はてなキーワード: 必然性とは
正直言って俺も胡散臭いと思っているし、信用もしていない。
理由は簡単。マナー講師の奨めるマナーというものが一般的ではないように感じるため。
マナー講師が独自のマナーを作ってそれを流布しようとしている。
だが少し待ってほしい。
恣意的なものというのは果たしてマナー講師のマナーだけだろうか?
本題に入ろう。
掻い摘んでいえば助詞の使い方についてであり、文法規則のことだ。
例えば、次のような文章があるとしよう。
一般的に正しいのは1。
では2はどうだろうか?
違和感を覚える?そうだろうね。
でも、2が間違っているわけではない。
それはただ読み難いというだけに過ぎない。
そもそも我々が「は」を「が」と同様にしない理由はあるのだろうか。
はっきり言おう。
そんなものはない。
ええ、その通り。だからこそ世の中のルールというのはおおよそが恣意的である。
にもかかわらず、恣意性であることに気づいていない人が大半なのは悲しいことだ。
しかしこれは悪いことではない。寧ろ必要なことであり通念がなければ社会は成立しない。
だからこそ必然性のない恣意性を我々は教育として受け入れ、それを是として正しいと認識する。
緩やかな洗脳。必要悪。それは洗脳と呼べばそうであろうし、常識と呼べば好まれる。
だからこそマナー講師を糾弾するというのは同時に、自分の洗脳に対する嫌悪でもあるはずなのだ。
世はSNS全盛期。
人々は情報に踊らされ、偏った情報に洗脳されている人々を笑う。
洗脳されている奴らを洗脳されていることに気づいていない奴らが笑う。
拙い文章ながらブクマやコメントをいただきありがとうございます。
そしてコメントにおいて何点か気になるものがあったため追記しました。
君は自分が思ってるほど頭良くないし作文も上手くない。もってまわった言い回しを全部切って文量を半分にすると頭良くなるし作文も上手くなる。騙されたと思ってやってみな。
まず、これは頭が「良い」や「悪い」の話ではありません。
そのため本文の内容を理解できたのであれば感想として「頭が良い」「頭が悪い」といったものは出てきません。
何故なら本文が示す意味は準拠するものを問うからであり、意味を理解したなら「そもそも頭が良いとは何か?」といった感想になるはずです。
つまり「分かりやすい文章を書けた方が”頭が良い”のならば、その分かりやすさはどの程度の知能を基準とするのか?」という問題です。
本題と言いつつ本題ではない部分だけど、文法的に通じることと同じ意味として通じることを混同している。愛の告白をする時に「僕は君は好きだ」なんて言ったら十中八九「じゃあ誰が嫌いなの?」って返されるよ。
その上で「じゃあ、どうしてそれを”混同”と呼び、差異を認めるのか?」といった話です。
ただ例として出した文章が分かり難いといったことは否めず、それは完全にこちら側のミスと言えるでしょう。
すみません…。
問題は、それら「が」と「は」が同じではないとして、では何故同じではないのか?という話です。
本文を書くきっかけは、部下と言語についての話をしたことでした。
私は言語学や記号論を学んでおり、当時はそれらが時代の潮流に乗り、栄えた時代でもありました。
そこで私がジェラール・ジュネットやマリー=ロール・ライアンを持ち出して話をしたところ、ポカンとした表情を見せられ、
じゃあロラン・バルトについてはどう思うのかと聞きました。
すると彼は「それってガンダムのキャラクターですか?」と笑って尋ね、私は愕然とし、構造主義としての思想はもはや廃れてしまったのか?
性犯罪被害の告発に対しては、セカンドレイプという主張が濫用されすぎだと思う。こんなん「時と場合による」としか言いようがないよね。
この場では、とにかく「被害者」の言うことが真実であるという前提で接するべき。仮に「被害者」の言うことが疑わしいのだとしても、ダイレクトに伝えるのではなく、治療者として適切な言葉遣いで伝えたりそれとなく適切な治療に繋げたりすることが求められるだろう。カウンセラーは知らんが、医師は国家資格があるわけで、そういう配慮も当然要求されるだろう。「嘘なんじゃないですか?」とか直截に言うような心療内科医やカウンセラーは看板を下ろすべきだ。
刑事裁判は、圧倒的強者である国家権力が、無力な弱者である市民(被告人)に対して、罰を科すかどうか決める場である。当然、被告人は、全力で自らの身を守る権利がある。被告人は身を守るために、「その日はアリバイがありました」とか「そんなことをする動機がありません」とか「踏み間違いではなく車の欠陥ではないでしょうか」とか「ドラえもんに助けてもらおうと思いました」とか「被害者の証言はここがおかしいと思います」とか、ありとあらゆる反論を国家権力に対して行うことが許されるべきだ。
実際、今回の事件や会津若松虚偽告訴事件のように虚偽の被害を訴えた事件だけではなく、「本当にレイプ事件はあったのだが、被害者が被告人を犯人と勘違いした」事件もある(氷見事件)。「本当の被害者なのだから、その証言を疑ってはいけない」などという原則を採用することは、刑事裁判の原則から考えてありえない。たとえどれだけ悲惨な被害に遭い苦しんだ被害者の証言であったとしても、疑われてしかるべきなのだ。なぜなら、被害が本当にあったのだとしても、被告人は犯人ではないのかもしれないのだから。
たとえば、仲の良い善良な女友達が泣きながら被害に遭ったという話をしてるときに、何の根拠もなく「それほんと? 嘘なんじゃないの~?」と言うのは割と人の心がない所業だと思うし、周囲のやつらからドン引きされ絶交されたりしても、まあ仕方ないだろう。
逆に、隣近所では評判のウソツキ女が被害に遭ったという話を吹聴していたら、何の根拠もなく「それほんと? 嘘なんじゃないの~?」と言っても、まあ、仕方ないだろう。日頃の行い、オオカミ少年、ってやつで、こういう場合に被害を疑うのは社会で生きていく上でなんら問題ない。
もちろん、善良な女友達が実は痴漢冤罪カツアゲ犯であり、評判のウソツキ女が実は本当にレイプ被害に遭っていたということもあり得るわけだし、実際の社会にはこのあいだに広大なグレーゾーンが広がっていて、「新聞で短く報道されたヨソの県のヨソの市での性犯罪」なんて、実際のところはどうだか全くわからないだろう。というか性犯罪だけじゃなくて、殺人だって詐欺だって何だってそうであって、つまり本当に大事なのは「それ、わざわざ話題に出す意味ある? あなたがコメントする意味ある?」ということだろう。友達や近所の人なら意味も必然性もあるかもしれない。友達が泣き崩れてる横で「僕はノーコメントで」とか言うのは(よほどの事情がない限りは)人でなしのすることだ。しかし、「新聞で短く報道されたヨソの県のヨソの市での性犯罪」にあなたがコメントする意味はあるのか?
さらに言えば、そのコメントを公開の場でする必然性もあるのか? もし「草津町ってひどいところだよね~」とか「絶対草津には行きたくないわ~」みたいなことを家族や友人のあいだでだけ喋っているなら、たとえばSNSの発言をめぐって訴訟リスクを抱えるようなことには基本的にはならない。草津町長は名誉毀損で何人もの人たちを訴える意向だと聞いているが、彼ら彼女らが身内の飲み会でそういうことを言っているだけだったら、町長は何の手出しもできなかっただろうし、フェミニスト学者の人たちが謝罪を求められることにもならなかったはずだ(cf. anond:20221117054344; anond:20221118212515; https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/okisayaka/status/1592551751072509953)。
もちろん、自由社会には「表現の自由」という大原則があり、意味も必然性もなくとも表現は自由であって、それを否定するとあいちトリエンナーレやクジラックスが弾圧される世界になってしまうから、SNSなどのオープンな場で自分にとって縁の薄い場所で起きた犯罪についての論評を行うのは自由であるべきだ。だが、天皇アートやロリ漫画と違って、実在の犯罪への言及には「冤罪に加担してしまう」というリスクが常につきまとう。「七色のおっちゃん」である(単なるざまぁ物かと思って読み始めたら期待値よりは面白かった)。義憤を燃やすのはいいが、それは後に訴えられるリスクを負ってまで燃やすべき義憤なのか? はよくよく考えた方がいいだろう。別に黙れとは言ってない。たとえば加藤智大のように現行犯で取り押さえられた人物については、冤罪の危険はそこまで大きくないので、言及しても比較的安全かもしれない。しかしもちろん、四日市ジャスコ誤認逮捕死亡事件のように、現行犯であっても冤罪があり得、取り返しのつかない結果が起きていることも忘れるべきではないだろう。そういうリスクを織り込み済みで、公的な場で義憤を表明したい、というならそれはもちろん表現の自由なので、どんどんX(旧ツイッター)で呟かれたりはてなブックマークでブクマコメントを残されたり、たまに裁判を起こされたりすればよいのではないかと思う。
今日公開される、すみっコの映画『ツギハギ工場のふしぎなコ』のチケットを予約してたからだ。
俺がすみっコの魅力にやられたのは、妻の影響。
1作目・2作目はアマプラで視聴し、その可愛さと感動のストーリーに悶絶した。
それなのに、妻からは「映画館で観るとまた格別やから」と聞かされた。
アマプラでさえこんなに可愛くて感動するんだから、映画館で観ちゃったらもう幸せすぎて宇宙まで飛んでいっちゃうんじゃないかな、と心配してた。
公開初日の今日、映画を見終わった妻と俺は、2人とも言葉を失っていた。
せっかくのすみっコの映画なのに、しかも69分しかない短い映画なのに、途中で「はよ終わらんかな・・・」とすら思ってしまっている自分にドン引きした。
個人的に、なぜ今回の映画がこんなに残念だったのかを考えてみた。
もちろん、本作を観て心から満足した方もいるだろうから、以下はあくまでも俺の主観。
Xの投稿を観る限りでは「感動した」「かわいかった」っていう声が大多数だから、俺の感覚が正しいとは思わない。
俺と同じように本作にモヤモヤしたっていう人にとっては、多少なりとも共感できる要素があるのではと思う。
すみっコに必然性を求めるなと思われるかもしれないが、そういうことじゃない。
1作目・2作目はファンタジー要素がありつつも、ストーリー全体として「なぜ物語が始まるのか」「なぜこんな展開になるのか」がはっきりしていた。
しろくまのもとに、ぺんぎん(本物)がぬいぐるみを持ってくるところから、話は始まる。
ぬいぐるみは、しろくまが実家で大切にしていたという設定になっている。
俺が記憶している限り、ぺんぎん(本物)がしろくまのもとにぬいぐるみを持ってきた動機がはっきりしない。
いや、まぁ「しろくまが大事にしていたぬいぐるみだからしろくまの元に届けてあげよう」と考えたんだろうとは思う。
ぺんぎん(本物)としろくまが親友のような関係であることは、にわかすみっコファンの俺にでもわかる。
けど、なんでぺんぎん(本物)がしろくまの実家に行ったのか、なんでしろくまの親御さんや兄弟からぬいぐるみを預けられたのかが、全然わからない。
このぬいぐるみは本作の中でけっこう大切なポジションなのに、そのへんの背景がわからないから、ストーリーにいまひとつ没入できなかった。
それから、工場でおもちゃ作りに励むことになったすみっコたちが、なぜ文句を言わずに働き続けるのかもわからない。
企画会議でも活発に意見を交換し、新商品の開発に積極的に取り組んでいた。
くま工場長から課せられるノルマは日々増え続けていき、持ち場を少しでも離れればロボットアームで定位置に強制連行される様は、お世辞にも楽しそうには見えなかった。
すみっコたちがおもちゃ作りを頑張る明確な理由は、なにひとつなかった。
一応、食べ放題の社員食堂があったり、豪華な寝室が用意されていたりと、福利厚生は充実していたように思う。
でも、別にすみっコたちって食いしん坊でもなければ、住処に困ってるわけでもないじゃないか。
(第一、工場のすみっこにあるソファでみんなで固まって寝てたから、寝室に関してはほぼ使ってないし)
たとえば、「すみっコらんどに帰れなくなっちゃった・・・!」的な理由があるなら、工場で頑張って働くのもまだわかる。
けど、そもそも徒歩でたどり着いた工場なんだから、帰りだって徒歩圏内のはずだ。
なんでくま工場長の言いなりになって働き続けているのか理解に苦しむ。
ひょっとしたら、「仕事が苦しくても辞められない日本人」的なところを投影しているのかもしれない。
でもそれなら、「苦しいけど、くま工場長に悪いから辞められないね・・・」的なすみっコたちの葛藤があってしかるべきだ。
そのへんが描かれていないので、すみっコたちがあたかも自分の意思なくただひたすら奴隷のように働いているように見えてしまった。
俺はすみっコの可愛い姿を見たいのであって、可哀想な姿を見たいわけではなかった。
必然制の希薄さ、という点と少しかぶるが、とってつけたような展開が続いたことも、映画に没入できなかった理由のひとつだ。
途中、何度かアクシデントが発生した。
たとえば、とんかつが大量発生したり、おもちゃがすみっコらんどを席巻したり。
でも、各アクシデントが次の展開につながることはなかった。
アクシデントを解決して、ホッと一息ついたら、また次のアクシデント・・・という感じで、脈絡のない小話が延々と続いているような印象だった。
とんかつの増殖については、ロゴマークを消すとおもちゃが命を失う・・・という設定が明らかになる伏線になってはいるが、このロゴマーク設定もけっこう雑だった。
おもちゃ工場でロゴマークをつけると、おもちゃに命が吹き込まれ、自分の意思で動くようになる。
で、そのロゴマークをこすって消すと、動かなくなる。
この設定はけっこう大事な気がしたが、割とあっさり無視されていた。
たとえば、くま工場長が実はおもちゃだった・・・という衝撃の事実が判明するシーン。
くま工場長は動かなくなってしまっていたが、ロゴマークははっきりと印字されたままだった。
細かいところでは、しろくまが持っていたぬいぐるみにもロゴマークがはっきり印字されていたのに、なぜ動かなかったのかという謎も残る。
まぁしろくまのぬいぐるみに関しては、経年劣化で動かなくなったという見方もできるけど。
でもそれなら、ロゴマークが薄れてしまってるなどの工夫は必要なのではと思う。
おもちゃ作りを放棄したすみっコたちに激おこになり、工場が暴走する。
で、その暴走が実は苦い過去の思い出によるものだったと判明する。
そのとき、すみっコたちは「役に立たなくたって仲間だよ」と言い、工場を笑顔にする。
なんつーか、唐突な流れすぎて感動が追いつかなかった。
ありがちな感動展開でうまくまとめようとした感じが拭えない。
てか工場に対して仲間意識を持つなら、くま工場長への心配があってしかるべきだろと思うが、すみっコたちは全然くま工場長のことは忘れているようだった。
そのあたりのアンバランスさも、すげー気になった。
そして何より、すみっコたちが楽しくなさそうだった。
これは俺の主観かもしれないが、少なくとも俺はそう感じた。
本作のすみっコたちは、楽しそうじゃなかったのだ。
「自分たちがやりたいから、これをやる」っていう、前向きな雰囲気が感じられなかった。
もしかして、くま工場長からの褒め言葉に縛られているのでは・・・?と心配にすらなった。
くま工場長は、すみっコたちを工場にスカウトする際、みんなのことを一人ひとり褒めた。
だけど今思うと、すみっコたちを思い通りに働かせるために操作しようとしているようにしか思えない。
っていうネガティブな感情をもってるわけだが、映画館の来場者特典として「くま工場長のほめスクラッチカード」ってのがもらえる。
硬貨でこすると褒めのセリフが浮かび上がってくるという代物だ。
俺のカードは「だいじょうぶ!みんな、すごいから!」、妻のカードは「サクサク!」だった。
(サクサク!がなぜ褒め言葉になるのかは、映画を観た方ならお分かりになると思う)
いや、この話の流れで、このカードもらって喜ぶお客さんっているんだろうか。
このあたりの細部の手抜き加減も、すげー残念だった。
とまぁ、今回の映画は本当に心底残念だったわけだけど、俺がすみっコ好きなのは変わらない。
今のところ2年周期で映画が出ているから、また2年後、2025年に4作目のすみっコ映画が公開されたなら、俺は間違いなく公開初日に観に行くだろう。
本当に必然性が皆無ならもう廃れてると思うんだよな。
三国志とかの時代からなんやかんや宴会が続いてるってことは何かメリットがあると考えるのが妥当で、それを考えてみようとしないのは、元増田が言うところの思い上がりなんじゃないかと思う。
言った手前自分でも考えてみるけど、まぁ単純に飲食とかのイベント絡めないで2時間とか喋るのって大変、っていうのはあるだろうね。
酒を飲むことで「プライベートな雰囲気であなたと交流する意思がありますよ」ってポーズを(実際の意図はどうあれ)表明する効果もあるのかも。
ボードゲームカフェで親睦を深める会みたいなのに参加したことあるけど、飲食じゃなくてそういうのでもいいのかもしれない。
私の同僚で長年テレアポ(正確には契約を取る仕事なのでアポではないが)をやってる部署内で成績1位のベテランがいるのだが、新しく入った新人(未経験ド素人)がそれを上回った。
入って3カ月間連続で、月ごとの成績で毎月新人がベテランの1.3〜1.7倍の件数をあげている。
やっていることは全く同じ。かけ先のリストの中身も同じ。
比較できるものは声質、喋り方、伝え方、知識、経験、電話をかける母数。あとはモチベーションか。
新人は蚊の泣くような声でただポソポソとトークスクリプトを台本通りに読んでいるだけ。
何がそんなに違うのか?なんでそれで契約が取れるのか、苦心して取ってる様子もなく、ただただ従順な客を引き当てているとしか思えず、間近で見ていると本当に奇々怪々である。
対面での営業と違って、検証できる要素はごく限られている。乱暴に言ってしまえば声だけだ。
正直、目に見えない何らかの必然性が絡んでいるとしか思えない。
一体何が起きてるのか?
この業界に詳しい人、長くいた人、似たような人を見てきたことがある人はぜひ教えてほしい。
世間一般では”物を知らない=頭が悪い” と思われがちだが、これは間違っている。
そもそも知らないことはイコールで頭が悪いということではないからだ。
多少哲学を嗜んでいれば誰でも知っている言葉だが、逆を言えば哲学に興味関心がない人にとっては馴染みの薄い言葉でもある。
そこで「アウフヘーベンを知らない」という人を「頭が悪い」とは形容しないだろう。
聞いたことのない言葉の意味を知らないのは当然だし、知っていて当然という必然性はない。
なのに世間では物を知らないと馬鹿にされるという強迫観念があるために質問をしない。
そんなことはないんだよと言いたい。
知らない言葉に出会うのは馬鹿でもなければ無知でもなく、単に接する機会がなければ意味を知らないのは当然なのだから。
故に俺が〇俗で嬢に「〇〇二して」と言われて意味が分からず戸惑ったのも、決して自分が馬鹿ではなく今までその言葉に接する機会がなかったからに過ぎないのだと言っておきたい。
「今は漫画を描く予定は無いが、漫画家になれますか?」と言う問い(A)と、
「漫画はいずれ描くつもりだが、今はそのハードルすら高いので、もっと低くて確実に漫画家に近づける、別のハードルはありますか?」と言う問い(B)は、微妙だが、明らかに異なる。
実は、元togetter記事にあがっている話題の範囲では、そのどちらにも解釈可能である。
しかし、多くの人はAと解釈することを選択し、Bの可能性を無視した。
そこで、とある兼業漫画家さんが、「元記事はBと解釈することもできるよね?しかも、その解釈は無理やりで非現実的解釈ってわけでもなく、むしろ私自身がB解釈で実際に漫画家になれた実例ですよ。」と、わざわざ名乗り出てきてくれた。
「"元記事はBと解釈することも出来、しかもそのB解釈の実例もある"と言う事実でもって、A解釈の反証とします」と言う意味であるはずだ。
にもかかわらず、「んん?それ、A解釈の反証になってなくね?」などとコメントする人もいる。
(ここで問われているのはA解釈の真偽ではなく、A解釈の必然性である。)
結局のところ、元記事はAともBとも解釈可能である。多くの人がAと断定したのは、その可能性が一番高かったからだが、実はB解釈の可能性の目も無視できない程度にはある、と説明してくれた人もいる。
そのような説明にもかかわらず、A解釈の必然性を疑わず、A解釈の真偽のみにこだわることは、大元の論理を捻じ曲げ、曲解し、異なる論理を作り上げ、それを叩く行為に他ならない。
そうだね、藁人形論法だね。
アスミカケル2話の感想……の前に、いくつか注意点とか色々。(第1話の感想にも追記しました)
【私の感想における注意点】
悪い言い方をすれば、何も考えずに脳死で書いてると言っても過言ではないです。
特に何が良いとか悪いとか考えず、ただ見て感じたものを書いてるだけなので、場合によっては褒めてるように見えたり、逆に貶してるように見えるかもしれませんが、どちらでもないです。
赤い色を赤いと言うようなレベルで稚拙な見たままの直観を出しているものと考えて頂ければ幸いです。この山は大きいなぁとか、そのレベルです。
たまに「あっこの川、深いッ!」みたいな多少の感情は乗るかもですが、基本フラットな自分にとって快不快を問わず感情が乗るのは良い作品だと思っています。よろしくお願いします。
上記の通り脳死で書いてるため、連想ゲーム的に他作品(他の漫画とかアニメとか)の内容やセリフなどを引用したりする事がありますが、比較のためではありません。
つい「この人の髪型ハンバーグみてーだなぁ……」みたいな事を言うかもしれませんが、その人やハンバーグを貶めたり、逆にそれを理由に名作と引っ付けて評価を上げるような意図とかも無いです。皆無にして絶無です。
そのような比較や同一視は両方の作者や作品に対して失礼であり、あくまで自分の中では全く別のものだけど連想してしまったに過ぎないので、あくまで個人の感想である事をご留意して頂けませば幸いです。
③同様に、何かしらキャラや演出などについての評価をする事もありますが、それ自体は特に作品や作者の評価ではないです。
もし仮に私が「このキャラ不快だなぁ」と言ったからといって、それが即ちその作品や作者が不快という事でもないです。不快なキャラを出すことで、相対的に他のキャラの株が上がる事もあります。
世の中にヤベー人間がいるからといって、即ち世の中がヤバい訳ではないように。その作中世界や世界の中の"もの"と作品との評価は全く異なるものであり、なんなら邪悪な人間しか出てこない邪悪な世界の作品でも面白い場合もあるかと思います。
世界最高のコントラバスと世界最高の尺八奏者と世界最高のDJがコラボしたところで、どうひっくり返っても「世界最高のジャズ」が生まれるなんて事はないように。要素同士の相性が良くなければ作品はチグハグになります。
演出とか構成とかストーリーとか諸々の要素が全て満点でも、それらが噛み合ってなければ作品として成り立たないように、あくまで要素と作品全体の評価は別物であると認識して頂ければ助かります。
④また、自分の目線はどちらかと言えば創作者目線気味で「自分が作者だったらこうするかなぁ……」みたいな事を考えがちな傾向がありますが、だからといって作者へのリスペクトが無いわけではないです。
そもそも自分は創作者というより鑑賞者なので、岡目八目で「ああすれば良いのに」「こうすれば良いのに」と言ったところで自分自身が実際にそれを出来るかどうかと言えば答えはNoです。
あくまで読者としての視点でしかないため、実際に締め切り(納期)通りに同等以上のものを仕上げれるわけではないですし、実際その作品と同じテーマを自分が表現するとしたら、それは作者の出す作品とは全く別物になると思います。
素人や読者の視点というのは独り善がりなものであり、あらゆる創作者には個性があるし個々の事情もある。その全てを重んじ、リスペクトしていきたいと自分は考えています。
【感想本文】
という事で、とりあえず電子版 週刊少年ジャンプの125pより、アスミカケル2話(Round.2 取り柄)の感想をじっくり書いていきます。
最初の2p。例によって獏じいちゃんの稽古相手をする主人公の二兎。即落ち2コマかよってレベルでやられる主人公コマ連続。しかし、デイサービスを利用してる物忘れ気味な祖父の稽古相手というのも……当人たる獏じいちゃんが普通に強いから良いけど、骨とか筋肉を痛めるだろうからと止めるのが一般的ではあるよなという脳内ツッコミが入る。
ただまあ現実問題、脳機能的にこそ要介護認定を受けるレベルだったとしても肉体が未だ頑強な武人だった場合、言うことを下手に聞かないと逆に暴れて怪我人が出そうなので、そういう意味ではライフワークなのであろう武術を続けさせるのは悪いとは言い切れないか?問題は第一話の時点で他害が出てる事なのだが、まあ恐らく正当防衛というか私人逮捕みたいな状態だったのだろうと解釈する。次。
一転、呆けた顔でデイサービスに向かう獏じいちゃんと、介護に興味を示す二兎。そして学校シーンでの前話での不良やジムの話。主人公が基本的に情報でも感情でも何でも抱え込むタイプなのが相変わらずである。次。
ヒロインの大牙さん現る。コロコロ表情とかが変わるので、こういう格闘技系のヒロインとしては異色ながら魅力があるのも不思議だ。逆に言うと人の印象が時々で違うリアルさがあるとも言えるか?まあひとまず、こういうヒロインでも誰でも何かしら才能を見初められる系の話はスポーツ系には割りと見られる傾向なように思う。
自分の知ってる作品で言えば「どがしかでん!」とか「タカヤ -閃武学園激闘伝-」あたりも基本、主人公がヒロインなり師範的な誰かに何かしらの才覚を見初められて別の世界に飛び込んでいく……というストーリーラインが出来てるように思う。Web小説界隈で言う「転生もの」とか「追放もの」的な言い方をするなら、「見初められもの」とでも言うのだろうか?
実際問題、「劣等生だけど実は最強」みたいな作品でもヒロインが主人公を褒めちぎったりするので、ティーンエイジャー向けの作品では異性に何かしら見初められたり惚れられたりというのは、一種のモチベーションとして成立するのだろうと思わなくもない。作品の閲覧継続にも繋がるのだろう。まあ何でもよい。次。
主人公がグラップラーだからといって開幕グラップリング勝負を挑むヒロインって正直どうなん?(正直すぎる感想)
まあ総合格闘技で組技ありきな以上、組技それ自体に抵抗は無いとしても……その、羞恥心とかですね。ちょっと変な人で済ませるな。
主人公が自分のコンプレックス理由に乗らないのは良いのか悪いのか……そして今回も示唆コマで終了。これが連続で来るので意外性とか意表を突く感じが本当に無い。もうここまでくると、この良くも悪くも丁寧に次のページ展開を示唆していくのは作風として以降スルーしていこう……次。
ヒロインが野望を示唆したり無駄なカリスマ性を発揮しつつ、ようやく主人公が「ちょっと変」から「変な人」に認識をシフトする……遅いよ! でも流されてジムまで来る主人公。
こういう「主人公を引っ張っていくタイプのヒロイン」というと、先程に書いた2作品以外では他に思いつくのがライトノベルの「アリソン」(時雨沢恵一/著)とか『涼宮ハルヒシリーズ』(谷川流/著)しかパッと思いつかないが、どれも初出2000代の作品。ヒロインが主人公を引っ張っていく準主人公というか進行役になるのは2000~2010年代の主流なのだろうか?
作者の生まれが1983年と、その年代の創作物に触れる機会が多そうなのを鑑みるに、まあこの当たりの流れを引き継いだ作品を作るのは不自然ではない。だからなのか、今回の作品は火ノ丸相撲のときと違ってヒロインの描写にかなり力を入れている感じはする。
まあ、どちらにせよティーンエイジャー向けの作品は主人公も同年代かつストーリーの軸も成長譚である事が多いため、こういった準主人公的な役割の人物もセットでないと話が進めにくいというのもあるのかもしれない。この場合、主人公の二兎は自らの精神的な弱点に向き合い、克己していく必要がある。まあ流されなくなるのに期待。
次……と言いたいところだが、一旦ここで〆。
※今後の展望……
ひとまず今は無限に思った感想を書き連ねていくだけですが、今後は集英社運営のWeb漫画投稿サイト「ジャンプルーキー!」での編集部バッジに倣って、それぞれの話毎に「画力」「構成力」「ストーリー」「演出力」「キャラ」「オリジナリティー」といった要素や、それに加えて(その話数時点での)総合的な感想・評価などを書いていければ良いなと考えています。
というのも自分は創作者志望なところがあり、色々な作品を細かく評価したり分析する視点を養っていこうと考えているからです。無論、養われたからといって実際に創作物を作っていかなければ実力はつかないので、あくまで客観的に創作を見る訓練という感じですが。
また、感想を書いている作品を文字だけで評価するのも難しいところがありますし、他の創作物から台詞等を引用する際にも同様に、画像を原作なりから引っ張ってこれそうなら出していこうと思っています。その際は「作品名(作者名・話数や副題、ページ数)から引用」といった部分を明確にしていこうとも考えています。
(引用する必然性、自分の文章と引用部分の区別や主従関係の明瞭化、引用物の出所を明示し修正等を加えない事など。著作権法に従った引用をしていきたく存じます)
他にも何かアップグレードできそうなところはしていきますが、まあ無理のない範囲でやっていこうと思います。それではまた明日以降に……!
ある必然性がないよなあとはずーっと思ってる
そのほかの企業情報は企業としての公式サイト参照
集まっていた株主30人程度
会場の外・建物内通路では佐藤氏の主張を記載した文書を配布する人あり(カジュアルな服装の若い人たち)
業績・議決事項説明、質疑、議決、役員紹介のうち、質疑以降をレポートする
きたる10月に管理銘柄の解除に向けて名古屋証券取引所からの審査があり、ここで不合格となれば上場廃止となる
オウケイウェイヴには資金の安定やガバナンスの向上が求められており、今回の議決内容はこの両方を合格水準に持っていくために必要な内容だ
大株主の佐藤氏による訴訟などもあり、総会の少し前にアクセスジャーナル、前日にダイヤモンドと東洋経済からそれぞれ報道があった
『ウルフパックの標的?Q&A投稿サイトの経営騒動 OKウェイヴ経営陣と敵対、謎多い7人の個人株主』東洋経済2023/09/27
https://toyokeizai.net/articles/-/704523
『オウケイウェイヴから「ウルフパック疑惑」をかけられた筆頭株主が猛反論、株主提案なき暗闘【独占インタビュー・前編】』ダイヤモンド2023.9.27
https://diamond.jp/articles/-/329779
『経営再建中の「オウケイウェイヴ」、ウルフパック戦術の標的にされたか!?』アクセスジャーナル2023.9.20
https://access-journal.jp/73748
https://pdf.irpocket.com/C3808/cEro/ZYe0/bMfI.pdf
https://www.okwave.co.jp/ir/news/
質問者用のマイクが中央通路にあり、ナンバーと名前を告げて質問する形式
すべての回答者は杉浦代表だったため省略するが「A〇」という記載が議長である杉浦代表の発言となる
サービス別売上の中にグラティカの利用社数がある。最近件数が増えた。その内訳は、新規と既存の無料ユーザーとどちらなのか?
両方
A2
旧経営陣が集めた過去からの利用者なのか、来期見込めるかということで、新規・過去からの利用者かの内訳を教えてほしい
内訳は回答しない
この答え方についてA氏も不満な様子
70点くらいの回答ではないか
答えに注力するだけでなく、なぜその答えなのかという情報が最初から足されていてほしい
例えば「企業無料を有料に切り替えるためには、その企業に対して相応の働きかけが必要なので、ほぼ新規と同等である」「新規は〇割くらいです」などの答え方があるはず
当初議案にあがっていた社外取締役候補の立川光昭氏が辞退した。彼は仕事ができそうだ。不安だ。説明をしてほしい。
A4
一身上の都合というのは、開示している通り
セールス・マーケティングで力を発揮してもらうこと、助言・けん制機能をはたらかせたいと期待していた
Q4のB氏のリアクション
社外取締役は執行できないのは常識だから、実務にかかわる意向ならよし
立川さんと私のLINEがあるのでこれを今皆さんに配布する。あとでインターネットでも見られるようにする
まず、数日前、杉浦さんは立川さんに呼ばれ、私はオオハラさんに呼ばれたということで間違いないか?
現経営陣で経営状態が良くなったと思えない。立川さんはなんで辞任したのか。
A5
配布をやめてください
Q5
資料ここに置きますから、欲しい人はとっていってください(佐藤氏のアシスタント?が床に置く)
(公開については)はい
訴訟なりなんでもしてくださいということで
立川さんは「間違いない」「佐藤さんは正しい」と言ってくれたし、「辞めざるを得ない」と言った
A5
業績回復してもらわないと困る。取締役に何を期待するか説明してほしい
A7
工藤純平氏 IT会社の執行役員など、動画メディア事業の経験、IT統制に期待したい
山本峰義氏 厳しい状況からここまで多大な法律アドバイスをもらっている。バランス感覚がある。今後も期待。
Q7
ありがとうございます。大変期待します。
本人は関与していない
適任ということで選任した
JC証券というのは、政治家(細野豪志・元大臣・元民主⇒現自民)にお金が流れたことだったと思う
検討結果をどう考えたのか、もう少し具体的に教えてほしい
A10
先ほどの回答の通りです
基本的に質問された場合に追加で出せる情報が用意されていない印象
端的な回答を繰り返すと「答えていない」という風に受け止められる懸念がある
ファンサービスのための場ではないが、消費者としても好感を持っている場合は参加したお得感が少なくなる
ただ開示資料が多く詳しく分かりやすいので、そこまでで力を出し切ってしまっているかもしれない
つまり、最初から出す情報が素直で良い情報になるよう努めている結果、質問された場合の答えが少なくなるのではないか
立川さんが辞める経緯について。不信感がある。
A11
無いって言うと思うけど、今後、レダからの増資予定はありますか?
A12
ないです
Q12
議事録とって!
A12
席に戻ってください
A13
充分に審議はつくしました
議案1を読み上げている間に
A氏がマイクのところへ行き、抗議をする
議長、A氏に退場を求める
佐藤氏退席
A氏話す
A氏「さわらないで」
議長、A氏に繰り返し退場を求める
議案2も読み上げ、拍手
A氏は「拍手少ない」等言いながら、徒歩で退場
杉浦氏より事前のお願い(議決権行使、多大な株主の協力)などについてお礼の言葉
閉会の宣言
取締役の紹介
終了
ただし議長が本人に退場を促し、応じないからといってマイクを切る程度で、基本的には当人が徒歩で退室するまで待つという安全な対応だった
過去(松田時代)には力づくで株主を外に連れ出すようなこともあったので、文化的背景の違いを感じた
筆者は佐藤氏の意向は、DESがレダ社を含まない形で再構成された時点で反映され、ありがたいと考えている
今日の佐藤氏の活動が必然性のあることであれば、もっと周到に準備して臨む必要があったと考える
議決がなされてほっとしている
ここに欠けているのは、人類の進化についての真の理解である。第3章で、G&Wは、人類学の主流派のコンセンサスとされる、現存するアフリカの狩猟採集民-「小さな移動集団」で生活する素朴な民-に私たちの採食祖先をなぞらえたことを批判している。そして第4章で、彼らは考えを変える。人類学の主流派のコンセンサスとは、オーストラリアのアボリジニのような狩猟採集民のことである:
大陸を半周し、まったく異なる言語を話す人々の間を移動しても、キャンプは自国と同じようなトーテムの部族に分かれている。このことが意味するのは、住民の半分は彼らに歓待の義務を負いながらも「兄弟」「姉妹」として扱わなければならず(そのため性的関係は厳禁だった)、もう半分は潜在的な敵であると同時に結婚相手でもあったということだ。
ルイス・ヘンリー・モーガン(1877年)は、いわゆる「分類的」親族関係の発見に基づいて、私たちの学問分野を創設した。その原理は「兄弟の同等性」として要約できる。たとえば2人の兄弟は、その関係性に関して互いに相手の立場に立つ。ある女性は妹に、『あなたの子どもは私のもの、私の子どもはあなたのもの』と言うでしょう。だから、子供に関して『私有財産』という概念はない。家族生活は『核家族』ではない。すべての子どもは、数多くの異なる「母親」や他の支援者である親族の間を自由に行き来することができ、大人になるまでそのような自由を享受し続ける。
人生がこのように構成されるとき、その結果は並外れたものとなる。誰もが、広大な地域に広がるつながりの鎖の中で、形式的には互いに同等に扱われる「兄弟」や「姉妹」からのもてなしを期待できる。この結果のひとつは、国家が成長する土壌を持たないということだ。人々が自主的に組織化され、互いに同盟を結び、育児やセックス、ダンス、家庭生活の喜びがより共同的に経験されるようになれば、国家が入り込んで埋めるべきデッドスペース、つまり社会的空白はなくなる。国家に取って代わることなく国家を廃止することはできず、共同体的な家族生活(今日の世界では、自己組織化された近隣地域やその他のより広いコミュニティ)は、そのためのひとつの方法なのである。
不思議なことに、グレーバーとウェングローはその長い著書の中で、親族関係についてほとんど何も語っていない。グレーバーとウェングローは、モルガン=エンゲルスのパラダイムを批判する代わりに、『家族、私有財産、国家の起源』(エンゲルス1972[1884])におけるエンゲルスのヴィジョンをひっくり返している。彼らの言う「はじめにあったもの」は、私有財産、宗教、そして国家である。第4章の結びの言葉を引用すれば、「私有財産に "起源 "があるとすれば、それは聖なるものの観念と同じくらい古いものであり、おそらく人類そのものと同じくらい古いものであろう」。マーシャル・サーリンズとの共著『王について』(2017年)では、神の王や森の精霊のような想像上の超自然的な存在が常に人々に対して権威を行使してきたのだから、国家の原理は人間の条件の不動の特徴であるとさえグレバーは示唆している。
アナーキストが私有財産と国家の必然性を受け入れるのは逆説的に思えるかもしれない。しかし、『万物の黎明』はそのメッセージに重みを加えている。そう、著者は言う。アナーキスト的な自由は実現可能だが、それは貴重な瞬間や飛び地に限られると。個人的には、すでに燃え尽きようとしている惑星に、どのような「飛び地」があるのか想像するのは難しい。グレーバーとウェングローは、「もうひとつの世界は可能だ」という革命的スローガンを放棄したようだ。代わりに彼らが提示するのは、「階層と平等は、互いに補完しあうものとして、ともに出現する傾向がある」という悲痛なメッセージだけである(p.208)。(p.208)彼らは、どこか別の場所で抑圧を受け入れなければ、ある場所で自由を手に入れることはできないと言っているようだ。
このような批判はあるが、本書の重要な点は、振動を提唱していることである。すべての生物には脈動がある。生きては死に、目覚め、眠り、息を吸っては吐き、季節の移り変わりや、私たちの生命に優しい地球・太陽・月の軌道系のその他多くの周期性によって動かされているのだ。
私たちは、物理的にだけでなく、社会的にも政治的にも、惑星地球をもう一度回転させる必要がある。これは、人々に配慮と支配や統制を混同するなと言うことでできることではない。それは、学校のストライキを支援し、そのピケラインで歌い、職場まで行動を広げ、通りで踊り、交通を遮断し、資本主義を完全に停止させることによってなされるのだ。
しかし、いったん主導権を握ったら、次はどうするのか?ストライキが長引けば、すぐに飢餓に陥る。だから、揺り動かそう。例えば、週1回の学校ストライキをもっと長くし、月に1回実施し、賃金奴隷から全人類を解放するまで世界中に広げよう。炭素排出量は即座に50%削減される。それから仕事に戻り、必要に応じて再編成する。資本主義に逆戻りしないと確信できて初めて、仕事に戻るリスクを冒すことができる。そして、次の新月には子どもたちとともにピケラインに戻ると誓い合って初めて、それを確信できるのだ。世界が再び揺れ動き、息を吹き返すまで、私たちは権力を奪い、それを放棄し続けるのだ。未来を取り戻そう。家父長制でも母系制でもなく、月による支配のようなものを。
それは、最初の人類革命の階級とジェンダーの力学を、今度はより高い次元で繰り返すことだ。このようなことは可能なのだろうか?みんなに議論を開いて、何ができるか見てみよう。それはきっと、活動家であり人類学者であるデイヴィッド・グレーバーが望んだことだろう。
急進的な著者の本が主流紙で書評されることは、ましてや好意的に評価されることは滅多にない。デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングローによる『万物の黎明』は例外である。わずか2ヶ月前に出版されたこの本は、すでに世界で最も影響力のある英字新聞や雑誌の多くから賞賛を受けている。
著者のアナーキズムの主張に疑問を呈する書評家でさえ、「3万年にわたる変化に関する岩盤の前提を覆す見事な新説」(アトランティック誌)、「多くの大陸と数千年にわたる文明に関するめくるめく物語の数々、そのすべてが自由であることの意味に取り組んでいる」(ワシントン・ポスト紙)と称賛している。また、ソーシャルメディア上の左翼的な投稿者たちからも、好意的なコメント-場合によっては絶賛!-が寄せられている。
しかし、以下に掲載する2つの書評は、いずれも唯物論的人類学者によるもので、この本の人類史に関する記述は、大量の反対証拠を無視しており、その政治的主張は観念論的で自発主義的であると論じている。どちらの書評も特に、女性抑圧の原因を考察していないことに批判的である。
クリス・ナイトはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの人類学上級研究員で、アフリカにおける人類の起源を研究するチームの一員である。著書に『Blood Relations(血のつながり)』など:Menstruation and the Origins of Culture』、『Decoding Chomsky: Science and Revolutionary Politics』などがある。The Dawn of Everything』の書評はTimes Higher Educationに掲載された。
ナンシー・リンディスファーンとジョナサン・ニールはともに人類学者として訓練を受け、人類の進化、階級社会、性的暴力についての本を執筆中。ナンシーの近著は、リチャード・タッパーとの共著で『Afghan Village Voices』(アフガニスタンの村の声):Stories from a Tribal Community, 2020』である。ジョナサンの近著は『Fight the Fire: Green New Deals and Global Climate Jobs』。The Dawn of Everything』の書評はエコロジスト誌とブログ『Anne Bonny Pirate』に掲載された。
本書は楽しく、有益で、時には爽快である。また、根本的なところで支離滅裂で間違っている。ヨーロッパに洞窟壁画が現れ始めた頃からの、比較的最近の先史時代について学びたいのであれば、必読の書である。しかし、人類が最初に笑い、歌い、話し、芸術、儀式、政治を創造し始めたのはなぜなのか、どうしてなのかを知りたければ、きっと失望するだろう。
この本のタイトルは深刻な誤解を招く。『万物の黎明』? 『お茶の時間』の方が正確だろう。ホモ・サピエンスがヨーロッパに到着する何万年も前にアフリカで始まった文化の開花を体系的に横取りし、この物語はあまりにも遅く始まる。
欠点はあるが、この本は広報の勝利である。フリードリヒ・エンゲルスが『家族、私有財産、国家の起源』を出版して以来、左翼知識人や活動家が人類の社会的起源や先史時代の過去について学ぶことにこれほど興奮したことはない。
短い書評では、本書の幅の広さと博識を伝えることはできない。その核となる政治的メッセージは露骨だ。平等主義の狩猟採集民が生活の中で共産主義を実践したというエンゲルスの話は神話である。『万物の黎明』はエンゲルスを見事にひっくり返している。第4章の結びの言葉を引用すれば、「私有財産に "起源 "があるとすれば、それは聖なるものの考え方と同じくらい古いものであり、おそらく人類そのものと同じくらい古いものであろう」。デヴィッド・グレーバーは、マーシャル・サーリンズとの共著『王について』の中で、神の王や森の精霊のような想像上の超自然的な存在が常に人々に対して権威を行使してきたことから、国家権力の原理は人間の条件の不動の特徴であると主張している。
よりによってアナーキストが国家の必然性を受け入れるのは逆説的に思えるかもしれない。しかし、本書はそのメッセージに重みを与えている。そう、著者は言う。アナーキスト的な自由は実現可能だが、それは貴重な瞬間や飛び地に限られると。もうひとつの世界は可能である」という革命的スローガンはもうたくさんだ。その代わりに、グレイバーとデイヴィッド・ウェングローは、「階層と平等は、互いに補完し合うものとして、共に出現する傾向がある」と主張している。ある場所で自由を手に入れるには、別の場所での抑圧を受け入れるしかない、と彼らは言っているようだ。
著者たちはダーウィンの自然淘汰理論に違和感を抱いており、現代の進化論を「社会進化論」と混同している。現代の進化論は科学的であると主張するが、実際は純粋な神話である。グレイバーとウェングローは、進化論をまったく認めない人類の起源についての視点を、読者が真剣に検討することを期待しているのだ。
彼らが認める唯一の科学は応用科学であり、この場合は「考古学的科学」である。彼らは、政治や社会生活については、古代の人類の「頭蓋の遺骨と時折出てくる火打石のかけら」からは何も読み取れないと主張することで、「万物の黎明」の年代をわずか4万年前とすることを正当化している。この言い訳は、人類の最もユニークな特徴である芸術や象徴文化が、これまで考えられていたよりも3、4倍早くアフリカで生まれたという、説得力のある最近の証拠に照らすと、弱々しく見える。その証拠とは、骨や石だけでなく、ビーズ、幾何学的な彫刻、埋葬品、砥石や絵の具壺などの工芸品である。
彼らが "フェミニスト "と呼ぶ人物(実際には進化人類学の第一人者サラ・ハーディ)が、現代人の本能と心理を形成する上で集団的育児が重要な役割を果たしたことについて興味深いことを言っていることは、グレーバーとウェングローも認めている。しかし彼らは、「エデンの園は存在せず、一人のイヴも存在しなかったのだから、そのような洞察は部分的なものにしかなりえない」とコメントしている。この種のトリック--この場合は、ハーディの研究が "アフリカのイブ "の年代測定より200万年前にホモ属が出現したことに焦点を当てているという事実を無視すること--は、明らかに人類の起源研究が追求する価値があるという考えそのものを損なわせることを目的としている。
グレーバーとウェングローは、初期の平等主義を "有害な神話 "として否定する一方で、狩猟採集民の多くが "自称自慢屋やいじめっ子を地上に引きずりおろすために、嘲笑、羞恥心、敬遠など、他の霊長類には見られない戦術を総動員している "ことには同意している。ではなぜ彼らは、私たちの人間性を規定する本能や能力が平等主義的な生き方によって形成されたという考えに敵対するのだろうか?
私たちは皆、社会的・政治的に対等な人々と笑い、歌い、遊び、交わることができるとき、最も幸福を感じる。しかし、グレイバーとウェングローは、この事実を土台にする代わりに、狩猟採集民の祖先も同様に、攻撃的な男性による嫌がらせや虐待、支配を選んだかもしれないと言っているようだ。進化人類学者クリストファー・ボームが描く、反権威主義的抵抗の中で形成された道徳意識の高い社会に対する反論をまとめると、狩猟採集民の祖先は一貫して平等主義を好んでいたという彼の考えを、彼らは「初期の人類をさりげなくエデンの園に投げ返している」と表現している。
グレーバーとウェングローの基本的な論点は、政治的選択の自由に関するものである。彼らの考えを説明するために、人類学の古典であるエスキモーの伝統的な生活の説明を思い起こさせる。アザラシを狩る彼らは、夏の間は家父長制的な家族構成を確立し、冬の間は共同生活(夫と妻を含むすべてを共有する)に戻るだけである。私たち人類は、その本性上、大胆な社会実験に駆り立てられるのだと著者は結論づける。その結果、奴隷制度や人身御供、大量殺戮といった極端なヒエラルキーが形成され、破滅的な結果を招くこともある。しかし、遠い過去の良い点は、少なくとも現代のようにひとつのシステムに縛られることはなかったということだ。
この歴史は対立と交替に満ちているが、その周期性はエスキモーの周期性に倣ったもので、一方的な季節性である。グレイバーとウェングローは、ほとんどの狩猟採集民が季節だけでなく月の周期にも従っていることを知らないのだろうか。月経の満ち欠けと結びついた女性の儀式は、基本的に月によって予定されている。
著者たちが問いかける重要な問いは、"なぜ不平等になったのか?"ではなく、"なぜ行き詰まったのか?"である。彼らは自らの問いに答えられるところまで来ているだけに、そこにたどり着けないことに深い苛立ちを覚える。自らに課したハンディキャップのひとつは、女性人類学者による狩猟採集民の研究を見落としがちなことだ。例えば、適切な参照もなしに、彼らはモーナ・フィネガンの共産主義の概念に触れている。彼女は、コンゴの熱帯雨林に住む女性たちが、男性たちが筋肉質な勇気と優位性を発揮する可能性を示すよう意図的に促していることを記録している--男女間の「力の振り子」で優雅に降伏する前に、「ンゴク」と呼ばれる女性だけの儀式で男性たちをあざ笑い、反抗するのだ。しかし、グレイバーとウェングローは、この政治的知性の表現を認める代わりに、ここでの成果やパターンを見出すことなく、それに言及している。
なぜ私たちは行き詰まったのか?正しい答えは、人類が農耕に依存するようになり、太陽暦が月暦の儀式よりも執拗に優先されるようになったからだ。私が最もよく知る先住民、タンザニアのハザ族の弓矢猟師たちは、今でも彼らの最も重要な宗教儀式であるエペメを、新月前後の最も暗い夜に毎月行っている。
太陽と月の中間的な存在であり、世界中でたどり着いた無数の妥協案のひとつが、中世ヨーロッパで毎年行われていたカーニバルの伝統である。庶民が今でも大切にしている伝統は、家父長制の秩序を逆転させるこのライセンスだった。
残念なことに、この「新しい人類史」は、その始まりがあまりにも遅く、アフリカが物語から切り離されているため、女性の抑圧とマンネリ化した現在の苦境との因果関係を説明することができない。
グレーバーとウェングローの新著は、エネルギッシュで、献身的で、万華鏡のようだが、欠点もある。これは私たちに問題を提起している。
デヴィッド・グレーバーはわずか1年前に若くして亡くなった。彼の代表作である『Debt』は、部分的には思わせぶりかもしれないが、その野心は当時としては刺激的だった。活動家として、またオキュパイ運動や社会正義運動のリーダーとしてのデイヴィッド・グレーバーの活動は異例であり、模範的であった。LSEの人類学部門の同僚たちからの彼への尊敬と愛情は、そのことを物語っている。そして、彼の心は常に虐げられた人々とともにあった。
しかし、グレバーが善人であり、つい最近この世を去ったばかりであったからこそ、多くの人々にとって『万物の黎明』が、今後長い間、不平等の起源に関する理解の枠組みとなってしまう危険性がある。
本書の裏表紙には、レベッカ・ソルニット、パンカジ・ミシュラ、ノーム・チョムスキー、ロビン・D・G・ケリーといった、著名で立派な思想家たちからの賞賛の言葉が掲載されている。ケリーはその代表的な例として、「グレーバーとウェングローは、私がこれまで世界の歴史について考えてきたことを、事実上すべて覆した。この30年間で読んだ本の中で最も深遠でエキサイティングな本だ」。
この本は最近、マスコミでかなり注目されているが、このような賞賛が一般的な見方になったら残念である。
人類の進化と歴史における不平等の起源という問題は、私たちがどのように世界を変えようとするかという点で、非常に重要である。しかし、グレイバーとウェングローは平等や階級に目を向けることなく変化を求め、環境や生態系の説明を敵視している。これらの欠点は保守的な意味合いを持つ。
では、ここから。これは膨大な本の、乱暴で部分的な書評である。私たちは、グレバーが知的な議論の切り口を愛し、得意としていたという知識で自分自身を慰める。
この本の最後の段落、525-526ページで、グレーバーとウェングローは自分たちの立場を明確に示している。彼らはこう書いている、
例えば、他のあらゆる点で厳密な研究が、人間社会には何らかの「原型」があり、その性質は基本的に善か悪かであり、不平等や政治的意識が存在する以前の時代があり、このすべてを変えるために何かが起こり、「文明」と「複雑さ」は常に人間の自由と引き換えにもたらされ、参加型民主主義は小集団では自然であるが、都市や国家のようなものまでスケールアップする可能性はない、という未検証の仮定から始まる場合。
つまり、神話を打ち砕く者たちは、人間社会の原型は存在しないこと、不平等や政治的意識が生まれる前の時代は存在しないこと、事態を変えるようなことは何も起こらなかったこと、文明や複雑さが人間の自由を制限することはないこと、参加型民主主義は都市や国家の一部として実践可能であることなど、正反対のことを言っているのだ。
このような断定的な声明は、非常に大胆に述べられ、新しい人類史を書いたという彼らの主張を魅力的なものにしている。しかし、2つのつまずきがある。
第一に、彼らの主張そのものが、彼ら自身の政治的プロジェクトと対立している。第二に、証拠が彼らが言おうとしていることにそぐわない。
さんざん言われてた通り、前作に比べるとメインはいまいちだったなあ
adoのおまえらのせーだーってしゃがれ声でうたうテーマソングも不快だし
マンガの怨み屋本舗をちょっと壮大にしてみましたてきな感じだった山本耕史は
キムタクの捜査はいきあたりばったりだし、澤先生にあそこまで入れ込む理由/必然性も薄いし
キムタク自体の問題は前作で全部解決しちゃってるから、キムタクを絡ませるために苦労してる感じはした
玉木宏はローグギャラ駆使―で下手だったって印象強かったけど、さすがにキャリア20年詰んだらうまくなってたわ
途中のナベさんが一番強かった
ps5の恩恵でタクシーのファストトラベルがロードほぼ無しだったのが快適だった
楠本のおばちゃんが会社の掃除のおばちゃんそっくりでめっちゃ萎えた
サブはいろいろあるらしいけど全然やる気にならなかったからほぼやらなかった(タイムカプセルと人体模型だけやった
ダンス部は龍が如くの遥のダンスシナリオを想像してたらこっちのほうがくそむずくてやる気にならなかった
探偵クラブもダンス部すすめんと先見れないらしかったからめんどくてノータッチ
リアルすぎて調べるべきポイントとそうでない部分の差がなくて、調べられるポイントが全然わからんから
ステルスゲー部分は作業ゲーになっててもうこれいらんだろというレベル
東が相変わらずあざとくてかわいかった
なんかカイトウさんの顔が濃くなってる気がした
ps5のせい?それとも続編でなんかゲームエンジン変わったんかね
とりあえず気になってたのがゲームカタログでプレイできたからよかったわ
値下がりもしないしねー
次はスターオーシャン2やる予定
あーでも三国無双8もやりてーんだよな
無双の方が時間かかんないだろうし、一人クリアくらいまでやるかな
くすもとの息子は羽生結弦だったな
1 マイトとAFOの最終決戦をやってる ←これは分かる
2 マイトはスーパーマンスーツじゃなくてバットマンスーツで戦ってる ←これも分かる
3 バットマンオールマイトは1年A組の個性(をモチーフにした機能?)を使える ←??????????????????????????
マイトが戦ってる場面なのにいきなりウンチビームに関する回想が始まる所とか完全に理解不能。
デク意外とそこまで繋がり深くないやろと思ってしまう。
そこは青山が直接ウンチモリモリ漏らしながらビームで薙ぎ払ってから「用済みの駒が逆らうなよ」とぶん殴られながらいい顔で吹っ飛んでいくとかで回収しようや。
なんでオールマイトが背負ってるんだ?
まあ作劇的なアレコレは置いといて、そもそもの話、コレなに?
アーマードオールマイト開発秘話みたいのって既に作中にばら撒かれている設定なんだっけ?
今週も休載なのか~~と俺が間違って読み飛ばしてしまった回になんか大事な話があったん?
それとも劇場版とかで既に語られている話?
「オールマイトスーパーマンスーツ開発秘話」みたいなのは確か読んだ気がするけど、このバットマンスーツの開発話は見たことがない、はず。
なんで1年生の技借りてるんだよ。
マイトがいきなりクラスメートの技を連発するのは展開が唐突すぎてノレない。
歴代継承者の能力を使用するなら「ありがとうデクくん!僕は1人で戦おうとしすぎていたと気付かされた!最後の戦いになって今更だが、皆、助けてくれるかい?」みたいに自然な流れになるっしょや。
なんか不自然なんだよな。
突然現れたメカオールマイトが特定のクラスに偏ったコピー個性で戦うって展開が。
誰か教えてくれ―。
俺は何を見落としたんだ―。