酒に酔って笑っていた。
けれどそこそこの学歴があり今も正社員で自分自身を食わせていけているので、
本もたくさん読んでいるので賢いだろうと傲慢だった
それが間違いだったんだと思う
本当に用事ができたのかもしれないし、そうでないかもしれない。
わからないが、とにかくそういうことだと納得してとりあえず電話を切って寝た。
ぶわーっとよみがえってきて自分がものすごくつまらない人間に思えた
他人がバカに思えていたけど、結局最も馬鹿なのは自分だったんだなと思った
どうでもいい話を延々してくる奴が憎くて憎くてたまらなかった
ずっと話を聞いて疲れていた
そういうことを繰り返していたら、自分自身が語ることをも嫌悪していた
「夫に恵まれなかった」と
「近所の人がこんなことを言った」と
「あなたは頭がおかしいから社会ではやっていけないので学歴をつけろ」と
いろんなことをこぼした
それをやれば好かれると思い
心の中は嫉妬と見下しと自己嫌悪と自尊心がぐちゃぐちゃになったゴミで
私の精神は壊れていった
私の価値がないと感じるようになった
私は30歳になった
色々あって私は他人のことが嫌いになった
そして他人も私のことが嫌いになった
WinWinになったね、と思う(皮肉だよ)
自分を変えたい、と思う
話し方や癖は変えられても、
人格は変えられない
長期的に友達とうまくやっていくのが難しい
どうしたらいいのか教えてほしい
本稿では、現在の「ファン/オタク」が「関係性消費」を志向するようになってきているという事象を踏まえ、その内部の「男オタク」と「女オタク」のジェンダー格差や、関係性消費の今後について多角的な視点から分析を試みる。なお、本稿においての「オタク」は、二次元三次元を問わずある作品・概念・グループなどを愛好すると自認している人々のことを指すポジティブな言葉として用いる。拡散し多様化するオタク文化は2次元と3次元の壁を超え、全体像を画一的に語るのはほぼ不可能なため、ジャンルやジェンダーに関する詳細については各部で詳細を補完したい。
「日常系」は広大なオタク市場の中でもかなりの割合を占める作品群だ。基本的には複数の女性キャラの日常生活を描写した4コマ漫画が多く、それを原作としたアニメは2010年代以降各クールに2~3本は放映されている。基本的にドラマティックで壮大な展開や激しい戦闘を行わない、いわば反「セカイ系」カルチャーともいえるだろう。源流としては美水かがみ「らき☆すた」(2004)や、なもり「ゆるゆり」(2008)などが代表的なものとして挙げられるだろう。00年代初頭から現代まで増加傾向にある「日常系」は、現在も各メディアで売れ続けている。この背景には、やはり弛緩した日常風景の一瞬・ごく短いセリフや1コマのシーンの行間を読む関係性消費への志向への高まりが一因であると思われる。日常系の「物語性のなさ」は、逆に巨大な「行間」を生み出し、そこにオタクが各々関係性や物語を想像して消費することができるからなのではないだろうか。
関係性消費について、2,5次元舞台での「リアリティの担保に参加しつつ、舞台裏も消費するファン」や、「タカラジェンヌの四層構造」(東 2015:96-98)*1 で取り上げられた「各レイヤーを横断し、その要素を複雑に融合させながら関係性を消費するファン」は非常に興味深い。これに似た位相にあるコンテンツに、「バーチャルYouTuber」が存在する。「バーチャルYouTuber」とは、2D/3Dの二次元的アバターを現実の肉体の動きとシンクロ(トラッキング)させ、そのキャラとしてゲーム実況や雑談配信などを行う人々の事を指す。そもそも「YouTuber」の動画には前提とされる物語や世界観はなく、その動画単体でも楽しめることが前提とされており、多くのバーチャルYouTuberも同じく、上記の「日常系」にも通ずる他愛もない放送を行っている。しかしここにおいて重要なのは、「日常系」を「実在の人物が演じる」ことがコンテンツとして確立し、今流行していることである。難波優輝は「Vtuberの鑑賞の構成要素は、パーソン、ペルソナ、キャラクタという三つの身体に分けられる。そして、ペルソナとキャラクタ画像がつねに重ね合わせられ、かつ、パーソン/キャラクタとペルソナの層がそのつど関係づけられながら、装われるペルソナが鑑賞者の鑑賞の対象になっている」(難波 18:121)*2 と論じ、これを「Vtuberの三層構造」と名付けている。
そしてバーチャルYouTuberは、電子の肉体によって軽々と他のバーチャルYouTuberとの関係性を構築する。コラボ放送などでみられる仲睦まじい様子を、鑑賞者は「Vtuberの三層構造」を横断し、「彼/彼女らのパーソンのレイヤーでの関係性」が見え隠れする片鱗をSNSや動画において意識しながら鑑賞しているのである。また、バーチャルYouTuber側も当然「パーソンを消費される」ことに対する意識を持っているため、現実世界でパーソン同士が実際に会い、その時食べた飲食物の画像を投稿する、それに対して「パーソン・レイヤーにおいても継続される強い関係性」を読み取れるようになる、といった事象もあった。これはまさにタカラジェンヌの四層構造における「芸名の存在」におけるパフォーマンスと相似であり、その表象が3DCGやVR機器の発達によりさらに「オタク」向けに変化(美少女・美少年だけに限らず多様化)したものではないだろうか。「日常系」と「関係性消費」の拡張であり、またジェンダーと次元の攪乱への大きな手掛かりとなるムーブメントだと考えられる。
つまり、「実在の人物が裏に存在するという事実に裏打ちされた生々しい日常系・関係性」が、液晶内のキャラクタバターと動画配信という形態の手軽さにより、オタクの関係性消費への志向は次元を超えてさらに加速していくと予想できる。
・関係性消費における性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)の無意味さ
前章で関係性消費への志向がさらに高まると予想したが、本章ではオタクのジェンダー格差について女性向けジャンル・男性向けジャンルという分類の持つ意味合いやその内部の消費形態に差異があるのだろうか。
もちろんHL(異性愛)文化を扱う少女マンガ・少年マンガにおいても恋愛・友情・ライバルなどの相関図は存在するが、メインとなるカップル男女の恋愛関係がメインに据えられることが多い。一方BL/GL文化ではそれ以外の登場人物の関係性をより深く読み込み二次創作に落とし込む、あるいは理想の相関図を一次創作で描き出す。今後どんどん規模を増していくであろう関係性消費においては、性別によるジャンル分け(女性向け/男性向け)は無意味になっていくのではないだろうか。しかしここではあえて、わざわざラベリングされている「腐女子」と「百合男子」という言葉の意味合いについて掘り下げ、BL/GL(同性愛)ファンの文化それぞれの特徴から考察してみたい。
女性オタクの人文学/社会学的研究に関しては、特に「腐女子論」か「ジェンダー論」による先行研究が数多くある。その中でも数多く散見されるのは、「主体的な女性の性的欲望の解放」といった視座からの言説であった。特に「腐女子論」と「ジェンダー論」を組み合わせた言説では、「自らの女性身体が侵されない安全な領域において、性的な表象を消費するためにやおい文化は発達した」といったものも存在する。しかし、現在においてこれらの言説に私は違和感を感じる。勿論そういった側面も確かに存在する(した)と思うが、現在の日本の混沌としたオタクカルチャーの中で女性オタクの中から腐女子だけを切り取って上記のように論じるのは既にごく限られた一部の事例においてしか適用されない理論であるように思う。
今あえて「腐女子」を論ずるならば、私は「腐女子同士の関係性」に目を向けたい。腐女子であることによる世間からのマイナスイメージを払拭しようとしたり、イベントやSNSでの趣味やスラングの共有による特殊な連帯が、このコミュニティでは無数に形成されている。やおいコミュニティの特殊性について東は、「やおいを好む女性たちは、一様に異性愛から疎外されているわけでも、異性愛を拒絶しているわけでも、異性愛を欲しているわけでもない。彼女たちはただ、異性愛を排除したところで成り立つ、女同士のホモソーシャルな絆がもたらす快楽を求めているのである。」(東 2015:236)と述べている。さらに、腐女子は扱う創作物の特性上セクシャルマイノリティに対する理解が深く、またホモソーシャルな絆から発展し、腐女子同士が交際していることなどもよく小耳に挟む。シスターフッドやレズビアン連続体、ホモソーシャルな関係性を含んだ腐女子コミュニティは、作品上においても現実世界においても強い「関係性」を追い求めている集団なのではないだろうか。
では次に、GLを愛好する男性オタクについて考察してみたい。残念ながら、男性オタクの先行研究は数多くとも、その内容は美少女キャラクタへの欲望やコミケでのゆるやかなホモソーシャルな交流などになり、「百合男子」単体にスポットライトを当てたものは見つけられなかった。なぜなら、GLというコンテンツは受け手のジェンダーによって大きくその意味合いが変化してしまう場合があるからである。そして男性のGL愛好者は、「美少女キャラクタへの性的な消費」という使い古された言説の中に含まれ見えなかった存在であり、その消費の仕方は齊藤によって「腐女子との比較でいえば、男性おたくの『萌え』にとっては、関係性のプライオリティはそれほど高くない」(齊藤 2009:154)*3 と評されていたのだ。よって、ネット上でGLを愛好するファンは「百合厨」「百合豚」などと呼称され、その性別は限定されていない。これはGLというジャンルを男性だけが消費することに対することが上記の齊藤の言説のような文脈を帯びてしまうことに対する対策と、実際にファンの男女比がほぼ半々であるため、両方の理由によるものと思われる。逆説的に考えれば、「腐女子」という呼称が流行ったのはBLというジャンルを女性が消費することを蔑視されることに対するアンチテーゼとして、BLファン当事者たちが自らをそう名乗ったことに起原するのではないかとも考えられる。
また、百合厨コミュニティにおける異性愛忌避の姿勢は、腐女子コミュニティのそれに比べてはるかに厳格なものに感じられる。先に述べた「男性による女性キャラクタの性的消費」とは違うことを宣言するために「百合男子/厨」を名乗った男性オタクたちは、腐女子のようにホモソーシャルな絆を構築することはなく、二次元三次元を問わずして異性愛的な欲望を抑圧されるようになった。この構造は腐女子のジェンダー論に見られた主体的な性消費の解放とは真逆の道を辿っており、非常に面白い点だと思っている。
こうして述べてきたように、同性愛コンテンツのファンの構造は非常に複雑で特殊なルールの基に成立している。しかし、上記の性的欲望を抑圧される百合男子に関しては、百合というジャンルの男女比がほぼ同じであることに大きく由来するだろう。つまり、「同性愛コンテンツを扱うにあたり、そのファンは異性愛を忌避しなければいけない」といった暗黙の了解のようなものがオタクの中で存在しているということである。これに関しては、創作物と消費者のセクシャリティは隔絶して考えるべきであるという立場をとりたい。そして、特殊な連帯がプラスにもマイナスにもなり得るBLファン界隈と、ジェンダー問題に揺れるGLファン界隈は、第一章で述べたバーチャルYouTuberの関係性消費をモデルとして再構築されつつあると考えている。バーチャルYouTuberの関係性消費は、非常に複雑なジェンダー攪乱が日常的に行われている。パーソンがシス男性、ペルソナがシス女性、キャラクタがシス女性のキャラ同士の「絡み」は、GLともBLともタグ付けをすることが難しい議論になってくる。しかし、その関係性に惹かれるファンはキャラクタとパーソンのジェンダーを軽々と越境し、その複雑な「関係性」を消費することができるようになるのである。これに似た現象はアニメ・漫画においても進んできており、創作物と受け手のジェンダーが必要以上にファンを語るうえで関係づけられることも少なくなっていくのではないだろうか。
【続きと参考文献リスト】