はてなキーワード: 広場とは
そこに古い大きいビルがいくつかあって、大きいといっても古いから高層ビルじゃないんだけど、横幅はなかなかあった
それらが取り壊されて、どうなるかと見守っていたら、平場の駐車場になるみたい。
見渡しはいいよ。駅から降りて広々開けて見えるのはいい。だけど5階以上ありそうだった旧ビルと比べて縦の密度の落差が凄い。もったいなく感じちゃう。
そしてそんな広めな駐車場が出来て、どこへ行くのかというと、別に周りに目玉になるような施設はない。
少し大きなライフとか市民ホールはあるが、それらは自前で十分な駐車場を持っている。それ以外で言うと古臭いずっとあるチェーン店の飲食店ぐらいしか残っていない。繁華街・オフィス街とはとても言えない。住宅街とも言えない微妙さ。
大規模な再開発が残りの跡地含め予定されているのか。いや希望的観測はよそう。きっとまともな建物を建てる魅力さえなく、どうせ遊ばせるならという消極的理由での駐車場だろう。
新しい大型建築が出来なくて寂れていくのか、寂れているから新しい大型建築が出来なかったのか。
…自分ではどっちか決めてかかってるけれど…。
整地中はイベント会場として食べ物フェアをやったりしてたそうだけど、駐車場になったあともそういった活用ができるのだろうか?
上野東京ラインの川口駅停車が正式決定されて「あそこは乗降客多いから当然」とか「停車駅増えるのヤダ」とか巷間喧しいところであります。
そこで川口駅の事をちょっとだけ知っている増田が川口駅のあれこれを少しだけ説明するよ。
川口駅の西側は1980年代までみっちりと町工場が密集していて、特に線路に面したところは国の燃料研究所(後に公害研究所)という大工場があったので、西口広場ってものは無かったのよ。
この公害研が廃止され環境研に改組されたのでその空き地に西口ロータリーを造る事になった。
だがこの当時に、今の湘南新宿ラインの元になる東北本線池袋乗り入れが開始されたってわけ。
そこで川口市は駅の西側にこの列車用のホームが増設できるように何も建てない土地をワザワザ造って、「池袋支線停めてよ」アピールをする事にしただった。
場所はここ。https://maps.app.goo.gl/eiJk19EmifLCYrzCA
しかし、これ無理だろ?と気が付いた人も多いかと思う。現在の湘南新宿ラインは15両編成だから隣の10両用京浜東北線ホームの1.5倍になり、ホームを造るには全然長さが足りないんだ。
なんでこうなったの?というとその後の川口市がいけないのだ。
実はこの「川口西口緑地噴水」の場所は駅前ロータリーだった場所なのだ。つまりは道路。こんなせせこましい場所でバスの方向転換とかどうやってたんだか?
で、ここは大きなロータリーを別に造るから廃止になるんだけど、池袋支線のホーム用地にしよう、という事で期待を残して建物を建てなかった。
だけども公害研跡地再開発では人工地盤の巨大公園、更にその下の1階と2階にはコンクリート製の駐輪場を造ってしまったのだ。ホーム用地にすんのかしねえのかで全く平仄が取れてねぇ。やる気に統一感がなかったのだ。
だからホームを造る為に線路敷きを拡幅するには立体駐輪場と公園を一部破壊する超高額な工事をせにゃならん。
詰んでるじゃん。…ところがそうではないのであった。
駅の東側線路際に大きな駐車場が見えるだろう。ここ、実は川口市の土地なんだな。だからここを利用して線路全体の線形を変えるって方法でも行けるって訳だ。
なんで川口市がこの土地持ってるの?かというと、ここは川口貨物駅だった場所なのだ。正確には貨物駅は東口のきゅぽらという高層建物、その隣の駐車場、タワマンの場所にあった。駐車場の場所は貨物駅に入る為に線路が輻輳してあった場所だな。
国鉄は超大赤字を積み上げており、特に貨物営業に人が多すぎで、人件費が莫大だった。
そこで国は思い切って貨物営業をほぼ全廃してしまう事にした。石油の直通便とかコンテナだけ残す。
それで全国の貨物駅は遊休施設となった。例えば都心部だと新宿の高島屋スクエア、渋谷の南口オフィスビル群、汐留の電通とかあのあたり、秋葉原のヨドバシなど、飯田橋3丁目のオフィスビル群などは貨物駅だった所だ。
次に国鉄を民営化する事になり、その遊休土地は国鉄清算事業団に移管される。売却益を赤字補填にするというスキームやね。
それで川口貨物駅の施設は川口市ががっぽりと全取りしたってわけ。
んで駅南側は立体公共駐車場とか貸しビル&図書館&市役所出張所のきゅぽらなんかを建てた。そして北側はそのまんま。何分元が複々線線路だから狭くてビル建てるには手狭。でも元が線路だから線路用地にするのが一番やね。
但しそうなると駅全体を改造する事になるから工費はかなりのものになる。新駅ビル建造込みの工事になるかと。
因みにこういう時、JR線路部分の工事は他社にやらせないで自ら発注するのしか認めないのね。事故があるとヤバいから。だから自治体に金だけ貰うって形になる。
ただ、この全体線形変更案は増田の予想なんで、実際はどうなるかは判らん。立体駐輪場と公園を壊してホーム用地を西口方に確保するかも知れないし、南の方へ伸ばして途中の家屋を買収するかも知れない。そこはまだ全然決まってない。
あと、東口の駅舎(と言っても階段があるだけ)と京浜東北線ホームとの間に隙間のデッドスペースと飲食、床屋店舗群があるけど、そこも川口市有地でここも活用できる。
とするとやっぱ全体を東に移して駐車場活用案にあるんじゃないかと思われる。
電車に乗ってると気になるこれだけど、 https://maps.app.goo.gl/uPyzTQ8tn1QQhPTQA
これはなにかというと、貨物駅に入る為の乗越線だったものだよ。
貨物駅が貨物線(現湘南新宿ライン線路)と反対側にあるから、貨物列車が駅に入る時には東北本線、京浜東北線を全部横切らなきゃならない。その為には全部赤信号にして止めなきゃならないから大遅延の元になる。
そこで乗越線で立体交差にした。
昭和43年まで赤羽から大宮は京浜東北線と東北線の複々線だったんだけど、東北線と高崎線の特急を増発する際のボトルネックになっていた。貨物列車が多いし、新幹線が無い時分だから新潟行きも仙台行きも秋田行きも青森行きも全部ここを通る。
そこで貨物線を増設して貨客分離する事にしたんだが、問題になったのが川口貨物駅。貨物線と反対側にあるこの駅に線路を全部渡って行くったって、既に京浜東北線は通勤ラッシュ常態化で、東北線も列車増発の為に線増したのにボトルネックを造ってどうする。
ってことでこんな大がかりなものをこしらえた。
因みに運転は結構大変で、なにぶんにも片方しか入れない。そこで下り列車であれば、一度蕨駅まで行く。そこで機関車を後ろに付け替えて今来た方に出発。西川口付近で乗越線に入って川口貨物駅に到着。
逆に上りでは駅に着くのは普通でいいが、出発後はやはり蕨駅まで行ってから、機関車を付け直して赤羽方に出発という何とも迂遠な方法を取っていた。
貨物駅廃止で不要になった筈だが、廃止された線路の一部を保線用基地に転用した為に、この乗越線を使って湘南新宿ラインの方にレールを輸送するので残されている。
そもそも貨物駅が貨物線と反対側にあったのがいけないのだけど、川口アリオの場所にビール工場があったのでこっちに造られた。ビール輸送は鉄道貨物の大お得意さんであったので無視できないのだ。
因みにビール工場がここに設置された理由は、見沼代用水の分水が取水できた為で…(以下略
鉄の製造には3種類あって、
1.鉄を融点以上に加熱して砂型に入れて固める鋳造(出来るのは鋳鉄)
3.圧延ロールで押しつぶして板状に、またはパイプ状や棒状にする圧延
というのがある。今一番使わているのは圧延で、何段にも圧延ローラーを掛ける為に長いラインが必要になるので工場も資本も巨大になる。量産効果で製品単価は低くなる。
キューポラ炉はたたら製鉄の応用で、コークス(石炭を乾留して硫黄分などを飛ばしたもの、結構高い)→鉄→コークス→鉄とウエハース状に重ねて入れて鉄が溶ける温度を確保する。
投入口が2~3階にあって取り出し口は1階という結構大がかりなものです。
鋳鉄は炭素が多いので、コークスは温度を上げるだけじゃなくて鉄に炭素を含有させる働きもあるのだ。
このキューポラが沢山稼働していたから昔の川口は大気汚染がすごかった。炭塵だけじゃなくて鉄が溶けた蒸気(ヒューム)も混じってるから健康には悪い。
あと一つ入らないのでその二に続く
県二位の人口22万人の中核市であり、太平洋に面する港町、臨海工業地帯、外航・内陸航路の工業港を有し、東北新幹線八戸駅、東北自動車道八戸線、三陸復興道路の北の終点がある。東北有数の商圏63万人の街。
しかし、八戸市にはイオンモールがなく、イトーヨーカドーは2024年の夏に閉店する。
八戸市の映画館はかつて7館あったが、現在は完全になくなった。
2000年代前半4万平米級のイオンモール計画が立ち上がるも、中心市街地の地権者や有力者等で構成する市の商工会が大反対運動を展開。当時の市長はイオンモール反対を表明するも次の選挙で市民の支持を得られず落選。
イオンモールを待望した市民は、官僚出身の新市長を当選させた。しかし、外部の反対派寄りの専門家や学識経験者を交えた委員会を開き、最終的にイオンは過剰な商業施設であり不要と決定。そして、八戸市は事実上の1万平米以上の商業施設立地規制条例を制定し、イオン予定地は、当初計画を大幅縮小した売場面積7千平米級の中途半端なイオンが開店した。
さらに、市はそのイオンの隣により大きな建坪で市の総合検診センターを建設。土地区画整理組合への補償のためだと思うが、未来永劫、増床してイオンモールにすることはできなくなった。
その結果、市民は昔からある隣町のイオンまで車で約15kmから20km車で行く。
車がない高校生は1日に4便しかない直行バスに長い行列をつくり30,40分かけていく。
街の顔である中心市街地は、税金や補助金を投入し続けたが商業エリアとして魅力は下がり続け集客力は改善せず、事実上シャッター街に近い状態になった。
かつて市民のデパートとして親しまれたヨーカドーは市内に2店舗あった。1980年中心街の再開発ビル(地下1階、地上7階建、屋上遊園地)にヨーカドー八戸店出店計画が出て、当時の市商工会議所は大反対をした。市民には大歓迎されて開店してから東京の有名なデパートとして八戸の目抜き通りのシンボルとなった。その後2003年閉店。
古いビルは壊され屋台村になり、かつての長崎屋は1階がタリーズコーヒーで、2階から13階建のマンションになった。
市は20年ぐらい前には既に中心市街地活性化対策に乗り出し、再開発計画が出ては消えを繰り返し、最終的に新市長が市営の箱物をたくさん新設したり、建て替えた。
中心街は仙台に次ぐ飲み屋街として名高く、屋台村のみろく横丁周辺が酒豪の呑んべいたちで賑わう。新幹線開通後、新たなホテルやマンションはいくつか建設された。
市内は、北東北を中心に展開する売上高1300億円、58店舗を展開するスーパーのユニバースが本社を置き市中を治めつつ、他社も含め無数にスーパーとドラッグストアがある。イオン系列マックスバリュー、ホームセンターのサンデー、ヤマダ、ケーズデンキ、ユニクロ、GU、しまむら、西松屋、ワークマンもある。日常の買い物には困らない。
しかし、市民は屋内一体型モールのイオンモールが欲しかったのだ。大規模な市総合検診センターでもなく、市の観光文化交流施設や、市民屋内広場ではなく、イオンシネマやゲームセンターやボーリング場や、未来屋書店や、東京のアパレルテナント、東京で話題のある飲食店のフードコートが欲しかった。
明治時代に日本鉄道が東北本線を八戸町の中心部に伸ばすかどうかで議論になった。
当時は他の町と同じく蒸気機関車忌諱説があり、流行病の懸念や軍部の要望があり外国軍上陸の脅威を減らすべく、市街地から4kmも内陸の尻内(しりうち)という辺鄙な場所に駅をつくった。あとで町民たちは鉄道は便利だと知ることになり、数年後に本線から分岐して八戸線が開通し中心市街地の800m北寄りに旧八戸駅、現在の本八戸駅を開設する。
そのあと100年以上が経ち、尻内駅は八戸駅に駅名が変わり、やがて新幹線駅に昇格した。しかし、あまりに市街地から離れすぎた立地のため、郊外の地方空港の様相であるかのように、22万人都市の玄関口としてはお察しくださいの状態である。
大正末期に八戸大火が発生し中心商業地区が焦土と化したが、田舎町には後藤新平のような都市計画家はおらず、当時の八戸町議会は多額の予算は出せないとして狭い道は藩政時代のままとなった。
太平洋戦争では基幹産業の日東工場爆撃が海側の地域で爆撃を受けるも、中心市街地の空襲被害はほとんどなかった。
市の北側に位置する旧日本軍の飛行場と基地は米軍に接収され、3,200人の米兵により飛行場を拡張し基地の街と化す。その後、陸海自衛隊基地として運用される。
八戸の中心市街地は、戦後しばらくして、東映、東宝、テアトルなどの7つの映画館が開店し、地元百貨店が開店し、緑屋、ニチイ、丸光(さくら野)、長崎屋、そしてイトーヨーカドー、地元資本のファッションビルが開店し、中心市街地は岩手県北を含め商圏62万人ともいわれ栄華を極めた。私はその時代を生きていないのでよくわならない。
八戸は昭和30年代に新産業都市に指定され臨海都市建設工事が始まり、八戸鉱山の石灰石産出、三菱製紙工場、八戸火力発電所、非鉄金属の精錬所、鉄工所、造船所が建設された。
漁業は栄光を極め、八戸港の水揚げ量・金額が日本一を記録し、第一・第二・第三魚市場は全国の漁船が集まったという。浜の景気は大変良く、飲み屋街や風俗街も発展した。北海道室蘭・苫小牧港へのフェリー航路が開設され北への玄関口となった。中心市街地を迂回する国道45号バイパスが整備され、市道の4車線の環状道路が次々と開通し、田畑の区画整理が次々と進み新興戸建住宅地や住宅団地は郊外に市街地は拡大し、市営バスは路線網を拡大し小中高校は増設を続けた。
一方で、青森寄りの天間林村(現七戸町)の上北鉱山は銅が枯渇のため閉山。また、八戸から60キロ北の六ヶ所村では新全国総合開発計画による巨大石油化学コンビナートや製鉄所を中心とした、1万7000ha開発計画は発表されたが、二度のオイルショックで完全に頓挫した。石油備蓄基地のみがつくられ、のちの日本原燃による核燃料サイクル施設建設を待つことになる。
青森県議会は東北新幹線建設に際し、八戸経由か弘前経由か決められずに結局盛岡駅止まりのまま以後八戸延伸まで20年待ちとなる。あの頃、早く決めていればとおもうと悔やまれる。
1991年に長崎屋が郊外に移転。屋内遊園地つきのラピア長崎屋が開店
1994年 年末に三陸はるか沖地震(震度6)が発生、旧市庁舎、旧市民病院に大きな被害、中心市街地のビルが倒壊し死者発生、道路の崩落、水道管破裂など多数被害
1995年 隣町にイオンモール下田が開店(現在は売場拡張し53,277平米)県南地域では最大の売り場面積を持ち、当時は大観覧車があり田んぼと山がよく見えた。
1997年 中心市街地の市民病院が郊外に移転し、いよいよ中心市街地の危機が地元紙で叫ばれるようになる
1999年 八戸臨海部の神戸製鋼の敷地にピアドゥ(売場面積25,400平米)が開店。核テナントはイトーヨーカドー、ホームセンター、のちにヤマダ電機、スーパー銭湯開店
2002年 東北新幹線八戸駅開業。北の玄関口として栄華を極める
2003年イトーヨーカドー八戸店が閉店、跡地に地元出資チーノオープン。市民映画館が開店
2009年 臨海部の八戸魚連跡地、ピアドゥの隣接地にシンフォニープラザ(現在の売場面積17,000平米)が開店
2000年前半イオンモール八戸田向店40,000平米級の建設計画が持ち上がる
当時建設中の4車線の県道八戸環状線沿い一帯の田んぼを区画整理し、中心街から八戸市民病院が移転した付近に立地計画。
市民の多くは歓喜に沸いたと思う。わざわざ隣町のイオン下田まで行く必要がなくなるからだ。
しかし、中心市街地の商業者を中心とした商工会が猛烈に反対し、当時の市長も大反対。
地元新聞の投書には、商店街関係者と思しき女性が「イオンが来たら中心街がシャッター商店街になってしまう。そんなところで祭り(八戸三社大祭という由緒ある山車の祭り)は見たくない!」などと書いていた記憶。
ほかに、市民病院の近くが週末渋滞して救急車が到着できなくなるから反対との投書もあった。
その後、市長は1期で落選し、新市長が当選し立地規制条例を制定
2012年 郊外にイオン田向ショッピングセンター開設(7000平米級)
新市長は、空洞化した市街地を再建すべく、市営の箱を次々と建設。
2011年 市営のポータルミュージアムはっちが開設、中心市街地にタリーズコーヒが初出店
2016年 ガーデンテラスが竣工し市営の八戸ブックセンターが開設、Yahoo八戸センターが同ビルに拠点開設
2019年 国際大会用の屋内スピードスケートリンクが開館(中心市街地から徒歩圏の運動公園に建設)
2020年 元長崎屋跡地にDEVELD八日町が竣工 13階建で2階以上はマンション
2023年 イトーヨーカドー八戸店跡地のはっちが閉店。解体されマンションになる予定
2023年 八戸港の水揚げ量が昭和19年レベルに激減(戦後最悪水準、金額ベースで最盛期の10%の漁獲高)
2025年 青森銀行とみちのく銀行が合併し青森みちのく銀行設立予定
東日本大震災のあと、国の復興予算で約10年で三陸復興道路が完成し、県道の環状道路は大半が開通した。市内のロードサイドにはセブンイレブンも、タリーズも、コメダ珈琲も、スタバもできた。新しいスーパーやホームセンターがあちこちにできた。
中心市街地は市営の観光施設や屋内広場、箱物と、市営書店ができて大変モダンな空間になった。
地元商工会議所は、中心市街地活性化のために、巨大イオンモール進出を阻止に成功し、街中に新たな商業施設として、ローソンとファミマが合計6店舗できた。モスとドトールしかなかった街中にタリーズができた。
しかし、市経済の低迷も相まって中心街へ商業施設誘導を果たせず、三春屋とチーノは閉店し、今やさくらの百貨店が残るのみである。かつての商業ビルはマンションへ建て替えが進む。
商業地としてのポテンシャルが低下してマンションになるのであれば、郊外に予定通り40,000平米のイオンモールを建設してもよかってのではないか。
結果、GMSは衰退し臨海部のヨーカドー八戸沼館店は閉店。後継テナントは未定で、市民は1991年開店の江陽のラピア長崎屋と、臨海部のシンフォニープラザ、2012年開店のイオン田向(リテール)のみになる。
よく巨大郊外型モールが撤退したあと社会問題になるため開発抑制が必要だという。都市計画的には正しいが、近隣県を含め広域自治体レベルで規制誘導しない限り、一自治体が規制をかけても無意味だった。
結局、市民は1995年以降、隣町のイオンモール下田まで行き、買い物客が流出し続けた。
中心市街地の地権者はコンビニ6店やマンション1棟やホテル2棟をオープンさせたが、新たに集客力のある商業施設を建てたては言えず、中心市街地の魅力向上のため、市営の文化的施設の建設に資金が投入され続けている。
2050年までに、八戸市の人口は社会保障人口問題研究所の推定で14万人台になるとしている(最盛期より10万人減少する)
人口減少社会は、かつての拡大した市街化区域を減らし、都市軸の再形成、まちなか居住、コンパクトシティの形成、魅力ある歩いて暮らせるまちづくりをするなど、さまざまなメニューがあるものの、あまりにも中心市街地再興への道のりが長すぎる。その過渡期に過ごす市民は、これからもイオンモール下田に通うことにになる。
せめて20年前に八戸市や市商工会議所は、イオンモール立地に反対しなければ、あの長い行列をつくりバスを待つ市内の高校生たちは、自転車でいける距離でイオンモールに遊びに行けただろう。
これの逆バージョン https://anond.hatelabo.jp/20240313123638
巣鴨プリズン/東京拘置所跡にサンシャイン60ビルを建てるにあたり、池袋駅から地下道を通す計画があったが、地元商店が「人の流れが変わって駅前が廃れる」と反対し沙汰止みになった。
一番反対したのは洋菓子店のタカセ。ここは戦後に繁盛して地元の顔的な立場であった。
これに他の人は「タカセのヤツ、勝手に顔役ぶりやがって」と陰口を叩き、裏では総スカン。
地下道は都道反対側からだけに短縮されてそこまで利用者は歩くことになった。代わりに都バス乗り入れが行われたが利用者は伸びなかった。
しかし地下道入口に東急ハンズがオープンすると付近にカメラ量販店(後にゲーセン)、飲食ビル、映画館が誕生し、池袋駅東口~東急ハンズは若年向けの飲食サービス業が立ち並ぶ大商圏となった。
90年代にJRAは女性をターゲットとしたCMを打つなど競馬のイメージアップに努めてはいた。
だが池袋駅東口に場外馬券売り場を開設する計画が持ち上がるとイメージの悪化を恐れて地元商工会は大反対。JRAは土地も押さえていたが出店中止に。馬券売り場の上にサロンや飲食室などを設ける大規模な計画だった。
この土地を後にヤマダ電機が押さえて都市型店舗の第一号としてオープン。その後に近くの三越が閉店して建物が売りに出されるとヤマダ電機が取得して現在のLABIとなり、池袋の家電激戦区っぷりに火を注いだ。
米軍が接収した立川飛行場は手狭のためにジェット機用に滑走路を延長する計画があった。この為に滑走路延長先の砂川町の農地や家屋に収用が掛かった。
これに住民は大反対し、そこに学生運動等が乗っかり、デモ隊基地内侵入などの事件が起こり大騒動になった。
憲法問題などで出てくる「砂川事件/砂川判決」というのはこの事件。
この事件などがどの程度影響を与えたかは判らぬが、米軍は立川飛行場の拡大を諦め、瑞穂町の横田基地に集約する事を決定。立川飛行場は日本に返還される事になった。
箱根ヶ崎付近の八高線と国道16号がぐにゃっと曲がっているのは、横田基地の滑走路拡大をした為である。
返還された立川飛行場は学校や研究所、法務修習所、陸自基地などに転用されたが、一番広い面積を有するのは昭和記念公園で、電車で3駅分ほどもある巨大公園となった。
真ん中には広大な広場もあり、大コンサートもよく行われている。
なお、騒動の原因となった滑走路の残骸が未だ残っている。https://maps.app.goo.gl/ewECyedzGvD9p88t7
(よく見ると滑走路アプローチの>>>>のペイントがうっすら残る)
東海道新幹線が開通して暫くすると、騒音と振動が問題になり訴訟も提起されるようになった。成田新幹線のゴリ押しによる頓挫もあり、山陽新幹線以降の新幹線開通は困難が予想されるようになった。
そこで都市近郊での建設スキームを変更、新幹線に付随した在来線も同時に工事して迷惑施設というだけではなくて近隣住民の利益にもなるスキームにした。
この為に赤羽~大宮間では通勤新線(埼京線)、大宮駅北側には高架にまとわりつく、つる植物のような新交通線が出来た。
なお、東海道新幹線は通常の鉄道のように地面に砕石を敷いて線路を敷く工法なので高速運転では周囲に振動が伝わる。その後は平地でも鉄筋コンクリートの高架を走るのが一般化した。杭基礎で支持されるので振動は地下奥深くに吸収され、コンクリの高架は重いので振動自体が押さえられる。その為に公害は発生しにくくなっているが、交渉時には工法までははっきりしていなかったのでこういう形になった。
空襲焼失地区の戦後の復興は東京都などが管理して区画整理などを行ったが、計画的過ぎて無機質であるとの反対意見も多かった。
そこで都は神楽坂については住民同士の話し合いで区画整理を決める自律的な方法を試す事にした。
しかし優越な資本や有力な地元のまとめ役が居ない地区だったので、結局は路地などが沢山残る防災的にはアウトな形で復興する事になってしまった。
しかし建物の建て替えが進むと、街路側は多くが不燃建物、その路地の奥は不燃建物と古い料亭などが混在する形となって何だか防火と風流の両手取りみたいな地区になって、アンテナの高い外国人などにも好かれる町並みとなっている。
戦後の歌舞伎町は全域がゴールデン街のような闇市バラック状態であったが、再開発をする事になった。
しかし高田馬場を始発駅とする西武新宿線が新宿駅まで伸びる予定であり、歌舞伎町の付近に仮駅を設置された。
当時の西武鉄道経営陣としてはピストル堤と言われた堤康次郎も健在であり、堤は人を騙して土地を買収したり、ピストルの名の通りに暴力による脅迫で買収したり人の土地を勝手に占有して後に所有権移転したりと、要するにやり手実業家の皮を被ったヤクザであった。しかも権力とみっちりと癒着しているばかりかその後に代議士にもなっていた。
その為に歌舞伎町の地主たちは鉄道が来るのは歓迎だが堤が来るのはたまらねぇ、として西武の買収に対抗する策を練った。
そこで街路幅はきちんと確保しながらも、その所有区分を細分化、買収しにくくした。それが功を奏して西武も含め、大資本が入り難い地域となっている。道幅を確保しながらも細分化策が功を奏したのは主導的な町会長などが存在した為による。
ブクマページの米でそれは違うというのを幾つか。https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20240313123638
流山は常磐線忌避したという話は良く効くが、多分これは違う。というのも、地理的条件があるからだ。
田端を起点にして北千住を通り、土浦に至るというのは決まっていた。で、その途中には避けねばならぬ「水」があるわけよ。霞ヶ浦、牛久沼、手賀沼は避けねばならない。だから柏の先のルートはこれしかない。
問題は北千住から柏で、今の南回り松戸ルート、八潮→三郷→流山の北回りルート(TXコース)がある。
でも北ルートには難点があって、それは毛長川、大場川、古利根川の氾濫域の土壌ぐちゃぐちゃ地帯に入ってしまう。今でも越谷レイクタウンの南側は田んぼのままで、ここは乱開発すると土地の保水力が無くなり八潮の市街で出水してしまうので開発禁止の状態になっている。武蔵野線敷く時もまず水路の開削からやって平地なのに築堤築いている。そうしないと列車の振動で沈下して線路が狂ってしまう。それくらい地盤が悪い地域だ。
だから日本鉄道はここを通るのは避けたかったはずで、そうすると流山に行くのは無理って事なのだ。
日光御成街道の宿場町として栄えた名残が邪魔して鉄道忌避の街になり、ついに川口市に吸収合併された、元鳩ヶ谷市とか?東北本線って計画では、王子以北は今の埼玉高速鉄道をなぞってたって言うし
これも違うと言い切れる。地形で説明するよ。
日本鉄道熊谷線(現高崎線)は日本で2番目の鉄道なので工事量を減らす為に「ここしか無い」という厳選されたコースを通っているのだ。工事期間がやたらと短いのも特長で、コースを厳選した結果だ。
上野駅を出た京浜東北線(大宮までは中距離電車じゃなくてこっちが元のルートを通る)は赤羽までずっと急な崖の下を通る。この崖だが、真っすぐなのが特長だ。こういう真っすぐな崖というのは海食崖の特長だ。海の崖だね。
地球の海面は氷河期には氷河や南極に氷となって蓄積するので海面が下がる。一方、温暖な間氷期には海面は上がり、平野のずっと奥までが水没してしまう(海進)。
縄文時代などの間氷期の海進で、関東平野は海の底となり遠浅の海となっていた(奥東京湾)。間氷期の気温で海進の程度は変わり、最大で高崎あたり、縄文時代では大宮までが奥東京湾だった。(そういう訳で、尾久とか東三条には貝塚がある)
海には波がある。この波は真っすぐ進んでドンと当たって止まり、ではない。斜めに陸に当たった時は、陸に当たった後にその勢いは横に流れる。波が引く時はその横向きの流れのままに引く。沿岸流が出来るのである。
すると陸の出っ張っている所は削られて、やがて必ず真っすぐな海岸になるのである。
つまり、上野~赤羽の崖が真っすぐなのは海進時に波に削られたせいである。
波は崖を真っすぐに削っていくが、この時潮の干満により崖の下には平場が出来る。満ち潮では海面下に隠れているが引き潮では通れたりするアレだ。親不知子不知が引き潮の時だけ取れるというアレ。
上野~赤羽では小規模な波蝕台が連続し京浜東北線はこの上を通る。但し複々線化で判り難くなってはいるが。
この波蝕台跡は他の低地より少し高いから田んぼになっていないので用地買収がしやすい。更に少し高い故に大雨でも出水しにくいし、砂礫が多いので水捌けも良い。線路用地として優秀なんだな。
陸地の角があると波による沿岸流はその先に砂を置いていく(漂砂)ので、真っすぐの海岸線が延長された地形が出来る。砂嘴である。北海道標津の野付半島や京都の天橋立が有名だ。砂嘴で延長された浜により沿岸流と漂砂の働きも延長されるから砂嘴はどんどん伸びていき海底が深くなると砂嘴の延長はとまる。
この先で荒川を渡らねばならないので当然線路はこの砂嘴の上を走る。高さを稼ぐ為である。この砂嘴は江戸時代の荒川開削と田んぼ開発により削られているが、根元だけは残っている。赤羽の北で環八を跨ぐ時の橋台はこの砂嘴に乗っている。
当時蛇行していた荒川を真っすぐ渡る為に(鉄橋の距離が短くなるから)右に曲がり、荒川を渡る。川口方には堤防(曽根)があるのでそれを超えると熊谷に向けて左に曲がりながら築堤で地平に降りていく。地平に降りた所に川口町駅設置。川口宿からは離れているが駅は水平でないといけないのでここしか無い。
川口町駅からは当初の終点熊谷、その先の高崎までは殆ど直線なのだが、所々に緩いカーブがある。このカーブの全てには必然性があり、全て工事の最小化の為のものだ。
南浦和までは低地にあるが、この先で大宮台地に登る。そこで沢が削った斜面に入り、他の沢の斜面側面に取りついて高さを稼いでいく。
浦和駅からはもう芸術点が高く、沢山の小さな沢がある所を、最小限のカーブでその谷頭を両側でギリギリかすめるルートを取っている。ここはダッジボーナスが沢山入る所だろう。舞踏家みたいな避け方である。
大宮から先も小さいカーブで芸術点高いルートを通るが、中仙道に平行している。中仙道自体が芸術点高いルートを通っているのでこの区間はコピー忍者って感じだ。
このルートの良いところはもう一つあって、途中の蕨から中仙道が平行してくるので宿場町近くに駅を造れば集客と集荷が期待できる。更に当時は道が限定されているので、名のある街道に近くないと客や貨物が駅に来れないのだ。
文明開化したばかりの明治日本が、鉄道二本目でこんだけ緻密なルート選定出来たのは何故か?
お雇い外国人の英国人の力だけではない。江戸時代に新田開発と用水路開削をしまくっていた為なのだ。
台地上に水田を作る場合、もっと標高が高い場所から用水路を引いてくる必要がある。水は一度低いところに行ってしまったらもう高さが上がらないから、長距離の測量を正確にせねばならない。その技術が蓄積されていた。
やり方は結構単純だ。長い木箱を作り(水盛り箱という)、水を入れる。水面は必ず水平だ。両端の水面から10センチのところに糸を張ったらそれも水平だ(水糸という)。
更に両端の水面から10センチのところにライフルの照準的なものをセットする。その照準で200m先を見て、照準が合っている場所はやはり水平だ。200m先に助手が目盛りが付いた物差しを持って立つと、その地面はこっち側から何センチ下/上がっているかが判る。
これをずっと正確に繰り返す。だから両側の谷頭の直ぐ上を抜けるルートなんてお茶の子さいさいだったかもしれない。
という訳で、日本鉄道などが造った初期の鉄道路線は土木技術で地形無視って事を極力避けるルート選定をしているので、マクロ的にもミクロ的にも必然性の塊となっているのでありますよ。
これ
https://nou-yunyun.hatenablog.com/entry/2024/03/04/170000
また例によって差別商売のアイツが何やら言ってるのに対して電脳塵芥氏はガソリンスタンドだったのはとうの昔で違うんじゃね?と疑問を呈しているが、増田はこの建物はガソスタの躯体のままだったと考える。
なお、増田がガソスタ勤務だったのは20年前で、その後は危険物取扱者の更新研修を受けていないから20年前より後の消防法の改正については追いかけられていない。
勤務時は危険物保安監督者に任命されていた。(役職手当無し!)
で、火災の危険があるので基本的に給油所の上に建物を建ててはならないし、敷地内に事務所や整備所以外の用途の建造物は建ててはならなかった。
いつかは判らんが、自社の事務所用途のみなら給油所の上に建物を建てても良いという事になった。つまり給油所の上に本社などが建てられる。
90年代の規制緩和の波に合わせて自社以外でも事務所としてなら使用可になった。但し住居としての使用は絶対に不可。
というわけなので〇〇モータースKKが本社社屋兼ガソスタとして建築→廃業して建物を改造してディーラー化というのは平仄があう。
給油所は火災や土壌、排水汚染の危険性があるので設備や形状に特徴がある。そのいくつかが合致する。
・上階の窓は壁面から後退させるか下に庇をつける
前面から見ると2階はファサードで覆われ、3階の窓は後退しているhttps://maps.app.goo.gl/ruJd61cgMcRoPGDj7
裏から見るともっと特徴的だ。https://maps.app.goo.gl/kQsHnn3hNptBMpVX7
2階の窓の下には大きな庇がある。3階、4階とも窓が大きく後退している。こういう建て方をすると雨漏りしやすく防水工事に金が掛かる。
・扉は防火で外開き
建物裏参照。風で扉が開いた時に危険物扱所から屋内に空気が入らようにするない為
・外側に向かって比較的大きな床勾配
給油所の床には水勾配よりも大きい勾配を外に向かって付けねばならない。ガソリン蒸気は重いので隅の方に溜まって引火することがある為。
・鉄線入りガラス
前と裏面にある。まぁこれは車屋でも必要か。こぼれた油脂を下水に流さない為。
なのでガソスタを廃業して、給油スペースを巨大ガラスで仕切る改造をしたものと思われる。
例を挙げると秋葉原のリビナヤマギワの駅と反対側もガソリンスタンドとその本社だった。https://maps.app.goo.gl/j43sSStAaXZKDRVD9
リビナヤマギワは元々駅側のあきばおーとかに近い方だけだった。
上階の窓が引っ込んでいるという特徴と1階天井が高くてシャッターが付いているという特徴があるのが判るだろうか?
90年代前半にガソスタとその本社として開業したが、実は神田秋葉原近辺はガソスタが多い上に設備も少なくて余り儲からなかったのか、数年で閉業してシャッターが掛かったままになった。それをヤマギワが買収して大工事を行い、オフィスを店舗と駐車場に、スタンド部は空調置き場に、本店の裏の壁をぶち抜いて両建物を連結したのだった。
2.地下タンクの油脂だけを抜いて売り、別業態で営業する。給油取扱所のままだがポンプや給油機は撤去する。タンク残量の記録などの義務は残る。
3.タンクを洗浄して水で埋めて封止する。
嘗ては認められなかった方法だがいつだかの規制緩和で可能になった。
タンクを中和剤で洗い、水で埋める。水質検査して汚れが無ければok。パイプ類は切断して厳重に封止する。点検口などの穴は水が溜まるのでモルタルで埋める。これなら他の用途に使えるようになるので給油所部分に建物を建てて会社にしたり、スーパーになっている所もある。上階部分もテナントとして貸せる。住居として貸せるかは不明。
件のHonda Carsの裏側には床に四角いモルタルがある。タンク直上の点検口を埋めたものと思われる。
ガソスタの解体でヤバいのはやはり地下タンクだ。ガスで切断したりユンボでゴツンと叩いて破壊すると中のガソリン蒸気に引火して大爆発する。それ故、一度水で満たしてからガスで切断するというような慎重な作業が必要になる。
但しそれは営業していたままのものだ。建物転用している場合は上記の3.で、タンクと配管は既に洗浄、水で埋まっているから危険はないはずだ。また土壌汚染も起こらないはず。
解体時にテキトウやれば油脂が漏洩して土壌が汚染される。だけど油脂を抜いてあるからその量は大した事ない。
問題は配管やタンクにクラックがあって長年漏洩していた場合だ。ガソリンの主成分は揮発してなくなるがベンゼンが残留する。ガソリンの匂いで気持ち悪くなるのはこのベンゼンが血中に回る為だ。
またハイオク剤も残留する。ガソリンを放置すると沈殿したり固まったりしてキャブレターが詰まったりするが、これがハイオク剤が重合したものだ。長年漏洩していた場合はかなりの量になり、それが広範囲の土壌に浸透している。
そういう場合は土壌の入れ替えをせねばならないが、これがとんでもない額になる。小さなガソスタでも5000万とか7000万とか行ってしまうのだ。だから売主は土壌汚染についてはピリピリしている。
地主は上記のように土壌汚染問題にはヒリついているものだ。そしてそれは多くは営業中の漏洩で引き起こされる。
更に土地の権利はカタギの商売人じゃなくて、訳アリ土地扱いますっていうスジもの業者に売られて転がされてる事もある。
それなのに2chまとめブログ農園のキャベツとか、アルファブロガ時代には日本のネットで隆盛だった2chの影響が無いブロゴスフィアを作ると銘打っていた主幹が作ったのに、年喰って背伸びしたい2chねら上がりみてえなのしか読者が居ない上に寄稿者もそんなのばっかなのに古代ギリシャの広場を名乗ってて当人らだけが日経新聞と比肩するとか思ってるようなサイト農園のレタスとかから生まれた、社会の仕組み判ってないような妖精のチンクルみたいなおっさんが「クルド♪土壌汚染♪」とか歌いながら地雷原の方に行ったらそれを優しく見守ってあげる方がいいのではないだろうか?
ゆえ無き批判で破廉恥な売文業を生業にしているのを見て糺したくなる気持ちは判るが、地雷原の近くで自転車の練習してる場合には応援してあげる方が良い場合もある。
今日、2023年2月29日、に埼玉県の新所沢駅前にある「パルコ」が閉店するとのことで行ってきた。2023年1月31日の渋谷の「東急本店」の閉店、2023年2月28日の千葉県の津田沼駅前にある「パルコ」の閉店以来。来月の2024年3月31日には東京都八王子駅前の「K8」の閉店、2024年9月の津田沼駅前「イトヨーカドー」の閉店にも行く予定だが、何となく有名な大規模商業施設の閉店が多い気もするので、一旦感じたことのメモ:
・ひとまず新所沢も津田沼も「道路が死ぬほど狭い」。本当に車に轢かれそうなぐらい狭い。土地価格が安いのになぜ?? 踏切も多い!
・戸建て住宅地は基本的に雑な区画で、何と言うか新しく住みたい感じは生まれない。ババ抜きのババ感が少しある。
・新所沢に行くまでのガラ空きの西武線で優先席に座っていたら、眼の前の優先席に座っていた高齢男性が結構睨んできた。気のせいかもしれないが、市立小中学校エアコン問題みたいのが未だにある気はした。所沢から新宿方面に向かう電車と何か雰囲気が違った。
・郊外系の「パルコ」が都心の消費文化を輸入する設定は当時は面白かったのかもしれない。「映画館」「文化施設」等も組み合わせるのも良いが、今となってはその辺のイオンの水準にも達していない。テナントも東京のその辺の駅前にある第三セクターのビルの方が良い。
・新所沢駅に関しては目の前にある謎の噴水広場は再開発反対の(当時の)老人たちによって残されたらしいが、案外今後重要になるかも。
・新所沢駅から2駅の所沢駅に関しては、駅前が思っていたよりも高層マンションが多く商業施設も多く人も多かった。
・新所沢から所沢駅を散策すると郊外系の面白そうな文化が微妙にあった。所沢市は自然も豊富で、トトロのふるさと基金など自然を活かす運動も盛んであり、そうした意味では面白いエリアになるかも。ただ、道路をどうにかしたほうが良い。。。
・津田沼は、歴史も面白いし、自然もあるが、今後の「再開発」でそれが活かされることは無いように感じる。新幕張にあるイオンの劣化版みたいな商業施設にマンションがくっついたら成功なのだろう。
・どの閉店祭りでも「私の青春はここで消費しました」みたいな寄せ書きがあるが、何となく虚しい。消費でしか自己表現手段を持たない人たち、という感じ。新所沢の建物に関しては残しても良い気もする。ここを拠点にするオフィスがあっても面白い。ただ、全体的に周辺が停滞している印象なので、世代交代が無いと思い切った新しいことは出来ないかも。
・消費で街を作っていく手段も良いが、次の世代に受け入れられないと一気に街が暗くなる。新所沢も津田沼も次の世代を意識した公共財の創出があまりされてこなかったように思える(新所沢の体育館はカッコよかった)。
およそ20年程前、大分の八幡製鉄所にあるちょっとした広場で、仮面ライダーショーが開催されることになった。
確かカブト放送時だったと記憶している。少なくともディケイドより前の時期だったことは間違いない。
登場するライダーは、1号・V3・RX・剣(※)ということで、どんなストーリーになるのか気になった当時大学生だった自分は特撮好きな友人と共に会場へ向かった。
会場に到着。周囲は当然ながら親子連れが多く、自分と同年代の層はほぼいなかったはずだ。
司会のお姉さんが登場し、ショーが始まる。
どう見てもオルフェノクなのが1体と、もう1体も平成な造形の怪人が、「我らショッカーの計画が云々」と語りだした。
そこへ颯爽と駆けつける1号とV3。1号の「行くぞ、風見!」という呼びかけに、「ああ、本郷!」と答えるV3。なお後のシーンでは「本郷さん」と呼んでいた。
戦闘を挟み、形勢不利と見たショッカー怪人を追って両者とも一時退場。
シーンが変わり、特徴のある足音を鳴らしながらシャドームーンが登場する。何かを語っていたと思うが記憶にない。
ここで司会のお姉さんが客席に呼び掛ける。
「大変!みんなでライダーを呼ぼう!せーの!(一瞬の間)仮面ライダーBLACK RXー!」
無言の客席。会場のメイン年齢的にRXの呼び込みは無茶だよ…と心の中でつぶやく自分。
そこにRXがお姉さんの声援を受けて登場。
「信彦!もうやめてくれ!」とシャドームーンを説得するRX。しかしシャドームーンは聞く耳を持たない。
というところで、天候が悪化し、ショーは中止となった(客席・ステージともに屋根のない完全屋外ステージだった)。
20年経った今でも、あのショーの続きはどんな展開を迎える予定だったのか、ずっと気になっている。
暇空茜の相棒のなるくんはまだ30そこそこのIT業界で働く青年
彼は大学生の頃は「みんなで本名明かしちゃわない?」と2ちゃんねるの大学のスレに書き込んでセルフ身バレしたり
顔写真や動画を乗せたりゲーム実況投稿するなどどとにかくネットから有名になりたい・稼ぎたいという願望が強かった
ドラクエⅩでネカマ姫プして取り巻きをRTAに誘導して金稼ぎしたがバレてBANされ、
運営への殺害予告を繰り返したり広場で猥語連呼して荒らしたりして永久BANされてそちらの世界では厄介者として名が知れた
でもなるくんは孤独なわけではなく、大学時代のリア友やドラクエ仲間と今でもつながっている
2022年末、暇空騒動の中で友人たちは「そのうちなるも捕まっちゃうんじゃない?」「もうこれぐらいにしたら?」と心配してリプを送っていた
なるくんは「マンション買うところまで行きたい」と返してそれでも暇空と共に歩む道を選んだ
友人の中にはなるくんと一緒にかぶれてナニカグループの存在を信じるようになった者もいるが、
「おっさんにしっぽ振ってるなるをもう見たくない」と言ってなるくんと袂を分かった者もいた
現代って友情の成立から崩壊まで全部ネット上に記録しちゃう人がいるのがすごいな
なるくんは電通デジタル勤務で、詳細は不明だが多分正社員ではないと思う
暇空と組むようになって収益の半分を渡されるようになり、なるくんの金遣いは急速に荒くなった
先日は腹部の脂肪吸引もした
30そこそこの男が、ただ食事制限ダイエットするだけで筋トレもしないぶよぶよの腹を晒していきなり脂肪吸引とは、手にした大金を消費したい欲求も膨らんでいるのだろう
暇空の動画はすべてなるくんが作っており、なるくんはただの下請けではなく独自解釈なども加えている
「フェミ叩きが受ける」として仁藤を次のターゲットにすればバズると提案したのもなるくんだ
暇空は複数人から刑事告訴されており、6億円レイドバトルのためこれからも参戦者は増えていくだろう
なるくんは仁藤から名指し済みだし、他の暇空被害者からもyoutubeの共同運営者として恨みを買っている
なるくんはもう逃げられない 取り返しがつかない
2022年時点で手を切れてたらまだどうにかなったかもしれないけど
暇空は前科がついても金があるけど、なるくんはそこまでじゃないだろう
尽くせば暇空が一生養ってくれるのか?
「こん」
オンライン島にて2020年からずっと見た目女の子で遊びに行っている(昨日も行った)
初めて行った時にびっくりしたのがその礼儀正しさである。オン島は大体未成年が多いのだが、島に到着すれば色んな場所から吹き出し「こん」が
そろそろ帰るといえば「ばいばい」と吹き出しが島のどこからか飛んでくる。
「普通のパチンコくれ!」とお願いしたら金のパチンコをくれる人がいて「そこまで求めてないんだよなぁ…」と困惑したこともある
その辺りから男の子アバターから女の子アバターに変えた。すると、これが面白くて女の子になった途端「えっちする?」とか聞いてくる奴はいる
プレゼントしてくれる人はいる、女の子だと思って悩み相談してくる人もいた。
このお陰でまだ参加していないイベントのアイテム(豆とか)海外限定アイテム(スパークリングサイダーとか)配信限定アイテム(セブンのATMとか)更に開けらないプレゼント袋、フライパン
会話がめんどうな時はひたすら虫取りしてた
虫取りの効率いいやり方を教えてくれる人もいた
他人が虫取りをしてる時に走ったり歩いたりしてはいけないこと、逃がしたらすぐ謝ることも学習した(すぐ謝ると割と許してくれる)
12月限定のツリー飾りを置きまくって自分仕様に変えちゃった人、バグに付き合ってくれと言って私を嵌めた人、穴で私の周りを囲って出れなくした人(特殊な穴)、雨を降らせた人(本来は晴れか曇りしかない)、ロビーの電気を消したりつけたりを繰り返す人、オン島のコインで交換する品物を全てかっぺいの写真にしてまるで遺影が並んでいるみたいにする人、ロビーに太陽を出現させるひと…まあ色んな人がいた
あまりに暴言が酷いのでブログでソパカを晒したら「discordで喧嘩しようぜ」と言ってきた中学生(自分で言ってた)「働きたくない」とか書かれたTシャツを着た人にソパカをアニメの画像にする人も○○ノ○○村みたいな名前の人も小学生だけど
ドリフのファンで「ツーツラツー」と歌っていた人も都合が悪くなると「子供が泣いちゃって世話していたから」と誤魔化す人もみんな今となっては思い出のひとつ(だけどドラクエ村のソパカが
とこやみのりゅうグレナードって書いてあった人は許さん)売名してくる奴も未だにオン島にいるらしい。一回喧嘩したねぇ、チャンネル登録者500だとか威張ってたねぇ、同じくロビーにいた人が爆笑してたね。
すれ違い広場を確認したら出会ったMiiは1000人を超えていた。HIKAKINのMiiに、キヨのMii、真っ黒Miiなど本当に小中学生の作るようなMiiだらけだった。
そんなオン島も4月で終わる
しかし、最後までアイルランド語を訳せる人は現れなかった(TwitterIDを検索する奴とWiFiでマウント取って帰らせる奴はいた)
「じゃあそろそろかえるね」
いわゆるオールドメディアと呼ばれる媒体をつくる仕事をしている
自分が仕事を始めて何年目かはちょっと言えないが、まあ若手ではない
先日ある内定者と会う機会があり、世間話ついでに仕事の話も軽くだがさせてもらった
面白そうですね!とか、入社までに何を勉強すればいいですか?とか
ワクワクした感じで色々聞かれた
正直、申し訳なかった
だって君はすごく良い大学に通っていて、人当たりも良くて、多分頭の回転も早いんだろう
コンサルとかITとか、もっとガンガン金を稼げて社会にも沢山貢献できるような業界に行くべきだったよ
たまに虫が湧いたとかで皆で大騒ぎするんだ
椅子も机も汚いし壁紙も剥れかけてる 床にはよくわからないシミがついているし、ちょっと強い地震がきたら一撃で崩れてしまうんじゃないか?という古い建物だ
仕事の関係で大企業のオフィスを訪れることもよくあるが、どこも(この職場と比べれば)恐ろしく綺麗だ
それに、変わったものが売ってる自販機なんかがあって、ピカピカのよくわからない広場?ラウンジ?もあってさ
今の高学歴はこういう場所で働いてるんだなっていつもしみじみ思うよ
年配の人に俺の仕事の話をするとそれはもう興味津々に、「すごいねえ」なんて言って尊敬の目を向けられる
でも30代あたりかそれより若い人に話をするともう全然だな あーブラックっすね(笑)とかそれ古くないですか?(笑)とかそんなん
学歴も全国メディアなら旧帝大やら早慶やら出てる変わった奴が多いけど、うちはもう全然だ
部署に国立の文学部とか出てるおじさんもいるけど、それが最後の灯火ってとこかな
いいんだけど、まあ難はあるわな
知識量がものを言う仕事でもあるから、うまくいかない場面も出てくる
学歴差別するわけじゃないけどやっぱある程度の学力は欲しいなと思うよ
こんなこと長々と書いてるけどさ、
まあ俺はいいんだ なんだかんだで仕事は面白いし、気に入ってる 今更転職する気も能力もないしな
出版とかならまだ分かるよ 大手の出版社なんか皆の憧れだ、頑張って目指す子も多いだろう今でも
でも他は駄目だね もう沈みかけの船って感じで、これから好転するビジョンは全く見えない
大手の2、3社以外はロマンと少しの奉仕精神だけで回ってる業界だよ
まあすぐ消すと思う
この投稿にもある程度フェイクというかぼかしは入れてるけど、狭い界隈だからな
すぐTwitterとかで広まるんだよ
これもマスコミしぐさだけど、マスコミの連中は業界の悪口言う奴に対してめちゃくちゃ冷たいんだ
小池百合子知事が麻布十番駅を核シェルターにするとぶち上げて話題になっているが、
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/20979db65c4b2665d53884ea0247aa2eac51db19
実は都営地下鉄大江戸線の麻布十番駅は防災拠点として整備されていて、地下に巨大空間があるのだ。
地下鉄の線路は地下6階にあるのだが、駅コンコースは地下4階となっている。その上の空間が備蓄倉庫となっている。
更に鳥居坂のシンガポール大使館下に地下駐車場の入口があるのだが、
https://maps.app.goo.gl/T7BFm9ohKUEZT68J7
この下と道路の下が駐車場で、その下がまるまる防災倉庫+コンコースとして伽藍と開いているのだ。
大江戸線は2000年に開通したが、90年代の麻布十番は延々と工事中で、しかも巨大な縦穴を掘っているのが見て取れた。それは地下鉄だけじゃなくて備蓄倉庫の躯体も作っていたからなのだね。
土木に興味がある人なら、都市トンネルの作り方には上から掘り下げる開削工法と、地下を横に掘り進むシールド工法があるというのは知っている事と思う。
シールドというのは盾の事で、丸盾型の隔壁を全面に置いて開口部から工夫がショベルやツルハシで土を掘ってトロッコで後ろに残土(ズリ)を送る。シールドが前進すると同時に丸いトンネル形状を支える支保工を建てて、そこにコンクリートを流して丸いトンネルにする。トンネル掘削面を切羽というが、都市の地下だと切羽が崩れてくるのを防ぐ為にこういう風にした。150年前のロンドン地下鉄から使われている枯れた技術だ。
このシールド工法、今ではもっと進化して、シールドマシンという機械が自動で掘り進むようになっている。掘ったそばから円形トンネルの外壁を分割したセグメントを組み立てて行く。
http://www.yesemk.com/eng/business/tbm_small.html
が展示されていて、いかにもごつそうなドリルが付いているが、そういうのは山岳用である。
沖積平野地下で威力を発揮するのは実は泥水なのだ。泥水を吹き付けて土を崩し、そろばんみたいなカッターでグリグリやって出てきた残土は泥として後方に送る。
それには泥と水の分離機が必要になる。地下鉄工事や下水管(雨水管)工事の現場でこういうデカいタンクが置かれているのを見た事が無いだろうか?
https://www.futamoto.com/product/ftu-d/
これは泥と水の分離機で、丸い形状の場合もある。セットルタンクともいう。上に機械が載っている事も多いが、それは脱水機で、振動、或いは遠心力で泥から水を分離して、それをダンプに載せて残土として捨てに行く。
建築現場でも見る事が多い。これは杭基礎工事で潤滑剤として水を使い、杭打機の中の土の掻き出しにやはり泥水吸引を使うので、その泥を水と土に分離して捨てる為だ。
一方、シールド工事ではその残土、排水分離の他に泥を作るという役割があるってわけ。
水じゃなくて泥水である理由は、まずは比重の重さによる破壊力の増加。鉄砲水では橋や堤防は壊れなくても、土石流だと破壊されてしまう。これは泥水の方が比重が重いからだ。
また流動性が水より低い。この為に余計な場所に流れて行ったりしにくい。
また比重の高さにより、切羽が安定する。水だと掘ったそばから土は崩壊しようとするが、泥だと高圧状態が保てるので崩れにくい。
そして泥と別に水も送り、出てきた残土の泥を薄めて流動性を上げて後方の分離機に送るのである。
この為に残土のトロッコやベルコンベアも必要なくてホース数本だけでいい。人員も減るし労災も起こりにくい。
しかもこういう仕組みだとシールドマシンが小型化出来る。人が入れないような径のトンネルを掘る事も出来る。何しろホースと泥水分離機だけでいいのだから。
そういう訳で異常気象で多発してきた排水氾濫に対して雨水幹線を整備するのにも大活躍だ。下水管なら各戸の管を接続する為に露天掘りしか出来ないが、雨水管なら必要ないので小型シールドマシンが使えるのだ。
ってことで、シールドマシン下発進拠点であり工事の要である泥水分離機を稼働させ、残土を搬出する場所が必要なので大きな縦穴を掘る必要がある。この縦穴は最後にただ埋めてしまうと勿体ない。なので駅になる場所がシールド基地となる事が多い。
因みに雨水管シールド工事での基地の役割にはもう一つあって、それは「シールドマシンを押す事」だ。シールドマシンには推進力が無いので基地から油圧で押してやるのである。
で、トンネルが出来たらその上に駅コンコースの躯体を鉄筋コンクリートで作る。それが終わったら土で埋め戻して完成だ。
この辺の構造はみなとみらい線の元町中華街駅とかが判り易いかも。露天掘りで出来た駅コンコースからエスカレータを降りると、丸いトンネルの天辺に出る。この二つは別構造で作り方も別だったのだ。
都営麻布十番駅は地下6階で、コンコースは地下4階、その上はただ埋め戻しすると無駄だ。なので有効活用する為に備蓄倉庫とされる事になった。更にホーム自体は交差点からエネオスのガソスタのあたりまでなのだが鳥居坂の方まで延長されて地下駐車場と備蓄倉庫などになった。確か鳥居坂の方は地下鉄が開通しても工事が続いていた覚えがある。
また、石原都知事は地下鉄開業後に自衛隊部隊を市谷から大江戸線乗車で麻布十番に移動させる訓練を行った。自衛隊を指揮したい、六本木から市谷へ防衛省が移転したのでデモンストレーションしたいという動機もあったろうが、都営の防災倉庫落成のデモの意味もあったのだ。
このように元々防災備蓄倉庫として整備されていたものを核シェルター化するというのが今回の肝なのだが、どうもその辺の背景知識が参照されていないように思える。
更に小池知事はワンフレーズ政治家なもんで、ちゃんと継続して計画策定するのかっていうのが疑問なのだ。山手線2階建はどうなった?
就任当初に小池知事は廃校となった都立市ヶ谷商業高等学校跡地を韓国人学校に転用する取決めを反故にした。これは韓国人学校化を約した舛添前都知事の独断の疑いがある事の他に、当時議席もない右翼政治ゴロのような人物を秘書としていて音喜多ら都民ファ議員をパシリにしていて、その影響もあると思われる。
だがその言い訳がヤバかった。保育園にすると言ったのだ。当時「保育園落ちたの私だ」などで保育園待機児童問題が炎上しており、それに乗っかったのだが、こういう時は実地を見てみないとポジショントークになってしまう。
市ヶ谷商業高は新宿区矢来町にあり牛込柳町駅が最寄り駅だ。しかも結構な狭隘路の中にある。学校としての敷地はかなり小さい。だが保育園としては過大な建物だ。
車での送迎は狭隘路の為に不可能だ。また保育園というのは電車で通うものではない。電車で送迎した場合、坂の下にある柳町駅から急坂を登らねばならない。
都市計画法と建築基準法に用途地域というのがあり、地区ごとに建てられる建物の種類が決まっている。例えば商業地域には木造家屋は建てられず、住宅地に工場は建てられない。また工業地域には学校を建ててはならない。これは住環境や教育を保護するための規制だ。
だが保育園にはなんの規制も無いのだ。これは環境がどうこうよりも、保育園は働く人の為の施設でありオフィス労働者、工場労働者が居たら自動的に必須となるのである。
こういう属性を持つので、保育園は遠方に通うものではない。住居か職場に近い場所に開設されるものだ。
矢来町は大きなオフィス街ではない。だから大きな保育園が必要な場所ではない。
ならば住居の方はどうか?この周辺は人口空洞化が進む地域だ。因みに増田の母校はここから徒歩30分くらいの場所にあったが生徒数現象で廃校されてしまった。
故にここに保育園というのはナンセンスなのだ。だがこの時は「場所的にナンセンス」と強く否定されなかった。
その後市ヶ谷商跡地はずっと遊休施設になり、最近に老人施設に一部転用という形になっている。保育園転用の可能性は検討さえされていない。
こういう感じの人なんで、核シェルター化は本気で継続する事業なのか?というのが非常に疑問なのだ。
更に現知事の問題はその問題性を感じさせない天賦のポピュリスト性にあって、市ヶ谷商高保育園転用の時もマスコミに半畳を入れられなかったし、今回も同様だ。なんか、テキトウ言っても通ってしまうという言論空間にいる。長期停電したら水没しますが、ガスタービン発電とその燃料備蓄はどのくらい?と言った具体性に繋がらないで、北朝鮮の核があるから、で通ってしまい、何も事業が進んでないまま皆忘れるというパターンに入ってるような気がしてならない。
コロナ初期のように「三密」「移動制限」みたいに全体の流れを言葉で決定付けるのは非常に高パフォーマンスを出すのだが、その後が続かない。ママチャリにクラリオンの高額なアンプ、スピーカー積んで街宣みたいな感じになるのがいつものパターンというか。
大江戸線清澄白河駅も麻布十番と同じくコンコース上の空間が防災倉庫になっている。だから清澄白河駅でも同じ核シェルター化が可能だ。ここの場合はホームが地下2階、コンコースが地下1階と深さが無いが、その代わりに隣接する清澄庭園にはみ出す形で地下構造物が築造されている(はず。見てない)。
あと、東京都の防災倉庫に指定されていないが、新宿中央公園地下も広い空間が広がっていてシェルター化出来そうである。中央公園の新宿方広場は昔階段や噴水が組み合わされた広場だったが、地下鉄大江戸線工事で巨大工事基地となっていた。
その後広場に何も置かない、噴水も置かないというのは何かの躯体が埋まっていると考えられるのだ。
だからこの二つでも核シェルター化は可能な筈だが、何分にも知事が何処まで本気なのか放言なのか判らないので…
江戸時代の古川改修工事で工区を区切り、○○N番、と書かれて居たのが由来。麻布は十番だったので麻布十番と。これは有名だね。因みに昭和初めまで森本町、山本町、永坂町という感じで麻布十番という地名は無かった。町の合併地名整理で古い呼び方を復活させたのだ。
エネオスのスタンドの斜向かいにマンシーズトウキョウというレストランがあるが、実はここがバブルなディスコのマハラジャ東京の跡地。因みに増田も行った事がある。んでその近くのファミマの隣のPCデポの隣がマハラジャWESTでここも増田は行ったこt
一の橋の交差点の五反田寄りに団地があってその裏の古川べりに広尾公園があるのだ。
これは、江戸時代の古川の改修工事の後にできた、川べりの土地を開墾して田んぼにして、そこを全部広尾と名付けたためだ。つまり、一の橋からずーっと遡り、広尾の天現寺橋までの両岸が広尾。また天現寺橋から北の方に今の外苑西通りに沿って笄川(こうがいがわ)というのが流れてて、その両岸も広尾だった。地名として無茶なのだが、どうもこれは広尾の人らが開拓に駆り出されたかららしい。
後にややこしいので川沿い広尾は近傍の地名に合体させられたのだが、一の橋付近だけはその地名変更前に公園名が付けられて残ったというわけ。
六本木交差点のアマンド横に坂道があり麻布十番まで繋がっているが、元はこの道は都電の線路だった。廃止されて道路になったもの。
で、ここを都電が走っていたので、その代替都バスもここを走る事になった。なので右折禁止の六本木交差点の真ん中で都バスが右折待ちしているのが見られた。路線は新宿駅東口~東京タワー。
で、都バスは昭和40年(1965年)に車掌乗務から、ワンマン均一料金に転換したんだが、車掌については本人の希望にした。それで殆どの車掌は退職するか配置転換されたのだが、十数人くらいは継続勤務を希望した。因みに狭隘路線などでは今でも補助的に車掌が乗務する路線はある。
この人達が最後まで残っていたのが新宿~東京タワー系統で、1990年近くまで居たそうである。
因みにこの路線は整理されて今では残っていない。
鳥居坂は急坂の下の方を大通りが通り、そこだけ水平なのでサンフランシスコのような光景になっている。なので勢いがありすぎるとジャンプする。というかした。バイクで急いで通ろうとしたらジャンプして転倒しそうになった。減速を心がけたい。
元麻布に登る坂の下にパティオ十番という広場があり、多分これは南部イタリアの街を模して作ったものだろうが、よくフリマが開かれている。麻布十番という下町+オサレな地域に相応しい出品が多くて雰囲気も良いし面白い。
都電廃止後に陸の孤島と化していた麻布十番に南北線と大江戸線が相次いで開通することが決定すると、沿道には「悲願達成!麻布十番に鉄道開通!」という横断幕が方々に掲げられ、まるで冬は雪に閉ざされ交通途絶される雪国のようで苦笑した事がある。
先ほどの飛地みたいな広尾公園から古川を渡ると、三田一丁目というかなり強烈な下町がある。この辺の人も麻布十番居住と言っているはずだから、麻布十番に一番安く住むには三田一丁目に住むのが一番と思われる。風呂が無い家も多いが、実は麻布十番には銭湯が残っているのである。しかもここは温泉が出ている。泉質は南関東ガス田の上なので黒湯である。
六本木のロアビルから曲がり鳥居坂に向かうと、周囲は東洋英和や古い教会などが立ち並ぶ雰囲気の良い地帯である。
ところがこの広大な一帯には再開発が掛かっている。なのでロアビルも廃業して廃墟となっている。ロアビルから鳥居坂まで全てである。
実はこの一帯はロアビルも含めて川崎財閥という財閥の所有地であった。GHQの財閥解体で解散させられたが六本木の不動産はそのまま所有し学校などへ売却されたり共同運営(ロアビル)されるなど管理されていたがその全部を再開発する事になった。デペロッパは当然森ビルである。港区にいる限り森ビルのブルドーザーから逃れられる者は居ないのである。核シェルターもいずれ森ビルのブルドーザーが…。
フリマのブースはズラーッと並んでいて、それを順に見ていると、近くにいる客たちも私の後ろや前で、同じタイミングで同じブースを見ている、ということがありました。水族館とかで「あ、さっきヒトデコーナーにいたカップルとアザラシのところでまた会った」とか「深海魚からペンギンのところまでこの家族づれとずっと一緒だったな」みたいになることありますよね。ああいう感じです。
私の横にいた1人の男性が、フリマを出店している女子学生の作品を見て「君は、工芸デザイン科でしょ?」と話しかけました。女子学生は「そうですー」と答えると、男性は「僕はここの視覚伝達デザイン科を卒業してるから分かる」と言いました。「そうなんですかー」と女子学生が返し、なにか会話していました。
私は横目で「なんでわざわざ自分が武蔵美卒だって言うんだろう」と思いつつ、作品を夢中で見ていました。
するとその男性は次のお店も次のお店も、売り子の女の子に「僕は武蔵美出身」ということをいちいち告げて話しかけています。
意識的にその男性を見てみると、男子学生は飛ばして女子学生にだけ話しかけていました。
■「これはマズい」男性を見張りはじめた
私や子どもたち、他の大勢の客は夢中になって背中を曲げてテーブルの上の作品を見てるのに、その男は作品はチラ見するだけで女子ばかり見て自己紹介しているのも妙でした。
女性が並んで着席していて男性が順番に回ってくる婚活パーティーってありますけど、その男性1人だけ婚活パーティーをしているかのようでした。フリマなのに。
私は素敵な作品を買い逃したくないから買い物に集中したくて、この男性のことを忘れようと努めました。
だけど、横に整列しているテーブルの上に作品を並べているフリマブースの最後まで来ると、広場にテントが張ってあって、その中がお店になっているブースがありました。作品が並ぶ棚が手前にあり、奥に1人だけ売り子さんが立って会計をしていました。
勝手に婚活パーティー状態になっている男性は、作品を見ることなく売り子さんの隣にツカツカと直進していき、早速話しかけました。
会計のテーブルの中に入って女子学生の隣にガッツリ立って話しています。女子学生は出口をふさがれている状態なので「これはマズいのでは」と思って見張ることにしました。