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はてなキーワード: 止揚とは

2021-05-04

anond:20210504101228

党派性を越えて対立止揚する意見なので、フェミニズムを支持する人の間でも賛否が別れると思います

「どう扱ってよいか、どういう態度をとるのが正解かわからない」

意見ほど、バズりにくく、真理に近いと思います

2021-04-14

anond:20210414001604

最近しばらく考えていた事を話すきっかけになる増田ありがとう

俺が考えていたのは、しいて名前をつけるとしたらニューバランス教。

靴のメーカーですでにあるが、それしか言いようがないから仕方ない。

ニューバランス教の信仰対象バランスという概念です。

物事はどこかに振れると必ず触れ戻しが生じますバランスを取ろうとします。

例えば人口が増え過ぎた場合パンデミックや大規模な戦争が起きて人口が減る方へ触れ戻しが発生します。

二酸化炭素が増えて地球温度が上がれば植物が増えて二酸化炭素が減るフェーズに戻ります

ニューバランス教としては、それらマクロバランスを受け入れ、自分の中のミクロバランス感覚を養う事がその中心教義となります

人と人とのコミュニケーションに落とし込めば、それは中庸の追求となります中庸は人ひとりで完結せず、止揚の中にしか存在せぬものとして、互いを尊重する、という教徒生活指針が、現代社会にも十分受け入れられる余地があるものと思ってます

ということで、よろしくねがいしま

anond:20210414001604

最近しばらく考えていた事を話すきっかけになる増田ありがとう

俺が考えていたのは、しいて名前をつけるとしたらニューバランス教。

靴のメーカーですでにあるが、それしか言いようがないから仕方ない。

ニューバランス教の信仰対象バランスという概念です。

物事はどこかに振れると必ず触れ戻しが生じますバランスを取ろうとします。

例えば人口が増え過ぎた場合パンデミックや大規模な戦争が起きて人口が減る方へ触れ戻しが発生します。

二酸化炭素が増えて地球温度が上がれば植物が増えて二酸化炭素が減るフェーズに戻ります

ニューバランス教としては、それらマクロバランスを受け入れ、自分の中のミクロバランス感覚を養う事がその中心教義となります

人と人とのコミュニケーションに落とし込めば、それは中庸の追求となります中庸は人ひとりで完結せず、止揚の中にしか存在せぬものとして、互いを尊重する、という教徒生活指針が、現代社会にも十分受け入れられる余地があるものと思ってます

ということで、よろしくねがいしま

2021-01-16

anond:20210116125858

人間組織歴史も退化することがある、という前提で思想止揚すればいい

2021-01-10

大木隆生氏の「大木提言(ver3)」に誰も反論してない問題

私は新型コロナについての情報を見るにあたっては、

のどれかでなければ話半分未満で聞くようにしている。

数日前に見つけた大木隆生氏の「大木提言(ver3)」は、その基準からすれば傾聴に値しそうだ。

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=3859177164173859&id=100002448400114

https://jikeisurgery.jp/wp-content/uploads/2021/01/COVID-19ver.3.pdf

(どちらのリンクも同内容)

大木隆生氏は、慈恵医大外科統括責任者・対コロナ院長特別補佐。ベストドクター in NYhttps://nymag.com/bestdoctors/ これ?)に4年連続で選出されているらしい。専門は感染症ではないけど、十分な実績と信任を持つ現場の人と言っていいだろう。

大木提言Facebookでは現時点で2000件以上シェアされており、Twitterでも検索すると多くの人が反応している。反応は「私の実感と一致します!勇気が出ました!」「コロナ脳に読ませたい」と異口同音に絶賛だ。医療関係者も「理路整然とした重要意見。さすが大木先生」といった口調で褒めそやしている。

でも僭越ながら、私はこの提言には論拠の弱さ・論理の飛躍を多く感じた。なのにそういう反対意見SNS上には見当たらなかったので不安になっている。誰もやらないなら私がツッコみます。というわけで慣れない増田を書いてますよろしく

大木提言かいつまめば「1. 感染者数が増えても実害はない」「2. 医療崩壊は起こらない」よって緊急事態宣言意味がないので基本的感染対策のみを行いながら経済を回せ、と言っている。この1,2について私の違和感を述べます

1. 感染者数が増えても実害はない

何故そういえるのかというと、要は欧米と違って日本人にとってはコロナは死亡に繋がらず怖くないからだそうだ。ファクターXってやつですね。それがあるので、欧米経験政策WHO見解日本の参考にはならないとのこと。

新型コロナ欧米においては恐ろしい感染症であるが、様々な理由から日本人にとっては季節性インフルエンザ程度の病気位置づけられる。

それは日本での人口当たりの感染者数も死者数も欧米の約50~100分の一である事やオーバーシュートが一度も起こらなかった事など、過去1年間の経験データをみれば明白。

明白…? そのファクターXが何なのか、そもそもそんなもの存在するのかすら、結論って得られてたんでしたっけ?

大木氏が曖昧に言っている「様々な理由」つまりファクターXの内訳とは具体的には何なのか。調べてみると、2020/5版の提言記述が見つかった。

http://www.japanendovascular.com/covid-19_proposal_Ohki.pdf (P10-11)

この時点では大木氏は、日本人コロナに強い理由の仮説として

BCG接種

②2020/1-2にステルスオーバーシュートが起こり集団免疫が獲得された

を挙げている。

しかし①はこれまでの研究から棄却されているし(と思ってるけど違ったらごめん)、②は第2波・第3波の到来の事実を踏まえると非常に疑わしい。8ヶ月経って情報は大きく増えたが、他に「明白」といえるような根拠が見つかったのだろうか? 私はそういう根拠を知らないし、少なくとも「明白」の一言で済まされるような簡単ものじゃないと思う。そして、日本人特別だという根拠が薄弱なのであれば、世界各国の現状・対策からの学びをあえて捨て去るのはリスキーすぎだと思うんだけど、ベストドクター的には違うんだろうか?

ちなみに大木氏、

上記裏付け事実として日本における2020年の死因別ランキング示唆である2019年の死因ランキング2020年の新型コロナによる死亡者数を挿入すると、新型コロナは第36位(11月末時点)。一方、季節性インフルエンザ2019年31位(図2)。さらに、同様の手法世界米国の死亡原因ランキング作成するといずれも新型コロナは死因第3位にランクインしており、日本人いかに新型コロナ抵抗性を有しているか如実に物語っている(文献4,5)

と言ってるんだけど、

の死者数比較根拠にするのはガバすぎでは…!? さすがにこれは読んだ人の半分くらいはツッコめる部分だと思うんだけど、この感覚おかし!?

2. 医療崩壊は起こらない

要は「欧米英国米国)でも医療崩壊は起きていない。それより数十分の一の規模の日本医療崩壊なんてありえない」という話をしている。

でも「欧米医療崩壊が起こっていない」というのは事実として正しいのか?

医療崩壊の定義は当該診療科医師疲弊しているか否か、すべての患者タイムリー病院受診できるか否かではなく、救える命が救えなくなったか否か

大木氏は書いているので、その定義では少なくとも欧米については医療崩壊は「起きている」という結論になりそうなものだけど。

たとえば各国の状況を検証しているTwitterのツリーこちら。

https://twitter.com/mph_for_doctors/status/1347047822034685952

まあ欧米の状況は置いといて、日本医療崩壊が起きているか?を問われたら、これは正直なところ私にはわからない。毎日医療崩壊のニュースが飛び込んできてるので感覚的にはヤバいと思ってるけど、実際は声の大きい現場の声ばかり聞いてて認識が狂ってるのかもしれないね数字で語れるのは先の話なので保留したい。

大木氏によると、医療リソースを余計に食い潰している原因は第二類感染症指定であり、それを五類に変えると改善するそうだ。これについてもそうかもしれないし、そうでないかもしれない。対立意見としては、高山義浩氏の「自治体によって柔軟に対応カスタマイズできるので2類相当でも問題ない」という話がある。

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=3509866199066862&id=100001305489071

どちらにせよ門外漢なので、慈恵医大の対コロナ院長特別補佐に「医療崩壊は起こってない」と言われたら「ああそうなんですね」と黙るしかないんだけど…でもそもそも論点が違うと思うんだよな。コロナ対策における医療崩壊の危険性について論じるべき点は「現状リソースが足りているか」じゃなく「いずれ感染が広がったときリソースを維持できるか」ではないんでしょうか?

新型コロナ感染者数は指数関数的に増大する。しか医療リソースはそうではない。だから実効再生産数を1未満に抑えないかぎりいずれリソース破綻する。そして重症者・死亡者は3週間の遅行指標であり、その数字が出た時点ではもう手遅れになっている。

新型コロナとの戦いはそういう戦いだというのがすべての前提だと思ってるので、その観点に触れずに大丈夫と言われても全然納得できない。3週間後に何がきっかけで爆発してるかわからない以上、予兆が見えた時点で厳しい対策必要だと思ってるし、大木提言はそこには何も答えられてないと私は思う。

(なお緊急事態宣言が「厳しい対策」として機能するかは別の問題です)

最後

私が一番問題だと思ってるのは、こういう非賛同者の反論ネットじゅう探しても全然見当たらないということ。

「ヤバすぎ派」「騒ぎすぎ派」の対立みたいな記事が先日話題になったけど、もしかしてこの大木提言も「騒ぎすぎ派」が支持して内々で話題にしてるだけで、「ヤバすぎ派」にはガン無視されており視野にも入っていないんじゃないか。実際ブクマ全然ついてないし。

「ヤバすぎ派」「騒ぎすぎ派」の分断の問題は、それぞれの議論の前提自体が異なっていることだ。お互いの前提を共有して「この点は共有できるよね」「ここが意見の分かれ目だね」と止揚できればいいんだけど、お互いに殻にこもってしまうから議論が深まらない。結果、「コロナ脳」「正常性バイアス」とお互いを揶揄することしかできない。それは健全じゃないと思う。私はみんなが共通認識を持てる議論の土台をなるべく増やしたいし、そのためにはオピニオンリーダーには闊達議論してほしい。

宮沢孝幸とか中野貴志みたいな明らかに専門外の連中ならただ単純に無視すればいいんだけど、大木提言はそれとは質が違う。何も情報がない状態で「この増田大木先生をどっちを信用するか」と言われたら、私だったら実績ある大木先生を信用しちゃうよ。だからもっとちゃんとした専門家大木提言への反応をしてほしいと強く思う。

2020-11-02

努力矛盾である

 努力をする、という行為そもそも矛盾であって、人間努力をしないようにできている。更に言えば、人間努力をしてはいけないという命令を脳から受けつつ生きる。

 というのは、努力をする、という行為必要な時点で、それは努力するべき価値のない物事からである。夢中は努力に勝る、という言葉があるように、本来成功する努力とは無意識的なものである。つまり、「努力しなきゃ」という客観的観点と、有意義効果的な努力は不協和なのであって、「努力しなきゃ」とか意識してる時点で、貴方はその物事に向いていないし、もっと言うと、その物事に関して努力をしたところで極めて期待値が低く、恐らくコスト努力)に比してあまりにも小さなリターンしか手に入らないか、あるいは全くリターンが手に入らないか、最悪、リターンどころか自身マイナスしかならないということなである

 脳はそのことを知っているので、そもそも客観的に見て「努力必要」と感じた時点で自分の体にブレーキを掛ける。「努力必要期待値が低くあんまりやらない方がいいこと」なのである(それが我々人類におけるこれまでの生存戦略だったのだ)。本当に向いていることは「努力しなきゃ」とか考えるまでもなく体が動くし、特に意識なく精進していけるものであって、要は才能がない人間努力無駄どころかその人間の心身を蝕むことになるという厳然たる事実を脳は知っているのである。だからこそ脳は人の体にブレーキを掛ける。「やめとけ」と。だから、人は努力ができないのが普通なのだ。

 例えば、もし原始時代において、あんまり期待値が高いわけでもない試行を繰り返す個体努力をする個体)がいたら、周りの人は彼にこう告げるであろう。「お前そんなことしてないでもっと向いてることやれよ、コミュニティを存続させるために重要なこともっとあるだろ、あるいはそういうのはもっと向いてる奴に任せとけよ。コミュニティが存続しねえとお前も生きていけないんだから、お前がやるべきことは他にもあるってことくらい分かるじゃねえか」と。はい。明らかにこのような忠告は正しいし、正鵠を射ている。そういうわけで、「努力をしない」あるいは「努力と感じられるような努力はしない」が人間生存戦略となっているのである。これは極めて合理的なことで、人間は要するに努力できないように作られているのであるし、努力という行為人間生存戦略上の矛盾なのである


 とは言え、原始時代はともかくとしても現代においては、一人の人間期待値の低い努力をしていたところでコミュニティの存続には特に関係がないので、そういう「努力」が許容されるようになっている。しかしながら、「努力」と認識し「努力しなきゃ」と思っている時点で人間生存戦略矛盾していることには代わりない。脳は、そのような努力をしている人間に対して、絶えず命令を送り続ける。「やめとけ」「向いてねえぞそれ」「多分ほかのことやった方がいいと思うぞ」などなど。

 繰り返すが、そのため人間は脳の影響によって「努力」というものができない(やりにくい)のである

 才能のあるやつにはそういうことがない。あるいは、あったとしてもごく少ない。脳は才能あるやつにこう告げる。「その調子だぞ」「向いてるぞ、それ」「その研鑽期待値高えからそのまま続けろ」などなど。というわけでこの文章は才能のあるやつには向けられていない。才能のあるやつにおいて努力努力じゃねえので生存戦略において矛盾はない。彼はそれを殆ど無意識に行い続ける。多分ドーパミンとかそういうのも結構出るので、むしろ努力をやめることができなくなる。

 とにかく「努力しなきゃ」と考える時点で貴方は凡人である。脳としては「やめとけって……」の無限打診を続けるしかない。とは言え、そういう負のスパイラルに没入しても、原始時代においてはそういう期待値の低い試行をし続ける人間は下手するとぶっ殺されちゃうんだけれど、現代においてはぶっ殺されずにそのまま負のスパイラルを続けることができる。この文章は、そんな負のスパイラルを続ける人間に向けて書かれている。


 俺は凡人である。つまり努力をしている人間である期待値の低い試行を繰り返している人間である

 というわけで基本的には努力とかせずほかの事柄リソースを割いた方が明らかにマシなんだけれど、そういう合理的判断能力はとっくの昔に欠落している。

 さて、そのような凡人にとって、基本的努力というもの期待値が低く、努力なんてことはせず別の行動をした方が絶対いいんだけれど――アンチテーゼを敢えて唱えるならば、「凡人にも最高効率努力がある」というテーゼがそれに当たる。

 凡人――最も努力費用対効果コストパフォーマンス)が低い人間にも、その人間にとって費用対効果の高い努力というもの存在する。それは事実である。「努力矛盾である」という原初的命題テーゼ)を止揚アウフヘーベン)するために、このアンチテーゼを用いる。これによってジンテーゼを生じさせる。

制限された状態から効率の最大化を求める行為矛盾ではない」。

 これがジンテーゼだ。

 努力をしなければいけない人間は、能力制限限界リミット)のある人間である。よって、そのような人間の行う努力基本的効率が良くなく、あまり価値がない。これまでその事実を俺は言い続けてきた。とは言え、全く制限のない人間というもの存在しているかと言えば、それは誤りである。例えばチェス世界における現人類最強の人間ノルウェー出身のマグヌス・カールセンであるが、彼に比べれば、全ての人間相対的チェス能力制限を受けていると言ってもいい。もっと言えば、チェスコンピューターには流石に敗北を喫するであろうカールセンにしたところで、能力には制限が設けられている。つまり人間には万民において制限が、限界が、リミット存在している。

 となれば、基本的に我々の取るべき生存戦略は次のことになる。「制限のある上でいか効率よく振る舞うかを追求する」ということである。ここにおいては、次のテーゼも成り立つ。「制限の多い状況においてある行為可能ならば、制限の少ない状況においては尚更その行為可能であるし、制限の多い状態に比べればよりコストパフォーマンスも高くなる」というテーゼである。これは、ドラゴンボールにおける悟空重力トレーニング想像してもらいたい。重力が高い状態である程度のパフォーマンスが発揮できるならば、適正な重力下においては更に多くのパフォーマンスが発揮できるであろうということだ。

 そう、この場合の「重力」という比喩は、我々における一種制限、つまり「才能の無さ」と対応している。我々は、悟空重力において制限を受けるように、常に「才能の無さ」という重力に晒されている。そこにおいて我々は、常に脳から「やめた方が良いぜ」という圧力、その行動に対する一種重力を受け続けているのである。これは、寧ろ努力する人間に限らず、ほぼ全ての人間が常に晒されている恒常圧でさえあると言えるかもしれない。

 そう、人間は、基本的に、何らかの重力に晒されている。だからこそ、その強い圧力下において、強い重力下において行動することに慣れなければならないのである。そう、つまり、我々は努力をするべきなのだ。そうすることによって、重力の低い事柄、例えば自身における「向いている」事柄において、更にパフォーマンスを発揮できる可能性が高まるである

 ここから得られる結論としては、必ずしもある努力は、その努力している対象(例えばスポーツとかチェスとかその他の競技とか)そのものに対する努力ではないということだ。それは、重力それ自体に対して慣れるという努力なのである重力をある程度克服するという努力なのである。そう、努力対象を、自身の受けている恒常圧であるところの重力へと転換させること、そのことによって我々は初めて努力意味を見出すことができるのである。あるいは、重力のものを、つまりは才能のなさそのものを克服することによって、本来才能のない向いていない出来事に対しても、これまで以上のパフォーマンス発揮することも、決して夢ではないのである


 テキストとしては以上なのだが、些か抽象的な記述になってしまったので、具体的なアドバイスを一つだけ書いて終わりにしたい。

 人は脳によって恒常圧、重力を受けている。なので上手く受け流して重力を克服するしか、我々才なき者には道はない。


簡単にできることをする

 誰もが言っていることだが、難しいトレーニングをすることは脳の負担を増大させる。脳から重力を増大させる。なので、簡単なことからしなければならない。

 例えば、「あいうえお」と記述することは誰にだってできる。文章練習をしたいのであれば、毎日必ず「あいうえお」と書くことだ。そういうことから始めよう。

 毎日あいうえお、と書いていると、殆ど人間は次のように思う。「『あいうえお簡単すぎるわ」と。「何かもっと難しそうなことできるわ」と。ここにおいて、脳の恒常圧はやや薄れることになる。

 そうなったならば、相対的に難しいけれど比較簡単なことをすればよい。例えば、「あいうえお」だけでなく、「かきくけこ」から後を書くとか。あるいは、俺が実際に行ったトレーニングは、まずここに書いてある通り五十音を書き写すといったものであった。その後、脳の恒常圧がやや薄れたのを確認して、次のステップに移ったのだけれど、それは、昔暗記したとある小説のページをひたすら書き写すというものであった。自分の好きな小説のページを、同じページを書き写すのである。とにかく、物事簡単なことから始めるのが大切だ。誰にでもできることから始めるのが、一番脳の恒常圧、重力を騙すにはうってつけなのである

 簡単なことから始めよう。しかもそれを毎日続けよう。

 そうすることでしか我々は重力を騙せない。後は、毎日最低限栄養のある飯を食べて、ちゃんと寝て、人と会話をしよう。そんくらいである。

 才なき人々は、脳を騙して、重力を克服しよう。

 すると矛盾は消える。

2020-08-31

anond:20200830111054

なんでもかんでも盲目的にリベラルを受け入れればいいというものではない。

「今の時代に合わせなければ」と強迫的に受容しても、いつか反動となってよみがえってくる。

従来親しんできた規範感情と、理論的に「正しい」とされる思想とは相克があって当然。

「正しい理論だって時代によって常に流動する。進歩的にも反動的にも。

両方を認識したうえでそれらを止揚するのが哲学の役目。

いま感じている違和感を忘れずに、関連分野の理論勉強していったらいいと思う。

2020-04-07

anond:20200407103128

増田本文とは全く関係ないが

藁人形バトル」という言葉だけ拝借して、

藁人形論法」を止揚する言葉として流行らせたい。

大体どこも「藁人形論法」はやってるので。

両者とも「藁人形論法」をやってるなら「藁人形バトル」と言ったほうが適切だろう。

2020-02-22

anond:20200222124956

人事の利害と現場の利害は異なるからな。

人それぞれ思惑が異なることを前提として、うまく話をリードできればいいんだ。

単なる両論併記ではなくて、それを止揚して一段高い議論に持っていくとかね。

弁証法とか聞いたことくらいはあるよね。

2019-05-30

1000年おきの未来

BC3000頃 文明の起こり。人間集団的知的活動を始める

BC2000頃 カースト制が形成。明確な階級が生まれ

BC1000頃 枢軸時代人間精神覚醒され学問の基礎が起こる

紀元帝国時代世界が大きな帝国によって統治される

AD1000頃 文明産業の発達、それに伴い世界大戦へと繋がっていく

AD2000頃 世界大戦が人類共通の負の歴史になり、以降は世界大戦が起きなくなる

AD3000頃 資本主義共産主義止揚され、優秀でなくても幸せになれる社会が成立する

AD4000頃 技術進歩した結果、物理法則ハッキング可能になる。エネルギー保存則などから逸脱してドラえもんの道具が実現するようになる

AD5000頃 願望が即実現される社会になり人間全体の精神性が未発達になる。全ての人間が個々の並行世界で生きることで争いを回避するようになる

AD6000頃 精神世界の解明が進み、人間より高位の存在確認される。なぜこの世が存在するのか、なぜ生物存在進化するのかについての理由が判明する

2019-03-11

anond:20190311003028

表現の自由という大義名分はこと公共空間においては綱渡り曲芸止揚点だと述べたつもりだが、俺の意図するところは読み取ってくれなかったのかな。

ココこそ君の論の最もバカな部分な訳だが?

渡りになるのは「己の快不快他人人権侵害して良い人」が居るからに過ぎない。本来渡りであるべきでないものを綱渡りにしてる者をこそ非難すべきなわけで、表現の自由を捨てさる理由になど全くならない。

狂人狂人なので、言うことを聞く必要はない。

公共空間表現する時点でフェミに何か言われるのは特別な話でも何でもない。

特別な話ではないが、許される話でもない。

彼奴等は「何か言う」ではなく、表現とそれで食ってるものの撲滅を計ってるのは明らか。

公共空間個人の利害の衝突する社会のものの縮図だと考えたらオタやフェミお気持ち中間を探るのが道理だと思うよ。

フェミお気持ちに拠っているが、こっちは基本的人権に拠って立ってる。一緒にすんなよ?

妥協しない」フェミと「妥協が許さない」基本的人権あいだに中間点などない。少しでも譲歩したら表現の自由死ぬ

個人の利害が衝突するからこそ公正なルール必要な訳で、それこそが人権

「俺もあいつも我慢してる」んだよ。それが分からないものけが他者表現を許さな

まさにそこがオタの主張として弱いよねっていう話をしたつもりなんだけどな。表現の自由はあまり関係ないんよ。我々は公共空間をどうデザインするか?という問いがまず大前提

いいえ、前提は「他人表現の自由は侵せない」ことだ。

君が勝手人権放棄してるだけ。

公共空間デザイン」なんてのは誰がするもんでもない。それを個人の快不快で行おうとするなら、それは世界から己の見たくないもの全て消し去らないと不可能だろ。そんな要求が容れられるわけねーだろ。

皆が皆の表現の自由のままに行動した結果が公共空間であるべきで、それを「デザイン」なんてしようと言うのは独裁者にも似た思い上がり。そんな問いを抱くことからして君も他者表現を殺そうと言う欲望に取り憑かれてるのでは?

anond:20190310231559

自分から表現の自由を捨て去ってフェミの靴を舐める自称クリエイターが何を言ってるんだろうか

君が君の表現の自由を捨てさんのは勝手だが、フェミにそれを強要する資格はない。それだけ。

表現の自由という大義名分はこと公共空間においては綱渡り曲芸止揚点だと述べたつもりだが、俺の意図するところは読み取ってくれなかったのかな。公共空間表現する時点でフェミに何か言われるのは特別な話でも何でもない。公共空間個人の利害の衝突する社会のものの縮図だと考えたらオタやフェミお気持ち中間を探るのが道理だと思うよ。

君が勝手に狭めた表現の自由定義に乗っかる必要はない。

不快もの語ったら許される表現など一つもなくなる。表現もの食うやつなど一人も許されなくなる。

からこそ、フェミに限らずお気持ち表現を殺そうとする奴には一歩も引いてはならない。

まさにそこがオタの主張として弱いよねっていう話をしたつもりなんだけどな。表現の自由はあまり関係ないんよ。我々は公共空間をどうデザインするか?という問いがまず大前提

2018-10-05

市民的公共性存在する(が千田氏の思うようなものではない)

辞書的に言えば「市民的公共性とは、ハーバーマスが『公共性構造転換』(1962)の中で提唱した概念ホルクハイマーらの『人間の理性が頑張っても幸せにならないんじゃないの? だってナチスとか出てきたし』という悲観に対するカウンターとして提出された。ハーバーマスにとっての公共性人間自由平等連帯幸せになっていくためのベースとして存在している」といった感じ。

~性というのはいかにベースとして弱そうだが、ドイツ語のÖffentlichkeitは「Public sphere=公共圏」と訳すこともできるというかこっちのほうが適切だと最近は言われている。なので以下では基本的公共圏統一する。

で、市民公共圏って一体何よ?

それはハーバーマス自身もよくわかっていないようである。その証拠大学図書館には「公共圏ってたぶんこういうのだと思います(こういうものだったらいいな)」という本が溢れている。たぶん最大公約数的には「まあみんなで議論する場は必要だよね」というあたりで理解されている。

しかし、この「みんなで議論する場」というもの曲者である人類の大半の歴史上、「みんなで議論する場=公共圏」には男性だったり社会的強者だったりという入場パス必要だった(今でもそうかもしれない)。しかしそれは今日価値観から見れば明らかに間違っていたわけで、その間違い(入場パス)と長い間仲良しだった概念自由幸せ社会ベースに据えていいのかという問題がある。

ハーバーマスは彼が理想とする市民公共圏がどういうものであるかは、少なくとも『公共性構造転換』の中では(たぶんそして今日に至るまで)ふわっとしたことしか言っていないのだが、どういうものでないかはこれ以上ないほどに詳しく論じている。一見いかにも学者らしい無駄っぽく思えるが、「こっちに行ってはいけない」というガイドブックでもなにもないよりはましである。たぶん。

本稿では、「昔の(入場パスつきの)公共圏にはこのような批判がありました」とハーバーマスが論じている部分を検討し、その批判千田氏の立場にブッ刺さっていることを確認する。その結論として、千田氏の「市民的公共性」という用語用法いかに不適当ないしド適当であるかを示す。

ヘーゲルによる公共圏批判

以下ではハーバーマス細谷貞雄山田正行訳)『公共性構造転換』の第四章 第一四節「公共性弁証法によせて――ヘーゲルマルクス」に基づいて議論を行う。

ヘーゲルは入場パス公共圏関係を真っ先に疑った人であった。とはいえヘーゲル最初からブチ切れたりはしない。「公論公共圏における論議、もしくは公共圏のもの)っていいよね、合理的だし」というところから話を始める。でもその合理性って自由主義がベースになきゃ成立しないよね?(みんなが自由意見を言えることが前提なので)、でもその自由主義って本当に公共圏とそこまで相性いいだろうか?とヘーゲルは問う。考えてみればこの矛盾は明らかである。司会のいない多人数の会議を考えてみればよい。地獄である。間違いなくそこに自由はある。なのに(だから?)地獄である

このことの地獄性は会議室を超えて社会とか国家とかのスケールになるとより増す。例えば少数者差別を考えてみればよい。これはみんなに「自由に」議論させてるだけではそもそも議題にすら上がらないだろう。そうして公論きらきらした合理性の賜物から「多数者の主観的私念」という水準へと転落する。公論は「自然に生じた不平等止揚するどころか、むしろこれらを技能財産さらには知的倫理的教養の不平等まで深めていく」。入場パスを持っていない人はより不利な位置に、持っていても少数派の人もまたより不利な位置に、公論によって追いやられる。

まあとはいえ人間も頑張るもので、法治国家とか市民社会とかを作って頑張って公論して私念から理性に支配権を移そうとするのだが、ヘーゲルいわく土台が腐っているのに頑張っても泥縄だそうである。そうした頑張りはむしろ国家主観的私念を入り込ませる結果になるとヘーゲルは言う。じゃあどうすりゃええのよって言えばヘーゲル最初から開き直って身分制国家を作れとか言ってそれに対しマルクスがいや社会主義でしょとか言って最後ハーバーマスがいや公共圏を作んなきゃダメだよとか言うのだが、そのあたりは略する。

ともかくにもハーバーマスが描く市民公共圏というものは、こうした批判スルーしては論じることができない。ここで重要なのはハーバーマス公共圏をどのようなもの「ではない」と考えていたかということである。以上見てきたようなヘーゲル理論は最終的に乗り越えられる(ということになっているが詳しいことはやはり不明)のだが、であるからこそ少なくともヘーゲル批判したそのままのことをやるのがまずいというのはわかっている。

千田氏は何をしたか

まさにヘーゲル批判した地獄公論インターネット上に出現させようとしているのである

私自身は「表現の自由」は国家から規制されるべきものではない、とは思う。でもそう思うからこそ、国家から規制されるまえに、「市民的公共性」を発達させないといけないと思うんですよ。

あと表現って、さまざまな他者への配慮のなかでこそ磨かれていくものだと思う。フリーハンド表現なんてない。https://twitter.com/chitaponta/status/1047451777220501504

市民的公共性の話って、ハーバーマスのつもりだったんですが…。https://twitter.com/chitaponta/status/1047789073471946752

市民的公共性対話によるものですから、そのことを話し合うことが大切だと思います

いままさに起きていることが、市民的公共性なのではないでしょうか?https://twitter.com/chitaponta/status/1047810256976269312

まず第一に、専門用語を「」で括って注釈なしに使うのはおよそハーバーマスの「市民的公共性」的態度ではないといえる。なぜならこれこそヘーゲル批判した「自然に生じた不平等を(略)知的倫理的教養の不平等まで深め」る態度にほかならないかである

そして第二に、ハーバーマス議論は上のような「話し合えばそれが公共性」というような安易理解を拒絶するものであるということを千田氏はまったく理解していない(か理解していても無視している)。上で見たヘーゲルによる公共圏批判からもわかるように、ハーバーマス議論は「公共圏にはあれやこれやそれや…の批判があるけど、でも、それでも公共圏がなければ人間幸せにはなれないんだ」というひねくれたものであり、単に「話し合いが重要だよね」と言っているのとは違う。仮に結論は一緒だとしてもやはりそれは違う。その違うものを一緒くたにして、専門外の人に「話し合い=市民的公共性」という理解(そんな人のいい理解をしている人はほとんどいないようだが仮に字面だけ虚心に読んだとして)を植え付けることが、ほんとうにハーバーマスであるといえるだろうか?

第三に、「思う」根拠が示されてない。少なくともハーバーマスは「国家規制を前もって回避するために市民公共圏を発達させるべきである」というような具体的な議論はしていないはずであるであるとすればこれは千田氏のオリジナルアイディアが含まれているはずであるのだが、それがまったく説明されていないのと、先に述べたようにそもそも専門家間ですら扱い方に差がある「市民的公共性」という単語のせいで、最初ツイートの二文目は全く意味不明ものと化している。原理的に誰にも意味が伝わらないはずのもの炎上しているのはお気の毒というほかないが、であるからこそ千田氏は「市民的公共性」の意味と「思う」理由をしっかりと説明してほしいと思う。

(2021/2/7追記)書きました anond:20210207093448

2018-09-27

何が起ころうが、必ず、絶対に佐喜真氏が勝つ3つの理由

これはある種の確信を持って書いている。

いろいろ書く前に、私のプロフィールを書いておこう。26才、プログラマー大学情報系の学部卒。沖縄で生まれ高校まで過ごし、東京で働いた。

さて、今回の選挙では、必ず佐喜真氏が勝つことに“なっている”。

理由はいくつかある。

まず、若い世代は”功利主義”の考えが根強い。とても簡単に言えば、結果さえよければ、途中の過程にはある程度目をつぶるというものだ。あるいは、1人の犠牲10人の犠牲でどちらかを選ばなければならないなら、1人の犠牲を選ぶというものだ。これをトロッコ問題という。

きつい言い方をすれば、普天間基地がなくなるのであれば、辺野古の海や住民生活が多少脅かされようとも問題はない、ということだ。

またそもそも、「辺野古はもう埋め立てられているのだし、中止になろうが埋め立てられようが、誰も幸せにならない。だから、すぐに普天間を移すことができる場所を作るのがいいのだろう」という考えも多いだろう。ある種この考えは正当性を持っているかのように見えるが、実際は自民党基地推進派による「刷り込み」あるいは「意見誘導」にすぎない。本来であれば、他の都道府県に移すという考えは実現可能だ。しかし、もうそれが不可能かのような雰囲気が漂っているのだ。

基地はない方がいい。これは多くの(基地利権がない)県民にとっては共通意見だ。しかし、それは基地が70年以上ある中で理想となっている。すでに、生まれた時には空にはF-15EやF-22やKC-135やC-130やCH53やMV-22が飛んでいて、基地はヅャスコやサ●エー(沖縄スーパー)やメイ●マン並にありふれた施設となっている。このような中で基地を無くそうという意見は、もう理想の域になってしまっているのだ。そのような中、辺野古は埋め立てられ、県内移設の準備は整いつつある。それならば、もう辺野古にしてしまとある種の妥協正当性を見いだすのだ。繰り返すが、極右のように「基地ポンポン作れ」というような意見から出てきた意見ではなく、妥協によるソフトランディング地点に辺野古への移設見出しているのだ。

ゆえに、若者にとってすでに、辺野古は争点になっていない。その他の経済子育て教育に争点を見いだす。この時点で、辺野古を争点にしない分、その他にフォーカスをあてることができる佐喜真氏の意見は魅力的となる。余談が過ぎたが、以上が、若者から見て佐喜真氏が支持される理由の一つだ。それに沖縄は若年層も多い。

二つ目理由として、デマ問題もないわけではない。特に若い世代テレビラジオ新聞よりTwitterやインスタに接する時間が圧倒的に長い。この点は悪いわけではない。問題は、そのような情報に触れ合っているだけで、(ボット投稿であっても、)多くの同じような意見が流れればそれを正しいと思ってしまうというリテラシーにある。これを別に佐喜真氏の陣営がやっていると言っているわけではない。佐喜真氏のスタンスからすると、彼に利をするようなツイートなどが多いと感じただけだ。

この点はきちんと、どちらの陣営から検証するべきだし、今後も注意しなければならない点だ。佐喜真氏の支持者も、デニーの支持者も、相手側の視点に立ったらどうしたほうがいいかを考えなければならない。そうやって双方の立場尊重することで、民主主義は良い方向に醸成される。

三つ目は、自民選挙の「うまさ」だ。これは、デニー陣営が「弱い」からではない。自民が「うますぎる」のである。まず辺野古を争点にしなかったこと。ただし、普天間は除去するという。県民に「私たち辺野古基地を新設させた」、あるいは「私たちデニー投票したことで国からの財源が減らされてしまい、沖縄にとって悪影響をもたらした」といったある種の罪悪感を持たせることもない。

他にも公明党が支持にまわったのも大きいし、基地利権が絡むため、これらのカネが回ることによって組織票の点で大きな集票効果がある。自民戦後長きにわたる安定的政権樹立してきたことで、経済界に大きなコネがあるのは当然のことであり、なんの問題もなくある程度の票を集めることが可能だ。この点、オール沖縄陣営はある種の「ハンデ」を背負っていることは事実だ。それなのに勝った翁長はすごかった。

対してデニー陣営オール沖縄の影響力低下にともなって、戦力を損ないつつあった。なんだかんだで、世の中カネなのだ。と言うわけで、最後理由は、陣営の強さにあった。

最後に、民主主義についてもう一度考えてみたい。勘違いする人は多いが、民主主義は単なる多数派意見を是、少数派を正しくないとするようなお祭りではない。もし少数派の意見が完全に無視され多数派意見けが通るなら、それは「多数派お祭り」に過ぎない。多数派意見に対して少数派の意見が顧みられることがなければ、選挙なんて「いくらやっても無駄」というわけである

アウフヘーベン止揚という都知事も大好きな言葉があるが、これは弁証法言葉で、簡単に言うと意見意見を交換することで、より高次な意見を見いだすということだ。すなわち、タケノコ派とキノコ派が争い、タケノコ派が勝ったとしても、キノコ派の意見も取り入れる(タケノコの下に柄をつけるのかもしれない)ということだ。誤解を恐れずに言うと、多数派もある程度妥協して少数派の意見を取り入れるという考えだ。(うまく説明できずにニュアンスが違うので、詳しくは調べてほしい)

民主主義を履き違え、多数派なので間違いはない、少数派なので間違っている、というような理屈政策を進めてしまうと、必ず軋轢が生まれて分断となる。この点は間違えてはいけないし、「功利主義」が根強く語られる世の中では、より注意したい点だ。自分がもし少数派であるならどうするかという視点に立つことが重要なのだと思う。

ちなみに、私の祖母に誰に投票たか聞いたところ、佐喜真氏へ入れたという。理由は、「誰に入れたらいいかからなかったが、書きやすかった」からだそうである

いろいろ考えたところで、民主主義なんて、こんなものか。私は脱力した。

2018-09-14

コミュ力」は本人だけの問題じゃ無いよな?

コミュニケーションて二者の問題なのに、寡黙な人とか少し人付き合いが苦手な人だけが、「コミュ力がない」とされるのはおかしい。

本来はそういう人とのコミュニケーションができる方法があるはずで、それもせずに「コミュ力がない」などとするからコミュニケーションが閉じられるのだ。

コミュニケーション力が本当に高いなら、「コミュ力」が低い人ともコミュニケーションができるはずだ。なぜならコミュニケーションは二者の問題からだ。本当にコミュ力があるひとは、どんなにコミュニケーションが苦手な人の意見も引き出そうとする。議論を積み重ね止揚していく。

相手コミュ力理由コミュニケーションあきらめたときは、自分コミュ力も疑ってみると良い。

(このブコメを読んで、そう気づいた)

b.hatena.ne.jp/entry/370933611/comment/shun_libra

b.hatena.ne.jp/entry/370933611/comment/Dicer

b.hatena.ne.jp/entry/370933611/comment/YoshimotoChikara

2018-09-04

翁長知事「戦う民意」〜「琉球独立」を促しているのは国民の無関心だ

抜粋しながら読書

野党問題

野党が支持されないわけ

左右いずれもガチガチ政治家は、いつまでもガチガチのまま、一割の支持者層で人生を終えてしまます。私は共産党の人たちにもずっと言い続けました。

政権を取るぐらいの気持ち政治をやらなければ、いつまでも一割政党でどうするのですか。これが正しい、あれが正しいと言って政権も取れず、あなた方は政党として支持者に応えているのですか。あなた方を信じて何十年も付いてきた支持者に不誠実ではないですか」 一割で正しいことを言っても、残りの九割に誰も興味を示さないのなら、政党としてやっている意味がないのではないか。 現在日本政党状況のように、「一強多弱」では政治が行き詰まってしまます。それぞれ一定程度の勢力を持ちながら勝ち負けがあるからこそ政治に緊張感が生まれ民意がそこに反映されるのです。それは政治家がいつも意識していなければならないことだと思います

9条があるから平和なのか

憲法改正派も、そうで無い人も、沖縄視点が抜け落ちているのだ

私は革新側も批判しています。「憲法九条があるから日本平和だ」と主張する人たちは、憲法埒外にあった沖縄負担のもとで、戦後日本高度経済成長平和継続があったという視点が抜け落ちています

政権の現状

この本が書かれたときも、そのあとも、民主主義は壊れ続けている

今の日本政治はまったく民意を顧みない。国権の最高機関たる国会も、行政府監視という役割果たしておらず、与党内においても異論封殺されています日本民主主義危機に直面しているのです。

「例の作家

沖縄押し付けた、沖縄基地に守られながら、「保守」を名乗り沖縄差別するという構図

そればかりか、「(普天間基地の)もとは田んぼで何もなかった」「基地地主はみんな年収千万円」と発言した有名な作家のように、自分たち日本安全保障を守ろうという気概もない人たちまでもが、実態とかけ離れた暴言を吐いています。そこには沖縄に対する無知無理解差別意識があります

独立するのか

沖縄差別しておきながら、独立を憂う矛盾、そして独立への道は"不本意"ながら舗装されつつある。沖縄への無理解の代償として

 沖縄という小さな島が、日米両国という大きな権力相手にして戦うことは困難を極めます。 そうした状況を前にして、「沖縄独立することを考えているのですか?」という問いが発せられます。 そして、そんな問いを受けるたびに、私は沖縄県民がここまで日本国民として受け止めてもらえないのか、と絶望的な気持ちになるのです。

もちろん、独立論は沖縄積極的に支持される意見ではありません。これまでは居酒屋談義とされてきました。独立論がまじめに語られ始めた原因は、むしろ本土側にあります。 基地削減を求める沖縄県民の声が無視され続け、これに対して「日本の四七分の一として認めないのなら、いっそ日本というくびきから外してほしい」「独立すれば沖縄意思基地をなくせる」という気持ちの表れとして独立論が語られます

今後、事態の成り行きによっては、独立意思を表明する人たちが、沖縄から数多く出てくるかもしれません。しかし、それ自体沖縄の不幸につながると私は思います

沖縄問題は、結局は合意形成に基づく民主主義問題帰着される

そして、沖縄独立を語る前に、日本本土覚悟を決めて、米軍基地を全国で受け入れて、しっかりとした日米同盟をつくってもらいたいと私は思っています日本国民一人ひとりが、基地問題自分のこととして考えて、そしてその集約が日本政治うごかしていくようにならなければ、真の民主主義がこの国に根付くことはないでしょう。


沖縄基地問題は、結局自治体と国の闘争という単純な話ではないのだ。基地問題に限らず、政治に関する無関心は、最終的に、大きな民主主義の傷となって日本国を蝕んでいくだろう。

ところで、この場合基地問題議論を終着させるのは誰の意見なのか?日本国民の多数決沖縄県民の多数決?まぁ、現時点ではおそらくそれのどちらでもなく、「政権多数決なのだろうな。

まぁ、「多数決」が「民主主義」と思っているような人も多いので、この国の民主主義には期待できそうにもない。(ヘーゲル弁証法や「止揚」は、現社でやったっけ?)

2018-04-04

anond:20180404140631

マイナスな考え。プラスな考え。

なるほど、しかし足していくというのはスマートではない。

極限まで引き算していった中に、究極のデザインがあるのだよ。

まり止揚させて、第三の「スマートな考え」を導きださねばならぬ。

たとえばこうだ。

通勤ラッシュ時に電車を使うのなんかやめちまえ。」

あとはブレストだ。

電車自体をなくして人が空を飛んで移動すればいいのでは?

単純にすべての会社間でうまく通勤時間をシフトさせれば?

テレワーク扶助をだせば?

あとは任せた。

2017-11-09

[]2017新語・流行語大賞ノミネート解説

アウフヘーベンドイツ語で「拾い上げる」「廃止する」などの意。哲学用語としては「止揚対立する諸要素を発展的に統一すること)」と訳される。小池百合子都知事が会見で用いた。
○○ファースト「○○第一」「○○優先」といった意味特に都民ファースト」は小池百合子都知事スローガンとなり、政党名にも使われた。
インスタ映えSNSInstagram」に写真投稿したときに見栄えがする、いかにも注目を集められそうだ、といった意味
うつヌケ同名の漫画のこと。漫画家・田中圭一作品で、うつから脱出した人たちの体験談を描いてヒットした。
うんこ漢字ドリル全ての例文に「うんこ」という単語が用いられている小学生向けの漢字ドリルで、その奇抜な内容から大ヒットした。
炎上○○炎上商法」「炎上芸人」など、インターネットでの炎上逆用する諸行為のこと(…か?)。
AIスピーカーインターネット接続され、音声操作AIを利用できるスピーカーのこと。Amazon EchoGoogle HomeApple HomePodといった商品が発売・発表されている。
9.98(10秒の壁今年9月桐生祥秀が出した男子100m走タイム。これまでの日本記録を上回り、日本人で初めて9秒台に突入した。
共謀罪テロ等を未然に防止するため、組織犯罪計画した段階で処罰できるとする法律のこと。多くの反対意見もあったが今年6月国会で可決された。
GINZA SIX今年4月開業した銀座複合商業施設のこと。
空前絶後お笑い芸人サンシャイン池崎ギャグ。昨年末の「絶対に笑ってはいけない科学博士24時」に出演したことブレイクした。
35億お笑い芸人ブルゾンちえみギャグ世界中男性の人数を指している(70億の半分)。
けものフレンズ同名のアニメのこと。同プロジェクトゲームが既に終了するなかで今年1月から放送され、クチコミにより広まり大ヒットした。
刀剣乱舞同名のブラウザゲームのこと。2015年流行語大賞でも「刀剣女子」がノミネートされている。
Jアラート全国瞬時警報システム通称北朝鮮ミサイル発射実験により発動したこと話題となった。
人生100年時代100年後には平均寿命が100歳になっているとの予測を受けて、日本政府が今年9月に「人生100年時代会議」を開催した。
睡眠負債スタンフォード大学研究者提唱したもので、少しずつの睡眠不足が積み重なることで大きなリスクとなっているとする考えのこと。
線上降水帯積乱雲が次々に発生して長さ数十から数百kmに及び線上に連なる現象のこと。ゲリラ豪雨の原因とされる。
忖度他人の心情を推し量ること。森友学園問題に際して「上役の心情に配慮すること」というやや違った意味人口膾炙した。
ちーがーうーだーろー!当時衆院議員だった豊田真由子氏が秘書へ放った暴言ひとつ秘書への暴行報道されて責任問題となった。
魔の2回生2012年初当選し、2014年に再選された自民党の2回生議員のことで、不祥事が多いためにそう呼ばれるようになった。
働き方改革日本政府が推進する改革で、日本労働環境や慣習を抜本的に見直そうとするもの長時間労働の解消、非正規雇用解決などを目指す。
プレミアムフライデー個人消費喚起するため政府および経済界提唱したもので、毎月末の金曜日は午後3時に終業するよう企業に求めるキャンペーンのこと。
ハンドスピナーボールベアリングに「羽」を付けた玩具で、基本的には回転させるだけの手慰みとして使う。
ひふみん将棋棋士加藤一二三ニックネーム。今年6月プロ引退した。その特異なキャラから人気となり、バラエティ番組などにも出演している。
藤井フィーバー将棋棋士藤井聡太が史上最年少でプロとなり、デビューから無敗のまま公式戦最多連勝記録を打ち立てたことで話題となった。
フェイクニュース虚偽の情報を多分に含むニュースのこと。特にアメリカ大統領選において様々なフェイクニュースSNS拡散されたことが問題視された。
ポスト真実客観的事実よりも自身感情に訴える虚偽を信じやすい状況のこと。アメリカ大統領線やイギリスEU離脱にまつわる中でよく用いられた。
ユーチューバー動画投稿サイトYouTubeから広告収入生活をする動画投稿者総称ヒカキンはじめしゃちょーなどが著名。
ワンオペ育児ワンオペ」とはもともと飲食店を一人で回している状態(ワン・オペレーション)のことを言い、転じて夫もしくは妻が一人で育児を行っている状況を指す。

2017-09-26

私の左翼右翼

右翼左翼というカテゴリは、なぜか人に完全な説明を与えたような錯覚させる言葉だ。

一般的左翼的言説は、左翼進歩的であったり、人間中心的であったり、自他的であったり、自利的あったりする。

一般的右翼的言説は、右翼保守的であったり、自然中心的であったり、集団的であったり、個人的であったり、規律的であったりする。

これだけ雑多な概念ではあるが、左翼右翼対立していたり、対立していないこともある。

わたしは2つの概念に、どちらがより悪いかということを言うつもりはない。

これから書くのは、左翼右翼にある対するよくある誤解をできるだけ解いていこうという試みである

といっても私の力不足により、今は3つしかなく内容も不明瞭に見える。

それと誤解と断定して書いたが、恐らくは誤解であるという所だ。

なぜなら、左翼右翼完璧定義付けを、私はしないつもりだからだ。

それでは、なぜ左翼右翼に対する誤解と言うものを書けるのか。

それは左翼右翼に対してよく言われる一部の定義を仮として当てはめた時、明らかに左翼右翼思想が成り立たなくなり

そうなったときに、彼は左翼だ、右翼だと言うことがほとんど不可能になると思われるからだ。

ここで私のひとつ立場を明らかにしたいと思う。

私は"思想ジレンマ"というような言説、態度を認めていない。

どちらかのジレンマによる、右翼左翼キメラ的態度を認めないということだ。

(哲学的に言えば、ヘーゲル止揚という概念を認めていない。)

それを踏まえた上で、左翼右翼に対する誤解について書いていこうと思う。

左翼進歩的であり、右翼保守的である

左翼的言説とは、現状を改革することや、何かを変えようとの意向を持つ言説であろう。

右翼的な言説は、現状を守るときや、何かを大事にしようとするときのものだ。

これらから左翼は常に革命を求めており、暴力的であるとか、右翼は頭が固く時代遅れだなどと言われる。

まず、最初左翼的な言説に、まるで保守性がないというのは成り立たないことだ。

左翼が変革を起こす時、現状をすべて破棄するか、一部を破棄するかというどちらかを選択するだろう。

そして現在には存在しない概念を(規則など)を落ち込むことになる。

もし、その概念批判があれば、左翼はこれを守らなければならない。

その守るための言説に保守的言葉が無いとしたら、明らかにその概念はたちまち崩壊するだろう。

批判者の言説とは、おおよそこのようなものだろう。

君の進歩的概念適用された世界を認めたとして、その世界をどのように(同じような進歩的概念から)守るのだ?

次に右翼的な言説に、現状を進歩させるものではないとするものだ。

これは左翼的な言説に保守的な言説が混ざり込む以上、彼らは、その保守的な言説と戦わなければいけない。

その戦う言説が保守的ものだけであれば、ともに共存することになる。

右翼保守的なだけであれば、不純物と共存するだけである

そうではなく、現状維持のためであれば、不純物は取り除かなくてはいけない。

不純物を取り除いた後に、根本の原因である現状の変革を実施する。

劣化し始めるもの進歩し始めるのも、現状に問題があるためであり、その現状を彼らは変革するのである

しかし、その変革とは公平に見るとすれば進歩のものである

左翼保守的に見えたり、右翼進歩的に見えたりするのは、そもそも左翼進歩的であり、右翼保守的であるということを誤解していることによるのである

  

左翼相対的であり、右翼絶対的である

ここで抽象度が一気に上がって申し訳ない。

相対的であるとは、相対論自由という概念などである

(自由という概念は、相対的でないと成立しない。

もし私がりんごを食べるとして、ある場所では犯罪だが、ある場所では犯罪ではないとすれば

食べる場所によって犯罪の可否がきまるため、私がりんごを食べる自由相対的であると言える。)

絶対論とは、~べき論や、どこであろうと適用されることを望んだ言説である

これらにより、左翼優柔不断、すぐ裏切るなどや、右翼は頭が固い、傲慢だなどと言われる。

では、これも同じように左翼絶対的な言説が入り込む余地が本当に無いのだろうか?

その前に、左翼進歩的言説を行うものであることは、すんなり頭に入った人たちでも、

左翼相対的言説をしているか左翼だと認識することはあまりいであろうと思われる。

ここで相対的言説と絶対的言説について少し書こうと思う。

相対的言説とは、まさに例を取ってあげれば左翼的言説に近いもので有ることは理解してもらえると思う。

例えば自由や愛、幸福などだ。

自由を仮に絶対的定義しようとすればまさしく絶対的自由から抜け出すことこそが自由であると言うことが分かる。

こうすると、自由相対的という定義に転がり当てはまる。

絶対的言説とは、言説による力を発揮する場所定義するということである

例えば、国、集団など。その限定された場所によって、定義された言葉が、それに見合った意味となる。

さて、左翼相対的であるとのは、相対的言説を用いているかである説明した。

しかし、それは誤解である

左翼は確かに相対的言説を用いているが、よく見ればそれは、条件付きの相対的言説なのである

左翼相対的であるために、一定絶対性を必要としたのだ。

自由という概念は、他に絶対性がなければ、自由のもの絶対的ものとなってしまう。

そこから抜け出すために、一定絶対性を用意し、その絶対から自由を得ているのだ。

そのため左翼は完全に絶対的もの使用するため、完全に相対的であることはできないし望んでいない。

では、右翼はどうだろうか、右翼絶対的であろうとし、あらゆる不名誉を得てきた。

右翼絶対的たりうるための場所定義するが、その場所定義するプロセス相対的である

それは場所とは、物理的に言えば、自然によって決まっており、自然がもたらした、ものによって人が決めるのである

ある場所は良くないが、ある場所が良いといのは自然により決定している。

そして、場所定義することが相対的であるがゆえに

定義後の絶対性の担保にも相対性使用する。

こうして、右翼も完全に絶対的であることができず、また望んでいない。

左翼相対的に見える場合は、条件付けを見れば誤解であることに気づき右翼絶対的に見える場合は、場所定義確認すれば誤解であることが分かるのだ。

まり左翼相対的であることも、右翼絶対的であることも誤解である

  

左翼は実利的で、右翼は実利的ではない。

左翼が実利的に見えてしまうのは、ほとんど悪名高き功利主義によるものだ。

右翼功利主義をもたない。なぜなら功利主義幸福に関する思想であり、幸福という概念相対的言説だからである

このせいで、左翼感情のない人間という扱いになり、右翼計算の出来ない人間と言われる。

これは功利主義短期的な実利主義であるという誤解からまれている。

功利主義とはその場の短期的な視点での価値判断使用される思想ではないということだ。

もっと長期的な10年、100年というスパン幸福について考える思想なのだ

これらの左翼右翼の誤解はそもそも問題としては何なのだろう?

私が思うに左翼右翼という概念が、その人自身属性となってしまうことによるものだろう。

有る考えが進歩的であったとしても、その人自身はまるで関係ないはずである

しかし、左翼右翼とするとその場合は、人間と結合し、その人間自身左翼右翼的存在となってしまう。

本当に気をつけなければいけないことは、左翼的右翼的であることが、その本人の属性として、その本人の全人格を表すようにみていないかということだろう。

2016-09-23

http://anond.hatelabo.jp/20160923001335

うんだからそういう議論の際を論点としていたなら「いつでもどこでも」「なんかあるたびに」などと言ったりしないからな

増田のように、「この場合差別に該当するのか」「この差別への対応には過剰すぎる対応ではないか」「もっといいやり方はないのか」などの主張が本題の場合

差別ダメージ」については議論に上っている全員が共有している情報なんだ。それはもういらない。

まり被差別者差別されている当事者にもかかわらず差別されたというキズを晒すことすら許されないのね

当事者を置き去りにして当事者感覚のない議論したつもりの自己満オナニーに黙って付き合え!!ってことなんだよなぁ

そりゃあそういう議論ではマジョリティ様が勝つよね、ネット上の議論でもだいたいが自分にとって心地良い意見が出た時点でそれを結論とするクズばかりなのだから

それ故にポリティカル・コレクトネスが求められているのに部外者でありながら不快を感じたくないマジョリティ様がワーワー騒ぎすぎ

挙句の果てに「差別を受けた内的情報」を根拠に「もっといいやり方はないか」という意見を出すことすら封印するだろ

そりゃあ当事者意識のない外野がワーワー騒いでマジョリティであるおかげで自分たちにだけ心地良い結論を出しやす環境を整えていたら属性で黙らせる以外方法はないからな

感動ポルノとおなじで外野のくせに「考えてますよ~」という知識人オナニーの道具にしか使われてない

なぜそう思った?「有益情報」はインプットだけど「オレサマのきんもちよくなるフレーズを浴びせる」はアウトプットだ。

オレサマくんの自称有益情報提出もアウトプットだろマヌケ

最初増田からず~~~~っと議論したい、止揚を求めたいと言ってるじゃん。沈黙したらそこで終わりなんだし俺の目的も果たせないの。

おまえの目的?あぁ被差別者を黙らせて部外者議論して心地よくなって被差別者ことなんか明日には忘れてすっきり生活するオナニー欲求のこと?

そんだけ議論したい話を聞いてもらいたいならまず被差別者の開示にもキチンと向き合って受け入れてもらえる状況を努力して作ってからにしような。

おまえの開示には付き合わないがオレの自称有益情報議論には付き合え、あぁおまえの被差別性には興味ないし明日には忘れるけどなというスタンス他人から受け入れてもらえるとか想像力がなさすぎ

http://anond.hatelabo.jp/20160922220856

言いたいことがまるで伝わってないぞ

そう応答するってことは

いつでもどこでも被差別者内面を出すな、TPOを考えろと言っているんだ

という言い逃れは間違いでしたこんな逃げをうったクソカスゴミムシのわたしを許して下さいってことねOKOK

被差別者内面」っていうのは「差別を受けたときにこのように心理的ダメージを受けましたなどという発言者の内的情報」って理解でいいか?以降、この理解で進む。

TPO上この情報必要なのは差別を受けてもダメージなんて受けないじゃん」という主張が本題の場合だ。

増田のように、「この場合差別に該当するのか」「この差別への対応には過剰すぎる対応ではないか」「もっといいやり方はないのか」などの主張が本題の場合

差別ダメージ」については議論に上っている全員が共有している情報なんだ。それはもういらない。

 

挙句の果てに「差別を受けた内的情報」を根拠に「もっといいやり方はないか」という意見を出すことすら封印するだろ

(直接的には、「もっと優しく言ってくれないと~~」のワードが一番顕著に使われる)

この状況を一番問題視しているんだ

そこで提供されるはずだった有益情報が全部途切れるだろ?

これって被差別者にオレサマのきんもちよくなるフレーズを浴びせかけたいという欲望にすぎないよね自称有益()

なぜそう思った?「有益情報」はインプットだけど「オレサマのきんもちよくなるフレーズを浴びせる」はアウトプットだ。

ここの基本的理解がまずおかしいので、後の話が全くつながらないのだ。

からこんなフレーズが出て来る

結局沈黙を強いろうとしてるだけじゃん

 

最初増田からず~~~~っと議論したい、止揚を求めたいと言ってるじゃん。沈黙したらそこで終わりなんだし俺の目的も果たせないの。

 

個人的に、インターネット物理的に本当に手斧や石が飛んで来ることがなく、

idも変えれば過去の人格も簡単に切り離せる、これはマジで知識を集約するのに適した場だと思う

せっかくのそういうアドバンテージをなし崩しにするような行為もったいないし、増田はてブロがそんな場所になるのは悲しい。

2016-09-20

http://anond.hatelabo.jp/20160920070019

議論参加者差別者被差別者に分ける、その大雑把な態度をまず改めろ

人間は色んな属性を持っていて、ある切り口では強者ある切り口では弱者となる

議論を深めるには状況を限定したり話題を区切ったりして論点を整理しなきゃいけないのに

「私は弱者だ」って言ったらそこで話が止まるんだよ

何の止揚も見られない

2016-08-05

シンゴジラ最高に素晴らしいが、しかしフクイチ原発は…(ネタバレです)

http://anond.hatelabo.jp/20160804171358

自称中二病を脱した23歳増田」に乗っかる感じでシンゴジラ批判エントリーを書きたくなったおっさんです。

(あたしも10年前の20代の頃はてなサブカルおじさんが怖かったからねw)

シン・ゴジラは「日本実写映画」にとってエポックメイキングになりうる最高に素晴らしい作品だと思うが

この大絶賛の嵐に怖くなってきました。左側からのまっとうな批判が見られない。

(今後町山・宇多丸あたりから出てくるかもしれんが)

まずはじめに私の感想とすると「シン・ゴジラ」は素晴らしい映画なのは確かです。

ドラマ人間が描かれていない」という批判がありますが、

日本の実写アクションエンタメ映画」でまともな人間ドラマを描けるでしょうか?

民族イデオロギー宗教対立のない日本殺人を含む強烈なDISの激突による止揚

「個人のエゴイノベーションを起こす」ことを良しとしないし信じない日本社会では

欧米式の人間ドラマなどは描けないのです。大抵は「もののあはれ」みたいなものに落ち着きます

そこで庵野監督です。庵野監督人間ドラマが描けません。人間個人に興味が無いのです。

機械組織ようなもの機能的に動く

電子回路ニューロンのように情報錯綜し、通電し、組織機能する」という

描写」に焦点がいくような人間だと思います

(例えばオネアミスロケット発射の「手続き」や、エヴァ発進の「手続き」、

さまざまな人間連携して大きなことを成し遂げる瞬間のカタルシス岡本喜八沖縄決戦→ネルフ壊滅なら大組織の壮大な敗北

というものに執着している感じです。そして庵野監督はその演出で他を圧倒してきたのです。

通常は連携を2、3回で終わらせるところを、

7、8、9とどんどん数を増やし、しも連携スピード高速化する、

すると人間が居なくなり「連携のもの総体」が残るのです。

それはもう壮大な音楽リズムを鑑賞したようなものです。)

それが今回は最高に上手く行ったと思います無駄人間ドラマを省き、人の群れを

部品オブジェクトの群れ」として描いたのです。

通常それでは作劇できませんが、ゴジラという巨大な災厄を扱うことによって可能になったのですね。

とまあ、褒めるのはこんな感じで。みんな褒めてるし。在来線爆弾最高です。

ここから批判というか危惧を書いていきます。(ネタバレ含む)

シン・ゴジラ」はゴジラを描くとともに、明らかに3・11の震災

そして福島第一原発(フクイチ)のメルトダウンをなぞって描かれています

2016年に公開する映画であり、ゴジラが大災害のもので、

原爆の子であることことからしてそれは避けられないことでありました。

・「想定外」という言葉が何度もでてくるシンゴジラとフクイチ(フクイチ)

放射能を撒き散らすシンゴジラとフクイチ

・そしてその放射能を測定した市民から憶測が飛び交うシンゴジラとフクイチ

自体収集のため米軍が介入してくるシンゴジラ事態収集のため米軍が介入しようとするフクイチ

シンゴジラとフクイチは冷やすと止まる。

シンゴジラホースを突っ込んで冷却材を流すため特攻する自衛隊

フクイチに突撃ホースを突っ込んで冷却する消防

まあとにかくシンゴジラは「動くフクイチ」なんです。

だったら何が問題かというと、シンゴジラでは

自衛隊ゴジラを冷やすために特攻して死んでしまっている」ということなんです。

これは3・11の日本政府はやらなかった。フクイチに自衛隊特攻させれば

チェルノブイリにはソ連政府兵士特攻させています

福島土地は助かったかもしれない。でもやらなかった。

自衛隊員の命」と「福島土地の数十年の汚染」を引き換えにはできないという判断です。

良くも悪くも戦後民主主義判断なんです。

そこをシンゴジラはやった。映画的には、作劇的には正しいです。

いや個人的には私もそういう全体主義の魅力や、

自己犠牲の魅力に惹かれるところもあるんです。

正直「自衛隊がフクイチに特攻して冷却に成功していた」ら、私も絶賛したでしょう。

いや絶賛しかできないんです。選択肢がない絶賛。

その特攻庵野監督はやった。しか恐ろしいことにあっさりと。

(1番隊が全滅したら「日本映画のよくあるパターンのように感傷にひたる」

ことなくあっさりと2番隊がすぐさま繰り出された。

おそろしいですよ。でもこれがかっこいいんですよ。/

この冷徹決断力、かっこよさを恐ろしいと思わないとヤヴァイんですよ。

こんなことできるのはスターリンですよ。スターリンのかっこよさに酔うんですか?)

これは政治的意思表示と考えていいと思います

「当時の日本政府シンゴジラを冷やすために

特攻した自衛隊のように、3、11のフクイチでも自衛隊特攻させるべきだった。」

という政治的意思表示です。

みなさんはそこはあっさり賛同しますか?どうなんでしょうか。

そこはちょっとみなさん悩んで欲しいですよ、いくらなんでも。

そして最後日本政府シンゴジラの凍結に成功します。

まりフクイチの凍結に成功するわけですが…

実際の日本政府どうでしょうか?フクイチの凍結に成功してますでしょうか?

成功してませんよね。いまだに汚染水を流し続けています

からすると今回のシンゴジラ演出エポックメイキングであるとともに、

「3・11の災厄に勝利した日本」の「仮想戦記」にみえしまうんです。

(昔よくあった「第2次大戦日本軍が勝つシミュレーション小説」の3・11バージョンですね。)

このシンゴジラを見て「日本はまだやれるんだ」と思った人がたくさんいたと聞きます

いや、やれてなかったでしょ。と言いたい。3・11で負けたでしょ。無残に。情けなく。

仮想戦記で「日本はまだやれる」って酔ってたらだめでしょ。反省しないと。

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↑というような批判が欲しかったのに全く無くて困ってたので自分で書いてみた。

実際庵野監督はどうなんでしょう。「政治的意志表明」と書きましたが

そこに踏み入れた自覚はないかもしれません。

開き直りがあれば、それで議論の糸口になるのですがそれもなさそう。

そういう自覚のない選択が一番怖い。)

戦闘機オタク左翼宮崎監督のような葛藤は…きっとなかったような気がして。

2015-04-12

商業主義斜め上を行く『例の紐』

日本ジョブズは生まれなかった。

でも、コンテンツ産業ブレークスルーをもたらす紳士はたくさんいるんだよ。

数百年前からチンコ神輿担いでた民族ナメんな。

HENTAIクールジャパン止揚させれば"日はまた昇る"

TPPアグネス不安要素はいくつもある。

だけど私は信じる。

きっとまた、極東島国が輝く時代が来る。

2014-08-08

笹井先生は恋に死したのだろう?

なにをみんな、責任をとったとか重圧に押しつぶされたとか言ってるんだ。むかしからある、単純なストーリーなんじゃないのか。

笹井先生ほどの名声と実力があれば、今回のような捏造案件責任著者として連座していたとしても、今後の将来が真っ暗というわけではない。そもそも笹井先生の件は、ノバルティス問題ほど深刻ではない。患者さんに直接の危害があったり、国の保険医療のお金を削ったことで間接的に健康を害してすらいない。仮説を取り下げればそれで終わりの話だ。知性のある人達にそのように遇されることはわかっていたはずだ。

古くは中山恒明や和田寿郎が、倫理的問題を起こした後、請われて東京女子医大教授になった。最近では東大捏造事件京都府医大捏造事件責任をとった教授たちも、その後の人生努力されていると伝わっている。日本社会は失敗した人間に復活を許さない、と言うけれど、現実には、ここまで優秀な人間たちの場合普通かそれよりましな人生を生きていくことは許されている。それまでの人生では、多少なりとも患者さんや病院大学国家、時には人類に貢献してきたのだから、それくらいはいいだろう。個人として見るなら、家族の為を思えばそれで十分だ。子供を愛しているならそれでよいはずだ。

頭のいい人間が、それがわかっていないはずがない。その道を選ぶなら、すなわち、家族とともに生きるなら、批判と罵声を浴びようと小保方氏を切り捨てれば、それでよかった。海外に活路を求めるというのも、小保方氏では不可能だが、笹井先生ならおそらく可能だった。自分は、小保方にだまされた、責任著者としての責任は痛感する、だが捏造の実行者を完全に監視することは難しい。これからはこういった捏造者を見極める管理体制についても追求したい。などとのたまいながら。

でも、それができなかったんでしょう。他のすべてを捨ててでも、小保方さんを守りたかったんでしょう。恋していたんでしょう、小保方さんに。週刊誌が書くようなドロドロしたものではなく、プラトニックものだったのだろうと、直感としては思う。

だが、守るだけならそれはできる。すべての批判を一身に背負いながら、世界を敵に回してでも恋人とともにあればいい。

笹井先生が耐えられなかったのは、自ら、あるいはCDBの名声が傷つくことなんかではなく、世界で一番大切な彼女が罵声を浴び、辱めを受けていること。しかしながら、それらが自らがこれまで人生を投じてきた科学という世界から見ると全く妥当批判に基づくものであることだったという、自らのアイデンティティをゆるがす矛盾にあったのではないかと思う。止揚できなかったんだね。

笹井先生科学世界で生きてきた人だ。だが、彼はその時恋をしていたのだ。

自らの科学的信念と、恋する気持ちとの板挟みになって進退を極まったのだ。どちらかを選ぶことはできなかったのだ。

から自死を選んだ。家族を捨ててでも。

だとするなら、男としては本望なのだと思う。

ただ、もう少し時間がたてば、異なった結論に至ることもあっただろうに。

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